からし種 398号 2022年7月

聖霊降臨日

『霊があなたがたと共に』ヨハネ14:8-17

今年のイースターは4月17日でした。その日から数えて50日目の本日が、聖霊降臨日と呼ばれます。約束されていた聖霊がこの日に降臨し、世界で初めてキリストの教会が誕生したことを記念します。この降臨の様子は、今日の第二日課使徒言行録2章1節以下に記されてあります。五旬祭の日に弟子たち一同が集まっていた。その時に、降臨の出来事が起こされたという事です。この五旬祭というのは『50日目の祭』という意味で、元々は小麦の収穫感謝祭のことだそうです。また後のユダヤ教では、この日をシナイ山で十戒が与えられた日として再解釈し、律法を感謝する日としたということです。ユダヤ教では、律法を守らない人間は罪人として断罪されました。しかしイエス様は罪人を赦し、律法を守ることが出来るように、人間を造り変えて下さいます。そんなイエス様の働きが、浮き彫りにさせられるように、敢えて律法を感謝するこの日に、聖霊が降臨されたのでしょうか。創世記2章7節にありますように、父なる神様の天地創造の御業の最後に、人間が創造されました。その際に、神様の息が吹き入れられ、人間は生きる者になったと記されてあります。この神の息が聖霊です。人間の創造に聖霊は関わる。そうしますと本日の聖霊降臨は、言わば人間の再創造という事になります。父なる神様の律法に従うように、再創造された。しかもそこには、人間一人だけではない。仲間がいる。これがキリストの教会です。

今日の福音書の箇所は、時間的流れで言えば、イエス様が十字架にかかられる前に、弟子たちにお別れの説教をされたと言われる所です。そしてその際に、聖霊の降臨を予告されておられます。ヨハネ14章12節『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである』。『わたしが父のもとへ行くからである』というのは、十字架に死んで、復活、昇天を予告するものです。そして天から聖霊が降される。その聖霊について今日の福音書は、次のように予告された。ヨハネ14章15-16節『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる』。ここの『わたしの掟』というのは、既にヨハネ13章34節で語られていました。『あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』。律法を感謝するこの日に、新しい掟という律法を、聖霊によって再創造された者たちの群れが、守るようになる。その聖霊の事を『別の弁護者』とおっしゃられています。これは『弁護士』とも訳される言葉です。キリストの教会は、弁護士という聖霊によって、永遠にイエス様と一緒に歩む群れです。

弁護士と聞きますと、色々な働きをして下さっておりますが、私なんかがまず思い浮かぶのは、いわゆる犯罪者に寄り添って下さる働きです。そしてキリストの教会にあっては、犯罪者とはこの私自身です。先週も申し上げましたが、ルーテル教会の信仰告白書の『アウグスブルク信仰告白』という書物の第7条で『教会とは全信徒の集まりであって、その中で福音が純粋に説教され、サクラメントが福音に従って与えられる』ところです。サクラメントとは、洗礼と聖餐の事です。このキリストの教会の洗礼と聖餐とによって、聖霊の弁護士さんが、相変わらず罪を犯してしまう犯罪人の私に、寄り添い続けて下さると知らされる。

毎週の礼拝の中では、信仰告白をします。今日は聖餐式がある日なので、ニケア信条を唱えます。それ以外の主日では、使徒信条を唱えています。マルティン・ルターが書いた『小教理問答書』の、使徒信条の項目第三条には、次のように記されてあります。『聖霊、聖なるキリスト教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを私は信じます。これはなんですか。答え、私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみ許に来ることもできないが、聖霊が福音によって私を召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰において聖め、保ってくださったことを。同じように聖霊は地上の全キリスト教会を召し、集め、照らし、聖め、イエス・キリストのみ許にあって正しい、ひとつの信仰の内に保ってくださる。このキリスト教会において聖霊は日毎に私とすべての信仰者のすべての罪を豊かに赦し、終わりの日には私とすべての死者とを呼び起こし、すべての信仰者と共に私にキリストにある永遠のいのちを与えてくださるのだ。これは確かに真実なのだよ』。『聖霊は日毎に私とすべての信仰者のすべての罪を豊かに赦し』とありますから、明らかにキリストの教会に連ねられている私は、相変わらず不信仰の犯罪者であることが前提になっています。だから聖霊の弁護士さんが、寄り添い続けて下さっている。

