からし種 375号 2020年8月

聖霊降臨後第7主日

『両方とも育つままに』マタイ13:24-30,36-43

 今日の福音書の箇所は新共同訳聖書では『毒麦のたとえ』という小見出しが付けられてあります。先週の箇所も同じマタイ13章の、イエス様によるたとえ話の箇所でした。このマタイ13章に入るまでに、イエス様は既に、ユダヤ教の宗教的有力者たちから、具体的にはユダヤ教の一派でありますファリサイ派の人々でありますが、強い反感を持たれ始めておりました。その理由は律法違反を繰り返したからです。特に安息日を守る律法に、何回も違反し続けておりました。マタイ12章1-14節に、安息日律法に違反する状況が描かれております。その12章14節には『ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した』と記されてある程です。つまり人々は、イエス様とは一体何者なのか、という問いに直面させられた。そこである者たちは、律法違反を繰り返すイエスは、神様を冒涜する者として、『どのようにしてイエスを殺そうかと相談した』。そしてイエス様の意図は、まさにそのように『イエス様は何者なんだ』と、人々にまず疑問を起こさせる事でした。

 しかし傍観者のごとく、評論家のごとく、イエス様が何者なのかと吟味したところで、それだけでは本当のイエス様の事は知らされない。イエス様に疑問を持ちつつ、同時に、自分自身も何者なのかと、自己吟味をさせられる時、イエス様が何者なのか、露わにされて来る。同時に本当の自分も明らかにされる。そのためにまずイエス様は『たとえ』を語られるのです。マタイ13章10節以下で、弟子たちが、たとえを用いてお話しになる理由を尋ねた時、イエス様は特に次のように答えられています。マタイ13章12-13節『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ』。何を『持っている』というのか。それは『問い』です。あるいは『求める』ことです(cf.マタイ7:7-8)。『イエス様は何者ですか』、そして『この自分は何者なのか』と問い求め始める。たとえは、そんな持っている問い求めを、豊かにしてくれるのです。そして回答へと導いてくれるのです。先週の『種を蒔く人のたとえ』では、まさに自分自身が何者なのか、改めて問われ露わにさせられるものでした。道端に蒔かれた種のようなのか。石だらけの所に蒔かれた種のようなのか。茨の中に蒔かれた種のようなのか。良い土地に蒔かれた種のようなのか。そして今日の福音書の箇所もまた、自分自身を問われます。しかしここは、イエス様との関係の中で、自分が問われます。ですから同時に、イエス様が何者なのか、露わにされて来るのです。良い麦の種のようなのか。毒麦の種のようなのか。そして『天の国』とは何なのかが問われているのです。

 お手元に日本ルーテル教団事務局から、『教会だより7月号』が送られて来ていると思います。その1ページ目の巻頭言を、教団牧師たちの間での順番によりまして、今月は清水が担当させていただきました。内容は今日の福音書の箇所からです。改めて引用させていただきます。『イエス様による天の国のたとえ話です(マタイ13:24-30)。良い種だけを蒔いたはずなのに、どういうわけか、実ってみると毒麦も現れてしまった。そこで僕たちは畑の主人に、抜いてしまいましょうかと提案します。しかし主人は、毒麦を抜く時に良い麦まで抜いてしまうかも知れないから、刈り入れの時まで、両方とも育つままにしておきなさい、と言ったのです。誰しも悪いものがあれば、早く除去したいし、出来るだけ避けて通りたいのが普通の感覚です。しかし100%、悪いものだけを除去出来るのか、と言われれば、少し自信も揺らぎます。これを悪い人間に置き換えれば、自分は良いほうなのか悪いほうなのか、『良い』とも言えない自分は、やっぱり『刈り入れの時まで、両方とも育つままにしておきなさい』という言葉にすがらざるを得ません。先日、近所にお住まいのインド人の方のお宅に招かれました。カトリックの信者さんです。丁度良い機会だと思って『手を使って食事をされますが、衛生上はどうなんですか』と尋ねました。もちろん手を洗ってから食べますが、それでも雑菌も口に入る。でもそうやって、むしろ雑菌に負けない体になるんです、ということでした。インドの知恵の一端を知らされました。両方ともある中にこそ、共にいて下さる主に感謝します』。

 ここは天の国のたとえですから、まず聖書が言う天の国とは何なのか。そんな問いを持ちながら、思い巡らしました。どうも聖書が言う天の国の始まりは、良いものも悪いものも、両方混在しているところからなんだ。ですから『刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』という言葉から、イエス様の神様は、どうも忍耐強く待ち続けて下さるお方なんだと思い巡らされました。一方人間は、悪いと思うものを速やかに除去しようとする。そこには、前提として、自分自身は悪いものではない。だから除去されるはずがない。そして、自分が悪いものだと思っているものが、絶対的に悪いものだと思っている。この前提は、果たしてそれでいいのかと自問自答してみる。そうすると、本当に自分は除去されない、良いものなのかどうか、自信が失せて来る。その『良い』という事だって、自分が思う良さであって、別の人は違う良さを考えているかも知れない。結局、『忍耐強く待ち続けて下さるお方』即ち、イエス・キリストの神様こそ、こんな自分にとって、大きな拠り所となって来る。ここに聖書が言う福音の一端が示されて来るのです。

