からし種 391号 2021年12月

全聖徒主日

『見せかけの長い祈り』マルコ12:38-44

 まずは先週の福音書の箇所を振り返ります。先週はマルコ12章28節以下からでした。律法学者がイエス様に質問した場面です。質問の内容は『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』というものでした。それに対してイエス様は、第一と第二の、二つの掟を取り上げて『この二つにまさる掟はほかにない』とお答えになられました。これを聞いた律法学者は『先生、おっしゃるとおりです』と言って、尋ねたのは第一の掟だけだったのですが、イエス様の意図を酌むかのようにして、二つの掟が一体であるように受け留めたのです。その律法学者の受け留めが、適切であるのを見て、更にイエス様は言いました。『あなたは、神の国から遠くない』。このやり取りから、イエス様は律法学者を肯定的に受け留めたのだろうか。それとも否定的なのだろうか。どちらにしても『神の国から遠くない』ということですから、まだ何か、神の国に入るには足りないところがあるのかも知れません。一つ考えられるのは、律法学者ですから、知識や理屈は優れているように想像します。しかし理論ばかりではなく、実践も伴わなければ、完全とは言えません。イエス様はそこを問われたのかも知れません。

 そこで今日の福音書です。まさにイエス様は律法学者を非難しているのです。批判の理由は、どうも、見てくればかりを重要視して、中身が伴っていないのではないか、という事のようです。今日の説教題は『見せかけの長い祈り』としました。まさに律法学者は、自分の権威を振りかざすように、自分を見せびらかしているようです。こんなふうに言いますと、よほど悪徳学者であるかのように聞こえます。しかしこれは、他人ごとではないようにも示されます。つまり見た目の形式を大事にする余りに、そこに込められている本来の意味を見失ってしまっている状態です。形式も大事ですが、余りにも本来の意図からかけ離れてしまう。そこをイエス様は、今日の福音書の中で問題視するのです。形式ばかりに気を取られるとは、どういうことになるのか。それは、人の目が決定的になってしまっている、ということです。

 見せかけの長い祈りをして、さも有難みを増幅させて、お祈りの依頼者から高額の謝礼を受け取っている、という現実もあったのでしょう。人の足もとを見るかのように『やもめの家を食い物』にしていると、イエス様は批判するわけです。確かに長い祈りを聞きますと、有難みも湧いて来そうです。あんまり短いと、効果がなさそうにも思います。それに律法学者ですから、いわゆる格調高く祈るのでしょう。そうしなければ、学者らしくないと思うからです。こんなふうに書いて行きますと、何だか自分の事のようにも思えて来ます。牧師として、変な祈りはしてはならない。短いのもだめだ。これは牧師ばかりではなくて、割と長く信仰生活をしている人も、同じように思われているのではないでしょうか。人前で祈るのも、妙なプレッシャーを感ずることもある。『なんだあの人は。あんなに長く教会に行っている人なのに、あの程度の祈りしか出来ないのか』なんて思われはしないだろうか。そんなことを思う人はいるはずもないのに、そんな余計な心配をしてしまうのです。それにしても、こんなふうに心配している祈りは、一体、誰に向けている祈りなのか。何だか周りの人間たちに向けて、祈ってしまっているようだ。まず向けなければならないのは、人間ではないだろう。

 祈りはもちろん、神様に向けて祈ります。でも知らず知らずに、そうではない方向に向いてしまうのも現実です。そんな人間の状況を、イエス様は次の場面で指摘するのです。人々が神殿で、献金をしている場面です。その様子を見ておられたイエス様が、弟子たちを呼び寄せて語られたのです。献金をする人々には、大勢の金持ちがいて、また一方、貧しいやもめがいました。そして弟子たちに教えて言いました。マルコ12章43-44節『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』。『だれよりもたくさん入れた』というのは、献金の額ではないでしょう。誰よりも神様に100%目を向け、祈りを向け、身を委ねた、ということでしょう。他の人々は、有り余る中から入れたから、神様に向けられる目や祈りや委ねの部分も、ちょっぴり100%から減らされてしまっていると見られたわけです。

