からし種 380号 2021年1月

聖降誕主日

『この言葉に戸惑い』ルカ1:26-38

 今日のルカ福音書の箇所は、いわゆる『受胎告知』と呼ばれる、割とよく知られている場面です。ヨセフという人の、いいなずけであるおとめマリアに、天使が現れて告知した。『あなたは身ごもって男の子を産む』。突然の天使の言葉にマリアは戸惑った。ヨセフと婚約していたマリアですが、当時の習慣によれば、いわゆる結婚の契約をしていたという事です。そして契約してから一年間は、それぞれ別々に生活をしていて、それから正式に結婚生活に入っていたようです。ところが、この別々の生活をしているうちに、マリアは妊娠すると聞いたのでしょう。ですから、『どうして、そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』と応えたわけです。

 それにしてもこの天使の言葉の内容は、妊娠の経緯は別にして、今となっては、実に魅力的に聞こえます。ルカ1章32節『その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる』。父親の問題はありますが、とりあえず生まれて来る子どもは、マリアの子です。これは絶対です。その子が偉大な人になるって言うんです。しかも神がかり的子どもです。まさしく神童です。ユダヤ人にとって、尊敬する昔のダビデ王のような王様になって、ユダヤ人を支配するようになるって言うわけです。そうなれば自分は王様の母親になります。親であれば誰しも、このような子を産みたいと思わないでしょうか。問題はいいなずけのヨセフです。彼さえこの話を受け入れてくれれば、こんなうまい話は無いように思えます。なんてったって、ヨセフはダビデ王に連なる末裔だとも、聖書は伝えています。

 当時のユダヤ人の女性の結婚年齢は12歳ぐらいだったという事です。マリアは12歳。いくら当時の人が現代よりも早熟だとしても、12歳の女性が、この天使の話を利用して、いわゆる一攫千金を画策するだろうか。そのために、やはり20歳ぐらいだったと言われる年上のヨセフを、うまく丸め込めるだろうか。何と言っても天使の話では、聖霊によって神の子が宿る、なんて言うわけです。しかもややもすれば、むしろマリアの失態を覆い隠すための、作り話に聞こえてしまう。ですから、そんな話を持ち掛ければ、かえって火に油を注ぐような事態になるかも知れません。ヨセフが安々と、そんな話に乗っかるわけがない。ダビデ家のヨセフと言っても、当時のヨセフは大都会エルサレムから遠く離れた、片田舎のナザレという村の大工さんでした。もはや当時のユダヤの状況では、ダビデ王に連なるという事も、人々の間では、何の勲章にもならないような状況だったのかも知れません。ですから自分の子がダビデ王のような王様になるなんて、とても考えつかないような状況だった。となると、あの天使の話を利用して画策するなんて、当時のマリアにも考えもつかない程だったか。ただ戸惑うだけのことでしかなかった。同時にヨセフに何と伝えたらよいのか、心配になっただけかも知れません。

 そこでヨセフの事にも触れたいと思います。マタイ福音書1章18節以下に、ヨセフにも天使が夢の中で現れたことが記されてあります。恐らくマリアから、あの受胎告知の出来事を聞かされたんでしょうか。いずれにしても、誰もが信じられないような出来事です。むしろマリアを疑う事の方が常識的です。密かに縁を切って、そうやって自分という男の面目が、何とか傷つかない方策も考えた。マリアの事は、まあ、せめて表立って糾弾されることのないようには考えた。しかし、茨の道が待っているだろう。でもそこまでは、自分が考える事はないとも思った。ところが夢で天使が言った。『恐れず妻マリアを迎え入れなさい』。ここでヨセフは、色々な選択を迫られた。自分の名誉を守る事も良し。色々な律法によって、自分を正当化出来る選択もあったはずです。しかし結局、ヨセフは『愛』を選択したのです。いわゆるシングルマザーになるだろう、目の前にいる女性と胎児を、一体、誰が守るというのか。彼は恥も外聞も捨てて、目の前のその命を守る事を決断したのです。

