からし種 383号 2021年4月

四旬節第4主日

『光よりも闇の方を』ヨハネ3:14-21

 今日の福音書の箇所は、その冒頭で、かつてエジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちが、指導者のモーセに導かれて、エジプトを脱出して、四十年に渡って荒れ野を旅した時の、一つの出来事に言及しています。それは『モーセが荒れ野で蛇を上げた』という出来事であります。この詳細は今日の第一日課、民数記21章4節以下に記されてあります。荒れ野の旅に『民は途中で耐えきれなくなって』とあります。そうすると人間は何をするのか。それは、現状に対して、不平を言い始めることです。食べ物が無いと言っては不平を言い、飲む水が無いと言っては不平を言う。とうとう人々は、エジプト脱出、その事にまで、否定的に不平を言うわけです。ユダヤ人のエジプト脱出の歴史を、別名、不平の歴史とまで言われるくらいなのです。そんな不平の民に対して、神様は怒る事なく、その度に民を宥めすかして、必要なものを備えて下さるのです。この民数記21章5節では『こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます』と記されてあります。『こんな粗末な食物』とは、『マナ』の事であります。出エジプト16章3-4節『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。主はモーセに言われた。見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる』。この天からのパンを、人々は『マナ』と呼んだのです(出エ16:30)。今や人々は、あの時の尊い神様が下さったパンを、『こんな粗末な食物』とまで言ってしまったわけです。

 あれだけ忍耐強く慈悲深い神様でも、さすがに堪忍袋の緒が切れたのでしょうか。『主は炎の蛇を民に向かって送られた』と記します。恐らく、蛇の毒が、咬まれた人間の体内に入って、炎で焼き尽くされるような痛みを伴って、死んでしまったということでしょう。しかしここで、忍耐強い神様の事も驚きですが、人々の反応にも驚かされます。『民はモーセのもとに来て言った。わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください』。人々は直ぐに悔い改めるんです。直ぐに不平を言ったり、破れや欠け多き人間ですが、主なる神様は時に人間を戒めながら、『あなたと私』という関係を、ずっと繋ぎ止め続けて下さっているのです。この炎の蛇の事件の時にも、主なる神様はちゃんと、逃れの道を備えて下さったのです。それが今日の福音書に言及されている『炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げ』させた出来事でした。民数記21章9節『蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た』と記されてある通りです。青銅の蛇が命を与えるわけではありません。命を与えるのは神です。旗竿にある青銅の蛇は、あくまでも、それを仰ぐ人々の、悔い改めの徴となって行くべきものでした。そして今日の福音書を通して、この出エジプトの古事から、イエス様はご自分の十字架の出来事を予表されるのです。十字架上の主イエス・キリストが、永遠の命を得る徴となると言うわけです。

 ところがこの旗竿の先の青銅の蛇については、後日談があります。脱出したユダヤの民は約束の地カナンに住みつき、王国を築き、ダビデ、ソロモンという指導者の後、王国は南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂しました。この出エジプトの出来事から600年程時代が下った頃に、南ユダ王国のヒゼキヤという王様が、いわゆる偶像礼拝を批判して、宗教改革を行うわけです。列王記下18章3-4節『彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行い、聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。イスラエルの人々は、このころまでこれをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである』。ちなみに『ネフシュタン』とは、ヘブライ語の『ネホーシェス(青銅)』もしくは『ナハーシュ(蛇)』から来ていると言われます。いずれにしましても人々は、時代が下るにつれて、この『青銅の蛇』を、いわゆる霊験あらかたなる救いのお守りとして、偶像化して行ったわけです。国家も無く、荒れ野の苦難の時代には、忍耐出来ない人間は不平を言う。安住の地が与えられ、国家によって平和を享受する人間は、いつしか偶像崇拝に走るのです。どっちに転んでも、自己中心で人間の目に見える業に信頼を置いてしまう、人間の弱さ罪深さを示されます。

