からし種 421号 2024年6月

復活節第6主日

『わたしの友』ヨハネ15:9-17

教会独自のカレンダーでは、毎年の読まれる福音書は主に、マタイ、マルコ、ルカの三福音書とし、それぞれの年を、マタイ年、マルコ年、ルカ年と呼ぶこともあります。今年はマルコ年です。ただし、カレンダーの四旬節から聖霊降臨節の最初辺りまでは、毎年ヨハネ福音書が与えられます。今年は3月から5月いっぱいが、ほぼヨハネ福音書になっております。それで改めて、このヨハネ福音書が書かれた目的が、わざわざこの福音書の中に書かれてありますので、そこをまず読んで見ます。ヨハネ20章31節『これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである』。ということは、このヨハネ福音書が書かれた頃(AD100~120年頃)には、イエス様が神の子メシアであることに、疑いを持ち始めていた人たちが、大勢出て来てしまった、ということも考えられます。疑いのきっかけは様々でしょう。例えば信じるが故に、迫害されてしまうとか、いくら信じていても、苦難や悲しみばかり続いてしまって、少しも良い事がないではないとか、そもそも罪とは、救いとは、何なんだ、ということなどでしょうか。このように疑わせるものは、何もこの福音書が書かれた時代ばかりではなくて、今も続いているでしょう。だからこの福音書は、毎年、イエス様の受難を扱う四旬節や、復活を扱う復活節などに読まれるのでしょう。純粋に、特別疑問を抱かせる(罪とは、救いとは、復活とは)期節でもあるからです。いずれにしても、結局、イエス様とは何者なんだという、信仰の窮極に関わる疑問が、絶えず湧き起る中で、それに応えるように語り続けるのが、この福音書なのです。いわゆるキリスト論が語られるのです。あの宗教改革者マルティン・ルターが、死の直前に、妻に語ったそうです。『今、私はお前に最高のプレゼントを残して行く。それはヨハネ福音書だ』。

今日の福音書の場面は、イエス様が十字架に掛けられる直前に、弟子たちに語られたと言う、いわゆるイエス様の告別説教と呼ばれる部分に当たるところです。ここでイエス様が、明確にではありませんが、死んで復活することを、弟子たちに匂わせたわけです。それで、彼らが思い描くイエス像とは違う気配を感じ、揺れ動くわけです。彼らが思い描くものは、自分たちを今支配する、ローマ皇帝さえも打ち砕く、王様のような強いメシアであったからです。彼らの動揺を描く箇所を引用します。ヨハネ14章1節『心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい』。この後、続けて動揺する弟子たちを励ますように、イエス様は、いわゆるキリスト信仰の奥義になるような言葉を、語り続けるわけです。その一環として、先週の箇所があります。イエス様は語られました。ヨハネ15章1節『わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である』。旧約の創世記には、天地万物を創造される父なる神が描かれていますが、人間も神によって造られました。そんな神様と人間との関係を、ぶどうの木を手入れする農夫と、手入れされるぶどうの木に譬えることがあります。しかし、人間は神様の期待に反してばかりだった。それを聖書は、悪い実を結ぶぶどうの木となってしまった、言わば偽りのぶどうの木になってしまった、と表現するのです。

そこでイエス様は『わたしこそがまことのぶどうの木だ』とおっしゃられるのです。それはあたかも、神様と人間との間に割り込むようにして、罪深い人間の仲介者のように振る舞われるのです。とにかくあなたがた人間は、まことのぶどうの木のイエス様に、つながるようにして、神様が期待する実を結んで行きなさいというわけです。そんなイエス様の存在と役割を、イエス様ご自身が次のようにおっしゃられるのです。ヨハネ15章3-4節『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない』。ここで『清い』という言葉が出てまいります。イエス様の言葉によって、清くなるとは、イエス様は、罪を赦されるお方だと、宣言するのです。ここにも、イエス様が何者であるかが、語られているのです。

