からし種 444号 2026年5月

主の復活日

『そこでわたしに会う』マタイ28:1-10

イエス様が十字架に掛けられた時、遠くから見守っていた、大勢の婦人たちがいました。その中の、マグダラのマリアと、もう一人のマリアが、安息日が終わったので、イエス様が葬られた墓を見に来たということです。男性の弟子たちは、既に逃げ去っていましたが、墓に来ればイエス様の一味として、捕えられる危険性もあったでしょうから、来るはずも無いでしょう。女性たちには、そこまでの危険性は無かったのでしょうか。ところが、墓に来た彼女らの目の前で、大きな地震があり、墓蓋の大きな石が取り除けられた。そしてそこにいた天使から、婦人たちは次の言葉を、弟子たちに告げるように言われました。『イエス様は復活された。ガリラヤでお目にかかれる』。早速、弟子たちに知らせるために走って行くと、今度は復活のイエス様が婦人たちに言いました。『わしの兄弟たちに、ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』。

内容的には同じようなことを、二度までも婦人たちは聞かされました。何故、二度までも告げられたのか。もちろん、最初は天使からで、二度目はイエス様からです。それはそれで、意味があるのかも知れません。しかしもう少し、二度までの意味を、考えたいと思います。一度目では、婦人たちの恐れの深さが描かれています。その恐れの延長線上で考えますと、イエス様の復活を、純粋に喜びをもって伝えられるだろうか。聖書は『恐れながらも大いに喜び』と記しています。彼女らの複雑な心境が伺われます。弟子たちは言わば、イエス様を裏切った負い目を抱えていた。特に筆頭弟子のペトロは、三回も、イエス様の事を知らないと、嘘をついてしまった。そんな弟子たちに向けて、イエス様が復活して、ガリラヤで会えると告げたとしても、本当に喜んで聞いてもらえるだろうか。恐れもどこかにあれば、伝わり方も違ってくるのではないか。負い目を持つ弟子たちは真っ先には、イエス様の祟りを考えてしまうのではないか。婦人たちは喜びを伝えようとしていたのかも知れませんが、同時に、逃げ去った弟子たちに反感を覚えていたとしたら、その伝わり方は、増々、祟りの恐怖の方に引っ張られてしまうのではないか。この一度目の告知は、伝える側の気持ちの持ちようが、大切であることを示唆されます。

二度目は、そんな婦人たちを、フォローするかのように、イエス様ご自身が告知します。その際に、単に『弟子たち』と呼ぶのではなくて『わたしの兄弟たち』と呼んでいます。しかも一度目では天使は、イエス様がガリラヤへ行かれるから、そこでお目にかかれる、と言うだけです。そこに行きなさい、とまでは言っていません。ところが二度目ではイエス様が『ガリラヤへ行くように』とまで言っています。このイエス様の言葉を、婦人たちはまた、どんな気持ちで告げることになるのだろうか。一度目よりは、イエス様の配慮が、伝えられるようです。負い目を抱える弟子たちは、祟りでは無く、むしろ好意的な赦しのようなものを感じさせられて行くのではないか。告知を受ける側の気持ちを汲むこともまた、大切であることを示唆されます。

更にここで、ガリラヤという宣教活動を開始した最初の場所にも、どんな意味が込められているのか、考えさせられます。そこはイエス様たちが、活動を始めた最初の地です。それは、十字架の死と復活の出来事を経て、この事態からもう一度、原点に立ち返るように、生前のあの時のイエス様の言葉を、思い起こすように促す言葉では無いのか。といっても、たくさんの言葉の中で、今日は次の言葉に注目したいのです。ペトロが三回までも、イエス様の事を知らないと言ってしまった『三回』にこだわります。イエス様も三回にわたって、ご自分の死と復活を予告しました。それらの場面での言葉です。実は今日の福音書の場面の直ぐ前の所には、イエス様を死に追いやった、ユダヤ教の祭司長とファリサイ派の人々が、ローマ総督に訴えた言葉が、次のように記されてあります。マタイ27章63節『閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、自分は三日後に復活する、と言っていたのを、わたしたちは思い出しました』。思い出したのは、弟子たちが墓からイエス様の死体を盗み出して、イエス様が復活したと、偽情報を言いふらして、混乱させるのではと思ったからのようです。理由はどうであれ、イエス様の死と復活の予告は、周りに少なからず、影響を与えていたことが伺われます。そこで、一回目から三回目までの、予告の場面を私たちも振り返って見ます。

