からし種2013年10月号
・・・「からし種」は、戸塚ルーテル教会が毎月出す冊子です・・・
      

 
      
  日曜日の礼拝  での
 清水牧師の説教

 信徒が説教中にとったメモ


 行事予定

 主日予定


 教会の歩み


  


雅美 N,姉の表紙絵とポスターのギャラリーを開設しました。




2013年 9月1日、9月8日の  説教  録音
 
(どなたでもお聞きになれます)



2011年2月、当教会にて市岡裕子先生をお招きして、宣教開始記念コンサートを行いました。(印刷用チラシA4





       
 巻頭の牧師の説教   

 清水牧師の説教

聖霊降臨後第18主日

           『不正にまみれた富』 ルカ16:1-13

ちょうど今日の福音書の直ぐ前の所は、キリスト教会では割りと有名な、『放蕩息子のたとえ』が記されてある所です。二人の兄弟の中の弟の方が、父親から相続財産の取り分をさっさと戴いて家を出ます。そこで放蕩の限りを尽くし、結局無一文になって、父親の元に帰って来るわけです。ところがお父さんは、そんな弟を叱責するどころか大歓迎するわけです。案の定、家に残っていた兄の方は納得が行きません。そんな兄に向かって父親が次のように言いました。ルカ153132節『すると、父親は言った。子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。このイエス様の譬えから、次のように示されます。父親は父なる神様の事であります。この神様は、どんなに駄目な人間でも、いつも心に留めていて下さる。そんな駄目人間が、いつか悔い改めて帰って来た時には、失敗を叱責するよりも、帰って来たその事をまず喜んで下さる。元々、そういう愛の神様なのだ。そしてそんな神様の計り知れない愛は、むしろ失敗して見て初めて、分かる事かも知れない。あの兄のように、自分はずっと神様の命令を守り続け、いつも正しく生きていると自負していると、往々にして、そんな神様の愛に気づかないものだ。むしろ、正しく生きている自分を、誇りに思ってしまうものなのかも知れません。それだけではなくて、あの弟のような駄目な人間に対しては、いつも厳しく当たってしまいがちです。そうは言っても、自分一人の中にも、ある時には弟のようであり、その時には神様に感謝出来ます。しかし、ある時には兄のようであり、そんな時には他人を厳しく裁いてしまう。兄と弟がいつでも交互に、自分のうちに働いている事も覚えさせられます。

 それにしても、その後の兄の様子は、聖書は何も記しておりません。がしかし、一生懸命正しく生きる事が、馬鹿馬鹿しくなったと、兄が思っても不思議ではありません。そして、そう思う兄を批判する事も出来ません。

 そこで今日のルカ16章の、『不正な管理人のたとえ』において、やはりイエス様は『弟子たちにも次のように言われた』というわけです。と申しますのも、恐らく『放蕩息子のたとえ』を聞いて弟子たちも、少なからず、正しくある事の馬鹿らしさを感じたとしても、不思議ではありません。それでこのような譬えを語られたのでしょうか。それは、やたらと『不正』である事を持ち上げるような、そんな論調にも聞こえるわけです。ですから、『あなたがたはさっきから、正しくあることを問題にしているようだけれど、あなたがたの正しさは、本当に正しいものなのか。正しくある事が馬鹿らしいと思っているようだけれども、そういうあなたがたの正しさは、本当に正しいものなのか。本当に思うように正しく生きられるのか』、そんなイエス様の皮肉った声も聞こえて来るようなのです。今日のたとえもまた、金持ちの主人と、その主人に仕える管理人と、主人に告げ口をする人と、主人に借りのある人々が登場しています。主人は誰に譬えられるのか。管理人は誰か。告げ口をする者は誰に当たるのか。借りのある人々は誰のことか。

