からし種 418号 2024年3月

顕現後第5主日

『わたしは宣教する』マルコ1:29-39

今日の説教題は『わたしは宣教する』。これはイエス様の言葉ですが、続けて次のようにおっしゃられています。マルコ1章38節『そのためにわたしは出て来たのである』。イエス様の、強い宣教の思いが伝わって来るようです。そして『宣教する』とおっしゃられるイエス様は、何を宣教するのか。イエス様が宣教活動を始めた時の、あの第一声に示されています。マルコ1章15節『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。この後イエス様は、その神の国と福音のしるしを、具体的に、表わされて行くのです。

まずイエス様は、ガリラヤ湖にいた四人の漁師たちを『人間をとる漁師にしよう』と呼びかけて、弟子として召し出すのです。四人は、自分の全ての思いや都合を脇において、イエス様の呼びかけを優先させて応えました。これが神の国の住人としての生き方を投影します。そんな四人を引き連れてイエス様は、カファルナウムの町に来られます。その日は安息日で、礼拝の日でした。その礼拝のゲストスピーカーとして、聖書の解き明かしを、イエス様は依頼されました。聖書の解き明かしをする人は大概、過去の有名な律法学者が語った言葉を、引用することも多かったようです。ところがイエス様の教えは、過去の有名人には、あまり依存しない。借り物ではない言葉だったのです。新鮮で、まさに今ここに生きる、自分たち一人一人のことをよく知っておられるように語られた。だから聴く自分たちが、その言葉に動かされてしまうようだった。人を動かすから、そこに人々は権威を感じた。これも、神の国の神と人間との関係性を、映し出すのです。

それからイエス様は、汚れた霊にとりつかれた男の人から、その霊を言葉によって、追い出されました。その時の周りの人たちの反応が印象深いのです。マルコ1章27節『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く』。汚れた霊にとりつかれているとは言っても、通常は、汚れた霊よりも、とにかく目に見えるその人間を、問題視するでしょう。だからその人間が、汚れた人間として扱われてしまうのです。ところがイエス様は、取りつかれたその人間ではなく、汚れた霊を問題視するのです。ここに、新しさを感じたのではないか。その人間は、表面的には汚れたように見えても、神様が愛して造られた、本来の人間なんだと、イエス様は見なされるのです。それについてイエス様は、マルコ2章17節では、次のようにおっしゃられています。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』。ここに福音が示されます。

この時の、いわゆる悪霊払いは、安息日に行われたものです。安息日は、一切の労働行為をしてはいけないと、律法に定められています。この悪霊払いも、病気の癒し行為と見なされるならば、明らかに律法違反になります。しかし今日の聖書のこの場面では、不思議にも、違反を非難する言葉は記されておりません。癒し行為とは、見なされなかったのでしょうか。しかし今日の福音書では、シモンのしゅうとめが、イエス様によって癒されたかのように描かれております。これも何ら、問題視されていないようです。これも、癒し行為とは、見なされなかったのでしょうか。ちなみに、しゅうとめは癒されて、直ぐに『一同をもてなした』と記されてあります。呼びかけに応えて、網を捨てて、直ぐに従った漁師たちと、同じような反応です。まさに神の国の住人になったようです。そしてすぐ後の、マルコ1章32節に注目させられます。すなわち『夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た』。ユダヤの一日は、日没に始まって、日没に終わります。そうしますとここは、日が沈んだので、安息日が終わったのです。だから人々は、癒しや悪霊払いを求めて、イエス様の所に来たのか。人々は、イエス様に癒しを求めるのを、敢えて安息日を避けていたんだ、とも考えられます。イエス様は律法違反を承知で、悪霊払いをしたり、しゅうとめを癒したりしたのではないか。そしてその場では、誰もそのことを批判しなかった。聖書は暗に、律法を超える神の国と福音が、ここに現わされていることを、示そうとしているようです。

