からし種 420号 2024年5月

復活節第2主日

『わたしの主』ヨハネ20:19-31

先週の3日(水)からまた、新年度の聖書研究会が再開されました。テキストはカトリック教会の神父様の、井上洋治さんの著作を用いています。先週は『迫害者パウロの回心』というテーマの所でした。パウロは新約聖書に掲載されている書簡26巻の中、13巻の著者だと言われます。そんなパウロは熱心なユダヤ教徒として、異端的なクリスチャンを迫害する者でした。そのパウロがキリスト教を宣教する者へと、180度作り変えられてしまったわけです。何故、そんなことが起こったのか。その背景には、彼の育った環境や、受けた教育が大きく影響していたと、井上さんは書いておられます。彼はいわゆるディアスポラのユダヤ人で、今のトルコ地方のタルソスという町の出身でした。その地方は、アレキサンダー大王の侵略を受けて以来、ギリシア文化の影響強く受けていて、当時も日常会話はギリシア語だったそうです。ですからパウロも、ギリシア語を話していたはずです。いわゆるギリシア的文化と教養を身に着けていた。一方で、ユダヤ人ですから彼の受けた教育は、ユダヤ教に根差した宗教教育だったはずです。

彼の中には、ユダヤ的なものと、ギリシア的なものとの両方とが、混在していた。ユダヤ的なものとは、一言で言えば『神中心的』であり、しかもその神は、律法を通して、怒りと裁きとをもって、人間を支配するものです。ギリシア的なものとは、一言で言えば『人間中心的』であり、知力に優れていれば、人間が神のようにもなれるというものです。そのパウロが、ガラテヤの信徒への手紙1章13-14節で次のように書いています。『あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました』。このパウロの言葉からは、いわゆる自分の人間的能力が、いかに優れているかを誇るような、そんな思いも強く伝わって来ます。それは、神中心的ユダヤ教徒としながらも、一方で他者と比較しながら、自分の能力を誇り、結果的に神のようにしてしまっている姿です。そんな神中心と人間中心の、矛盾した二つを抱えながら、パウロは当初は、それが矛盾とは思わなかったかも知れない。しかし次第に矛盾を感じつつあった時ではなかったか。その時とは、使徒言行録9章にある時です。クリスチャン迫害に向かう途上で、天からの復活のイエス様の声を聞いた。光を浴びて目が不自由になり、周りの人々に助けられて、ユダと言う人の家に連れて行ってもらった。同じように復活のイエス様によって送られたアナニヤという人物によって、目が見えるようになった。そして回心し、宣教者とされた。

神中心としながらも、本音は自分という、人間中心に生きて来たことに気づかされた。それは目が不自由になって、自分一人では何も出来ない事に気づかされたからではないか。しかもそんな自分を助けてくれたのは、アナニヤにしてもユダにしても、それから手を引いてくれた人々も、みんな自分が迫害しようとして来た人たちだったのだろう。怒りと裁きの神様だと思っていたのに、愛と赦しの神様であることも知らされた。それがユダヤとギリシアの矛盾があればこそ、真の神との出会いに導かれて行ったのではないか。

先週も触れましたが、イエス様の十字架上の死を目の当たりにして『本当に、この人は神の子だった』と告白した、ローマの百人隊長。彼は、神の子を自称するローマ皇帝に仕え、ユダヤ人ではなかった。彼もギリシア的な背景から、神の子とは、まさにローマ皇帝のような、人間的能力に優れた、神のような知恵と権力に溢れた者だと思っていた。ところが彼が見た十字架のイエス様は、それとは全く真逆の、全ての人間たちの底辺にたたずむ、極めて無力な者だった。それだけにむしろ、人間中心的な能力を、徹底的に打ち砕くかのように見えてしまった。そうして百人隊長の琴線に触れたのではないか。あのパウロが、ユダヤ人とギリシア人を比較して、次のように書いているのです。1コリント1章23-25節『わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです』。