 今日の福音書は、先週の箇所と同じように、マタイ13章36節以下で、このたとえをイエス様ご自身が解説して下さっています。その中で注目させられる言葉があります。マタイ13章38節『畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである』。先程私は、自分が良いものだと思っていても、もしかしたら悪いものかも知れない。だから、途中から良いものへと変われるかも知れないから、そしてまた変わるまで待っていて下さる事に期待しているかのように申し上げました。しかしこのイエス様の解説の言葉から、良い種は最初から最後まで良い種なんだ。途中で毒麦に似ているように見えても、それでも良い種は良い種なんだ。前半の毒麦のたとえの中で、マタイ13章29節『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない』というのは、99.99%毒麦に見えたとしても、良い種は良い種なんだ。それは絶対に抜いてはならないんだ。あなたには毒麦に見えても、私には良い種なんだ、そんなイエス様の思いも、改めて伝わって来るのです。

 しかし毒麦は最初から、言わば悪魔の子らです。途中で良い種のように見えたとしても、本質的に悪魔の子らなんだ、という事です。少なくともイエス様の神様が、悪魔の子らを創るはずがない。創世記1章27節『神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された』とあります。この後、たとえどんなに罪深い者となっても、神様が創造された人間なんです。それはどこまで行っても変わらない。神の良い種なんです。

 だからイエス様の神様は、『両方とも育つまま』にして、こんな私でも、こんな私が良い種であることを表す事が出来るようにして、その時まで、待ち続けて下さいます。キリストの教会によって、主イエス・キリストの神様に感謝。

聖霊降臨後第8主日

『天の国』マタイ13:31-33,44-52

 先々週の12日から二週に渡って、マタイ13章に記されております、イエス様によるたとえ話を聞いてまいりました。本日もイエス様による『天の国』のたとえ話から聞きます。ところで先週もこの場で申し上げたことですが、このマタイ13章に入るまでに、イエス様は既に、ユダヤ教の宗教的有力者たちから、具体的にはユダヤ教の一派でありますファリサイ派の人々から、強い反感を持たれ始めておりました。その理由は律法違反を繰り返したからです。特に、安息日律法に違反するイエス様のお姿が何回か描かれております。ですから、律法違反を繰り返すイエスは、神様を冒涜する者として、反対者たちからは殺意まで抱かれる程でした。イエス様は何のために来られたのか。それは人々が、聖書の神様との正しい関係に置かれること。そして真の信仰を備えられること。更には揺るぎない救いに与ることが出来るようになるために来られた。その事はイエス様が伝道活動に入られた時の第一声で語られています。マタイ4章17節『そのときから、イエスは、悔い改めよ。天の国は近づいた、と言って、宣べ伝え始められた』。そしてまたこれからの伝道活動によって、人々から反感を受ける事も見越しているかのように、マタイ5章1節からの山上の説教の中で、次のように語られています。マタイ5章17節以下『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。・・言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない』。

 律法を『廃止するためではなく、完成するためである』とおっしゃられたイエス様は、この後、マタイ7章までの間に、具体的に律法を取り上げながら、表面的に見た目だけで、さも律法を守っているふりをしてしまう人間の振舞いを戒めます。取り繕わずに正直に、律法を守る事の出来ない自分を見つめ直しなさい、とおっしゃられます。そこが律法を完成させるスタート地点だと言うわけです。律法を守る事の出来ると思う自分の強さを誇るのではなく、守る事の出来ない自分の弱さを認めなさい。そんな自分だからこそ、この神様はどうして下さるのか、問い求めて行きなさい。その結果、その神様に出会った自分は、それ故にその神様に応えて、生きて行く事が出来るようにさせられて行くと言うわけです。そこでまた今日も、たとえを通して、神様との関係の中で自分自身を吟味させられたいのです。

 今日の福音書は『天の国』のたとえですが、イエス様が教えられる『天の国』から、結局、キリスト信仰とはどのようなものなのか、それがたとえられているように示されます。まず『天の国はからし種に似ている』と言います。つまり、キリスト信仰はからし種に似ている。どんなに小さなものであっても、空の鳥が来て枝に巣を作るほどに大きなものになる、というのです。信仰が小さいとか、大きいというのは、どういう事なのか。信仰によって、何か素晴らしい業績を上げることになったという事か。今日示されるのは、いずれにしても、あの時の自分を振り返って、今の自分がどんなに創り変えられたのかに、気づかされた時、あのからし種のような信仰が、成長させられているように感ずるのです。もちろんそれは、今はまだ『空の鳥が来て枝に巣を作るほどに大きなもの』に成長しているとは思えない。ややもすれば、成長が止まって枯れてしまうのではないかと、感じさせられる時もある。それでも、成長途上にあると信じます。

