からし種 419号 2024年4月

四旬節第3主日

『言われたのを思い出す』ヨハネ2:13-22

1月14日の顕現後第2主日で与えられていた福音書の箇所を、まず振り返ります。今日の箇所の少し前になります。ヨハネ1章43-51節です。この箇所も含めて、ヨハネ1章から2章に渡っては、人間の第二の創造について語られていると申し上げました。第一の創造は、旧約聖書創世記1章に描かれている、いわゆる天地創造の御業の中で、人間も被造物の一つとして造られたということです。その天地創造は、全て神の言葉によって、果たされました。第一の日から始まって、第六の日まで続き、第七の日に神様は休まれた。その日は安息日と呼ばれて、人間は全ての仕事を休んで、礼拝の時を持つように定められています。天地創造の後人間は、神様の戒めを破る形で、神様とのつながりを断ち切って、自らを神のようにしてしまいました。これを聖書は罪と呼んでいます。第一の創造による、本来の人間の姿から、逸脱してしまった人間は、罪を赦されて、神様とつなげられた本来の姿に、立ち返らなければなりませんでした。これを聖書は救い、と呼んでいます。この罪の赦しの救いを得ることを、人間の第二の創造と呼んでいます。

ヨハネ福音書では1章1-18節において、第二の創造が何故起こされる必要があるのかを語ります。そして19節以降で、第二の創造という人間の造り変えを、イエス様に従う弟子たちを通して、語られるのです。1章1節では『初めに言があった』とあります。第二の創造も、神の言葉によることを、まず指し示します。そして具体的な第二の創造の出来事が、19節から始められます。29節、35節、43節に『その翌日』という、同じ言葉が出て来ます。更には2章1節には『三日目に』という言葉もあります。この日付を順次追ってまいります。1章19節からの『洗礼者ヨハネの証し』の場面が『1日目』とする。29節の『神の小羊』の場面が『2日目』になります。35節の『最初の弟子たち』の場面が『3日目』、そして43節からの場面が『4日目』になります。2章1節の『三日目』は『4日目』から数えるので『6日目』ということになります。『6日間』は、第一の創造を思い出させます。ヨハネ福音書でのこの『6日間』は、イエス様に従う弟子として、罪が赦されて、新たな生まれ変わりの道を歩む人間たちを描きます。『第二の創造』です。そしてそのクライマックスは、2章11節の『イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた』という所に至ると、申し上げました。イエス様を救い主として信じる信仰生活の始まりが、第二の創造の到達点でもあり、また同時に出発点でもあります。いつでも人間は、神様から離れる自由も、持たされているからです。

そこで神様から離れることの無い信仰生活を、どのように保って行ったら良いのか。それは礼拝であり、祈りによるのでありましょう。それで今日の福音書の箇所は、言わば『7日目』と考えて、安息日であり礼拝の時と考えます。礼拝と言えば、イエス様が活躍された当時のユダヤにとっては、エルサレム神殿での礼拝が最重要でした。ですから今日の場面は、イエス様による第二の創造によって、造り変えられる人間たちのための、まさに神殿礼拝が語られるのです。従来の神殿礼拝には、牛や羊や鳩などの犠牲の動物が必要不可欠でした。特に遠方よりの巡礼者にとっては、動物を連れ歩くわけには行きません。神殿で購入するのが最適なのです。また、当時のユダヤはローマの植民地下でした。流通貨幣は神の子と称するローマ皇帝の、像が刻まれているものでした。そんな貨幣は、神殿のお賽銭には使いたくありません。ですから、お賽銭用に、ユダヤの貨幣に両替する必要があったのです。イエス様は今日の場面で、そんな神殿礼拝に必要不可欠なものを、排除されたのです。

