からし種 403号 2022年12月

全聖徒主日

『神によって生きている』ルカ20:27-38

先週の日曜日はルターの宗教改革を記念して礼拝を守りました。その前日29日(土)の夜に、韓国のソウルで『ハロウィーン』のお祭りのために集まっていた人たちが、密集状態になり、156名の方々が亡くなられたと報道されました。その中には2名の日本人女性が含まれていたということでした。恐らく韓国の教会でも、本日の礼拝において、悲しみの中にあるすべての人々のために、イエス様の慰めと平安とを、お祈りされていると思います。私たちも同じように、お祈りに覚えさせていただきます。

その出来事は10月29日でしたが、実際の『ハロウィーン』の日は10月31日です。そしてその日は、キリスト教会では、宗教改革記念日としています。少し『ハロウィーン』の起源について触れさせていただきます。元々はケルト民族の習慣からの始まりだそうです。10月31日に先祖の霊が帰って来るという事で、その霊を慰めるのと、同時に悪霊も一緒にやって来るので、悪霊払いも同時に行われていたのだそうです。そして7世紀になってキリスト教会は、このケルト民族の習慣を取り込むようにして、翌日の11月1日を『オール・ハロウズ』即ち『諸聖人の日』と定めたのだそうです。恐らく先祖の霊が帰って来るという風習から、召された者は、帰って来るというよりも、むしろイエス・キリストの神様と共におられることを、翌日のこの日に強調したんだろうと思われます。英語の『hallow』という言葉は、名詞は『聖人』、動詞は『神聖な物として崇める・清める・神に捧げる』と辞書に出ております。

カトリックでは、特別な働きをしたと認められた人や殉教者を『聖人』と呼んでいます。それらの『聖人たち』を『諸聖人』と呼んで、記念するようになったということです。ところが19世紀になってアメリカ移民が、諸聖人の日の前の晩に、悪霊払いのお祭りを始めたと言うのが、いわゆる『ハロウィーン』の直接的な始まりになります。諸聖人の日の前の晩ですから、英語で言えば『ハロウ・イヴ』となります。それがなまって『ハロウィーン』と発音するようになったそうです。プロテスタント教会では、聖人という、信者の中でも特別だとする人間を認めておりません。ですから『全聖徒の日』と呼んで、召された全ての信者を偲ぶようにしました。その11月1日を過ぎて最初の日曜日を、本日の全聖徒主日として守って来ているわけです。

 『聖人』あるいは『聖徒』とは、『神に捧げられた者』と、言い換えられます。『神に捧げられた者』を偲ぶという事は、これらの方々が、この地上の生を終えるまで、その命と賜物を神様にお返しするように、捧げ切ったことを覚え続けることです。もちろん、人間的な思いからすれば、若くして亡くなられたのに、捧げ切ったと言えるのか、そんな悔しい思いも湧いて来ます。しかし、捧げ切ったかどうかは、やはり神様がお決めになる事です。人間が決める事ではない。捧げ切ったと、人間には、結論評価することは、やはり出来ない。そうすると、今もなお、この地上の生を生かされている私たちも、捧げ切ったというゴールは知らされませんが、出来ることは、命と賜物を捧げ続けることだけだと示されます。いつかこの場でも紹介したことがありますが、ある学び会で『人事を尽くして天命を待つ、という諺がありますが、教会でもこれに似た言葉はありますか』と尋ねられたことがありました。それで私は、次のように応えました。『人事を尽くすことが天命』。

 今年は多くの人々の死を受け留めながら、今日の召天者を覚える時を過ごしておりますが、改めて、人間の死について考えさせられています。今日の福音書は『復活についての問答』という小見出しが付けられてあります。冒頭に『復活があることを否定するサドカイ派』とあります。ユダヤ教の一派であります。他にもファリサイ派という一派が、聖書の中にもよく出てまいります。サドカイ派は復活を信じていないということです。多くは神殿の祭司階級で、割と裕福だったそうです。彼らは聖書の中でも、いわゆるモーセ五書を重んじていました。その中には、復活のことは記されていないから、復活は無いとしていたようです。一方のファリサイ派は復活を信じていました。彼らはどちらかと言うと、反体制派で、経済的にはあまり恵まれていなかった。ですから悪もはびこる現実生活にも、厳しい見方をしていた。悪が清算される、理想的な復活の時を期待していた。またモーセ五書以外の聖書箇所には、復活に言及しているところがあることも、有力な証しとしていました(イザヤ26:19,ダニエル12:2)。

