からし種 433号 2025年6月
復活節第3主日
『さあ、来て、朝の食事を』ヨハネ21:1-19
十字架の主を目の前にして、逃げ去ってしまった弟子たち。しかし、人間をよくご存じのイエス様ですから、そんな裏切りの弟子たちを、福音宣教のために遣わすと宣言された。福音という、罪の赦しの善き知らせを、人々に伝えるには、そんな破れを知る弟子たちだからこそ、相応しいとされたのでしょうか。弟子たちも、相応しくない者を、むしろ用いて下さると言われ、大いに感謝し、応えて行きたいと思ったことでしょう。それらのことを、先週の福音書の箇所から聞きました。
さて今日の福音書の箇所は、その先週の箇所からの続きになります。さぞかし弟子たちは、宣教活動に立ち向かって行くんだろうなあと思いきや、今日の場面は、ティベリアス(別名ガリラヤ)湖畔で、漁をしていると言うのです。その弟子たちは、ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち、他に二人ということで、7人になります。特に名前が挙がる三人は、それぞれイエス様を三度も知らないと言ったり、イエス様の復活を疑ったり、ナザレ出身のメシアはあり得ないといったり、みんないわくつきの者たちです。いずれにしても、宣教に燃えるはずの弟子たちでしたが、やっぱり、まずは生計を立てなければならない。それはそれで、当然だとも思えます。ですから、7人の中の3人は漁師だったので、手っ取り早く、かつての職場に戻って、漁をしようとしたのでしょう。『しかし、その夜は何もとれなかった』。漁は夜中に行われるものでしたが、世が明けてしまい、あきらめて、漁を止めかけていた頃だった。
その時、誰だか分からない人が、岸の方から声を掛けて来た。『子たちよ、何か食べる物があるか』。いきなり、見ず知らずの人間が、しかも不漁で不機嫌だっただろう彼らに向かって、食べ物をくれなんて、何とも間の悪い、空気の読めない人物の登場です。弟子たちは『ありません』と、多分ぶっきらぼうに、答えたと想像されます。そうしましたらその人物が『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ』と言うのです。聖書はここで、直ぐに網を打ったかのように記しております。『何を言っているんだ』と、無視しないまでも、もうちょっと、ああだこうだと、やり取りがあっても良さそうな場面です。しかし、直ぐに行動に移したとするならば、それは何故か。その人物の言葉の調子が、人を動かしてしまうような、そういうものだったのだろうか。そして言われた通りにしたところ、大漁だった。そのことも目の当たりにして、一人の弟子が、その人物を特定させられたのです。『主だ』。その声を聞いたペトロは、ほぼ素っ裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだということです。そんなペトロから、何か喜びと、また恐れのようなものも、伝わって来るようです。
鍵の掛かった家の中でも、入り込んで来られた復活のイエス様に、出合うことが出来た。それはそれで大きな喜びだった。しかしその後は、もしかしたら、何の音沙汰も無い時間が、流れていたのではないか。それでまた弟子たちは、不安になったかも知れない。またそれ以上に、これからの生活の事を心配した。そして、イエス様の事を考える余裕も、失ってしまっていた。そこにまたイエス様が登場した。喜びつつ、イエス様の存在と言葉を、改めて思い起こさせられたのではないか。同時に、生活の事を心配して、イエス様を忘れてしまっている自分を、悔いたのではないか。そんな自分たちであるのに、裁くことなく、自分たちのために、ガリラヤ湖まで来て下さった。そして、必要なものを備えて下さるのだ。岸辺には炭火が起こしてあり、魚とパンも用意されていた。『さあ、来て、朝の食事をしなさい』。