まず一回目は、マタイ16章21節以下です。ここはイエス様から初めて、死と復活のことを聞いたペトロが、そんな不吉なことを言わないでほしいと諫めたところです。このことから、印象深いイエス様の言葉を引用します。マタイ16章24-25節『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る』。二回目はマタイ17章22節以下です。この直前の所で語られた、次の言葉が印象的です。弟子たちが、悪霊を追い出せなかった理由を尋ねた時です。マタイ17章20節『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、ここから、あそこに移れ、と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない』。三回目は20章17節以下です。ここでは、この直後に、二人の弟子の母親が、イエス様に願い出た言葉が印象的です。マタイ20章21節『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください』。

弟子たちはガリラヤへ行き、復活のイエス様に出合い赦されて、復活を宣べ伝える者に、用いられて行きました。その際に、宣べ伝える側の気持ちがどこにあるのか、自分のためか、他者のためか、絶えず問われ続けていることを、忘れないように促されます。同時に、宣べ伝えを受ける側の気持ちに、何があるのか、負い目のようなものがあるのかないのか、忘れないでいたいのです。こうして復活が宣べ伝えられて、今も、世界中にキリストの教会は建ち続けている。そしてイエス様の復活を記念するように、集められている。

そして『ガリラヤへ行きなさい』という言葉は、今も依然として、キリストの教会に、投げかけられ続けているように示されます。自分中心から神中心へ、裁く者から赦す者へ、獲得する生き方から与える生き方へと『そこでわたしに会う』と約束して下さる、復活のイエス様によって、創り変え続けていただきます。

復活節第2主日

『あなたがたが赦さなければ』ヨハネ20:19-31

イエス様が十字架に掛けられた時、男の弟子たちは、怖くて逃げ去りました。逃げ去った弟子たちは何をしていたのか。その様子が、今日のヨハネ福音書20章19節以下に記されてあります。『弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた』ということです。イエス様の仲間であれば、逮捕されるかも知れない。そしてもしかしたら、もっと大きな恐れを、心の中に抱いていただろうか。それは、イエス様を裏切ったという負い目から生ずるものです。

そんな弟子たちの目の前に『イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるように、と言われた』。ここでまず、色々と考えさせられます。戸に鍵が掛けられていた家の中に、復活されたイエス様が入って来られた。復活されたイエス様の体は、言わば幽霊のようだと考えることにすれば、それも有りかなと思う。しかし、幽霊の存在もあり得ない事だと考えれば、とりあえず、イエス様の復活も、理屈を超えて、信じる人が信じれば良いのだろう。一方で、復活は復活として、もう少し理屈に合うようにも考えたい。そうすると、家の戸に鍵が掛けられていたとしても、そんなに人間は完全でもない。どこか一か所、鍵を掛け忘れていた所があったのではないか。あるいは後で話題になりますが、この時、この場にいなかった弟子がいました。トマスです。彼は最初はみんなと一緒に、家の中に逃げ込んでいた。ところがイエス様が現れる前に、一人だけこの家から抜け出していたかも知れない。その際に、鍵は掛けないで出たのだろうか。こんな家に逃げ込んでいても、見つかってしまうと思ったのかも知れません。もしこの理屈が当たっているとしたら、結局トマスは、復活されたイエス様が、家の中に入ることが出来るように、導いたことになる。本人は全く意識していないことでしょうが、それはそれで大きな意味があることになるのだろうか。