そこで復活を信じないサドカイ派の人が、イエス様に結婚の例えを持って、復活に対するイエス様の見解を問うたわけです。復活した後の人間の生活は、どうなっているのだろうか。あれこれと想像を巡らします。これまでの地上の営みと、同じような形で進んで行くようにも、まず考えます。愛する人の死に直面しても、また天国で会えますようにと願います。今日の福音書のように、復活しても結婚生活もあるだろうと考えます。ところが、地上での生活には、いわゆる地上的な役割や関係性がある。復活の命を生きるには、やはり天上的な役割や関係性があるように、イエス様はおっしゃられています。夫婦という役割や関係は無いようです。そうしますと、親子だとか友人だとかそういうことも、そのまま復活の命には、当てはめられないのだろうか。何だか味気ない気がしてまいります。

私たちが『生きている』事を実感させられるのは、夫婦関係、親子関係、友人関係、仕事関係など、様々な役割や関係性の中で、喜びを感じている時ではないでしょうか。そしてもっと重大なのは、必ず死を迎えることです。その対極にあって『生きている』事が、鮮明に意識させられるのでしょう。しかし復活すれば、死が無いわけです。それから、復活後を生きる役割や関係性も、地上的なものとは違う。とすれば、一体どこで『生きている』ことを実感出来るのだろうか。そこで今日の聖書には、まさにその『生きている』という事について、イエス様ご自身が次のように語られています。ルカ20章38節『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである』。ここは、モーセ五書でも、復活は認めていると言わんばかりに、あのサドカイ派が大切にしている、モーセ五書の一つの、出エジプト記を念頭に語られている言葉です。『神によって』なのです。これは、ややもすると『神を生きる手段として』とか『神を利用して』と、考えがちです。そうではなくて『神に向いて』とか『神に委ねて』というものです。もっと言うならば『神が私をご覧になって、お前は生きているね、と言って下さる時、私は生きている』。ですからこの私が、いわゆる生きていても死んでいても、永遠に生きておられる神様が『お前は生きているね』と、おっしゃられているならば、私は『生きている』ものです。もはや、様々な役割や関係や、もちろん死さえも、それらを条件に『生きている』とは言わない。ただ主イエス・キリストの神様の『お前は生きているね』との呼びかけによって、無条件の絶対的な『生きている』を、人間は生かされるものだと示されます。そして、ただ『生きている』命と賜物を主に捧げ続けるだけです。

 キリストの教会によって『お前は生きているね』と、様々な形で呼びかけて下さる、主イエス・キリストの神様の声に、先人たち、そしてなお地上に残る私たちも、共に耳を傾け、生かされて応えてまいります。

聖霊降臨後第23主日

『証しをする機会』ルカ21:5-19

先週は全聖徒主日ということで、既に召された先人たちを偲ぶ時を持ちました。そして人間は必ず地上での生を終えるという、肉体の死についても考えさせられました。一人の人間の、いわゆる人生の終わりを考えるだけではなく、キリスト教会では、この地上に繰り広げられて来ている、人類の歴史についても、終わりがあると信じているものです。いわゆる終末です。あるいは最後の審判とも言います。あるいは主イエス・キリストの再臨の時とも言われます。その時には、全ては裁きの座に着かせられて、善悪が清算されるというわけです。キリスト教会ではこの出来事を、教会独自の暦に組み入れて、聖霊降臨後最終主日という、日曜日の礼拝を設けています。それがちょうど来週20日の日曜日に当たります。今日はその一週前の日曜日になりますが、今日の福音書は『終末の徴』という小見出しが付けられてあります。