 大切なのは、たとえ小さくても、信仰の種が与えられて、そこにある事です。『天の国はパン種に似ている』と、続けてたとえておられます。パン種はいわゆる酵母菌の事ですが、菌ですから肉眼では見えません。パン種のような信仰も、与えられているのかどうなのか、直ぐに見ることが出来ません。そんな与え方って、ありなのと、もしかしたら、判断されてしまう事もあるかも知れません。それでも自分は、与えられていると信じる。だから、必ずパン生地が膨らむように、そんな信仰の種が与えられている者も、必ず創り変えられる。振り返れば、確かにパンが膨らんでいるように、変えられた自分に必ず出会うのです。

 三つ目の天の国のたとえは、畑に隠されていた宝の話しです。見つけた人はその宝を隠したまま、持ち物を売り払って畑ごと買うと言うのです。    たとえそのものを考えますと、何故、宝を掘り出して、それを使わないのだろうか。畑ごと買う必要はないではないか。しかも持ち物を売り払って買っている。そこでここもキリスト信仰を考えます。そもそも信仰は、見つけた宝を掘り出してしまうように、人間が手段として利用するようなものではありません。畑に宝が隠されているのを知っているのは、見つけた人だけです。今までただの畑であったのに、思いもよらない宝が隠されていた。見つけた人の喜びは、計り知れない。しかしその喜びは、見つけた人にしか分かりません。周りの人は、見つけた人が、どういうわけか、わざわざあんな畑を買って、嬉々としている事に不思議に思うだけです。今までは、不幸だ、不運だ、苦しみだ、悲しみだ、あってはならないと思っていた事が、むしろ信仰によって、幸いであり、喜びであり、意味あるものと知らされる。そして周りの人たちは、あの人は普通なら悲しんでいるはずなのに、どういうわけか喜んでいると、相変わらず不思議がっている。そんなキリスト信仰です。

 四つ目の天の国のたとえは、高価な真珠を見つけた話です。これも話を聞けば、真珠の専門家ですから、良い真珠かどうか、目利きはプロです。そんなプロが見つけた高価な真珠一つ。しかしそれが、持ち物を売り払ってでも買うほどの、言わば絶対的に高価な真珠だと、どうして言えるのか。これからも探して行けば、もっと高価な真珠に出会うかもしれない。そこでここも信仰に置き換えて考えます。つまり真珠の目利きのプロが持つ価値観が、ある時、それを覆すほどの価値観に出会ったという。今までの人生における拠り所が、例えば、地位、名誉、財産といったものから、キリスト信仰を通して、イエス・キリストの神様が人生の拠り所とさせられた、という事です。これまでの生きる規範が覆された。それがキリスト信仰です。

 そして最後に網で魚を集める天の国のたとえです。信仰を与えられている者は、既に、バラ色の、それこそ天国のような所に生きている者ではありません。この地上にあっては、相変わらず良いものと悪いものが混在しているのです。そして得てして信仰を与えられている者は、そうではないと思われる者を、あたかも神のように裁くのです。しかし裁くお方は神のみです。信仰に与るものは、いつでもそこを勘違いしてしまうものである事に、気を配っていなければなりません。そういうキリスト信仰です。

 最後にイエス様は『あなたがたは、これらのことがみな分かったか』と尋ねられました。これは今の私たちにも問われるのです。ここの『分かる』と訳されている言葉は、マタイ13章18節と23節に訳されている『悟る』と訳されている言葉と同じギリシア語です。『スニエーミー』と発音します。元々『一緒に総合する・まとめる』という意味です。ですから、この『分かる』というのは、単に『理解する』ということではない。『偏り見ないで、色々な方面から、多面的に見て、一緒に総合するように理解する』即ち『悟る』という意味です。偏り見ず、多面的に、と申し上げましたが、ここでイエス様は『天の国のことを学んだ学者』に言及しています。ここの『学者』とは、『律法学者』という意味です。何か、現実の律法学者を皮肉っているようにも聞こえます。同時にイエス様ご自身の事を指し示しているように聞きます。『天の国のことを学んだ律法学者は、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている』という。『新しいものと古いもの』とは、結局『新約と旧約』という対比でしょう。新約と旧約を、偏り見ず、多面的に見て行くのです。まさに律法を『廃止するためではなく、完成するためである』とおっしゃられたイエス様です。

 キリスト信仰に生かされるキリストの教会は、これからもキリストによって『天の国のこと』を、からし種のごとく学び続けるものです。