からし種 432号 2025年5月
四旬節第5主日
『中身をごまかして』ヨハネ12:1-8
イエス様はベタニアに行かれた、ということですが、それまではヨハネ11章54節では、エフライムにいたようです。『それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間をあるくことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された』。エフライムに行ったのは、身の危険を感じての行動だった。何故、そうなったのか。それは、エフライムに行く前は、ベタニアにいました。そこには、親しくしていた、マルタ、マリア、ラザロの兄弟姉妹たちの家がありました。今日の福音書の場面は、もう一度ベタニアに戻って来て、同じマルタ、マリア、ラザロたちの家に招かれた場面のようです。
最初にベタニアに行った経緯は、ラザロの病気の知らせを受けて、駆け付けたことからでした。しかし、死んだ後でした。その時の状況が、ヨハネ11章1-4節に次のように記されてあります。『ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです、と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである』。
『ある病人がいた』で始まって、話しが進んで行く中で、その病人の名がラザロだと明かされます。何か、ラザロという人間に、特別にスポットライトが、当てられて行くようです。そして、今日の福音書の中にありますように、マリアがイエス様に香油を塗った女性だということも、この段階で聖書は記しています。この事も、何か特別感を抱かせます。そして、イエス様が駆け付けた時には、ラザロは死んで墓に葬られた。そして四日も経った後だったが、そのラザロをイエス様は生き返らせました。先程引用しました、11章4節でイエス様は駆けつける前に『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである』と言われました。ここでイエス様がおっしゃられた『栄光』とは何か。普通に考えれば、ラザロを生き返らせたことだろうか。だからラザロにスポットライトが当てられたと思うわけです。しかし、それだけではなかった。いや、人間的常識を超えるような栄光を、イエス様は予告されておられたのですが、後で分かることになるのです。
と申しますのも、このラザロを生き返らせたことがきっかけとなって、聖書は更に次のように記します。ヨハネ11章45-48節『マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を招集して言った。この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』。そして既に、イエス様に反感を抱き、ここでまた、その存在に危機感を募らせた、ユダヤ教の重鎮たちのことを、聖書は次のように記します。ヨハネ11章53節『この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ』。
そこでイエス様も『公然とユダヤ人たちの間を歩くこと』を避けて、冒頭のように、エフライムに立ち去ったのです。そして、ユダヤ人が最も大切にしている過越祭が近づき、イエス様も身の危険を承知で、またベタニアに戻り、マルタ、マリア、ラザロのいる家に落ち着いた。そこには、イエス様にとっての重要な決断が伺われます。過越祭に与るという信仰を取るか、それとも、過越祭を避けて、自分の身の安全を図るか。しかしイエス様は、過越祭に向かわれた。この差し迫った状況は、イエス様の周りにいる人間たちにも、大なり小なり伝わっていたと思います。
敢えて危険の中に、身を晒すかのように、ベタニアのマリアたちの家に戻って来られたイエス様。特にマリアは、会うのはもう最後になるかも知れない。そんなイエス様に、自分は何をもって応えられるのか。悩みつつ、彼女が下した決断は、ナルドという植物の根っこから抽出された、極めて高価な香油を、イエス様の足に塗ることだった。習慣として、来客があれば、その頭に香油を注ぎ、歓迎の意を表すものです。しかし、この時は足だった。今、こうして応えなければ、一生出来ないという、彼女の切羽詰まった、深い感謝と謙遜の思いが、この行動に走らせたのではないか。そこには全く、人間的な思惑や打算は見えて来ない。