先程『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである』というイエス様の言葉を引用しました。『もっと大きな業を行うようになる』というのは、信徒の大きな群れの、キリストの教会の働きを予知しているようにも思います。しかしその群れは、相変わらずの不信仰の犯罪者の群れです。しかしそんな不信仰の犯罪者が、こうして礼拝に与り、神様を賛美しているのです。いや自分は嘘をついている。ここにいるべきじゃないと、思わざるを得ない。そんなふうに今も心の中で、思っている人もいるかも知れません。しかしそれでも実際、こうして礼拝に与っている。私はこれこそ『もっと大きな業を行うようになる』という、イエス様の言葉に示される『大きな業』の一つだと示されるのです。自分自身のことも言えば、実はつい先日、夜中にふと目が覚めて、過去の自分と出会った人々のことが、思い出されてしまいました。あんなにお世話になった人たちなのに、謝罪や感謝の言葉もなく、まさに立つ鳥、後を濁して来た自分。そんな自分が今こうして、キリストの体なる教会の一部分に、組み込まれている。犯罪者なのにキリストの体のために、働かせていただいている。

今、正義と平和が踏みにじられている、そんな声が聞かれます。その正義とは誰の正義なのか。誰の平和なのか。この人にとっては正義であり、平和であっても、あの人にとっては正義でも平和でも何でもない。どこまで行っても、全員が納得できる正義や平和には、出会えないと思えてしまう。であるならば『正義でも平和でも何でもない』と、傍観者のように評論しないで、むしろ『正義でも平和でも何でもない』そのただ中に、当事者として与って行くのが、こんな自分に相応しいのではないか。何もそこで、自分の正義や平和を振りかざすことも無い。そもそもそんなことも出来ない。しかしそこで、犯罪者なのにキリストの教会に連ねられる自分だからこそ、示された出来ることを果たして行きたい。ただ主イエス・キリストの掟に応えて行きたい。また、そうさせて下さいと、あなたのみ名によって祈り続けます。あなたの言葉にすがり続けます。先程のヨハネ13章35節では、イエス様は次のように言われました。『それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる』。

そしてヨハネ14章14節『わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう』。キリストの教会に感謝します。

三位一体主日

『あなたがたを導いて』ヨハネ16:12-15

今日は教会独自のカレンダーでは、三位一体主日と呼ばれる日曜日になります。これは先週記念しました聖霊降臨日の翌週に、必ず置かれる主日です。今日の箇所はヨハネ16章12節以下からですが、ヨハネ16章7節には次のように記されてあります。『しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者はあなたがたのところに来る』。『わたしが去って行く』というのは、イエス様が十字架に掛けられて死んで葬られて、三日目に復活して、それから天に昇られることを予告する言葉です。そうすることで、なお地上に残されるあなたがたの所には、弁護者が送られるというわけです。この弁護者が聖霊です。先週はその予告通りに、弁護者の聖霊が降臨して、キリストの教会が誕生したことを記念しました。聖霊を弁護者と呼んでおりますから、霊とは言っても人格的存在になります。そして今日のヨハネ16章13節には、次のように記されてあります。『しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる』。ここでは弁護者を真理の霊と呼んでいます。このことについても既にイエス様は、先週の福音書の箇所で、次のように予告されていました。ヨハネ14章16-17節『わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。・・あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである』。

