からし種 393号 2022年2月

新年

『わたしにしてくれたこと』マタイ25:31-46

今日は新年の元旦ですが、キリスト教会独自のカレンダーにも、大晦日と新年があることは、何回もこの場でも申し上げてまいりました。教会の場合は日曜日が中心になりますが、近いところで言えば、11月28日が大晦日の日曜日でした。そして翌週の12月5日が新年の日曜日でした。この日から待降節という期節に入りまして、イエス様のご降誕のクリスマスを待つ時を、四週間に渡って過ごして来ました。そしてクリスマスが過ぎて本日は、教会カレンダーの新年からは、ほぼ一か月が経過したところです。

教会カレンダーによる大晦日の日曜日は、聖霊降臨後最終主日と呼んで、言わばキリストの再臨と最後の審判を想定しての、福音書が与えられます。今日のこの新年にも与えられた、マタイ福音書25章31節以下も、そんな大晦日の日曜日にも選ばれる福音書の一つです。ですから内容は、最後の審判を思わせるものです。『人の子』というのは、再臨のキリストということでしょう。その直ぐ後の譬えに『王』が出てまいりますが、この方も再臨のキリストを譬えているのでしょう。王様はあたかも閻魔大王のように、これまでの行いによって人を右側と左側に選び分けるという。そして、右側の人たちは永遠の命にあずかり、左側の人たちは永遠の罰を受けるというものです。ここから聞きようによっては、最後の審判で裁かれて左側に分けられたらどうしよう、閻魔大王のようなキリストはいつ来るんだろうと、毎日、びくびくしながら生きて行くのかと考えてしまいます。しかしキリスト教会は言います。いずれにしても右に行くのか左に行くのか、そんなことはビクビクしたところで、あるいは、たとえどんなに善いと思われる行いをしたところで、結局、人が決められることではない。お決めになるのはキリストです。自分の人生もいつまで続くか、それもキリストがお決めになる事です。続くところまで、この毎日を、一瞬一瞬を、丁寧に心を込めて生かされて行こう、それがキリストの教えです。何よりもキリストが、そう出来るように慰め励まし導いて下さると信じるからです。

私たち日本人にとって、元旦は新年のスタートの日として、これから始まるこの一年を、どのように過ごして行くのか、深く考えさせられる時でもあります。ですから、今日与えられた福音書も、今というこの時の生き方を考えるのに相応しいのではないでしょうか。自分の人生もいつまで続くのか、キリストがお決めになる。その時まで、この毎日を丁寧に心を込めて生かされて行こうと、思いを新たにさせられます。その生き方について、今日の福音書の譬えの中の王の言葉から改めて考えてみます。マタイ25章34-35節『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』。これを聞く『父に祝福された人たち』は、王なるキリストに、そんなことをした覚えは無いと答えます。ところがキリストは、王の言葉を借りて言います。マタイ25章40節『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたとなのである』。

 このキリストの言葉から示されるのは、再臨する前にも、キリストは飢えている者と共に飢えておられるのだ。同じように、キリストはのどが渇いている者と共にのどが渇いている。泊る宿が無い者と共に泊る宿が無い。裸の者と共に裸。病気の者と共に病気。牢にいる者と共に牢にいる。困難とも思える状況が相変わらず続いている中で、むしろそれらを取り除いて下さいと、私たちはキリストに祈ります。しかしキリストは、むしろその困難の中にいる者らと共にいるという。このキリストの言葉の中に、今こうして新しい年を迎え、改めて今年一年の生き方が問いただされます。私たちが今日改めて求めている生き方が、ここに示されている。困難の中にある方を、その方がキリストだと思えるかどうか分かりません。聖書が言うから、キリストだと信じてその人を助けることもあるかも知れません。あるいは、元々、倫理道徳的な主義主張に促されて、その人を助けることもあるでしょう。弱い自分は『しなければならない』と思って、行動を起こすこともありますが、長続きしないで、途中で止めてしまうこともあるでしょう。『やるだけのことはやったから、後は仕方が無い』と、開き直ってしまうこともあるでしょう。

昨年も話題にしましたが、SDGs(エスディージーズ:Sustainable Development Goals 持続可能な開発目標)という言葉が掲げられるようになりました。国連サミットで採択された、2016年から2030年までの国際目標です。改めて世界は、一つの国、一つの民族、一個人だけの問題で済ませると思って来たものが、実は済まされないと気付かされて来た。環境問題、政治宗教、人権、生物多様性、そして感染症。みんな世界共通の問題で、一地域だけの問題にはならない。自分だけが、そこから逃げることは出来ない。言わば一蓮托生だ。しかも一時では解決し得ないものです。継続して抱えて行かなければならない問題です。ですから、持続可能な世界の実現として、17のゴール・169のターゲットを定めるのです。これは地球上の『誰一人として取り残さない』ことを誓っての目標なのです。キリストが『わたしにしてくれた』と語られるのは、今私たちが『誰一人として取り残さない』という目標を持つことを、まさに先取りする言葉です。キリストは既に、全てを見越して、持続可能な世界を実現するためにも、キリストの教会を通して、先頭に立たれている。単なる正義感や一部のボランティア精神に任せてしまう課題ではないのです。SDGsなんて聞きますと、何だか遠いところの、返って自分には無関係な問題のようにも響いてしまいます。しかしよく見てまいりますと、実は、自分たちの身の回りに一杯あって、その『17のゴール・169のターゲット』に全て含まれていると気付かされるのです。そしてそれらはみんな、キリストから『わたしにしてくれたこと』と、おっしゃっていただけるものばかりです。