 そして、今日の福音書の場面です。十字架の主を見捨てて『弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた』という。この弟子たちは、いわゆるイエス様の十二弟子と呼ばれる中の、十一人だった。彼らはユダヤ人であり、神中心的ユダヤの宗教教育を受けて来た者です。そんな彼らは、先生と慕っていたのにも関わらず、その先生のイエス様を見捨ててしまった。これはユダヤの伝統からすれば、裏切り行為になります。少なくとも彼らにして見れば、神様の怒りを招くと思っても不思議ではない。その怒りは、どんな形で現わされるのだろうか。今日の場面では『ユダヤ人を恐れて』とあります。イエスの仲間として、逮捕されてしまうことへの恐れでしょう。もう一つは神の怒りとして、例えばイエス様の祟りと申しますか、亡霊のようなものへの、恐れもあったのではないか。亡霊であれば、通常は部屋の片隅の方から、と想定するでしょう。ところがイエス様が現れるにしても、聖書は次のように記しております。ヨハネ20章19-20節『・・そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるように、と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ』。イエス様の登場の仕方が、亡霊のようではない。真ん中に立たれる。しかも『手とわき腹とをお見せになった』というのは、脅かすようにではなくて、むしろ正真正銘の私だと、安心させるかのようなのです。だから『弟子たちは、主を見て喜んだ』のではないか。

更にそんな弟子たちが、復活のイエス様を宣べ伝える者として、もう一度用いられるという宣言を受けたのです。ここで弟子たちは確信しました。この神は、怒りと裁きの神ではなかった。愛と赦しの神なのだ。この主イエス・キリストの神を、もう一度宣べ伝えさせていただくのだ。

 ところがこの時、この場にいなかった弟子がいました。『ディディモと呼ばれるトマス』です。他の弟子たちが、イエス様に会ったと言っている事に不満を抱きます。『どうして、自分だけ仲間外れなんだ』。それで怒りの余りに『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手そのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』とつぶやいた。最初にイエス様が現わされた時に、他の弟子たちにして下さった事を聞かされたのでしょう。だから、それに当てつけて、更にその傷跡に手を入れると言ったのです。ここにも彼の怒りが、伝わって来るようです。そしてその日から八日後に、再びイエス様が同じようにして、彼らが隠れる家の中に入り込んで来た。その時にはトマスもいた。そんなトマスに向かって、今度はイエス様の方から、私の傷跡に手を入れ見なさいと、言われてしまった。

 それでトマスは『わたしの主、わたしの神よ』と言った。トマスはてっきり、イエス様は自分の存在など、全く視野に無いと思っていた。ところが八日前のあの自分の会話を、イエス様はご存じだった。それに気づかされた時、このイエス様は誰の主や神でもない。『わたしの主、わたしの神』なのだ。彼はもはや『見ないのに信じる人に』なるのだ。イエス様は、私が見る前に、既にこんな私を見ていて下さるからだ。

復活節第3主日

『まだ信じられず』ルカ24:36-48

今日の福音書の始まりは『こういうことを話していると』となっております。いわゆるイエス様の十二弟子と呼ばれた中の、十一人とその仲間の者たちが、話し合いをしていた。そしてその『こういうこと』というのは、すぐ前の聖書箇所24章34-35節です。即ち『本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した』。シモンとは弟子のペトロのことです。まず彼に復活のイエス様が現わされたと、話し合っていたということです。その内容は、こういうことです。ルカ24章1節以下で、婦人たちがイエス様のお墓に行った時に、遺体が無いことが、そこにいた天使から知らされた。それでイエス様が復活したことを、ペトロを始めとする弟子たちに知らせたというものです。他の弟子たちは信じなかったわけですが、ペトロだけは墓に見に行って、確かに遺体が無い事を確認しました。イエス様を一番に裏切った後ろめたさと恐れから、ペトロだけは見に行ったのでしょうか。しかし遺体が無かった。遺体が無いからと言って、即、イエス様が復活したと言えるだろうか。誰かが遺体を隠したとも考えられる。この話し合いでは、ペトロに現れたと言っている。ですから、遺体が隠された方ではなく、復活したと受け留めたのだろうか。いずれにしても、どちらの方を取るのか、二つの選択肢が示されます。