今日の場面もそうですが、目の前の弟子たちに向けて、自分は十字架に死んでしまうけれども、それはあなたがたが見捨てられるわけではないから、心配するなと言うわけです。何故なら、死ぬと言っても、父なる神様の所に帰るだけなんだ。そこからまた弁護者であり、真理の霊である聖霊を送る。そして、キリストの教会が与えられる。そして教会を通して働かれる聖霊を通して、私はいつもあなた方と共にいるんだよ、というわけです。こうしてキリストの教会の誕生に至って、父なる神様と独り子のイエス様と聖霊とが、どのように人間に関わっておられるのか、それが知らされるのです。この三位一体の三位とは、あたかも神様が三つ存在しておられる、という意味ではありません。この神様の働き方を指し示すものです。その働き方としての三位一体について、詳しく考えさせてくれるのが、この礼拝の中で唱えられる信仰告白です。今日は使徒信条を唱えます。これについては先週も触れましたが、マルティン・ルターが『小教理問答書』の使徒信条の項目の中で、三位一体の神を次のように解釈しています。『父なる神としての働きは、天地万物の創造、そしてその被造物に必要なものを毎日与え、あらゆる危険から守ることだ。今も人間が生きるための食物や水や空気を与えてくれています。また人間を通して、国家や社会の仕組みが備えられ、法律も与えられて、安全に暮らせるようにしてくれています。ですからこれらは、言わば外面的な働きになるでしょうか。子なるキリストとしての働きは、すべての罪と死と悪魔の力から救うことだ。これは言わば内面的な働きになるでしょうか。聖霊としての働きは、キリストの教会の召し出しと、彼らを正しい、一つの信仰の内に保ち、日毎にすべての罪を豊かに赦すことだ』。これは外面と内面の統合的働きになるでしょうか。このように今やキリストの教会によって、三位一体という神様の働きに、与らせていただいているわけです。

それで今日の福音書の箇所で、一つ注目させられるのは、真理の霊は、真理をことごとく悟らせる、と記されてあります。ここで言う真理とは何か。それこそ三位一体という神様の働きであります。今日の福音書のすぐ前の所に、次のように記されてあります。ヨハネ16章8-11節『その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである』。ここに三位一体の神の働き、即ち真理が示されている。罪とはイエス様を信じない事だと言われます。では、イエス様の何を信じるのか。イエス様が本当に存在したかどうかを信じるのか。あるいは、存在したとしても、そのお方がメシアかどうかを信じるのか。メシアというよりも神様かどうかを信じるのか。いや、そういうことよりも、イエス様が行った、数々の奇跡のような業を、事実だと信じるのか。いずれにしても、知識として、それが本当かどうかを信じるということなのか。しかし罪ということだから、いずれにしてもイエス様と自分とが、深い関係の中に置かれているという、その事を信じるのではないか。そうすると、もう一度、先程の使徒信条の、子なるキリストの条項を見て見ます。そこではまず『そのひとり子、私たちの主、イエス・キリストを、私は信じます』と唱えています。そして、では何を信じるのか、それがその後に続いているのです。即ち『主は聖霊によってやどり、おとめマリやから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます』。これを、この自分に関わる出来事だと信じる時、私の罪は赦される。真理の霊がこれを導いて、悟らせて下さるというのです。

続いて義とは、イエス様を見なくなるということだと言われます。これは天に昇られて、神の右の座に着かれるから、復活のお姿さえも見えなくなる。これがどうして、義という、神の正しさだと言われるのだろうか。それは人間は、見えることを唯一の拠り所としてしまうものです。言わば見える事に、絶対的な正しさがあるかのように、振る舞いがちです。イエス様が復活された時、そのお姿に出会ったマグダラのマリアに語った、イエス様の言葉が思い出されます。ヨハネ20章17節『イエスは言われた。わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから』。見えるものを絶対視しようとする、人間の姿をここに見ます。更に弟子のトマスに語られた言葉も思い起こされます。ヨハネ20章29節『イエスはトマスに言われた。わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』。更にキリスト教会初期の伝道者、パウロの言葉も思い起こされます。2コリント4章18節『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです』。これが神の正しさ、義だと言う。

そして裁きとは、この世の支配者が断罪されることだと言う。これは自分は、支配者ではないからと言って、他人ごとには出来ません。これは人間的なものにより頼む者は、断罪されると聞きます。先日ある方が、大学の公開講座で遠藤周作について、学んでおられるとおっしゃられました。その講座の中で、遠藤さんの奥様の言葉が話題になったそうです。遠藤さんが、体中を管につながれて、延命治療を受けていました。ある時、奥様がもう全部外して下さい、と言ったそうです。一つ一つの管を外す毎に、遠藤さんの顔が穏やかになって行ったというのです。外し終わった時、これで遠藤は復活したと、奥様が言われたそうです。このお話しをお聞きして、私は思いました。一つ一つ外される管が意味するのは、人工的人間的なものが、一つ一つはぎ取られて行くことなんだ。それはまさしく、完全に100%、神様により頼む体へと変えられて行くことになる。だから『遠藤は復活した』と、奥様が言われたのではないか。