 受胎告知を受けた時のマリアもまた、選択を迫られたのです。そしてどんな選択をしても良かった。出来れば自分の身の安全を優先させたい。自分の将来を考えて、妊娠を拒絶する方法を模索してもいい。あるいは、先ほども申し上げましたが、天使の言葉を利用する方策もあってもいい。どの選択も幼いマリアにとっては、きっと厳しいものだったかも知れません。結局、マリアは『愛』を選択したのです。ルカ1章38節『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』。どんな状況であれ生まれて来る子は、自分の子です。そして何の力も無い、無力なものです。自分が守らなければ、一体、誰が守ってくれると言うのだろうか。母である私ではないか。マリアは目の前の、その子の命を守る事を決断したのです。

 今を生きる私たちも、様々な選択をしながら生きて行くものです。そして願わくば、自分の身も心も名誉も、安全になるような選択を願うものです。少し以前にこの場でも紹介しました。このルーテル教会の名前の由来にもなっております、宗教改革者マルティン・ルター。彼の印象深い一つの言葉があります。ルターの時代も、ペストという疫病が蔓延しました。そんな中で、ルターはある牧師から、ペストが蔓延している時、牧師は避難してよいかどうか尋ねられたそうです。そこでルターは次のように答えました。『ある人は、信仰を持っているので避難する必要なしと考えた。ここでこそ信仰が試される、と考えたわけだ。しかしどちらでもよいのだ。状況に応じて避難してもよし、留まってもよし。実はもっと大切な問題がある。それは、信仰に裏打ちされた隣人愛に基づく責任ということだ。目の前に苦しむ人がいれば、その人を一人にしてはいけない』。

 神様は天に座して、にらみを利かす。人間はその神様を崇める。それが神様を神様たらしめ、人間を人間たらしめる。ところがイエス様の神様は、どんな人間かも分からないような、人間の女性から生まれて、人間の赤ちゃんとなった。しかも馬小屋の飼い葉桶に寝かされた。そして最後は、何と犯罪人として十字架上で死んだのだ。こんな格好の悪い、いやそれ以上に、こんな危険極まりの無い選択を、この神様は為された。何故か。目の前に、愛して愛してやまない人間がいるからだ。この愛しい人間の救いのために、愛に促されて、人間の赤ちゃんになったのだ。ヨハネ福音書は次のように伝えています。ヨハネ3章16節『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。

 キリストの教会によって、こんな私も、キリストの愛に促されて、ただ愛に向かう選択を果たし続けて行きたいのです。

聖降誕日前夜

『民全体の喜び』ルカ2:8-20

 この教会には附属幼稚園が設置されております。幼稚園では園児たちが演ずるクリスマス降誕劇が一つの恒例行事となっております。今年は新型コロナの事もあって、この活動を行う事が出来るのか心配しました。がしかし、何とか行う事が出来ました。この降誕劇のシナリオのベースは、聖書です。特にルカ福音書から、大半が引用されています。まず受胎告知、続いてローマの王様の住民登録の命令、ベツレヘムでの宿屋探し、そして先程読みました福音書の箇所になりますが、荒れ野にいる羊飼いたちへの救い主誕生の告知、最後に東から来た三人の博士たちの登場。この博士たちの事はマタイ福音書からになっております。そしてこれらの聖書箇所から、少し想像を膨らませて、降誕劇のシナリオが作られているわけです。

 住民登録のために、産まれた町に帰る事になったので、ヨセフは身重のマリアを連れて、ベツレヘムに来ました。続けて聖書は次のように記しております。ルカ2章6-7節『ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである』。園児たちの降誕劇では、ここはかなり想像で、肉付けがされています。宿屋さんは三軒登場します。『トントントン、宿屋さん。どうか一晩泊めて下さい』とヨセフとマリアが頼みます。しかし1軒目も、二軒目も断られます。『どこのお部屋も一杯ですよ。困った困ったどうしよう。向こうの宿屋へ行って下さい』。そして三軒目で『馬小屋ならば空いてます』ということで、馬小屋にあっただろう飼い葉桶に、産まれたイエス様は寝かされる事になります。お気づきかと思いますが、聖書には『馬小屋』という記述は出てまいりません。ただ、いきなりと申しますか、『飼い葉桶』が記されてあるだけです。飼い葉桶は当然、馬小屋にあるわけだから、敢えて記述する必要が無い、ということなのでしょうか。そうかも知れませんが、記述が無いだけに、この馬小屋についても、少し自由に想像を膨らませても良いと、聖書は言っているのかも知れません。