それから『二人』と記された弟子たちの話しです。エルサレムから、エマオという自分たちの村に帰る道の途上で、イエス様に出会った事を話したようです。それはルカ24章13-31節に記されてあります。帰り道を歩く二人に、復活されたイエス様ご自身が近づいて、エルサレムでの十字架の出来事や、聖書の話などをしたということです。しかし二人の目が遮られていたので、イエス様だとは分からなかった。そして興味深い話に引き込まれた二人は、その人物を自分たちの家に泊まるように招いて、一緒に食事をした。その人が賛美の祈りを唱え、パンを裂いて自分たちに渡してくれた時、二人の目が開け、イエス様だと分かった。しかし、その姿は見えなくなったということです。ここでまた、更に別の選択肢が示されます。復活されたイエス様は、現実的なものなのか、それとも霊的なものなのか。

そして今日の福音書の場面です。最初の選択肢から、遺体は無いけれども、それは復活されてどこかに行かれたからだ、という方を選択したんでしょうか。ではその復活は現実のものなのか、いわゆる霊的なものなのかと、更に話し合っていたんでしょうか。そこにイエス様が真ん中に立たれて『あなたがたに平和があるように』と言われた。弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ていると思った。ということは、復活のイエス様は、霊的なものだと、弟子たちはそちらの方を、選択しつつあったのだろうか。そんな弟子たちの選択を否定するかのように、復活のイエス様は、手や足をお見せになった。そして、骨や肉もあるのだから、霊的ではない現実だとお示しになった。それでも弟子たちは信じられないようだった。それで、焼いた魚を一切れ、弟子たちの目の前で食べられた。そうすると、またまたここで、もう一つの別の選択肢が示されるのです。霊的ではなく現実の生身のイエス様を、この肉の目で見たから、イエス様は復活したと言うのか。それとも肉の目で見ないでも、イエス様は復活したという選択肢は無いのか。弟子たちは、そして今の私たちは、どちらを選択するのだろうか。

聖書は続けて次のように言います。ルカ24章45-48節『そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。次のように書いてある(イザヤ53:1-12,ホセア6:2,イザヤ49:6)。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる、と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』。イエス様が、心の目を開いて、聖書を悟らせる、と言っています。それは、肉の目で聖書の字面を見るように読むのとは、何か対照的なようです。では『心の目を開いて、聖書を悟る』とは、具体的にどんなことが行われるのだろうか。それはこの場でも、しばしば申し上げて来たことですが、聖書に書かれてある字面から、書かれていない行間を読み込まされる、あるいは、書かれていないその先の余韻を感じさせられる、ということではないかと思うのです。

そしてもう一つ注目させられるのは『罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と言っています。『悔い改めが宣べ伝えられる』。誰が宣べ伝えるのだろうか。それは、悔い改めるその人間ではなさそうだ。人に言われて、はいそうですか、と出来るようなものではない。ならばやっぱり、復活のイエス様が宣べ伝えるのだろう。それで、イエス様が宣べ伝える『悔い改め』とはなんだろうか。それは結局、悔い改めさせられた人間の生き方、と言っても良いのではないか。『悔い改める』とは、言葉としては『考えを変える・方向を変える』という意味です。生き方を変えられた人間が、宣べ伝えられる、ということなんだろう。そういう人間を聖書は『証人』と呼んでいる。生き方を変えられた人間は、冒頭の三種類の選択肢から、どちらの方向を選択させられたのか。イエス様の遺体が墓に無かったのは、復活されたからだ。復活のイエス様は、亡霊のようなものではない。そしてもはや、見たからではなく見ないで、イエス様は復活されたのだ。

今日の第一日課は、あの弟子のペトロが、神殿で説教をしたという場面です。この説教をする前に、ペトロは足の不自由な人に向かって『ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』と呼びかけて、その人が歩けるようにしました。それを見た周りの人々は、少なくともペトロが行ったと、驚嘆の目を向けます。そんな人々に向けて、ペトロは次のように言いました。使徒3章15-16節『・・神はこの方(イエス)を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。あなたがたの見て知っているこの人を(足が不自由だった人)、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです』。かつてのペトロの生き方なら、自分の力や信仰を誇っただろう。しかし今や、生き方を変えられたペトロは、イエスの名を誇るように悔い改めて、選択を変えさせられたのです。そのようにキリストの証人になりました。