安息日が終わって、そんなイエス様に、人々が殺到します。しかしイエス様は、人里離れたところへ出て行くのです。弟子たちはそんなイエス様に『みんなが捜しています』と伝えます。大勢の人が集められた、このカファルナウムでの宣教活動は、大成功のように映ります。ここにこのまま留まっていても、偉大な宗教指導者として、人々の称賛を浴びられるようにも思います。弟子たちも、何かそんなことも、思い描いているようにも想像されます。しかしイエス様はあくまでも、宣教するために来たんだという。宣教の成果には、関心が無いかのようです。しかもその宣教する姿は、何か指導者のようではなく、むしろ僕のようにして、ひたすら、弱っている人々の間に、入り込むようなのです。病気や悪霊を憎んで、どんな人間をも、受け入れ愛されるようなのです。ここにも、神の国と福音のしるしが示されるのです。

今日の第二日課の1コリント書は、初代教会の伝道者パウロが書いた手紙です。イエス様によって迫害者から伝道者へと、造り変えられた彼です。そんな彼の宣教姿勢が記されてあります。1コリント9章22-23節『弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音にともにあずかる者となるためです』。どんな状況の人間であろうとも、決して分け隔てしないというイエス様の福音によって、造り変えられたパウロです。『だから福音のためなら、わたしはどんなことでもします』と告白する。しかし、この先、人を分け隔てしてしまうことも、あるかも知れない。そうすれば、福音から離れてしまうことになる。だから、これからも『わたしが福音にともにあずかる者となるためです』と告白するのでしょう。いずれにしてもパウロは、この福音をもたらすイエス様に出会ったからこそ、造り変えられて行ったのです。パウロがここで言う『救い』とは、イエス様に出会うことだと言っても良いでしょう。そう言えば幼稚園の先生方は、毎日、子どもの思いや声にまず耳を傾けて、まさに子どものようになっています。そんな子どもたちと先生方から、神の国と福音のしるしを見させられています。

聖書が言う救いとは、単に何かが癒されることではない。色々な出来事や人々と出会いながら、それを通して、神様の思いがどこに示されているのかと、思い計り悩み祈る。そうして結局、神の国と福音を、体験的に知らされて行くことだと示されます。

変容主日

『非常に恐れていた』マルコ9:2-9

今日は教会独自のカレンダーで、変容主日と呼ばれる日曜日です。そして大きな分かれ目の日になります。今週の水曜日が、やはりカレダ―では灰の水曜日と呼ばれ、この日から四旬節に入ります。40日間の期節、という意味です。これはイエス様が荒れ野で、40日間に渡って悪魔から誘惑を受けた、という聖書の記事に由来します。ちょうど来週の主日礼拝で与えられている、マルコ福音書の箇所になります。この四旬節は、色々な誘惑と、自分の罪に気づかされて、悔い改めへと導かれるように過ごします。その罪の内容と、誰に対して悔い改めるのか、それらが問われます。ちなみに先程、灰の水曜日と申し上げましたが、聖書の中で悔い改めのしるしとして、灰をかぶる、という描写があります。ここに由来しています。

そんな境目の主日ですが、イエス様が真っ白に輝いた、すなわち白く変容した、という出来事が描かれています。白というのは、神様の現臨を表す色と言われます。ですからイエス様が神であることを、ここで改めて聖書は指し示すようです。少なくとも今、聖書を読んでいる私たちにとっては、言うまでも無いことのように思っています。とすると、この変容の出来事に、どんな意図が込められているのだろうか。今日の聖書の中に『イエスの姿が彼らの目の前で変わり』とあります。ですから、どうも読者に示すよりは、少なくとも『彼らに』この変容の出来事を示したかったようです。ここの『彼ら』というのは、弟子たちの中の、ペトロとヤコブとヨハネだと、聖書は記しております。この三人については、イエス様は他の場面でも(5:37,14:33)、彼らだけを連れて行ったということが、記されてあります。弟子団の中でも、彼ら三人は、言わば幹部のような立場だったのでしょうか。そんな彼らに今日の変容の出来事から、何を示そうとされるのか。単にイエス様が神様であることを、示そうとされているだけではないようです。