使徒言行録の1章11節に、復活されたイエス様が天に昇られる出来事が記されてあります。その時に、天に昇られた姿と同じ姿で、またおいでになるとも記されてあります。ここから主イエス・キリストの再臨を、キリスト教会は待つ時を過ごしているわけです。その時には審判を伴うわけですから、色々な恐ろしい出来事も起こるのではないかと、想像してしまうわけです。再臨はいつ起こるのかとか、それが起こる事前の兆候みたいなものはあるのかとか、出来ればその時に慌てないように、準備をしておきたいと思うわけです。今日の福音書でもイエス様が、エルサレム神殿の崩壊を予告するようなことをおっしゃられた。神殿はユダヤ人にして見れば、神様のお住まいです。神様がおられるはずの神殿が崩壊するなんて、これはただならぬ事態です。旧約聖書には、終わりの時を示唆する記事もあります(ダニエル8:17,19,11:35,12:4)。ですから神殿崩壊の予告を聞いた人々は、即座に世の終わりの事をイメージしたのでしょう。いつ起こるんですか、徴はありますかと、イエス様に尋ねるわけです。

いわゆるメシアがやって来て、審判を行うということも言われて来ました。イエス様がメシアだと思っている人たちもいる。ですから、イエス様は言うわけです。『私の名をかたる者が出て来ても惑わされるな』。また戦争とか暴動が起こって、あたかも破壊を伴う世の終わりのような出来事が起こる。しかし『こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない』とおっしゃられる。更に、地震があり、飢饉があり、疫病が流行り、いわゆる天変地異が起こる。『しかし、これらのことがすべて起こる前に』弟子たちよ、あなたがたは迫害され、牢屋にも入れられ、王や総督という支配者の前に立たされるというのです。そうするとしばらくは、それらの迫害の時が続くように考えられます。それは裏を返せば、世の終わりは、まだまだしばらくは来ないんだろうなあとも思われます。

そこでこの迫害の時は、人間的に見れば、やっぱり起こってほしくないものですが、イエス様は『それはあなたがたにとって証しをする機会となる』と言うのです。証しと言えば、いわゆる宣教をすることです。ルカ福音書のこの箇所と重なるマルコ福音書では、次のように別の言い方をしています。マルコ13章10節『しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない』。福音とはイエス様の出来事です。それが『あらゆる民に宣べ伝えられ』るまでは、世の終わりは来ないということになります。『あらゆる民に宣べ伝えられ』たかどうかは、それもイエス様がお決めになるのでしょう。そうすると弟子たちは、嬉しいこと楽しいことはもちろんのこと、苦しいことや悲しいことなど全ての機会を通して、ただひたすら証しをし続ける、福音を宣べ伝え続けるというのです。その時は結局、この日常ということでしょう。

実はそんな弟子たちの姿が、イエス様の予告通りに、聖書に記されてあります。ルカ福音書の1章3節以下の所に、敬愛するテオフィロさまに、この福音書を献呈すると書かれています。そして使徒言行録1章1節以下には、テォフィロさまに宛てて、先に第一巻を著したとルカは書いています。ルカ福音書が第一巻で、使徒言行録が第二巻になるわけです。それでこの使徒言行録では、弟子たちが、まさに戦争や暴動、飢饉や疫病、そして迫害を潜り抜けながら、それらを福音宣教の機会として行ったことが、記されてあるのです。例えば『私の名をかたる者が出て来ても惑わされるな』と、イエス様はおっしゃっていました。使徒5章36節以下には、メシアのような振る舞いをした人物たちが、登場したこともあったが、みんな長続きしなかったと記されてあります。使徒11章28節には、大飢饉が起こったことが記されてあります。あるいは弟子たちが迫害逮捕監禁されたことは、何回も出てまいります。みんな福音宣教の機会となったのです。