弟子たちは、その人物が誰かは問わずに、食事を共にする際には、イエス様だと知っていたという。それはただ単に、肉の目でイエス様の姿を確認したからではない。生活の糧の事を心配して、いわゆる信仰が建前のようになっていた自分たち。しかもその生活の糧も、ままならなくて、あきらめてしまう自分たち。それでもそんな者を裁かずに顧みて、必要な時に必要なものを備えて下さる。そうやって悔い改めへと導いて下さる。そこにはいつでも、人を動かす言葉があるからだ。この一連の出来事から、恐れて逃げ回る自分たちを、裁かず、むしろ大切なご用のために用いて下さると宣言して下さった、あの時のイエス様と同じだ。だからもはや『あなたは誰ですか』と問う必要は無いのだ。
聖書の世界では、食事は、人と人、神と人との交わりの表現だと言うのです。そして食事を共にする者は、互いに援助する義務もあると言うのです。この時の食事は、弟子たちにとって、強く印象に残った、特別なものになったのではないか。人間的な思惑からではなく、キリストの言葉があるからこそ、必要なものは必要な時に、必ず備えて下さる。そして備えられたものは、単なる肉の糧ではない。霊肉共に養われるものだ。そしてそれらの糧は、自分たちだけのものではない。それを必要としている人たちがいて、その人たちのためのものでもある。自分たちはその人たちのところにも、届ける者なのだ。この後、弟子たちを代表するペトロとイエス様との、会話が記されてあります。愛を持って、イエス様の小羊を飼いなさい、と言われるのです。その愛は、食事を共にするイエス様からいただくものです。小羊を飼うとは、食べ物を与えることです。その食べ物もまた、キリストの言葉によって、備えられるものです。ペトロはそれから、神の栄光を現すための死に方を示すために、行きたくないところへ連れて行かれると言われます。行きたくないところとは、究極的には死です。ですから人生の折々でも、行きたくないところ、起こってほしくないことなど、そういうものはたくさん経験するものです。そしてそれらは皆、神の栄光を現すためなのだろう。
先週の水曜日夜10時、NHKEテレで、元ソニー社長の平井一夫さんの、若者たちへの講義の様子が放送されておりました。平井さんは、赤字に陥ったソニーを、V字回復させた時の社長さんです。そんな平井さんは、父親の仕事の関係で、米国生活が長く、そこでは日本人という事で、いわゆるよそ者だったわけです。日本に戻っても、いわゆる帰国子女で、やはりよそ者になっていたそうです。ソニーに入社しても、当時のソニーはエレクトロにクス関連が主流で、平井さんは音楽ゲームソフト関連の傍流に携わりました。そんな経験等を話されていました。印象深い、一人の質問者とのやり取りがありました。『評判の悪い上司の下で、どのように対処したら良いでしょうか。排除するのか、我慢するのか』と尋ねられて『辛いかも知れないが、どんな上司の下でも、とにかく嬉々として仕事をするように努める。愚痴ってばかりいたら、その上司と同類になってしまう。しかし、喜んで仕事をしているあなたを、あんな上司の下でも、よくやるなあと、必ず誰かが見ていてくれて、新しい仕事が与えられて行くものだよ』。これを人生という職場に置き換えると『見ていてくれる誰か』は、きっと、主イエス・キリストの父なる神様かなと信じます。
今日これから私たちも、キリストの聖餐の食事に与ります。もう一度聞きましょう。『さあ、来て、朝の食事を』。
復活節第4主日
『あなたたちは信じない』ヨハネ10:22-30
今日の福音書の冒頭に『神殿奉献記念祭』とあります。別の日本語訳聖書の口語訳聖書では『宮きよめの祭』とされています。紀元前168年にシリアの、アンティオコス・エピファネスという王様によって、ユダヤは侵略占領されました。その際に、エルサレム神殿にゼウス神の偶像を据えて、言わば力づくで、ゼウス神殿に変えてしまったのです。その他にも、ユダヤ教の律法の書物を悉く引き裂いたり、割礼を禁止したり、屈辱的なことが行われ続けました。併せて、進んだギリシアの文化が入り込み、ギリシア名を自分の名前とする人たちも、増える程でした。文化文明の感化を受け、信仰的な感化も受けるようになった。そこでとうとうユダヤ人の、マカバイ家出身のユダという英雄が、反乱を起こして、シリアの支配からの解放を戦い取ったわけです。そして神殿も、いわゆる異教の汚れからの『宮きよめ』をしたわけです。この辺の詳細は、新共同訳聖書では続編のマカバイ記に記されてあります。
