からし種 409号 2023年6月

復活節第5主日

『わたしを通る』ヨハネ14:1-14

先週の福音書の箇所を振り返ります。ヨハネ10章1-10節からでした。羊飼いと羊の関係を、神様と人間との関係に譬えられている所です。羊と寝食を共にし、羊の一匹一匹に名前を付け、自分の命を犠牲にしてまでも、羊を守り切る、羊飼いの愛情深さが印象的でした。羊たちも自分の羊飼いの声を聞き分けることが出来て、強い信頼と安心感をもって、喜んで自分の羊飼いに従って行くということでした。父なる神様はイエス様によって、人間に深い愛情を示されている。だから人間たちも喜んで、そんな神様の声を聞き分けて、従うのだろうというわけです。神様と人間との関係は、強制されたり脅されたりして、あるいはご利益をぶら下げられたりして、従わざるを得ないような、そんな関係では決してないのだと、この譬えから示されるのです。いわゆる律法主義は、脅しと強制力で、人間を神様に従わせようとするものだからです。

羊たちは羊飼いの声を聞き分けるのですが、私たち人間も、毎日の様々な出来事に直面しながらも、日曜日の礼拝毎に、あるいは個人個人で祈りの時を持ちながら、イエス様の神様の声を、聞き分けて行くのでしょう。これが人生であり、信仰生活というものなのでしょう。いずれにしても、聞き分けるに当たっては、自分が強固に持つ価値観や経験や筋書きや理屈や、そしてそんなものからも沸き起こる疑いと、イエス様の言葉とを折り合わせようとする葛藤が、必ず生ずるものです。そんなことを経ながら、強制や脅しによらずに、自発的にイエス様の神様に従って行く。今日の福音書は、そんな人間たちの葛藤が、イエス様に従う弟子たちを通して、現わされているのです。

今日の場面は、いわゆる最後の晩餐の席で、イエス様が『告別説教』をされたと呼ばれているところの一部分です。今日の箇所の直ぐ前の所から見てまいります。イエス様が十字架に掛けられることを想定して『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』と言いました。それに対して弟子のペトロが『主よ、どこへ行かれるのですか』と尋ねます。ここから少しづつペトロは、自分が思い描くイエス様のストーリーから、イエス様が外れてしまうような気配に、違和感を感じ始めます。そんなペトロに畳みかけるように、イエス様は言います。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる』。ペトロは自分の筋書きが邪魔するのか、なかなか聞き分けられません。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます』。ペトロはこの時には、本気で命を捨てると言ったのでしょう。がしかし、イエス様の十字架を前にして、結局それは出来ませんでした。何故それが出来なかったのか。やはり後になって、聞き分けさせられて行くのです。

そんなペトロとのやり取りがあって、今日の場面です。ここではペトロ以外の弟子たちとのやり取りが記されてあります。このやり取りを見ますと、どうもいまいち、会話が噛み合わないようなのです。それはイエス様が、弟子たちの疑問に、直接的には答えていないからです。イエス様はここで、弟子たちが抱く疑問の、出どこがどこからなのか、そしてその出どこの疑問に対して、あたかも先取りして答えているようなのです。『わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている』と、イエス様は言います。知らないと弟子たちは言っているのに、です。弟子たちは『どこへ』と言っているのは、イエス様が行かれるだろう、到達点を知ろうとしているわけです。だからその前に、到達点に至るだろう道もあるから、それを知ろうとするわけです。それは通常の常識からすれば、誰もが考える問いです。

