からし種 390号 2021年11月

聖霊降臨後第19主日

『天地創造の初めから』マルコ10:2-16

 今日の福音書は、ファリサイ派の人々が、イエス様を議論に巻き込んで、試そうとしたという場面です。イエス様はこの時は、故郷であるガリラヤを離れて、いよいよこれからエルサレムに向かい始めていた時でした。ファリサイ派の人々は、既にイエス様が人々から、良い評判を受けていることを知っていたでしょう。そして、イエス様が安息日の律法を守らなかったり(マルコ:1-6)、自分たちを『神の掟を捨てて、人間の言い伝えを守っている』と批判している(マルコ:8)。しかもエルサレムの方に向かわれるようだ。このままイエス様を放っておくわけにはいかない。何とか、イエス様の評判を貶めなければならない。そんな背景の中で、今日の場面になっていると思われます。エルサレムでは十字架の出来事が起こされます。それは反対者たちにとっては、イエス様が敗北されたことを意味します。しかし今や、私たちにとっては、救いなのです。エルサレムに至るまでには、こうして様々な妨害や困難がイエス様に降りかかります。それらをことごとく退けて、イエス様は十字架の勝利へと進まれる。それはあたかも、今を生きる私たち一人ひとりの、現実の人生と重なります。イエス様の十字架は、人間の思いを超えた、罪からの救いを指し示します。それは、これからも私たちが必ず与る、苦しいことや悲しいことが、決して意味の無いものではないことをも、指し示すものであると確信させられます。

 さて今日の場面の、ファリサイ派の人々からの試みですが『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』という、問いかけから始められます。それに対してイエス様は『モーセはあなたたちに何と命じたか』と、問い返しています。ここの『モーセ』とは、旧約時代のユダヤ人預言者であり、リーダーです。このモーセを通して、父なる神様は十戒を始めとする律法を与えられました。ですからここは、言わば『律法には何と書いてあるか』と聞いているのと同じになります。それでファリサイ派の人々は『モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました』と答えたのです。すなわちその律法とは、具体的には、申命記24章1節に記されているものです。『人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる』。この律法はユダヤ人の間で、その解釈を巡って長らく議論を巻き起こしてきたものです。ですからファリサイ派の人々は、この律法持ち出して、イエス様を試そうとしたのです。

 何が議論を巻き起こしたのかと申しますと『妻に何か恥ずべきことを見いだし』という『恥ずべきこと』とは何かということです。ある人々は『不貞行為』のことだと言います。またある人々は『気に入らなくなったとき』ともありますから、夫が妻に対して『気に入らない』と思うことがあれば、それを理由に離縁できる、と解釈したわけです。イエス様がここで、一歩踏み込んで、自分なりの解釈を表明したら、ここから次から次へと、議論の泥沼にはまることになるでしょう。どう転んでも、上げ足を取られるのは目に見えています。それが、試そうとする人々のねらい目であったわけです。

 ところがイエス様は、あたかも原点に立ち返るように、天地創造の初めを語られます。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』との創世記2章24節の言葉から、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない、とおっしゃられたのです。言わば、そもそも神様は離縁することなど想定していません。ただし、その後、創世記を読みますと、人間は食べてはいけない木の実を食べて、神様の命令に背き、罪を犯し、まさに神のようになってしまいました。以来、一人ひとりが神のようになった人間は、人間同士、あるいは男と女の関係も、仲が良い時もあれば悪い時もある。けなし合い、憎み合い、殺し合うこともするようになった。そんな罪を犯し続ける、罪の中に生きる者になったのです。そんな人間たちの現実も、神様はよくご存じなのです。神様は、そんな現実の人間を見捨てられないのです。イエス様は言います。心が頑固なので、人間は、婚姻関係も、続けられなくなることもある。だからモーセを通して、律法を与えられるのです。少しでも弱い立場の人間が、守られるようにも配慮されるのです。当時の社会にあっては、妻は弱い立場にありました。一人では生活出来ない立場にあったのです。だから新たな婚姻関係に与る必要がある。そのためには正式な離縁状が必要だったのです。それが無ければ、重婚という姦淫の罪を犯してしまうことになるからです。

しかしいずれにしても、律法を守れば、さも自分だけは罪無き正しい位置に立つことが出来ると、人間は考えているかも知れない。そんなことは無いのです。そもそも罪の中にどっぷり浸かってしまっている人間です。どうあがいたって、全員が罪人のままなのです。まずそのことを、人間は受け入れなければなりません。しかし心が頑固なので、受け入れられない。『家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた』と、聖書は記しております。神様からの律法を、無視するかのようなイエス様の言葉に、弟子たちもびっくりしたのでしょう。それで再確認したかった。そこでもう一度、天地創造の初めに立ち返るように、イエス様は言います。妻も夫も、即ち全て人間は、そもそも罪の内にあるものだ。例えば離縁すれば、元々の罪人たちが、更に罪を犯しているだけのことなのだと言うわけです。

そんな出来事があった後、人々がイエス様の所に、子供たちを連れて来たことがあった。弟子たちはその人々を叱りました。しかしイエス様はこれを見て憤って、弟子たちに言いました。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』。子供は未熟で、失敗ばかりする者です。まさに失敗の中にどっぷりと浸かっているものです。そして、失敗しては赦され、また失敗しては赦される。そうやって成長させられて行くのです。神様の目から見たら、立派に見える大人も、実はこれらの子供と同じなのです。人間は、失敗の罪を犯しては赦され、また失敗しては赦される。そうして、天地創造の初めの姿に、立ち返らさせられて行くのです。冒頭で申し上げました、エルサレムでの十字架の主イエス・キリストを通して、そんな人間の赦しと立ち返りが果たされるのです。

