からし種 381号 2021年2月

顕現後第2主日

『来て、見なさい』ヨハネ1:43-51

 今日の箇所は新共同訳聖書では『フィリポとナタナエル、弟子となる』という小見出しが付けられてある所です。弟子と言っても、これは今や、単なる『先生対弟子』という意味合いではないでしょう。言わば、イエス様を信仰の対象として、信じて従う者になったという者です。そこでまず、イエス様がフィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と声をかけた。しかし聖書には『そしてフィリポは従った』というような記述はしておりません。それは自明な事かも知れません。しかしここには、それ以上に注目させられる言葉があります。それは『そしてフィリポは従った』という言葉の代わりのように、『フィリポはナタナエルに出会って言った』と言うのです。言った言葉は『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ』。つまり平たく言えば『わたしたちは救い主メシアに出会った』というのです。イエスに従ったであろうフィリポが真っ先にした事は、ナタナエルという他者に出会って、イエス様を証言したのです。更にその証言の中でフィリポは、『わたしたち』と言っています。フィリポ以外にもこの時、救い主のイエス様に出会った人がいた。それは普通に考えれば、今日の福音書の箇所の直ぐ前の所に登場する、アンデレとペトロと、そしてもう一人だったでしょうか。そのアンデレについて聖書は次のように記しております。ヨハネ1章41節『彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、わたしたちはメシア・・に出会った、と言った』。アンデレもまた、イエス様に出会った後、まずしたことは、他者である自分の兄弟に、救い主イエス様に出会った事を証言したというのです。イエス様に出会い従う者が、真っ先にするのは、更に他者に出会って、救い主のイエス様を証言するのです。そうやって、イエス様に従う者の群れが、建て上げられて行く。何かいわゆるキリストの教会の原点を見るようなのです。

 フィリポに出会ったナタナエルは、その証言を聞いて応えます。『ナザレから何か良いものが出るだろうか』。フィリポの証言の中に『・・それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ』とありました。フィリポもアンデレもペトロも、ベトサイダという町の出身でした。ナタナエルは今日の福音書の直ぐ後に出てまいります町になりますが、カナという町の出身でした(ヨハネ21:2)。いずれもナザレからは、そう遠くない所にある町です。ですからナザレという町の事も知っていたでしょうし、もしかしたら、ヨセフの事も知っていたかも知れません。またナザレやベトサイダが位置するガリラヤ地方は、ユダヤ教の中心地エルサレムからは、はるか北方に位置しています。ですから、いわゆる異教徒にも影響を受けた、宗教的に汚れた地域と見なされていました。そんな背景を持つイエス様の事を、救い主メシアと信じる事は、極めてハードルが高いように想像されます。ナタナエルの反応は、当然と言えば当然でしょう。

 そこでフィリポは言います。『来て、見なさい』。『見る』と訳される言葉には、ギリシア語では二種類出てまいります。『ホロー』と『ブレポー』と発音する言葉です。ここは『ホロー』が使われております。単に『一目見る』というよりも、継続性を持った言葉です。訳せば『見る・知る・味わう・経験する・注意する』というものです。やって来たナタナエルと、イエス様との会話が注目されます。まずイエス様が語ります。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない』。びっくりしたでしょう。そこでナタナエルは言います。『どうしてわたしを知っておられるのですか』。この時点では『この人は、どこまで自分の事を知っているんだ』と、半信半疑だったかも知れません。しかし続けてイエス様は『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と畳みかけます。それでナタナエルは『あなたは神の子です』と証言するのです。この展開は、少し急激過ぎるようにも思います。しかしそれだけに、この会話の中から、その向こうに示されるものを、色々と想像させられます。

 『いちじくの木の下にいる』というのは、律法の先生から教えを受ける時には、イスラエルでは馴染みあるいちじくの木の下に、生徒たちは集められたそうです。ですから、このイエス様の言葉から、単に透視能力を誇示するのではなく、『あなたは聖書の事をよく学んでいる』と語りかけて下さったということです。イエス様に出会う直前に、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』とナタナエルが言った事も、イエス様は当然ご存じだったでしょう。そして普通は『お前、ここに来る前に、私の悪口を言っただろう』と言っても良かった。むしろ単に、透視能力を誇示するだけだったら、そうやってナタナエルの悪口をなじっても良かった。ナタナエルも、そちらを思ったでしょう。ところがイエス様は、そんな事ではなく、ナタナエルのありのままを良く知っておられて、なおかつ受け入れておられた。その上で、『あなたはまことのイスラエル人だ。偽りがない。よく聖書を学んでいる』とおっしゃられた。ここにナタナエルは、今までに経験したことの無い、このお方から出る寛容な愛を知らされて行ったのではないか。