そしてイエス様の時代は、ローマの支配下にありました。シリアの支配下の時と同様、同じような宗教的汚れ行為も、大なり小なりあったでしょう。いずれにしても、この時代も、あのマカバイ家出身のユダのような英雄が、言わばメシアとして登場することを、当時のユダヤの人々は願っていたわけです。この『神殿奉献記念祭』は、そんな祈りが込められて守られて来たのでしょう。そんな中での、イエス様の登場です。そしてその活動から、人々の間に『あの人がメシアではないか』という期待感も、生まれていたのでしょう。それで今日の福音書の中でも、ユダヤ人たちがイエス様を取り囲んで言ったのです。ヨハネ10章24節『いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』。
それに対してイエス様は答えました。ヨハネ10章25節『わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている』。イエス様は既に、メシアだとおっしゃっていて、父なる神様の名によって行っている業が、メシアであることを証明していると言うのです。ではどの場面で、イエス様はメシアだと言ったのか。そして、メシアの業を行っていたのか。それは、直接的には、今日の福音書の直ぐ前の所から示されます。まずヨハネ9章では、生まれつき目の見えない人が、イエス様の癒しの業によって、見えるようになった事が記されてあります。その癒しの業は、一切の労働行為をしてはいけないという、安息日に行われました。癒し行為も労働行為になります。そこでユダヤ人の中に、イエス様の評価で、意見が分かれたのです。ヨハネ9章16節『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない、と言う者もいれば、どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか、と言う者もいた』。今日の福音書の、イエス様に対して尋ねた人間は、イエス様を、安息日を守らない罪人だとする側の人間だったようです。
それから、イエス様が『私はメシアだ』と、直接言っている場面ではありませんが、ヨハネ10章では、ご自分のことを『わたしは良い羊飼い』だと言って、言わば『羊飼い』に譬えておられるのです。ご自分がメシアだと、強く人々に印象付けるには、もっと他のものに譬えた方が、有効ではないかと思います。それこそ、あのマカバイ家出身のユダの再来だとか言えば、インパクトがあるように思います。もちろん旧約聖書でも、神様と人間との関係を、羊飼いと羊に譬えたりしています。今日の詩編23編は、その代表例です。また、イスラエル民族の父と呼ばれるアブラハムや、エジプト脱出を先導した、イスラエルの指導者モーセや、イスラエル統一王国を築いたダビデ王も、羊飼いでした。ですから旧約聖書の時代は、羊飼いは良いイメージでした。ところが時代が下るにつれて、羊飼いのイメージは悪くなって行きました。何頭も羊を飼っていると、生きものですから、定期的に休みを取ることは出来ません。だから羊飼いたちは、安息日の礼拝に毎週行くことは、出来ませんでした。新約聖書の時代になると、羊飼いはユダヤ人たちに好まれない職業となっていたのです。貧しく、学問が無いと見下され、動物に触れる、汚れた職業とまで言われるようになったのです。羊そのものの価値は、相変わらず大切なものなのに、それを飼ってくれる人間や職業は、見下されるようになっていた。必要不可欠な職業なのに、見下されてしまう現象は、現代でも他にも見受けられます。当時のユダヤは、ギリシア・ローマの進んだ文化が入り込み、快適効率便利という価値観で、時代遅れのようなものは、切り捨てられることもあった。そんな中で『わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる』というイエス様の言葉は、当時の社会的な価値観からすれば、理解不能だったでしょう。
