からし種 377号 2020年10月

聖霊降臨後第15主日

『兄弟を赦さない』マタイ18:21-35

 先週は教会の働きについて、聖書から示された事を申し上げました。それは『つなぐ』事と『解く』事だということでした。『つなぐ』とは『罪に定める事』、『解く』とは『罪の赦しを宣言する事』であります。そして、教会は信徒の群れです。その信徒は最初から罪無きものではありません。つまり、教会の働きとは、罪を犯したものを、全く罪に無縁なものが、裁いたり赦したりするようなものではありません。言わば自分自身も思い当たるような罪について、むしろ一緒になって、もう一度互いに罪に向き合うように、そして一緒になってもう一度悔い改めるように、そうやって『罪の赦しの宣言』に、共に導かれて行くものだと申し上げました。

 今日の福音書の箇所は、まさにもう一度互いに罪に向き合う事を問題とする箇所であります。『仲間を赦さない家来』という小見出しが付けられてあります。イエス様によるたとえ話です。内容は次のようなものです。王様から借金を免除してもらった家来が、今度は自分に借金をしている仲間の負債を免除することが出来なかったというものです。聖書では罪を犯すことを、よく借金に譬えられます。自分の身に起こされた罪の赦しに、計り知れない神の恵みの愛が働いている事を、どれほど自覚しているのだろうか、問われているのです。

 今日の福音書の始まりは、兄弟が罪を犯したら、何回まで赦したらいいでしょうか、七回ですかとの、ペトロの問いからでした。それに対してイエス様は、次のように答えられました。マタイ18章22節『・・七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』。七という数字は、聖書の中でもよく使われます。そしてそれぞれ数字には、特別な意味を込めて使われます。『七』は『完全』を表す時に、使われます。ですから『七の七十倍』というのは、完全の完全倍という事です。これはもう無限に赦しなさいと、イエス様はおっしゃられるようです。先程、罪を犯すことが、聖書ではよく借金に譬えられると申し上げました。今日の箇所は、一万タラントンの借金を免除された家来が、百デナリオンの借金を自分に負う仲間に、借金の帳消しをしなかったという話です。一万タラントンは現在の貨幣価値に換算すると、28億8千万になるようです。百デナリオンは6千円程です。なんだこの家来は、と私なんかも思ってしまいます。しかしここで罪が、借金に譬えられている意味は、単に比べて犯した罪の重大さを問題にしているわけではありません。聖書が言う罪は、言わば永遠に無くならないものなのです。罪を犯して赦されて、はい、無くなりました。また罪を犯して赦されて、はい、無くなりました。このように、何かデジタル風のようなものではない。むしろアナグロ風に、連続的にずっと罪を犯し続けている状態が、聖書が言う罪なのです。ですからイエス様は冒頭で、『・・七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』とおっしゃられる。それはもはやこの罪は、永遠無限に赦され続けなければならないものだからです。今日の福音書の譬えの中で、自分に負った仲間の借金を帳消しに出来なかった家来に対して、王様は次のように言いました。マタイ18章33-34節『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した』。

 この家来は牢屋で何を考えさせられただろうか。自分は罪を赦されて、それですっかり清算されてしまったと思っていた。しかし実は、そうではなかったのだ。自分は赦されたのではなくて、赦され続けなければならない。自分はそういう者でしかないのだ。決して、何回でも無限に赦すことの出来る、忍耐強い立派で寛容な人間になる事ではないのだ。もちろん、なれれば良いが、自分には出来ないだろう。ただそれでも、こんな自分に出来る事は、そうやって赦し続けて下さるお方がおられるから、自分がここにある。そのことに、改めて気づかされる。だから、そのお方に、こんな自分でも少しでも応えて行きたいと思う。そしてそんな風に自分を問い直す事は、実は自分一人だけがする事ではない。全ての人間に、必要な事なのではないのか。