 あの宗教改革者のマルティン・ルターが次のように言ったそうです。『あなたが今、一番頼りにしているものが、あなたにとっての神なのだ』。有り余るお金の中から、人と比べれば、多額の献金をしたとしても、なお懐にお金を残しているのは、それも神のように頼りに思っているからではないか、ということでしょう。そうは言っても、私はお金持ちではありませんが、それでも、この貧しい女性のように『自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れ』ることは出来そうもありません。それを批判されるならば、私はただ頭を下げるだけです。出来る事は、さも『自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた』かのようなふりをしない。さも、熱心な信徒のふりをしない。まだまだお金を神様にしてしまっている自分を、人目を気にしないで、正直に神様の前に差し出すだけです。申し訳ありません、不信仰な私をお赦し下さい、と神様に祈ります。そして、そんな自分でも、神様に示されることを果たして行こうと思います。

それにしても生活費を全部入れたしまったこの女性は、一体、この後どうやって生活して行くつもりなのか。そちらの方も気になります。これは単なる作り話ではないのか、と思いたくなります。しかし改めてこの場面で、注目させられる事があります。まずは、やっぱりイエス様は、この貧しい女性をしっかりと見ていて下さっている。そして、ただ見ているだけではない。弟子たちを呼び寄せて、この貧しい女性の全ての振る舞いを教えられていることです。ここから、次のように示されるのです。神様は、どんなに欠けや失敗の多い人間であっても、それでも真剣に向き合う者を、決して見逃さない。そして、そんな姿を見た周りの人間たちが動かされるように、神様は、その者が必要とする者を、助け手として必ず送って下さる。今日の場面でも、この貧しい女性の事を聞いた弟子たちは、どのように思ったでしょうか。聞きっぱなしだったでしょうか。それとも誰かが動かされて、その女性の助け手として送られて行ったとも想像されます。ただ闇雲に、生活費を全部献金しなさい、と教えているわけではない。人目を気にせず、神様に真剣に向き合うのは、もう一度、自分の生き方を問うように促されます。そしてそこに、相応しい時に相応しい助け手も送られて行くのだと示されます。

日経新聞『私の履歴書』という連載記事があります。各界で活躍された人たちが、自分の履歴を一か月に渡って書いているものです。今は元F1レーサーの中島悟さんが書かれています。先週の金曜日の記事の中で、次のようなことを書かれておられました。『僕には節目節目でどういうわけか、僕以上に僕のことを思い詰めて助けてくれる人が現れる』。この言葉に私も共感させられました。

今日は、天に召された先人たちを偲ぶ全聖徒主日です。『ああ、主は、こんな自分にも、あの人を送って、助けて下さった』。主よ、これからも、今度はこんな自分でも、必要としてくれる人や出来事に、用いて行って下さい。

聖霊降臨後第25主日

『起こるに決まっている』マルコ13:1-8

 一年間に渡る、キリスト教会独自のカレンダーは、いよいよ来週21日の週をもって大晦日を迎えます。このカレンダーは、イエス・キリスト誕生預言の時代に始まって、世の終わり、即ち終末のキリスト再臨の日をもって一年間とするわけです。今週と来週は、その終末について聖書から聞いてまいります。

 そもそも聖書の中で『世の終わり』についてのメッセージが語られる背景には『迫害』という状況がありました。本日の第一日課にもなっております、紀元前2世紀に書かれたダニエル書はその典型です。この時代はギリシアから起こったヘレニズム王朝が、パレスチナを支配していました。特にセレウコス朝シリアの王、アンティオコス4世エピファネスの時代に、ユダヤ人に対する厳しい宗教迫害が起こりました。神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生活することを禁じられました。熱心なユダヤ人の中には、殉教する人もいました。それは神に忠実であればあるほど、この世で苦しみを受けるという時代でした。その中で『この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる』と語り、迫害の中にいる信仰者を、励まそうとしたのがダニエル書です。迫害の最中ですから、直接的な表現は許されません。そこで時代を紀元前6世紀という過去に設定し、捕囚の地バビロンでダニエルという人が見た幻として、今起こっていることと、将来起こることを描いたのです。ですから基本的に終末のメッセージは、希望のメッセージになります。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去り、最終的には悪者は裁かれ、正しい者が救われるという、神のみ心が実現する希望が語られるわけです。