そこで今日の場面の少し前の所の、聖書の記事から見て行きます。まずイエス様が、ご自分のことを人々は、何者だと言っているのかと、ご自分への評判を、弟子たちに尋ねた場面があります。色々な評判が報告された後、最後に弟子たちに向かって『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』と尋ねました。それに対してペトロが『あなたは、メシアです』と答えたのです。言葉としては正解でした。しかしどんなメシアなのか、その内容に弟子たちとイエス様との間に、隔たりがあったことが、次の場面で浮き彫りさせられます。この後イエス様は、ご自分の身に起こされる、十字架の死と復活の出来事を、弟子たちに話されたのです。それに対してペトロが『イエスをわきへお連れして、いさめ始めた』と言うのです。『縁起でも無い。話が違うじゃないですか』ということでしょうか。そんなペトロに向かって、イエス様は言いました。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』。それから更に、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、十字架の死と復活の出来事の意味を、どこまで理解させられたかは心許ないですが、とりあえず教えられたのです。

そして今日の変容の場面になります。幹部三人は、どんな思いでこの場面に臨んだのでしょうか。特にペテロはどうだったか。六日前とはいえ、サタン呼ばわりされて、かなりへこんでいたのではないか。ところがいつものように、他の二人と一緒に、幹部として扱ってもらえた。『良かった。まだ見捨てられていない』。そこに、目の前でイエス様が白く輝いた。しかも昔の偉大な預言者のエリヤが、モーセと共に現れて、イエスと語り合っている。その時のペトロたちの様子です。マルコ9章6節『ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである』。ペトロは、どう言えばよいのか分からないなりに、エリヤ、モーセ、イエスの三人のために、仮小屋を建てることを提案しています。そもそも、三人に対して、何かを言えとは言われていないのです。『口をはさんで』と記されてありますから、ペトロの方から、勝手に、何かを言わなくちゃ、と思い込んでしまったようです。その心境は、どうも、昔の偉い預言者たちと、イエス様とが話し込んでいる。なので、幹部の弟子としては、ここで何か気の利いたことを言わねばならないと、思ってしまったのではないか。

仮小屋というのは、ユダヤの大切なお祭りの一つ、仮庵の祭りを思い起こさせます。モーセを指導者に、奴隷状態に置かれていたエジプトを、イスラエルの人々は脱出した。その時に荒れ野を40年間彷徨よい、苦しみとさすらいの天幕生活を強いられた。それを記念する祭りです。お祭りでは、仮小屋を作ってそこに住み、神の導きと守りを記憶し、この世が仮の住居であることを告白する、しるしとしたということです。聖書の知識はありそうですが、それだけに、神のことを思わず、人間のことを思っていると、サタン呼ばわりされたペトロからは、むしろ人間の力を誇るような気配が、相変わらず漂っているようなのです。弟子が立派であれば、有名な預言者たちの前で、イエス様も面目が立つと言うものだ。また一段と、イエス様に認めてもらえるかも知れない。しかし自信があったわけではない。半分は、何か粗相を起こしてはいけないと、非常に恐れていたのではないか。それにしても弟子たちはここで、イエス様までも、恐れの対象にしてしまっているのです。それは従来のイメージにある、怒りの父なる神様と、イエス様とを、全く同じようにイメージしてしまっているようです。

そんなふうに、弟子たちの心境を、色々と想像を巡らすと、片やイエス様は天的な存在として露わにされる。しかも弟子たちは、その存在を恐れている。一方の弟子たちは、人間のことを思っていると、サタン呼ばわりされたペトロのように、相変わらず人間の筋書きや能力ばかりに目を奪われている。この極めて対照的な、イエス様と人間の姿とが、この変容の出来事において明らかにされる。ここにこの出来事の意味が、置かれているのではないか。そしてこの人間たちのために、ここから山を下って、十字架の待つエルサレムへと、イエス様は向かわれるのです。そういう境目に、今日の箇所はなっているのです。そしてここに、もう一つ興味深い言葉が記されてあります。雲の中からの声を聞いた時でした。マルコ9章8節『弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた』。エリヤもモーセも、そして雲の中からの声の主も、いなくなったことを伝えているわけです。がしかし、イエス様だけは弟子たちと共に、ずっといて下さる。そんなふうにも、聞こえて来るのです。