 今日の第一日課は、創世記50章15-21節ですが、いわゆる創世記37章から始まる、ヨセフ物語と呼ばれている最後の部分です。少しこのヨセフ物語を振り返って見ます。十二人兄弟の十一番目に生まれたヨセフは、上の兄たちよりも特別に、お父さんから可愛がれて育ちました。それは兄たちにとっては、面白くないことでした。また生まれつき夢を解く能力も与えられていました。ある時自分で見た夢を解いて、兄たちから反感を買ってしまいました。ある日そんなヨセフを、兄たちは陥れて、結局ヨセフは遠くエジプトに、奴隷として売られてしまうのです。聖書には直接書かれてはありませんが、恐らくヨセフは兄たちを憎んだでしょう。しかしそれでもヨセフは、奴隷の仕事も一生懸命やりました。それで家の主人に認められ、家の財産の管理を委ねられるようになりました。ところがその家の主人の奥さんの誘惑を拒絶した結果、その奥さんの策略で、牢屋に入れられることになりました。ここでもその奥さんを憎み、依然として兄たちを憎んだ事でしょう。しかしヨセフは模範囚となり、看守のような仕事を任せられました。ある時、エジプトの王様近くに仕えていた二人の高官たちが失敗をして、ヨセフの居る牢屋に入れられました。そこで高官たちが見た夢の解き明かしをヨセフはするのです。その解き明かしの通り、一人の高官は、王様の近くに仕えるよう復帰します。その時にヨセフの事を思い出すように約束しましたが、高官はその約束を果たしませんでした。それで更に長く、ヨセフは牢屋にいる事になりました。恐らくヨセフは約束を破った高官を恨み、またあの奥さんを恨み、更に兄たちを恨んだ事でしょう。しばらくしたある時、エジプトの王様が見た夢を解く者が求められていた時、ようやくあの高官がヨセフの事を思い出した。その結果、エジプト中の誰もが解くことの出来なかった王様の夢を、ヨセフが解いたのです。夢解きのおかげで、エジプトは飢饉の苦難を乗り越えて、国が亡びる事を免れたのです。しかし一方で、ヨセフはその夢解きが一つの原因で、兄たちによってエジプトに来る事になったのも事実です。いずれにしても結果ヨセフは、エジプトの総理大臣にまで上り詰める事となったのです。ヨセフの人生は、罪と憎しみ恨みの連続の中にあって、同時にその時その時に置かれた状況を受け入れ、そこで出来る事を精いっぱい果たし続けて行ったのです。そんな人生を振り返って告白した言葉が、今日の第一日課創世記50章19-20節です。『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです』。

 先日こんなお話を聞きました。今、コロナ感染の問題が続いています。自宅待機が続いたり、仕事も今までとは違った状況の中で、対応を工夫せざるを得なくなっています。その結果、思わぬプライベートな時間も取れる状況になって、考えられなかった人との出会いが備えられました。コロナで自分も含めて多くの人々が苦しめられておりますが、一方でコロナを通して、神様は思いもよらない恵みを注いで下さいました。

 相変わらず、日々、罪も犯せば赦す事も出来ない自分ですが、この証しをお聞きして、私は改めて、悪を善に変え、罪を赦して救いに変えることのお出来になる、主イエス・キリストの神様に思いを馳せました。そしてこれからも、赦され続けている自分に、絶えず立ち返り、心より感謝して主に応えて行く歩みに導かれて行きたい。そして神様のみ旨に気づかされて行きたいのであります。

聖霊降臨後第17主日

『後で考え直して』マタイ21:23-32

 今日の福音書は『権威についての問答』と『二人の息子のたとえ』という、二つの小見出しの所が与えられています。この二つの箇所の関係性を踏まえて、今日も聖書から聞いて行きたいと思います。

 まず前半の小見出しの部分ですが、イエス様に反感を持つ祭司長やユダヤ人の長老が問いかけます。『何の権威でこのようなことをしているのか』。ここの『このようなこと』とは、神殿の境内にいるイエス様に対してですから、直接的には直ぐ前の所の、マタイ21章12節で記されている、イエス様が『神殿から商人を追い出す』という出来事だと推察されます。宗教上定められていた事を、当たり前に行っていた神殿の商人を追い出したわけですから、こんな事が出来るとしたら、これはもう神様以外に出来ない行為です。それで『何の権威で、誰が与えた権威なのか』と問わざるを得なかった。

 しかしそれには答えずに、イエス様の方から逆に問いかけます。もちろん彼らの問いかけに全く無関係な事ではありません。いずれにしてもここは、結局、イエス様が何者なのか、それが問われているからです。それで『洗礼者ヨハネ』と呼ばれる人物を持ち出して来る。彼の事もまた人々の間でも、一体何者何だろうという事は話題になっていた。そしてイエス様ご自身が、彼の事を既に次のように語っているのです。マタイ11章11-14節『・・およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力づくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである』。

