からし種 402号 2022年11月

聖霊降臨後第17主日

『言うことを聞く』ルカ17:5-10

10月最初の主日です。10月と言えば、ルターの宗教改革を思い起こされます。今年は30日が記念主日となっております。そこで今月は改めて、信仰をテーマに、福音書から聞いて行きたいと思います。今日の箇所は小見出しが『赦し、信仰、奉仕』となっております。まずルカ17章1節から見ます。イエス様が弟子たちに言われました。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である』。『つまずき』と訳されているギリシア語は『スカンダロン』と発音します。英語の『スキャンダル』の語源です。意味は『わな・人を罪に引き入れる原因・信仰の挫折を起こすもの・信じる者に抵抗を引き起こすもの・人を不快にし憤激させるもの』と、辞書に出ていました。つまり、信仰の挫折を起こすものは、どうしたって、やって来るものだと言うのです。むしろ問題なのは、信仰の挫折を起こすものに対して、結果的に手引するように、協力してしまう者は不幸だと言うわけです。信仰の挫折を起そうなんて、さらさら思っていないでしょう。しかし気が付いたら結果的に、自分の言葉や振る舞いのせいで、周りに信仰の挫折をおこさせてしまった、ということです。いわゆる宗教戦争なるものはどうでしょうか。戦争をしている当人は、信仰の故に良かれと思って戦う。しかしそれを見る者は『だから宗教は怖い』と思う。あるいは信仰の故に、多額の献金を行って、神様に喜んでもらいたいと思っている。しかしそれによって、家族に経済的困窮を強いてしまった。家族は『そんな宗教なんか、誰が信じるか』と思うかも知れません。

今日ここで聖書が取り上げる、信仰の挫折を起こすものとは何か。それは、聖書の中に繰り返し記されていることですが、律法を振りかざして、それを守る事の出来ない者を、罪人だと裁いて、交わりを断ってしまうことです。人間による裁きが、信仰の挫折を起こすのです。しかしイエス様は、罪人と呼ばれる人たちと食事をしたり、積極的に交わります。罪を犯しても、それをイエス様は、最終結論としない。戒められて、悔い改める者を、イエス様は赦すのです。赦しによって、信仰の挫折を起こさせない。信仰を保つと言うのです。だからイエス様は弟子たちにも言いました。ルカ17章3節『あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい』。『あなたがたも気をつけなさい』と言うのは印象的です。『つまずきを手引するなよ』と言っておられるようです。しかしそうは言っても、特に自分に対して罪を犯した者を赦すなんて、そう簡単には出来ません。怒りが勝って裁いてしまいます。交わりを断って、口も利きたくない。冒頭の『つまずき』の意味の中に『人を不快にし憤激させるもの』とありました。まさに『つまずきは避けられない』。そのまま今度は、気がつけば自分が『つまずきを手引する者』になって行ってしまう。この連鎖を断ち切るのが『赦し』なんでしょう。イエス様は、何回でも赦しなさいとおっしゃられている。でも出来そうもない。

だから弟子たちは願うのです。今日の福音書の最初です。『わたしどもの信仰を増してください』。弟子たちは、そんなに何回も、気に食わない人を赦せるだろうかと思った。これは信仰が足りないせいだと思ったのでしょうか。それに対してイエス様は言います。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、抜け出して海に根を下ろせ、と言っても、言うことを聞くであろう』。イエス様は、信仰とは量の問題ではなく、信仰が有るか無いかの問題だと言われるようです。ではその信仰が有るか無いかは、どうやって分かるのだろうか。人間である私がその方法を、教えてもらったとする。そして結局私が、有るか無いかを決めるわけだから、信仰をコントロールすることにならないだろうか。私が有ると認めた信仰を、信仰としてよいのだろうか。そうするとやっぱり、信仰の有無も神様がお決めになることなのだろう。それにしても、とにかく信仰が有れば『この桑の木に、抜け出して海に根を下ろせ、と言っても、言うことを聞く』というのは、また驚きです。驚くことが既に、信仰の有無を自分自身で推し量ってしまっているのかも知れない。では信仰が有るか無いか、試しに桑の木に命じてみたらどうだろうか。それこそまた、信仰を自分のコントロール下に置いてしまっていることになるのだろう。また神様を試してしまっていることにもなるのだろう。

