からし種 378号 2020年11月

聖霊降臨後第18主日

『その悪人どもを』マタイ21:33-46

 今日の福音書は『もう一つのたとえを聞きなさい』という言葉から始まっております。という事は、既に別のたとえが語られていた事になります。それは今日の福音書の直ぐ前の、先週の礼拝で与えられていた箇所であります。『二人の息子のたとえ』という小見出しが付けられてあります。いずれも神の国には、誰が入ることになるのか、という事がたとえを通して問われているわけです。先週のたとえの箇所では、誰が入ることになるのか、はっきりとイエス様はおっしゃられています。マタイ21章31節『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう』。ここで『あなたたち』とは、『祭司長や民の長老たち』のことであります。言わば、宗教的には優等生の、神様に一番近いと思われていた人々です。そして『徴税人や娼婦たち』は、神様から最も遠くに離れてしまった、見捨てられたと思われていた人々です。そんな人々の方が先に、神の国に入ると言うわけです。何故ならイエス様がメシアであることを、先に信じたからです。

 そして今日の福音書の中でも、イエス様は最後の方で次のように語られました。マタイ21章43節『だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる』。ここでの『あなたたち』とは『祭司長たちやファリサイ派の人々』のことであります。先程の『祭司長や民の長老たち』と同じです。そしてここは、神の国は与えられるものだ、と言っています。神の国に入る、と言いますと、何か自分の力で入るものであるかのように思われます。ところが、神の国は与えられるものだと言われます。そうすると、そこには人間の力は一切働かないように受け止められます。そして、神の国は『それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる』と言っています。先ほどの『祭司長や民の長老たち』と同じように、『祭司長たちやファリサイ派の人々』こそ、真っ先に、神の国が与えられると、誰もが思っていたはずです。いわゆる宗教的に優等生だと思われていたからです。ところが、むしろ彼らから取り上げられる、とイエス様はおっしゃられるのです。神の国が与えられるに、ふさわしいを実を結んでいないからでしょうか。

 では『神の国が与えられるに、ふさわしいを実を結ぶ』とはどういうことか。そこを今日の『ぶどう園と農夫のたとえ』から聞き取って行きたいのです。ところでここで語られている描写は、当時のぶどう園の様子を背景としているようです。いわゆる農地とはつながりのない不在地主というものがいました。小作人を使って、畑を耕させることがあったということです。そして地主と小作人たちとの間に、収穫物の分配や小作料を巡って、様々なトラブルもあったようです。よくある話ですが、地主による農民への搾取の問題です。ところが、このイエス様によるたとえの中に出て来る地主は、当時の社会で、よく見うけられた地主とは、少し雰囲気が違うのです。現実の地主の状況と、かけ離れているようなのです。

 マタイ21章33節『ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た』。主人が直接、これらの畑の準備のために、手を下したわけではないのかも知れませんが、いずれにしても、ぶどうを栽培するに、安全に、心地よく出来る環境を整えています。その上で、農夫たちに貸したわけです。ここにはあまりにも心込めた、農夫たちへの配慮が滲み出て来るようなのです。これは当時の実際の地主と小作人との間では、あまり見かけない状況設定です。更に驚いた事に、収穫の時が来て、収穫を受け取るために、僕たちを農夫とのところに送ったという。私だったら、持って来させるところです。それを主人の方から僕たちを介して、受け取りに行ったというのです。ここにも、この主人の農夫たちに対する、深い心遣いを見ざるを得ないのです。ところが農夫たちは送られて来た僕たちを、何回も何人も傷めつけ、殺人まで犯してしまうのです。この段階で、この農夫たちに何らかの処分を下してもおかしくない。遅すぎるくらいです。しかしそれをしない。しないどころか、今度はマタイ21章37節『わたしの息子なら敬ってくれるだろう、と言って、主人は自分の息子を送った』と言うのです。ここまでに、何回もあり得ない状況を見てまいりましたが、ここに至ってはむしろ、この主人の神経の方を、疑わざるを得ない程なのです。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』なんて、本気で思っているんですか、と問いたくなります。あれだけの事をされても、それでもまだ主人は、この農夫たちを信用しているのです。

 ところが案の定、農夫たちの対応は極めて破滅的です。マタイ21章38節『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう』。もはや彼らなら、これぐらいのことは、当然するだろうと思ってしまう。ところが、相続財産まで奪う事が出来ると考えている。この感覚もまた、余りにも異常に思えてしまう。余りにも慈愛と忍耐に満ちた主人と、余りにも身勝手で自分本位に生きる農夫たち。どちらもあり得ないような、極端とも思える両者です。そしてたとえの最後に、イエス様は尋ねます。マタイ21章40節『さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか』。一見、答えは簡単そうです。あんな農夫たちを思えば、誰もが答えるでしょう。マタイ21章41節『その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない』。