ところがイエス様は『わたしは道』だとおっしゃられる。それはあたかも、到達点もそこに至る道も、全てひっくるめておっしゃられているようだ。ですから『わたしは到達点』とも、おっしゃられていることになる。この後イエス様が『わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』とか、父なる神様とイエス様とは、一体であるかのようにおっしゃられているからです。そして『真理であり、命である』ともおっしゃられています。ここに弟子たちの疑問の、出どこの疑問が示されているようなのです。弟子たちはいなくなるようなことをおっしゃられるイエス様から、このまま、この人に着いて行っていいのだろうか。あるいはこの人は、真の神様を御存じなのだろうか。時代や場所が変わっても、絶対に変らない価値観が得られるのだろうか。揺るぎない人生の意味が、この人から得られるのだろうか。結局、弟子たちは、自分たちが信ずるべき、絶対的な神様は誰なんだ、あるいはどれなんだと、そんな信仰の根本に関わるような、疑問や不安が沸き起こって来たのだと思うのです。『わたしは真理』というのは『わたしは絶対だ』ということです。『わたしは命』というのは『わたしがあなたの生きる意味だ』というのです。それでも人間は、待つことがきらいですから、手っ取り早く、結果結論を得ようとします。しかし『わたしは道』だとおっしゃられるのは、そんな人間を戒めます。信仰の根本に関わる疑問や不安を持つことを、イエス様は非難しません。むしろ時間をかけるように『わたしを通る』ようにおっしゃられるのす。

最近『証し―日本のキリスト者―』という、書物を手にしました。クリスチャンでは無い筆者ですが『親しんではいるが、信仰はしていない人が大多数のこの国に生きる、一パーセント強のキリスト者がどのような人たちなのか。彼らの声に耳を傾けたいと思い』全国の教会を訪ね歩いて、いわゆる『証し』と呼ばれるものを、一冊の本にしたものです。証しの大体の内容別に、15の章立てになっています。印象に残った証しの極一部を、二件紹介させていただきます。一件目は、第13章の『真理を求めて』という所に紹介されていた証しです。大内さんとおっしゃられる無教会派の信者さんです。『信仰には積み上げはない。ただ、右往左往はあります。私自身、小さい頃からあった空虚さを埋めるために、仏教に行き、キリスト教に行き、また仏教に行って、キリスト教に戻って来た。あっちへ行きこっちへ行き、右往左往してきました。それに対して神様がどう答えてくれるのかはまた次元の違う話で、もしかしたら答えてくれないかもしれないですけどね』。もう一件は、最終章の『コロナ下の教会、そして戦争』という所に紹介されていたものからです。北九州市の牧師先生を取材したものです。『幼い頃よりどっぷり教会に浸かって生きてきたわたしにとって、日曜日に教会に行かないことはあり得なかった。・・ましてや牧師となり、教会に住んでいるにもかかわらず、教会閉鎖、と張り紙をして、人々をしめ出してよいのか。我ながら今回はかなり思い切ったことをやってしまった感がある。・・それは教会の新生を祈るための休止だと考えた。・・ある言葉を思い起こした。カネミ油症事件の被害者であり、キリスト者である紙野柳蔵が行った講演、カネミに毒されて、の一節だ。・・油症になってよかった、元の体や元の家族に問題があったので、他人の苦しみや痛みを感じ得ない元の体や元の家庭を返してもらっても、又同じことをするだけや、とあった。元の体ではなく、新しい体に生まれ変わらなければ意味はない。いつでも簡単に、どんな人も壊れてしまう、経験を通し、やさしさをもって他者と接していく、そんな新しい自分に生まれ変わらなければならないのだと思った』。

イエス様の声を聞き分ける、人間による作業は、あの羊以上に複雑で、様々な価値観に巻き込まれ、自分自身の中にも思い込みや筋書きがあり、だから疑いも引っ切り無しに沸き起こります。そんな中で聞き分けて行く作業は、即席的には為されない。紆余曲折があっていい。『わたしは道』だというのは、そんな人間の状況を、よくご存じだからなのだ。だから脇道や道草も、全て主イエス・キリストの道なんだ。福音書の最後のところで、イエス様はおっしゃられます。『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう』。ここは聖霊降臨によるキリストの教会の誕生が示唆されます。ここから揺るぎない喜びと、そして絶対的安心と希望が、備えられていると信じます。キリストの教会に繋げられて行きます。

復活節第6主日

『わたしを愛する者』ヨハネ14:15-21

先週も申し上げましたが、今日の福音書の箇所も、いわゆる最後の晩餐の席で、イエス様が『告別説教』をされたと呼ばれているところの一部です。先週からの続きになります。十字架に掛けられて死んで、肉の体は見えなくなることが匂わせられ、それを聞いた弟子たちは動揺します。更には、本当にこの人は頼りになるのかと、イエス様に疑いを抱く者も出て来たでしょう。そんな弟子たちに向けて『わたしが道だから、わたしに留まり続けなさい。わたしが絶対だ。わたしが生きる意味を明らかにする』とおっしゃられた。そして今日の福音書のすぐ前のところです。ヨハネ14章12-14節『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう』。このイエス様の言葉は、キリストの教会を指し示すものだと、先週は申し上げました。