信仰とは、神様が自分を通して働くことを信じ、それに委ねることだと示されます。そして働いた結果がどうなるのかも、神様がお決めになることです。動かされた私は、それによって起こされた結果に、また自分を委ねて行くだけなのです。そう言えば、つまずきも、手引している自分を通して働くものだと言われる。ならばつまずきは、神様が働かれるのを邪魔しているわけだ。だから、どうぞ神様が自分を通して働いて下さるように、祈り続けるしかない。これが信仰生活なのでしょう。ですから、信仰が与えられていると言うと、ややもすると特別目立つような、それこそ他人には出来ない奇跡を、行えるかのようにも思ってしまいがちです。しかし、所詮、こんなちっぽけな自分を通しても、神様が働いて下さるだけ。いずれにしても、見えて働いているのは、こんな自分だけです。ですから、何気ない当たり前のことしか、見えないことの方が多い。それでもこんな自分に、神様が働いて下さっていると、信じて良いのです。ルカ17章7節以下で、主人と僕の話が記されてあります。特別に優しい主人で、必要以上に僕を大切に扱っているということもありません。また僕も、特別目立った働きをしているというわけでもありません。普通の主人と僕の関係のようです。しかしそこに、信仰が無いとは、誰も言うことは出来ません。

裁きは信仰の挫折を起させるもので、赦しが信仰を保つと、冒頭で申し上げました。ちょうど先週9月27日火曜日の20時から、NHKテレビ2チャンネルで、国内に初めて薬物依存症患者のための回復施設『ダルク』(Drug Addiction Rehabilitation Center)を創設した、近藤恒夫さんのことが放送されておりました。近藤さんは今年の2月27日に、80歳で天に召されました。ご自身も薬物依存者です。『薬物依存者の敵は薬物ではなく孤独だ』と訴えて、当事者同士が社会復帰を支え合う仕組みを築かれました。『刑罰ではなく治療』の重要性を訴え続けました。『一人にさせない。いかに居心地のいい場所にするか。だから近藤さんはいつもニコニコしていて、誰かを責めたり、強制したりすることは一度もなかった』ということでした。『失敗なんてない』という、近藤さんを支えた神父の言葉が、いつしか口癖になり、自身や周囲を励ます原動力になったそうです。番組の中で、刑務所を訪問し、薬物で服役している受刑者の方々に、語られました。『あなた方は出所しても、なかなか受け入れられないだろう。しかし、同じ理由で服役している人たちは、あなたがたに希望を抱いている。負こそ生の力なり。依存症の人が次の依存症の人を助ける。命のリレーをするんだよ』。これを聞いて、そもそも人間には、大なり小なり色々な破れがあって、そんな自分を通しても、神様が働いて下さっている。それは隣の破れを持った人のためなんだ。信仰はまさに命のリレーなんだと示されました。

キリストの教会よって、信仰を与えられ、命のリレーという、本来の人間の生き方に、立ち返らせていただきます。

聖霊降臨後第18主日

『神を賛美する』ルカ17:11-19

毎年10月になりますと、ルターの宗教改革が思い起こされると、先週も申し上げました。今月の30日が、宗教改革を記念する主日となっております。実は今日の福音書の箇所から、ルターは三つの説教を残しているそうです。それほどに、この聖書箇所を重んじていたようです。その理由は今日の箇所の最後の言葉からも伺えます。ルカ17章19節『あなたの信仰があなたを救った』。まさにルターが宗教改革を通して、訴え続けたことです。『信仰による救い』が、ここでイエス様によって語られているからです。そこで今日の箇所からも、信仰について考えて行きたいと思います。また同時に、聖書が言う救いとは何か。そんなことも考えて見たいと思います。

ところで私が持っている新共同訳聖書は、版が古いので、今日の箇所の小見出しは『らい病を患っている十人の人をいやす』となっております。新しい版では『らい病』ではなく『重い皮膚病』となっていると思います。らい病は今や、感染力も極めて弱く、治療薬もあって、特段に恐れる病ではなくなっております。しかし少し前までは、感染を恐れて、患者さんは隔離生活を強いられて来ました。それと同時に、社会的に厳しい差別の中にも置かれて来ました。もはや、この病にこだわる必要も無いのかも知れません。それでも予期せぬ差別が、再び煽られることの無いようにと、新しい版では『らい病』を『重い皮膚病』に置き換えたということです。そんな前置きをご理解していただいた上で、私が持っている聖書に従って、今日は『らい病』という言葉を使わせていただきます。