それに対して、対照的なのは、弟子の一人のユダだった。もはや破滅に向かわれると思われるイエス様に対して、マリアの行動は、無駄に思われた。それよりも、どうせなら、その高価な香油を売って、貧しい人たちに施す方が、よっぽど有効で、気が利いているではないか。こんなふうにユダの姿を想像しますと、もう一人の弟子の、ペトロのことも思い出されました。ペトロがイエス様から『あなたは私のことを何者だと言うのか』と問われて『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた場面が、マタイ福音書16章15節以下にあります。そしてその直ぐ後にイエス様が、ご自分の十字架の死と復活を、打ち明け始めたのです。それに対してペトロは『そんな縁起でも無いことを言わないで下さい』と、イエス様を脇へお連れして諫めた、その時です。そのペトロに向かってイエス様は言いました。マタイ16章23節『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』。まさにユダも『神のことを思わず、人間のことを思ってい』たのではないか。ヨハネ福音書は、この時のユダは、預かっていた財布の中身をごまかしていたからだと記しています。不正に使ったお金を、何とか補填出来ないかと、考えていたのかも知れません。しかしごまかしたお金の使い道はどうだったのか。自分の一存で、自分を良く見せるために、勝手に、貧しい人たちのためにも、使っていたかも知れません。いずれにしても『人間のことを思っている』ことには違いありません。『中身をごまかす』という言葉から、もう一つ考えさせられます。それは、表面的には信仰者ぶっているように見えますが、中身はそうではないのではないか。一方マリアは、ただ一途に『神のことを思』っていたのだろう。
イエス様はマリアの行動から、ご自分の『葬りの日のために、それを取っておいた』と語られました。十字架の死と復活のためであることを、暗示するのです。そしてヨハネ福音書が指し示す、イエス様の『栄光』とは、十字架の死と復活です。マリアは一途に、ただ『神のことを思』っていただけです。なのに、そんなマリアの思いと行動を、イエス様の栄光を、指し示すものだとした。ラザロの生き返りは、栄光のしるしだと思いきや、人々の殺意を呼び起こし、十字架へと誘うものだった。それは人間的には、結局、失敗だと思う。しかしその十字架こそ、真の神の栄光を示すものだと言うのです。まさに敗北が、勝利へと転換される。それはマリアに表わされるように、一途に神のことを思う人間の、絶望や敗北や失敗もまた、むしろ希望や勝利や成功へと導かれることになるのだと示されるのです。
最後に『貧しい人々はいつもあなたがた一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない』という言葉も考えさせられます。貧しい人々への援助は、あのユダのように、中身をごまかしても出来ることです。つまり信仰は問われない。そういう意味では、いつも貧しい人々はいる。ところが中身をごまかしていては、イエス様がいつも一緒におられることは分からない。与えられる信仰によるからこそ、イエス様がいつもおられることが分かるからです。
キリストの教会によって、私の中身を問われてまいります。
受難主日
『神を賛美した』ルカ23:44-49
今日の福音書の箇所は、イエス様の十字架の死の場面です。その際に『太陽は光を失って、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた』とあります。ここから何を聞き取るのか。どうもルカ福音書はこれらの現象から、イエス様の十字架の死の意味を伝えるようです。まず『太陽は光を失っていた』。今日の第一日課はイザヤ書50章4節からですが、その直ぐ前の3節には『わたしは、天に喪服をまとわせ、粗布で覆う』と記されてあります。まさしく、太陽が光を失って暗闇になる。同時に、喪服と粗布からは、主なる神様が、罪を犯し続ける人間を裁かれる時が来る。そのために人間は、罪を認めて、悔い改めなければならないと言うわけです。
人間たちも罪を認めて、悔い改めることもありました。ユダヤ教の律法には(レビ16章)、特別に任じられた祭司だけが入ることの出来る神殿の聖所で、年に一度、イスラエルの人々のために、そのすべての罪の贖いの儀式を行うように定められていました。その神殿の聖所は、垂れ幕で仕切られていました。そして罪の贖い(代価を支払って買い戻す事)の儀式には、雄牛や雄山羊が用いられました。それにしても、毎年行う儀式によって赦される罪とは何か。そういう罪を、聖書は問題としているのか。聖書が問題としている罪とは、毎年の儀式で解決されるものではないのではないか。そのことを語る聖書の箇所があります。それはヘブライ人への手紙です。この手紙では、イエス様の事を大祭司と呼んでいます。『神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた』というのは、特別な祭司しか入ることの出来なかった神殿の聖所は、もはや誰でも入れるようになったということです。しかも儀式のための雄牛や雄山羊も、必要でなくなった。更には毎年行うことも無い。イエス様が大祭司だからだというのです。