 主よ、こんな私の心の目を更に開いて、悔い改めさせられて、生き方を変え続けて下さい。キリストの証人とさせて下さい。

復活節第4主日

『わたしは命を捨てる』ヨハネ10:11-18

今日の福音書は『わたしは良い羊飼いである』と言う、イエス様の言葉から始まっております。聖書では、しばしばこのように、言わば神様と人間との関係を、羊飼いと羊に譬えることがあります。羊の習性として、羊は誰かが導いてくれないと、群れだけでは、例えばどこへ移動したら良いのか、どうすることも出来ないものなのだそうです。そこで羊飼いが、導いてくれるので、羊たちは行くべきところへ行くことが出来るのです。ですから、神様が人間を導いてくれると信じる関係に、譬えられるわけです。それにしても、この最初の言葉は、一般的に、イエス様は良い羊飼いのようだと、伝えようとしているわけではありません。これを語ったイエス様の思いを込めて訳し直すとすれば『わたしこそ良い羊飼いである』あるいは『わたしが良い羊飼いである』ということになるはずです。と申しますのも、この後イエス様は、雇われ羊飼いに言及しているからです。彼らは、何か危険な事があれば、直ぐに逃げ去ってしまうからだと言うのです。結局彼らは『羊のことを心にかけていない』と言い切られています。しかし、わたしは違う。だから『わたしが良い羊飼いである』というニュアンスになるのです。

そこで、もう少し具体的に、良くない羊飼いのような人たちのことが、描かれている個所を捜して見ますと、ヨハネ9章に記されていると思うわけです。少し概観します。ここはイエス様が、目の不自由な人を、安息日に癒されて、目が見えるようになったという事です。そして、イエス様に敵対する人々の状況が、色濃く描かれるのです。安息日は、一切の労働行為をしてはいけないと、神様の律法で定められていました。癒し行為も労働だと見なされていました。ですからイエス様はここで、明らかに律法違反を犯したのです。特に神様の律法を重要視している、ユダヤ教の一派のファリサイ派の人々は、イエス様を罪人だと見なすわけです。とにかくそんなイエス様の行為に対して、次のような反応が記されてあります。ヨハネ9章16節『ファリサイ派の人々の中には、その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない、と言う者もいれば、どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか、と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた』。

イエスという男は、一体、何者なんだ、罪人なのか神からの人なのかと、ファリサイ派の中でも、評価が分かれてしまう程でした。それで更に、目が見えるようにしてもらった人を捕まえて、次のような会話をしています。ヨハネ9章24-25,33節『さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。彼は答えた。あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。・・あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです』。律法違反者を擁護するような返答をすれば、自分もその仲間だと見なされてしまうかも知れません。それを恐れずに、この目が見えるようになった人は、イエス様のことを、神からの人だと告白したのです。目が見えるようになったという事実が、仲間外れを恐れることなく、大胆にイエス様のことを告白出来たのです。

一方、それとは対照的に、自分たちの常識や伝統や地位や名誉や建前を守るために、現実を直視することを恐れる人たち。だから、彼らが大切にしている律法に込められた、神様の真実を見る目も遮られてしまっていた。少なくとも『目が見えるようになって、良かったね』と、喜びを共有するよりも、律法違反を厳しく裁く方にばかり、身も心も傾いてしまっていたのです。まさに『羊のことを心にかけていない』ような状況に、陥ってしまっていた。神様の律法を、無意識にも、他者裁くための道具にしてしまっていた。最後の方でイエス様は、次のようにおっしゃられるのです。ヨハネ9章39節『イエスは言われた。わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』。