聖書の時代は、医学も今ほど発達していませんでした。ですから『らい病』に関しては、神様からの懲罰の徴のようにも、受け留められていたようです。従ってこの病に罹る者は、単に肉体的な問題だけではない。宗教的にも汚れた存在として、見られて来たわけです。今日の聖書の中にも、祭司の事が言及されています。らい病に罹っているかどうか、また治癒したかどうかは、それぞれの町にいる祭司の診断に委ねるように、律法で規定されておりました(cf.レビ13:1-8)。祭司が医者の役目をしていたようです。また宗教的汚れの判断も、当然、してきたわけです。

さて、ある町外れに、十人のらい病を患っている人たちがいた。その中、九人がユダヤ人で、一人だけサマリア人だったということです。ユダヤ人とサマリア人との関係については、この場でも、何回か言及して来ました。元々は同じユダヤ人でした。がしかし、紀元前8世紀に、サマリア地方が外国のアッシリアに占領されて、混血化が進みました。混血の相手は異教徒でした。ですから、エルサレムの正統派ユダヤ人から見れば、宗教的に汚れた民族になったと見なしました。もはや外国人であるかのように、サマリア人と呼んで、差別して来たわけです。実際、今日の福音書でも、外国人扱いをして来たユダヤ人を皮肉るかのように、イエス様はサマリア人のことを、敢えて外国人とも呼んでいます。

そこで今日の福音書の十人ですが、らい病を患い、町の人々からは隔離されるようにして、町はずれに一緒にいました。一緒と言っても、実際はどうだったでしょうか。この期に及んでは、もはや助け合って行くのでしょうか。しかし差別は、どこまで行っても断ち難いものです。サマリア人は、そこでも、孤独だったと想像されます。彼はどんなことを考えていたのでしょうか。想像して見ます。とにかく自分たちは、汚れた病を負っている。元々ユダヤ人たちは、サマリア人は汚れていると言っている。でも今は、彼ら九人のユダヤ人もこの病によって、同じように汚れているではないか。サマリア人の信じる神様は異端だと、彼らは言って来た。それなのに、ユダヤ人の神様から、彼らは罰を受けている。サマリア人の自分も、同じ罰を受けている。彼ら九人は、そんな自分たちのことを棚に上げて、サマリア人の私に、それでも誇れることがあるのか。それでもまだ、差別するのか。神様はこんな私のことを、どう思っておられるのか。彼らユダヤ人よりも、もっとひどい罰を、これから与えられるのか。どこまで行っても、サマリア人の自分は、価値の無い存在なのか。

そんな思いを抱えつつ、ある時、イエス様との出会いがあった。十人は日頃のイエス様の噂を、聞かされていたのかも知れません。こんな自分たちでも、イエス様なら憐れんで下さると、思っていたのでしょうか。そして叫びました。『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』。それに対してイエス様は『祭司たちのところに行って、体を見せない』と言われた。彼ら十人は早速出かけました。このイエス様の言葉で、彼らが早速、動いたのは凄いと思います。イエス様が『治りなさい』と言葉を掛けたとか、手をかざしたとか、そういう事ではなかった。『行きなさい、行った』というのは、まさにイエス様の言葉を、ストレートに信じた、ということでしょう。それこそルターも、感心してしまう程のようです。

そして十人とも『そこへ行く途中で清くされた』という。しかしその中の一人の、サマリア人だけが『自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た』という。癒されたかどうかは、自分でも分かるのでしょうか。しかしいずれにしても、祭司のお墨付きが必要なのです。他の九人も、自分では癒されたと思ったかも知れません。がしかし、お墨付きを貰わないと、通常の生活に戻って行けないわけです。そちらをまず確定させたいのが、普通の考えでしょう。治ったことのお墨付きを貰う。そして今後の生活が保証される。それから、その気があるなら、イエス様の所に戻ることも有りでしょう。しかしサマリア人の彼だけが、真っ先に戻って来た。そして、イエス様にひれ伏して感謝した。