ユダヤ教団当局にすれば、極めて異端的行為です。恐らくこんな振る舞いも、将来、十字架に掛けられることになった、遠因にもなったでしょう。イエス様ご自身も、それは覚悟の上だったでしょう。そんなイエス様の振る舞いを、目の当たりにした弟子たちの反応が、興味深いのです。『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』という、聖書の言葉を、思い起こさせられたと言うのです。旧約聖書詩編69編10節の言葉です。この他にも、今日の場面を思い起こさせるような、聖書個所があります。旧約聖書ゼカリヤ14章21節『その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる』。またマタイ福音書でも、今日の神殿での出来事が記されていて、その中でイエス様が、聖書の言葉を引用して(イザヤ56:7)、次のように語られています。マタイ21章13節『こう書いてある。わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている』。過激とも思えるイエス様の振る舞いですが、随所に聖書の言葉が、その背後に働いているようです。弟子たちもそれを、実感させられているのです。

そして最後に、再建するのに46年もかけて、人々を路頭に迷わせるような神殿ではなく、三日で再建される神殿によって、あなたがたは、礼拝を守ることが出来るようになるとおっしゃられるのです。その神殿とは、死者の中から復活された、イエス様ご自身のことでした。それは、遠方からわざわざやって来なければ、礼拝出来ないような神殿とは違います。いつでもどこでも共にいて、一緒に祈り、礼拝を守ることの出来る神殿だと言うのです。もちろん、犠牲の動物も両替も必要ない。これを聞いた人々は、その時には、何のことかは分からなかったでしょう。しかし『イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた』というのです。

今日の福音書のすぐ後、ヨハネ2章23-24節『・・そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった』とあります。『しるし』とは奇跡のことです。人々は奇跡行者のような、イエス様を信じたようです。今日の福音書の中でも、イエス様に反対するユダヤ人たちが『こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言っています。いずれにしても、人々はしるしを求めるのです。敢えてイエス様が示すしるしを言えば、それは十字架です。しかもその十字架から、神の子なら降りてみろ、と言われても、降りることはありませんでした。またイエス様が復活されて、そのお姿を現わされた時、弟子の一人のトマスに、次のように語られました。ヨハネ20章29節『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』。イエス様を信じたと言う時、イエス様の何を信じるのだろうか。今日聖書から『聖書とイエスの語られた言葉』だと、弟子たちを通して示されるのです。

キリストの教会によって、第二の創造による歩みが、イエス様の御心に沿うように、聖書とイエス様の言葉によって整えられ続けてまいります。

四旬節第4主日

『真理を行う者』ヨハネ3:14-21

今日の福音書はまず、第一日課の民数記21章4節以下の出来事に触れた、イエス様の言葉から始まります。それについてその民数記から、少し見てまいります。この場面は、かつてエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、モーセを指導者に立てた神様の導きによって、エジプト脱出を果たした後の、イスラエルの民の様子を描くものです。このエジプト脱出の出来事は、神様による救いの出来事ですが、同時に、イスラエルの民による、不平の歴史とも言われます。イスラエルの民に約束された土地に帰還するまでに、四十年を要したその間に、彼らは様々な不平を神様にぶつけます。    早速、今日の第一日課にも、その不平が記されてあります。民数記21章5節『神とモーセに逆らって言った。なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるのですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます』。

何とも自分勝手なもの言いだな、とも思います。せっかく、苦しい奴隷状態から神様は救って下さったのに、返って迷惑がっているようです。救うのが当然だ、とまで聞こえて来ます。しかし大なり小なり、今の私たちも、これと似たようなことを言ったり、思ったりしているのかなあ、とも考えさせられます。特に子どもたちを見ていて、余計に感じさせられるのです。寒くても暑くても、子どもたちはそんな中を、寒さも暑さも楽しむように、精一杯体を動かしています。ところが大人の私は、寒いと言っては不平、暑いと言っては不平なのです。あるいは信仰のことで言えば、洗礼を受けたのに、ちっとも好いことは無いではないか。むしろ悪い方向に行っているようにさえ思えて来る。一体、どこに洗礼による救いが、あると言うのだろうか。こんなふうに目先の事に一喜一憂して、何かが良ければ当たり前、悪ければ神様のせいにして、不平を言う。感謝も何も無い。そんな自分を見るのです。そして、そんなことを繰り返しているのです。