ではそんなイエス様のことを、誤解しないで、メシアだと知るためには、どうしたら良いのだろうか。それは、イエス様が何を言おうと、人間的な習慣、常識、筋書き、願望で、解釈しようとしないことではないか。安息日を守らないから罪人だと言い、片や安息日を脇に置いて、とにかく利益になることをしてくれれば、それがメシアだと言う。それぞれに、メシアとはこうあるべきだという、造り上げられたメシア像を抱いている。力強いメシアとして期待を寄せる人たちは、イエス様が言う『命を捨てる』という言葉に、落胆する人たちもいたでしょう。マカバイ家出身のユダのような強さを思い描いていたからです。それはまたユダヤ人たちに限らず、多くの人間たちも、思いがちな事でしょう。メシアは負けて死ぬはずがない。侵略者を跳ねのけるヒーローでなければならない。しかしそんなヒーローも、考えて見れば、長続きはしていないことも知らされています。滅ぼされてはまた新たに登場し、そんな事を繰り返し続けているのが、人間の歴史だからです。
真のメシアは、そんな人間的常識や筋書きや願望には沿わないのだろう。まずは自分は、どんな人間的思惑を抱いているのだろうか。それを吟味し続ける。そういう自分を、正直に見据えて行く作業が大切です。そのためにも、イエス様の言葉に聞き続けて行くのではないか。イエス様の言葉によって、自分が相変わらず抱いてしまう、人間的思惑、常識、習慣、筋書き、願望に、気づかされて行くのではないか。そうやって、自分の羊飼いの声を、聴き分けられる羊のように、させられて行くのではないか。たまたま先週の金曜日に、新しいローマ教皇が選出されたとのニュースに接しました。見た目は、あの質素な羊飼いの姿とは違って、煌びやかで威厳に満ちたお姿です。ですから思わず、栄光と希望に満ちる神様を、重ね合わせてしまいがちです。しかし、バチカン市国という、れっきとした国家の元首として、軍隊を持たない、武力に拠らない対話によって、世界で唯一、平和の構築に努める国を率いておられるのです。このような国が、目に見える世界国家の一員にあるということは、私たちキリスト教会にとっても、大いに励まされる思いです。そして私たちルーテル教会にとっての教皇は、一つ一つの教会なのです。
今日戸塚ルーテル教会は、定期会員総会が開かれます。イエス様の言葉に聞き分けられる群れであるように、倦まず弛まず、整えられて行こうではありませんか。
復活節第5主日
『新しい掟』ヨハネ13:31-35
今日の福音書の場面は、直接的には、十字架上での死を前に、弟子たちに向けてイエス様が、お別れの説教をしたという、その始まりの部分です。十字架に死んで復活し、天に昇られ、肉の目には見えなくなることを暗示されるのです。これを聞く弟子たちは、全てを理解出来ないでいました。しかし、イエス様が自分たちから離れて、いなくなるような、そんな気配は感じられたのでしょう。心を騒がせる弟子たちでした。そんな弟子たちに対して、イエス様は更にこの後のヨハネ14章15-16節で、次のように語られます。『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる』。この『別の弁護者』とは、聖霊のことです。父なる神様が送って下さる聖霊を受けることで、肉の目には見えなくても、イエス様と共にある安心が、与えられるというのです。そして安心しているだけではなくて、ここで言われるように『わたしの掟』を守る者であると言うのです。
今日の第一日課は使徒言行録11章1節からです。イエス様を救い主として信じて、イエス様のお名前による洗礼を受けたキリスト者が与えられ、ギリシア、ローマの世界へとキリスト教会が建て上げられて行った様子を記しております。最初は、いわゆるユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト者が多かったわけです。ですから、ユダヤ人でなければキリスト者になれないと思う人たちが多かったわけです。ところが、イエス様の弟子だったペトロが、異邦人の家族にイエス様の十字架の出来事を話していた時のことです。こんな出来事があったというのです。使徒11章15節『わたしが話し出すと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです』。この出来事から、イエス・キリストのお名前による洗礼を受ける者には、ユダヤ人とか異邦人とか、区別なく聖霊が降されることが示されたのです。そうして、あらゆる人種が呼び集められるキリスト教会が、建て上げられて行ったと、使徒言行録は伝えるわけです。そして聖霊が降されたキリスト者は、イエス様の掟を守る者とさせられて行くわけです。