 キリストの教会によって、三位一体の神に導かれて、真理をことごとく悟らせて下さい。そうして復活の命に与らせて下さい。

聖霊降臨後第2主日

『恐れに取りつかれて』ルカ8:26-39

今日の福音書の箇所は、私たち人間が抱えているものの一端を、何か浮き彫りにさせるようです。それでまず、今日の箇所の直前の所を概観します。新共同訳聖書では『突風を静める』という、小見出しが付けられてあります。『湖の向こう岸に渡ろう』と、イエス様が弟子たちに提案したので、船出した場面です。この湖は、ガリラヤ湖の事です。ところが突風が吹き荒れ、舟が沈みそうになった。弟子たちは『おぼれそう』だと大騒ぎをした。しかしイエス様が『風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった』。イエス様は弟子たちを不信仰だと戒めた。『弟子たちは恐れ驚いて』イエス様は何者なんだと、互いに言ったということです。

ところで聖書では、ガリラヤ湖も海の一つに数えられていますが、とにかく海についての知識が乏しいので、海を恐怖の対象として、描く傾向にあるようです(詩編46:3-4,イザヤ17:12,エレミヤ49:23)。また海の深みに龍が住んでいて、そこを悪の根源と見なすこともあったようです(詩編74:13,イザヤ27:1)。そんな恐怖の対象である、ここではガリラヤ湖ですが、それこそそこに住む龍なのか悪霊なのか、そのせいで、湖が荒れ狂ったとも考えるのでしょう。そんな湖を静めたイエス様ですから、これはただ者ではないと思った。

そしてそんなイエス様が何者なのかが、今日の福音書には記されてあるのです。しかも悪霊が答えている。『いと高き神の子イエス』だ。ここは冒頭で触れましたように、湖の向こう岸になります。『ゲラサ人の地方』という事です。即ちユダヤ人にとっては、異邦人の土地です。現代のヨルダンの地になります。ですからこの日本も、異邦人の土地になります。そしてユダヤ人たちは、異邦人を異教徒として、宗教的に汚れた人間たちだと、見なしていました。海もそうですし、異邦人の土地も、悪の根源のような悪霊が住む世界だと、考えられていた。今日の福音書の箇所は、まさにその悪霊と対決するイエス様が、描かれるのです。そしてそういう意味では、舟に乗って湖に漕ぎ出した所から、既に悪霊との対決は、始まっていたのかも知れません。

さてその異邦人の土地に着くと『悪霊に取りつかれている男がやって来た』ということです。その男の人は、普通に考えれば、異邦人でしょう。そして『長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた』ということです。いわゆる町の人々との交わりは、困難な状況だった。それで、町外れの墓場に、隔離された状態に置かれてしまっていたようです。人々と交わりを絶たれているその男の人が、イエス様の所にやって来た。悪霊に操られているはずなのに、イエス様の所に来たという。この後の展開を読むと、悪霊はイエス様に会いたくないようですから、不思議なことです。どんな状況でも、その人にとって必要ならば、イエス様の招きは必ず備えられている、ということでしょうか。そしてイエス様が、汚れた霊に、その人から出て行くように命じられた。その時です。イエス様が何者なのか、語られた。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい』。あの弟子たちが分からないことを『いと高き神の子イエス』だと、悪霊が答えた。『かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい』というのは、悪霊自身の言葉なのか。それとも人間自身の言葉なのか。いずれにしても、恐れている言葉です。例えば人々との交わりを恐れる人間がいる。自分のしたいように生きたい。そして破滅的に、自分のしたいように、実行してしまう。それを周りの人間たちは、それは悪霊の仕業だと、言わざるを得ないのだろうか。何かを恐れることは、孤立や孤独を産み出すのでしょう。悪霊とは、そんなふうに人間を孤立させたり、孤独に追いやるものなのか。あの弟子たちも、湖を静めたイエス様を目の当たりにして、恐れ驚いた。それはまさしく、イエス様との絆と交わりが、絶たれてしまいそうな恐れと驚きの事態だ。だからそんな弟子たちのことを、イエス様は『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われたのではないか。