貧困をなくそう飢餓をゼロにすべての人に健康と福祉を質の高い教育をみんなにジェンダー平等を実現しよう安全な水とトイレを世界中にエネルギーをみんなに、そしてクリーンに働きがいも経済成長も産業と技術革新の基盤をつくろう人や国の不平等をなくそう住み続けられるまちづくりをつくる責任、つかう責任気候変動に具体的な対策を海の豊かさを守ろう陸の豊かさも守ろう平和と公正をすべての人にパートナーシップで目標を達成しよう、これらが17のゴールです。一見すると、あれもこれもと、盛りだくさんのようですが、それだからこそ、すぐ目の前にも、ターゲットが置かれてあるのです。

『わたしにしてくれたこと』とおっしゃっていただける生き方を、キリストの教会によって、キリストが先頭に立って下さいますから、私の身の回りからそのゴールに向けて、たとえ小さくても、立ち止まることがあっても、また一歩を踏み出させていただこうではありませんか。

顕現主日

『この方が神を示された』ヨハネ1:10-18

キリスト教会独自のカレンダーでは、毎年1月6日が主の顕現日と呼ばれます。クリスマス降誕劇に登場する、東からやって来た三人の博士たちが、飼い葉桶に眠る乳飲み子のイエス様に出会った日とされているわけです。こうしてユダヤ人以外の異邦人に、初めて救い主イエス・キリストが顕現された日として、ユダヤ人だけでなく、全ての人のための救い主であることが顕現されたわけです。そしてこの週の日曜日が、本日の顕現主日と定められています。

ユダヤを越えて異邦人世界へと、いわゆるキリスト教が広まることが、既に先取りされているということです。実際に拡げられて行くのは、イエス様が成人して、本格的な宣教活動を始められてからです。今日の異邦人への顕現は、宣教のための、本当に小さな第一歩ということでしょう。キリスト教が宣教される具体的な担い手は、神様から選ばれた人間たちです。今『神様から選ばれた人間たち』と申し上げましたが、よほど優秀な人間たちなんだろうなあ、と想像させられます。この『神様から選ばれた人間たち』というのが『教会』です。聖書の中で『教会』と訳されている元の言葉は、ギリシア語で『エクレシア』と発音します。語源に忠実に訳せば『呼び集められた者』ということです。ですから『教会』とは『呼び集められた者たちの群れ』ということになります。

それにしても、神様が呼び集めた者たちなんだから、やっぱり、優秀な人たちなんだろうと、しつこく思ってしまいます。そんな教会について、宣教の担い手の一人とされたパウロという人が、聖書の中で次のように告白しています。パウロが宣教して、既に建て上げられていた、今のギリシアにありますコリントという町の教会に、パウロが宛てて書いた手紙の中です。1コリント1章26-31節『兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。・・それは、だれ一人、 神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。誇る者は主を誇れ、と書いてあるとおりになるためです』。

パウロは自分自身のことも、他の手紙の中で次のように告白しています。彼もまた、色々な破れを抱えていたことが伺われます。ガラテヤ1章13-24節『あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。・・その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている、と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました』。人間的な思惑を越える神様の導きに、委ね切った姿が伺えます。

パウロに限らず、ユダヤ教的背景を持った者たちが、キリスト教を宣教するには、心身共に悩み苦しんだこともあったでしょう。『何故今更、イエスなのか。これまでの神とどこが違うのか』。またユダヤに留まらず、ギリシア・ローマの世界にも宣教して行くわけです。そこにもたくさんの神々が存在します。ギリシア哲学とも言われるように、進んだ精神世界を構築している地域です。そこに新たにイエス・キリストの神を宣教して行くわけです。よほどの確信と覚悟が要求されます。そう考えますと、パウロが告白しているように、もはや人間業ではなし得ない宣教です。神の導きに委ねざるを得ないのです。先ほど1コリント1章26節以下を引用しましたが、そのすぐ前の所には次のように記されてあります。1コリン1章21-25節『世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです』。ここで『わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています』と告白していました。ユダヤ人にとって、木に吊るされる者は、神に呪われた者だとしていました。ですから、十字架上のイエスを神とすることなど、つまずき以外の何物でもない。またギリシア・ローマの世界では、神は死ぬことがないから神であって、神が死んだと宣教するキリスト教は、まさしく愚かなことなのです。宣教は、あらゆる人間的な常識や伝統や習慣を越えて、進められるのです。