 今日のこのたとえは、何せ、『不正』である事が称賛されるような論調なので、特にキリスト教会にとっては、大変都合の悪い箇所のように思えて来ます。出来ればスルーしたい。未信者の皆さんには知ってほしくない、そんな聖書箇所であります。まあ、またそんな風に思う自分は何者なのか。そんな風に考えようとするキリスト教会は、一体何なのか。キリスト教会は、正しさの殿堂のようなものだからか。とにかく簡単に要約しますと、次のような例え話です。主人のお金を無駄遣いした管理人が、首になりそうになって、慌てて、主人に借りのある人々の負債額を、勝手に軽減し、そうやって、首になっても、軽減してもらった人々が、そんな自分を助けてくれるだろうと思った、というわけです。そんな管理人に対して、『主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた』というのです。この譬えに対して、何とか納得出来るような、色々な解釈がこれまでにも、為されてまいりました。管理人が勝手に軽減した負債は、それぞれ利息に相当する額で、主人が、律法で禁じられている利息を取る行為を、結果的に犯さないで済むようにしたから褒めたのだとか、そもそもこの8節の『主人』と訳されている言葉は、金持ちの主人の事ではなくて、ここではもう譬えは終わっていて、この『主人』は、『主イエス・キリスト』を指す『主』と訳すべきだとか、言うわけです。そんなふうに考えますと、何とか、『不正』という行為に、つじつまの合う理解が為されるようにも思います。しかし私は今日、もっと大胆な解釈をしたいと思います。

 実は今日の福音書の直ぐ後の聖書の箇所で、この『不正な管理人のたとえ』を聞いた、それこそ、普段から正しい者だと自負しているような、ファリサイ派の人の反応が記されてあります。ルカ161415節『金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』。ここにも、正しくある事を当然の如く自負している人間の姿を、さも正しい領域が、聖域のごとく作る事が出来ると思っている人間の姿を、厳しくも徹底的に皮肉っている、そんなイエス様の姿勢を見るのです。そんなイエス様の厳しい皮肉を念頭に置いて、この譬えに出て来る登場人物が、誰に譬えられているか、想像して見たのです。金持ちの主人は誰に譬えられるのか。父なる神様です。管理人は誰か。イエス様です。告げ口をする者は誰に当たるのか。正義感溢れる、聖書の教えに忠実だと思っている律義者です。借りのある人々は誰のことか。知ってか知らずか、とにかく父なる神様に負い目を持っている人々です。そしてわたしは今日、譬えの中の次の言葉に、特に注目させられるのです。

 それはルカ1634節『土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』。『土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい』というのは、全くもって格好悪い姿ですが、私はこれ程正直で飾り気の無い、そして自分を低くするような姿は、やっぱりイエス様だと思わざるを得ないのです。それよりも、仕事が無くなっても『自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』という発想は、普通するでしょうか。それよりも手っ取り早く、もっとお金をちょろまかして、逃げる事を考える方が普通ではないでしょうか。いずれにしても、手っ取り早く一人で生きることを考えるのではなく、仲間と共に生きることを考えるのです。同じように注目させられる言葉として、ルカ169節です。ここははっきりとイエス様のお言葉ですが、全く同じ内容を語っているのです。つまり『不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる』。イエス様ご自身はまさに、不正にまみれたこの世で生き、そしてイエス様を迎え入れてくれるような人々を弟子として作り上げて行きました。その時に、人々の罪と呼ばれる負債を赦して行ったわけです。それをあえて格好良く譬えるのではなくて、主人に借りのある人々の負債額を、勝手に書き換えるようにして行ったと、譬えられた。それは『どうだ。私の罪の赦しは格好悪いだろう。正しい者たちには、けしからん事だろう』と、皮肉っぽく譬えられているようなのです。

 更にルカ168節『主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている』という言葉。父なる神様が、イエス様を誉めるのは当然です。『光の子ら』とは、いわゆる当時の正しい信仰者たちの事です。それに対して『闇の子ら』という呼び方がありました。これが『この世の子ら』と呼ばれる人達の事です。いわゆる普通の人達です。罪も犯せば、失敗もする。不正な管理人は、まさに先頭に立って、『不正な富で友達作り』をしたんです。これこそイエス・キリストです。この世にある限り、富は不正なものだという事でしょう。しかしこの世にある限り、その富で『友達作り』をすることこそ大切だと言うのです。お金は、人間が一人で生きて行く事が出来るという、錯覚を覚えさせます。そうやって人間を孤独に陥らせ、滅ぼします。しかしお金が無ければ生きて行く事は出来ません。不正を不正として受け入れながら、それでも不正の中にあって、友達作りをして行こうと言うのです。むしろ、お金に執着しながら、さもお金が汚れているようなふりをする事こそ問題です。それこそ『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである』という事でしょう。