こんなふうに、ずらずらと、理屈を駆使したり、理屈を無視したりして、鍵の掛かった家の中に、復活されたイエス様はどうやって入り込んだのか、とにかく思い巡らして来ました。がしかし、それよりも、今日この聖書の出来事から、何を聞き取ったら良いのだろうか。それは結局『目に見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ』ということではないだろうか。これは今日のヨハネ福音書の後半で、まさにイエス様ご自身がおっしゃられています。まあしかし、今日の福音書のこの場面での弟子たちにとっては、いきなり『見えないものに目を注ぐ』なんて、正論のように突きつけられても、何のことかも分からない。負い目を持つ弟子たちは、とにかくイエス様でも神様でも、祟りの裁きに晒されると、恐れていただろう。そこへ持って来て、復活したとは言え、幽霊のように現れれば、なおさら恐しくなるばかりです。そんな弟子たちのことも、イエス様はよくご存じなのでしょう。部屋の暗い片隅に現れれば、これはもう幽霊のようです。がしかし、イエス様は真ん中に立たれた。これだけでも、少しは、幽霊とは違う感じがするでしょうか。更に『うらめしや』ではなくて、いつもの明るい挨拶『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、見えるものよりも、見えないものが大切とは言え、今の弟子たちにとっては、見えるものが拠り所です。イエス様は『手とわき腹とをお見せになった』ということです。そうやって、弟子たちに寄り添いながら、大切な所に導いてくれるのです。

『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』。聞きようによっては、この言葉は、ちんぷんかんぷんかも知れません。しかし、少なくともこの時の弟子たちにとっては、大きな慰めになって行ったのではないか。『お前たちは、この私を裏切ったのだ』ではなくて『わたしの働きのために用いて行く』と聞こえたとしたらどうだろうか。それはまさしく、赦しの宣言になる。更には、彼らに息を吹きかけたのです。聖書はこれを、聖霊と呼んでいます。これも、弟子たちにとっては、伝わるものがあったのではないか。あの旧約の創世記での、神様による天地創造の記事が、思い起こされたとしたらどうか。特に人間を創造した時の2章7節の言葉です。『主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった』。これが第一の人間の創造です。

弟子たちも赦されて、負い目を除かれ、イエス様の息の聖霊を注がれた。言わば第二の創造によって、イエス様のご用のために生きる者になった。そうして、使命が与えられた。『だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』。弟子たちは、罪の赦しの権威を与えられたようです。これはもはや、目に見えるものではなく、目に見えないものに目を注ぐ、重大な宣言のようです。お金を盗んだり、人を傷つけたり、これは、目に見え易い罪です。このような罪は、自分は一度も犯していないと、言える人は少なくないでしょう。しかし、目に見えない心の中で、人を憎んだり、軽蔑したり、妬んだり、決め付けたり、それも罪とするならば、そんな罪を自分は犯したことが無いと、言い切れる人は多くは無い。いや、一人もいないのではないか。そしてこの目に見えない罪から、実は大きな破綻が、産み出されて行くのではないか。弟子たちは、重大な使命を与えられましたが、一つ、考えさせられるところがあります。『あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』という件です。この時の弟子たちにとって、罪が『赦されないまま残る』という苦しみは、一番身に沁みていることではないだろうか。そして、そんな罪が赦された時の喜びと安心も、この時の弟子たちは、一番よく分かっている事ではないだろうか。であるならば、この弟子たちに与えられた罪の赦しの権威とは、寄り添って、共感して、共に導かれて行くことではないだろうか。

今日の福音書の後半は、最初の復活のイエス様の到来に、立ち会えなかった弟子のトマスに焦点が当てられています。イエス様の手の釘跡や、わき腹に指や手を入れなければ、復活なんて信じないと、彼は半分いじけるように、言い放ちました。しかしそんなトマスの言葉をも、彼の知らない所で、イエス様は聞いておられた。二度目の到来の時に、そこにいたトマスに、あのいじけの言葉をも投げかけました。そこからトマスは『わたしの主、わたしの神よ』と告白しました。そんなトマスに、イエス様は更に言われました。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』。トマスは、イエス様を見たから信じたのではなかったでしょう。もちろんイエス様も、そのことは十分承知していた。トマスはイエス様の言葉に、動かされたのです。イエス様は見えなくても、イエス様は、こんな自分をずっと見ていて下さる。イエス様は見えないけれど、イエス様の言葉が、共にいて下さると確信させるのです。