どんなに罪深い者であっても、これから先も、どんなに苦しく辛いことがあろうとも、どこまでも、一緒にいて下さるというイエス様。今日の変容の出来事から示されたイエス様によって、これからの四旬節を相応しく、過ごさせていただき、真のイエス様に出会わせて下さい。

四旬節第1主日

『イエスを荒れ野に』マルコ1:9-15

以前にも申し上げましたが、マルコ福音書は、マタイやルカ福音書のように、イエス様の誕生については言及されておりません。最初から、大人になったイエス様が登場します。大人のイエス様ですから、これからの働きに、マルコは焦点を当てるようです。そこでまずイエス様の登場の前に、洗礼者ヨハネが登場しました。『罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた』ということです。そして同時に、その罪の赦しを保証する、救い主としてのイエス様の登場を前触れしたのでした。

そんなヨハネの下にイエス様も来て、ヨハネから洗礼を受けられました。ヨハネが宣べ伝えたのは、悔い改めの洗礼でした。それは一方で、悔い改めない者に対しては、厳しい裁きを語るものでした。そんなヨハネから、イエス様が洗礼を受けられた。それは、悔い改めない者は裁かれるべきだという、ヨハネの宣べ伝えを、全て御自分の身に引き受けられるような、そんな振る舞いにも思えるのです。そうやって、裁かれるべき人の裁きの全てを身に負うと、意志表示されたのです。イエス様の罪の赦しは、全ての者に与えられるものです。分け隔てなさらない。必ず人々は、悔い改めて、悔い改めない者が一人もいなくなることを、信じて待っておられます。イエス様は聖霊で洗礼を授けると、ヨハネは前触れしました。その聖霊こそ、悔い改めへと導くものであると、また聖書は示すようです。

今日の福音書は、ヨハネから洗礼を受けられた時、イエス様に聖霊が注がれて、更にその聖霊によって、荒れ野に送り出されたと言います。そして荒れ野に留まり、四十日間、サタンから誘惑を受けられました。サタンとは、神様との関係を断ち切ろうとするものです。それは、様々な顔をして現わされるものでしょう。ここで荒れ野と四十という数字から、かつてエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、モーセを指導者に立てた神様の働きによって、エジプト脱出を果たしたという出来事を、思い起させられます。旧約の出エジプト記に記されてあります。父なる神様による、最高最大の救いの出来事として、イスラエルの民はずっと、記念し続けている出来事です。ちなみにイスラエルの民は、どれ程の苛酷な状態に置かれ続けて来たのか、その出エジプト記から引用します。1章9-14節『・・イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。・・しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、・・彼らが従事した労働はいずれも苛酷を極めた』。

しかし一方で、この出エジプトの出来事は、不平の歴史とも言われています。イスラエルに約束された土地に帰還するまでに、四十年を要しました。その間に、イスラエルの民は、様々な不平を神様にぶつけます。いくつかその不平ぶりを、出エジプト記から引用します。15章23-24節『マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。・・民はモーセに向かって、何を飲んだらよいのか、と不平を言った』。16章2-3節『荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。・・我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだほうがましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている』。

荒れ野と言えば、石ころだらけで、何もない。誰も行きたがらないような所でしょう。しかしエジプトの苛酷な環境に置かれ続けて来たイスラエルの民にとっては、当初は、パラダイスは大げさにしても、安心させられる場所になったのでしょう。しかし荒れ野での生活が長くなると、荒れ野本来の環境に苛まれ、あの苛酷なエジプトでの生活が、今度はパラダイスのように思えて来てしまったようです。人間が感じる幸せとは、何と定まらない、いい加減なもののようにも思われて来てしまいます。