この時の彼の気持ちは、どんなものだったでしょうか。冒頭で申し上げた通り、神様は自分の存在を、どう思われているのか、ずっと疑問に思っていた。しかし今、分かったのです。今ここで示される神様は、こんな自分でも、大切な人間として、存在を認めて下さっている。イエス様はそれを私に確信させてくれた。病が癒された事はもちろん嬉しい。しかし祭司に見せるにしても、どの神様の祭司の所に行くのか。ユダヤ人の祭司ではだめだろう。サマリア人の祭司に見せるしか無い。こちらでは癒されたと言われても、あちらではまだだと言われるのか。それではいつまで経っても、癒されたことにはならない。もはや人間からのお墨付きなど、どうでも良くなった。そんなことよりも、こんな自分が大切な存在として、神様が招いていてくれると、イエス様から知らされた。この喜びと確信は、何がどう変わろうとも、絶対に揺るぎないものだ。

聖書が言う救いとは、次のように示されます。単に病が治癒する、ということではない。敢えて言えば、治癒は救いの始まりに過ぎないのだろう。救いとは、真の神を賛美出来ることです。そうやって、神様との親しい交わりに、組み入れられ続けることです。そしてその真の神様との出会いは、イエス様によるのです。もしかしたら、相変わらず、病を抱えたまま、ということもあるかも知れません。しかし、真の神様との交わりにある者は、既に救われている。先週も申し上げました。信仰とは、真の神様が自分を通して働くと、信じることが出来ることです。だから、その働きに委ねて、真の神様を賛美し続けるのです。ここに救いが示されます。

キリストの教会につなげられて、主イエス・キリストの神様に賛美出来る幸いを感謝致します。

聖霊降臨後第19主日

『ひっきりなしに』ルカ18:1-8

10月に入りますと、1517年10月31日に始まった、ルターの宗教改革運動が思い起こされます。それでこの2週間は改めて、信仰、救いについて、聖書から考えさせられて来ております。そして本日は、祈りについて、今日の聖書から聞いて行きたいと思います。

今日の福音書はイエス様が『やもめと裁判官』の例え話を、弟子たちに語られた所です。それは『気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため』でした。まず例え話の始まりの所ですが『ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた』というのです。ここでまず、ぎょっとさせられます。『え―、そんな裁判官がいるのか』と思ってしまいます。そんな裁判官の下では、誰も裁判を受けようとも思わないのではないか。裁判を受けることになったとしても、まともな裁判は期待出来ないだろう。最初からあきらめざるを得ないでしょう。ところが、この例え話に出て来る一人のやもめは、そんな裁判官のところに来て、裁判をするように願った。それが、ひっきりなし、だった。とうとうその裁判官が折れて、裁判をしてやろうと言ったというのです。

よくもまあ、このやもめは、そんな裁判官のところに願い出ることが出来たなあ、と思ってしまいます。それだけ必死だったのかなあ、と思わざるを得ません。ここしか行くところが無ければ、そこに行かざるを得ないのでしょう。しかしいずれにしても、願い事をする際には、それが聞かれるかどうか、どうしても、可能性を図ってしまうものです。そして結局、どうせだめかも知れないけれど、行くだけ行ってみるか、ということなのでしょう。それでは、願い出る相手に対しても、迫力に欠けてしまうでしょう。『なんだ、その程度の願い事だったのか』と、動くものも動かなくなってしまうでしょう。『気を落とさずに絶えず祈る』ことを妨げるものは、まず一つは、聞かれるかどうか、可能性を図ってしまうことなんだなと示されます。

それから妨げになるものについて、もう一つ、今日の福音書から示されるものがあります。あんな不正な裁判官でさえも、願い事を聞くことになったんだから、ましてや神様は『昼も夜も叫び求めている・・彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか』と、イエス様はおっしゃられます。更には『神は速やかに裁いてくださる』とまでおっしゃられるのです。それで私たちは、願い事が聞かれるのに、出来るだけ早く聞かれるように期待します。早く聞かれると思えば思う程、願い事にも力が入るのです。しかし遅くなるとか、どうなるか分からないとなると、途端に願い事にも力が湧いてこない。あきらめムードになってしまうのです。願いや祈りの本気度が、薄れて行ってしまうのです。

ここでイエス様は『いつまでもほうっておかない』とか『速やかに』とかおっしゃっておられる。しかし、イエス様の次の言葉で、ほんとに速やかなのかなあと、疑ってしまいそうなのです。『人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか』。『人の子が来る』というのは、イエス様の再臨を指し示します。イエス様が復活されて、それから天に昇られた時『天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』(使徒1:11)との聖書の言葉を、キリストの教会は信じて来ました。いわゆるキリストの再臨信仰です。当初は、天に昇られて、また直ぐに来られるだろうと、教会は思っていました。しかし、もう二千年以上も経っているわけです。再び来られるのを祈って待っているが、しかしまだ来ない。もう来ないんじゃないか、とさえ思ってしまう。同時に祈ることもやめてしまいそうです。それで『いつまでもほうっておかない』とか『速やかに』という言葉も、嘘じゃないかと疑ってしまうのです。このように、『気を落とさずに絶えず祈る』ことを妨げるものの二つ目は、願い事が聞かれるまでの時間です。それが長くなればなるほど、気を落として、祈ることを止めたくなってしまうのです。