ヘブライ9章9-12節を引用します。『・・すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです』。ここには、律法規定を超えるかのような、文言が目に付きます。大祭司はキリストで、毎年ではなく、ただ一度の十字架の死により流された血によって、大祭司のキリスト御自身が、犠牲の供え物になる。こうして人間の中にはびこる、根源的な罪が贖われる、というわけです。
そこで、十字架の死による罪の贖いの業が、この私と関わるためには、どうするか。それは、聖書が言う罪が、この私の罪でもあることに、気づかされて行くことが肝要です。今日の聖書は、ローマの百人隊長が登場します。彼は十字架のイエス様に立ち会って『この出来事を見て、本当に、この人は正しい人だった、と言って、神を賛美した』というのです。そこで、聖書が言う『この出来事』を見て行きます。この百人隊長が、イエス様と出会ったと考えられるのは、イエス様が、ローマ総督のピラトの下に、引き出されてからだと推測されます。ピラトとユダヤ教の重鎮たちとのやり取りの中で、ピラトはイエス様に、何の罪も見いだせないと言います。またピラトは、たまたまエルサレムに来ていた、ガリラヤの領主ヘロデとの間で、イエス様をやり取りして、まるで物扱いです。責任を互いに、擦り付け合うようです。挙句の果てに、ルカ23章12節『この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである』という。言わば、現地採用のたたき上げ役人と、エリートキャリア官僚との、よくある確執があったのでしょうか。それがイエス様を犠牲にして、敵対する者同士が手を握る人間たち。
ピラトはイエス様を、鞭で懲らしめて釈放しようとします。しかし、民衆の剣幕に押し流されて、イエス様を十字架に向かわせてしまいます。ひたすら自分を守り、責任を逃れて、常に自分を正しい所に置こうとする人間たち。そんな中でイエス様ご自身は、何の言い訳もして来なかった。それどころか、自分を貶めようとする人間たちに向けて、ルカ23章34節『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかしらないのです』と祈っている。これを聞く百人隊長は、驚いただろう。それにしても、何が正しくて、何が正しくないのか、そんなことはどうでも良いような人間たち。ひたすら、自分の安全と利益しか考えない人間たち。そんな中で、一緒に十字架に掛けられていた二人の犯罪人の中の一人が、イエス様が天国にお出でになる時には、こんな私でも、せめて思い出して下さいと語りかける。イエス様は言いました。『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』。この言葉も、百人隊長にとっては、驚きだっただろう。自分も苦しい十字架上で、イエス様は他者の救いを語られる。このようなイエス様から見えるのは、徹底的に自分を捨てて、ただひたすら父なる神様を指し示し続けることだ。だから最後の言葉は、次のようでした。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』。
そんなイエス様と人々との出来事を目の当たりにした百人隊長は『本当に、この人は正しい人だった』と言うように、促されてしまった。それは裏を返せば、自分自身も、これまで見て来た人間たちと、大なり小なり同じ者なんだと、気付かされて行ったからではないか。彼は単なる見物人ではなかった。当事者として立たされていたからです。そして興味深いことに、彼は『神を賛美した』と言うのです。『イエス様を賛美した』とは言わなかった。徹底的に神を指し示したイエス様だからこそ、彼は神賛美へと促されたのだ。ローマの神々の世界の中で、神に並ぶかのように、百人隊長の権威を振りかざして、自分の力を誇ることもあっただろう。そんな彼がここで、イエス様を通して示された、父なる神を賛美した。徹底的に自分の罪を問い質されている。こうして十字架が、彼のためのものだと知らされて行くのだ。
先週水曜日の聖書研究会で、十字架の死と復活のことが話題になりました。死と言うと、動物的な死を考えます。しかし、人間にしかない、人格的な死というものがあるという。いわゆる『人間らしく生きていない』と思う、そんな状態です。それは孤独とも呼ばれ得る。そしてその孤独は、自分一人の力で生きられると思っている、そこが起源になると言うのです。力を誇示して、結局、自己中心的で傲慢になる。そこから他者を軽視する。同時に自分を絶対化する。そして自分が神様のようにもなってしまうのです。それは神様と、他者との関係が断たれている孤独な状態です。それが罪の状態だというのです。そんな罪が贖われるために、イエス様は十字架に死んで下さった。だからその十字架から逆算して行けば、自己中心的で傲慢な、神様のようになっている自分に辿り着くことになる。百人隊長もきっとそうだったのだろう。