キリストの教会によって、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐように、キリストの言葉に聞いて、皆で寄り添いながら、もう一度生きる者へと、造り変えられて行きます。

復活節第3主日

『二人の目が開け』ルカ24:13-35

先週は弟子たちが、イエス様を捕まえたユダヤ人たちを恐れて、家の中に逃げ込んで戸に鍵をかけていた。なのに、それでもイエス様が入り込んで来て、真ん中に立たれたという出来事を、聖書から聞きました。それには色々と、理屈をこねたくなります。がしかし、結局、聖書が言わんとすることは何か。それは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐのだと示されました。確かに神様も、イエス様も、今や肉の目には見えないものです。『見ないのに信じる人は、幸いである』と、イエス様は言われました。ならば、見えない神様やイエス様の言葉を聞いて、信じなさいというのでしょうか。

しかしそうは言っても、やっぱり目の前の見えるものに、相変わらず一喜一憂してしまいます。神様の言葉と言われても、本当にそうなるの、とか、どうしても人間的可能性で、評価しようとしてしまいます。その結果神様を疑ったり、信じることをあきらめて、別のことを考え始めてしまうのです。これではいけないからと、祈ろうとも思うのですが、事態が悪い方向に行けば行くほど、苦しみや悲しみが増し加わって、祈ることもしなくなってしまうのです。いずれにしても、結果的に、自分の気持ちに振り回されているのかなと、そんな自分が問われているようにも思います。

今日の福音書もまた、似たような状況にあった、二人のイエス様の弟子たちが登場します。十字架に死んでしまったイエス様に絶望し、自分たちの村であるエマオに帰って行く時でした。そこに復活のイエス様が近づいて来て、話しかけたのです。『しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった』。彼らの絶望の在り様が、見えるものを見えなくしてしまっていたんだろうか。だとするならば、イエス様だと分からない責任は、彼らの側にあることになります。しかし聖書は、目が遮られていたからだと言います。そうすると、分からなかった責任は、彼らの方では無いのかなとも思います。冒頭でも申し上げて来た、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐということも、なかなか出来ない自分です。でもそれは、神様によって、目が遮られているからだと、神様のせいにすることも、有りなのかとも、思えて来ます。

いずれにしても、この『遮られて』ということから、改めて次のように示されるのです。絶望したり、悲しんだり、苦しんだり、はたまた祈りが足りない、信仰が無いとか、あきらめたり、見るべきものが見えなくなったとか、見ることをあきらめてしまったとか、それらはみんな、私自身の問題なのだと思いがちです。それも必要なことかも知れません。がしかし一方で、見るべきものが見えなくなったとか、見ることをあきらめてしまったとか、この私が見ようが見まいが、見るべき見えないものは、それでも変らずに、ずっとそこに在り続けているはずです。『遮られて』というのは実は、そのことを保証する言葉だとも思うのです。

今日の福音書の中で、見知らぬ人が近づいて来た時に、それがイエス様だとは分からなかった。けれども、二人の弟子が見ようが見まいが、分かろうが分かるまいが、その見知らぬ人はまさしくイエス様であり続けている。それから、イエス様の十字架の出来事を、その人から問われて、彼らが語った時に、その人は次のように応えました。ルカ24章25-26節『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか』。そして聖書全体にわたって、その人は御自分について書かれていることを説明されたというのです。弟子たちが物分かりが悪かろうが、心が鈍かろうが、聖書に書かれてあることは、何も変わらないし事実だと、その人、即ちイエス様自らが語られた。聖書の約束の言葉は、人間の側がどのような状況にあろうとも、変わることも無いし、必ず実現する。