 今日の第一日課のコヘレト8章では、先程も共に読みましたように、『この地上には空しいことが起こる。・・まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない』と告白しています。何が正しくて、何が悪いのか、時代や場所によって、いつでも変わり得るものです。そういうこの地上から、私たち人間は、決して傍観者のように脇に立つ事の出来る者ではありません。この世の当事者として、この世に生きて行く者です。そしてイエス様こそ、まさに先頭に立って、この世を生きて下さいました。そして今も、このキリストの教会によって、永遠にこの世を生き続けて下さいます。教会の歩みがその証しです。教会こそひたすら『不正にまみれた富で友達を作り』続けているからです。今年の2月の宣教開始記念伝道集会にお越しいただきました、ムラサキスポーツ会長の金山さんがおっしゃっていました。『お金を一杯儲けて、一杯に献金する』。『富』を美しく飾り立てもしないし、汚れたもののようにも扱わない。金山さんなりの、『友達作り』だと思うのです。

 所詮この世は、不正なものが交じり合い、純粋に正しくある事は出来ない。そういう意味で、神様の目からすれば、この世の事は全て、ごく小さな事でしかないのかも知れません。その事を知らされて、そういうこの世の事に、この世に生かされる者だからこそ、私たちはただ忠実であり続けるだけなのかも知れません。そしてそこからイエス様がおっしゃられる『神と富とに仕えることはできない』という教えに、近づけられて行きたいのであります。この世をよくご存じのイエス様の教会によって。

 

聖霊降臨後第19主日

        『モーセと預言者がいる』 ルカ16:19-31

 先週の福音書の箇所の最後の所で、イエス様は次のようにおっしゃられました。ルカ1613節『あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』。つまり神様に信頼して身も心も委ねて生きるのか、それともお金を頼りにして生きるのか、どちらかだと言うのです。今日の福音書の箇所も、この世を生きている間に、まさにお金を唯一のより所のように生きて来た人間と、お金に全く頼る事の出来なかった人間の、それぞれ死んだ後の姿がイエス様によって描かれている所です。お金をより所としていた金持ちは、陰府で即ち地獄でさいなまれ、お金に頼る事の出来なかったラザロは、天の宴席でアブラハムと一緒に、つまり天国にいたという話です。このラザロが貧しいだけでなく、神様を信じていたかどうかは、聖書は何も伝えておりません。ただし今日の福音書の直ぐ前の所で、イエス様は次のようにおっしゃられております。ルカ1615節『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』。ドキッとするようなイエス様の言葉ですが、ラザロの本当の心の中を、神様は見て取られていたという事でしょうか。更には、『人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ』という事ですから、『人に尊ばれるもの』と言えば、直ぐに思いつくのが、地位、名誉、財産、でしょうか。そういうものは、神様は忌み嫌われる。逆に、地位も名誉も財産も持たない人間に、神様は目を注がれるとしたら、ラザロもまた、真っ先に神様から目を注がれるべき人間のように描かれています。

 こんなふうに今日の聖書を読んで行きますと、やっぱり聖書も、生きている間に自分勝手にしている者は地獄行きで、信仰を持ちながらも、苦難の連続を生きて来た者は、天国に入れると語っているのでしょうか。平たく言えば、善いことをしていれば天国に行けるかも知れないし、悪いことばっかりしていれば地獄落ちだよ、という事でしょう。もちろん聖書はそういう事を否定しているわけでは有りません。がしかし、誰が天国行きで、だれが地獄行きかは、それは神様が決める事であり、人間が勝手に評論して決めつける事ではない、これは確かです。ですから今日の福音書では、むしろ私は次の言葉に注目させられるのです。ルカ1626節『そればかりか、わたしたちとお前たちとの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない』。つまり今はもう、決定的な隔たりがあって、もはや行き来自由の状態では無くなった、という言葉です。別の言葉で言うならば、もはや決着が着いた、結果結論が出された、ここに究極の評価が下された、という事です。逆に生きている間は、どんなに結論めいた出来事や、評価が下されたとしても、それはまだ絶対ではない。そこから如何様にも、まだ変化の余地は残されている。そういう意味では、この世はまだ行き来自由なのです。どんなに、これは地獄行きだ、と思っていても、この世にあってはまだ結論ではない。天国行きの余地はまだある。どんなに『あいつはもう駄目だ。あれで終わりだ』と評価を下されたとしても、まだそれが結論では無い。次にどのように生きて行くのか、まだ進むべき道は示されている。いずれにしても私たちは、この世にあって、どんな評価を受けようとも、どんな結果結論を突き付けられようとも、まだ途切れる事の無い、次に行くべき道が必ず示されている。だから絶望は無いと言うのです。しかしだからと言って、究極の結論が無いわけではない。その時は必ずある。むしろこの世にあって、全ての結論が絶対では無いと言われて、結局、絶対的な結果結論までもが無いかのように生きること、それこそどこまで行っても、行き来自由のように思ってしまう事、そちらの方も問題なのです。つまりどこまで行っても、自分の都合のいいように事を運べると思ってしまう、あるいはどうにでもなるように思ってしまう生き方です。それこそ神様になったような生き方です。今日の話の中の金持ちが、その典型です。

