からし種 382号 2021年3月

変容主日

『イエスの姿が変わる』マルコ9:2-9

 今日の福音書はイエス様の姿が真っ白に輝くように変えられた、いわゆる変容されたという場面です。ここから聖書に聴く今日の主日は、変容主日と呼ばれています。従って今週の水曜日は『灰の水曜日』と呼ばれて、教会のカレンダーは四旬節に入ります。そして来週の日曜日は、四旬節第1主日となります。今日の日曜日を境にイエス様は、本格的にエルサレムでの十字架の出来事へと向かわれます。そこで今日の場面ではイエス様は、弟子たちにご自分の素性を明らかにされるようです。白は聖書では神の顕現を象徴します。真っ白に輝く変容のイエス様は、神の顕現であり、神の栄光を表わします。しかし同時に今日の福音書は、人間の奥深く潜む、罪を顕現させます。人間は栄光を目指して上昇を志向します。一方イエス様はここを頂点として、その人間の罪の赦しのために、エルサレムの十字架へと下降して行きます。

 『人間の奥深く潜む罪を顕現させる』と申し上げましたが、今日のこの場面で、どんな人間の罪が浮き彫りにさせられるのだろうか。変容のイエス様を目の当たりにした、弟子のペトロの言葉と、その様子に注目させられます。マルコ9章5節『ペトロが口をはさんでイエスに言った。先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』。ペトロはこの事態を目の当たりにして、どう言えば分からなかった、恐ろしかったと、聖書は伝えています。ですからこの時のペトロの言葉は、無意識にも、思わず口をついて出てしまった、そんな言葉とも想像出来ます。少なくとも、冷静にじっくり考えて出た言葉ではないようです。こういう場合には、自分の心の奥底に潜んでいる、本音が出たとも受け取れます。ペトロは、ユダヤ人にとっては有名で尊敬されるエリヤやモーセが、イエス様と一緒におられる光景に接して、思わず人間的栄光を追い求める、上昇志向の自分が曝け出されてしまったのではないか。何て素晴らしいイエス様だ。そしてそれに従う自分も誇らしい。そんなふうに栄光の結果結論を追い求めてしまう、そんなペトロです。

 ペトロの在り様は、今日の福音書の直ぐ前の所でも、浮き彫りにさせられています。ちょうど再来週の2月28日の、四旬節第2主日礼拝に与えられている福音書の箇所になります。マルコ8章31-38節です。この中でイエス様は、ご自分の十字架の死と復活を予告します。それを聞いたペトロは『イエスをわきへお連れして、いさめ始めた』というのです。『これから栄光の勝利に向かって進むはずなのに、死んでしまうなんて、そんな縁起でもないことを言わないで下さいよ、イエス様。みんなが失望してしまうじゃないですか』ということでしょうか。それに対して、そんなペトロに向かってイエス様は言います。マルコ8章33節『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』。そしはて更にイエス様は、ペトロだけでなく、他の弟子たちや群衆に向けて言われました。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。

 今日の福音書に登場するエリヤやモーセは、ペトロたちにして見れば、過去の有名人であり、言わば栄光に包まれたまま、結果結論としての栄光に止まっている人たちかも知れません。しかしその人たちの歩んだ、その生涯の日々のプロセスに目を向ければ、山あり谷ありの人生でした。その中の一つの山だけを取り出しても、あるいは谷だけを取り出しても、本当のその人のことは分かりません。山も谷も全てを含めて、その人生と言う全てのプロセスを見て行こうと、今日のイエス様は、そして聖書は、言っているのではないか。今日の福音書の最後で、イエス様はおっしゃられています。マルコ9章9節『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』。目先の部分部分で、評価してはいけない。それを結果結論としてはいけないと言うのです。またそんなふうに一人一人の人間の、プロセスを見て行こうとしますと、見えて来るのはその人の向こうに示される、その人を通して背後で働かれている神様なのです。