今日のヨハネ福音書は、紀元90年頃に書かれたものです。パウロが活躍していた時代から40年程経過していました。それでも、ユダヤ教との確執は激しさを増していました。またギリシア・ローマの世界の中で、その地方の土着の宗教や哲学の影響を受けた、後にキリスト教異端と呼ばれるグループとの論争も生まれていました。そんな中で、動揺せずに、この真の主なる神につながり続けよと、ヨハネ福音書は語り掛けるのです。この福音書の最後の方で、書かれた目的についても、次のように記しております。ヨハネ20章31節『これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである』。

ヨハネ福音書1章1-3節『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によって成った』とあります。旧約の創世記1章の、天地創造の神を思い起こさせます。まさしく私たちが信じるイエス・キリストの神こそ、天地創造の神様だとヨハネはまず指し示す。あたかもユダヤ教を意識しているかのようです。そしてここで『言』とあります。ギリシア哲学ではこれを『ロゴス』と呼んで、神と人との媒介者のように扱っています。しかし言わば会話のための手段に過ぎない、抽象的概念的なのです。ところがヨハネは『言が肉となって、わたしたちの間に宿られた』と言います。つまり『言』こそ、イエス・キリストだと指し示す。イエス・キリストは、もちろん私たち人間と会話をして下さる。しかし単なる会話のための手段、というものではない。観念のようなものではない。『あなたと私』として、口先だけでなく、私たちの内面の、心の奥深くまでも入り込んで下さる。そして、何も声を発しなくても、会話もして下さる。そしてまた何より、今日の箇所の最後の所で、ヨハネは次のように記します。ヨハネ1章18節『いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである』。神を見て、神を知る事が出来るのは、ただイエス・キリストを通してのみだと言います。これは今も、様々な価値観や主義主張に揺り動かされて、疑いや迷いを抱かせられる者にとっては、大きな慰めとなり希望になります。

 主よ、新しい年も、あなたから離れることなく、あなたの言葉に、身も心も委ねて、応えてまいります。

主の洗礼日

『わたしの愛する子』ルカ3:15-22

キリスト教会独自のカレンダーで、先週は顕現主日でした。ユダヤ人以外の異邦人に、初めて救い主イエス・キリストが顕現されたことを記念しました。それはユダヤ人だけでなく、全ての人のための救い主であることが顕現された、ということでした。そして、顕現主日の翌週は、必ず本日のように、主の洗礼日と呼ばれる主日になります。異邦人への、飼い葉桶に眠るイエス様の顕現は、いわゆるキリスト教が広まって行くための、本当に小さな第一歩だと、先週も申し上げました。そして、実際にキリスト教が拡げられて行くのは、イエス様が成人して、本格的な宣教活動を始められてからです。その出発点が、本日の、イエス様が洗礼を受けられたという出来事になるわけです。

今日のイエス様の洗礼の場面で、聖霊がイエス様の上に降ったと記されてあります。神の霊のことを聖書では聖霊と呼んでいます。人は神の霊すなわち聖霊を受けて、神様が働かれる器として生きる者とさせられるという。創世記2章7節で、神様が土の塵から人を形作って、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きる者となったと記されてあります。この『命の息』も聖霊のことです。生きるとは神の器になる。こんなふうに言いますと、今日の場面でのイエス様も、人間としてもう一度聖霊を受けて、神の器として生きる者になるのか。そうやってこれから、全ての人も『神の器として生きる者』になるように、人々を導いて行くんだと考えられます。もちろん、そういう側面もあるでしょう。そしてむしろ、そういうイエス様だからこそ、私のような人間にも、ぐっと身近になるような気もするのです。

更に今日のルカ福音書は、イエス様が洗礼を受けた時、天からの声が聞こえたと言います。どんな声かと言うと『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』。イエス様は『神の子』だという。そうすると、イエス様は人間というよりも、神様なのかなとも思います。もっとも、私たち人間だって、神の子と、聖書の中で呼ばれることもあります。イエス様も、そういう意味での『神の子』とも考えられます。そんなふうにも考えて行きますと、イエス様はどこまで行っても、私たち人間と、一体感があるお方だなあ、と思います。

そこで今日の福音書の前半では、バプテスマのヨハネの事が記されてあります。イエス様の、いわゆる露払い役として、人々に悔い改めの洗礼を授け、イエス様の登場を前触れする役割を担う人物です。その彼が言います。ルカ3章16-17節『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』。民衆はヨハネの振る舞いから、待ち望んでいたメシアは、バプテスマのヨハネではないかと心の中で考えていました。しかしヨハネは、そんな民衆の思惑を、真っ向から否定します。後から登場されるイエス様が、そのメシアであることを指し示したわけです。特にヨハネの言葉の後半は、麦と殻をより分けるように、全ての人間を最後の裁きの座に置く方だと暗示しています。このヨハネの証言に従えば、イエス様は単なる人間ではないようです。まさしく神の子であり、神だと聖書から聞かされます。しかし先ほども触れましたが、イエス様は私たち人間との一体感があるというのは、それもイエス様の真実だと示されます。