人間の創造とイエス様の罪の赦し、ということから、次の聖書の箇所が思い起こされました。ローマ5章12節以下です。『アダムとキリスト』という小見出しが付けられてあります。特に18節『そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです』。前半の『一人』とはアダム、後半の『一人』とは、主イエス・キリストです。そうやって、主イエス・キリストを通して、農夫の父なる神様との関係が、正しい状態に回復された人間の生き方が、続けて語られるのです。先週は『実を結ぶ』ということは、互いに愛し合うことだと申し上げました。今日の箇所も繰り返しています。愛し合うその愛は、イエス様の愛です。人間である私が生み出すものでは有りません。イエス様につながっているから、こんな私にも、イエス様の愛が注がれている。更にはヨハネ15章11節『これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである』とおっしゃられています。この『喜び』もまた、イエス様の喜びであって、人間である私が産み出す喜びとは違うようです。ちょうど今朝9時からの教会学校礼拝で読まれた聖書箇所は、ルカ15章1-10節でした。『見失った羊のたとえ』と『無くした銀貨のたとえ』が語られている所です。ここで強調されているのは、悔い改める者が、たったの一人でも、その一人の人間を、イエス様の神様は喜ばれるというものです。人間が、数の多さや、能力の高さを喜ぶこととは、全く異なるものです。

 こうしてイエス様は、父なる神様のことを語られ、ご自身のことを語られるのです。それはまさに、イエス様とは何者であり、だからキリスト信仰と、それによる生き方を示されるのです。しかし、何となく分かることもあれば、依然として疑問だらけでしょう。更に今日の福音書の中で、次のようにおっしゃられます。ヨハネ15章15節『もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである』。これも不思議な言葉です。僕ではなく、友ですから、対等なのです。対等と言うことは、私たちも神になるということではありません。旧約の創世記1章27節では『神は御自分にかたどって人を創造された』とあります。そのことを踏まえてイエス様はここで、改めて『友』と呼んでいるのかも知れません。『友』であれば、疑問があればそれをぶつけることも出来るし、要望や提案も出来る関係だということでしょう。いくらイエス様から聞いたからと言ったって、父なる神様の事を、私のような人間が、完全に理解出来るものではないでしょう。だから、聞いて分かったようなふりをしない。それこそ奴隷状態でしょう。分かるまで疑問をぶつけ続ける。だから『友』なのでしょう。

 イエス様を通して、罪を赦されて、父なる神様に、もう一度つなげられてまいります。そしてまた引き続き、罪とは、裁きとは、赦しとは、愛とは、平和とは、そしてイエス様の喜びとは、そんな疑問を繰り返しぶつけ続けながら、キリストの友なる生き方に、生かされてまいります。

昇天主日

『わたしはみもとに』ヨハネ17:6-19

今日の第一日課は使徒言行録ですが、その1章3節以下を読みますと、復活されたイエス様は40日間にわたって、弟子たちにそのお姿を現わされて、天に上げられたと記されてあります。それでキリスト教会では、復活日から数えて40日目を、主の昇天日と呼び、それを過ぎて最初の日曜日を、昇天主日と定めているわけです。今日のヨハネ福音書の中でも、イエス様は繰り返し『わたしはみもとに参ります』と語られているのは、まさに昇天のことです。十字架の死と復活と、そして昇天。その意味を聖書から聞いて行きたいと思います。

先週の福音書の箇所はヨハネ15章からでした。それは、13章31節から16章33節までにわたる、イエス様による告別説教の中に含まれている個所だと、先週も申し上げました。告別というのは、この場面は、間もなく十字架刑に処せられて死んで、この世から去ってしまうことを念頭に置いていたからです。この説教を直接聞いていた者は、イエス様を先生として従って来た弟子たちでした。彼らにして見れば、彼らが思い描くイエス像とは違うと思い、動揺するわけです。彼らが思い描くイエス像は、自分たちを支配する、ローマ皇帝を打ち負かすような、王様のような強いメシアを想定していたからです。弟子たちの中には、このお方に付いて行って、本当に大丈夫なんだろうかと、疑いを抱き始めて、とうとう、離れ去ろうと思う者たちもいたことでしょう。そんな弟子たちの状況も、イエス様はよくご存じです。ですから、ユダヤではお馴染みのぶどうの木を、たとえに用いて、繰り返し『わたしにつながっていなさい』と、説教を通して語り続けるのです。わたしにつながっていることは、父なる神様につながっていることになる。そのようにわたしは、父なる神様と一体であると語られるのです。