特に初代教会宣教者のパウロですが、彼がキリスト教迫害者から、宣教者に大転換された時でした。そんな彼の事を、復活のイエス様が次のように語られています。使徒9章15-16節『あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう』。かつての迫害仲間からは、裏切り者呼ばわりでしょう。一方キリスト者側からは、スパイ呼ばわりでしょう。どっちに転んでも、パウロのこれからの宣教活動には、反感を被るばかりなのです。恐らく復活のイエス様は、これを予告したのでしょう。そしてそれが宣教の機会となって行った。

今日のルカ福音書だけを見ますと、世の終わりの深刻さだけが、伝わって来るようです。しかしそこでイエス様が予告されている事は、使徒言行録そのものなのです。そこでは、もちろん様々な困難な出来事も記されてあります。しかし、いわゆる世の終わりの描写はない。むしろ日常的な人々の営みがある。そこで弟子たちとは、もはやキリストの教会を指し示します。キリストの教会は、あらゆる機会を通して、イエス様の出来事である、福音を宣べ伝えるのです。迫害逮捕監禁と言いますと、重大事件です。しかし事件にもならない、むしろ目立たないような小さなものも、キリストの教会は証しをする機会とするものではないか。今日の福音書のすぐ前の所は『やもめの献金』と、小見出しが付けられてあります。有り余る中から大金を献金する者よりも、乏しい中から生活費全部を献金したやもめに、イエス様は目を留められるのです。それは何か、大きく目立つものに目を奪われることなく、むしろ目立たない、何気ない小さなものに目を留めるように促すようなのです。

世の終わりは、人間の歴史への神様の介入だとも言われます。ですから人知を超えた現象や、非日常的な事態を想定してしまいがちです。しかし神様の介入は、やはり人間が想定してしまうような、目立った非日常的な事だけでは無いように示されます。日常的な何気ない目立たない所にも、神様の介入は果たされ続けるのではないでしょうか。来週の聖霊降臨後最終主日の翌週は、アドベント、待降節に入ります。それこそ、日常的な何気ない目立たない所での、神様の介入が果たされた出来事を、記念する期節ではないでしょうか。クリスマスの出来事です。

主よキリストの教会によって、世の終わりまで、目の前の日々に、丁寧に与る、勇気と知恵と力とを、お与え下さい。そうして、あなたのことを、証しし続けさせて下さい。

聖霊降臨後最終主日

『自分を救う』ルカ23:33-43

キリスト教会独自のカレンダーでは、本日が大晦日の日曜日なります。キリスト教の歴史観は、一直線になっています。始めがあって終わりがある。生まれ変わりがあるという、円環的歴史観ではありません。その歴史の終わりを終末と呼んでいます。再び来られると約束されて、天に昇られたイエス様が、約束通りに再び来られる、いわゆるキリスト再臨の時とも言われます。全ては裁きの座に着かせられて、悪いものは永遠の滅びに至るというのです。これは、裁きや滅びに焦点を当てたもの言いです。がしかし一方で、この再臨の時は、救いの完成の時とも言われます。ではその救いとは何か。罪の赦しとか、復活とか、再創造とか、様々な角度から表現されています。今日の箇所からは、父なる神様との関係の完全回復、あるいは断ち切られていた絆の修復、そんな表現になるでしょうか。そして、そんな神様との関係とか絆を損なっているものは何なのか、改めて今日の聖書から見て見たいと思います。

いきなりですが、まず今日の福音書の一番最後の言葉に注目させられます。ルカ23章43節『するとイエスは、はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる、と言われた』。ここは、イエス様と一緒に十字架刑に処せられた、犯罪人の一人に向けて語られたイエス様の言葉です。『楽園にいる』。『楽園』という言葉で思い出されるのは、旧約の創世記2章8節に、次のように記されてあります。『主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた』。いわゆる『エデンの園』と呼ばれる『楽園』が設けられた場面です。神様によって創られた人間が、園に置かれている。だから、神様と一緒に人間は園にいる。神様との関係がどうだとかこうだとか、そんなことが、問題になるような状況では、さらさらない。神様によって置かれたから、人間はそこに存在出来ている。当たり前の事です。こうして、神様との関係の中につなげられている人間。これが本来の人間の姿です。