『わたしを信じる者』とはキリストの教会です。『わたしが行う業』とは、罪の赦しによる人間の再創造です。『もっと大きな業を行う』とは、キリストの教会が全世界に宣べ伝えられ、拡げられるのです。キリストの教会は、イエス様のお名前によって、祈ることの出来る群れだからです。その祈りをイエス様が適えて下さるからです。ですからキリストの教会を、キリストの教会たらしめるものは『祈り』です。キリストの教会とは『祭司の群れ』とも言えます。祭司の群れなるキリストの教会に連なる一人一人は、イエス・キリストのお名前による洗礼を受けた者です。洗礼を受けて、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれる者になります。それは祭司になる、ということです。祭司はこの世の全ての人々のために、とりなしの祈りをする者です。それは罪の赦しのためのとりなしの祈りです。そうして、世の全ての人々の、再創造が起こされて行くのです。

繰り返しますが、キリストの教会で、イエス・キリストのお名前による洗礼を受けるということは、祭司になるということです。ただ単に、罪の赦しが果たされる、ということではありません。自分のためだけの洗礼ではない。他者のためにも、洗礼はあるからです。今日の第二日課の1ペトロ3章21節には、次のように記されてあります。『洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです』。このように祭司は、誰に向かって祈るのか、それを知らされている者です。聖書をよく読み、時には教会の礼拝に与る。洗礼を受けていなくても、イエス様の思いに共感し、いわゆるキリスト者以上のキリスト者だと見られ人もいるでしょう。聖書の言葉に促されて、与えられている賜物を、世の中のために用いている人たちもいるでしょう。そういう人たちも、大切な存在です。しかし一方で、洗礼を受けて、祭司になる人が求められるのです。全ての人間が罪の赦しを得られるように、とりなしの祈りをするのです。そうやって、天地が創造された時の、本来の人間の姿に皆が再創造されて行くのです。ここにキリストの教会の存在意味があります。そして、洗礼を授けられる意味があるのです。

今日の福音書の箇所は、その洗礼を受けて、祭司の群れなるキリストの教会を、更にイエス様が指し示されているところです。ヨハネ14章15節『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る』。『わたしの掟』とは、既にイエス様がこの福音書の中で、語られています。ヨハネ13章34節『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに会い合いなさい』。これは目の前の、弟子たちに語られたものですが、今やこれがキリストの教会の姿です。ここで、愛情深い人間になれと、倫理道徳的なことを、イエス様はおっしゃられているわけではありません。

ちょうど先週の7日から、礼拝後の学び会が再開されました。『聖書は物語る』という著書から、まず創世記を学び始めました。その中に次のような箇所がありました。『神にとって、人間は特別な被造物です。・・ですから聖書によれば、すべての人には存在理由があります。神が喜びをもって造ったからです。・・神は被造物を喜び、愛する。人間も神に似せて、神を愛するように造られました。また、・・人間はたがいに愛し合うためにも造られました』。これが本来の造られた時の、人間の姿です。そして罪を犯した人間は、神を愛せず、互いに愛し合うことも出来なくなって行った。そんな人間が、イエス様によって罪を赦され、もう一度、本来の姿に造り直される。これが人間の再創造です。それはキリストの教会を通して、教会のとりなしの祈りによって、続けられて行く業です。

かつて人間が最初に造られた時、神の息という聖霊が注がれて、生きる者になったと創世記は伝えています。そして今やキリストの教会による、人間の再創造のために、もう一度聖霊が注がれるのです。今日の福音書でイエス様は、次のようにおっしゃられます。ヨハネ14章16-17節『わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。・・この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである』。こうして肉の目には見えなくなるイエス様が、教会によって、永遠に共にいて下さると聖書は言うのです。神を愛し、人を愛するとは、キリストの教会によって聖霊を受け、罪の赦しの再創造された者の『しるし』なのです。そしてその者は祭司として、この世の罪の赦しの再創造のために、とりなしの祈りを続けて行くのです。