 『宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである』という言葉に続いて、今日のルカ2章8節『その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた』となります。先程の『馬小屋』ですが、当時のユダヤでは馬は、庶民の間では一般的ではなかったようです。ですから小さな村のベツレヘムにあるとしたら、羊や牛やロバのための『家畜小屋』と呼ぶ方が、自然ではないかと想像します。実は羊飼いと羊たちは、一年中、野原にいるわけではない。ある一定の囲いを設けて、その傍に小屋を立てて、そこで羊飼いたちは寝泊まりする。同時に囲いの中の羊たちの見張りをしていたようです。そして折に触れて、囲いから羊たちを野原に連れ出して、草を食べさせていた。恐らくその小屋にも、飼い葉桶はあっただろうと想像します。ところが住民登録の命令が出て、ベツレヘムに大勢の帰省客が押し寄せた。宿屋も一杯になった。その影響で、羊飼いたちが使っていた家畜小屋も、何らかのしわ寄せを受けてしまったのではないか。そして羊飼いたちは、家畜小屋に居られなくさせられたのではないか。それでその時は、野宿をするはめになってしまった。羊飼いたちも、ローマの王様の命令によって、大きく予定を狂わされてしまった。

 ところが、いつもなら野宿をしている時ではなかったのに、家畜小屋を追い出されたが故に、主の天使との出会いが備えられていた。天使が言いました。『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』。いくつかある家畜小屋の、その中の、もしかしたら自分たちがいつも使っている飼い葉桶かもしれない。天使の言葉に促されて出かけた彼らは、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。確かに天使が言った通りだ。しかもこれはいつもの飼い葉桶だ。大きく予定を狂わされた結果、思いもよらない天使の言葉に出会った。そして、自分たちが追い出された家畜小屋の飼い葉桶に、救い主を迎える事が出来た。彼らは『・・神をあがめ、賛美しながら帰って行った』。

 今年は世界中で、新型コロナによって、大きく予定を狂わされてしまいました。しかしその結果、思いもよらない出来事や人との出会いを、果たされたという方もおられるかも知れません。ある神学雑誌に紹介されていた、一人の音楽指揮者の方の体験談に目が留まりました。『音楽家という職人としての誇り、そして家庭では一家の長として、プライドをもって生きて来た。それが新型コロナで、全部あっけなく砕かれてしまった。隠居生活のような毎日で、養われていた立場の娘たちから、慰めの言葉をかけられるようになった。そこでほぼ毎日、教会の礼拝堂に通い、一人で黙想していた。こんな生活は初めてだ。せっかくだから、この機会に自分を変えたいと思った。すべての世的な衣を脱ぎ捨て、裸のままのたったひとりの人間として、神の前に立とうと決心した。そのために謙虚になろうと努めた。謙虚にならせてくださいと祈っていた。来る日も来る日も教会に通った。・・次第に自分から出る感情は、ただただ感謝のみになっていった。その中で気づいたことがあった。それは、どのいのちも、神の前には『同じだけ』大切だということだ。私が何かが出来るから大切なのではない。何かを成し遂げたから、より重要なのではない。反対に、私が何かが出来ないから不用ということもない。私はここに生きている。それを神が赦してくれている。それだけでいい。・・振り返って見ると、私は、音楽の素晴らしさに魂を揺さぶられ、これから離れるなど考えられないと思い、自分の人生を賭けることを決心し、そして数十年、生きてきてここにいる。これのみが真実だ。それは信仰と一緒なのだ。仮に自分以外誰も神を必要としなかったとしても、そんなこと関係ないのだ。神はいるのだと私が信じればそれでいい。・・『コロナのお陰で』という境地にはまだなれないが、少なくともコロナ禍において掴み取ったものはかけがえのないものだ。これを生涯大切にしたい』。

 思いもよらない予定変更によって、思いもよらない人との出会い、また出来事、それらを通して、神様はこんな私に出会い、語りかけて下さる。こんな私にとって、今、最も大切なものを示して下さる。それは私たち一人一人に備えられている。そうして、民全体のための喜びも、一人一人に相応しく届けられる。そのためにこの世に誕生して下さった、主イエス・キリストの神に感謝します。