からし種 376号 2020年9月

聖霊降臨後第9主日

『しかありません』マタイ14:13-21

 先週はマタイ福音書13章31節以下から、イエス様によります『天の国のたとえ』を聞きました。聖書が言う『天の国』とは、いわゆる場所的なものではありません。『神様が支配されている状態』を言います。ですから今を生きているこの地上においても、自分は神様に支配されている、と信じる時、そこは聖書が言う『天の国』であります。ここで『自分は神様に支配されている、と信じる時』と申し上げましたが、それはひと言で言えば『信仰』であります。もう少し言葉を付け加えれば『信仰によって生きている』ということであります。ですから結局、聖書が言う『天の国』とは、『信仰によって生きている』状態を言います。それで先週は、いくつかの『天の国のたとえ』から、イエス・キリストを救い主と信じる信仰、即ちキリスト信仰によって、何が起こされるのか、あるいは何が変わるのか、そんなことを考えさせられました。

 一つは、信仰によって、何か素晴らしい業績が上げられるとか、そういう、いわゆる見た目の変化が起こされるという事ではない。そうではなく、かつての自分を振り返って、今の自分がどんなに創り変えられたのか、そこにまず自分が気づかされた時、そこでキリスト信仰を知らされる。つまり『天の国』を知らされる。ですから、あの時、あの瞬間に、キリスト信仰が与えられたと、意識出来る事もあるかも知れません。しかしまた、いつだったかなあ、と曖昧な事もあるかも知れない。更には、周りの人も、そして自分も、本当に与えられたのかなあと、思われたり思ったりすることもあるかも知れない。しかし振り返ればその創り変えは、確かに起こされたと、自分がまず気づかされるから、信仰を知らされる。更にその創り変えは、その時点で終了ではない。この地上の生を生かされる限り、これからも続けられるのです。

 二つ目は、キリスト信仰は、人間が何か手段として利用するようなものではない。そうではなく、むしろ人間の生き方を決定づける規範となるものなのです。ですから今まで生きる拠り所のように見えていた、例えば、地位とか、名誉とか、財産が、結局は規範とはならない。あくまでも人間が利用してきたものにすぎない。本当の生きる規範となるものはこういうことです。つまり今までは、不幸だとか、不運だとか、苦しみだとか、悲しみだとか、あってはならない事だとか、無意味で避けて通ろうとして来たものが、むしろキリスト信仰によって、無意味で避けなければならないものは一つも無いんだと気づかされるのです。

 そして三つ目は、キリスト信仰は決して偏った見方をしない。さも、美しく良いものだけが、そこにあるかのように、あるいはあってほしいかのように、人間は振舞ってしまう。しかしキリスト信仰は、美しいものも、良いものも、結局はイエス・キリストの神がお決めになる事だと知らされている。ですから、人間が出来る事は、偏らない多様なものの中に、そして大勢の人間たちの中に生かされている。また、生きるようにすることだ。そして更に言えば、その大勢の中にこそ、イエス・キリストの神様は共にいて下さる。

 今日の福音書は、まさにその大勢の人間たちの中に、イエス様が共におられる場面です。そしてそこは、まさにこの世の社会ですから、様々な出来事や問題が起こされます。そしてここでも、キリスト信仰が映し出されているのです。その問題は、イエス様について来た人々の食べ物

をどうするか、という事でした。弟子たちは、群衆を解散させて、自分で工面させるように提案しました。これはあたかも、多様性をもった群衆を散り散りにしてしまうことであります。まさに『天の国』から排除させられてしまうようです。ところがイエス様は、弟子たちが群衆のために食べ物を用意するように言いました。その時弟子たちは言いました。マタイ14章17節『ここにはパン五つと魚二匹しかありません』。ここの『しかありません』というのは、私たちも、いつでも思ったり言ったりする言葉です。これと対照的な言葉は『ここにはパン五つと魚二匹もあります』という事でしょうか。『パン五つと魚二匹』という量に対して、人々は女と子供を別にして五千人です。あくまでも人間的可能性になりますが、これはもう、到底足りない量です。そうなると、一応『パン五つと魚二匹』はあるわけですが、それらも無きに等しいものになってしまうのです。ここが『天の国』であるならは、神的可能性に拠らなければなりません。