この後、弟子たちは更に話しを聞こうと思って、泊っていただくために、無理に引き止めて家に入ってもらった。そして一緒に食事をした時です。イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡した。その時に、二人の目が開け、イエス様だと分かったというのです。しかし分かった瞬間に、イエス様の姿は見えなくなった。これは、イエス様の生前に、一緒に食事をする時の、いつものイエス様の所作だったのかも知れません。あるいはあの十字架に掛けられる前の、いわゆる最後の晩餐と言われる、食事の場面が思い起こされたのかも知れません。非常に印象的な晩餐だったのでしょう。目の前のお方と、あの時のイエス様とが、ぴたっと重なったのでしょう。しかし分かった途端に、見えなくなったという。これも色々と、考えさせられます。ここは、肉の目に見える事が目的ではないのだ。食事をする毎に、イエス様が共におられると、分かることが大切なのだ。こうして食事をする毎に、復活のイエス様が共におられることを、キリストの教会はずっと、確信し続けて来ております。それが、主日礼拝の中で行われる聖餐式です。本日も行われます。

それから二人がイエス様だと分かって、姿が見えなくなった時に、二人は『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合ったということです。これもまた、あの時は二人には見知らぬ人間でしたが、その人間は確かにイエス様でした。今や、語る人間がイエス様以外の、別人間に見えるとしても、その人間が語る聖書の言葉は、間違いなくイエス様の言葉です。だからその言葉が、私の心を燃え立たせるのです。

冒頭で、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐと申し上げました。それは、見えるものは無視して、見えないものだけが大事なのだ、と言っているわけではありません。見えるものに一喜一憂する私たちですから、見えるものを頼りにして良いのです。しかし、そこに留まらない。その向こうに見えないものがある。それは自分が見えていなくても、決して変わりもしなければ、無くなりもしない。そこに信頼し続けて、生かされて行くことが出来るように、この私にとって、必要な時に必要な形で、目が開かせて下さいます。

教会によって、見ないで聞くキリストの言葉と、見て食べるキリストの体と血とによって、もう一度、心燃えさせて下さい。

復活節第4主日

『その声を知っている』ヨハネ10:1-10

今日の福音書は、イエス様のたとえ話で始まっております。その前に、何か出来事があって、それを受けて、通常はたとえ話に入って行きます。それで『何か出来事があって』という出来事は、今日の福音書の直前の所だと考えます。それから今日の福音書の箇所を考えて見たいと思います。今日の福音書の直前の出来事というのは、ヨハネ9章の所です。ここは、生まれつき目の不自由な人が、イエス様の業によって、目が見えるようになったという出来事です。その際に、安息日にイエス様が、言わば医療行為を行ったという事で、事件になってしまいました。それは、安息日は一切の労働行為をしてはいけないと、律法で規定されておりました。医療行為も労働になるので、イエス様は律法違反してしまったというわけです。ところが律法に違反する人間が、そういう人は罪人と呼ばれますが、そんな人が生まれつき目の不自由な人を、見えるようにするという、言わば神がかったことが、出来るわけがないと思う人もいれば、でも、事実見えるようにしているから、罪人と言えるのだろうかと、意見が分かれた。

そこで、律法を守る人は正しい人、守れない人は罪人、というユダヤ教信仰の根幹とするこの図式は、揺るがすわけには行かない。そう考えた宗教指導者たちは、何とかこの図式が保たれるように、目が見えるようになった人を捕まえては、元々目が見えていたんだろうとか、何かの間違いだったと言わせようとしたりします。とにかくこんな出来事は、最初から無かったかのように済ませようとも思った。ところが皮肉にも癒された人は、今まで教えられて来た信仰を告白するのです。神様は罪人の言う事は聞かれず、神様の御心を行う人の言う事は聞くのだと。ただしこの出来事が、安息日に起こされた事が、知らされていたとしたらどうだろうか。私だったら、こんなことで大騒ぎならないようにと、色々と忖度するかも知れません。ところが彼はそれでも、自分の身に起こったことを、事実だと言い切り、黙ることも無かった。その結果、信仰の共同体から追放されるのです。