ところが人間は、食べてはいけないとの神様の言葉を守らなかった。善悪を知る木の実を食べてしまった。その実はいかにも美味しそうで、賢くなるようにも思えたからだと、理由まで書かれてあります。食欲に振り回され、人よりも賢くなって、常に優位に立ちたいと思う。その原因はここにあったのかと、改めて考えさせられます。そうして善悪を知る者になった人間が、最初に知ったことは、自分が裸だということだった。それで慌てて、イチジクの葉っぱで腰を覆ったという。裸であることに、異常に反応する人間の姿は、やはりここに原点があったのかと思う。そうして人間は、神様との揺るぎない関係を保証してくれたエデンの園を、追い出されることになった。その時に神様は、皮の衣を作って着せられたと言う。それは神様の温かいご配慮かも知れない。しかし一方で、裸であることに支障をきたすようになった人間を、衣を見る事に思い出させる、神様のご配慮なのかも知れません。今日の福音書の中で『人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った』とあります。イエス様は裸で十字架に掛けられたのでしょうか。そうして服を着ている自分たちに満足し、裸のイエス様を嘲笑したのです。しかし神様の目からするならば、どちらが創造された時のままの、本来の人間の姿なのでしょうか。聖書はそこを問われるようです。

更に神様はエデンの園から人間を追い出される時、こんなこともおっしゃられました。創世記3章22-23節『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた』。人は善悪を知る木の実を食べて、神のように善悪を知る者になった。では善悪を知る木の実は、一体誰が創ったのか。人間か。そうではない。それでも人間は、その原点を見ないかのようにして、神のように振る舞う。お門違いをしていると思わざるを得ないのです。同じように、命の木の実を勝ち取って、永遠に生きる者となり、これで完全に神のようになれると思うかも知れない。それでも、ではその命の木は誰が創ったのか。ここにも勘違いが潜んでいる。そして最後に神様は、エデンの園は追い出されたけれども、エデンの園から取って来た土を、人間に耕させることにしたという。これも、神様の奥深い配慮が透けて見えるようです。土を耕す毎に、エデンの園を覚える。しかもその土から人間は創られたものだ。そうやって、人間の今の事態を考えさせるようなのです。今や人間は、あたかも単独で、自分の力で生きて行けるかのように振る舞う。救いも人間の力で勝ち取る事が出来るかのように考えている。

今日の福音書の中に、そこに立ち会う人間の口から、繰り返し発せられる、同じ言葉が出てまいります。35節『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』。37節『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ』。39節『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』。ここに立ち会う多くの人間たちは思っている。自分を救うことが出来るのが神なのだと。それが出来ないのは、神ではないのだ。人間が思う神は、自分の力を誇示するものなのだ。だから人間も、それが出来ると思えば、神になれるのだ。更にこのような、自分の力を誇示させる言葉は、ルカ福音書の最初から、投げかけられています。しかも悪魔が語ったように描かれています。ルカ4章3,9節『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。・・神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ』。このようにして、徹底的に神様との関係が、あるいはイエス様との関係が、妨害させられるような働きを見るのです。しかも人間が自ら、神様との関係を断ち切るかのようにして働くのを見るのです。

そんな人間と、父なる神様との関係の回復は、十字架のイエス様によって果たされるのです。イエス様は語られます。ルカ9章24節『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである』。十字架のイエス様はこれを、父なる神様との間で実践するのです。一方私たち人間は、本来の人間の姿を忘れ、自分で自分を救う方向に、相変わらず向かい続けています。それはイエス様の再臨の時まで続くのでしょうか。もちろん一人一人の人間によって、転換の時は異なるでしょう。今日の福音書には、一人の人間が、その方向から離れて、本来の人間の姿に向き直ったことを伝えます。ルカ23章42節『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』。一人ひとり異なる時と場において、それぞれの口から、同じこの同じ言葉が聞かれるように、イエス様は待ち続けて下さいます。そうして再臨の時には、全員が救いに至る。ここに救いの完成を見ます。