 イエス様が地上の生を歩まれた時代は、ダニエル書が書かれた時代から200年ぐらい下って、植民支配者もシリアからローマに変わっていました。しかしダニエル書が語る希望のメッセージは、相変わらず当時のユダヤ人たちの拠り所にもなっていました。今日のダニエル12章1節に『・・その時まで、苦難が続く、国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう』とあります。終わりの時には大変な苦難を被るが、しかしむしろその時が来れば、信仰者は救われるというわけです。そんな背景の中で、今日の福音書では、イエス様がエルサレム神殿の崩壊を予告されたわけです。ちなみに、紀元70年にローマ軍によって、エルサレム神殿は破壊されます。

この破壊の予告を聞いた者は、大きく動揺するでしょう。あのダニエル書で預言されている、大苦難を被る、まさに終わりの時の事ではないのかと。今日の福音書の13章3-4節『・・ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか』。『いつ』『どんな徴が』というのは、誰しも直ぐに聞きたくなることでしょう。あらかじめ、それらのことを知っていれば、対策を講じることが出来ると思います。そうやって、深刻な苦難が、自分はもちろんのこと、出来れば家族や親しい者にも、及ばないようにしたいと思うからです。確かに、この終わりの時の苦難は、ある程度は被るとしても、厳しい裁きは、信仰者という正しい者にとっては、最終的に回避出来る、悪い者たちとは違うんだと、考えてのことでしょう。

しかしそうなんだろうか。信仰者イコール正しい者なんだろうか。見た目は信仰者かも知れない。しかしだからと言って、それで神様の目に、適った者であると言い切れるのだろうか。言い切っているとしたら、それこそ問題なのではないか。そういう者こそ、本当の自分を偽っている、正しくない者なのではないか。イエス様はこれまでに、律法学者やファリサイ派の人々と対峙しながら、そういう、いわゆる見た目の信仰者を批判して来たのではないか。終わりの時がやって来る。『いつ』『どんな徴が』と心配するのは、いわゆる信仰者にとっても、他人ごとではないのではないか。では一体、相変わらず、終わりの時を心配しなければならない信仰って何なんだろうか。正しさって何なんだろうか。終わりの時とか、終末とか、キリスト再臨とか、最後の審判とか、それらはどういう意味があるのか。とにかく裁かれないように、慌てて何かをするためという意味なのか。

そこでもう一度、今日の福音書から、注目させられる言葉があるのです。それは、先ほども引用しましたが、13章3節の『・・ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた』という、この四人の弟子たちのことです。彼らが最初に登場したのは、マルコ福音書では1章16節以下の『四人の漁師を弟子にする』という、小見出しが付けられた場面です。そしてこの直前に、聖書はイエス様のことを次のように伝えます。マルコ1章14-15節『・・イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい、と言われた』。いわゆる終わりの時のイメージは、冒頭のダニエル書からも示されるように、悪いものを一気に裁いて取り去って、究極の神の支配が一瞬のうちに建て上げられるというものです。しかしイエス様が『神の福音を宣べ伝えて、時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい、と言われた』とは、どういうことか。それは、このイエス様の言葉によって、既に、全ての人間たちに関わる『終わりの時は始まった』というのです。そしてここで言われる『福音』とは何か。それは、イエス様の十字架の死と復活によって、神様による究極の審判と救いの業とが、現に行われている、というのです。この既に行われている神様の審判と救いの業が、私たち一人一人にとっての『福音』となる。そして、そうするものが信仰なのです。更に世の終わりは、ダニエル書では迫害が強調されていました。しかしイエス様が示す世の終わりは、神様と人間との安定的な関係の確立なのです。