先日ある会合で、一人の参加者の方が、次のような意見を述べられました。『男らしいとか、女らしい、男の子なら、女の子だったら、という言葉を、以前は、何気なく会話の中で使うこともありました。しかし最近は、ためらうようになってしまいました。そんなつもりは無いのに、ややもすると、ハラスメントだと、非難されてしまうような風潮を感ずるからです。何か最近は、使う言葉に、異常すぎるくらいに敏感にならざるを得ないのです』。男って何だろうか。女って何だろうか。いわゆるLGBTQという言葉もよく聞きます。それに付随して、人権という言葉もよく聞きます。人権は守られなければならないと思います。また同時に、人権とかハラスメントとか、言葉が独り歩きをして、思いもよらない新たな裁きが起こされているとしたら、それこそ人権侵害にもなります。初代教会伝道者のパウロの言葉が思い起こされます。ローマ3章10節『正しい者はいない。一人もいない』。天地創造の初めの出来事を抜きにしては、本当の人間の事は語れないのではないだろうか。正しさも大切、権利も大切。しかし最後は、あの子どもたちのように赦されなければ、生きて育って行くことは出来ないのです。

心の頑固な者ですが、それでも主よ、あなたはキリストの教会によって、そんな私を招き、導き、赦し、成長させて下さいます。感謝します。

聖霊降臨後第20主日

『神おひとりのほかに』マルコ10:17-31

先週の礼拝で与えられた福音書の箇所になりますが、今日の福音書のすぐ前の所『子供を祝福する』という小見出しが付けられてある所です。もう一度、振り返りたいと思います。人々がイエス様の所に、祝福していただけるように、子供たちを連れて来ました。弟子たちはその人々を叱りました。恐らく大人たちがイエス様を囲んで、難しい話でもしていたんでしょうか。そういう場には、子供はいてはいけないことになっていました。しかしイエス様はこれを見て憤った。そして、敢えて弟子たちに言いました。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』。更にイエス様は、次のようにおっしゃられました。『子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』。つまり、神の国に入る人とは『子供のように神の国を受け入れる人』なんだと言うわけです。子供は未熟で、失敗ばかりする者です。失敗して『ごめんね』って言っては赦され、また失敗して『ごめんね』って言っては赦される。そんなことを繰り返しながら、子供は成長させられて行くのです。そしてそんな親子関係が成り立つのは、子は親に、揺るぎない信頼と安心を抱いているからです。親は何があっても子に、深い愛と慈しみを抱き続けているからです。愛しているから、生きてほしいから叱るのです。父なる神様の目から見たら、立派に見える大人の人間も、実はこれらの子供と同じなんだと言うのです。人間は、失敗の罪を犯して、悔い改めては赦され、また失敗して悔い改めては赦していただく者なのです。子なる人間は、こんな自分であっても、父なる神様に揺るぎない信頼を抱くのです。父なる神様は、子なる人間が、どんなに罪深い者であっても、決して見捨てずに悔い改めを待ち続け、赦しを与えるのです。ですから、子なる人間と父なる神との関係が、あの親子の関係と同じようにあると信じる者を『子供のように神の国を受け入れる人』と、イエス様はおっしゃられるわけです。人間は神様を、何があっても信頼し、神はそんな人間を、どんなに失敗しても、赦すお方なのです。

そして今日の福音書ですが『金持ちの男』という小見出しが付けられてあります。イエス様が旅に出ようとされた時のことでした。この旅は、最後のエルサレム入城の旅です。そしてそこでイエス様は、十字架に掛けられるのです。この男の人が、イエス様に走り寄って、ひざまずいて尋ねました。この様子は、何か思いつめたような、真剣な問いかけのように受け止めさせられます。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』。ここで彼は『永遠の命を受け継ぐには』と言いました。これは別の表現をするならば『神の国に入るには、何をすればよいでしょうか』と尋ねたことになります。いくら積んでも満足出来ない自分の正しさ、どうしたら安心して神の国に入れるようになるのだろうかと、不安だったのでしょう。それだけ神様にも、信頼し切れないでいたのでしょう。これは図らずも『子供のように神の国を受け入れる人』ではない人間の姿を、映し出しているかのようです。

彼は思い詰めるようにして、今の自分では、神の国に入れるという確信が、持てないでいたのでしょう。この時イエス様に向けて『善い先生』と呼びかけました。それに対してイエス様は、次のように応えました。『なぜ、わたしを、善い、と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』。一見、突き放されたような応え方です。しかしここには、この神様の救いに確信を持てないで、揺れ動いている、そんな人間の状況を見て取られたことが示されます。『しっかりしなさい。この神様が唯一の拠り所ではないか。何を迷っているのか』。そんな問いかけが響いて来ます。彼は無意識にも、神様以外のものにも、拠り所を求めてしまっていたのかも知れません。それに気づかせるように、イエス様は神様の掟を持ち出すのです。彼は、示された掟は、子供の時から守ってきたと答えました。そんな彼は結局、自分の正しさのために、掟を守って来た者でした。言わば、無意識であっても、自分自身を拠り所としてしまっている。それなのに、そんな自分自身にも確信が持てない。しかも自分が見出して、自分が理解する神様を神としてしまう。だから、そんな神様にも確信が持てない。しかし神様の掟は、むしろ自分が、今どんな状態にあるのか、それに気づかせようとするものです。正しい自分ばかりでなく、正しくない自分も正直に見つめ直せばいい。掟を守るから、神様との信頼関係が築かれるのでありません。神様との揺るぎない信頼関係が、まずある。そこから掟が与えられているから、掟を守れない自分がいても、神様との信頼関係は決して揺るがないのです。