不平を言うイスラエルの民に対して、神様は、炎の蛇を民に送られた。蛇は民をかみ、多くの死者が出たと言う。ここで、何故、蛇なんだろうかと、考えさせられます。蛇と言えば、あの天地創造の後で、人間たちが蛇に唆されて、神様から食べてはいけないと言われた木の実を食べて、エデンの園を追放された出来事が思い出されます。イスラエルの民は、もちろん蛇に嚙まれないにようにしなければなりません。がしかし、それよりもこの蛇を見て、むしろ自分たち人間が犯す罪を思い起こせと、言われているようです。神様の言葉を、疑ったり、忘れたりしてはいけない。あのエデンの園を追放された人間たちは、神様との約束を破った時、それを他者のせいにして、いわゆる罪を認めませんでした。ところが、今日の蛇に襲われたイスラエルの民は、モーセに言いました。『わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください』。まさに悔い改めの言葉です。印象的です。罪を犯すことは多々あっても、それを謙虚に認めて、悔い改めることが大切です。

そこでモーセは民のために、蛇を取り除いて下さるように、主に祈りました。それに対して、主はモーセに言いました。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る』。モーセはこの神様の言葉通りに、青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げました。人々は神様の言う通りに、青銅の蛇を仰いで、命を得ることが出来たのです。この青銅の蛇については、後日談があります。列王記下18章4節『聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた』。青銅の蛇が、その後ずっと、偶像礼拝の対象と化して行ったことが伺われるのです。目先のことに一喜一憂したり、見えるものを唯一の頼りとしたり、どこまで行っても人間は、神様の目に適わない状態に陥ってしまうのです。ここは青銅の蛇が重要ではなくて、神様の言葉に信頼し、その言葉どおりに行なうことが大切だと、改めて教えられるのです。

今日の福音書の場面は前半で、このように人間たちの弱さ、罪深さ、そしてその根深さを、浮き彫りにします。また一方で、謙虚に悔い改める事と、何に信頼することが大切なのかを、改めて明確にさせられるのです。主なる神様の言葉に信頼するのです。その尊い言葉が今日改めて、イエス様の言葉で語られます。ヨハネ3章16-18節『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている』。

神様が『独り子をお与えになった』というのは、一つはクリスマスの出来事でしょう。これは改めて凄いことだなと思います。あの罪深い、どう転ぶか分からないような人間に、その誕生から命を託したわけです。計り知れない人間への信頼が伺われます。だからこそそこに、神の愛が滲み出されます。更にはその独り子が、人間の悪しき策略のままに、十字架に掛けられることまで見届けます。そこまでされたら、さすがの神様も怒るだろうと思います。それでも、そんな人間を裁かない、と言うのです。ここで『信じない者は既に裁かれている』という言葉があります。イエス様を信じない者、ということですが『信じない』こと、それ自体が裁きだと言うのです。信じないから、更にその後、どうなるこうなる、という話ではないのです。だからむしろ『信じる』ことの素晴らしさが、伝わって来るのです。『信じる』ことで、こんなにも計り知れない、神様の愛に気づかされる。それ故に、目先の事に決して揺り動かされない。更には、いずれ朽ち果ててしまうような、見えるものなんて、大したことない。永遠に輝いて存在する、見えないものに頼りましょう。そして、助けられ続けましょう。そんな人生が、これから備えられて行くというのです。

今日の第二日課エフェソ2章10節に、興味深い言葉が記されてあります。『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです』。ここには、天地創造の時の人間の第一の創造が、まず語られています。そしてキリスト・イエスのみ名による洗礼によって、第二の創造が語られている。その第二の創造では『神が前もって準備してくださった善い業のため』だと言うのです。キリストのみ名による洗礼を受けた者は、つまりキリストの教会は『神が前もって準備してくださった善い業』を行うように、再び造られた者だと言う。だから後は、その善い業を行うように、歩むだけです。今日の福音書の中の『真理を行う者』とは、まさにこの『神が前もって準備してくださった善い業を、行うように造られた者』そのものです。それがキリストの教会です。キリストの教会は、闇の中で、何が真実で何が絶対なのか、見えずに揺り動かされている者たちに、光を当てるように、その善い業を行い続けるように用いられます。