悪霊に取りつかれたその人に、イエス様は名前を尋ねられた。その人は『レギオン』と答えた。これはローマの軍隊の『軍団』を意味するものです。言わば『大勢』とか『たくさん』とでも訳しましょうか。ですから聖書は『たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである』と記すのでしょう。そしてこの時『悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った』ということです。この『底なしの淵』というのは、悪霊が閉じ込められる場所だと言われていた所でした。海を恐れるユダヤ人たちは『海の深みに龍が住んでいて、そこを悪の根源と見なすこともあった』と、冒頭で取り上げました。この更に向こうが『底なしの淵』という事かも知れません。そして悪霊はイエス様に願って、そこにいた豚の中に入ったという。その豚たちは、湖になだれ込んでおぼれ死んだ。

もしここで、イエス様が『底なしの淵』へ行けと、命令していたらどうなるだろうか。悪霊に取りつかれたその人もろとも、『底なしの淵』に行くことになるかも知れない。しかし『レギオン』という悪霊だからこそ、たくさんの豚の群れの中に入ることになった。社会からはじき出されている、たった一人の人間の価値と、たくさんの豚の群れとの価値と、どちらを取るのだろうか。イエス様はそのたった一人の人間を取られた。もちろん、たくさんの豚に死なれたしまった、豚飼いの人たちの経済的打撃は大きいだろう。その人たちの事は、イエス様は考えないのか、とも思ってしまいます。それでも考えさせられるのは、交わりとつながりを保つ、町の人たちだからこそ、助けを求める者に応えて行くものではないのか。大量生産、大量消費、快適、効率、便利の競争社会の中で、それこそ社会の片隅に追いやられてしまう、弱い人々の存在と、そんな社会の状況を改めて、考えさせられてしまいます。イエス様はどんな状況であっても、たとえ悪霊の真っただ中に置かれても、今も、たったの一人でも、弱い者の方に向き合っていて下さるのだろう。

人々は『悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった』という。更には、ゲラサの地からイエス様に出て行ってもらいたいと、イエス様に願ったという。何故なら『彼らはすっかり恐れに取りつかれていた』からだと言う。ここで興味深いことに、人々は『恐れに取りつかれていた』という。しかもイエス様に出て行ってほしいと願った。それはあの、悪霊に取りつかれた人が、イエス様に『かまわないでくれ』と言ったことと重なります。聖書は、恐れに取りつかれることは、悪霊にとりつかれることと、同じだと言っているようです。何故ならいずれも、イエス様との関りを拒否させるものだからです。だからイエス様は、聖書の色々な場面で、繰り返し『恐れるな』と語り掛け続けて下さっている。例えばルカ福音書の、ザカリヤ、マリア、羊飼いたちなど、イエス様誕生に関わった人々に『恐れるな』と、まず語り掛けています。更にこのルカ8章で言えば、ちょうど50節の所では、会堂長の娘が死んだと知らされた時『恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる』と語り掛けておられます。

最期に、悪霊を追い出された人が『お供したいとしきり願った』のに対して、応えたイエス様の言葉に注目させられます。『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい』。異邦人の土地に住んでいる、異邦人であるあなたが、あなたの地で、主イエス・キリストの神様が、あなたになさったことを、ことごとく話して聞かせなさい、と言うのです。それはまさしく、この戸塚ルーテル教会に繋げられている、こんな私にも向けられている、主イエス・キリストの言葉だと聞きます。

主よ、こんな私にも、して下さったことを話し聞かせ続けます。

聖霊降臨後第3主日

『わたしに従いなさい』ルカ9:51-62

今月の5日(日)は聖霊降臨日で、キリストの教会の誕生を記念しました。以後、教会独自のカレンダーでは、一年の終わりまで、日曜日は聖霊降臨後第〇主日と呼ぶようになります。教会カレンダーでは一番長い期節です。それは言わば教会の時が一番長い、ということになります。そして現実の今こそ、イエス様の再臨の時まで、教会の時が続いているわけです。今日はその教会の時の生き方、もっと言えば、教会を中心とした信仰生活について、聖書から聞いて行きたいと思います。