自分中心に、自分の都合が全てに優先されるように過ごしますと、それに反する事態に直面すれば、それを不幸だとする。都合どおりに行けば、それを幸いとしてしまう。しかしあの苛酷を極めるエジプト生活の中で、先程も引用しましたが、次のような言葉に目が留まりました。『しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった』。苛酷な状況の中にあっても、イスラエルの民は増え広がったという。これをどのように考えるのだろうか。何か目に見えないけれども、彼ら民族を、決して滅ぼさないという、強い意志がそこに働き続けていることを感じさせられるのです。そしてまた、そもそも神様は、何故エジプトを脱出させたのか。もちろん苦しむイスラエルの民を救うためなのでしょう。がしかし、もっと根本的な理由があったのです。

それは、元々、イスラエルの民はエジプトにいるべき民ではなかった。約束の地カナンに住むべき民として、先祖のアブラハムがカナンに移住したのです。ところが、カナンが飢饉に見舞われたのを契機にして、肥沃な土地を持つエジプトに、イスラエルの民は移住して来て、そこに定住するようになったのです。恐らく年代を重ねる毎に、約束の地のことは忘れさられて行ったのでしょう。そんな背景を考えますと、このエジプトでの過酷な状況は、イスラエルの民を、もう一度、原点に立ち返らせるような、そんな出来事のようにも、考えさせられるのです。まさにイスラエル民族の、悔い改めへと導かれる出来事のように思うのです。もちろん当事者のイスラエルは、その時には、これが原点への立ち返りの出来事だとは、想像もつかなかったことでしょう。それに気づかされるのは、自分中心、自分優先ではなく、自分を超えた、父なる神様の思いを優先させるとき、気づかされて行くことなのでしょう。

今日の福音書の、イエス様が、サタンの誘惑を受けられた間『野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた』という、何とも不思議な言葉があります。これは、今自分が置かれている状況の中で、自分中心、自分優先に物事を見て行くと、そこには野獣ばかりがいるように見える。しかし、そんな自分中心、自分優先ではなく、自分を超えたお方の都合に思いを寄せますと、そこに天使が仕えているように見えて来る。そして、今の自分に置き換えて考えて見ます。私たちもまた、本来いるべき所があって、そこに戻るようにと、いや、戻れることが出来るようにと、イエス様はおっしゃられるのではないか。その言葉とは『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。

この四旬節を通して、キリストの教会によって、悔い改めて帰るべき所に帰らせていただけますよう、整えられてまいります。

四旬節第2主日

『福音のために命を失う』マルコ8:31-38

今日のマルコ福音書は、まず冒頭で、三回行われた中の、第一回目のイエス様によります、死と復活の予告が行われています。その少し前に、イエス様から『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』と問われた弟子たちですが、ペトロが『あなたは、メシアです』と答えました。それに対して、正解不正解はおっしゃらずに『御自分のことはだれにも話さないように』と、弟子たちを戒められたということです。これを聞いて弟子たちは、どう思ったでしょうか。この時のユダヤ人たちの多くは、ユダヤを植民支配するローマから解放してくれる、いわゆる政治的メシアを待望していました。弟子たちも同様だったでしょう。ローマもそんなメシアを、警戒していたことでしょう。ですから、今ここで、イエス様がそんなメシアであることが広まってしまえば、解放はおぼつかなくなると、これも多くの人たちが考え得ることだったでしょう。ましてやイエス様も、今はその時ではないと思っていたのではないか。それで誰にも言うなと言われたのかも知れない。弟子たちもそんなふうに理解したのかも知れません。

ところが今日の場面になって、イエス様は、死と復活の予告をされました。その際に、マルコ8章32節『しかも、そのことをはっきりとお話しになった』とあります。もう少し直訳しますと『しかも、そのことをあからさまに・人をはばからないで・隠さないでおはなしになった』ということです。ですから、結構、周りにも聞こえてしまうような、そんな話し方だったのかなあと思われます。イエス様にとっては、このことは、誰にも聞いてもらいたいんだ、という事なのか。少なくともローマ側に聞かれても、全く問題なさそうです。『あなたは、メシアです』と答えたペトロに向かって、誰にも話すなと言われたことと、何か対照的です。この後ペトロが『イエスをわきへお連れして、いさめ始めた』とあります。ですから、本当にペトロも、周りに聞かれたらどうするんだ、という思いが伝わって来るようです。それこそここでは、ペトロがイエス様に向かって『誰にも話さないように』と、言わんとしているようでもあります。