これからも『真理を行う者』として、キリストの教会を強め支え用い続けて下さい。

四旬節第5主日

『わたしのいるところ』ヨハネ12:20-33

今日は教会独自のカレンダーで、四旬節第5主日。そして来週は、受難主日となります。イエス様の十字架の出来事が間近になりました。今日の福音書は、そんな十字架の出来事が、色濃く浮き彫りにさせられる所です。冒頭で『祭りのとき』とあります。これは過越しの祭りのことです。このお祭りの時に、イエス様は十字架に掛けられます。このお祭りは、ユダヤ人たちがエジプトで奴隷状態にあった時、神様がモーセを指導者に立てて、ユダヤ人たちをエジプトから脱出させたことを起源とします。これをユダヤ人たちは、民族最大の救いの出来事として、記念し続けて来ました。それが、過越しの祭りになるわけです。

『過越し』という言葉の由来です。エジプト脱出の前に、神様はエジプト中に災いを降します。しかしユダヤ人たちには、住む家の鴨居に、その日に定められた晩餐用に屠られた、小羊の血を塗っておくように言われます。その通りにすると、災いは過ぎ越すと言うのです。結果、エジプト人たちだけが、災いによって、大勢の死者を出しました。ユダヤ人たちは何事も無かった。それを見て恐れたエジプト王は、ユダヤ人たちが出て行くように仕向けます。結局ユダヤ人たちは、エジプト脱出を果たすことが出来たわけです。その過越しの際の晩餐には、その他に、種入れぬパンを食べるようにとか、様々な規定が示されました。以来、この過越しの祭りの際には、小羊を屠り、種入れぬパンを、食べるようになりました。いわゆるイエス様の最後の晩餐と呼ばれる食事も、このようでした。ちなみにキリスト教会では、聖餐式と呼ばれる儀式があります。この過越しの晩餐が、原型になっています。今日はこの後、聖餐式が行われます。式文の11頁の設定というところで、最後の晩餐の時の言葉として、パンを指してこれは私のからだ、ブドウ酒を指してこれは私の血と、イエス様が唱えています。イエス様はご自分を、屠られる小羊に見立てているわけです。エジプト脱出の際の晩餐の食事は、ユダヤ人の救いのためでした。出エジプト記12章43節以下に『過越祭の規定』という小見出しが付けられてあります。次のような言葉があります。『外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。・・イスラエルの共同体全体がこれを祝わなければならない。もし、寄留者があなたのところに寄留し、主の過越祭を祝おうとするときは、男子は皆、割礼を受けた後にそれを祝うことが許される。・・しかし、無割礼の者は、だれもこれを食べることができない』。つまりこの祭りは、割礼を受けているユダヤ人たちだけの救いを記念します。では最後の晩餐の時の、イエス様がご自分を指して言われた、体と血とは、果たして誰のためなのか。

今日の福音書の冒頭は、過越しの祭りのときの礼拝のために、何人かのギリシア人が来て、しかも、イエス様にお目にかかりたいと、弟子の一人のフィリポに願い出たと記されてあります。ユダヤ人のためだけの、過越しの祭りの礼拝に来たというギリシア人は、民族的にはギリシア人です。しかし、恐らく割礼を受けて、改宗してユダヤ人になったと、認められた外国人だと思われます。そんな彼らが、ユダヤ人のイエス様に会うのに、多少の躊躇いがあったのでしょうか。それで弟子の中でも、ギリシア風の名前を持つフィリポに、願い出たんだろうか。何故イエス様に会おうとしたのだろうか。割礼を受け、改宗した自分たちですが、更に有名なイエス様にあって、ユダヤ人と同じように、いわゆる救われる資格を、強固にしたかったのでしょうか。