この時の弟子たちに限らず、今も信仰生活を送っている者にとっても、神様に疑いを覚えたり、期待外れだからと、離れ去ろうと思うことは、いつでも起こり得ることだと思われます。イエス様がいくらここで『つながっていなさい』と言ったって、言葉だけでは信じられない。何か、その言葉に確証を与えさせるものは無いのかと、そんなことも思ってしまうわけです。そこで今日のヨハネ福音書の17章全体は『イエスの祈り』という小見出しが付けられてあります。これは別名『大祭司イエス・キリストの祈り』とも呼ばれているものです。言わば、この祈りによって、あなたがたが真の神様に、イエス・キリストによって繋げられていると、確証させられるのだというわけです。今ここで『大祭司』という言葉が出てまいりました。これはエルサレム神殿で、聖所の監督と礼拝奉仕をしている者のことです。福音書の中では、祭司長とも呼ばれています。特に神様とこの世との間に立って、いわゆる『執り成しの祈り』をする、大切な務めを担っていたわけです。

今日の福音書ではイエス様は言わば、父なる神様と、動揺する弟子たちとの間に立って、弟子たちを守って下さいと、執り成しの祈りをしている場面なわけです。人間の大祭司は、地上に居たまま、執り成しの祈りをします。もちろん、これが普通の在り方です。ところが大祭司イエス・キリストは、全く違うのです。ヨハネ17章11節『わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしのように、彼らも一つとなるためです』。執り成しの祈りを、地上で唱えるだけでなく、それを持って、天の父なる神様の身許まで届けるので、父なる神様とイエス様が一つとなるように、弟子たちも父なる神様と一つになる。そうやって、父なる神様に繋げられ続ける、というわけです。ここでも、イエス様が何者であるのか、そして昇天の意味が示されているわけです。イエス様は大祭司のようなお方であり、昇天は、父なる神様と一つとなるようにして、執り成しの祈りを届ける出来事になるのです。

実はヘブライ人への手紙4章14節以下に、大祭司イエス・キリストのことが、次のように記されてあります。ところどころ引用します。4章14節、5章7-10節『さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。・・キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となる』ということです。イエス様の十字架の死、復活、昇天という一連の出来事の全てが、これらの言葉に込められています。いずれにしても、イエス様の昇天は、父なる神様と、罪深いこんな私たちとの距離を、まさに極限まで近づけて下さる出来事になるのです。だから、恐れるな、動揺するな、あきらめるな、何が起ころうとも、イエス・キリストを通して、父なる神様は、私たちの声に必ず応えて下さると確信させられます。

祭司と言えば宗教改革者マルティン・ルターは、信徒とは身分が異なるものとしての、当時の教会の教職者の在り方を批判して、万人祭司とか全信徒祭司性ということを打ち出しました。イエス・キリストを通して、信仰者は神様と一つにさせられているので、信仰者は互いにまた世界に対して、祭司であるというのです。信仰者の集まりであるキリスト教会の祈りは、願い事もあれば、感謝もある。そして忘れてはならないのは、世界の救いのための執り成しの祈りをするものです。その祈りは、主イエス・キリストを通して、父なる神様に必ず届けられ聞かれるのです。

今日、戸塚ルーテル教会では、定期会員総会が開かれます。改めて、執り成しの祈りを委ねられている群れであることを、強く心に留められる時とさせていただこうではありませんか。

聖霊降臨日

『弁護者』ヨハネ16:4b-15

今日は聖霊降臨日です。キリストの教会が誕生した日とも言われます。今日の第二日課の使徒言行録2章1節に『五旬祭』とあります。この日に聖霊降臨があったということです。五旬祭は小麦の収穫感謝祭のことです。イエス様が十字架に掛けられて復活した時のお祭りは過越祭でした。そこから数えて50日目に、五旬祭は行われます。それで今年の復活日は3月31日でした。ですから、その日から数えて50日目が本日の、聖霊降臨日になります。