 彼は陰府に落ちて、行き来が出来ないと言われているにも関わらず、更に『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください』と言うのです。今、自分が置かれている状況が、まだ理解出来ていないのです。そればかりかこの期に及んでも、まだラザロを顎で使えると思っている程です。もう結論が下されているんです。ですからもはや変更の余地は無いわけです。それにも関わらず金持ちは、まだどうにでもなると思っているわけです。ラザロを遣わさなくとも、『モーセと預言者がいる』即ち聖書があるから、兄弟たちはそれに聞けばいいんだ、と言われても、更に金持ちは食い下がります。聖書に聞かなくとも『もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう』。こんな金持ちのやり取りの中で、実は三つの大切な事が示されているように思います。一つ目は、この金持ちは、絶対的な意志を持たれた方に服従するという経験を持たないという事です。どんなに自分の思いや意志が優れているとしても、それを超えたお方の思いと意志が必ずあって、それに服従する、これこそ信仰です。つまり信仰の在り様が問われているのです。どんなに素晴らしい教えを聞かされたとしても、それが非現実的だ思うと、どうしても建前的に飾り物にしてしまうのです。現実的対応には、自分の意志を優先させてしまうのです。言わば見せかけの信仰のようです。それはいつでも自分の思いや意志が優先されてしまうのです。これはどうしても人間に巣くう弱さです。二つ目は、この金持ちは、それでも食い下がるように願っています。遅ればせながら金持ちは、この期に及んで初めて、『祈り』というものを知らされたのでしょうか。しかも自分のためではなく、兄弟のために願っています。他人にまでではないにしても、金持ちにして見ればここで初めて、他者のために祈っています。まさに執り成しの祈りです。執り成しの祈りは、たとえこの期に及んでも、有効であるように示されます。少なくとも祈りの対話が起こっているからです。増してや、この世にある執り成しの祈りは、大いに有効であるように示されます。そして三つ目は、『死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう』という金持ちの言葉です。彼はこの期に及んで、本気で、死んだ者の生き返りを信じているようです。まさにイエス様のご復活を暗示させるような言葉です。しかしそこには、単なる奇跡としての、死んだ者の生き返りでしょう。人間は奇跡にも弱いものです。そんな発想からの、この言葉でしょうか。しかし聖書は『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』。『モーセと預言者』即ち聖書と共に復活が語られる。あるいは御言葉と共に復活がある。聖書と復活を切り離してはならないと言うのです。むしろキリストの教会は、見た目は、死者の中から生き返った者のようには見えないけれども、御言葉と共に死んで新たに造り変えられた者の群れです。そういう者として、金持ちが望んでいるような兄弟の所に、むしろ行く事の出来る者ではないでしょうか。