それに対してイエス様は、会うとも会わないとも、おっしゃらなかった。ご自分の十字架の死を、匂わせるようなことをおっしゃられた。『栄光を受ける』とは、十字架の死のことです。更に不思議な言葉が続きます。ヨハネ12章24-25節『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る』。この時、何故イエス様はこのようなことをおっしゃられたのでしょうか。救いはユダヤ人だけのものなのか。だからギリシア人でも、ユダヤ人のようになろうとする。あたかも救われるために、資格を得て権利を獲得するかのようにしている。救いとは、権利を得ることなのか。ギリシア人の気持ちも分かるけれども、救いの捉え方が、ユダヤ人も含めて、間違っていることを、ここでイエス様は伝えようとされたのではないか。イエス様が示される救いとは、資格や権利を得て、はい、これでおしまい、というようなものではない。終わりではなく、むしろイエス様に従うようにして、そこから救いが始まるという、もっと動きのあるものなのではないか。つまり救いとは、生き方なのだ。主と共に生きるという生き方なのだ。救いを、このように資格や権利を得るようにしてしまうのは、決して、今の私たちも笑えないのではないか。キリスト教会でも、イエス様のお名前による洗礼や、先程も申し上げた聖餐式が、ややもすれば、救いに与る資格や権利のように、してしまっていないだろうか。イエス様に従うという、主と共に生きるということが、抜け落ちてしまっていないだろうか。

『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる』。この言葉の『わたしのいるところ』とはどこか。この後の、天からの声を聞いた時の、群衆の反応の場面から、示されます。ある者たちは『雷が鳴った』と言います。他の者たちは『天使が話しかけた』と聞きます。雷はユダヤ人にとっては、敵を威嚇したり壊滅する神の力と考えられていました。言わば敵には滅び、味方には救いのしるしでもあった。いずれにしてもこの時の群衆は、イエス様に向けられた天からの声だと、受け留めたようです。ですから、ある者たちは、傍観者のように、イエス様が神の敵だと考えるのだろうし、ある者たちは神の味方だと考える。ところがイエス様は『この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ』とおっしゃられた。あなたがたが当事者だ。そうしますと、雷だと聞いた者は、自分こそ神の怒りに触れる敵だと、受け留めるのだろうか。天使の声に聞く者は、神が味方してくれて、救いに与れる者だと言われるのだろうか。そしてこの雷だとか、天使の声だとか聞こえた言葉は、いずれも『栄光』だ。いわゆる人間の考える栄光とは違う。それは主の十字架であり、それが今日の『わたしのいるところ』なのではないか。

主の十字架が、自分にとって、神の怒りの裁きとするのか、あるいは、救いに与れる者とするのか、キリストの教会によって、問い質されて行きたいのであります。

受難主日

『エリヤを呼んでいる』マルコ15:33-39

今日は受難主日ということで、イエス様の十字架上での死と、そこに至るまでの、特に周りの人間たちの状況を、聖書から見て行きます。まず今日の福音書の場面ですが、イエス様が息を引き取られる直前に、大声で叫ばれたという。その時の言語は、当時のユダヤ人たちが、日常的に使っていたアラム語でした。『エロイ、エロイ、・・』で始まっております。それで、聞きようによっては『エリヤ、エリヤ』というふうに聞こえたんでしょうか。エリヤは紀元前9世紀に活躍した、イスラエルの有名な預言者です。彼の地上での生涯の閉じ方は『嵐の中を天に上って行った』(列王下2:11)と記されてあります。それでユダヤ人たちの間には、困難に出会った時に、エリヤがまた下って助けてくれるという、一般的信仰も生まれたようです。それで、そこに居合わせた人々のある者たちが『エリヤを呼んでいる』だとか『エリヤがイエス様を、十字架から降ろしに来るかどうか、見ていよう』とか言ったようです。何か典型的な、野次馬根性と申しますか、徹底的にイエス様とは無関係ですよという傍観者然の、見物人のようです。へたに関係性でも疑われれば、逮捕されてしまうかも知れません。ですから、ペトロを始めとする主だった男性の弟子たちは、逃げ去ってしまいました。その他の群衆も、イエス様に何ら問題を感じていない人々でも、周りの状況がイエス様に不利に働き始めると、身の安泰を計るように、イエス様批判に加担し始めるのです。多分自分自身も、その場にいたら、群衆と同じ行動に出るでしょう。単独で、イエス様に加担する勇気は有りません。群衆に埋もれて、安心している、そんな自分を想像させられます。