そこでイエス様は、彼を見つめ、慈しんで言われました。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富みを積むことになる。それからわたしに従いなさい』。それを聞いた彼は、気を落とし、悲しみながら立ち去ったという。たくさんの財産を持っていたからだと聖書は記しています。ここは言わば、イエス様が掟のようなものを与えられた場面とも言えるでしょうか。この掟を聞いた彼は、たくさんの財産を持っていたので、気を落とし、悲しみながら立ち去った。財産を施すことが出来ないと思ったからでしょうか。それより何より、救いに確信を持てないでいる状況が、解決されなかったからでしょうか。いずれにしても彼は、またここから自分が何者であるのか、気づかされて行くんでしょう。何を拠り所としてしまっているのか。神以外のものを神としてしまっているのか。この時のイエス様は『彼を見つめ、慈しんで言われた』のです。この『慈しんで』という言葉は、ギリシア語では『アガペー』という言葉が使われています。まさに親が子を見つめ、愛している姿です。あくまでも子が生きていくように、イエス様はこの言葉を投げかけたのです。今は気を落として、悲しみながら立ち去った彼です。がしかし、きっとまた立ち返ることを、イエス様はよくご存じなのでしょう。

こんな一部始終を目の当たりにした弟子たちは、驚いていたことでしょう。更にそんな弟子たちに、火に油を注ぐようにイエス様は言いました。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』。当時のユダヤ社会では、財産が与えられることは、神の祝福の一つとして考えられていました。神の祝福に与る者が、神の国に入ることが難しいと、弟子たちには聞こえてしまった。だから驚くばかりです。しかし神の祝福も、神の国に入ることも、神様がお決めになることです。人間があれこれ類推したとしても、人間が決めて出来る事ではありません。神に祝福されていないと思われる人がいたとしても、神の国に入ることもあるのかも知れません。その事をイエス様は、やはり弟子たちを見つめて言われました。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』。極悪人でさえも、きっと神様は、神の国に招き入れる事が、お出来になるのでしょう。

ここでペトロが言いました。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』。どうもペトロはこれまでの話のやり取りから『何もかも捨てれば救われるのか。そうだ、おれたちこそ、何もかも捨てて来た者だよな』とでも思ったのかも知れません。そこでイエス様は、どうしても人間に出来ることを考えてしまう、そんなペトロ達に向けて最後に言います。『先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる』。もし弟子たちが、先にいる者だと思うなら、後の者になるのでしょう。

先ほど冒頭で『子なる人間は、こんな自分であっても、父なる神様に揺るぎない信頼を抱く。父なる神様は、子なる人間が、どんなに罪深い者であっても、決して見捨てずに悔い改めを待ち続け、赦しを与える。子なる人間と父なる神との関係が、このような親子関係にあると信じる者』が『子供のように神の国を受け入れる人』だと申し上げました。

今は、気を落として立ち去るような私でも、エルサレム向かわれ、十字架の死と復活を果たされた主イエス・キリストが、こんな私をも『子供のように神の国を受け入れる人』に、きっとして下さいます。

聖霊降臨後第21主日

『皆に仕える者』マルコ10:35-45

 今日の福音書のすぐ前の所になりますが、イエス様が三度目の死と復活の予告をされたという場面です。このようにイエス様は何回か、ご自分が何者なのかを、弟子たちに表されています。それに対して弟子たちも、イエス様が何者であるのか、当然、問いただされて来たことでしょう。実際、私を何者だと言うのかと、直接弟子たちに問われた場面もあります(マルコ8:27-30)。こんなふうに、聖書を通して、イエス様と、弟子たち、あるいは出会った人々とのやり取りを通して、結局、いわゆる信仰って何なのか、そんなことを考えさせられます。イエス様は何者なのか。それを問うことは同時に、自分が何者なのかを問うことになります。そして、自分が何者なのか、気づかされた時に、それで自分はどうするのか、次に問われ始めます。弟子たちはどうしたのかと言えば、イエス様に従う道を選びました。イエス様を問い、自分を問い、イエス様に従う。この一連の問い巡らしと応答が、キリスト信仰なのでしょう。しかも、この問い巡らしと応答は、繰り返され続けるものなのです。だから信仰生活なのです。

 今日の福音書は、そんなイエス様の弟子たちの中の、ヤコブとヨハネが、言わばもう一度、この問い巡らしをします。そして改めて、イエス様に従うという応答を、決断させられたという場面になります。二人は言いました。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの二人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』。二人はイエス様の三度目の、死と復活の予告の言葉を聞き、問い巡らしながら、結局、このお方は栄光をお受けになる方だと信じたのです。その栄光は、彼らが考える栄光と、イエス様がお考えになられているものとは、違っていました。十字架の死は、人間にとっては敗北に見えます。しかしイエス様にとっては、全ての人間の救いのためになる。そこに栄光が隠されていた。いずれにしても彼らなりに、イエス様の栄光のために、イエス様に従い、それを助ける者になろうと決断したのです。