 しかしイエス様は、その解答に対して『よく答えた。大正解だ』とは思われないようです。むしろ間違った回答だと言わんばかりに、聖書の言葉を引用するのです。詩編118編22-23節からです。捨てた石が大黒柱を支える要石になったという。これは人間の理屈や常識や筋書きや可能性を、超えた事が起こされたという。だから、『・・これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』。大正解とも思えるあの解答は、一方の農夫たちだけを見てのものです。しかも、傍観者のごとく、自分には全く無関係だと思う極悪人を見た時に取る人間たちの、典型的な反応です。ところが、もう一方の、あり得ないとも思われる主人の行状から、もう一度考えさせられます。ここまで来れば、さすがの慈愛に満ちた主人であっても、誰もが考えるような結論を下すのだろうか。いや、それとも、あれだけの慈愛と忍耐を示される主人です。もっとあり得ないような、心遣いをするかも知れない。いや、そんな主人がいたら、実はあの悪人どもと同じような自分も、本当はそんな主人に仕えたいと思わないだろうか。それにしても、どんなに信じられないような慈愛を注がれたとしても、時間が経てば、段々、それらのことが当たり前になって行ってしまいます。当たり前になると、恵みが恵みでなくなってしまうのです。一方、たとえ些細な事であっても、自分を不愉快にする相手は、いつまで経っても、その相手は不愉快な悪人のままなのです。

 『神の国が与えられるに、ふさわしいを実を結ぶ』とは、何か評価される事をしたり、何かが出来る、という事ではない。むしろ、何も出来ない自分だからこそ、わたしたちの目には不思議に見える、主がなさったことに、謙虚になってすがって行くことではないのか。マタイ21章44節『この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう』と、続けてイエス様はおっしゃられた。この言葉を今や、どのように聞くのだろうか。これを悲劇的な裁きの、鉄槌であるかのように聞くのだろうか。

 ここで教団讃美歌の333番の一番が湧き上がって来るのです。

 『主よ、我をば、捕らえたまえ、さらばわが魂は、解き放たれん。我が刃を砕きたまえ、さらば我が仇に打ち勝つを得ん』。いつまでも、恵みを恵みとさせてください。

宗教改革記念主日

『この二つの掟に』マタイ22:34-46

 1517年10月31日にドイツ人修道士のマルティン・ルターが、ヴィッテンペルク城教会の扉に、『95箇条の提題』と呼ばれるものを張り出したことから、いわゆる宗教改革運動が起こされて行ったと言われます。今日はその出来事を記念する日曜日であります。ある主題について、学者が他の学者と学問的な討論を行いたいと思えば、その人は自分の主張を提題の形にまとめて、これを公にする必要がありました。既に1445年にグーテンベルクによって活版印刷技術が発明されておりましたが、この提題形式は、印刷術が無かった頃のなごりとも言えるでしょうか。その後、ルターの主張はその印刷術によって、あっという間に広く人々に行き渡って行く事になります。まさに、旧いものから新しいものへと移り変わって行く、その転換点を象徴するような、そんな『95箇条の提題』であったと思われます。

 ちょうど来週の11月1日は、全聖徒の日と呼ばれる日曜日になります。既に天に召された先人たちを偲ぶ日として、キリスト教会では守られて来ております。当時のカトリック教会では、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物を『聖人』と称して、崇敬の対象として来ました。その聖人が身に着けていた衣服だとか、普段から使用していたものとか、それらを聖遺物と称して、これも崇敬の対象として来ました。当時の重要な都市は、みな聖遺物のコレクションを持っておりました。ヴィッテンベルクの選帝侯フリードリッヒ賢公のコレクションは有名で、カタログまで作ってそれを宣伝したそうです。そして毎年11月1日には、城教会でその聖遺物を公開し、人々はその功徳を得るためにお参り来ていたわけです。功徳の内容は、罪の赦しでありました。そして次第に罪の赦しの印として、いわゆる免罪符(贖宥状とも呼ばれる)が売られ始めて行ったわけです。

 罪の赦しは、悔い改めと表裏一体です。毎年一回11月1日を迎える毎に、悔い改めて、罪の赦しが得られる。しかも免罪符まで出て来て、それを買えば生きている者どころか、死んだ者まで、その人のためにそれを買えば、天国に送る事が出来るという事にまでなってしまっていた。そんな人間的な都合の良い悔い改めで良いのだろうか。それどころか、心の中では悔い改めていなくても、免罪符を買えば、それで悔い改めたことになってしまう。それで罪が赦されたことになるのだろうか。ルターはそんな問題意識をもって、まさに11月1日の前日の、10月31日に『95箇条の提題』をもって、討論の火ぶたを切ったわけです。提題の第一条は次のようでした。『私たちの主であり師であるイエス・キリストが、悔い改めよ(マタイ4:17)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである』。毎年一回悔い改めては、罪の赦しを得るという自分の在り様は、本当に正直な自分を映し出しているものなのか、ルターは問うわけです。こうしてこの討論は、宗教改革運動へと拡げられて行ったわけです。