 忍耐強く慈悲深い神様の姿勢は、いつまでも変わりません。それをまた思いもかけない形で、私たち人間に指し示して下さいます。ヨハネ3章16節『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。独り子なる主イエス・キリストを通して、永遠の命という、父なる神様との関係の回復と継続が果たされるというのです。しかしそのために、十字架の主を徴として、繰り返し悔い改よと言います。ヨハネ3章19節『光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ』。『光』とはイエス様の事です。それでこの19節をギリシア語原文から、次のように訳します。即ち『イエス様が世に来たのに、人々はその行いが苦痛の激しいもの(ポネーロス)なので、イエス様よりも神から断絶された世界(スコトス)の方を愛してしまった(アガペー)』。偶像崇拝はまさに人間的なものに信頼し、神様を救いの手段として、手っ取り早く利用するものです。人間的価値観が勝る世界です。ですから、ややもすれば神様からの価値観が、劣るもののように、ましてや安心どころか苦痛を伴うもののように見えてしまうのです。この偶像崇拝に走ってしまった人間に対して、初代教会の伝道者パウロも、この出エジプトの不平を言うユダヤの民の事を、批判的に取り上げながら、次のように書いています。1コリント10章13節『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます』。

 先週11日は東日本大震災から10年目の時でした。様々に振り返りの時を過ごしてまいりました。翌日の12日に、NHKテレビで、被災地ではなく東京に住んでいる方の中に、あの大地震に遭って、生き方を変えられたという人々の事を報じておりました。一人の方はあるIT企業に勤めていた方で、地震の時には会社にいたそうです。翌日からのテレビに映る被災地の様子を見て、何か人の役に立ちたいと願い、被災地でボランティア活動にたずさわりました。放射能の除染活動をしていた時、放射能濃度の高い地域にいた小さな子どもが『ぼく、死んでしまうのかな』とつぶやいた声に衝撃を受けたそうです。同時に自分が小学生の時を思い出した。人の役に立ちたいと願い、将来、医者になりたいと思った。しかし途中で挫折して、違う道に進んでしまった。この幼な子の声によって、闇の中にしまい込んでしまっていた、医者になるという夢が呼び覚まされた。そして29歳で医学部に入り直し、福島での研修を希望し、そのまま福島で医者として38歳になる今も、放射能に苦しむ人々と共に、歩んでいるという事でした。もう一人の方は、やはり都内のデパ地下で惣菜を売っていた時に、地震にあった女性です。都会には、何でもあって、快適便利に暮らせると思って来た。しかし地震の後、コンビニの棚には食べ物も無くなり、電気も水道も止まった時、ああ自分は、何も出来ない、生きる力の無い者である事に気づかされた。それで都会を離れて、長野県の山村に移住し、闇の中に閉じ込めていた生きる力を取り戻すために、自給自足の生活を始めた。今は同じ村の男性と結婚されたという事でした。

 このお二人の、生き方を変えられたお話しを聞いて、その生き方には、まさにその人の力ではなく、それを超えたお方の力が働いているのではないか、そんなふうに思わされたのです。そして今日の第二日課、エフェソ2章10節の言葉が思い起こされました。『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたのです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです』。

 神に造られたものとして、造られたままの本来の生き方に、こんな私もキリストの教会によって、もう一度与らせて下さい。

四旬節第5主日

『雷が鳴った』ヨハネ12:20-33

 今日の福音書の冒頭に、『祭りのとき』とあります。これはエジプト脱出という、イスラエル最大の救いの出来事を記念する、過越祭の事であります。そしてこの祭りの最中にイエス様は十字架に掛かられました。いずれにしましても、一年に一度の大切なお祭りですから、ギリシア・ローマ地方に散らばっていたユダヤ人たちも、大勢エルサレムに集まって来たわけです。そしてそんな人々の中には、ギリシア人もいたという。ギリシア人ですから、普通はユダヤ教徒ではないわけです。ユダヤ教徒に改宗しているのであるならば、この祭りに参加していても不思議ではない。そうではないとしたら、祭りが目的と言うよりも、イエス様に会ってみたいと言う、単なる野次馬的に集まって来た、という事でしょうか。と申しますのも、イエス様の奇跡の業は、かなり広まっていて評判になっていたからです。今、『単なる野次馬的に集まって来た』と勝手に申し上げましたが、もう少し真剣に、イエス様との出会いを考えていた、という事もあるかも知れません。