そんな中で、十字架の周りにいる人間たちの中に、固有名詞で登場している人間たちが目に留まります。まず、ローマの総督ピラトです。彼は徹底的にイエス様との関係性を、否定する人物として登場するようです。イエス様に何の犯罪性も感じていないし、かといって、イエス様がどうなろうと、自分には関係ない。自分に不利になるような状況が、避けられればそれでいい。最終的には、イエス様を十字架にかけることを許可します。

そんなピラトですが、祭りの度に、人々が願い出る囚人を一人、釈放することをして来たようです。恐らく、植民支配するユダヤの民衆に、媚びを売って、総督としての得点を、高くすることが狙いだったのでしう。この時には、人々はバラバという、言わば政治犯の釈放を求めました。ピラトにとっては、犯罪性の無いイエス様を処刑することは、それでも気持ちの良いものではありません。ちょうど良い機会ですから、イエス様を釈放するようにと、民衆が願い出れば、願ったり叶ったりです。しかし民衆は、バラバを選んでしまった。拒否すれば、また騒ぎが大きくなるかも知れない。いずれにしても、民衆に選択させた。どこまで行っても、責任を回避しようとするのです。それでバラバを釈放した。そんな経緯の中で、釈放されたバラバ本人は、どんな思いだったでしょうか。聖書はそれを記しておりません。ここに聖書独特の余韻を感じさせられます。バラバは、イエス様の十字架によって、まさしく命を救われたのです。彼はこうして、図らずも、イエス様の十字架の、傍観者から当事者になったのです。彼のその後の人生は、どうだったのか。自分がバラバだったらどうするだろうか。

次に出て来る固有名詞は『アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人』です。キレネというのは、今の北アフリカ地中海沿岸地域です。シモンはいわゆるディアスポラのユダヤ人だったようです。過越祭のために、エルサレム神殿にお参りに来たのでしょうか。そこでイエス様の十字架の騒ぎに、出っくわしてしまった。最初は野次馬気分だったでしょうか。ところで十字架の立木は、処刑場に建てられてあります。囚人はその横木を、担いで行くことになっていた。イエス様がよろめいて、余りにも歩けないので、兵士たちは、たまたま沿道にいたシモンに目が留まり、彼に担がせた、ということでしょうか。シモンにして見れば、えらい迷惑です。たまたまそこにいたがために、こんな恥さらしな目に、遭わざるを得なくなってしまった。図らずも、イエス様の十字架を担ぐことになるのです。彼もまた、どんな思いだったでしょうか。聖書は何も記しておりません。ここにも余韻が示されます。なんでこの自分がと、運の悪さを嘆いたか。自分だったら、嘆くだろうなあと思います。図らずも、イエス様との関係が生じてしまった。ちなみにイエス様は、かつて次のように弟子たちに語られました。マルコ8章34節『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。そして息子のルフォスについて、ローマの信徒への手紙16章13節で著者のパウロは『主に結ばれている選ばれた者ルフォス』と挨拶の言葉を記しております。

そして最後に、固有名詞では無いですが、重要な信仰の告白をした人間を、聖書は登場させます。ローマの百人隊長です。ユダヤ人ではありません。神の子だと自称する、ローマ皇帝に仕える人間です。そんな人間が、イエス様の十字架上の死を目の当たりにして『本当に、この人は神の子だった』と告白したと、聖書は伝えているのです。『神の子』と聞いて、どんなイメージを持つでしょうか。神の子ですから、とりあえずは簡単には、死なないものだと思うでしょうか。しかも、見てくれや、振る舞いも、神の子としては、大切な要素です。何しろこの百人隊長は、ローマ皇帝という、見るからに立派な神の子なる者を知っている人です。そんな人間が、図らずも、十字架上で、惨めにも血だらけになって死んだ者に対して『本当に、この人は神の子だった』と告白させられた。イエス様との関係には、最も遠い所にいるから、そんな関係は成り立たないだろうと見なされ得る人間です。そしてそのような人間は、考えて見れば、いくらでもいるでしょうし、それが普通なのでしょう。しかし何が、彼にそのように告白させたのか。ここにも余韻が示されます。常識的には、神の子は簡単には死なない。増してや、死んだ者を目の前にして、その者が神の子だったなんて、さらさら言えるはずもない。それなのに彼は『本当に、この人は神の子だった』と言ったのです。