まず冒頭のルカ9章51節『イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた』とあります。これまでは故郷のガリラヤ地方を中心に、イエス様たちは活動して来ました。そしてここからいよいよ、ガリラヤを離れて、エルサレムに向かうということです。ここで今、聖書を読む者は、この51節の言葉が何を意味しているのかは、想像がつくでしょう。『天に上げられる』とは、十字架の死と復活と昇天のことでありましょう。『エルサレムに向かう決意を固められた』という表現は、十字架を覚悟するイエス様の、何か悲壮感のようなものも、伝わって来るようです。もちろん、その場にいた弟子たちにしても、ただならぬ気配は感じたことでしょう。しかし当時、ユダヤを支配していたローマに立ち向かうという、そんなふうにイエス様の決意を、弟子たちは肯定的に受け留めたんだろうと思われます。弟子たち人間が考えることと、イエス様が考えることには、大きなずれがあった。そのずれは、それこそ教会の誕生まで続くのです。更にそのずれは、今も私たちの中に、繰り返し沸き起こってしまう事を、今日、聖書から気付かされます。

今『ずれ』と申し上げましたが、実は、今日の福音書のすぐ前の所でも、そんな『ずれ』が既に描かれております。ルカ9章46節以下の所です。弟子たちが、誰が一番偉いのかを議論した時の事です。それに対してイエス様は言いました。『あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である』。最も大きな者が最も偉い者だというのが、人間の常識です。ですからここに大きな『ずれ』を感じさせられます。またその後の所、9章49節以下です。イエス様のお名前を勝手に使って、悪霊を追い出しているのを見た弟子が、彼らはイエス様に従わない者たちだからと言って、止めさせようした時です。しかしイエス様は、逆らわない者は味方だと言って、止めさせませんでした。色々な場面で、特権意識で優越感に浸る一方で、権利を持たない者が勝手に権利を利用する事に、異常に怒りを覚えてしまうことがあります。ここでもイエス様との『ずれ』を覚えてしまうのです。

そして今日の場面です。冒頭のような『ずれ』を引きずりながら、更に新たな『ずれ』が浮き彫りになります。エルサレムに向かうために、サマリア人の村に入った時の事です。サマリア人は元々ユダヤ民族ですが、過去にサマリア地方が異教徒の侵略を受けて、混血化が生じました。以来、エルサレムを中心とする正統派ユダヤ人からは、宗教的に汚れた人々として、彼らをサマリア人と呼んで、蔑むようになりました。そんな反目し合う関係の中で、サマリアの村にユダヤ人であるイエス様たちが入ったわけです。当然、反発を受けたのでしょう。それで弟子のヤコブとヨハネが『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言ったわけです。これはあくまでも、ヤコブとヨハネが火を降らせるわけではなく『イエス様、降らせて下さいよ』と提案した形です。と申しますのも、今日の第一日課は旧約の有名な預言者エリヤが登場しております。そのエリヤがかつて、天から火を降らせて、サマリアの王の軍隊を滅ぼしたという出来事がありました(列王下1:9-14)。弟子たちはイエス様も、あの有名なエリヤ級の預言者でもあるかのように、期待していたところもあったのでしょう。場所もちょうどサマリアです。『あのエリヤのように、天から火を降らせて、こいつらをやっつけて下さいよ』という魂胆だったのでしょう。ここにも『ずれ』があります。イエス様は『振り向いて二人を戒められた』のです。言う事を聞かない、どうしようもないやつは、もはや力づくでしか懲らしめられない、と思うのが人間です。『振り向いて』という表現に『違うんだよ』という、イエス様の強い思いも伝わります。あの十字架の出来事が指し示します。悔い改めと赦しによって、人を造り変えるのがイエス様です。まさに真逆な『ずれ』です。