『裁くため』と聞きますと、どきっとしてしまいます。それは人を裁くのに汲々としている、ファリサイ派の人たちに当てつけるようでもあります。ここでイエス様が言う裁きとは、次のように聞きます。『ありのままの自分を直視しようよ。たとえそれがだめなあなたでも、私こそ、そんなあなたを受け入れるよ。だからあなたも、私がそういう者だと、信じて受け入れていいよ。自分を良く見せようとしなくてもいいんだよ。そんなことは、所詮、出来ない事は、私が良く知っているよ』。これを今日の聖書は、イエス様の言葉で、次のように記しているのです。ヨハネ10章14-15節『わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる』。だめなあなただから、だめだと見捨てるのではなくて、だめだからこそ、そんなあなたのために、イエス様は命を差し出すように、十字架に掛けられた。父なる神様もまた、そんなイエス様の思いはよくご存じなのだ。イエス様の復活は、だからそんな父なる神様の思いが、現わされているものなのだ。

更にイエス様は、次のようにもおっしゃられます。ヨハネ10章16節『わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる』。この言葉を聞いて『この囲い』とは、こんな自分が勝手に作ってしまっているものかも知れない。それをここでもイエス様は、当てつけておられるのかも知れない。だめな自分でも、そんなありのままの自分を差し出して、それでもイエス様は、そんな自分を受け入れて下さっているではないか。ならば『この囲い』があるとすれば、自分だけが入っているわけではないし、そんな自分を誇れるはずもない。そんな自分が語れる言葉は、むしろ囲いの外にいると言われる人のためにあるはずではないか。だからこそ、イエス様がおっしゃられる、囲いの外にいる人も、イエス様の声を聞き分けることになるのかも知れません。

もう一度、今日の「主日の祈り」を祈ります。『良い羊飼い、主キリスト。あなたは失われた者を捜し求め、群れの中に導き返してくださいます。あなたの羊を癒し、健やかに養ってください。父と子と聖霊の一致の中で、私たちを今も後も永遠に一つにしてください』。

復活節第5主日

『つながっている』ヨハネ15:1-8

先週の福音書はヨハネ10章11節以下からでした。『わたしは良い羊飼いである』と言う、イエス様の言葉から始まっていました。聖書はしばしば、神様と人間との関係を、羊飼いと羊に譬えることがあります。羊の習性としては、常に集団で群れるのだそうですが、その際には必ず羊飼いが必要なのです。羊飼い無しでは、移動するにもコントロールが利かないのだそうです。神様と人間との間でも、神様の正しい導きがなければ、人間集団も正しい方向に進めないというわけです。イエス様がここで『良い羊飼い』とおっしゃられているのは、一般的に『自分は良いものだ』と言っているわけではありません。『良くない羊飼い』がいるので『わたしこそが良い羊飼いなのだ』という、特別な思いが込められているのです。

その特別な思いとは何か。これまであなたがたが教えられ、知っている羊飼いとは違うという。何か良い事をすれば褒めてくれるけれど、悪い事をすれば、赦してくれない。更には、見捨ててしまうのが、今までの羊飼いでした。だからあなたがたは、そんな羊飼いの顔色を伺いながら、びくびくして過ごさなければなりませんでした。しかしイエス様の羊飼いは、私たちが何か悪い事をしたとしても、所詮、人間は大なり小なり、悪い事をしないで生きられるものではないことを、よくご存じなのです。そんなふうに、ありのままの人間を、まず赦して受け入れて下さるのです。悪いものを裁いて、遠くから突き放すのではない。悪いものに寄り添いながら、悪いものと共に、良い方へと導いて下さる。だから『わたしこそが良い羊飼いである』と、おっしゃられる。先週は、そんなふうに申し上げました。

今日の福音書の箇所も『わたしはまことのぶどうの木』とおっしゃられています。ここでも『まことの』と、わざわざおっしゃられています。ということは『まことではない、嘘のぶどうの木』のことを念頭において、イエス様はおっしゃられているのでしょうか。旧約聖書では、イスラエルの民が、しばしばぶどうの木に譬えられています(cf.詩編80:8-15,イザヤ5:1-7,27:2-6,エレミヤ2:21,エゼキエル15:1-6,17:1-6,19:10-14,ホセア10:1,etc)。ぶどうの木は、ユダヤではお馴染みで、平和と豊穣の徴とされて来ました。特にイスラエルの民の最大の救いの出来事として、エジプトでの奴隷状態から、神様が脱出させて下さった出来事がありました。そうやって神様が、約束の地カナンへと導きだして下さったことを、聖書は『あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました』(詩編80:9)と記しています。しかし、イスラエルは神の期待に反して、悪しき酸っぱい実を結ぶぶどうの木となってしまった(イザヤ5:2)と言うのです。言わば偽りのぶどうの木になってしまった。