生命科学者の中村桂子さんの著書『生きる 17歳の生命誌』を、批評家の若松英輔さんが評論する記事に、目が留まりました。この若松さんはカトリック信者で、最近も日経新聞に、新たな連載を始められています。切り抜きの一部を紹介します。『本書には、詩人まど・みちおの・・空気と題する・・作品を引きながら、作者は、すべての生命はつながりのなかにあり、つながりをもっとも端的に象徴するものは空気であり、私たちが行う呼吸である、という。犬は呼吸し、人も呼吸する。しかし、ロボットは呼吸しない。・・彼女は、これから人生という航海に旅立とうとする17歳の若者たちに向けてこう語る。≪普段空気を吸っているときに、このようなつながりを感じることはあまりないでしょう。でもまどさんの詩とそれを裏づける科学的事実を知った今では、空気を通してあらゆるところにいるあらゆる生きものとつながっているのだ、という気持ちを忘れないでいただきたいのです≫。・・自然の中で生きている人を感じ直さなくてはならない。生命は孤立していないことをもう一度認識し直さねばならない場所に、私たちはいるのではないだろうか』。

今日、戸塚ルーテル教会は、定期会員総会に与ります。教会は神の息である聖霊によって呼吸していると、言い換えてみたいのです。空気は聖霊の『しるし』と考えます。私たち戸塚ルーテル教会も、この世の祭司として、同じ空気に与る全ての人々のために、とりなしの祈りを続けて行こうではありませんか。

<参考>


     『空気』
            まど みちお

ぼくの 胸の中に
いま 入ってきたのは
いままで ママの胸の中にいた空気
そしてぼくが いま吐いた空気は
もう パパの胸の中に 入っていく

同じ家に 住んでおれば
いや 同じ国に住んでおれば 
いやいや 同じ地球に住んでおれば
いつかは
同じ空気が 入れかわるのだ
ありとあらゆる 生き物の胸の中を

きのう 庭のアリの胸の中にいた空気が
いま 妹の胸の中に 入っていく
空気はびっくりぎょうてんしているか?
なんの 同じ空気が ついこの間は
南氷洋の
クジラの胸の中に いたのだ

5月
ぼくの心が いま
すきとおりそうに 清々しいのは
見わたす青葉たちの 吐く空気が
ぼくらに入り
ぼくらを内側から
緑にそめあげてくれているのだ

一つの体を めぐる
血の せせらぎのように
胸から 胸へ
一つの地球をめぐる 空気のせせらぎ!
それは うたっているのか
忘れないで 忘れないで…と
すべての生き物が兄弟であることを!  

 昇天主日

『もはや世には』ヨハネ17:1-11

この三週間はヨハネ福音書13章31節から始まる、いわゆる最後の晩餐の席で、イエス様が『告別説教』をされたと呼ばれているところから聞いてまいりました。今日の箇所が、その最後の部分になります。そして今日は、復活されたイエス様が、40日間に渡って人々にそのお姿を現された後、天に昇られたことを記念する主日になります。今年は先週の木曜日の18日が、4月9日のイースターから数えて40日目で、それを『主の昇天日』と呼んでいます。その日に一番近い日曜日が、本日の昇天主日になります。

ヨハネ17章11節は次のように記されてあります。『わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです』。この後イエス様は、十字架に掛けられ死んで復活し、天に昇られるわけです。イエス様に従って来た弟子たちにとっては、いくら復活するだのなんだのと、色々言われるかも知れないけれども、直ぐには理解出来なかった。とにかく死んでいなくなる事は確かだ。それが、不安と恐怖なわけです。それじゃ、誰か代わりになる人がいるのだろうか。とりあえず、引き継いでくれる人がいれば、多少なりとも安心出来るのかも知れません。