更にもう一つ、今日の福音書から祈りについて、示されることがあります。やもめは、ひっきりなしに裁判官の所に出向いています。この行動そのものが祈りなんだな、ということです。『祈る』と言いますと、何か静かな所で、目をつぶって祈りの言葉を唱えているイメージです。しかしそういう事ばかりでは無い。例えば問題の解決のために、自分でこうしようと思う事を行って行く。もちろん、祈りながら行動しているのでしょう。だから、もはやこの行為そのものを、祈りと言っても良いと思うのです。悩みながら試行錯誤して行くこともあるでしょう。そうすると、悩みもまた、祈りの一つの表れだとも思うのです。今日の第一日課の、創世記32章23節以下は、ヤコブが神と格闘する場面です。神との格闘とは、まさに悩んで、くんずほぐれつ、のたうち回るような祈りでしょう。

現代の私たちも、祈りたいことはたくさんあります。しかし同時に、聞かれる可能性が限りなく低いと思わせるようなこともまた多いのです。戦争は相変わらず止まない。次から次へと、新しい戦争が湧いて来る。その度に、平和のための祈りをする。しかし、そんな祈りの言葉が、何か飾り物のように、通り過ぎて行っている。平和になるには、時間がかかると言われる。でも、一向に良い方向に向かっているとも思えない。時間ばかりが無駄に過ぎて行ってしまうようなのです。

先週の水曜日に、幼稚園協会戸塚支部の教員研修会がありました。特に人間関係に起因する悩みの解決のために、どうすれば良いのか、という講演でした。講師の先生が講演の最後に、カトリック教会修道女の、マザーテレサさんが創られた詩を紹介して下さいました。ここでも紹介させていただきます。タイトルが『あなたの中の最良のものを』という詩です。

≪人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。気にすることなく、作り続けなさい。

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。例えそれが十分でなくても、気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい。

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず。結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。~ マザー・テレサ≫

もしかしたら、きょうのやもめの女性も、見ていたのは、あの『神を畏れず人を人とも思わない裁判官』ではなかったのではないか。主なる神様を見据えていたのかも知れません。それこそまさに祈りです。祈りは主なる神様との間に起こされるからです。祈っても祈っても、相変わらず、不正義、抑圧、犯罪、戦争の止まないと思われる社会に生きている今の私たちです。しかし目先の出来事や人間たちに惑わされずに、キリストの教会によって、ひっきりなしに主イエス・キリストの神に向き合います。悩みながらも気を落とさずに絶えず祈り、示されたことを行い続けます。

聖霊降臨後第20主日

『義とされる』ルカ18:9-14

今日の福音書の冒頭にまず注目させられます。『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々』というのです。『正しい人間だとうぬぼれて』なんて聞きますと、とんでもない傲慢な人間だなあと思ってしまいます。結局、傲慢なんでしょうが、ここは原文のギリシア語から直訳しますと『正しい人間だと自任して』となります。自分で自分を正しい人間だと決めている、という意味です。それで具体的には、どんな人間が例え話の中で登場するのかなと思いますと、ファリサイ派の人でした。ファリサイ派とは、ユダヤ教の一教派の名前です。福音書の色々な箇所に、ファリサイ派の人たちが出てまいります。神の律法に忠実で、それを守らない人間に対しては、厳しく対応している人たちです。しかし実際のファリサイ派の人たちについて、ある注解書には、次のように説明されてあります。『ファリサイ派は清潔な、信心深い、時流に媚びない、清貧に耐える人々であった。汚れた人々とは交わることのない、祈りの深い、神の掟に生きる人々であった』。いわゆる信仰者と呼ばれる人間の、むしろ本来の姿ではないかとさえ思われる程の人たちなんです。聖書の時代ばかりでなく、現代においても、現実のこの世を生きるのに、例えば時流に媚びないで、信仰者が生活して行くのは難しいこともあります。清潔に生きる難しさ、信仰を守り通す難しさ、時流に媚びてしまう弱さを、折に触れて感じさせられているのではないでしょうか。そんな現実の生活において、それでも神の律法に忠実に、妥協することなく、正しいと思う自分たちを貫き通すには、無理も生じます。それで出来るだけ律法に相応しくない人間たちを排除したり、裁いたりするしかないのでしょう。そうやって周りから、正しく生きようとする自分たちを隔離して、守ろうするのでしょう。『ファリサイ』とは『分離する者たち』という意味があるそうです。そういう姿が、時に『うぬぼれている』『他人を見下している』と見られてしまうのでしょう。