 当時のユダヤの人々は救い主、メシアの登場を期待していた。その登場の際に、旧約時代に活躍した預言者のエリヤが、まず再来すると教えられていた。ですから、そのエリヤが来れば、メシアの登場が分かる事になる。イエス様はここで、そのエリヤは洗礼者ヨハネだと断言されている。それは必然的にイエス様がメシアであることが、知られるようになる事だ。このように、イエス様が何者であるのか。それを知るためには、まず洗礼者ヨハネを何者とするのか。そこを反対者たちに問いかけるわけです。イエス様は、いきなり『私がメシアだ』とは言わない。それは、人々が、時間をかけて、一つ一つ丁寧に、自分で考え確かめて行く事が出来るように、そんな配慮をされるようです。そうやって考える中で、洗礼者ヨハネやイエス様のことばかりを問題にするのではなく、考える自分自身も何者なのか、そんな自己吟味もまた大切である事を暗示されるのです。先程のマタイ11章14節にあるように『あなたがたが認めようとすれば分かることだ』とおっしゃられています。つまり洗礼者ヨハネを否定する自分は、一体何なのか。イエス様を否定する自分は、どこに立たされているのか。自分の価値観はどこにあるのか。自分がこうあってほしい、と願う筋書きは、果たして神様もお認めになることなのか。イエス様の問いに対する彼らの応答が注目させられます。『天からのものだ、と言えば、では、なぜヨハネを信じなかったのか、と我々に言うだろう。人からのものだ、と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから』。もうほとんど、祭司長たちも、ヨハネがただ者ではないことは分かっているようだ。しかしそれを、認めたくない。そんな頑なな自分であることさえも、自分では認めたくはないんだろう。

 そんな問題意識を持ちながら、後半のたとえ話を読み進めてみます。兄は父の命令を拒否したが、『後で考え直して出かけた』。弟は父の命令を受け入れたが、実行しなかった。そこでたとえの後にイエス様は、祭司長や長老たちにおっしゃられました。マタイ21章32節『・・ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった』。『あなたたちはそれを見ても』とおっしゃられています。『それ』とは何か。それは、徴税人や娼婦たちがヨハネを信じた姿でしょう。しかし考えて見ますと、いわゆる偉い人達が、徴税人や娼婦たちが信じたからと言って、それに倣う訳がないとも思ってしまいます。日頃から、どうしようもない人間達だからと言って、蔑んで来た人たちです。そんな人たちのことから、何かを学ぼうなんて、さらさら思う訳がない。駄目な人間たちは、どこまで行ったって駄目なんだ、という事でしょう。しかしそういう思い込みも、時には、本当にそれでよいのか、吟味しなければなりません。イエス様は、そこを問われているのです。ちなみにここのたとえ話の中の、兄弟ということで旧約聖書の中から思い浮かぶのは、イシュマエルとイサクです。あるいは、エサウとヤコブが思い浮かびます。いずれも弟の方が、いわゆる正統派ユダヤ人の起源となる人たちです。祭司長や長老たちへの当てつけにも聞こえて来ます。

 さてここで、二度までも『後で考え直して』という言葉が出てまいります。今日の聖書のキーワードになります。元のギリシア語は『メタメロマイ』と発音します。辞書には『心を入れ替える・後悔する・個々の関心、気がかり、配慮を変える』と出ています。実はこれと似た意味の、ギリシア語があります。『メタノオー』と発音します。これは聖書の中でも、『悔い改める』と訳されている言葉です。『メタメロマイ』との違いを言えば、『メタノオー』は『考え方の根本を変える・神に立ち返る』という程の意味です。それに対して『メタメロマイ』は、築き上げられて来た、思い込みや筋書き願望を、一旦脇に置いてみるという意味で、仕切り直して、もう一度始めから、『考え直してみる』という事です。それでまた、やっぱり、これまで通りであってもよし。逆に以前とはまったく違う、根本から変えてしまう、でも良いわけです。いずれにしても、相手がどうのこうのと言うよりも、積極的に自分自身をも対象にして、何故自分はそんな考えに至るのか、よく吟味して行くということです。そんな作業を繰り返しながら、『メタノオー』に導かれて行く。イエス様はその事を望んでおられるのではないか。

 今日はこれから二人の若者によります、結婚宣言式が行われます。二人の起点は主イエス・キリストの神です。ここは考え直されることは無い。そして、生育背景の異なる二人が、これから新たに生活を共にして行く。ここには、いつでも『メタメロマイ』が繰り返されるであろう。そうやって決して、変わる事のない主の栄光が、証しされ続けるのだと信じるものです。