今日の福音書の最後に『胸を打ちながら帰って行った』人々や『遠くに立って、これらのことを見ていた』人たちがいたと記されてあります。これらの人たちは、これからどうするのだろうか。ここにも、聖書特有の余韻を感じさせられます。そして今の自分は、どこに立たされているのだろうか。もう一度、キリストの十字架によって、吟味させられて行きたいのです。
主の復活日
『言葉を思い出す』ルカ24:1-12
イエス様の復活と聞きますと、未だに、難しく思う自分があります。そこで今日、聖書から示される事は、復活を見るのではなく、復活を聞く、と言う方向に向きを変えて、考えて見たいと思います。復活を見る、と申しますと、復活を何か、見世物のようにしてしまっているようです。復活を見ようとしている自分は、いわゆる見物人になっているのです。見物人ですから、イエス様の復活が、自分に働きかけて、何かが起こる、ということは考えられません。ただ単に、すごいものを見たね、不思議だね、で終わってしまうのです。ちょうど先々週の四旬節第5主日の福音書は、ヨハネ福音書12章1-12節からでした。そこの中に、ラザロという人物が登場します。彼は病気で死んでしまい、四日も経っていたのに、イエス様が生き返らせたという人物でした。このラザロの復活は、まさに見世物のようでした。大勢の見物人が発生しました。そしてそんな見物人たちに、何か劇的なものが起こされた、という事は伝えられていません。敢えて言えば、殺意を起こさせたというのです。ヨハネ12章9-11節『イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである』。ちなみに復活のラザロの言葉は、聖書には残されておりません。ラザロの復活を聞くということはないのです。
ラザロの復活は、復活を見るという、典型的な人間の姿を映し出します。一方、イエス様の復活は、どうだろうか。見るとするならば、同じように見物人になって、それで終わってしまうかも知れません。ですから、イエス様の復活は『聞く』のです。そのことは、今日の福音書に、はっきりと示されてあります。イエス様の遺体が収められてあるはずの墓に、婦人たちが来ましたが、遺体は無かった。途方に暮れている婦人たちの前に、二人の天使が現れて、生前のイエス様がお話になっていたことを、思い出しなさいと言われたのです。ルカ24章8節『そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した』と、聖書は記します。イエス様の復活は、イエス様の言葉と一体です。イエス様の復活は、見るものではなくて、聞くことで十分だというのです。
『言葉を思い出した』と言えば、そもそも福音書は、思い出して書かれたものです。生前のイエス様が語られた言葉や業に触れた人間たちが、復活のイエス様を見たと言うよりも、出会わされて、生前には理解出来なかった言葉や業を、もう一度思い出し、振り返りながら、だからイエス様は、あのように言ったんだ、だからイエス様はこういうお方なのだと、改めて、示されたことを記したのです。それが福音書です。いずれにしても書いた人間たちは、これまでの価値観とは違うものに出会い、言わば造り変えられたわけです。例えば彼らなりに、救いとは何か、と考えて来た。それは自分たちを植民支配するローマの圧政からの解放だと、多くは考えた。しかし所詮、人間の力に頼る限り、同じことの繰り返しなのです。戦争は絶えません。歴史が証明しています。また罪とは何か、と考えて来た。ユダヤ教の律法に書かれてあることを守りさえすれば、罪にならないと思って来た。しかし罪にならないと言っても、建前と本音で律法を使い分けて、守っているふりをしているような自分は、本当に正しい者なのか。『正しい者を招くためではなく、罪人を招くために来た』そんなイエス様の言葉が蘇ります。
こんなふうに、自分の価値観や生き方に、問題意識を持ち続けて来た人間にとっては、復活のイエス様との出会いが、価値観も生き方も、造り変えさせたのだろう。今日の第一日課は、十字架のイエス様のことを、三回も、自分とは関係ない方だと否定したペトロの言葉が記されてあります。まさに、生前のイエス様のことを振り返っての言葉です。一部を引用します。使徒10章39-42節『わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現わしてくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました』。このペトロの言葉で注目させられるのは、証人とか、証しする、という言葉です。イエス様を裏切った自分が、むしろ、イエス様の事を人々に知らせる者に、もう一度用いられる。しかも言葉によってです。のだ。ここにも、ペトロにとっては、価値観の大逆転を知らされたのでしょう。単なる見物人だったら、このような価値観の逆転には、与ることはなかったでしょう。
