からし種 379号 2020年12月

聖霊降臨後第23主日

『目を覚まして』マタイ25:1-13

 繰り返しこの場でも申し上げて来ている事ですが、キリスト教会には独自のカレンダーが定められています。イエス様がお生まれになる事を待っている時代を一年の始めとします。それから、そのイエス様の誕生、十字架の死、復活と続きます。そして、再び私は来ると約束の言葉をの残して昇天します(使徒1:11)。そして、天からの聖霊の降臨による教会の誕生と教会の時代が続き、一年の締めくくりは再び来られるイエス様の時となるわけです。その時を終末とか、最後の審判とか、そんな呼び方もされています。その今年の最後の時、言わば大晦日の日曜日が、今月の22日になります。聖霊降臨後最終主日と呼んでいるわけです。ちなみにその翌週の29日は待降節   第1主日と呼んで、一年の始まり、言わば元旦になるわけです。

 今日はその大晦日から三週前の日曜日です。そしてこの三週に渡って、マタイ福音書25章から御言葉を聞いて行きます。いずれも再び来られるイエス様がテーマになっております。いわゆる主の再臨、終末がテーマです。今日はマタイ25章の始まりの部分でありますが、天の国のたとえをイエス様が語られておられるところです。聖書が言う『天の国』とはいわゆる場所的なものとは違います。神さまが支配されている状態を言います。誰を支配されているのか。それは人間も含めて全ての被造物です。そして特別に人間には、地上において全ての被造物の管理が委ねられているのです。その管理の事については、また来週のマタイ福音書25章14節以下で御言葉に聞いて行きたいと思います。

 さて神さまが支配されている状態の譬えですから、神様が支配者であり、人間はそれに従うものであります。この主従関係を成り立たせるものは、ひと言で言えば信仰であります。神様がいなくても、また人間がいなくても、信仰は意味を持ちません。神様と人間がいて信仰が意味を持って来ます。天の国の譬えですが、神様の事、人間の事、信仰の事、再び来られるイエス様の事を、今日の福音書から考えてみたいと思います。

 それで今日の福音書は当時の結婚の習慣から、天の国の譬えに用いられています。当時のユダヤでは、まず花婿が花嫁の家に迎えに行きます。それから花婿と花嫁は、二人で花婿の家に戻って来るわけです。それは夜中にもなることもあったそうです。今日の福音書の場面は、その戻って来る花婿と花嫁を迎える、十人のおとめたちの事が記されているわけです。この女性たちは、言わば祝いの花を添える者たちだったそうです。二人を迎えた後、婚宴が始まるわけですが、それを盛り上げる役割をも担うわけです。福音書は花嫁の事には触れておりません。花婿に焦点を当てるようです。この花婿が言わば、再臨のイエス様に譬えられていると考えます。いずれにしても、おめでたい結婚の喜びを盛り上げる役割の、十人のおとめたちが主人公です。

 そして聖書は、この十人の中、五人は愚かで、他の五人は賢かったという。何故ならば、賢い五人はともし火のための予備の油を用意していたが、愚かな五人は用意していなかったからだという。この十人のおとめたちは婚宴の座を盛り上げる役割を担うわけですが、花婿とはどんな関係だったのだろうか。単なるお金で雇われていた人たちだったのか。それとも友人関係にあった者たちだったのか。聖書は何も伝えておりません。ただ想像するだけです。いずれしても、花婿たちをお迎えするに当たって、どんな思いでいたのだろうか。雇われにしても、友人にしても、花婿たちと共に過ごす婚宴の喜びを、どれだけ真剣に受け止めていたのだろうか。そこが曖昧になってしまうと、来ないことは無いかも知れないけれども、何らかの事情で来なくなって、自分たちの役割は果たせなくても、それは自分たちのせいではないと考える。結局、花婿たちと共に過ごす婚宴の喜びは、人ごとに過ぎなかったということになる。一方、座を盛り上げる自分たちの役割はあるかも知れないが、とにかく、花婿たちと共に過ごす婚宴の喜びに与りたい。決して他人ごとではなく、当事者として期待しているんだから。花婿の到来がどんなに遅れようとも、必ず来られるんだから待ち続けたい。そのためにどうしたらよいのか、必死で考えるかも知れない。十人とも、花婿が来るのが遅れたので、眠気がさして眠り込んでしまったと聖書は伝えています。夜中になったようなので、それも致し方無いようにも思われます。生理的現象には、どんな人間も弱いわけです。そんなことよりも、どれだけ当事者として、婚宴の喜びを期待しているのか、そしてその喜びに与るために、何を考え、何をして来ているのか、それが問われるようです。いずれにしても、花婿の到来による婚宴の喜びを、どこまで喜びとしているのか、そこが出発点です。