そんなファリサイ派の人が『心の中で』次のように祈ったというのです。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します』。この言葉からも、傲慢さが滲み出て来るようです。だからイエス様は非難されるんだなあと思います。しかしここは、心の中で言っていることです。周りの人間たちには聞こえていない。言わば本音です。こういうことは実は、ファリサイ派の人たちだけではない。人間なら誰でも、行っているようにも思います。それでつい、ここまで自分は傲慢ではないだろうと思って、こんなふうに祈ってしまいそうです。『神様、わたしはファリサイ派のような者でもないことに感謝します』。

イエス様が登場される前に、その露払い役を担ったと言われる、バプテスマのヨハネのことについては、この場でも何度も言及してまいりました。ルカ福音書では、3章にそのヨハネのことが記されてあります。『罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマ(洗礼)を宣べ伝えた』ということです。そして『悔い改めにふさわしい実を結べ』と語った。そんなヨハネに対して、人々は『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねるのです。ある人には、何でも余分に持っているものがあれば、全く持っていない人に分けてやりなさいと答えています。また徴税人には『規定以上のものは取り立てるな』と言います。兵士には『だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言っています。ということは、裏を返せば、ファリサイ派の人が祈りの中で指摘していることは、良くも悪くも普通に行われていることなのだ。ですから奪い取ったり、不正をしたり、姦通を犯したりといったことを、しないと言い切っているファリサイ派の人たちは、むしろこちこちの真面目人間だとさえ言われる程なのでしょう。しかも週に二度も断食をし、全収入の十分の一を献げていると言います。もちろん完璧とは言えないのかも知れませんが、普通の信仰者から見ても、尊敬されてしまうような信仰なのです。イエス様が批判しているとしても、実は私たちには到底、非難出来るような人たちではない。敢えて否定的に言えば、こちこちの信仰者で、融通の利かない、付き合いきれない、面倒くさい人たちだなあ、と思うぐらいなのです。

ではここで、ファリサイ派の人たちを通して、イエス様は何が問題だとおっしゃられるのでしょうか。もちろん傲慢なんだけど、それを引き起こすものは何か。まず示されるのは、自分は正しい人間だと自任している、ということでしょう。自信を持って、自分は正しい人間だと自任出来るとしても、正しいか正しくないかは、やっぱり自分が決めることではないのです。正しいと自任しても『神様は、どう思われますか。神様がお決めになることに従います』と、常に神様に向いて祈り続けるだけです。そうすると、傲慢さも、多少は薄れて行くのではないか。他人を見下すことも少なくなって行くのではないか。

それから例えの中では、ファリサイ派の人は『心の中で祈った』と聖書は記しております。これも直訳しますと『自分に向けて祈った』『自分に関して祈った』となります。それから祈りの途中で『この徴税人のような者でもない』と祈っています。つまり、祈っていると言いながら、自分に向かったり、他の人間に向かっているのです。肝心かなめの神様に向いていないようなのです。そうやって、見た目は神様に祈っているつもりでも、結局、心は自分や他人に向いてしまっているのです。そして何をするかと言えば、自分と他人を比較して、正しい自分を自任している。一方、徴税人はどうかと言うと、神殿から遠く離れて、目を天に上げようともしなかったと言うのです。ですから見た目は、祈っているようには見えないのです。しかもファリサイ派の人には、聖書は『祈った』と記しています。しかし、徴税人には『祈った』という言葉は記されてありません。しかし確かに、徴税人は神様に向き合って、真に祈ったのです。何故なら、義とされて家に帰ったのは徴税人だと、イエス様がおっしゃられているからです。祈りが聞かれているのです。