もう一人、造り変えられた人間を取り上げます。それはパウロです。新約聖書27巻のうち14巻に、大なり小なり関わった、キリスト教会初期の伝道者です。彼も、復活のイエス様に出会う前は、キリスト者を迫害していた者です。そんな彼が、今度は、宣教する者へと、造り変えられたのです。彼もまた単なる見物人ではなく、様々な問題意識を持った人間でした。先程、四旬節第5主日の福音書を取り上げました。その時の第二日課は、フィリピ3章4節以下からでした。そこでは、かつての自分の生き方を振り返って『非のうちどころのない』エリートユダヤ人だったと言い、続けて、フィリピ3章7-9節『しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです』。金曜日の日経新聞朝刊に、心理学者のフロイトの言葉が載っていました。引用します。『欲動の力に比べ、知性の声はか細いが、聞きとどけられるまでは、黙すことはない(「幻想の未来」中山元訳)』。
キリストの教会によって、造り変えられた人間たちを通して与えられた、イエス様の言葉。私たちももう一度、イエス様の復活を知らされ、造り変えられて行こうではありませんか。
復活節第2主日
『あなたがたを遣わす』ヨハネ20:19-31
先週は、イエス様のご復活をお祝いするイースターでした。復活と聞きますと、難しく考えてしまいがちです。しかし、復活を見ようとするよりも、復活を聞いて行くように方向転換して、聖書を読むと申し上げました。そもそもイエス様の十字架の死と復活を記す聖書は、復活のイエス様に出会ったという、限られた人間たちの証言を聞いて、改めて生前のイエス様の言葉を思い起こしながら、あの時語られたイエス様の意図と真実が示され、記されて行ったものだからです。復活を聞くとは、聖書に聞くとも言えるでしょう。
さて今日の福音書の箇所も、理屈理性が揺さぶられる箇所です。鍵の掛かった家の中に、イエス様が来て真ん中に立ったというのです。ここも方向転換して、この出来事から、聖書は何を伝えようとしているのか、それを聞いて行きます。まず『弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた』という。犯罪人として、十字架に掛けられたあのイエスの一味だという事で、捕まえられることを恐れていたのでしょう。しかしもう一つの恐れがあったのではないか。それは、十字架のイエス様を置き去りにして、裏切ってしまったという罪悪感、そして、イエス様による祟りのようなものへの恐れです。
そんな諸々の恐れの中で、鍵の掛かった部屋にイエス様が入り込んで来られた。これがもし、部屋の片隅の辺りだったらどうだろうか。しかも夕方ですから、イエス様の幽霊の祟りでは、と思うのではないか。ところがこの時イエス様は『真ん中に立』ったという。しかも『恨めしや―』ではなくて『あなたがたに平和があるように』一言で言えば『シャローム』と言われた。これはユダヤ人の間での、挨拶の言葉です。幽霊とは交わしません。しかも『手とわき腹をお見せになった』という。十字架による痛々しい傷跡ですが、見せ方によっては恐怖を湧き起こらさせるでしょう。しかしこの時のイエス様は、堂々とお見せになったようです。そこにはむしろ『幽霊ではない、正真正銘の私だ』という、強いメッセージを感じさせられます。
そして更に、この時の弟子たちにとっては、驚くべき言葉を聞くことになります。まずもう一度『あなたがたに平和があるように』と、イエス様はおっしゃられた。これには増々、安心感を弟子たちは覚えたことでしょう。そして言いました。『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』。これは、父なる神様の働きのために、イエス様は用いられた。それと同じように、今度は、イエス様の働きのために、弟子たちが用いられる、という宣言です。弟子たちはイエス様を裏切った者です。普通は、そんな人間を、裏切られたものが用いるはずはありません。用いるどころか、仕返しだってあり得ます。ところがこの場面での、復活のイエス様と弟子たちの間では、祟りの仕返しもなければ、それ以上に彼らを、大切なご用のために用いると言うのです。これを聞く弟子たちは、何を思うでしょうか。『裁かれても当たり前のこんな自分を、むしろ用いて下さるという。ならば、何とかそんなあなたに応えて行きたい』。ここに弟子たちの造り変えが始まっている。この時イエス様は、弟子たちに聖霊を注がれました。人間は神様の息を吹き入れられて、生きる者になったと、創世記2章7節に記されてあります。人間の創造の場面です。そして今また、失敗した弟子たちに聖霊が注がれた。再創造が起こされたのです。裏切りの罪が赦されて、もう一度生きる者になるのです。同時に新たな使命が与えられた。それが『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』だという。