ヨハネはこの後、ユダヤの領主ヘロデに逮捕されたと聖書は記し、続けてイエス様の洗礼の出来事を記しております。そして、民衆の中にイエス様もおられて、洗礼を受けたということです。誰から受けたとは記されてありません。民衆も受けていたんだから、当然、イエス様もヨハネから受けたはずです。しかし今日のルカ福音書の書き方からすれば、ヨハネが逮捕されて、それからイエス様は洗礼を受けた。ヨハネがイエス様に洗礼を授けられるはずがない。どのように辻褄を合わせれば良いのだろうか。時間的な順序は、無視すれば良いということか。しかし何故、ルカはこのような書き方をしたのか。意図があればその意図を探りたい。そこで、こんなふうに考えます。イエス様と共にいた民衆は、この時にイエス様による聖霊と火の洗礼を、結果的に受けることになったのではないか。イエス様による洗礼は、あたかもイエス様が授ける側に立っているのではない。授けられる者と一緒になって、一緒にヨルダン川に沈んで、一緒に起き上がる。そうやって聖霊と火が注がれる。ですからこの時の民衆も、やっぱり『神の子』になる。神の器としてもう一度生きる者になるのです。時間的順序を無視して、この洗礼の場面にヨハネがいたとして、見た目はヨハネが洗礼を授けているとしても、授ける人間がだれであれ、その人は単なる授ける道具でしかない。ここに時間的順序を無視した、ルカの意図が示されるのです。そしてこれが、イエス・キリストのお名前による、聖霊と火の洗礼なのだと示されます。

もう一つ、今日のルカ福音書3章18節では『ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた』と記されてあります。ここの『福音』とは何か。イエス・キリストそのものだとか、イエス・キリストの十字架の死と復活の業だとか、イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の命とか言われます。今日のヨハネが言う福音とは『聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』との言葉の中に示されるのです。当時のユダヤの脱穀の仕方は、収穫した麦を一面に敷き詰めて、棒で打ったり、重いギザギザの付いた板を馬に引きずらせて、麦の上を歩き回らせるのだそうです。そうやって麦の中身と殻を分離させて、今度はそれらを箕ですくって空中高く放り投げる。麦の実の方は重いのでその場に落ちます。殻は軽いので風に乗って飛ばされて行く。そんなことを何回も繰り返して、麦ともみ殻とが分けられて行くのだそうです。この作業に時間をかければかける程、純粋に麦と殻が分けられて行くはずです。間違って、麦が焼かれる事は、限りなく減って行く。聖書では風という言葉と霊という言葉は全く同じギリシア語で『プニューマ』と発音します。イエス様による聖霊と火の洗礼は、ただ一回です。そうでありながら、このような時間をかけた作業が暗示する、丁寧な神の働きが、その人の中に続けられて行くのです。あたかも、間違って麦の実が焼かれることが無いようになるまで続けられる。ここに『福音』が示されます。もちろん、棒で叩かれるとか、馬やギザギザの板で踏みにじられるとか、それらが暗示するような苦難に遭うこともある。でもそれらは、むしろ結果的に必要不可欠なものになるのかも知れません。でも出来れば、そのような苦難には遭いたくありません。ですから遭いたくないと祈っていいと、イエス様は主の祈りの中で教えて下さっています。

神の器として生きる者と言えば、バプテスマのヨハネもまた、その働きから、既にイエス様による聖霊と火の洗礼を、先取りしていたのではないかと示されます。民衆の評判に乗っかれば、彼はメシアとして名声を博す事が出来たのではないか。また時の権力者のヘロデの悪事を忖度して、権力を自分のために利用すれば良かったのではないか。逮捕された後、結局彼は首をはねられる事になります。そんな悲惨な結末を迎えることは、防げたのではないか。しかし彼は、徹底的に神の器に徹して、生きる者であり続けたのだ。

今私たちは改めて『生きる』という事の意味を、問い質されているのではないでしょうか。自分本位に、自分中心に、あるいは仲間中心に、生きようとしてしまう。そう出来ると思い込んでしまっている。そんなふうに生きることが出来るようにと、神様にまで祈り願い、神様を利用することになってしまっている。せいぜい人様に迷惑をかけなければそれで良いと思っている。本当にそういうふうに生きるのか。それが出来るのか。『生きる』は神様あっての『生きる』だと聖書は言っている。でもそれは、一部の人たちの思い込みに過ぎないと言う人も少なからずいる。

キリストの教会によって、何が本当の『生きる』なのか、その道を歩ませて下さい。

顕現後第2主日

『そのとおりにして』ヨハネ2:1-11

 今日の福音書の場面は、ガリラヤのカナという町で婚礼があり、イエス様とその弟子たちも招かれたというところです。イエス様の母マリアもそこにいた。聖書はマリアが『そこにいた』と記していて『招かれた』とは言っていません。それで、全くのお客さんとして婚礼の場にいたわけではなくて、何らかの役割があったのかなとも想像させられます。実際にこの後、婚礼に出されるぶどう酒が無くなったことをマリアが心配して、イエス様に相談した場面があります。親戚か特別な知り合いの婚礼だったのか、単なるお客さんではない振る舞いのようです。