徴税人は『胸を打ちながら言った』とあります。これは聖書では『悔い改め』を表す時に、この姿勢を取るようです。更に祈りの中で『罪人のわたし』と告白しています。徴税人は明らかに、悔い改めているのです。どんな悔い改めの実を結んだのか、それは記されてありません。見た目はどうでも良い。神様が悔い改めを認められれば、人がどう思うと関係ないのです。しかしファリサイ派は悔い改めの実としての、見える徴を求めるのでしょう。徴税人は義とされて帰った。義とは、神様がお前は正しいとおっしゃっていただけることです。先程『神様、わたしはファリサイ派のような者でもないことに感謝します』と、祈ってしまいそうだと申し上げました。ここでも、こんなふうに祈ってしまいたくなります。『神様、わたしは徴税人のような者であることに感謝します』。

しかし、自分は本当に、徴税人のような者だと言えるだろうか。あるいは、ファリサイ派のような者ではないと言えるだろうか。現実の生活において、キリスト信者であろうと思えば、自分が所属するキリスト教というものを守ろうとする。それに熱心であればある程、キリスト教ではないと思うものを、心の中であっても、排除したり、裁いたりしてはいないだろうか。そうやって周りから隔離するように、キリスト信者である自分を、守ろうとしてはいないだろうか。いつしか自分で自分をキリスト信者であると、自任してしまってはいないだろうか。そうやって結局、他人を見下してしまってはいないだろうか。

来週30日は、今年の宗教改革記念主日となっております。ルターを通して示される、宗教改革の根本原理は『悔い改め』です。宗教改革運動の端緒となった、ルターが書いた『九十五か条の提題』の、第一条は次の通りです。『私たちの主であり師であるイエス・キリストが、悔い改めよ(マタイ4:17)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである』。そして悔い改めについては、更にイエス様は次のようにおっしゃられています。『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』(ルカ5:32)。悔い改めた者は、ファリサイ派の人たちも、仲間に入れてくれるのかも知れません。しかしイエス様は、悔い改めてから招くお方ではない。悔い改めさせて下さるお方なのです。

キリストの教会によって、これからも全生涯を悔い改め続けさせて下さい。

宗教改革記念主日

『あなたの家に泊まる』ルカ19:1-10

1517年10月31日に、ドイツ人修道士のマルティン・ルターが声を上げて、いわゆる宗教改革運動が起こされました。ちょうど明日がその記念日になります。そしてその日に一番近い日曜日が、本日のように宗教改革記念主日として、ルーテル教会は礼拝を守って来ているわけです。先週も申し上げましたが、宗教改革の根本原理は『悔い改め』です。この言葉のギリシア語は『メタノイア』と発音します。元の意味は『考えの変更』と辞書には出ています。これをもう少し聖書的に注釈を加えますと、次のようになります。『自分の力で生きていると思う者から、主イエス・キリストの神によって生かされていると信じる者への変更』。人間中心から神中心への変更です。ここで初代教会の伝道者パウロの言葉が思い起こされます。ローマ14章8節『わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです』。ところが、宗教改革運動当時のキリスト教会は、もちろん神によって生かされている信仰に基づいておりましたが、そこに人間の力も働き得るかのような教えや、制度を定め始めていたわけです。例えば人間の善い行いも、救いのためには必要だと教えて、いわゆる免罪符を買うという行いを勧めていた。そこで、救いには人間は無力だと、聖書が言っているではないかと、ルターは物申したわけです。それで『悔い改め』をキリスト教会に迫った。また同時に、あたかもルターが、善い行いはしなくても良いと言っていると、非難するような者も出て来ました。

『悔い改め』と言えば、これも先週引用した事ですが、イエス様ご自身も既に聖書を通して、次のようにおっしゃられています。ルカ5章32節『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』。宗教改革はただ一回で、済むようなものではない。繰り返されるものなのだ。いつの時代も、大なり小なり、気が付けば自分の力が、神になり替わってしまっていることがある。だから既に聖書を通して、イエス様は『悔い改めさせる』ために来たとおっしゃられているのです。であるならば、頑なな自分ですから、悔い改めさせて下さと、素直にイエス様にすがりたいと、言えば良いのではないか。ではその『悔い改めさせ』は、どのようにして引き起こされるのだろうか。今日の聖書から見て見たいのです。