こんなだめ人間を、赦して下さるどころか、大切な働きのために用いて下さる。弟子たちは大いに、応えて行こうと促された。しかしその働きは、罪の赦しだという。これにはもう一度、驚いたことだろう。罪を赦されたばっかりのこの自分が、今度は赦す側に立たされるのか。もちろん赦すお方はイエス様のみだ。私はその働きに用いられるだけだ。ならば私に出来ることは、赦されて、なおかつ用いられる者の、喜びを伝えるだけだ。そんな喜びの自分に出合う相手が、同じように過ちを見つめ直して、悔い改めへと導かれるならば、罪の赦しを取り次ぐことになるのではないか。そして、罪が赦されないまま残るというのは、かつての自分に置き換えれば、その辛さ怖さが分かる。ならば、せめて『赦されないまま残る』間の辛さ怖さを、共有して行こう。そんな中でまた、悔い改めへと導かれるように、共感して寄り添って行こう。それがこんな自分に出来ることではないか。
今日の福音書の後半では、弟子のトマスに焦点が当てられています。ここから何を聞くのだろうか。他の弟子たちが復活のイエス様に出合った時、彼はその場にいなかった。何故なのか。たまたま席を外していたのか。あるいは、他の弟子たちと行動を、共にしたくなかったのか。たまたまいなかったのであれば『何で自分だけ、仲間はずれなんだ』と、ふてくされてしまうかも知れない。一人だけ別行動したかったのであれば、トマスはとにかく自分に自信があって、普段から、他の弟子たちをあまり頼ることをしなかったのだろう。だから、他の弟子たちの言葉を聞いても、信頼しなかった。それで、イエス様の手やわき腹の傷跡に手を入れなければ、復活は信じないと言ったのか。
翌週もまた鍵の掛かった家に弟子たちはいて、今度はトマスもいた。とにかく人の話からよりも、自分で、納得したかったのだろう。そこに同じように復活のイエス様が現れた。イエス様はトマスが先週に、つぶやいていた言葉を、そのままトマスに返した。傷跡に手を入れよと言われた。トマスは答えた。『わたしの主、わたしの神よ』。彼のこの言葉から『あなたは私のことを、ちゃんと知っていて下さるのですね』という、喜びと感動、そして同時に悔い改めが伝わって来るようです。そしてイエス様は言うのです。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである』。トマスは見たから信じたわけではないのではないか。自分が見ようが見まいが、もはや関係ない。イエス様こそが、自分を見ていると、そこに気づかされたのだ。そして『見ないのに信じる』とは、結局、自分だけを信じるのではなく、他の仲間を信頼し、その言葉も聞いて行くことなのではないか。失敗や破れを抱え、また大なり小なり、自分中心に生きてしまう者たちだからこそ、イエス様の罪の赦しの宣教の御業に、用いられて行くのだ。罪の赦しの宣教は、互いの破れや罪を受け入れ、共感し合い、展開されて行くものではないか。
先週22日のNHK『まいあさラジオ』で、リクルートワークス研究所の、古屋星斗さんのアンケート調査のことが放送されていました。それは『働く他者へのまなざし』と題しての調査で、アンケート項目の例として以下の三つが取り上げられていました。
①宅急便の配達人やドライバーさんに対して感謝の思いを伝えたいですか→85.4%が感謝
②高齢者が働いている姿を見て応援したいと思いますか→80%が思う
③コンビニなどでの会計時間が長くても待てますか→74.9%が待てる
アンケート対象者は20歳から79歳まで、4,300人、男女比もほぼ同等、日本社会全体の傾向を映し出すように調査したということです。全体的に80%程の人が、感謝し応援し待つことが出来るという結果だったそうです。これは人手不足の影響なのか、年代的に広い範囲で多くの人が、何らかの仕事に従事するようになり、複数の仕事を持つ人も多くなって来ていることが、このような結果につながっているのではないかとのことでした。そして、関心、共感、感謝という、新しい3Kを打ち出されていました。更にこの結果から、今後は、カスタマ―ハラスメントと呼ばれるものも、減って行くのではないかという希望さえ感じると、そんなお話でした。
キリストの教会もまた、関心、共感、感謝をもって、罪の赦しの宣教に遣わされてまいります。