 先週は日本ルーテル教団に所属する全ての教職者たちが集まって、全国教職者会が開かれました。三年に一度、開かれるものです。今年は新潟地区の教職者たちが幹事役でした。今回は、東日本大震災による被災地に集まり、直接、この事態を見て聞いて肌で感じる、そういう機会としようというものでした。場所は南三陸町と、気仙沼市で、それぞれ被災された方の体験を聞く機会を与えられました。それぞれに話しを聞く中で、いずれの方々も、私たちから聞いたことを、あなたがたも語り部として、語り継いで行ってほしいとおっしゃられました。その言葉が、まず印象的でした。南三陸町の方から次のようなお話しを聞きました。『今皆さんがご覧になっている所は、南三陸町の戸倉地区です。ここには戸倉小学校がありました。屋上まで津波に襲われました。しかし生徒達は一人も死なずに済みました。校舎の隣には体育館がありました。実はこの体育館は、31日に新築完成したばかりでした。そして十日後の311日に、津波によって全壊しました。実は39日にマグニチュード7.4の大きな地震があったんです。それで翌日の10日に津波対策の避難訓練をする事になったんです。それを決める時には、避難場所は校舎の屋上でした。ところが一人の若い教師が、本当に屋上で大丈夫なのか、という疑問を投げかけたのです。これまでずっと、屋上が避難場所でしたので、みんな当たり前のように考えていたわけですが、その時の一人の教員の投げかけに、改めて避難場所を考える事になって、では今回は、あそこの裏山にしよう、という事になって、10日の避難訓練が行われたわけです。そして、翌日の3.11になったわけです。全員が裏山に逃げて無事でした。実は、南三陸町は防災都市宣言をしていた町なんです。それは過去の津波被害を教訓にして、特に近年のチリ大地震による津波被害で、町の至る所に、その時の津波の高さを記した標識が立てられてありました。それらはほとんど3m前後の計測値でした。ところが今回の3.11では、15m程の津波が襲いました。経験が返って、油断させました。特に海から少し離れた地域で、被害が大きかったんです。ここまでは来ないだろう、という予測が油断させました』。

 ざっとこんな話でした。震災直後に、色々な所で既に報じられていた事かも知れません。しかし私は、改めてこのお話に衝撃を受けました。津波の経験は何回もしているのに、次第に津波の大きさを勝手に予測するようになってしまうのです。もちろん、そんなものではない、もっと大きいかも知れないから用心するように、という声は繰り返し聞かされます。しかしそれを聞いてはいても、どうしても、このぐらいでと、勝手な判断が優先されてしまうのです。そもそも起こるかどうかも分からないのに、そこまで予測するのは、いくら何でも大袈裟だろう、という気持ちになって行ってしまう。次第に、たとえ起こったとしても、まあ、何とか対応できるだろう、みたいになって行ってしまうのです。そんな中にあっても、あの小学校の一人の教員の声が湧き上がる事も事実です。そして何故か皆が、その声に耳を傾ける事もあるわけです。

 こんなふうに被災地での話から色々と考えさせられて行く中で、実は信仰生活が問われているように聞こえて来たのです。絶対的な意志あるお方を信じながら、その意志が何か飾り物のようにしてしまっている。結局、現実の人間の意志が優先されてしまう。そしてそこで様々な結論や評価が下されながら、一方でさもそれが究極のものであるかのように振る舞い、しかしまた一方で、その究極の結論がまた人間によってどうにでもなるかのように振る舞っている。究極が究極でなくなっている。結局は究極は無いもののように振る舞ってしまう。そんな弱さが人間の中にある。 しかしそんな中にあって、人間の予測や経験から語られていない声が必ずあって、必ずその声に聞くときがある。少なくともその声は、キリストの教会の声であり続けたいし、その声に私も、用いられ続けて行きたいのであります。



        信徒が説教中にとったメモ

 

 

 

 主日礼拝中にとったメモより 107- (多分、主観が組み込まれてます!)

                       教会員 S.O.