それはあたかも、神の子は本当に死んだんだと、聖書はむしろ、そこを念を押すようなのです。しかもこの後、百人隊長は、ピラトの命令で、イエス様の遺体の検分までしているのです。これは、図らずも今のこの私たちに向けても、イエス様は本当に死んだのだと、更に念を押すようなのです。そして、相変わらず、常識や人間的理屈や知識だけが、唯一の拠り所であるかのように振る舞う、人間たちに、それが絶対ですかと、挑戦的な問いと余韻を、聖書はまたここでも、残すようなのです。今日の福音書の最後の方で、多くの婦人たちが、イエス様の死に立ち会っていたと記します。古代社会においては、女性の地位は低いものでした。そんな女性たちだけが、十字架というキリスト教史上最大の出来事の時に、イエス様の最も近くにいた。そして当事者として関り続けた。それは普通は、思いもよらないことだった。か弱く、あまりにも静かですが、やはりここにも、人間的常識や理屈のままで、良いのですかと、問われるのです。

当事者とは、共感して相手に何かを感じる、対話が生まれる、ということでしょうか。ピラトに、バラバに、シモンに、百人隊長に、そして十字架のイエス様に、何を感じ、どんな対話が生まれさせられるのか。キリストの教会によって、その余韻に与り続けさせて下さい。

主の復活日

『ガリラヤへ行かれる』マルコ16:1-8

まず先週の福音書の箇所から、少し振り返ります。イエス様の十字架上での死に至るまでに、固有名詞で登場する、何人かの人間たちを取り上げました。十字架上のイエス様に対して、最初は傍観者のようでしたが、図らずも当事者のごとく関わってしまった人間たちでした。どんな思いをもって、それぞれ、その後の人生を歩んで行ったのか、色々と想像させられました。聖書には書かれていないことではありますが、いわゆるこれが、聖書独特の余韻であるとも申し上げました。取り上げた、そんな人間たちの中で、固有名詞を持たない人物もいました。ローマの百人隊長です。イエス様の十字架上の死を目の当たりにして『本当に、この人は神の子だった』と告白したと、聖書は伝えていました。神の子を自称するローマ皇帝に仕え、もちろんユダヤ人でもない。イエス様との関係を考えれば、極めて遠い所にあって、信じる可能性は、限りなく零に近いと思われる人間です。そんな人間が『本当に、この人は神の子だった』と言った。どう言うことなんだろうか。ここにも深い余韻が発生します。固有名詞が記されていないということは、それこそユダヤからは遥かに遠い、日本にいるこの私のことでもあるよと、聖書は言っているようにも思われます。この私も、イエス様を信じることには、はるかに可能性の低かった者です。そんな自分が、イエス様を救い主と信じるようになった。何故そうなったのか。いくら自分の事とはいえ、言葉ではうまく言い表せない。そういう意味では、やっぱりあの百人隊長も、何故『本当に神の子』と告白させられてしまったのか、なかなか言葉で言い表せないのかなとも思われます。