 そこでイエス様は、その『パン五つと魚二匹』を取って、『天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しに』なりました。イエス様が祈られている時、弟子たちもそこにいたでしょう。ですから、弟子たちも祈っていたでしょう。そして、イエス様が下さったパンと魚を、弟子たちは群衆に与えて回ったのです。これはまさに『天の国』です。弟子たちが獲得しようとしたパンと魚であれば、そこは『天の国』ではない。人間の国になるでしょう。だから量が足りない、質が悪いと言って、『しかない』ものになります。無きに等しいものになるでしょう。しかし弟子たちは祈りつつ、イエス様からしめされた事を実行して行ったのです。人々はそんな弟子たちを見ながら、中にはお手伝いを申し出る者もいたでしょう。あるいは、自分が隠し持っていたものを差し出し始める者も出て来たでしょう。そうやって『すべての人が食べて満腹した』。更に『残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった』という。『しかない』と思っていたものが、『こんなにもある』という事に気づかされた。マタイ18章20節でイエス様は言われました。『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』。これがまさに『天の国』です。そして今も、キリストの教会がこの『天の国』を指し示し続けています。

 今日は姉妹教団の日本福音ルーテル教会では、『平和の主日』としています。8月は平和を覚える月でもあるからです。戸塚ルーテル教会では、来週の主日礼拝で平和を覚える予定です。そこで、先日NHKテレビで、女優の吉永小百合さんの活動の事が放映されておりました。吉永さんは、75年前に終わった第二次世界大戦の悲惨さを、次の世代に伝え続ける活動をなさっておられます。75年も経ちますと、実際に戦争を体験した人たちも、次第に少なくなって行きます。そんな中で、あの戦争の事を絶対に忘れないように、風化させないように、次の世代に引き継いで行く活動をされておられるわけです。番組の中での、吉永さんの次の言葉が印象的でした。『平和は願うものだと思っていましたが、創るものだと示されました』。これを聞いて私は、マタイ5章9節が思い起こされました。『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる』。『平和を実現する』とは、平和のために主イエス・キリストが祈られる、その祈りの中に私も与り、主が私に『しなさい』と示された事を、実行して行くことではないのか。

 主イエス・キリストのお名前によって集められた私たちも、キリストの教会によって、主の祈りに与り、主によって一人ひとりに示された事を、実行し続けて行こうではありませんか。

聖霊降臨後第10主日

『波に悩まされて』マタイ14:22-33

 先週も言及させていただきましたが、二週間前の、この主日礼拝で与えられておりましたマタイ福音書13章31節以下では、イエス様によります『天の国のたとえ』を聞きました。聖書が言う『天の国』とは、いわゆる場所的なものではない。『神様が支配されている状態』を言います。神様が誰を支配しているのか。それは人間を含む全被造物です。ですから今を生きているこの地上においても、自分は神様に支配されている、と信じる時、そこは聖書が言う『天の国』です。『神様に支配されている』と言いますと、何か自分が神様の奴隷のように聞こえます。まあ、人間は神の奴隷に過ぎないのかも知れません。それでも別の言い方をするならば、『私は神様に信頼して、この身の全てを委ねている』という事でしょうか。繰り返しますが、これが聖書が言う『天の国』です。そして、いわゆる神様を信じるという信仰です。

 今私は『神様を信じる』と申し上げました。これを英語で表現しますと『I believe in God』です。これは新約聖書の言葉であるギリシア語に倣っているわけです。決して『I believe God』ではありません。それを敢えて訳せば『私は神様の存在を信じます』という事になります。聖書が言う信仰は、神様の存在を信じる事ではありません。『神様に信頼して、身を委ねる』、これが信仰です。いつかこの場でも申し上げた事ですが、『I believe in God』を敢えて訳せば、『神様を信じる』ではなくて、『神様に信じる』と訳した方がより良いという事を、ある先輩牧師の説教集から引用させていただきました。更に次のような譬えも引用致しました。私たちは『電車に乗る』と言いますが、『電車を乗る』とは言いません。電車の中に乗って、電車に身を運んでいただくから『電車に乗る』と言います。『神様に信じる』ということは、『神様に信頼して身を委ねて生かされて行く』ということです。英語の源流になりますギリシア語では『I believe in God』は『エゴー ピステウオー エン テオー』と発音します。その解説がギリシア語辞典に次のように載っていました。『(人が人を信用してかかるとか信頼してやる場合のように、信じる本人の主体的判断の押し付けの形ではなく)(神またはキリストが求め給うような全信頼を預ける形で)人格的信頼を全面的にかけて投入する・信じ込む・頼み切る・自分自身を委ねて服する』というのです。

 今日の福音書は、弟子たちだけで舟に乗って、向こう岸に行くことになってしまった場面です。沖合に出た頃、逆風のために弟子たちは波に悩まされていた。そこに湖の上を歩いてイエス様が、そんな弟子たちの乗っている舟に近づいて来られた。弟子たちは幽霊だと思った。イエス様は直ぐに『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と弟子たちに話しかけられた。この時点ではまだ、イエス様のお姿をはっきりと確認はされていないようです。ただいつものイエス様の声の調子と言葉らしい、という事は弟子たちは感じたらしい。それで、声の調子と言葉だけで十分だと思ったのでしょうか。この後の、弟子の一人のペトロとイエス様とのやり取りが興味深いのです。