 その決断は、決して安易な自分の名誉だけを求めるようなものではなかった。彼らなりに、相当の覚悟をもって、この願い出をして来たと示されます。イエス様が尋ねました。『このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか』。彼らは『できます』と答えています。ここでイエス様が言う『杯』とか『洗礼』とは、いずれも『受ける・被る』ものを指し示す。ですから、一般的にも苦難を意味するように用いられます。『できます』と答えた彼らは、確かに苦難を被ることを覚悟していたのです。しかしこの時イエス様は、その前に『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない』ともおっしゃられています。このイエス様の言葉こそ、弟子たちにとっては、意外だったでしょう。『あなたこそ、今更、何をわけの分からないことをおっしゃるんですか。だって、イエス様が今からお受けになる苦難を、重々私たちも覚悟して、それに従ってまいります。そんなあなたをずっと支える者として、だから右大臣と左大臣にして下さいと、願っているわけではありませんか。何をもって、分かっていないとおっしゃられるのですか』。そんな声も聞こえてきそうです。実は最初から、イエス様と弟子たちとの間には、いわゆる方向性が真逆で、かみ合わないはずなのです。今日ここに記されている『栄光』『杯』『洗礼』という言葉をとっても、弟子たちには、掴み切れない、隠されたもう一つの意味が込められていた。先ほども触れましたが、弟子たちが考える『栄光』は、勝利と威厳に満ちたものです。イエス様の『栄光』は惨めな十字架上の死です。弟子たちが察した『杯』と『洗礼』の意味は、苦難です。しかし今は弟子たちに隠されている、イエス様がその向こうに指し示されようとするものは、キリスト教会の聖餐と洗礼です。

 イエス様と弟子たちとの間には、いわゆる方向性が真逆で、かみ合わないものがあると申し上げました。その根本にあるものは、『獲得する』のか『与えられる』のか、この方向性です。私たちの周りには、複数の宗教があります。そしてキリスト教会に集う者は、数ある宗教の中で、キリスト教を選んだのでしょうか。今私は『選んだ』と申し上げました。ここに誤解を生むものがあるのかも知れません。いわゆる何かを信じるという信仰者になることは、命を掛けることです。少なくとも、キリスト教を選ぶ、あるいはイエス様に従うとは、死をも覚悟することです。今日の福音書の少し前の所で、イエス様は次のようにおっしゃられています。マルコ8章34節『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。この言葉を平たく言えば、キリスト者になることは、死ぬことだと言うわけです。

 そこで果たして自分は、キリスト教を選ぶ時に、死ぬことを覚悟しただろうか。正直に申せば、死を覚悟して、キリスト教を選ぶことは、私には出来ません。高校や大学を選ぶように、キリスト教を選ぶことは出来るかも知れません。それでも一方で確かに、死を覚悟して、キリスト教を選んだと思える人々はいた。いわゆる殉教者と呼ばれる人々でしょうか。今日の福音書の弟子たちも、殉教までも覚悟していたかも知れません。しかしそんなふうに、イエス様に従うことを選ぶわけではないと言う。マルコ10章40節『しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ』。選ぶのではなく、選ばれるのだ。あるいは、イエス様を選ぶのではなく、イエス様に捕らえられるのだ。今こんな聖書の箇所が思い起こされます。ヨハネ15章16-17節『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である』。私は殉教死を恐れてしまいます。でも、そんな私だけど、イエス様が捕らえて選んで下さった。だから、今ここに置かれています。そう思うと、こんな私を捕らえて下さる、イエス様の意図を問い巡らしながら、でも捕らえて下さったということに、感謝します。そしてそれに応えて行きたいと促されています。

 今日の福音書は最後に、そんな弟子たちに向けて、次のように言います。マルコ10章43-44節『・・あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい』。ここは単にへりくだりなさい、と言っているだけではない。今やもっと積極的な、働きかけが込められているように聞きます。SDGs(エスディージーズ:Sustainable Development Goals 持続可能な開発目標)という言葉が掲げられています。2015年9月の国連サミットで採択された、2016年から2030年までの国際目標だそうです。今や一つの国、一つの民族、一個人だけの問題では済まされない課題ばかりです。環境問題、政治宗教、人権、生物多様性、これらの問題から、持続可能な世界を実現するための、17のゴール・169のターゲットから構成された、地球上の『誰一人として取り残さない』ことを誓っての目標なのです。こんな目標を踏まえた時に、この『皆に仕える』というイエス様の言葉から、次のように聞きます。『持っているものを与え合う』『違いは違いとして尊重し合う』『多様性を受け入れる』『個人の価値観を押し付けない』。そして、改めて、決して一人ではなし得ない課題だと示されます。

 先日、あるテレビ放送で、ごみ収集車で働く人たちの事が取り上げられておりました。コロナ禍で、ごみが余計に増えて、しかも取り扱いにも、余計に神経を使わざるを得ない状況が報じられておりました。取材を受けた、その労働者の方が次のようにおっしゃられておりました。『誰かがやらなければならない仕事なんですが、その誰かが、この自分なんだなと思っています』。ここには色々な感情が込められていると思います。しかし何故か私には、励まされるような言葉になりました。良い意味で、肩の力を抜けさせてくれる言葉になりました。

 誰かが選ばれなければならない。その誰かが、このキリストの教会なんだ。もう一度ヨハネの言葉が響きます。『わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい』。

聖霊降臨後第22主日

『あなたの信仰』マルコ10:46-52

 この日曜日の礼拝では、特に福音書に描かれる場面から、信仰のことなどを考えさせられて来ております。そして本日も含めてこの三週間は、それぞれイエス様と会話をする、三つのパターンの人間たちが描かれております。今日の福音書は、その三パターン目の人物です。バルティマイと言う名前の、物乞いをする盲人です。このバルティマイと、一つ目、二つ目のパターンに登場する人物とを、もう一度遡って比較対照してみたいと思います。