ペトロは何を懸念したのでしょうか。イエス様が何者なのか。自分たちが思っている事と、違うような事をおっしゃられた。そんな誤解させるような言葉を、周りに聞かせたくない、ということなのでしょうか。それも有り、かも知れません。しかしまた『長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され』る、という言葉も、かなり刺激的だったのではないか。イエス様は既にこの時には、律法学者たちの反感を買っていたようです(7章)。ですからこの時の、律法学者たちに言及した言葉は、彼らの耳に入れば、増々怒らせることになるでしょう。しかし今は、一致団結して、ローマに立ち向かわなければならない時です。弟子たちにして見れば、そんな内輪もめのようなことを、している時ではない、そんな思いも有りなのではないか。敵の敵は味方のような、まさにドロドロとした人間模様が、浮き彫りにさせられるのです。

しかしペトロを叱って、イエス様は言いました。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』。聖書が言うサタンとは、神様から人間が、離れるようにするものです。ですから、神のことを思わず、人間のことを思っていると言うのです。敵の敵は味方でも、その後また味方は、敵になり得るのです。本当の敵は誰なのか。本当の味方は誰なのか。何が真実で何が嘘なのか。様々な人間的思いによって、どちらにも、なり得るのです。神様から離れると、そんな根無し草のような状態に、人間は置かれるのではないか。しかも、弟子のペトロですら、サタンと呼ばれている。人間のことを思うと同時に、サタンがすうーっと私の前に来て、無意識にも私はサタンの後ろに従っている。イエス様が『サタン、引き下がれ』と言って下さるのでなければ、私にはどうすることも出来ないとも思われます。

私の後ろにサタンを引き下がらせて、私はイエス様の後に続くようにと、イエス様はおっしゃられます。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。『自分の十字架』とは、諸々の顔をした、自分を裁くものです。苦難や悲しみや失敗や挫折なども、当てはまるのかも知れません。ペトロばかりではない。私たち人間は、いつでもサタンの後ろに、従ってしまっている。それを絶えず自己吟味して行くのです。そのためにはどうしたら良いのか。更にイエス様はおっしゃられます。『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである』。この言葉は、こんなふうに考えます。人生で、物事がうまく行っていれば、大満足です。同時に、もっとうまく行くために、もっともっとと考えて行きます。まさに自分の命は救われ、更に救いたいという状況のようです。しかしうまく行かなくなった時、どうするのか。もちろん、うまく行くように、考えるのでしょう。がしかし、いつでも誰もが、うまく行っているばかりではない。うまく行かなかったら、どうするのでしょうか。絶望するだけなのでしょうか。まさに自分の命を失ったかのような状況になるのでしょう。

ところが、イエス様のため、また福音のために命を失う者は、それを救うという。これは、いわゆる地位、名誉、財産を失ったり、獲得出来ずに絶望しか無かった者が、むしろそういう、これを失ったらだめだと、決めつけて来た状況の中から、思いもよらない神様からの深い意志と意味が、示されるとしたらどうだろうか。まさに絶望から希望へと、そんな救いが示されるというのです。キリスト教会初期の伝道者パウロの、次の言葉が思い起こされました。フィリピ3章5-11節です。所々引用します。『わたしは生まれて八日目に割礼を受け、ヘブライ人の中のヘブライ人です。・・非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。・・キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。・・わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです』。

人生順調なら、たまたまでも、偶然でも、存在する意味や生きている意味は、別段、考えなくても済むのでしょう。しかし失敗や挫折に直面して、ただ絶望するよりも、それでも意味があるんだと知らされる時、新しい人生がむしろそこからもう一度展開されて行く。まさに復活の道が開かれて行く。生きて存在する意味は、もはや獲得するものではない。既に神様が、一人一人に相応しく、備えていて下さる。後はそのことに気づかされるだけです。

キリスト教会により、福音のために命を失わせていただきます。