 そもそも聖霊降臨とは、十字架に掛けられる前に、弟子たちに聖霊が降ると、イエス様が約束されていたことでした。今日の福音書の場面は、まさにその約束の言葉が、語られている場面です。ここはイエス様によります、弟子たちへの告別説教とも呼ばれている所の、一部でもあります。告別とは、これから十字架に死んで、弟子たちよ、あなたがたは、肉の私を見ることが出来なくなる、という意味です。弟子たちは落胆し、不安になり、イエス様との関係を断とうと思う者も出て来るはずです。何しろ十字架に死ぬとは、極刑を受ける犯罪者だ、ということになるからです。そんな犯罪者の一味だと思われれば、自分たちも極悪人のように見られてしまうでしょう。そんな弟子たちの心の動きを察知して、イエス様はおっしゃられます。ヨハネ16章7節『しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る』。

 この弁護者が聖霊のことです。弁護者は原文のギリシア語で、バラクレートスと発音します。直訳しますと『傍らに呼ばれているもの』という意味です。ここでイエス様は、十字架に死ぬことは、あなたがたのためになる、と言うのです。しかし弟子たちも思ったでしょうし、客観的事実に即して言えば、十字架に死ぬことは、起こってほしくない、最悪のことです。イエス様は弁護者なる聖霊が来て、寄り添って、色々とアドバイスしてくれるから、こんな良い事は無いとおっしゃられる。けれども、目に見えるイエス様だから頼れるわけで、弁護者だと言われたって、見えないような訳も分からないものに、安心出来るわけがない。弟子たち人間にして見れば、イエス様がおっしゃられることは、常識的にはマイナスに聞こえてしまうのです。けれども、イエス様はそれらが全てプラスだとおっしゃられる。更にこの後も、イエス様の見方と、この世の人間的見方との違いを指摘するのです。

 ヨハネ16章8節『その方(弁護者)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする』とおっしゃられます。罪についての世の誤りとは何か。それはイエス様を罪人にして、十字架に掛けて断罪することです。それに対してイエス様は、イエス様を信じないこの世こそが罪だと言うのです。義についての世の誤りとは何か。十字架という、言わば木に掛けられる者は、常識的には神によって呪われ、見捨てられたことになる。そういうふうに、神の義が示されて来たと考える。しかしイエス様の十字架は、神に呪われ見捨てられるどころか、むしろ父なる神様の身許に帰ることになることだと言う。だから、十字架こそが神の義だと言うのです。裁きについての世の誤りとは何か。それは、イエス様は犯罪人だから、そういう者を裁くのが正しいことだと考える。しかしイエス様を裁くのが正しい裁きではなくて、むしろイエス様を裁くのが正しいと考える、この世の支配者の方こそが裁かれるのが、正しい裁きだと言うのです。

 このような、言わば逆説的とも思える解釈を、弁護者なる聖霊が寄り添って助けてくれると言うのです。しかし人間は弱く罪深い者です。今日の福音書でも『今は、あなたがたには理解出来ない』と、イエス様はおっしゃられます。でも『今は』なんです。ですから、今ではなくて、後からなら、理解出来るように、弁護者なる聖霊が、悟らせて下さると言うのです。そのことは、具体的にはどのようなことなのだろうか。そのためには、このヨハネ福音書を通して、三つの時が示されていることを考えます。一つ目は、まさに福音書に書かれている、十字架以前のイエス様が活躍されていた時です。紀元30年頃になるでしょうか。そして二つ目は、このヨハネ福音書が書かれた時です。紀元100年頃と言われています。それから三つ目は、今、このヨハネ福音書を読む読者の時です。紀元2024年としましょうか。特にヨハネ福音書が書かれた紀元100年頃に、著者のヨハネは、70年前の過去の、イエス様が活躍されていた頃のことを振り返るのです。この時代も厳しいキリスト教徒迫害を経た時でした。ですから、教会を離れ去る人々もたくさんいた。あのイエス様のことを、改めて強く振り返させられたのです。『ああ、だからあのナザレのイエス様がメシアなんだ。あの時イエス様がおっしゃられたことには、こんな意味があったんだ』と、改めて気づかされて、このヨハネ福音書を書くように、促されてしまったのです。そしてそのように気づきを与え、促すお方こそが、弁護者なる聖霊なのです。