そのイエス様の掟とは、今日の福音書の箇所では『新しい掟』と言われています。それは『互いに愛し合いなさい』という掟です。更に、その新しさは『わたしがあなたがたを愛したように』という所に示されます。その愛については、ヨハネ15章13節で、イエス様が次のように語られています。『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』。この『友』とは、単に弟子たち仲間内だけではない。もっと広く、言わば自分以外の全ての人間たちを、指し示します。イエス様はまさしく十字架に死んで、ユダヤ人だけでなく、全ての異邦人たちのためにも、彼らの友として命を捨てられた。そして、新しい掟を守る者として用いて下さるというのです。
今日の福音書の最後は、次のように記されてあります。ヨハネ13章35節『互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる』。ここでイエス様がおっしゃられる『わたしの弟子』とは、直接的には、ペトロを始めとする、弟子団なのでしょう。しかし使徒言行録に記されてあるように、もはやイエス・キリストのお名前による、聖霊の洗礼を受けた全てのキリスト者が、キリストの弟子になるのです。キリスト者は『新しい掟』によって、互いに愛し合い、そんな姿を通して、キリスト者であることを、皆が知るようになるというのです。『新しい掟』とは、別の言い方をするならば『新しい生き方』です。キリスト者は、互いに愛し合う、新しい生き方を通して、図らずもキリストを現わして行くというのです。これはまさしく、キリスト宣教です。もはや洗礼は、自分だけのものではない。自分以外の、他者のためのものでもあるのです。互いに愛し合う、その『互い』は、決して仲間内だけのものではない。自分以外の全ての人間たちとの『互い』なのです。そうでなければ、使徒言行録にあるように、ユダヤ人と異邦人とを区別していたことと、同じ過ちを犯してしまうことになります。ちょうど、3週前の福音書の箇所でした。ヨハネ20章19-31節です。十字架の出来事の後、イエス様に反対する人々を恐れて、鍵を掛けて家の中に潜んでいた弟子たちに、復活されたイエス様が、現わされたという所です。この時の弟子たちは、まさに狭い仲間内の、自分たちだけの身の安全を、心配する者たちでした。そんな、外界と閉ざされた弟子たち一団の殻を、打ち壊すかのように、復活のイエス様が入り込まれ、彼らの真ん中に立たれたのです。『お前たちは、仲間内に閉ざされていない。外に身も心も向けよ』。そんなイエス様の声を聞くようです。
5月6日のNHK『毎朝ラジオ』という番組の中で『渋滞学』という学問を研究されている、東京大学の西成勝弘先生のお話を聞きました。車の渋滞が起こる原因から、その解消を探って行くと、次の三つの戒めに辿り着いたというのです。①自分さえ好ければではなく、他者の車が通る事も考える。②ここさえ好ければではなく、全体という他の場所も考えるようにする。③今さえ好ければではなく、最終的な到着時間まで見込めるゆとりを持つ。これらの、自分さえよければ、ここさえよければ、今さえよければ、ということを、異なる分野の方からも、改めて聞かされますと、返って新しく響いて来るのです。そしてこの三つは、まさに互いに愛し合うことに、深く関わっていると示されるのです。道端で、自分が捨てたのではないゴミでも、拾うようにしようか。自分のいる所は快適だけど、その分エアコンをガンガン使うのは、少し控えめにしようか。お風呂でリキを入れて体を綺麗にしたいが、石鹸の量は適度にしようか。今、自分が着たり、食べたり、当たり前のように手に入れているものは、自分の知らない所で、自分の知らない人が用意していてくれる。でも知らないなりに、意識して行こうか。
今日は礼拝の中で、戸塚ルーテル教会の、役員奉仕者就任式が執り行われます。それは単に、教会内の諸々の事務処理のための奉仕者ではありません。教会が外に向かって、新しい掟の生き方を、世に現わすための、奉仕者の就任を祈り、教会全体で補い合って行くことを、表明する場でもあります。そのことを、互いに意識して行きたいのです。