 イエス様は続けて『もっと偉大なことをあなたは見ることになる』とおっしゃられました。『天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』。この描写は、創世記28章12節にある、ヤコブの夢を想い起させられます。兄を騙したが故に、命を狙われて逃亡するはめになったヤコブが、野宿した時に見た夢です。『先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた』。そして眠りから覚めたヤコブが言いました。創世記28章16節『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった』。そこからは、兄を騙した自分を、丸ごと受け入れて下さったお方への、感謝が伝わって来るようです。イエス様がこの時、ナタナエル語った言葉は『あなた』から『あなたがた』に変わっています。つまりヤコブの出来事を想起させながら、今やあなたがたは、イエス・キリストを通して、父なる神が共にいることを知るようになる、とおっしゃられたのです。そしてその場所は、キリストの教会です。

 キリストの教会は『神によって呼び集められた者の群れ』です。別の言い方をするならば『神が与えて下さった者の群れ』です。ナタナエルという名前の意味は『神が与えて下さったもの』ということです。ですからキリストの教会は、ナタナエルの群れです。そしてその群れは、破れも欠けも多い、ありのままの自分を、そのまま受け入れて下さるお方に出会い、それを知らされ、その愛に喜び、感謝して応えて行こうとするものです。そしてそんな人間のもう一人を、このヨハネ福音書から想い起させられます。聖書はその人を『サマリアの女』と記しております。ヨハネ4章1節以下に描かれます。サマリア人は元々ユダヤ人でしたが、歴史的に異教徒の支配下に置かれた事から、ユダヤ人からは汚れた人々として、交流が断たれておりました。そんな出会うはずの無いサマリア人の女性と、イエス様は出会い会話を始めたのです。そして最後に、知るはずの無いその女性の背景を、イエス様は言い当てました。それもまた、単に透視力を誇示するものではない。人に知られたくないような、結果的にふしだらに見える人生を、イエス様は裁かずにまず、ありのままを受け入れてくれた。その女性は、すかさず信仰の問いかけを始めます。ヨハネ4章19節『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています』。それに対してイエス様は言いました。ヨハネ4章24節『神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない』。すなわち、神の霊によって語られるイエス・キリストの言葉がある。そこが礼拝の場所だ。そのサマリアの女性もまたこの後、このイエス様との出会いを証言して行きました。

 まず、ありのままを受け入れて下さるお方に、キリストの教会によって出会い、その愛の計り知れない深さを知らされる。そこからこんな私も『来て、見なさい』と証言出来る、もう一人のナタナエルとの出会いに、押し出されて行こうではありませんか。

顕現後第3主日

『わたしについて来なさい』マルコ1:14-20

 今日の福音書の箇所は、イエス様が本格的に伝道活動を始められる時の、その第一声が発せられた場面です。『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。聖書が言う『神の国』とは、『神が支配される状態』を言います。そして『福音』とは『イエス・キリスト』です。そうするとイエス様の第一声は、言い換えると次のようになります。『時は満ち、神が支配される状態が近づいた。悔い改めてイエス・キリストを信じなさい』。ではここの『時は満ち』という『時』とは何でしょうか。第一声を発せられるイエス様の登場の、その『時』でしょうか。この言葉のギリシア語は『カイロス』と発音します。ギリシア語には『時』と訳されるもう一つの言葉があります。それは『クロノス』と発音します。この場合はどちらかと言えば、江戸時代とか明治時代とか、継続的な歴史的時代の場合に使われます。ですから、誰にでも共通するような、客観的な『時』のようです。ところが『カイロス』は、継続的というよりも、一瞬一瞬の『その時』なんです。ですから、誰にでも共通するような、客観的な『時』とは違って、その人にとっての『その時』なんです。そうしますと、もう一度、イエス様の第一声を言い換えますと、次のようになります。『あなたにとってのその時は満ち、神が支配される状態が近づいた。悔い改めてイエス・キリストを信じなさい』。ですから『神が支配される状態』もまた、少なくとも、今あなたが『その時』だと聞いて信じるならば、あなたは既に『神が支配される状態』に置かれているのです。