 繰り返しのようになりますが、今日の福音書の少し前、ヨハネ14章26節を引用します。『しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる』。このイエス様の言葉からまた、こんなふうに考えます。今このヨハネ福音書を読む者は、弁護者なる聖霊を信じるならば、こんな自分も、過去の様々な出会いや出来事を振り返って見て、何で自分がこんな目に遭うのかと、その時には分からなかったことがある。しかし後になって、むしろ、そういう意味があったのかと、前向きに気づかされることがあります。その気づきは、主観的で勝手な思い込みに過ぎないと言われることもあるかも知れません。それでも今は、こんな自分にも、弁護者なる聖霊が働いて下さったと、確信します。それからまた必要ならば、弁護者なる聖霊が、更なる気づきへと、軌道修正して下さると信じるからです。繰り返しになりますがそうやって聖霊が、起こってほしくないと思う全ての出来事も含めて、こんな自分にも、大切な意味を教えて下さいます。だからもう一度、希望を持って前に押し出されてまいります。

三位一体主日

『神の国を見る』ヨハネ3:1-17

今日の福音書の直ぐ前のところでは、多くの人々が、イエス様のなさった奇跡の業を見て、イエス様の名前を信じたとあります。しかしイエス様は、そんな人々のことを信用されなかったということです。奇跡を見たから信じたというのが、信用出来ない、ということなのでしょうか。それで続けて、聖書は次のように記しています。ヨハネ2章25節『イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである』とあります。『奇跡を見たから信じた』というのも、人間がよく抱く心の中だと思われます。

そこで今日の福音書は、イエス様とニコデモという、ファリサイ派に属する議員さんとの会話の場面です。このニコデモの姿から、人間の心の中にあるものを、改めて考えて見たいと思います。まず、彼は夜にイエス様の下に来た、ということです。昼間の仕事を終えて来た、とも考えられます。しかしまた、もう少し悪く解釈すれば、人目を忍んで、ということも考えられます。ヨハネ2章13節以下にありましたが、エルサレム神殿での、ユダヤ教団に逆らうかのようなイエス様の行状に対して、かなりの反感を買ってしまっていたと思われます。そんなイエス様の所に、真昼間から訪問していたなんてことが、ユダヤ教団の耳に入れば、特にニコデモが教団の幹部のような立場にあれば、彼にとっては都合が悪くなるでしょう。それでもニコデモが、イエス様のことを、善い意味で興味を覚えて、もっと知りたいことがあるならば、取り合えず人目を忍んでの会話を選ぶだろうなあと思われます。そんなニコデモからは、どっちに転んでも、まずは自分の立場が危うくならないように考える、人間の心の中を垣間見させられます。

そんな彼がイエス様に語り掛けました。3章2節『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行なうことはできないからです』。これはかなり、好意的な見解のように聞こえます。『神のもとから来られた』というのは、まんざら間違ってはいないと思います。『教師』と呼んでいますが、これは、目の前のイエス様は人間としか言いようが有りませんから、せいぜい尊敬を込めて『先生』としか言いようがないわけです。そして『神が共におられる』から、奇跡を行なうことが出来る、という見解も、間違いでは無いでしょう。この時の人間たちが告白し得る、イエス様の正体としては、最大限の言葉でしょう。ですからイエス様も、人間の限界をよくご存じでしょうから、ニコデモの見解を、まずは労って下さっても良さそうな気もします。