 さて余韻と言えば、今日の福音書の箇所は、その最後のところが、極めて典型的な、余韻が残される箇所と言われます。イエス様が葬られた墓に行った女性たちが、墓の中で、得体の知れない若者に出会い、しかも話しかけられて、墓を逃げ去ったというのです。そして『震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである』という。その若者は、次のように話しかけた。『さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる、と』。イエス様が復活されて、ガリラヤへ行けば会えるという、とても大切なことを、女性たちは誰にも何も言わなかった、で終わっている。本当にそのまま、誰にも言わなかったら、イエス様が復活されたことは、誰も知らないままになってしまうではないか。そうすると、キリスト教会も起こされないことになるではないか。いや、しかし実際は、こうして2000年以上経っても、しかもこんな日本でも、キリスト教会は建て上げられ続けている。ですから、女性たち以外の他の誰かにも、あの若者から知らされて、その人たちが、弟子たちに告げたのかも知れない。あるいは、女性たちはその時には、誰にも言わなかったのだが、時間が経った後、やっぱり告げたのかも知れません。

 そこでまた、どうして女性たちは、後になっても告げる気になったのか、そんなことを余韻として考えて見ます。そこで、あの若者が告げた言葉の中に、気になるところがあります。それは『弟子たちとペトロに告げなさい』と言った。弟子の一人のペトロだけが、固有名詞の名前で呼ばれている。婦人たちは、ペトロの名前が指名されていることに、どう思っただろうか。かつてイエス様は、逮捕される際に、弟子たちが自分につまずくことを予告しました(マルコ14:27-)。同時にその時に『しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く』とも告げました。それを聞いたペトロが、自分だけはつまずきませんと、言い切った。そんなペトロに向かってイエス様は『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と予告しました。そしてその通りになってしまった。あの墓の中の若者が、ペトロに告げなさいと言った内容が、あの時の予告の言葉『あなたがたより先にガリラヤへ行く』というものでした。ですから、この言葉をペトロに告げれば、ペトロは『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と、言われた通りになってしまったことの方をまず、思い出させられるだろう。ペトロが今、一番気にしていることも知れない。だから、ペトロを更に追い込むことになるかも知れない。それでももしかしたら、一方でペトロを立ち直らせる言葉になることも、あるかも知れない。今や、あの予告通りになってしまったのだから、あの時には意識しなかったが、ガリラヤで会えるという言葉が、今度は響いて来るかも知れない。いずれにしても、あの若者の言葉を、今度はどう聞くかは、ペトロに委ねられている。そこで女性たちは、少なくともペトロだけには、密かに告げたのではないか。騙されたと思ってガリラヤに行けば、事態は思いもよらない方向に開かれて行くのかも知れない。

 先にガリラヤへ行かれて、そこでお目にかかれるというイエス様。ガリラヤは、ペトロがかつて漁師として生活していた場所だ。そこで初めて、イエス様に出会ったのだ。もう一度そこでお目にかかれるとは『ペトロよ。そこに立ち返って、もう一度人生を一緒にやり直そうよ』、そんな声にも聞こえるかも知れない。一時は、イエス様の裁きの祟りをも、覚悟したこともあっただろう。しかし、女性たちから色々と話を聞かされる中で、次第に祟りよりも、やり直しの方に賭けるように、決断させられたのではないか。今までとは違う、ものの見方が示されて行くのではないか。しかもやっぱり、イエス様が共にいて下さると言っているではないか。

 今日の箇所からは、華々しくイエス様の復活が、言い広められて行く、そんな力強さは感じられません。三人の女性が密かに、挫折と失敗を被った、ペトロという一人の人間に告げた言葉。それを聞かされた一人から、キリスト教会の始まりが、展開して行ったとしたらどうだろうか。今こうして、キリスト教会が建て上げられている事実があればこそ、そんな一人から今があるのではないか。それは厳然たる事実ではないか。そしてイエス様の復活は、様々な挫折や失敗に立ち往生している者にとって、今までは違うものの見方を示されて、人生のやり直しの力になるのだと、告げられているのではないか。ガリラヤはペトロにとっては、初めてイエス様に出会った場所だった。それを象徴的に捉えるならば、私が初めてイエス様に出会った場所、そこが私にとってのガリラヤなのだ。

挫折や失敗に立ち往生しつつも、私のガリラヤなるキリストの教会によって、もう一度、キリストと共に人生をやり直して行こうではありませんか。