復活節第6主日
『聖霊が教える』ヨハネ14:23-29
今日の福音書の場面も、先週の福音書に続いて、直接的には、十字架の死を前に、弟子たちに向けてイエス様が、お別れの説教をしたという、続きのところです。十字架に死んで復活し、天に昇られ、肉の目には見えなくなる、ということですが、完全に理解出来ないまでも、弟子たちは不安にさせられたのです。それでイエス様は、今日の福音書の箇所の少し前ですが、ヨハネ14章15-16節で、次のように語られます。『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる』。この『別の弁護者』とは、このすぐ後で『真理の霊』だともおっしゃられています。言わば聖霊のことです。その聖霊によって、肉の目に見えなくなるイエス様が、どんなふうにして、弟子たちと永遠に一緒にいて下さるのだろうか。そのことは、もっと具体的に、今日の箇所で語られているのです。ヨハネ14章26節『しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる』。言葉の思い起こしによって、目には見えなくても、復活のイエス様が共におられることを、確信させられるのです。
イエス様が話されたことを、聖霊が思い起こさせて下さると言えば、今年のイースターは4月20日でしたが、福音書はルカ24章1-12節からでした。十字架に死んで墓に葬られたイエス様を見に行った婦人たちが、遺体が無いことで途方に暮れていると、二人の天使が現れたのです。ルカ24章6、8節『あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。・・そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した』とありました。それで、そもそも福音書は、思い起こさせられて書かれたものだとも申し上げました。生前のイエス様が語られた言葉や業に触れた弟子たちの中で、復活のイエス様に出会あった者たちがいました。その出会いから、生前のイエス様の言葉や業を、あの時には理解出来なかったが、それらをもう一度思い起こしながら、改めてイエス様は何者なのか、そして自分たちは何者なのか、だからイエス様はこんな自分たちのために、十字架に掛けられ、復活なさったのだと、気付かされて行く。そしてそんな中で、同時にこれまでの価値観に拠らない、新しい生き方へと造り変えられて行ったわけです。そしてその気づきを踏まえて、もう一度イエス様の言葉や行動を、福音書として書き記した。そして、キリスト教信仰の規範となって行ったわけです。この間もずっと、聖霊は働き続けたのです。そしてその後も、キリストの教会によって、福音書の言葉に触れる者たちは、同じように聖霊の働きを受けて、生き方を変えられ、キリストの教会の群れへと、加えられて行ったのです。
今日の第一日課は、使徒言行録16章9節からですが、ここは復活のイエス様との出会いによって、キリストを迫害する者から、宣教する者へと造り変えられたという、初代教会伝道者パウロが、初めてアジアからヨーロッパへと、宣教のために足を踏み入れることになった、出発点の場面です。パウロは宣教するに当たって、当初は、多くのユダヤ人が集う、シナゴーグと呼ばれる礼拝堂を拠点にしていました。ですから、裏切り者のパウロに、反感を抱くユダヤ人たちからの、迫害の危険もありました。宣教旅行をする中で、あちらのシナゴーグは危険だとか、そんな情報を得ながら、そこに行くか行かないか、折々に決断させられて行ったと思われます。その決断に聖霊が働いているのです。今日の日課の直ぐ前の所です。使徒言行録16章7節『ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった』。恐らくビティニア州では、迫害を受ける情報が入ったと思うのです。それでパウロはそこに行かないという決断をした。それを聖書は『イエスの霊がそれを許さなかった』と記すのです。それはパウロの決断なのですが、パウロはイエスの霊に示されたと確信して、決断したのです。