ザアカイが登場します。徴税人の頭で、金持ちだった。そんな彼が、自分が住むエリコの町を、イエス様が通り過ぎるという。『どんな人か見ようとした』と言うのです。単なる野次馬根性だったのか。それにしても何故、イエス様に関心を持ったのか。『関心を持った』と申し上げましたが『関心を持たされた』と、受動的に解釈すると、少し様子が違って来ます。彼に関心を持たせたお方は、イエス様になります。あちこちで、たくさんの人の病気を癒したり、人知を超えるようなお話をしたり、そんなイエス様の事が、ザアカイの耳にも入っていたのでしょう。この時点で既に、ザアカイを悔い改めさせる、イエス様の働きが、起こされ始めているのです。特に彼の耳に残り続けたのは、イエス様が『罪人や徴税人の仲間だ』(7:35)と、反対者から非難されていたことだったのではないか。あれだけ人々の尊敬を集めるような、律法の先生のようなお方が、一方で『罪人や徴税人の仲間だ』なんて言われている。そこで『どんな人か見ようとした』のではないか。自分も徴税人で、人々からは嫌われ、罪人だと言われている。だったら自分も、イエス様の仲間になるのだろうか。ザアカイは金持ちでした。がしかし、徴税人であるが故に、ユダヤ人社会では孤独だった。金持ちだから、生活自体は何不自由無かった。しかし、心から気を許せるような、家族も友達も失っていたのではないか。

ですから、この後のザアカイの行動を見ますと、単なる野次馬根性で『どんな人か見ようとした』のではないと示されるのです。観るための様々な妨げを、なりふり構わず打破して行くのです。『背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった』という。しかしあきらめない。『走って先回りし、いちじく桑の木に登った』という。当時のユダヤ社会では、大人が走ることも、増してや木に登ることなど、恥ずかしいことだったようです。それでもザアカイは、そんな周りの目などに、目もくれない。ただ一途に、イエス様を見ようとした。もはや目指すものは、イエス様のみだ。そうして無意識にも、悔い改めさせられる働きの中に、組み込まれて行った。ちなみにいちじく桑の木は、その地域では馴染み深く、当たり前過ぎて、見過ごされてしまう程だった。しかしこの時には、ザアカイにとっては、うってつけの木となった。この桑の木は、割と低い位置から枝が張り出している。まるで、背が低いザアカイのために備えられているように、好都合の木だったのです。こうして悔い改めさせるイエス様の働きは、その人にとって価値が無かったものが、今や価値あるものに変えられて進められて行くのです。

さて木の上のザアカイに向かって、イエス様は『ザアカイ』と呼んで下さった。何故自分の名前を御存じなのか。それ程に自分は悪名高かったのか。それでイエス様に知られたのなら、それはそれて良いではないか。誰も、今まで自分の名前を、まともに呼んでくれなかったのだから。イエス様は私の事を、仲間に入れてくれるのではないか。更には『今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』とまでおっしゃって下さった。原文通りに訳せば『あなたの家に泊まらなければならない』というものです。これはもう『あなたは私の仲間だ』と、まさに仲間入りの宣言になったのではないか。孤独からの解放だ。

このイエス様の言葉と振る舞いに応えた、ザアカイの言葉にも注目させられます。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』。『貧しい人々』とか『だれかから』というように、周りの人間たちとのつながりを、意識させられた言葉を返したのです。孤独で交わりも断たれて来た彼が、他の人間たちの存在に、目を向けさせられ始めたのです。しかも貧しく、苦しんでいる人たちのために、自分が用いられることを願った。いわゆる『善い行い』をするように、促されて行ったのです。このイエス様とザアカイとの出会いについては、善い行いをしたから、適ったわけではない。出会いが適ったから、善い行いへと、促されて行ったのです。

更に、イエス様との出会いが果たされるという、この一点にしぼって、これまでの歩みを振り返って見ます。そうすると、孤独だったことも、背が低かったことも、むしろそれらが全て、イエス様との出会いに、プラスに働くことになって行った。人間的に見れば、マイナスに思える事は、色々とたくさん起こされ続けています。でもそれらが、イエス様との出会いのためには、プラスに働くとしたらどうだろう。もちろん、イエス様との出会いよりも、孤独でない方が良い、背が高い方が良い、そんな思いもあるかも知れません。しかし今や過ぎた過去は変えられない。ところがイエス様との出会いは、今からでも可能です。そして出会いによって、マイナスがプラスに見えて行くのです。今日の福音書の最後の言葉です。『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』。そうです。キリストの教会のイエス様が見つけて下さるから、出会いは必ず果たされるのです。

教会によって、今も、見つけ続けて下さる主に感謝し、応えて行きます。