しかしこの時のイエス様は、ニコデモの言葉を引き受けるというよりも、話題を違う方向に向けるかのように対応されたのです。何故か。ニコデモの言葉の中から、もう一度振り返ります。『神のもとから来られた』とか『神が共におられる』と言っていますが、これは一見、もっともらしく聞こえます。今でもよく使われて聞く言葉です。分かっているようで、ではどうして『神のもとから来られた』とか『神が共におられる』なんて、言えるのだろうか。奇跡の業を行うからだ、というのがその理由のようです。がしかし、それをしなかった場合には、神とは無関係だとするのでしよぅか。何だか条件付きの見解のようにも聞こえます。

今、条件付きでと申し上げましたが、イエス様の行為に対して、神だ、神ではない等と、条件を付けるのではなくて、人間の側に条件を付ければ、いつでもイエス様が『神のもとから来られた』とか『神が共におられる』というように告白できると、イエス様はおっしゃられるようです。それが3章4節の言葉です。『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』。『神の国を見る』とは『神の支配に与る』ということです。奇跡の業が起こされなくとも、イエス様によって神の支配は永遠不変です。そのためには、人間の側が、新たに生まれることだと、イエス様はおっしゃられる。その時ニコデモは『新たに生まれる』という言葉に食いついたのです。そして彼が思いついたのは『もう一度、母親の胎内に入って生まれる』ことでした。『生まれる』と聞いたら、普通はこんなふうにしか考えられないものなのでしょう。

しかしイエス様は、今もキリストの教会で行われている、イエス・キリストのお名前による、水の洗礼のことを言うわけです。その水を通して、聖霊が注がれるのです。改めて、霊と人間が生きることとの、強力な関係を考えさせられます。そもそも人類最初の人間が造られた時の事を、聖書は次のように伝えています。創世記2章7節『主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった』。この『命の息』が聖霊です。イエス・キリストによる、人間の再創造を『新たに生まれる』と、イエス様はおっしゃられるわけです。更にニコデモを驚かせる言葉が続きます。3章8節『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである』。このイエス様の言葉を、ニコデモはどんなふうに聞いたでしょうか。律法によって、人間の生き方の起承転結が、かっちりとしている事に安心している者にとっては、何ともいい加減な言葉に聞こえたことでしょう。聖霊によって新たに生まれた者が皆、どこから来て、どこへ行くのかを、自分には分からないのだと言うんですから、何とも気持ちの悪い、あり得ない事だと思うのでしょう。イエス様がこの言葉から伝えたいことは、再創造の誕生の主導権は神にあって、人間には無い。これが神の支配に与ることだ、ということです。

冒頭で『イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである』と申し上げました。それは、現実の生活の中では、目に見えるものを第一とし、同じように、自分の力で何とかしようと考える。そんなふうに、現実生活の主導権は、本音では人間にあるように振る舞っている。更にそんな人間でも、そんな本音状態を経て、必ずいつか、神主導の生き方へと、造り変えられることもご存じなのです。それらのことを全てひっくるめて、イエス様は『何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた』というのです。ちなみにニコデモもまた、ヨハネ7章50節では、批判に晒されるイエス様を、擁護するような言葉を投げかけていますし、ヨハネ19章38節では、人目も憚らず、十字架上に死んだイエス様の遺体の引き取りを手伝っています。

改めてヨハネ福音書の冒頭の言葉が思い起こされます。1章12-13節『しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである』。そんな神によって生まれた者について、今日の第二日課ローマ8章14節では『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです』と言っています。そんな神の子は、もはや恐れや苦しみから、解放されるというのです。もし恐れたり、苦しむことがあるとしても、それはイエス・キリストと共に、恐れたり苦しんだり、そして忍耐することになる。だから、全ては栄光の結果に終わる、というのです。

今日は教会独自のカレンダーでは、三位一体主日と呼ばれる日曜日です。三位一体とは、神様の存在のし方を説明するものでは有りません。聖書の神様の、ダイナミックな働きの状態を、一言で言い表すものです。その働きの状態を、今日の福音書では3章16-17節に、次のように記されてあります。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』。父なる神と、独り子なるイエス・キリスト、そしてその父と子からの聖霊によって、キリストの教会が与えられました。

教会によって新たに生まれ、新たな生き方に与らせていただきます。