マルコ福音書は第16章で、イエス様の十字架の死と復活という福音を描きます。がしかし、既に第1章で福音に言及します。その福音に導かれるようにして、最初の弟子となる四人が召し出されるのです。その時の彼らは、まだ十字架の出来事を知りません。しかし弟子に召し出されたこの四人は、既に始まっている終わりの時を、繰り返し繰り返し悔い改めながら、今度は福音を受け取る信仰の道へと、神様との安定的な関係へと、導かれて行く姿を映し出すのです。その姿は、この時の四人に限らない。今も、ここに集う全ての人間たちにとっても、同じ姿なのではないか。終わりの時の神の支配が、始まっている。後は、悔い改めを繰り返しながら、福音を受け取らせていただく歩みを進めて行くのです。

キリストの教会を通して、悔い改めに導かれてまいりましょう。生きている者から生かされている者であることに、創られているものであることに、悔い改めさせられてまいりましょう。多くの人を惑わす言葉や出来事に直面しても、そういうことは起こるに決まっていると、今日、聖書は言います。そんな、唯の一つの出来事に過ぎないものに、揺り動かされないように、悔い改めて、それらの出来事の意味を一面的にならずに見るようにさせていただきましょう。『いつ』『どんな徴が』と、人間の都合の時に惑わされないように、何時なのかは分からない、また、見えないものなのかも知れない、でもきっとこんな私に必要な『神の時』を、悔い改めて、待ち望ませていただきましょう。そんな私を通して、きっと福音がそして神の国が、証しされて行くのでしょう。

 今日の福音書の少し後、マルコ13章10節で、イエス様はおっしゃられます。『しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない』。主よこんな私も、このあなたの宣教の御業に、用い続けて下さい。

聖霊降臨後最終主日

『わたしの国』ヨハネ18:33-37

 先週もこの場で申し上げましたが、一年間に渡る、キリスト教会独自のカレンダーによりまして、本日はいわゆる大晦日の週となります。いわゆる人間中心の歴史の終わりの時を投影するものです。それでこの時を、世の終わりとか、終末とか、最後の審判とか、キリスト再臨の日とか、表現されて来ているわけです。ユダヤ人たちは、この終わりの日が来ると信じて来たわけですが、その背景については、先週も触れました。それは『迫害』であります。先週も第一日課はダニエル書でしたが、本日もダニエル書です。ユダヤ人に対する厳しい宗教的迫害がある中で『この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる』と、迫害の中にいる信仰者を、励まそうとしたのがダニエル書でした。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去り、最終的には悪者は裁かれる。そして正しい者が救われる。こうして、神のみ心が実現するという希望が語られたわけです。

このように旧約を通して、ユダヤ人たちが抱いて来た、世の終わりのイメージは、神様が突然やって来られて、一気に悪いものを裁いて、正しいものが苦難を被るような不条理を、きれいさっぱりに解決してしまう、というものです。最後の審判という言い方も、そんなイメージからだと思います。そういう、悪いものが悪いままに裁かれるという筋書きは、結局、人間が思い描くようなものにも思えます。人間的な理屈にも適うようなものです。ですから、そういう人間的な筋書きに沿うようにも思えるものに、神様のご意思が本当に現わされているのだろうか、とも考えてしまうのです。

しかしイエス様が示される世の終わりのイメージは、少し違うようです。世の終わりは必ず来る(マタイ28:20)。しかしプロセス抜きに、一気に不条理が解決されるかのようなものではありません。今、プロセスと申し上げましたが、先週引用しました、マルコ1章14-15節には次のように記されてありました。『・・イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい、と言われた』。イエス様はこの『時は満ち、神の国は近づいた』という宣教の第一声によって、既に、全ての人間たちに関わる『終わりの時は始まった』というのです。イエス様が言う『終わりの時』というのは、イエス様を通して『神の国』が始まり、そしてそれが完成するまでをいうわけです。同時にこの世の支配者は、主人公は、果たして人間なんですか、と問うのです。