 まず一つ目のパターンの人物は、マルコ10章17節以下に描かれています。新共同訳聖書では『金持ちの男』という小見出しが付けられてあります。金持ちの男と今日の盲人の物乞い。実に対照的です。金持ちの男がたくさん持っているものは、財産ばかりではないようです。たくさんの、いわゆる信仰的な知識も持っていた。聖書の言葉も知っているし、その教えもきっちり守って来た。イエス様に対しても、彼なり持っている知識と判断から『善い先生』と呼んだ。しかしこの会話から示されるのは、彼が持っている知識や財産は、永遠の命を得るためには、何の役にも立たなかった。ここで語られたイエス様の言葉さえも、この時の彼にとっては、何の役にも立たなかった。

 一方、盲人の物乞いのバルティマイは、もちろん、財産もなかった。信仰的な知識はどうだろう。彼が住むエリコの町を、イエス様が出て行こうとされた時、物乞いをして道端に座っている彼の側を通り過ぎようとされた。その時、イエス様が出て行こうとされる様子を、周りの人間たちが、何か言っていたのだろう。それを聞きつけて、彼は叫んだ。『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』。周りの人間たちは黙らせようとしたが、それでも彼は何度も『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫んだ。『ダビデの子』という呼び名は、当時のユダヤ人たちが待ち望んでいた、メシアを指し示す言葉でした。そのメシアは、当時のユダヤを植民支配していた、ローマ帝国からの解放を成し遂げる、あのダビデ王のような王様を意味していました。そのメシアが、このナザレのイエスなのかどうか、人々は様々な見解を持っていた。しかしバルティマイは『ダビデの子イエス』と叫んだ。彼には、いわゆる宗教的な知識は、あったかのようにも思われます。しかし彼は『わたしを憐れんでください』と叫んだ。もしイエス様が、ダビデ王のような王様だとして、そんなお方が、一人の盲人の物乞いに、目を留められるだろうか。メシアに関する知識を、へたに持っていれば、却ってこのような叫びは上げられなかったのではないか。実際、周りの人たちは、𠮟りつけて黙らせようとした。『お前のような者が、こんな所で叫ぶんじゃない。聞いてくれるわけがないじゃないか』ということでしょう。しかし彼はそれでも『わたしを憐れんでください』と叫び続けた。いわゆる人間的、常識的な知識は、彼には働かなかった。そういう意味では、彼はいわゆる信仰的な知識も持ち合わせていなかった。しかし、後で分かる事ですが、彼が叫ぶ『ダビデの子』こそ、大正解だった。だからこんな私一人にでさえも、ダビデの子イエスは、憐れんでくださった。信仰には、人間的財産も知識も、持っているものは何も必要としないのだ。

 二つ目のパターンは、先週の福音書の箇所でした。マルコ10章35節以下の場面です。新共同訳聖書では『ヤコブとヨハネの願い』という小見出しが付けられてあります。イエス様に従う、いわゆる十二弟子と呼ばれる中の、ヤコブとヨハネの兄弟とイエス様との会話です。彼らはイエス様に願い事をします。その時のイエス様の応答の言葉と、全く同じ応答の言葉が、今日の福音書の中にも記されてあります。その言葉は『何をしてほしいのか』。ヤコブとヨハネは、イエス様が栄光の王様のようになられたら、自分たちを右大臣と左大臣にして下さいと願いました。彼らは、他の十二弟子たちもそうですが、あの金持ちの男のように、財産は持っていなかったでしょう。マルコ10章28節でも、筆頭弟子のペトロが言っていました。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました』。しかし少なくともこの時の二人には、他に持っているものがあった。『栄光をお受けになるとき、右大臣と左大臣にして下さい』と、言わば提案したわけです。『栄光をお受けになるまでは、私たちはどんな苦難にも耐えて、あなたのお側で、あなたを助けるように働きます』という取引を、暗黙のうちに彼らはしているように聞こえるのです。取引が出来るのは、何かを持っているから出来るのです。

『何をしてほしいのか』と問われた、バルティマイはどうだったか。ただ素直に喜び勇んで『目が見えるようになりたいのです』と答えた。そこからは『こんなことをしますから』とか『こんなものをお返ししますから』とか、そういう取引のようなものが、一切感じられないのです。イエス様に癒される前も後も、彼は何の取引も出来ないくらいに、全く何も持っていなかったのです。だからここで、まさにイエス様から指摘されます。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』。ここで言われる彼の信仰とは、何なのか。それは『主よあなたは、これ程に何も持たず、誰にも知られない、居ても居なくても良いような、小さな者にも、必ず目を留めて、必要な助けを下さるのですね。そんなあなたに出会う事が出来て、こんなに嬉しいことはありません』という信頼の叫びです。そしてバルティマイは『すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った』という。『なお進まれるイエスの道』は、十字架への道でした。そんなイエス様に従う彼が、見えるようになったのは、単に肉的視力だけではなかったのではないか。本当のメシアが見えるようになったのではないか。そのメシアは『多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た』お方だ。そして従う彼も、何も持っていないのに、実は持っているものを、与える者に造り変えられて行ったのではないか。

先週の水曜日夜に『プロフェッショナル』というNHKのテレビ番組を観ました。今回取り上げられていた人物は、アルコールや薬物、ギャンブルなどの依存症からの回復を支援する“最後の砦”とも呼ばれる、栗原豊さんという78歳の方でした。全国最大規模の支援施設の代表として、他の施設や病院で断られた人も含め、約300人を受け入れて、様々な回復プログラムを通して、社会復帰を支援されています。実は栗原さん自身も、60歳まで30年間、酒や薬物に溺れた依存症の当事者です。『どこからでもやり直せる』という言葉をもって、どんな人も受け入れて、決して見捨てないで、とことん寄り添って行く。依存症は孤独が原因になる事が多い。ご本人もまだ依存症と戦っている。だから同じ依存症の人間たちが、一緒にいてくれるから、自分も孤独にならないでいる、ともおっしゃられていました。通算20年間の刑務所生活を送って、7度目の刑務所行きになりかけた時、出会った検事の言葉をきっかけに、依存症からの回復を志したそうです。『あなたを執行猶予にするから、今すぐ、依存症回復支援の施設に行きなさい』。この言葉を聞いた時『許された』と思ったそうです。印象的な栗原さんの言葉です。そして今度は、自分が支援施設を立ち上げるようになって行ったわけです。