一般的には、一つの集団を引っ張って来たリーダーみたいな人が、いなくなる時には、必ず後継者のことが話題になります。聖書の中でも、例えば奴隷状態にあったエジプトから、イスラエルの民のリーダーになって、脱出させたモーセは、約束の地に入る前に死ぬことになります。がしかし、事前にヨシュアを後継者に指名しています(申命記31章7節)。もちろんそれらは、全て神様のご意志に従ったものだと聖書は言います。それにしても、現実問題としては、ヨシュアという特定の個人が、イスラエルの民を束ねる、モーセの後継者として指名されたわけです。ひとまずイスラエルの民は、安心するでしょう。同じように、そんな現実に即して考えて見れば、弟子団のリーダーだったイエス様がいなくなるのであれば、筆頭弟子と言われるペトロが、後継者になるのが常識的です。もっともカトリック教会では、ペトロが実際に後継指名されたと、解釈している所があります(マタイ16章18-19節)。これが教皇制度に発展して行ったわけです。しかしプロテスタントはこのように、あたかもその集団を束ねるという意味で、特定の個人が後継指名されるような解釈には立っていません。

そう言えば、同じこのヨハネ福音書21章15節以下で、復活されたイエス様とペトロとが、一対一で対話をしています。イエス様に従う人々を、ペトロがこれから養うようにと、言われている場面です。それはあたかもここで、イエス様がペトロを、後継者に指名しているかのようにも聞こえます。しかしここは、むしろペトロの弱さが浮き彫りにさせられるようです。そんな弱い自分を正直に見つめ直すように、そしてそんな弱い者でも、イエス様は大切な御用を委ねて下さるという、ペトロにとっての救いが語られていると考えます。その主の御用は、あくまでも宣教です。決して、弟子団を束ねる、特定の個人の後継指名のような場面ではないのです。

それはもう一人の、初代教会伝道者の、パウロにも言えると思います。かれは初代教会の強力なリーダーのような働きをしています。しかし彼こそ、異邦人世界への伝道という、主のご用に用いられたに過ぎない者です。原始キリスト教団を束ねるというような、イエス様の後継者であるかのような振る舞いは見受けられません。むしろパウロを神格化しようとした人々を戒めています(使徒14章12-15)。またコリント教会では、派閥の長に祭り上げられるのを拒絶しています。特定の個人が後継指名されるようなことはなかった。

しかしだからと言って、残された弟子団が、路頭に迷うことのないように、イエス様は配慮されます。それは先程の『聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください』という、イエス様の祈りに込められています。更に先週のヨハネ福音書14章15節以下にありましたように、弁護者と呼ばれる真理の霊を遣わすとおっしゃられています。この真理の霊は、来週の聖霊降臨日で示されるように、キリストの教会誕生に関わる霊のことです。キリストの教会は、イエス様のお名前と、真理の霊とによって守られ、支えられていることになります。それは、この世にある通常の組織に見られる、誰か強力なリーダーシップを持った者が、その集団を束ねるようなものではありません。ここに、見た目はこの世の集団組織のようですが、その性格は全く異なるキリストの教会が示されているのです。

更にこの世の集団組織は、自分たちの組織の存続を守ることが、重要な使命になります。だから集団を束ねる後継者を、指名する必要があるのです。しかしキリストの教会は、イエス様のお名前にも、真理の霊にも、この世的には、目に見えて何かが働くような力は、何も見当たりません。だから、教会という内輪の組織の存続には、はなはだ心もとなく感ずるものです。しかし先週も触れましたが、キリストの教会は祭司の群れです。祭司はイエス・キリストのお名前によって、この世のために、執り成しの祈りをするものです。その思いは常に、この世に向けられています。ですから、教会の内輪の働きには、イエス・キリストの御名も、真理の霊も、何の力も感じなくともいいんです。この世の外に向けて、大きな力を感じさせるのが第一だからです。