メモ2013-9-1〗「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった(ルカ141)」。ファリサイ派の人々はモーセ以来の律法を厳格に守ろうという主義だ。律法は、安息日には、癒し行為も含めて、いかなる仕事や医療行為をする事を禁じていた。“イエス様は安息日にも癒し行為をする”という噂が広まっており、底意地の悪いファリサイ派の人々は、わざわざ、水腫をわずらっている病人とイエスと貧しい人々とを共に食事会に招いて、イエスの反応を見た。イエスはファリサイ派の人々に「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか(ルカ143)。」と言って、病人を癒した。そして、イエスはファリサイ派の人々に「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか(ルカ135)。」と言った。ファリサイ派の人々は律法の細則が含む論理的な矛盾をイエスに指摘されて、誰も「答える事ができなかった(ルカ146)」。ファリサイ派の人々は仲間同士で互いの顔色を伺いながらも、誰一人としてイエスに受け答えすしなかった。うっかり失言すれば、仲間から律法で裁かれてしまうから、ファリサイ派の人は全員、日和見を決め込んだ。そのとき、平素から食事会に招かれる事のめったにない貧しい人の一団が、子供のようにはしゃいで上席につこうとした。イエスはそれらの貧しい人に「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる(ルカ1410)」とたしなめた。ファリサイ派の人々は、貧しい人たちがイエスに叱られるのを見て冷笑した。すると、イエスはファリサイ派の人々に向かって「宴会をするときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたには幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる(ルカ1413-14)」といい、神の国が来るときにはむしろ心の貧しい人が先になると、イエスは暗に示した。神と人の関係を意識すれば、富める者も貧しい者もいつでもへりくだらざるを得ない。私たちは、イエスの教えのもとで、キリストの教会に繋げられてともに歩んでいきたい。

メモ2013-9-8〗(江本真理牧師説教より)私たちは、自分自身の意志によってこの世に産まれて自分の生命を得たのではない。(逆に周囲に居る人たちに愛されていなければ、赤ん坊は生きていけない)。生命とはそういうものであり、私たちに命を与えてくださる命の主の事を私たちは神と呼ぶ。(私たちは成長すると自我が芽生え、自分の頭の良さと自分の直観の正しさを信じるようになり、物を独占的に自分の道具として思いのままに使おうとするようになる。中には、全世界を我が物にしようとする人も居る)。しかし、イエスはむしろ“私たちに命を与えて下さる方の望みに沿い答えて生きる事が出来れば喜びに満ちた人生である”と教えている。(具体的にはイエスは(「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい(ルカ1027)」と教える)。イエスは今日の聖書の箇所ではもっと端的に、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない(ルカ1433)」と述べている。これを聞いて私たちはどきっとするが、ここで“一切捨てる”というのは、ゴミ箱に捨てる事を意味するのではなく、“(自分の思いのままにはせずに)神にお返しする”という意味である。(逆に“金のために神を捨てる”というケースもこの世にはあり、会社の根幹を築いた自社の救世主とも呼べる有能有意な技術者を、わずかな人件費を節約するために、大量に切り捨てる、おぞましい“救世主殺し”のエピソードもビジネスの世界では多々見受けられる)。日本福音ルーテル教会の伊藤早奈牧師は、脊髄性の難病を若くして宣告された。この病では運動神経が進行性に侵され、歩くことも徐々にできなくなり、やがては言葉もしゃべれなくなるという。伊藤牧師の証しによれば“1つ1つ当たり前に出来ていた、自分が持っていたものを手放す事はつらいし、自分でも受け入れられない。ただふさぎ込む事もあった。人と同じ事をするにも何倍も時間がかかる。しかし一方で、特急列車の人生から各駅停車の人生へと移行していくなかで、1つ1つに目を留めると、今まで気づかなかった発見や新しい出会いがある”という。伊藤牧師は、“神様に使われて生きたい”という。(神様は伊藤牧師に、自身を見つめ自身が居る社会を見つめる、余人には無い、澄んだ瞳をお与えになったのではないのか?)。私たちは与えられた恵みを忘れた時、握りしめた物を手放す苦しみの中に悩むが、イエスの与えた恵みの中に得私たちは生かされている。私たちは心満たされて、一週間を聖書の導きに報い感謝して歩めますように。

行事予定

10 月 行 事 予 定

1();韓国より準牧師来訪,幼稚園運動会総練習

   2();キリスト教を学ぶ会

   4();からし種10月号編集印刷発送作業

   5();幼稚園運動会

   6();ぶどうの会

   7();幼稚園振替休園,教団スタッフ会

   8();教団常議員会,神学教育三者協議会

   9();キリスト教を学ぶ会

  10();『知って得する園活講座』出席

  13();主日礼拝

  15();幼稚園来年度入園説明会

  16();幼稚園お誕生会,幼稚園協会戸塚支部研修会

  17();ルーテル学院評議員会

  18();幼稚園お芋掘り遠足

  20();定例役員会

  21();聖書日課執筆者会議(23)