 ところでイエス様の弟子たちも招かれたということですが、その中にカナ出身の弟子もいたと思われます。ヨハネ21章2節に、弟子のナタナエルがカナ出身だと記されてあります。そのナタナエルとイエス様が、今日の福音書の箇所の直ぐ前のところで、会話をしているのです。その内容は次のようなものです。ナタナエルは、先に弟子になった知り合いのフィリポから『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ』(ヨハネ1:45)と聞かされます。そうすると彼は『ナザレから何か良いものが出るだろうか』(1:46)と答えます。ナザレという地名と救い主メシアとが関係する記事は、旧約にはありません。またナザレが位置するガリラヤ地方は、ユダヤ全体からすれば北方の辺境地で、しばしば異邦人の侵略を受けました。ですから、宗教的汚れを問題にする、正統派ユダヤ人からは、そこに住む人々は、差別的に扱われる傾向もあったようです。しかもフィリポは『ヨセフの子イエスだ』と伝えました。カナとナザレは同じガリラヤ地方の町です。もしかしたらナタナエルは、ヨセフの事を知っていたかも知れません。ですからナタナエルが『ナザレから何か良いものが出るだろうか』というのは、普通に考えられる常識的な見解です。

 ところがそんなナタナエルのことを、イエス様は出会う前からよく知っていたという。出会う直前にも何をしていたのか言い当てられました。それでナタナエルは一転して『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』(ヨハネ1:49)と答えたわけです。そんなナタナエルの反応を、イエス様は否定しません。むしろナタナエルの一途な正直さを受け入れて下さっている。そして『信じる』ということは、どういうことなのか、考えさせるのです。何か奇跡的なものを見たから『信じる』というのは、それでいいのか。見るにしても、何を奇跡とするのか。見るべきものが違うのか。人間はどうしても、理屈や常識の延長線上で、物事を判断せざるを得ません。そこから大きく外れれば、それを奇跡と思うのでしょう。しかしそんなあり得ないと思う奇跡も、結局は人間が好んで求めるようなものも多い。人間が好んで期待するような奇跡を、奇跡とするのは、何だか人間的過ぎるようにも思います。奇跡に対して、人間が野次馬的になっている。それでよいのだろうか。そんな問いを余韻として、今日の『カナでの婚礼』の出来事に場面は移るのです。

 冒頭で申し上げましたが、出席した婚礼の最中にぶどう酒が無くなった。母マリアがイエス様に相談した。この時のイエス様の返答に、まずびっくりしました。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』。随分と、母親に対して、冷たい返事だなあと思いました。そう思ったのは、母に対する子の在り方は、こうあるべきだ、というものを自分が持っているからでしょう。更には、イエス様ともあろうものが、こんなやり取りをするのかと、イエス様に対しても、イエス様はこういうお方のはずだと、自分なりのイメージを抱作り上げているからでしょう。そうふうに自分を見つめ直しますと『こうあるはずだ、こうあるべきだ』というものが、結構、色々な場面で出て来るなあと考えさせられます。そう言えばあのナタナエルも、同じようでした。一方イエス様にして見れば、普段から自分が抱き続けている問題意識を、ただ口に出しただけの事なのかも知れません。もちろんそれを聞く側には、理解不能なことも多々あったと思います。ところがそんなイエス様に接した母マリアが、召使たちに告げた言葉も印象的です。『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』。この言葉は『こうあるはずだ、こうあるべきだ』というものを、まず捨てなさいと言われているようにも聞こえます。言いつけられた言葉に、自分の先入観から『何でそんなことをするの。無駄でしょ』と思ってしまうことがあります。しかし『そのとおりにしてください』との言葉で、とりあえず『そのとおりにしましょう』と思う。それで、何か支障があったとしても、自分には責任は無い。言いつけた人が責任を負うはずです。

 召使たちは当然と言えば当然でしょうが、言われるままに水ガメに水を満たして、宴会の世話役の所に運びました。そして水の味見をした世話役の言葉に注目させられます。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました』。この後続けて聖書は『イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた』と記しております。ここの『しるし』とは奇跡の事です。今日の聖書が示す奇跡とはどれか。これを読む読者は大方、水がぶどう酒に変わった事だと思うでしょうか。それにしても、普通は、聖書の中に登場する人物が、奇跡を目の当たりにして、それを驚く光景が描かれると考えます。ですから、今日の場面で言えば、まずは召使が驚いたり、時間差で花婿や世話役が驚いてもおかしくはありません。ところがこの場面では、ぶどう酒に変わった事を驚く人間は、一人も描かれていないのです。『それで、弟子たちはイエスを信じた』とありますから、弟子たちは密かに、あるいは時間を置いて、ぶどう酒の奇跡を驚いた、という事でしょうか。いずれにしても、この場面での、いわゆる奇跡に対する静けさは、一体何だろうか。