改めてバルティマイも、どんな人生を送って来たのでしょうか。生まれつき、目が不自由だったのだろうか。たくさんの人たちに助けられる事もあっただろうし、また、同じくらいにつらい目に遭ったこともあっただろう。そして一体、何年、道端で物乞いを続けて来たのだろうか。そこでも色々な人たちとの出会いもあっただろう。そうやって、何とか生きて来た。そんな中で劇的な、まさに自分が住むエリコの町から、出て行こうとされたイエス様との出会いが備えられていた。彼もまたそこからイエス様によって、これまでの人生のたくさんのものをもって、新たな出会いや出来事を通して、与える生き方へと導かれて行くのではないか。

主よ、あなたは、信仰に必要なものをも、思いもよらない形で、私たち一人ひとりに与えて下さっています。そんなあなたにキリストの教会によって応え、与えられたものを、相応しい時に相応しい形で、また分かち合って行きます。

宗教改革記念日

『神の国から遠くない』マルコ12:28-34

 今日の福音書の箇所は、イエス様が立派にお答えになったのを見た、一人の律法学者が、質問をしたという場面です。言わば『問答』というやり取りの中で、これまでもイエス様はお答えになって来た。この時までに、聖書には問答の場面が続けて描かれています。マルコ11章27節以下は『権威についての問答』という小見出しが付けられてあります。ここは、いわゆる在野にあるイエス様が、さも律法学者の如く、権威ある振る舞いをして来ている。それこそ宗教的権威ある者たちが、そんなイエス様を批判的に詰問した場面です。イエス様の反対者たちは、議論するつもりではなかった。結果的に議論に巻き込まれて『問答』になってしまったということでしょう。問答の序章とでも名付けましょうか。

 次にマルコ12章13節以下です。ここは『問答』という小見出しは付けられてありません。がしかし、当時ユダヤを植民支配していたローマ皇帝に、税金を差し出すのか出さないのか、という問答になっています。ですから『皇帝への税金の問答』と、小見出しを付けても間違いではないでしょう。ここの問答のきっかけは、イエス様の『言葉じりをとらえて陥れよう』とするものでした。問答の第一章ということになりましょうか。それは、問答から何か有益なものを得よう、という姿勢ではなかった。

 三つ目の場面は、マルコ12章18節以下『復活についての問答』という小見出しが付けられてあるところです。ここは、先ほどの『言葉じりをとらえて陥れよう』とする程ではないにしても、困らせてやろう、恥をかかせてやろう、でも、どんな答え方をするのか、ちょっぴり興味もある。そんな問答ではなかったかと想像します。問答の第二章ということでしょうか。

 そして今日の福音書の場面になります。ここは、小見出しは『最も重要な掟』と小見出しが付けられてあります。がしかし、冒頭でも引用したように、イエス様が『立派にお答えになったのを見て』尋ねたという事ですから『最も重要な掟についての問答』と、小見出しを付けても間違いではないでしょう。それから、ここはもう、純粋に教えを乞う、という姿勢に映ります。問答の第三章なります。そしてこの一人の律法学者は何を尋ねたのか。それは『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』というものでした。それに対して興味深いのは、第一の掟はもちろんのこと、第二の掟までも言及されている事です。細かいことを言えば、聞かれたのは第一の掟です。第二の掟のことは尋ねられていなかった。

 このイエス様のお答えに対しての、この時の律法学者の応答を聞いて、イエス様は『適切な答えをした』とおっしゃられた。一体、どこが適切なのでしょうか。それはイエス様のお答えを聞いての、律法学者の応答の中に示されます。イエス様が第一の掟だとお答えになったものは、今日の第一日課の申命記6章4-5節からです。実はこの箇所も含めて、申命記6章4-9節全体は、ヘブライ語で『シェマー』と呼ばれて、ユダヤ人にとっての基本的信仰告白になっているところです。ですから、当然、第一の掟と呼ぶには、相応しい箇所になります。しかしイエス様は、それに加えて、第二の掟として、レビ記19章18節の言葉を引用します。それは聖書箇所が違いますから、関係性を持たないかのようにも見えます。しかし律法学者はこの二つの掟を、密接に結びつけるように答えているのです。マルコ12章32-33節『先生、おっしゃるとおりです。神は唯一である。ほかに神はない、とおっしゃったのは、本当です。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する、ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています』。イエス様は、第一の掟と第二の掟と言いながら、唯一の主である神を愛することと、隣人を愛することとは、一つの掟であるように、明確化することを意図されていた。この律法学者は、そのイエス様の意図を見事に読み取って応答したのです。これをイエス様は『適切な答えをした』とおっしゃられたのです。

 神を愛することは、隣人を愛すること。隣人を愛することは、神を愛すること。改めて次の聖書箇所が、思い起こされます。1ヨハネ4章19-21節『わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。神を愛している、と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です』。