にもかかわらず、イスラエルの民は、自分たちが神の選びの民であり、相変わらず神の祝福の継承者だと誇って来ました。それ故に、イスラエル以外の民や、聖書の教えに反する者を裁いて来ました。そんな背景の中でイエス様は『わたしこそがまことのぶどうの木だ』とおっしゃられる。イスラエルの民は、自分たちが『選ばれたぶどうの木』だと思っているかも知れない。しかし、そうではないんだ、というわけです。もはや祝福の基は、イエス様ご自身なんだ。だから祝福に与りたければ、とにかく、まことのぶどうの木である、イエス様につながって、実を結んで行きなさいというわけです。自分が神様によって選ばれたぶどうの木だから、当然、祝福されるものだ。そうやって、選ばれていないものに優越感を持ち、もっとたくさんの実を結んでやろう、自分よりも少ないものを見下してやろう、そんなふうに思って来た者たちにとっては、大変なショックだったでしょう。それだけなら、まだましかも知れない。何をばかなことを言っているんだと思う者たちも、たくさんいたでしょう。実を結ぶ事が、自分の地位や名誉を高め、財産を多くすることだと思っているからです。

では今日ここで、イエス様がおっしゃられる『実を結ぶ』とは、何を意味されているのだろうか。それを考えさせる言葉が、今日の箇所の中にあります。ヨハネ15章3-4節『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない』。まず前半の『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている』という。清いとか清くないとか、唐突のように思われます。しかしその前の2節『わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる』ともおっしゃられています。父とは、父なる神様のことです。『取り除かれる』とは、言わば父なる神様による、罪の裁きに出会う、ということでしょう。しかしイエス様の言葉によって、清くなるということは、イエス様による罪の赦しを受け入れて、だから、父なる神様による罪の裁きを免れるのです。それにしても、つながっていながら、実を結ばない、というのは、何か矛盾するようにも思います。つながっていれば、必ず実を結ぶようにおっしゃられているからです。それはもしかしたら、あり得ないことを、敢えてここで強調するように、おっしゃられているのかも知れません。イエス様の言葉を聞いて、清くされたものは、必ずイエス様につながってしまうという。ここにイエス様の自信のようなものが、込められているように思います。だから『わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている』とおっしゃられるのでしょう。

イエス様につながって、実を結ぶということは言わば、もはやその実は、こんな私が用いられて、こんな私を通して結ばれる、イエス様の実だということでしょう。その実とは『神の愛』です。今日の第二日課1ヨハネ4章10-11節『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです』とあります。そして人間たちが、互いに愛し合う一つの姿を、今日の第一日課、使徒8章26節以下に描かれてあります。エチオピアの女王カンダケの高官が聖書を読んでいた。分からないことがあって、手引する人を求めていた。その手引のために、主の天使から伝道者のフィリポが、この高官の所に遣わされた。高官は復活の主イエス・キリストを救い主と信じ、フィリポからイエス・キリストのお名前による洗礼を受けた。この高官は宦官でした。宦官は差別の対象にもなっていました(cf.申命記23:2,イザヤ56:3-4,マタイ19:12)。そして彼は異邦人です。普通のユダヤ人であれば、決して近づかない人間です。そんな彼の所にフィリポは遣わされて、聖書の話をし、洗礼のために一緒に水の中に入ったのです。

自分を必要とする者が必ずいて、その者の所に行けと言われ、その言葉に応えるように、出会いが備えられて行く。またこんな自分にもいつか、自分が必要としている者を、主が遣わして下さる事に信じて待って、出会いが果たされる。こんなふうに、互いに愛し合う中でも、主イエス・キリストの愛が、現わされて行くことに感謝します。