  25();幼稚園協会戸塚支部園長会

  27();宗教改革記念主日,教会学校教師会

  30();キリスト教を学ぶ会

   主日予定


10 月 主 日 予 定

 

   日 聖霊降臨後第20主日       

       詩 編95                

       ハバクク   2: 1- 4       

       2テモテ   1: 3-14       

       ル カ   17: 1-10       

       説 教 『赦してやりなさい』       

       教会讃 169 238 456 78(21) 419     

 

   13日 聖霊降臨後第21主日

       詩 編111

       列王記下  5: 1-14

       2テモテ  2: 8-13

       ル カ  17:11-19

      説 教『ほかの九人はどこに』

       教団讃 61 188 294 10(21)

 

 

20日 聖霊降臨後第22主日       

       詩 編121               

          創世記  322331        

        2テモテ  3:14-4:5               

          ル カ  18: 1- 8        

          説 教 『うるさくてかなわない』      

教会讃 187 240 454 81(21) 122      

 

日 宗教改革記念主日

       詩 編34

          申命記  10:122

        2テモテ  4: 6-18

         ル カ  18: 9-14

         説  義とされて家に帰ったのは、この人

450 239 281 259(14) 283

 

今 月 の 聖 句

わたしがあなたがたを愛したように、

互いに愛し合いなさい。

                          <ヨハネ15:12>



   教会の歩み

9月の教会の歩み

・1日()は礼拝後、定例の学び会が開かれました。その後、ふどうの会も開かれました。なおこの日から、教会学校は小学科以上の通常活動を再開致しました。

・2日()は幼稚園では第二学期始業式が開かれました。

・同じく2日()より22()まで西川真人神学生は韓国研修にまいりました。

・4日()は午前中キリスト教を学ぶ会が開かれました。また午後7時からの聖書研究会も再開されました。なお午後2時半からは幼稚園協会戸塚支部教員研修会に教師は出席しました。

・6日()8()幼稚園創立記念日の振替休園でした。なお午後4時からは幼稚園協会戸塚支部園長会が当幼稚園にて開かれました。

・8日()は関東地区交換説教日で、当教会には竹の塚教会の江本真理先生が派遣されました。礼拝後は持ち寄りの昼食会も開かれました。なお清水牧師は浦和教会に派遣されました。また教会の幼稚科もこの日から二学期の活動を再開しました。

・9日()は幼保小教育交流事業実行委員会に牧師は出席しました。

10()は教団宣教主事会議のため牧師は東京ルーテルセンターにまいりました。

11()は幼稚園では9月生まれのお誕生会が開かれました。また午後からは幼稚園設置者研修会のため牧師は横浜幼稚園会館にまいりました。

12()はキリスト教保育連盟神奈川部会役員会のため牧師は清水丘教会にまいりました。

15()は礼拝の中で長寿者祝福式が執り行われました。祝福を受けられる今年の対象者は18名の兄弟姉妹でした。礼拝後は定例の役員会も開かれました。

18()は午前中、キリスト教を学ぶ会が開かれました。また午後1時より102条園研究会議のため牧師は『アルカディア市谷』にまいりました。

19()は日韓宣教会議のため牧師は東京ルーテルセンターにまいりました。

22()は礼拝後、定例の教会学校教師会が開かれました。また午後4時半より『とつか合同クリスマス』実行委員会のため牧師は湘南とつかYMCAにまいりました。

23()は午後2時より教会納骨堂にて、秋季召天者記念礼拝が行われました。説教者は大船教会の松川和照先生でした。

・同じく先週23()に西川神学生が、三週間の韓国研修から無事帰国されました。

24()より26()まで、全国教職者会のためは清水牧師は南三陸町にまいりました。

25()の定例聖書研究会は清水牧師出張のためお休みとなりました。

28()は『関東地区婦人の集い』秋の例会が、大宮教会で開催され、当教会からは6名の方々が出席しました。

29()は礼拝後、定例の大掃除が行われました。また午後2時半からは神奈川分区会も当教会にて開かれました。

30()は午後6時半より湘南とつかYMCAにて運営委員会に牧師は出席しました。