 ペトロが言いました。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください』。『わたしに命令して』とあるように、これは一見、イエス様の言葉に対する絶大な信頼の言葉であるように聞こえます。まさにイエス様に信頼する、イエス・キリスト信仰のようです。格好いい信仰の言葉のようです。実際、『来なさい』と命令されて、ペトロは水の上を歩いてイエス様の方に進んだようです。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた。イエス様に信頼して、身も心も委ねているはずなのに、結局、どこかで委ね切れないものがあったのか。それをイエス様は後で、『なぜ疑ったのか』と指摘されておられるのでしょうか。これはペトロばかりのことではない。見えない神様に、イエス様に、人間が本当に委ねる事の難しさを、ここで考えさせられます。ただ言葉だけで、なかなか結果が得られないような場合にはなおさらです。

 もう一つ、ペトロのことから考えさせられます。出だしの『主よ、あなたでしたら』という言葉に注目させられるのです。先程、ギリシア語辞典からの解説を引用しましたが、誤った信仰の在り様を次のように説明しておりました。『(人が人を信用してかかるとか信頼してやる場合のように、信じる本人の主体的判断の押し付けの形ではなく)』という事でした。ペトロはイエス様の命令の言葉に委ねているようですが、そのペトロが信頼しているイエス様は、イエス様とはこういうお方であるならばという結局、ペトロが主体的に判断したイエス様、という事ではなかったか。それが『主よ、あなたでしたら』という言葉の中に込められているようなのです。ですから、人間の判断というものは、結局、相対的で揺らぎやすいものです。それが『疑い』にすり替わってしまうのかも知れません。どんなに格好いい信仰の言葉のようであっても、『信じる本人の主体的判断の押し付けの形』から生まれたものは、張子の虎のようなのです。

 ところが沈みかけたペトロが発した言葉『主よ、助けてください』というのは、これこそ信仰の言葉ではなかったか。それは人間的に見れば、格好の悪いものに聞こえるものかも知れません。もはや信じる相手がどうのこうのではない。ただ無意識のうちに『主よ、助けてください』と発せられた。これこそ身も心も委ね切った信仰の言葉です。先程のギリシア語の解説にあるように、『(キリストが求め給うような全信頼を預ける形で)人格的信頼を全面的にかけて投入する』信仰者の姿です。この後イエス様は『すぐに手を伸ばして捕まえ、信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われました。叱責されているようですが、むしろ疑い深い信仰の薄い者であっても、『助けて下さい』という無意識の、ありのままの声に、『キリストが求め給うような全信頼』を見て取って下さったのではないか。そして『すぐに手を伸ばして捕まえ』て下さった。

 ここである聖書の箇所が思い起こされました。汚れた霊に取りつかれた息子の癒しを、イエス様の弟子たちに頼んだけれども、出来なかった。それでその子の父親は『おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください』と言って、イエス様に癒しを頼んだのです。その後の会話です。マルコ9章23-24節『イエスは言われた。できれば、と言うか。信じる者には何でもできる。その子の父親はすぐに叫んだ。信じます。信仰のないわたしをお助けください』。この後息子は癒されます。今日の福音書の中のペトロもまた、言い換えれば『信じます。信仰の無い私をお助け下さい』と告白したんだと思います。

 今11時13分を過ぎたところですが、今日は75年前に、長崎市に原爆が投下された日です。先週の6日は広島に投下された日でした。今年も、日本中が、いや世界中が、改めて平和を覚える時を迎えています。相変わらずテロや戦争が起こされています。核兵器廃絶の道は、はるか遠くの方です。無力感を覚える時もあります。今日の第一日課は列王記上19章9節以下です。預言者のエリヤが、偽預言者たちに命を狙われる事になって、逃げまわっている場面です。そこに繰り返し『エリヤよ、ここで何をしているのか』と、神様の言葉が臨みます。その度にエリヤは、自分は一生懸命神様に情熱を傾けて来たけれども、如何せん、周りの人間たちが性悪で、その結果こうして自分も命を狙われてしまうはめになってしまったのです、と言い訳めいた言葉を繰り返すのです。それに対して神様は、もう一度、主の前に立てと命じる。聖書は次のように言います。列王記上19章11-12節『見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた』。言い訳と無力感を抱え、嵐や地震や火の中に置かれながら、『あなたの来た道を引き返せ』との主の言葉によって、エリヤはもう一度、託された使命に与って行くのです。

 わたしたちも『悔い改めよ。天の国は近づいた』との主の言葉に、格好悪くても『信じます。信仰のないわたしをお助けください』と告白します。主イエス・キリストの天の国の平和の使命に、もう一度押し出されて行きたいのであります。