ここでイエス様が言う『神の国』とは『神が支配されている状態』を言います。ルカ17章20-21節でイエス様は次のようにおっしゃられています。『神の国は、見える形では来ない。ここにある、あそこにある、と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』。国と聞きますと、あの国、この国があって、国境を境にしているイメージです。しかしこの『神の国』は神の支配の状態を言いますから、人間のイメージとは噛み合いません。噛み合わないと言えば、今日のヨハネ福音書も、嚙み合わない会話の場面です。ここはイエス様が十字架に掛けられる前に、その裁定をする、時の総督ポンティオ・ピラトから尋問を受けられている場面です。イエス様がユダヤ人の王なのかどうなのかを巡っての尋問です。ここでピラトが『お前がユダヤ人の王なのか』と尋ねた時の、イエス様の答えに注目させられます。

ヨハネ18章34節『あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか』。なんとも不思議なイエス様の受け答えです。何か別の意図を持たれておられるような言葉に聞こえます。それはピラトだけでなく、全ての人間たちにも向けられている言葉のようです。ピラトにして見れば、余り関わりを持ちたくない事案です。自分で考えようが、誰かに言われようが、そんなことはどうでもよいことです。『こんな面倒な事に巻き込まれて、何か落ち度が起こったら、今後の出世に関わる。早く、始末して終わらせたい』ということでしょう。しかしイエス様は、この尋問を、あたかも信仰上の問答に置き換えておられるようです。

ピラトが『お前がユダヤ人の王なのか』と尋ねた。これを『あなたはメシア、救い主ですか』という、言わば信仰上の問いかけに置き換えたらどうだろうか。信仰上の問いかけは、まずは自分の考えから出て来るものです。誰かに言われたから、するようなものではないでしょう。何か特別な興味でもあれば別ですが。この時のピラトの言い返しの言葉にも注目させられます。ヨハネ18章35節『わたしはユダヤ人なのか』。『そんなことは、ユダヤ人たちが、騒いでいることであって、ローマ人である自分には、全く関係の無いことだ』と、イエス様がユダヤ人の王かどうかには、全くの傍観者であるように言うのです。しかしイエス様の思いは違います。全ての人間のうちには、傍観者は一人もいないのです。イエス様の出来事に対しては、全ての人間が当事者なのです。

ヨハネ18章36節『わたしの国は、この世には属していない』。そうおっしゃられて、もしこの世に属していれば、部下たちが私を守るために戦うだろうと言われました。それはこの世にあっては、当事者もありだし、傍観者もありだ。両方有り得る。であるならば、今は全ての人間が私に対して、傍観者になっていると言うのです。本当は傍観者なんていないはずなのに、今はそうではない。ピラトはそれでも、噛み合わない尋問を続けます。ヨハネ18章37節『それでは、やはり王なのか』。この世に属さない国と言う意味は分からない。がしかし、とにかく『わたしの国』と言っているのだから、王は王なのだな、ということでしょう。しかしイエス様は、相手が噛み合っていないことを承知で、真実を語られるのです。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです』。

傍観者を演ずるピラトの存在は、何を意味するのでしょうか。決して傍観者になってはいけないと、警告するようです。世の終わりとか、最後の審判とか、ややもすれば宗教界に限っての問題にも聞こえてしまいます。信仰者には切実な問題ですが、そうでなければ、今日の話はそれこそ傍観するだけでしょう。ましてやイエス様の事など、全く部外者のようです。今日、聖書を通して、ピラトとの会話からイエス様は改めて、世の全ての人々に、神の国を指し示されるのです。あなたは、本来、神の国という神様の支配の中にあるものです。実は神が主人公であって、人間ではない。そして人間は、この世の全ての出来事に対して、神の国の住人としての責任を負う者なのです。そのためにイエス様は『わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』とおっしゃられるのです。