 エリヤは紀元前869年から849年に活動した、北イスラエル王国時代の預言者でした。異教の神、バアルを崇拝し始めた王様を諫め、バアルの預言者との対決に勝利しました。けれども、その結果、時の王様から命を狙われるはめになった。逃亡生活が始まり、色々な形で神様は助け手を送ってくれた。けれども、とうとう万策尽きて、エリヤは死ぬことを考えた。そんな時に神様がかけてくれた言葉が印象深いのです。それは『起きて食べよ』(列王記上19章5節)でした。何百人ものバアルの預言者たちと戦って勝ったエリヤです。ならば神様は、どれほどの勇気と力を、意気消沈するエリヤに示してくれると思いきや、何気ない、ややもすれば当たり前にやりすごしてしまうような、日常的な響きの言葉だけだったのです。私たち人間は、何か大きく人目を惹く、そんな功績を積むことに目が向きがちですが、神様はそれよりも何気ない、日常の中に目を向けさせるようです。だからこそ、何気ない毎日の続くエリヤの全生涯を通して、見えて来るのは主なる神様なのです。

 モーセはエジプトにいた時、その正義感の故に、同胞のユダヤ人を傷めつけるエジプト人を、殺害してしまいました。そこから彼の逃亡生活が始まります。そんな殺人犯のモーセを、ある時神様は、ユダヤ人のリーダーとして召し出すのです。しかしモーセは、『自分は口下手だから』と言って、神様の召し出しを拒否し続けるのです。それでも神様は、助け手を送るからと言って、モーセをリーダーとして用い続けます。そしてユダヤ人最大の救いの出来事である、出エジプトの大事業を、モーセを通して果たされるのです。しかしそんなモーセであっても、脱出先の約束の地カナンには、彼は入る事が出来ませんでした。その地を目の前にして彼は死ぬのです。それは脱出の過程で、神様を疑った事を咎められたからです(民数記20章12節)。そしてモーセが『死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせていなかった』(申命記34章7節)と聖書は伝えています。彼の死は、決して肉体的理由ではなかった。更に、葬りの場所も、今もって誰も知らないというのです。まさに山あり谷ありのモーセの人生ですが、その全生涯のプロセスから見えるのは、主なる神様なのです。

 先程『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』という、イエス様の言葉を引用しました。

今日まさに十字架に向けて下降されるイエス様のその言葉から、次のように示されます。山あり谷ありの人生の、その繰り返される毎日を、そのプロセスを、悪戦苦闘しつつ丁寧に生きて行こう、むしろそこにこそ、主なる神様の栄光が、連綿と輝き続けている。この一週間の毎日を、神の栄光を見据えて、丁寧に生きてまいります。

四旬節第1主日

『サタンからの誘惑』マルコ1:9-15

 今日の福音書はかいつまんで申せば、イエス様が、洗礼を受けて、荒れ野でサタンから誘惑を受けて、そして神の福音を宣教した、というものです。何か一つの流れのようなものを感じます。洗礼、誘惑、宣教という流れです。しかし流れと言っても、それは時間的な順序であったり、時には同時的であったり、また一体的であったり、あるいは循環的であったりするようです。そして、イエス様が自ら表わされるこのような流れは、キリストの教会に連なるキリスト者一人一人にとっても、同じ流れの中に置かれているようにも示されるのです。

 イエス・キリストのお名前によって、聖霊の洗礼を受ける。それはイエス様が、『わたしの愛する子』という天からの声を聞かれたように、洗礼を受ける者もまた同じように、聖霊を通して『わたしの愛する子』という天からの宣言を受けるのです。そして、神の子とさせられるのです。それは裏を返せば、主イエス・キリストの神様を父とすることです。かつては、自分で考え、自分で善悪を見極め、自分の力で決断し、生きて来たのかも知れません。いわば父を離れて、父なしでも生きる事が出来るかのように、自立出来る人間として生きて来たのです。しかしある時、自分で考えるその考えは、本当に正しいものなのか。自分が見極めたその善は、本当に絶対的な善なのか。あるいは見極めたその悪は、本当に絶対的な悪なのか。自分の力で決断したものが、本当にそれで良いのかと迷ってしまう。何故なら、自分は今一人で、ここに存在しているわけではない。自分以外にも大勢の人間たちがいる。そしてその大勢の人間たちの一人一人が、この自分と同じように、それぞれに自分で考え、自分で善悪を見極め、自分の力で決断して生きているとしたらどうだろうか。そしてそれぞれが、自分のものが絶対的に正しいと思っているとしたらどうだろうか。絶対的な正しさが、たくさんあることになってしまう。であるならばそれらは、絶対的でなくなってしまうではないか。そうしたら、絶対と絶対がぶつかるだけではないか。だから大勢の人間は、父なしでは生きていけない。父なる神様だけが絶対だからです。そうすれば、大勢の人間の一人一人は、自分を絶対化しなくていい。あなたも私も、正しい時もあれば間違う時もある。