 先ほど今日の第一日課の申命記6章に言及しましたが、7節には『子供たちに繰り返し教え』とあります。更に20節では次のように記されてあります。『将来、あなたの子が、我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか、と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい』とあります。ここに親子の信仰問答が記されてあるわけです。この中で『主が命じられたこれらの定めと掟と法』というのが、直接的には十戒になります。今日の第一日課のすぐ前、申命記5章1節以下に記されてあります。信仰問答によって、ユダヤ人たちの信仰は、こうして世代を超えて、養われ、受け継がれて行ったのです。それはユダヤ人だけに留まらない。今日の聖書から示されるように、全ての人間たちは、イエス様との問答を通して、信仰の養いが果たされ続けていると示されます。その際に、信仰問答が序章から始まって、第三章に至っていると申し上げて来ました。それはあたかも問う人間の、心の変遷が映し出されるようでもあります。

 今日は宗教改革記念日です。そして信仰問答と言えば、ルター著作の『小教理問答書』が思い浮かびます。ルーテル学院大学附属のルター研究所発行の『ルター新聞10月31日発行』分が先々週に届けられました。受付に備えてあります。その記事の中で、牧師でルーテル学院大学の先生だった、江藤直純先生の著作の紹介記事があります。『ルターの心を生きる』という本です。その中で江藤先生が、小教理問答書の解説をされておられます。先生の解説を受けて、改めて、ルターの小教理問答書の、十戒の部分を読んでみました。このルターの小教理問答書は、まさに父と子という、親子の問答になっています。そして十戒には、今日の第一の掟と第二の掟とが、まさに一体となっていることを、ルターはその問答書で明確化するようなのです。それはあたかも、今日のマルコ福音書のイエス様の言葉を、大いに、意識しているかのようにも聞こえます。

 十戒の第一戒で子が『これはなんですか』と問うと、父は『私たちはすべてのものにまさって神を畏れ、愛し、信頼するのだよ』と答えます。以後、第二戒から第十戒まで、子が『これはなんですか』と問うと、全ての戒めにおいて、まず『私たちは神を畏れ、愛するのだ』と父は答えます。更にそれに続く父の答えは、全ての戒めにおいて『だから、これこれの戒めを破りません。かえって、これこれのことをします』という口調で統一されているのです。ここで少し、江藤先生の解説から引用させていただきます。『<かえって>これが鍵となる言葉です。マイナスの行為をしないというのにとどまらず、プラスの生き方へと導き、ふさわしい行為を勧めるのです。・・単に相手の不利益になることを禁じるだけでなく<かえって>以下にはっきりと勧められているように、なすべきことが相手の幸福を増進するところにまで高められなければならない』と、父は答えるのです。ここにまさに隣人愛が込められているのです(例えば第五戒、六戒)。

 イエス様は最後に、適切な答えをした律法学者に向けて『あなたは、神の国に遠くない』と言われました。何か受け留めようによっては『え、まだ、神の国に入れないの』とも思ってしまいます。実は今日の福音書のすぐ後、マルコ12章35節以下には『ダビデの子についての問答』という小見出しが付けられてあります。問答にはまだ続きがあるのです。問答の第四章になるでしょうか。あるいは最終章なのでしょうか。今までの問答は、生徒や子が質問して、先生や父が答えるという問答でした。しかしここは、イエス様が質問するのです。言わば先生や父が質問し、生徒や子が答える問答です。最終口頭試問ということでしょうか。それとももっと大胆に、み言葉に身も心も傾ける者になるということでしょうか。であるならば、そこは神の国なのでしょう。

 主よこれからも、あなたとの問答に与らせて下さい。そして神の国に招き入れて下さい。

宗教改革記念日

『神の国から遠くない』マルコ12:28-34

 今日の福音書の箇所は、イエス様が立派にお答えになったのを見た、一人の律法学者が、質問をしたという場面です。言わば『問答』というやり取りの中で、イエス様はお答えになった。そして、この時までにも、問答の場面が続けて描かれています。マルコ11章27節以下は『権威についての問答』という小見出しが付けられてあります。ここは、いわゆる在野にあるイエス様が、さも公式の律法学者の如く、権威ある振る舞いをして来ている。それこそ宗教的権威ある者たちが、そんなイエス様を批判的に詰問した場面です。イエス様の反対者たちは、議論するつもりではなかった。結果的に議論に巻き込まれて『問答』になってしまったということでしょう。問答の序章とでも名付けましょうか。

 次にマルコ12章13節以下です。ここは『問答』という小見出しは付けられてありません。がしかし、当時ユダヤを植民支配していたローマ皇帝に、税金を差し出すのか出さないのか、という問答になっています。ですから『皇帝への税金の問答』と、小見出しを付けても間違いではないでしょう。ここの問答のきっかけは、イエス様の『言葉じりをとらえて陥れよう』とするものでした。問答の第一章ということでしょうか。それは、問答から何か有益なものを得よう、という姿勢ではなかった。

 三つ目の場面は、マルコ12章18節以下『復活についての問答』という小見出しが付けられてあります。ここは、先ほどの『言葉じりをとらえて陥れよう』とする程ではないにしても、困らせてやろう、でも、どんな答え方をするのか、興味もある。そんな問答ではなかったか。問答の第二章ということでしょうか。

 そして今日の福音書の場面です。小見出しは『最も重要な掟』となっています。がしかし、イエス様が『立派にお答えになったのを見て』尋ねたという事ですから『最も重要な掟についての問答』と、小見出しを付けても良いでしょう。ここはもう、純粋に教えを乞う、という姿勢に映ります。問答の第三章なります。そしてこの一人の律法学者は何を尋ねたのか。それは『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』というものでした。それに対して興味深いのは、第一の掟はもちろんのこと、第二の掟までも言及されている事です。細かいことを言えば、聞かれたのは第一の掟です。第二の掟のことは尋ねられていなかった。