再臨のイエス様を待つ私たちですが、一方で、待っておられるのは実はイエス様なのかも知れません。来週から教会カレンダーでは新年です。待降節に入ります。誰が誰を待つのだろうか。キリストの教会によって、もう一度問い質されて行きたいのです。

待降節第1主日

『目を覚まして』マタイ24:36-44

 キリスト教会独自のカレンダーでは、本日が一年の始まりの元旦になります。そしてこの一年は、福音書は主にマタイ福音書が与えられます。今日は待降節第1主日と呼ばれる日曜日で、救い主の到来を待つ期節になります。その救い主はイエス様ですが、人間の赤ちゃんとして誕生しました。その誕生日をクリスマスとしてお祝し、それが救い主の到来の出来事になったわけです。今日からクリスマスツリーなどが、1月6日まで飾られます。このクリスマスは、救い主の第一の到来になります。そして、今やキリスト教会は第二の到来、いわゆるキリスト再臨を待っているものです。待降節では改めて『待つ』ということについて、聖書に聞いて考えて見た

いと思います。

今日の福音書の場面は、キリスト再臨の時を想定しているようです。『その日、その時は、だれも知らない』と聖書は言います。更に『だから、目を覚ましていなさい』と言います。同じように最後の所でも『だから、あなたがたも用意していなさい』と言います。いつ再臨の事が起こるか分からないから、目を覚ましていなさい、用意していなさい、というのです。では具体的に『目を覚ましている』というのは、どのようにすることか。あるいは『用意をしている』というのは、どういうことなのか。今日の聖書はノアの時を取り上げます。ノアの生き様が『目を覚ましている』『用意をしている』ということと、関係があるようです。

創世記6章9節以下に『ノアの物語』が記されてあります。『ノアは神に従う無垢な人であった』ということです。『ああ、やっぱりなあ』と思います。いわゆる信仰熱心で、神に従順な人が『目を覚ましている』『用意をしている』人だと、聖書は言うんだろうなあと思います。そうするとノアのこのような生き様は、自分には無理かなあと思いながらも、少し創世記から見てまいります。世の中が余りにも堕落していたので、とうとう神様は思い余って『わたしは地もろとも彼らを滅ぼす』とノアに告げます。続けて箱舟を作れと言われる。その大きさは、長さ135m、幅22.5m、高さ13.5mで、その構造は三階建てだと言う。ちなみに、この戸塚ルーテル教会の建物は、長さ35m、幅25m程の三階建てです。そしてノアと契約を立てて、妻子や嫁たちは箱舟に入るから、滅ぼされることはないと言われた。更にすべて命あるもの、肉なるものを、雄と雌とのつがいにして、箱舟に入れよと言われた。これらの言葉に対するノアの反応は、何も記されてありません。ノアのことだから、黙ってもくもくと、言われたようにしたんだなあと思うばかりです。それにしても、これらの事を一人でするとしたら、これは大変な労力と日数が掛かるでしょう。それこそ完成する先の事を考えたら、自分だったら止めてしまいそうです。しかし、コツコツと毎日、目の前のしなければならないことを、1mmでも進めて行くのがノアなんでしょう。世の人々は、いわゆる快適・効率・便利の世界を享受しています。ノアの生き様は、真逆です。そんなノアの姿を通して、世の人々の中には、悔い改めさせられることも、あるのかも知れません。そうやってノアは、いわゆる伝道させられるのです。もちろんノアは、伝道だなんて、そんなことを意識するはずもありません。とにかく、そんなふうにギリギリまで、むしろそこでかかる時間によって、堕落している世の人々が、悔い改めに導かれる時間稼ぎにもなるのかなとも思います。そのように神様は、世の悔い改めを、待っていて下さるのでは、とも考えられます。