真理の霊は、弁護者とも呼ばれると先週、聖書から聞きました。直訳すれば『傍らに寄り添う者』というお方です。言わば教会は、この世に対して、寄り添うものとも言えるのでしょう。先週16日の夜7時半から、NHKテレビ『クローズアップ現代プラス』という番組を観ました。テーマは『介護ケアハラスメント』とありました。介護者が、介護を受ける者から、ハラスメントを受けている事例が多くなっているとのことでした。ある事例では、アルツハイマー病を患っている患者さんが、介護者に対して『何でこんな病気にしたんだ』とか『あんたにこの病気が治せるのか』とか、頻繁に言葉の暴力を受けている、というものでした。それに対して、番組に出演していた一人の介護者が、その患者さんには、こんなふうにお答えすると、おっしゃられた言葉が印象的でした。『私には、Aさんが、何でこの病気になったのかは分かりません。また私には、治療する力もありません。ただAさんと、何故なのかを、一緒に考えて行こうと思っています』。まさに寄り添いの言葉だなあ、と思いました。何故なのか、つい、気の利いた回答をしようと思ってしまいます。あるいは知っている限りの治療のための知識を、披露しようとしてしまいます。でもこの介護者は、一緒に考えて行く、とおっしゃられた。それは一見、力弱く、何の解決も見いだせないようなものです。しかし、その患者さんにとっては、直ぐにではなくとも、いつかは大きな力となって、働いて行くものなのではないかと思いました。そして、キリストの教会の、イエス・キリストの御名による執り成しと、弁護者なる真理の霊の働きが、ここにも示されていると思いました。

今から私たち戸塚ルーテル教会は、先週の会員総会を経て、新年度の役員・奉仕者就任式を行います。これは決して、内輪の組織の存続のためにあるようなものではありません。主よどうか新年度も、この戸塚ルーテル教会が、祭司の群れとして、執り成しの祈りと、真理の霊の寄り添いのために、戸塚ルーテル教会もまた用いられてまいりますように、主イエス・キリストのお名前によってお祈り致します。

聖霊降臨日

『生きた水』ヨハネ7:37-39

本日は聖霊降臨日です。キリストの教会の誕生日とも言われます。今日の第二日課は使徒言行録2章からですが、4節では集まって祈っているイエス様の弟子たちに、聖霊が降り、色々な国の言葉でしゃべり始めた、ということです。そしてその中にいた、弟子のペトロが説教をしました。それを聞いた人々の反応が、41-42節に次のように記されてあります。『ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった』。ここには今もキリストの教会で行われている、基本的なものが記されてあります。即ち、説教、洗礼、聖書研究、信徒の交わり、聖餐、祈りです。それらがこの聖霊降臨日から、教会で行われ始められたわけです。

この何週間か、改めて教会に連なることの意味を、聖書から聞いてまいりました。教会とは建物のようなものではなく、信徒の集まりです。そして、この世に対して、執り成しの祈りをする、言わば一人一人が祭司になる、と申し上げて来ました。それから、執り成しの祈りをするということは、この世に対して、寄り添って行く者たちだ、ということも申し上げました。そしてここで『寄り添う』ということを別の言い方にするならば、当事者になって行く者たち、ということです。当事者ですから、傍観者ではない。この世の出来事を見て、ああだこうだと評論批判するだけではない。自分もこうして行こう、ああして行こうと、当事者として動かされて行く者です。

そして今日は、更に教会に集う意味を、ヨハネ福音書から聞きます。ヨハネ7章37節に『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日』とあります。この祭りとは『仮庵祭』のことであります。この祭りは、過越祭、五旬祭と並んで、ユダヤ三大祭りと呼ばれるものの一つです。ちなみに過越祭でイエス様は十字架にかけられました。そしてこの五旬祭で、今日の使徒言行録2章1節以下にあるように、聖霊降臨の出来事が起こりました。この仮庵祭とは、ユダヤの秋の収穫感謝祭が起源です。そしてこの行事に、かつてユダヤ人たちが、出エジプトの出来事の中で経験した、荒野の苦しみとさすらいの天幕生活を、記念するものへと発展して行ったのだそうです。祭りの期間中は、それぞれ仮住まいを造って、これを仮庵と呼びますが、そこに住むのだそうです。祭りの間七日間、毎日朝になると、祭司はエルサレム神殿から下って、シロアムという名前の池に行くのだそうです。この池は水が自然に湧き出ていたようです。その水を祭司は黄金の桶で汲んで神殿に戻り、犠牲を献げる祭壇にその水を注ぐのです。これはエジプトを脱出して、荒野をさまよいながら、渇きによって水を求めた時に、杖で叩かれた岩からほとばしり出る水によって、養われたことを記念する水注ぎだそうです。