この癒された人は、イエスと言う名の人が、癒してくれたとは分かっていたけれども、その顔は見ていなかった。肉の目にはイエス様が見えていなくても、結局彼は、見えないイエス様と向き合っていた。追放された後、彼はそのイエス様に出合いましたが、聖書は次のように記します。ヨハネ9章37節『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ』。彼は、イエス様だと意識しないで会話して、最後にその会話の相手が、イエス様だと知らされた。その前に彼は、肉の目に見える前から、イエス様の事を信じたいと告白しています。このような彼から次のように示されます。イエス様を肉の目に見ることが目的では無くて、見えなくてもイエス様に向き合い、会話も出来ることが大切だと。そしてイエス様は、次のように言いました。ヨハネ9章39節『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』。これを聞いたユダヤ教の指導者たちが『我々も見えないということか』と言ったのに対して、イエス様は次のように言い返しました。ヨハネ9章41節『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、見える、とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る』。次のように言い換えます。『見えない、見ることが出来ないと思う者には、実は大切な見えないものが見えるようになる。一方、見える、見ることが出来ると思う者には、実は見るべき見えないものが、見えないままになる』。

そして今日の箇所は、まず羊の囲いのたとえが語られます。父なる神様から与えられた、安息日を守る律法に、イエス様が違反したという出来事からの、このたとえです。門番がいて、羊飼いがいて、羊がいます。門番は羊飼いに門を開き、羊はその声を聞き分ける。それはあたかも、父なる神様と、イエス様と、私たち人間との関係を映し出すようです。イエス様は決して、安息日の律法を無視してはいないのです。安息日を守る意味をもう一度考えて見ようと、促されます。それは私たち人間が、神様と向き合う時だということです。旧約の創世記によれば、神様も仕事を休んでまで、私たち人間と向き合おうとされている。そして見た目は安息日を守っているように見えても、神様と向き合っていなければ、安息日を守っていることにはなりません。見た目は安息日を守っていないようでも、神様と向き合っているならば、安息日を守っているのです。神様と向き合っているならば、土曜日や日曜日で無くても、その時が安息日になるとも言えるのではないか。また一方で、見えない神様に向き合っていると言っても、そういう状態にあると確信させられるような、見える拠り所もほしいです。だからそこに、見えないイエス様の、見える声や言葉があるのではないか。そうして確かに私たちは、見えない神様と向き合って、安息日を守るように保たれているのではないか。それが土曜日だとか日曜日だとか、見える曜日であれば、なおさら私たちは、安心させられるのではないか。

それから次のたえでは、イエス様は『わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる』とおっしゃられています。それは何か、はるかに高い門のようにもイメージ出来るし、いわゆるハードルを低くするように、背の低い門でもあるとイメージさせられます。そういう裁量は、イエス様にある、ということでしょうか。往々にして、正しいと思っている人間は、ハードルを高くしてしまうのではないか。先程『見えない、見ることが出来ないと思う者には、実は大切な見えないものが見えるようになる。一方、見える、見ることが出来ると思う者には、実は見るべき見えないものが、見えないままになる』と申し上げました。このことについて、イエス様の門のイメージから、次のように考えさせられました。『自分は正しいと思っている人間は、正しくない人間になる。自分は正しくないと思っている人間は、正しい人間になる』。マルコ福音書9章24節の言葉が思い起こされました。自分の子どもの癒しを、イエス様に願い出た時の父親の言葉です。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』。

たまたま送られて来ました、ある雑誌の中に『認知症予防に効く眠り方実践法』という論文が掲載されてありました。その中で、認知機能の低下が始まっている可能性があるかないか、それをチェックする質問事項が五つ上げられていて、一つでも当てはまれば、可能性があるというのです。以下にチェック項目を挙げてみます。①他人の提案を聞き入れられない。②異なる意見を言われると怒りを覚える。③自分は絶対的に正しいと思っている。④周囲が自分を理解していないと感じる。⑤家族や友人知人が離れていった。この五つの項目の最低でも四つは、大なり小なり、私に当てはまりそうです。認知機能の低下が始まっている可能性があると思わざるを得ません。そう言えば丁度先週の聖書研究会で、ルターが、自分のことを『病気にして同時に健康』と語っていたことが話題になり、これが本来の人間の姿なのではないか、そんなふうにも思いました。

キリストの教会によって、見えないイエス様の声と言葉を聞き、自分がどういう状態にあるのか、よく吟味させられて行きます。