 さてこの第一声は誰に向けられたものか。ガリラヤ地方の人々かも知れません。そして今もここに生かされている、私たち一人一人なのでしょう。そして今日の福音書は、その第一声を聞いた人々の中の、四人の漁師たちを描きます。彼らはどうなったのでしょうか。まずガリラヤ湖で漁師をしていた、シモンとシモンの兄弟アンデレが登場します。彼らにイエス様が呼びかけました。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』。『二人はすぐに網を捨てて従った』。更にゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネたちもまた、イエス様の呼びかけに応えて、『父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った』という。イエス様の呼びかけを聞いて、何か直ぐに従ったかのように聖書は描きます。その通りであるならば、余りにも唐突過ぎます。もう少し、色々な経緯があったのではないか。聖書は、そこを省いているのではないか。少なくとも『ああ、イエス様、ちょっと、網を洗ってしまうまで待って下さい』とか、『ああ、イエス様、ちょっと、父親に事情を説明して、家まで送り届けるまで待って下さい』とか、色々な経緯はあってもいい。しかし結局、ここで示されるのは、イエス様の呼びかけに応えてついて行く人間と、イエス様との関係においては、その主導権は、徹底的にイエス様にあるという事です。あったかも知れない人間的な必然や都合のようなものを、一枚一枚剥ぎ取って行けば、そこにあるのはただ『わたしについて来なさい。はい、ついて行きます』それしか無いのです。これが『神が支配されている状態』に置かれる人間の姿です。

 その時イエス様は、一つの使命を与えられました。それは『人間をとる漁師にしよう』という言葉に示されます。これはギリシア語原文を直訳しますと『人間の漁師になるようにしよう』となります。これを彼らはどんなふうに聞いたんだろうか。あるいは聞いて行くんだろうか。救い主イエス・キリストを人々が信じるように、そのための伝道者になって行こう。そう決断して、彼らは漁師をやめてイエス様に従って行ったんだろう。あるいは『人間のための漁師になるようにしよう』と聞いたらどうだろうか。彼らはひとまず網を捨ててイエス様に従う。そうやって、神の支配の下に生かされる、本当の人間に創り変えられて行く。もしかしたらその間にも、彼らは漁師の仕事も、する事もあったかも知れない。見た目は以前のように、魚を取っている漁師かも知れない。しかし彼らは少なくとも『人間のための漁師』になることを、心に刻まれ続けているんだろう。かつては、舟をあやつり、網をあやつりながら漁師をしていた。しかし今や、自分が舟のようになり、自分が網のようになって、そういう自分は、むしろあやつられる者になって行くんだろう。イエス様はこうして、四人を呼び出し、ご自分の伝道活動と共にされた。そうやって四人も、伝道活動に与って行ったのだろう。しかしそれは、『人間の漁師になるようにしよう』という始まりに過ぎない。結局、十字架に死んで復活された、イエス様の呼びかけを聞いて、もう一度、彼らは応えて行くのです。マルコ福音書の最後、16章19-20節『主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった』。漁師に戻るものもいれば、新たな職業に就くものもいただろう。もちろんみんな、『人間の漁師になる』このイエス様の声をもって、これを使命として、『弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した』。

 仕事のことを英語では、『Job』という言葉をよく聞きますが『Vocation』という言葉もあるそうです。辞書には『職業・仕事・天職・使命』と出てまいります。この言葉はラテン語の『vocare』に由来するそうです。直訳すれば『呼び出す』という意味だそうです。神様との絶え間ない祈りの交わりの中で、神様の呼びかけを聞き、それに応えて果たして行く。それが職業であり、仕事であり、天職と呼び、使命なのであります。今日の第一日課は、まさに神の呼びかけに聞いて、その使命に応えて行く、ヨナという人間が描かれます。しかし彼はその呼びかけに応えながらも、神が与えられる使命に不満を持ちます。『どうせ神様は、私がそんな使命を果たさずとも、最後は神様の思うようになさいます。私なんか必要ないでしょう』。そんな不満を抱えるヨナに向かって、また神様は呼びかけます。『神の支配に与る者でありながら、その支配を、あたかも傍観者のように、評論するお前は何者なのか。神様が愛されるこの世界や人間のために、その神様の愛を、お前はこの世界に具体的に現す者。その使命を与えられている者なのだ。たとえそれが、どんなに狭く、どんなに小さな所のことであるとしても、神の愛を現すその使命は、どんな所でも、永遠に神の愛にあり続けるのだ』と。

 あなたにとっての、その時はある。そしてあなたもまた『わたしについて来なさい』そう呼びかける、主イエス・キリストの神の声を聞き、もう一度、与えられたその仕事によって、使命を果たして行くのです。