 そこでこのギリシア人たちは、イエス様の弟子の一人のフィリポに、イエス様との面会を願い出るわけです。ヨハネ12章21節『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』。ここで『お願いです』と訳されている言葉ですが、ここは直訳すれば『主よ』という言葉です。私が持っている英語訳の聖書では『Sir』と訳されています。英和辞典を引きますと『あなた・先生・閣下・だんな・君!・おい!・こら!』と出ています。尊敬するニュアンスもありますし、上から目線のニュアンスもあります。ここは尊敬するニュアンスなんでしょうか。ですからお手元の聖書は『お願いです』と意訳したんだと思います。ただし、尊敬するにしても、どこまで踏み込んでイエス様の事を考えているのか、かなり温度差が出て来るように思います。だいたいここで、『イエス』と呼び捨てにしています。日本人的感覚なんでしょうが、ちょっと違和感を覚えます。それに『主よ』と弟子たちに呼びかけたということは、イエス様に向けてというよりも、いわばイエスグループ全体に呼びかけたということでしょうか。そうであるならば、ここはイエス様の唯一性が薄められてしまいそうです。神々を信じるギリシア人らしいですが、ここは少なくとも、イエス様にとっては無視できないところでしょう。それにしても『主よ』なんて、普通はイエス様に投げかけられるべきものなのに、それを自分に向かって呼びかけられたフィリポは、どんな気持だったでしょうか。誇らしかったでしょうか。

 そこでこの申し出に対しての、イエス様の言葉に注目させられます。直接『では会いましょう』という言葉が無くて、ご自分の十字架の死を予告して、言わばキリスト信仰にまで踏み込んだような言葉なのです。まさにイエス様ならではの、唯一性をここに強調するようです。そして次の言葉が、この時のギリシア人たちの在り様を想像させられます。ヨハネ12章26節『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる』。ギリシア人たちは、それが真剣であるとしても、『お目にかかりたい』と言っているだけで、イエス様に仕えて従う、なんて言う事までは考えていなかったかも知れません。しかしここで、イエス様が強調したかった事は、こういう事なのではないのか。即ち、イエス様に出会う、と言う事は、あくまでも傍観者的であってはならない。当事者になって行くんだ、という事です。これが『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え』という言葉に顕されて行ったのではないか。『お目にかかりたい』という言葉に、単に、見てどうだった、ああだったという、傍観者的評論家的に過ぎないものであるならば、本当のイエス様に出会った事にはならない、というわけです。そして『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる』というこの言葉は、実はこの時のギリシア人たちだけに対してではなく、既に従っているユダヤ人の弟子たちにも、改めて向けられた言葉だったのではないか。

 ギリシア人とかユダヤ人と言えば、聖書の次の箇所が思い起こされます。初代教会の伝道者パウロが書いた、1コリント1章21-25節を引用します。『世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです』。パウロは『宣教という愚かな手段』と書いていますが、宣教する者こそ、まさに神の当事者なのです。

 今日の聖書は天からの声を記しています。ヨハネ12章28節『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現わそう』。既に現された栄光とは、地上におけるイエス様の、奇跡の業と言葉でしょう。そして再び現わされる栄光とは十字架です。この天からの声を人々が聞いた時、ある者たちは『雷が鳴った』と言い、ある者たちは天使の声だと言った。『雷』はよく神の顕現の徴として旧約聖書に描かれています。力強く睨みを利かす、父なる神をイメージさせるものです。天使とは優しいイメージです。いずれにしても、人々の心の在り様が、雷に聞こえさせたり、天使の声に聞こえさせたりする。自分たちの心の在り様が、問われているはずなのに、ややもすれば相変わらず人々は、傍観者的評論家的に、天からの声を聞いている。ところがイエス様はおっしゃられました。ヨハネ12章30節『この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ』。『あなたがたのためだ』というのは、まさに、あなたがたが当事者なのだと言うのです。そしてこれから引き起こされる十字架も、あなた方のためなのだと言う。ヨハネ12章32節『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう』。『地上から上げられる』というのは十字架の事です。主の十字架が、すべての人を主に引き寄せると言うのです。

 生きている間には、出来れば出会いたくないと思うような出来事にも、遭遇しなければなりません。それを傍観者的評論家的に眺めれば、マイナスの出来事はマイナスのままになってしまいます。ところがこんな私に、この出来事を通して、何を知らせようとされるのかと、当事者的に耳を傾けますと、起こされた出来事が、マイナスからプラスに転ずるのです。今日の福音書の中で、イエス様はおっしゃられています。ヨハネ12章24節『はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』。マイナスの出来事が、起こらないに越した事はありません。でも、起こされるのが現実です。ですから、起こされない事を願う以上に、起こされた後をどう生かされるのか、そこが問われているのです。

 罪を犯さないのに越したことはありません。でも人間は必ず罪を犯す罪人なのです。今日の詩編51編7節は言います。『わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです』。ですから、罪を犯さないように願う以上に、罪を犯した時にどうするのか、それを祈り願います。そして改めてイエス様の声が響きます。『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう』。