 討論と言えば、実は今日の福音書の箇所は、討論とは言わず問答と表現されておりますが、マタイ21章でイエス様がエルサレムに入城してから、しばしば討論問答をするイエス様が描かれています。今日の箇所は、その最後の討論問答の場面です。『イエスがサドカイ派の人々を言い込められた』と、冒頭で記されてあります。まさに討論問答を終えたイエス様は、また今日の場面でも、討論問答に臨むわけです。それでは、何のための討論問答なのか。それはマタイ5章17節でイエス様ご自身がおっしゃられています。『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』。もしここでイエス様が、『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ』と言われるとしたら、あるいはそんなふうに人々から観られるとしたら、イエス様は単なる異端者扱いとされてしまうでしょう。そうではなく、完成するためだとおっしゃられる。しかし人々の目には、どう見たって、完成どころか、廃止するように映ったのでしょう。実際、安息日の律法を守らなかったり、交流してはいけない、罪人と呼ばれる人たちと一緒に食事をする。そんな事を繰り返されて来られた。

 そこで律法を重んずるファリサイ派の人たちが、そんなイエス様を見て『どうもこの人物は、律法を、守っていいものと、破ってもいいものと、選別しているんじゃないか』と思ったのでしょうか。もちろん、破ってもいいものがある、なんて言ったら、これはもう神を冒涜する、極悪人になります。ですから彼らは『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか』と試して尋ねたわけです。イエス様の答えは衝撃的でした。神である主を愛し、隣人を自分のように愛する。律法全体と預言者は、すなわち聖書全体は、この二つの掟に基づいている、というのです。

 ルターは本来の、キリストの教えに立ち返るように討論を開始しました。そしてそのキリストこそ、まさに立ち返りのお方そのものです。それを『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』とおっしゃられたのです。ただ形式的に何かをしたり、守ったり、あるいは祈ったりしていても、その本当の心の中はどうなのか。見た目はきっちり神様からの戒めを守っているようでも、その心の中は、神様にそっぽを向いているとしたら、それは戒めを守ったことにはならない。律法は、形式的に守って、さも熱心そうな自分を演出する道具ではない。あくまでも何が神様に喜ばれるのか、よく吟味し、正直に自分を問い直せとおっしゃられる。今日の第二日課で著者の、キリスト教会初期の伝道者パウロは、次のように告白しています。1テサロニケ2章4-6節『わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした』。

 今日の福音書の後半は『ダビデの子についての問答』と小見出しが付けられてあります。イエス様の討論問答の最後です。この場面も、受け取りようによっては、これまでの宗教的常識によれば異端的です。『ダビデの子』とは、メシアの事を指し示す言葉でした。先ほども触れましたが、イエス様がエルサレムに入城する場面で、人々はイエス様を指し示して次のように叫んでいました。マタイ21章9節『・・ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』。『ダビデの子』がメシアを指し示す称号であることは、イエス様ご自身も否定されていないのです。にもかかわらずここで、屁理屈とも思えるような調子で、敢えて人々に問題を投げかけられるのです。マタイ22章45節『このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか』。人間的常識と、人間の都合に則ったメシア象を、こうして打ち砕くのです。あるいは、ややもすれば互いに矛盾すると思えるような文言がある聖書を、お前たちはどう読むのかと問うのです。討論を挑まれるのです。討論を挑まれるのです。こうして廃止ではなく、完成だとおっしゃられるイエス様の思いが映し出されるのです。しかしこの時の人々は『だれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった』と言うのです。討論問答を止めてしまった。そこに問題がある。討論問答を止めてしまった彼らは、この後、何をしたのか。イエス様を十字架に掛けるのです。

 神である主を愛し、隣人を自分のように愛する。これをまた、必死で神を愛せねばとか、隣人を愛そうと努力しようとするとき、それが次第に律法主義的なものにすり替わって行く。先週は十日程お休みをいただきまして、入院させていただきました。皆様のご協力とご理解に、心より感謝申し上げます。入院してみて、改めて、人は独りでは生きられないものだと、そして多くの人に助けられて生かされているものだと、更には裸になって、己の自尊心とか傲慢性を、剥ぎ取られて行くようでした。『隣人を愛する』のは、自分は独りでは生きられないものなのに、傲慢な者だと気づかされる事から始められるのではないのか。そしてまた、隣人と助け合いながらも、物事がうまく行っても行かなくとも、揺るぎない信頼と希望の拠り所が、備えられているんだと気づかされて行く。それが『神である主を愛する』のではないのか。結局、『神である主を愛し、隣人を自分のように愛する』とは同時に、『神である主に愛され、隣人に自分のように愛される』ところに、気づかされて行くことではないのか。

 宗教改革を記念することは、正直な自分探しであります。それ故に今までに気づくことのなかった主なる神様に、もう一度、出会う時だと示されるのです。