 花婿の到来が送れて五人の愚かなおとめたちのともし火が消えそうになり、油を分けてほしいと賢いおとめたちに頼みました。しかし分ける程ないので、自分の分を買って来なさいと言われてしまいました。ここで譬えの中の状況だけで考えますと、『いじわるな。ちょっとぐらい分けてあげればいいのに』と思います。あるいは、自分のともし火が消えてしまっても、準備のある五人のともし火で、用は足せるのではないかとも思います。更には宴会に遅れたからと言って、締め出す事までしなくても良いのではないか。しかしここは、天の国のたとえです。ですから、神様と人間との関係の中で、この譬えから聞き取るものがあるはずです。まず『油』とは何を指すのだろうか。それは『信仰』と考えたらどうだろうか。信仰は貸したくても、他人に貸すことは出来ないものです。またお金で買えるものでもありません。ですから信仰の火を燃えさせるという事も、全て自分の責任においてなされるものです。予備の油とは何か。信仰はみことばによって、礼拝によって、油を補充するように、絶えず、養われていくものです。更に神の支配は、全て神のご意思が第一です。人間の都合で神様の意志が、どうにでもなるわけではありません。人間はただ、神のご意思に服従するだけです。特にイエス様の再臨は、人間的なスケジュールを超えています。『イエス様、ちょっと待って下さい。明日にして下さい』とは言えない。だから聖書は、『あなたがたは、その日、その時を知らない』と言うのです。

 神様の事、人間の事、信仰の事、再臨の事を、今日の福音書から考えてみたいと申し上げました。主イエス・キリストの神様は、再び来られる。それをどこまで真剣に当事者として受け入れるか。しかもその時は喜びの時だと言う。そしてその喜びは、いわゆる人間が見て思い描くような喜びとは違うものかも知れない。とにかくそこには、人間的な価値観とは違うものが示される。もしその喜びが示されるのであれば、真剣にその喜びの時を待つだろう。そのために用意するものが必要ならば、真剣にそれを願い求めるだろう。そしていつまでも、待ち続ける事が出来るだろう。そんな私は、決して他者と比較するものではない。あくまでも、神さまが意志をもって、こんな私に命と賜物と使命を与えられたと信ずるならば、私はその神様に向かって、私が本来の命与えられた私であるように、神様と向き合うしかないのだから。

 再び来られるイエス様であるならば、一度目はいつ来られたのか。それがクリスマスであります。ちょうど今年は、冒頭で触れましたように、29日から一回目のイエス様を迎える準備の時を、聖書から聞いてまいります。それは、どんなふうに来られたのか。人間のイメージとは、かけ離れていたのではなかったか。何故かけ離れてしまったのか。いやそもそも、それは人間のせいではなく、かけ離れるものなのではないか。再び来られると言うイエス様も、同じようなのかも知れない。いずれにしても、その日その時を知らないのだから、この今を、信仰によって大切に生かされて行こうではありませんか。

聖霊降臨後第24主日

『少しのものに忠実』マタイ25:14-30

 先週もこの場で触れましたが、キリスト教会独自のカレンダーでは、来週の22日が、今年の言わば大晦日の日曜日になります。それは再び来られるという再臨のイエス様の時を想定するものであります。終末の完成とか、最後の審判の時とか、そんな呼び方もされています。それで先週と今週と来週に渡って、イエス様の再臨をテーマにマタイ福音書25章がこの主日礼拝に与えられております。今日は、マタイ福音書25章14節以下からでありますが、先週のマタイ25章1-14節と同じように、天の国のたとえとして語られています。聖書が言う『天の国』とはいわゆる場所的なものではありません。神さまが支配されている状態を言います。人間も含めて全ての被造物が、その神様に支配されている状態です。そして特別に人間には、創世記1章28節によりますと、全ての被造物の管理が神さまから委ねられています。

 そこで今日の福音書の箇所でありますが、その管理を委ねられた人間の事が譬えられています。ある主人が旅行に出かけるわけですが、その際に僕たち三人に、それぞれの力に応じて自分の財産を預けたというのです。五タラントンと、二タラントンと、一タラントンでした。ちなみに一タラントンとは、当時の貨幣価値から言いますと、約17年分の収入になるそうです。それで例えば年収600万円としますと一億円ということになります。ですからこの譬えの三人は、一億円、二億円、五億円をそれぞれ預けられたという事になります。しかしここは、単にお金の価値に換算しても意味がない事かも知れません。お金の金額が多い事を問題にしてはいないからです。主人は『それぞれの力に応じて』三人それぞれに財産を預けたと記されてあります。そこには預けられた財産の多寡が問題ではない。この主人は三人の僕の一人一人の事をよくご存じのようだからです。『あなただからこそ、あなたにとって必要な、あなたに相応しいものを預けますよ』という主人の思いが伝わって来るようです。そして面白い事に、主人はただ預けただけで、それを使って何かをしなさいとはひと言も言わずに旅行に出かけたのです。しかし、五タラントン預けられた者も、二タラントン預けられたものも、それぞれ当たり前のように出掛けて行って、商売をして収入を得たと聖書は記しています。