『真理』と訳された言葉には、元々『隠されていないこと』という意味があるそうです。別の言い方をするならば、どういう立場にあろうと、全ての人間たちに現わされている、ということです。ヨハネ福音書には『真理』という言葉がよく使われています。そしてヨハネが証しする『真理』とは、次のようになります。『何よりも確かで、頼りになる神ご自身を、イエス様の生涯、特に十字架と復活をとおして現す』もの。そうやってイエス様が証しする『真理』から明らかにされる神とは『神が愛であること』だと言うのです。ヨハネ3章16節を引用します。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。来週からの待降節がまた指し示されます。ダニエル書から示される世の終わりの神様は、正義の神様に違いない。しかし結局、裁く神様なのです。しかしイエス・キリストを通して示される世の終わりの神様は、救う神様です。

『わたしの国』即ち、主イエス・キリストの神の国の中に、全ての人間は既に置かれています。どういう立場であろうとも。そして支配者は神です。後はその国の住人である人間は、傍観者から当事者へと導かれて行くだけです。SDGsとかCOP26とか、今世界はまさに当事者としての課題を突きつけられています。人権問題もそうです。それを内政干渉だとか言って、当事者に任せて傍観者を決め込む論調もあります。図らずもこれらの具体的な国際問題が、人々を無意識にも神の国の当事者へと誘っているのです。

主イエス・キリストの神の国のために、キリストの教会は改めて、世界の先導役の当事者としてこの今という一瞬一瞬の出来事に、心を込めて与って行こうではありませんか。

待降節第1主日

『あなたがたの解放の時』ルカ21:25-36

 ここのところ二週間にわたって、いわゆる『世の終わり』について、聖書から聞いてまいりました。そういう出来事が語られて来た背景には、『迫害』があったからだということでした。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去り、最終的には悪者は裁かれ、正しい者が救われるという、希望がそこに込められているわけです。それに対してイエス様は、もちろん世の終わりはあるが、既に『世の終わりは始まっている』と語られたのです。そしてそれは『世の終わりが完成する』まで続く、とおっしゃられます。更に『世の終わり』を『神の国』という言葉に置き換えます。ですから『世の終わり』の『世』とは、人間が主人公だとする、人間中心に振る舞う世界です。『人間が主人公だとすることが終わる』、これが『世の終わり』です。従って『神の国』とは『神が支配されている状態』です。イエス様の登場によって、本来あるはずの神の支配が、そんな人間にも分かるように、顕かになり始めている。そして、復活して天に昇られたイエス様が、再び来られる。これがキリスト再臨の時です。この再臨の時に神の支配は完成する。例外的に人間中心ではないのかと見えるような状態は完全に無くなる、というわけです。それまでの間は、不条理で悲惨とも思える出来事は、相変わらず続いているでしょう。そしてどこに正義の神の支配があるのかと、思えることはあるかも知れません。しかしイエス様を通して、神の支配を信じる者は、もはやそれらの出来事を、不条理だとか、悲惨だとか、無意味で無駄な出来事であるとか、そればかりを見なくなるようになるのです。実は見なければならない出来事の、もう一つの意味を、神様から受け取ることが出来るようになるからです。

今、キリスト再臨と申し上げましたが、再臨ですから、第一回目の臨在があるわけです。『イエス様の登場によって、本来あるはずの神の支配が、そんな人間にも分かるように、顕かになり始めている』と申し上げましたが、ここにイエス様の第一回目の臨在が示されます。『イエス様の登場』これが第一回目の臨在であります。これを私たちはクリスマスと呼んでいます。そして今日から、そのクリスマスを待つ時である待降節に入ります。それはまさしく、救い主イエス・キリストの誕生を待っていた、旧約のあの時代を投影します。と同時に、今もイエス様を救い主と信じるよう待っている『あなたがた』の事をも投影します。ではその旧約の時代は、神様の支配は無かったのか。そうではありません。神様の支配はずっと続いて来ている。それなのに、人間が神様を棚上げしていたのです。神様に成り代わって支配できるかのように振る舞って来ていた時代なのです。もちろん、そんなことはない、自分はちゃんと神様を信じて来たと言う人もいるでしょう。しかし信じているというその神様は、もしかしたら無意識にも、自分で造り上げてしまっている、言わば偶像の神様かも知れません。神様は正しいお方であり、悪いものを裁くお方なのです。間違いではありません。がしかし、そんな神様は人間にとっては、どこまで行っても目標であり、手の届かない存在になってしまうのです。ですからその目標に手が届くように、ひたすら人間は努力し続けなければなりません。