 このイエス様のお答えに対しての、律法学者の応答を聞いて、イエス様は『適切な答えをした』とおっしゃられた。一体、どこが適切なのでしょうか。それはイエス様のお答えを聞いての、律法学者の応答の言葉に示されます。イエス様が第一の掟だとお答えになったものは、今日の第一日課の申命記6章4-5節からです。実はこの箇所も含めて、申命記6章4-9節全体は、ヘブライ語で『シェマー』と呼ばれて、ユダヤ人にとっての基本的信仰告白になっているところです。ですから当然、第一の掟と呼ぶには相応しいものです。しかしイエス様は、それに加えて、第二の掟として、レビ記19章18節の言葉を引用します。それは聖書箇所が違いますから、関係性を持たないようにも見えます。しかし律法学者はこの二つの掟を、密接に結びつけるように答えるのです。マルコ12章32-33節『先生、おっしゃるとおりです。神は唯一である。ほかに神はない、とおっしゃったのは、本当です。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する、ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています』。イエス様は、第一の掟と第二の掟と言いながら、唯一の主である神を愛することと、隣人を愛することとは、一つの掟であるように、言わば再解釈されるようなのです。もっと言えば、第一の掟の中には、単に神を愛するだけではなく、隣人をも愛することが込められている。この律法学者は、そのイエス様の意図を見事に読み取った。これを『適切な答えをした』と言うのです。

 先ほど今日の第一日課の申命記6章に言及しましたが、7節には『子供たちに繰り返し教え』とあります。更に20節では次のように記されてあります。『将来、あなたの子が、我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか、と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい』とあります。ここに親子の信仰問答が記されてあるわけです。この中で『主が命じられたこれらの定めと掟と法』というのが、直接的には十戒になります。今日の第一日課のすぐ前、申命記5章1節以下に記されてあります。信仰問答によって、ユダヤ人たちの信仰は、こうして世代を超えて、養われ、受け継がれて行ったのです。それは今や、ユダヤ人だけに留まらない。今日の聖書から示されるように、全ての人間は、イエス様との問答を通して、信仰の養いが果たされる。今日聖書から、信仰問答が序章から始まって、第三章に至っていると申し上げました。それはあたかも問う人間の、心の在り様が、段階的に映し出されるようなのです。

 今日は宗教改革記念日です。そして信仰問答と言えば、ルター著作の『小教理問答書』が思い浮かびます。ルーテル学院大学附属ルター研究所発行の『ルター新聞10月31日発行』分が先々週に届けられました。その記事の中に、牧師でルーテル学院大学の先生だった、江藤直純先生の著作の紹介があります。『ルターの心を生きる』という本です。その中で江藤先生が、小教理問答書の解説をされておられます。先生の解説を受けて、改めて、ルターの小教理問答書の、十戒の部分を読んでみました。このルターの小教理問答書は、まさに父と子という、親子の問答になっています。そしてこの十戒を通して、今日の第一の掟の中に、第二の掟が、まさに組み込まれていることを、ルターはその問答書で明確化するのです。それはあたかも、今日のマルコ福音書のイエス様の再解釈を、ルターがもう一度、クローズアップしているかのようなのです。

 十戒の第一戒で子が『これはなんですか』と問うと、父は『私たちはすべてのものにまさって神を畏れ、愛し、信頼するのだよ』と答えます。以後、第二戒から第十戒まで、子が『これはなんですか』と問うと、全ての戒めにおいて、まず『私たちは神を畏れ、愛するのだ』と父は答えます。更にそれに続く父の答えは、全ての戒めにおいて『だから、これこれの戒めを破りません。かえって、これこれのことをします』という口調で統一されているのです。ここで少し、江藤先生の解説から引用させていただきます。『<かえって>これが鍵となる言葉です。マイナスの行為をしないというのにとどまらず、プラスの生き方へと導き、ふさわしい行為を勧めるのです。・・単に相手の不利益になることを禁じるだけでなく<かえって>以下にはっきりと勧められているように、なすべきことが相手の幸福を増進するところにまで高められなければならない』と、父は答えるのです。例えば第五戒はこのようになります。『あなたは殺してはならない。これはなんですか。私たちは神を畏れ、愛するのだ。だから私たちは私たちの隣人のからだを損ねたり苦しめたりせず、かえってそのからだの困窮の中の彼らを助け、励ますのだよ』。<かえって>に続いて、まさに隣人愛が込められているのです。

『人様に迷惑さえかけなければそれでいい』という声をしばしば聴きます。その度に私は、何故か違和感を覚えるのです。迷惑さえかけなければ、それでいい。何だか冷たいのです。あるいは相手が見えない。迷惑をかけない、戒めを破らない、そんな自分しか見えない。それでいいのだろうか。そこにいるはずの相手が、迷惑を被らないどころか、もっと相手が心地よくなるように、働きかけることが、本来の在り方なのではないか。ああ、それをルターは十戒の中に読み取ったし、今日のイエス様の再解釈にも従っているんだ。

 イエス様は最後に、適切な答えをした律法学者に向けて『あなたは、神の国に遠くない』と言われました。何か、奥歯に物が挟まったような物言いに聞こえます。実は今日の福音書のすぐ後、マルコ12章35節以下には『ダビデの子についての問答』という小見出しが付けられてあります。問答にはまだ続きがありました。問答の第四章になるでしょうか。あるいは最終章でしょうか。今までの問答は、生徒や子が質問して、先生や父が答えるという問答でした。しかしここは、イエス様が質問するのです。言わば先生や父が質問し、生徒や子が答える問答です。最終口頭試問ということでしょうか。それとももっと大胆に、み言葉に身も心も傾ける者になるということでしょうか。であるならば、そこは神の国です。

 主よこれからも、あなたとの問答に与らせて下さい。そして神の国に招き入れて下さい。