 旅に出かける主人は神様で、僕たちは私たち人間たちという事でしょうか。タラントンというのは、いわゆるタレント、賜物の語源です。私たち一人一人は、それぞれに相応しい賜物が与えられている。それは私たち一人一人の事を、神様はよくご存じだからです。その一人一人は、他者と比べる必要はありません。そこには多いだの少ないだのとか、大きいだの小さいだのとか言った価値観は全く働いていないからです。旅先から帰って来た主人が言いました。この帰って来た主人が、再臨のイエス様の神様という事になるのでしょうか。いずれにしても、五タラント預けられた者にも、二タラントン預けられた者にも、主人は次のように全く同じ言葉を語られています。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。五タラントンも二タラントンも同じなんです。何が同じかと言いますと、いずれも『少しのものに忠実であった』からです。五タラントンだろうが二タラントンだろうが、所詮、人間が預けられたものは、少しのものでしかない。それで神のように振舞う事が出来ると思ったら大間違いだ。出来る事は、せいぜい微々たる所で、微々たる事しか出来ない。何気ない日常の中で、示されたことをする。それでいい。それが良いというのです。

 もう一つ注目させられるのは、『主人と一緒に喜んでくれ』という言葉です。譬えの中では、預けたものが倍返しになったんだから、主人は大喜びだと思います。しかし『一緒に喜んでくれ』というのが印象的です。二人の僕も当然、分け前を頂けるでしょうから、嬉しいはずでしょう。更に『多くのものを管理させよう』って言うんだから、報酬もアップされるかも知れない。しかしここで、この主人の喜びとは改めて何を指し示すのか。つまりイエス様の神様の喜びとは何なんだろうか。ここで二人の僕たちは商売をしたという事ですが、これは何を指し示すのか。それは、商売をして利益を得たという事ですが、それによって自分以外の者にも利益を与えたという事でしょう。商売は、それで他者にも利益が与えられているという事です。それが示されるのは、三番目の、一タラントンを預けられた僕の事から示されます。

 彼は、主人が恐ろしい方だと知っていたので、無くさないように地面の中に隠していたというのです。ところが帰って来た主人は、それを咎めます。そして銀行に預ければ利息が得られたのにと、彼を叱責し暗闇に追い出したのです。本当に、なんと怖い主人なんだろうと思います。銀行まで持ち出して来て、がりがり亡者の守銭奴のようにも想像させられます。しかし一方で、『一緒に喜んでくれ』とおっしゃられる主人です。ですから、こんなふうにも考えさせられます。つまり銀行に預けて利息を得るという事は、銀行に預けられたそのお金が、銀行を通じて誰かに貸し出され、それによって助けられる人間が必ずいるはずです。いずれにしも、やっぱり預けられたその財産で、助けられる他者が必ずいる事が大切なんだ、という事です。暗闇に追い出されて、そこで泣きわめいて歯ぎしりしながら、彼は何が問題だったのか、考えさせられる。どこまでいっても主人の恐ろしさを非難し続けるのか。それとも自分自身に問題があったことに気づかされて行くのか。そんな余韻が残されているのです。主人の事を厳しい方だと知っている僕が描かれていますが、そこから、私たちもややもすれば、神様は厳しいお方だから、再臨のイエス様も厳しく裁かれるお方だと、再臨を恐怖の出来事に捕らえ、またそれを喧伝するような風潮も見受けられます。あるいは祟りだとか、罰が当たるというのも、そんな神様へのイメージの類いです。果たして、そういうことなんだろうか。いずれにしてもこのイエス様の神様は、与えられた賜物をもって、たとえ無意識であっても、当たり前のように他者のために使い、それが多かろうが少なかろうが、その事を人間と一緒に喜んで下さるお方ではないのか。

 当たり前のように商売に出かけた僕たちと申しましたが、こんな事が思いだされました。大学4年生になった年でした。夏前には同級生たちが、当たり前のようにして、会社訪問を始めたんです。それが余りにも自分にとっては、『当たり前のように』見えたので、凄く違和感を感じたんです。『何でみんな、そんなに働き急ぐんだろう。もっと気楽な学生生活を楽しめばいいのに』と思ってしまったわけです。傲慢でした。自分の事しか考えていませんでした。経済的にもそんなに困っていなかったので、そんな呑気な事を思っていたんだろうと思います。同級生たちも、みんなそれ程生活に困っていたわけではないでしょう。まあ、大学を卒業したら就職をして、そして働くというのが、普通なんでしょう。彼らも人のために役立とうなんて事も、それ程考えてはいなかったかも知れません。自分のこれからの生活を考えての事だったんでしょう。しかしそんな同級生たちの姿が、余りにも、当たり前に動いている、その事に違和感を感じてしまっていた。そんな自分を、この一タラントンを預けられた僕に、重ね合わせて当時をふりかえさせられてしまったのです。

 今日の天の国のたとえから、人間の生き方が問われています。いや、人間はそもそも、どのように創造されたものなのか。更には再臨のイエス様を待つとは、どういうことなのか。あの最後の僕こそ、今ここで再臨のイエス様を待つ、こんな私の生き方を指し示していてくれる。そして私も、イエス様に抱いてしまっている、誤った知識を捨てさせられたい。そして、再臨のイエス様と一緒に喜びたいのです。