 今日の第二日課1ペトロ3章21節には、次のように記されてあります。『洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです』。もしそうやって、人間一人一人が、『神に正しい良心を願い求め』て生きて行くとしたらどうか。互いに互いの考えを、いわゆる相対化して、受け入れるものは互いに受け入れ、排除するものは互いに排除し、尊敬と寛容を持って人間たちが生きて行くとしたらどうか。きっと人間同士の繋がりは強く大きく拡がって行くだろう。父なる神様はそれをきっと喜んで下さるだろう。しかしそれを、最も嫌うものがいる。そういう繋がりを、むしろ断ち切る事を目的としているものがいる。それがサタンです。ですから、イエス様が洗礼を受けられた後、直ぐに登場するのがサタンです。イエス様の洗礼を無きものにしたいからです。そしてそういうサタンの働きは、今もイエス・キリストのお名前によって洗礼を受ける者にも働くはずです。イエス様がサタンから誘惑を受けている間、『野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた』と今日の聖書は記します。

 イエス・キリストのお名前によって洗礼を受ける自分には、いつも主イエス・キリストが共にいて下さる。そして野獣も天使も自分の中に仕えているということだろうか。それはいつでも、いわゆる天使のような自分にもなりうるし、野獣のような自分にもなりうるということだろう。かつての、自分を王様のように絶対化しようとする時、それはまさに野獣のような姿になるのかも知れません。他者を食いちぎるように、怒って裁いてしまうのです。先日『アンガーマネジメント』という言葉があることを知りました。怒りの感情と上手に付き合うための心理教育、心理トレーニングのことだそうです。それは、怒らないことを目的とするのではなくて、怒る必要のあることは上手に怒り、怒る必要のないことは怒らなくて済むように、怒りをコントロールすることが目標なんだそうです。当初はDVや軽犯罪者のための、矯正プログラムとして活用されていたようです。しかし、パワハラやセクハラ、またSNS等によるいじめの問題が、最近クローズアップされて来ていることから、改めてこの『アンガーマネジメント』に注目が集まっているとのことでした。そういえば、自粛警察なんていう言葉も流行っていますし、医療従事者の家族が差別を受けているとか、今後は『ワクチン警察』なんていう事態も予想されているようです。

 私たちが怒る理由は、自分が信じている『〜するべき』が、目の前で裏切られた時だそうです。まさに絶対的王様が侮辱された姿であり、野獣がもたげて来た姿です。ここで父なる神様に連なっているとすれば、その父に『正しい良心を願い求める』ことが出来ます。ルーテル教会の名前の由来になっている、16世紀のドイツ人修道士マルティン・ルターが書いた『小教理問答書』の中に、洗礼の意味について、まさに父が子に教えるように、次のように書かれています。『これは(洗礼の意味は)、私たちのうちにある古いアダム(人)が日毎の後悔と悔い改めによって溺れさせられ、すべての罪と悪い欲と共に死んで、逆に日毎にそこから出て、新しい人として復活して、神の前での義と清さのうちに永遠に生きるようになる、ということだよ』。毎日の後悔と悔い改めが、洗礼の意味するところだと言うのです。自分の中にある天使と野獣では、どうしても野獣が勝ってしまう自分がいます。それが心地よかった、かつての自分だからです。しかし父なる神様に『正しい良心を願い求める』中で、後悔と悔い改めが引き起こされるのです。それはいっとき、返って苦しい事になるかも知れません。しかしそういうプロセスを経て、神の子として、父なる神の見守りの中に生かされて行くのです。そこは神の国です。

 野獣をはらむ自分が、自分の周りにいる他者と、繋がりを深めて生きていくために、他者もまた主イエス・キリストのお名前による洗礼が、授けられるように願います。そのためにこんな自分も、神の国の福音をキリストの教会によって、宣教し続けて行きます。