そうしてどのぐらい経ったのでしょうか。神様の言葉の通りに、結局、大洪水が起こされた。箱舟の中にいたノアたちは、とりあえず溺れずに済みます。しかしその中で、結局一年程を過ごすことになるのです。たくさんの生き物も一緒です。餌もあげなければなりません。大変な重労働でしょう。食べれば、生き物ならば糞尿を出します。その臭いも充満するでしょう。舟の中の空調はいかばかりでしょうか。またあちこちで、たくさんの鳴き声も上げられるでしょう。そんな騒音も尋常ではないでしょう。逃げ出そうにも、どこにも行くことが出来ない。よく耐えられるなあと思います。水が引いて、ようやく外に出た時、神様は『今後、このような洪水は起こさない』と言って、ノアと契約を立てます。その時に雲間から出た虹を、契約のしるしとしました。

ノアのような生き様は、ノアだから出来たのであって、自分のようなものには、とても出来そうにありません。しかし今や私たちには、教会が与えられています。教会は少人数だとしても、ノアのように、一人ではない。だからこんな自分でも、キリストの教会によって『目を覚ましている』『用意をしている』ということは、出来るのではないか。ただし教会には、それでも色々な背景を持った人間たちが、集められています。一人では出来ないことだらけですが、一人ではないので、たくさんのぶつかり合いも起こるでしょう。ですから、自分を絶対化しない。いつでも、相対化出来るように、そんなふうに『目を覚ましている』『用意をしている』ように促されます。そうやってまず、互いに互いを受け入れ合うようにして行きたいのです。更にまた、ものの見方も、一面的にならないようにして行きたいです。そのために、自分が持つ、様々な先入観や思い込み価値観から自由になりたいのです。そのように『目を覚ましている』『用意をしている』ように促されます。

先週の火曜日、園庭で子どもたちと遊んでいる時でした。何人かの子どもたちが『虫が死んでいる』と言って、私の目の前に、つまんで差し出しました。見たら、ゴキブリでした。私は慌てて、地面に捨てさせて、触らないようにと言い続けました。それでも、子どもたちは、がやがやと触ろうとしていました。担任の先生が、側に来て、さりげなく処理して下さいました。私はその時に初めて、子どもたちには、ゴキブリに対する、否定的な感情は無いんだと気付かされました。先生に確認したら、やっぱりそういうことでした。大人は、色々な先入観やら価値観に染まっているからこそ、むしろ窮屈になっている。どんな虫でも、虫は虫なんだという、子どもたちの、何の先入観も持たない自由な姿が、新鮮に映りました。クリスマスの出来事も、考えさせられます。田舎の小さな村の、家畜小屋の飼い葉桶に眠る、しかも乳飲み子が救い主だなんて、一体誰が想定出来るでしょうか。そんな価値観は、誰も持ち合わせてはいないのではないか。もっと別の、立派な先入観や思い込みなら、いくらでも抱けるのです。

教会学校のクリスマスの祝会では、小学科の子どもたちは『靴屋のマルティン』という絵本を基にした劇をします。今、練習に励んでいます。こんな内容です。明日、イエス様に会えるとの、夢でのお告げを受けて、マルティンは翌日、待ち続けました。しかし窓から目にしたのは、寒そうに雪かきをしているおじいさんで、温かいお茶を差し出しました。次に目にしたのは、赤ちゃんを抱いている薄着のお母さんで、スープとパンと自分の上着を差し出しました。続いて、リンゴどろぼうをした少年と、それを捕まえるおばあさんでした。少年と一緒に謝って、赦してもらいました。結局、イエス様には会えませんでした。がしかし、その日の夜にイエス様の声が聞こえて、昼間会った人たちこそ、みんなイエス様だったと知らされたのです。今日の福音書の少し後の、マタイ25章31節以下の箇所がベースになったお話しです。ちなみに、来年11月26日の聖霊降臨後最終主日に与えられている福音書の箇所です。

キリストの教会によって、これからも『目を覚ましている』『用意をしている』ように、この毎日を相応しく生きるようにして下さい。