そして次の場面では、いわゆる信仰に関わる事の故に、更に深刻とも思える『ずれ』を示されるのです。まずイエス様に対して『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人物が登場します。『ああ、なかなか熱心な人だなあ』と思います。今で言えば、私はイエス様を信じてます。教会の礼拝に毎週通いますと、申し出られた場面をイメージしてしまいます。牧師は喜んでしまうでしょう。ところがイエス様は、そんな熱心な意気込みを、挫くかのようなことをおっしゃられます。『あなたの意気込みもいいけれども、寝るところも無いような旅だらけなんだよ。あなた大丈夫かな』。そして『信仰は人間の側の意気込みや熱心さや能力によって、勝ち取るものではないんだよ』と、そんな声も聞こえて来るようです。ではどうやって信仰は得られるのだろうか。その答えが、次に登場する人物によって示されます。

今度はイエス様の方から『わたしに従いなさい』と言われた人物が登場します。しかし彼は『主よ、まず、父の葬りに行かせてください』と答えました。これに対して『神の国を言い広めよ』とイエス様はおっしゃられるのです。『わたしに従いなさい』というイエス様の呼びかけが、言わばある日突然に、一方的に投げかけられる。それに対して『ちょっと今は都合が悪いので、後にして下さい』とか『考えさせて下さい』とか、しかしそんな猶予は無い。この事態に直面したら、全てを中断して、イエス様の呼びかけを受け入れさせられる。この呼びかけに応えられるように、あらかじめ準備をしているとか、その呼びかけがいつ来るのか、前もって教えておいていただけるとか、そんなものではない。父の葬りは、当時のユダヤ人にとっても、とても大切な義務でした。しかも人の死もまた、突然にやって来るものです。人の死も、いわゆる終末的な出来事とも言えるでしょう。しかしそれよりも、イエス様からの呼びかけは、もっと重大な終末的出来事なのです。この呼びかけを信仰に置き換えます。信仰はある日突然に、一方的に臨んで来る。そしてそれを受けるだけなのです。何か準備して来たからとか、受けるに相応しくなって来たからとか、人にはそれは分からない。神の国という神の支配下に服すのです。それなりの葛藤も生まれるでしょう。それを受け入れさせられて行くのです。

3人目の人物は、イエス様の呼びかけにまず『主よ、あなたに従います』と答えました。しかし家族への信頼もぬぐい切れないでいる。あの宗教改革者のマルティン・ルターの言葉が思い出されます。『あなたが、今一番拠り所としているものが、それがあなたにとっての神なのだ』。イエス様はこの時『神の国にふさわしくない』とおっしゃられています。自分は何を一番の拠り所としているのか。改めて自分の信仰を吟味させられるのです。ある時はお金。またある時は地位や名誉。またある時は家族や友人。拠り所に揺れ動きながら歩んでいる。しかしこれが与えられた信仰によって生かされる、今の自分の信仰生活なんだろう。そして、教会生活なんだろう。

今日の第二日課のガラテヤ5章16節以下で、この手紙の著者のパウロは次のように言うのです。『わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。・・肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。・・キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです』。肉と霊との対立と言えば、自分と神様との対立と置き換えても良いでしょうか。そこで、毎月購読しているキリスト教雑誌の7月号の中に『平和を紡ぎ出す器として』というタイトルで、日本基督教団代々木上原教会の中村吉基先生の投稿文に目が留まりました。その中で『マイカルの祈り』というものが紹介されてありました。このマイカルと言う人は、2001年9月11日の米国同時多発テロの時に、ニューヨーク市消防局のチャプレンとして活動し、救援活動中に殉職したマイカル・ジャッジという神父様だそうです。このマイカル神父が、様々な事故現場に赴く際に、必ず祈る祈りがあり、それが『マイカルの祈り』と呼ばれて、同時多発テロをきっかに、更に世界中に有名になったという事でした。次のような祈りです。

『主よ、あなたが行かせたいところに連れていってください。

 あなたが会わせたい人に会わせてください。

 あなたが語りたいことを示してください。

 私があなたの道をさえぎることがありませんように』。

主よ、こんな私もあなたの道をさえぎることがありませんように、これからもキリストの教会によって、戒め導き続けて下さい。そうして救いの喜びに与らせ下さい。