今日の福音書の冒頭では、イエス様が再臨の時を予告しているようです。恐ろしい天変地異のようなものが起こる。それに対して『人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである』と聖書は記しております。そして次のようにも記されてあります。『このようなことが起こり始めたら、身を起して頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ』。『このようなこと』というのは、天変地異も含めて、ルカ21章8節以下にも記されている、戦争、暴動、地震、飢饉、疫病、迫害、家庭不和、ということでしょう。これらの出来事に対して『あなたがた』は『身を起して頭を上げなさい』というのです。これらの出来事は、常識的には身を起して頭を上げるどころか、落ち込んで、絶望して、嘆き悲しむ事態です。ところがむしろ、身を起して頭を上げよと言う。何故ならその出来事の故に『あなたがたの解放の時が近いからだ』という。ここで『解放』と訳されている言葉は、『贖い』とも訳せる言葉です。その意味は『代価を支払って、罪の裁きを免れる』というものです。

『解放』と聞けば、不条理や悲惨な状況から解放されると考えます。しかし聖書が言う『解放』は、罪の縄目を解き放つことだと言うのです。ここに、冒頭で申し上げた『出来事から、実は見なければならない、もう一つの意味を、神様から受け取ることが出来るようになる』と申し上げた根拠が示されます。『贖い』これは、まさしくイエス様ご自身が『あなたがた』のためにしてくれることです。『イエス様の十字架の死と復活』が『あなたがた』のための『贖い』なのです。しかも『あなたがた』には、何の報酬も求めない。『あなたがた』は、これこそ『救い』だと知るようになる。この『救い』をもたらしてくれるのが、イエス様だ。だからイエス様を救い主と信じる。そのイエス様を待つのです。

『人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである』という今日の聖書の箇所から、もう一つの聖書の箇所が思い起こされます。ルカ2章8-13節『その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った』。この光景も、見方によっては、恐ろしい天変地異とすることも有り得るでしょう。しかし羊飼いたちは、最初は恐れつつも、次第に喜びに包まれて行きます。出来事から、見るべきもう一つの意味を知らされたからです。羊飼いたちのように、相応しい時に相応しい場所で、主イエス・キリストの神様が『あなたがた』を捕らえて下さる。だから『あなたがた』もまた恐れを取り除かれ、イエス様に出会い、信じるものに導かれて行くのです。

一方、今日の福音書は『いちじくの木や、ほかのすべての木』から季節を判断するように、むしろ日常の何気ない出来事を通しても、神の国が近づいていることが自ずと知らされる、というのです。それはあたかも、あの羊飼いたちが『布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子』を、救い主のしるしとして教えられた出来事と重なります。ややもすれば『救い主のしるし』としては、見えそうにないものだからです。しかしそこに神の言葉があるからこそ、羊飼いたちは救い主のしるしを信じたのです。イエス様の言葉は決して滅びないと、今日聖書は言います。『滅びない』とは『過ぎ去らない・消え去らない』という意味です。時代や人間の価値観によって、意味が変わったり、必要でなくなることはない。永遠に『あなたがた』の中に、そのまま留まり続ける。だからあまりにも何気ない、当たり前に思われるような、日々の生活の中にも、救い主イエス・キリストとの出会いが備えられている。

何気ない、当たり前に思われるような生活を、日々省みて、もう一度、感動させられて、目を覚まし、感謝の祈りをささげて行こうではありませんか。