 この静けさは、むしろこれを読む読者に対して、改めて奇跡とは何かを考えさせるようなのです。先ほどから、水がぶどう酒に変わった事を奇跡だと、話を進めておりますが、それだけだろうか。イエス様は冒頭でおっしゃられました。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』。あたかも本当の奇跡はまだこれからだと、言わんばかりにも聞こえます。そこでもう一度、世話役の言葉に立ち返ります。よほど何回も婚宴に立ち会った事があるのでしょうか。良いぶどう酒を今まで取って置くなんて考えられない。この花婿は、自分たちと全く違う価値観に生きていると思ったのでしょうか。もちろん花婿は、そんなことを意識しているはずはない。ただ道具として用いられたに過ぎない。実はここに、今日聖書を通してイエス様が明らかにする、奇跡が示されているように思うのです。しかもイエス様ではなく、花婿に目が向けられている。人間が用いられて、人間を通して、普通とは全く異なる価値観が現わされている。聖書は『その栄光をあらわされた』と記しています。神の栄光です。栄光とは神の臨在を指し示すものです。今日の場面では『良いぶどう酒を今まで取って置かれました』という、全く異なる価値観に出会い、そこに神の臨在を知らされ、神の栄光を知らされたのです。

 今日の第二日課は1コリント12章からですが、聖霊によって、色々な賜物が与えられている事を伝えています。そしてその賜物は、この自分と言う土の器に与えられている事を、著者のパウロは今度は、2コリント4章1節以下で次のように告白します。所々引用します。6,7,14-15節『闇から光が輝き出よ、と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。・・主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです』。 

『神に栄光を帰す』これこそ、神の奇跡の価値観を現わす器として用いられる事です。このことを『弟子たちはイエスを信じた』と、今日の最後に聖書は記すのでしょう。そして弟子たちは、今日のその時に信じたのか。それとも後になってからなのか。どちらにも考えられるでしょう。ナタナエルがカナ出身と記されているのは、復活されたイエス様が現わされた時でした。それはまさに、人間の価値観を超える出来事です。ナタナエルはそれから、復活のイエス様を証しする弟子とさせられて行った。そして私たちもそのようにイエス様を信じる群れになるのです。

顕現後第3主日

『あなたがたが耳にしたとき』ルカ4:14-21

 今日の福音書の箇所は、イエス様がこの地上での伝道活動の第一歩を、実際に踏み出された頃の事を記します。冒頭の4章14節では『イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた』とあります。この霊というのは、いわゆる聖霊のことです。ルカ福音書は特に、イエス様と聖霊を結び付けます。ルカだけが記す、母マリアの受胎告知の場面では、マリアは聖霊によって身籠ることを伝えていました。そして、これはルカ福音書だけではありませんが、イエス様は聖霊と火でバプテスマを授けると言われました。実際、イエス様のバプテスマは、授ける側には立たず、授けられる者と共にバプテスマを受けます。その時、聖霊が天から降ると聖書は記しております。そして今日の福音書のすぐ前の所ですが、イエス様は聖霊に満ちて、荒れ野で悪魔から誘惑を受

けられたとあります。

 そんな聖霊と共にあるイエス様が、具体的に伝道の第一歩を踏み出された場所はどこか。今日のルカ福音書は礼拝の場だと伝えます。4章15節『イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた』とあります。ユダヤの人々は会堂と呼ばれる集会所で、礼拝を守っておりました。4章16節以下では更に具体的に、どんなふうに礼拝が守られていたのか、その一端が伺われます。開会祈祷、十戒の暗唱、聖書朗読、詩編賛美、聖書の講解説教、祝福という礼拝の構成要目があったようです。朗読聖書は二つあって、まず律法の書が読まれ、続いて、それに付随した預言の書が読まれたようです。礼拝の日に、特別な来訪者がありますと、その人に聖書朗読と説教を依頼することもあったということです。今日の福音書では『イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた』ということですので、その日の言わばゲストスピーカーとして、イエス様は依頼されたのでしょう。当時の聖書は巻物状でした。イザヤ書の巻物を渡され『お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった』ということです。ルーテル教会でも同じですが、聖書の箇所は読む人が選ぶのではなく、しかるべき機関で定められた日課に、原則、従います。それを礼拝毎に読んでいるわけです。この日のイエス様も、そんな聖書日課に従って読んだ、ということでしょうか。

 その日の預言の書は、イザヤ書61章1-2節でありました。4章18節『主の霊がわたしの上におられる』。まさにあのルカ3章21節以下に描かれておりました、イエス様の洗礼の場面を思い起こさせます。そしてイエス様こそ改めて、あのイザヤが預言していた、人々を救いに導く人物であることを、この礼拝の場でも聖書が証ししていると言うのです。それからイエス様は、このイザヤ書から講解説教をされました。4章21節『そこでイエスは、この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した、と話し始められた』。そのイエス様が強調する聖書の言葉とは『捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる』というものでしょう。そしてこの聖書の言葉が『今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と言う。

 そこでまず『今日、あなたがたが耳にしたとき』という、この言葉に注目させられます。それは『主の恵みの年』という言葉と関連するからです。これは『ヨベルの年』ことだと言われます。この『ヨベルの年』の事については、旧約のレビ記25章に詳細に記されてあります。ヨベルとは雄羊の角のことで、角笛に利用します。ヨベルの年には、この角笛を吹き鳴らすので『ヨベルの年』と言うわけです。モーセの指導の下に、エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人は、そこを脱出し約束の地カナンを目指しました。その途中のシナイ山で、十戒に代表される律法を与えられました。その律法の中に『ヨベルの年』の事も規定されてありました。次のようなものです。レビ記25章から所々引用します。レビ記25章2-4,8-10節以下『・・あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。・・あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。・・この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である』。ここの『全住民に解放の宣言』というのは、具体的には、奴隷の解放、土地の返還、借金の帳消し、と言ったもののようです。人間生活が続けられて来た中で、様々の格差や差別が生じます。それらをもう一度無しにして、全てが神のものであり、全ての人間が神の前に平等であることを、再確認するということです。