そして今度は『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』という幻を見たのです。結局、マケドニアのフィリピという町に上陸しましたが、その地方については、宣教の成果は期待出来ないという情報を、パウロは得ていたと思うのです。ですから、最初からマケドニア州には、行くつもりが無かったのです。しかし使徒言行録16章10節『パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである』とあります。ここにまた聖霊の働きを見ます。当初、ビティニア州での宣教が有力だと思っていたのに、それが覆された。ところがその直後に、宣教するには全く眼中になかった、マケドニア州の情報が入った。丁度、宣教予定のスケジュールに、空白が生じたばかりだった。それで、それ程の期待感も無く、マケドニア州にでも行こうか迷っていた。その矢先に、あの幻を見た。それでパウロは確信をもって、マケドニア州に入ろうと決断した。そこに聖霊の働きを知った。パウロは言います。『マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った』。
マケドニアのフィリピは、ローマの退役軍人が住む町でした。言わばローマ皇帝崇拝もまた、盛んだったでしょう。そんな町で、宣教しても、人々が導かれる可能性はゼロでしょう。だからパウロは、当初、マケドニアに行く予定はなかったのでしょう。そんな町に、安息日礼拝を守る、ユダヤ人のシナゴーグがあるとも思われません。だから使徒言行録16章13節『安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った』。案の定、シナゴーグは無かった。がしかし、そこで細々と礼拝を守っている婦人たちがいたようです。そこでパウロは、彼女らにキリストの話をした。そして全く予想もしていなかった、劇的な出会いが備えられていた。ティアティラ市出身の、紫布を商うリディアという女性です。この出会いによって、彼女とその家族全員が、洗礼を受けたという。そしてここから、フィリピ教会の歩みが始まるのです。そしてこの教会が、パウロのその後の宣教活動のために、経済的にも援助し続けるのです。これらの経験から、パウロはもう一度、人間的可能性に拠らない生き方を、聖霊の働きによって、戒め教えられたのです。
以前、聖書研究会で、カトリック信者で評論家の、若松英輔さんのエッセイを取り上げた事がありました。個人的に注目している方です。その若松さんが、先日ラジオで『リルケ詩集』の解説をされていて、興味深く聞き入ってしまいました。リルケはチェコのプラハ生まれの詩人で、今年生誕150周年になるそうです。今、何故リルケなのか。若松さんが言うには、リルケは、目に見えないものの大切さを、詩を通して訴えている。テクノロジーの発達が、より表層的な、見えるものだけに偏る現代社会に、警鐘を鳴らすものだと言うのです。そして、詩集の中の三編を取り上げて、それぞれから聞き取られたものを、次のようにおっしゃられました。①悲しみと言うのは、かつて、何かを愛したという経験の証しだ。愛したことがなければ、悲しみを覚えることもない。だから、悲しみと言うのは、私たちが大事なものに触れて行く道程なのだ。②日常の中で、目立たない、凡庸とも思える言葉が、大事なことを教えてくれる。③自分のことは自分が一番よく知っていると思いがちだが、実は自分こそ大きな謎なのだとリルケは言う。リルケにとって詩を書くとは、自分を探求する事なのだ。そして最後に、リルケを読んだことの無い人に向けて、次のように若松さんはおっしゃられます。『詩人は自分の中にあるうっぷんを言葉にしているわけではない。人間が言葉に出来ないであきらめているようなことを、詩人は何者かから委託されて、詩にしている。詩人は、とっても大事なものを宿した人とつながっている』。これらを聞いていて、聖書の預言者が思い起こされました。
キリストの教会によって、聖霊に導かれて、知るべきもの、見るべきものを、もう一度、教えていただきます。