この仮庵の祭りは、先程のユダヤ三大祭りの中でも、最も盛大なものだそうです。そしてユダヤ最大の喜びが、この祭りを通して表現されていて、いわゆる『喜びの祭り』と呼ばれる程のものだそうです。今日の福音書の場面は、その祭りの終わりの日ということです。ですから、人々の喜びが最高潮に達していた時だったでしょう。そこでイエス様は『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』と言ったわけです。あたかも祭りの水が、何の効果も無いかのように聞こえます。それ以上の喜びを、私が与えると言っているようです。この祭りによって、喜びに満たされている人々に向けて、あたかも冷や水を浴びせかけるような、そんな言動にもなります。もっとも、このイエス様の声が、歓呼にむせぶ大群衆の、どれ程の人たちに届いたのかは疑問です。いずれにしても『聞く者は聞け』ということなのでしょうか。

そしてこの水は『霊』のことだとおっしゃられています。そしてこの場面では、まだ降っていないとおっしゃられた。その約束の霊が今日の聖霊降臨の霊なのです。今日の場面からも伝わりますが、イエス様の大胆で強い確信に満ちた言葉と共に、この霊は人々に下された。そして、キリストの教会が誕生したのです。言わば大胆な、確信に満たされているキリストの教会です。その大胆さの源である霊については、同じヨハネ3章では、次のように記されてあります。ヨハネ3章5節『だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない』。今もキリストの教会で起こされる、主イエス・キリストの御名による、洗礼を指し示す言葉です。そしてその洗礼により注がれる霊は、聖霊降臨の霊と同じです。その霊について、次のように語られています。ヨハネ3章8節『風は思いのまま吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである』。聖霊を注がれるキリストの教会の群れの一人一人は、人間の筋書きには絶対に沿わない、このダイナミックで自由な霊によって生かされている者です。その意味は、次のようです。私たちは大なり小なり、様々な規則や価値観の下で、秩序を保つように計画を立てて生かされています。しかし時として、計画通りには行かないことや、常識では計れない出来事にも直面します。それらに揺れ動かされながらも、結局、動くことがない。起こされた出来事を、受け入れさせられて行く。そしてそこから次があるのだと示される、次のステップへと、進めさせられて行く。これが聖霊を注がれたキリストの教会の群れです。そしてそんな姿を通してもまた、人間の筋書きでは考えられなかった新たな生き方が、世の人々に現わされて行くのだと示されます。

今日の第二日課のペトロも、かつては十字架のイエス様を裏切ってしまった、弱い人間でした。そんなペトロが思いもよらない、復活のイエス様との出会いと赦しによって、そのイエス様を大胆に、説教する者へと造り変えられて行ったのです。そんなペトロの変えられた姿を、目の当たりにした人々が、イエス様の御名による洗礼を受けて、キリストの教会に招き入れられた行ったのです。そしてまたもう一人の、初代教会の伝道者パウロも同じです。彼はこちこちのユダヤ教徒で、熱心にキリスト者を迫害する者でした。そんな彼は、深刻な目の病を抱えていたようです(cf.2コリント12:7)。今日の第一日課は使徒言行録ですが、その9章1節以下では、ある時、その目が見えなくなって、天からのキリストの声をパウロは聞いたというのです。その声は何となく、パウロを包むこむような、そんな声に聞こえてしまった。そして目が不自由になったパウロを『人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った』ということです。パウロの手を引いて連れて行ってくれた人々とは、どんな人々だっただろうか。ダマスコではユダと呼ばれる人物の家に、招き入れられたようです。このユダはキリスト者です。そうしますと、パウロの手を引いて行ってくれた人々も、パウロが迫害していた、キリスト者たちではなかったか。自分たちを迫害する憎きパウロを、彼らは手助けしたのです。それを知らされたパウロは、もはや劇的とも思われる回心へと、促されて行ったのです。ここにも、人間の筋書きには絶対に沿わない、聖霊の働きを見るのです。

キリストの御名による洗礼を受けて、キリストの教会に集う者たちの、その意味は、冒頭で申しましたように、この世のために祭司の働きをする者です。そしてこの世の当事者であり続ける者です。そして今日また示されました。人間の筋書きに沿わない出来事にも、積極的に受け入れさせられて行く者たちです。キリストの教会の『生きた水』なる聖霊に、感謝します。