 ではその『ヨベルの年』を数える、起点になる年はいつか。このレビ記25章2節に従えば、最終的に約束の地カナンに入った頃になります。紀元前1250年~1200年と言われます。がしかし、いずれにしましても『この年』という、起点の年を指す記述が無いのです。ですから、安息の年もましてやヨベル年も、いつになるのか定かではない。あるいは実際に、行うべき、様々な格差是正と言ったことは為されなかったとも言われます。ヨベルの年が、形骸化していたのかも知れません。そんな背景を考えた時、ルカ4章21節『そこでイエスは、この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した、と話し始められた』という言葉は、実に画期的なことになります。しかも『今日、耳にしたとき』ですから、2022年1月23日の今日、あなたが耳にしたとき、それがあなたにとっての『ヨベルの年』になると、聖書は言うのです。

 イエス様は礼拝の場で、神の言葉に働くイエス様の聖霊によって、あなたにとっての『ヨベルの年』を宣言される。貧しさからの解放、身体的不自由からの解放、政治的圧迫からの解放、そして悪魔による圧迫からの解放。悪魔と言いましたが、別の言い方をすれば、長い人間の歴史を経て培われて来た、人間的理屈、人間中心の常識や原理原則、目に見えるものの絶対化、これらのことから外れるが故に起こされる恐れや不安、それらからの解放です。『悪魔による圧迫からの解放』と言えば、今日の福音書のすぐ前の所は、まさにその悪魔からイエス様が、三度に渡って誘惑を受けられた場面です。3月6日の四旬節第1主日にも、与えられている福音書の箇所です。少し見て見ます。まず空腹のイエス様に向かって、神の子なんだから石をパンに変えたら、という誘惑です。イエス様は『人はパンだけで生きるものではない』とおっしゃられております。その通りなのでしょう。でも実際問題として、パンも必要です。常識的には、生きるために必要だからです。次の誘惑は、悪魔を拝めば、権力と繁栄を与えるという誘惑です。でも拝んだふりでもして、心の中では舌でも出していればいいのではないか。いずれにしても権力と繁栄が持てれば、常識的な正義だって作り出せるでしょう。三つ目は、高いところから飛び降りても、神様は助けて下さるという誘惑です。神様を試してはならない、とイエス様はおっしゃられます。でも自分では、試しているのではなく頼っているつもりです。イエス様に色々とお願い事をすることがあります。そういうことで、イエス様を試していると言われたら心外に思えて来ることもあります。これらは悪魔の誘惑と聖書は言いますが、人間が普通に考えて、願い求めていることではないでしょうか。そう言えば、今日の詩編19編13-14節には次のように記されてありました。『知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し、支配されないようにしてください』。

 キリストの教会の神の言葉に働くイエス様の聖霊によって、隠された罪、そしてそれに伴う不安や恐れから、こんな私を完全に解放して下さいます。

顕現後第4主日

『恵み深い言葉に驚いて』ルカ4:21-30

 今日の福音書の箇所は、先週の福音書の箇所の続きになります。イエス様が、具体的に伝道の第一歩を踏み出された場所は、礼拝の場だと申し上げました。礼拝ですから、祈りがあり、聖書朗読があり、聖書の解き明かしがあります。今日の箇所にも与えられておりますが、冒頭の箇所ルカ4章21節でイエス様は次のように語られました。『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』。ここでイエス様は、全ての出来事に先行して、聖書の言葉があると、宣言されるようなのです。言葉があり、それを受け入れて、それから出来事としての『しるし』と呼ばれる奇跡の業もある。改めてキリスト信仰とは何かと言えば、全てに渡って、言葉が先行するという信仰です。そう言えばヨハネ福音書1章1節以下には次のように記されてあります。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった』。今日も私たちは、こうして一週間の始まりに際して、礼拝によって神の言葉に与ります。そしてこれから起こされるであろう、一週間の様々な出来事に与るのです。その他にも、教会役員会の始まりの際には、必ず聖書の言葉に聞いています。附属幼稚園でも、毎朝、聖書日課を用いて、聖書の言葉に聞いて、それから一日の園活動に与っています。みんな先行する神の言葉に与って、その後の出来事に直面するのです。言葉があり、それを受け入れるか受け入れないかで、出来事の受け留めが違って来るのです。

 そこで今日の福音書はまず礼拝の中で、イエス様による聖書の言葉の解き明かしを聞いた時の、人々の反応を記しております。ルカ4章22節『皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて』とあります。まずイエス様の言葉に驚いたのです。『恵み深い言葉』だと言う。キリスト教会ではよく、『恵み』という言葉を聞きます。その意味は『受け取る側の状態如何に関わらず、ただ一方的に与える』という意味です。イエス様の言葉を聞いた、当時の人々は、自分自身を何とか神様に気に入られるように整えることを第一としていた。またそうするように教えられて来ていたのでしょうか。ところがイエス様の言葉からは、この自分自身がどうのこうのと心配するよりも、それを覆って包み込んでくれるような、神様の一方的な愛が、こんな私にも注がれている、そういう神様なのだと聞こえたのではないか。そう言えば今日の詩編71編2節は『恵みの御業によって助け、逃れさせてください』とあります。実はあの宗教改革者マルティン・ルターは、旧約の先生でもありましたので、この詩編71編もしばしば読んでいたのでしょう。同時にルターは修道士として、神様に認められるような自分を整えようと、必死で修行に励んでいたのです。それでも適わない自分に悩んでいた時、この詩編71編2節に出会いました。『恵みの御業』すなわち、神様からの一方的な赦しによって赦される、そのことを信じる信仰に立ち返らされたのです。その『神様からの一方的な赦しによって赦される』とは、だからあの十字架の死と復活のイエス様なんだと、改めてイエス様を救い主と信じる信仰に立ち返って行ったのです。そして宗教改革運動へと、広げられて行ったのです。イエス様は、十字架の出来事が起こされる前から、もちろんこの神様の本質を根底にして、聖書の言葉を教えられていたのでしょう。そしてその本質は一言で言えば『愛』なのです。今日の第二日課の1コリント13章がその『愛』を指し示してくれます。

 さて『恵み深い言葉』を聞いた人々は、そのまま、その言葉を受け入れて日常生活へと臨んで行けば良かった。ところが人々は、それが出来なかったという。何故、それが出来なかったのか。何が人々を妨げたのか。言葉は聞くだけで見えないものです。増してや神様も見えない。しかも言葉が先行するので、そこには直ぐには何も起こされていない。人は見えないものよりも、見えるものに動かされてしまう。目の前のイエスは『ヨセフの子ではないか』。見えるのは、大工の息子で、幼い時より知っているではないか。他でもやったように、ここでも行えるものなら、奇跡の業を見せてもらおうじゃないか。そうすれば、少しは尊敬してやってもいい。そういう、余りにも見えるものに依存する者には、本当のイエス様は分からない。

 そんな人々に向けて、この時イエス様は『預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』とおっしゃられて、旧約聖書にある二つの出来事を引用します。それは『故郷では歓迎されない』事の事例として、引用されているようですが、別の意図も見えて来るのです。まずユダヤ人の預言者エリヤが、異邦人の町サレプタに住む、一人のやもめの所に遣わされたという話です。列王記上17章に記されてあります。この中でエリヤがやもめにパンを求めます。しかし自分たちも食べるパンに事欠いているのに、エリヤにあげるパンは無いと言います。しかしエリヤは『まず私のためにパンを焼き、その後に自分たちのパンを焼きなさい』と言います。列王記上17章15-16節『やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった』。二つ目の事例は、シリア人ナアマンの皮膚病が、ユダヤ人の預言者エリシャによって癒されたと言う話です。これは列王記下5章に記されてあります。エリシャはナアマンに直接会わずに、ただ使いの者に言葉を託して『ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい』と言わせたのです。ところがナアマンは思った。エリシャが直接自分の所に来るべきではないか。更に、神に祈り、患部に手をかざして、目に見える、それなりの癒し行為をするべきではないかと怒ります。しかし彼の家来が言いました。列王記下5章13-14節『わが父よ、・・あの預言者は、身を洗え、そうすれば清くなる、と言っただけではありませんか。ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった』。

 イエス様はこの二つの事例を『預言者は、自分の故郷では歓迎されない』事として、引用されたようです。がしかし、実際の聖書の中では、直接的に歓迎されていないという言葉は記されてありません。それよりも、この二つの事例に共通するのは『語られた言葉の通りにした』というものです。言葉を聞いて、その通りに出来るか出来ないかは、まず自分のこれまでの経験や、常識や、理屈に基づいて、目に見える結果が得られるのかどうかを類推します。得られないと思えば、聞いた言葉の通りにはしないでしょう。この二つの事例も、最初は理屈や経験から、言葉通りにはしなかった。しかしそれでも促されて、半信半疑でも言葉通りにしたら、思いもよらない『しるし』が起こされたのです。イエス様はこの事例からも、先行する神の言葉に信じる信仰を人々に問われたのです。

 この事例を聞いた人々は、ユダヤ人である自分たちの誇りが、傷つけられたのでしょうか。また郷里の人間に対する無礼にも、憤慨したのでしょうか。イエス様を崖から突き落そうとしました。しかし『イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた』と、聖書は最後に記しております。目に見える力づくで、人々はイエスに危害を加えようとしました。がしかし、イエス様は何か目に見えないものによって、人々の手から逃れたかのようでした。まさに聖書は、目に見えるものではなく、見えないものの力と確かさを、浮き彫りにするようです。次の聖書の言葉が思い起こされます。2コリント4章18節『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです』。見えないものとはまさに、信仰と希望と愛です。

 主よ、先行するあなたの御言葉、信仰と希望と愛によって、今週も一週間、出会うであろう、善いことも悪いことも含めて、様々な出来事に与ってまいります。