からし種 384号 2021年5月

主の復活日

『そこでお目にかかれる』マルコ16:1-8

 今日は主の復活日です。それは、もう少し細かい事を言えば、イエス様が復活されたと知らされた日の事です。と申しますのも、実際にどの段階でイエス様が甦られたのか、定かではないからです。金曜日の午後3時頃に十字架上で死んで、日没までの間に、十字架上から降ろされて、岩を掘って作った墓の中に納められました。そして墓の入り口には石が転がされて蓋をされたと言う事です。とにかくここまでの作業は、日没前までにしなければならなかった。ユダヤの一日の数え方では、今で言う金曜日の日没から土曜日に入ります。午後6時前後になりましょうか。そしてここから、いわゆる安息日になります。人々は一切の労働行為を、中止しなければなりませんでした。そして24時間後の、今で言う、土曜日の日没から安息日が明けて、日曜日に入ります。更にそこから12時間後の、大体日曜日の午前6時前後には夜が明けて、人々はその日の活動を始めます。今日の福音書はその時の事を、次のように記しています。マルコ16章2節『そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った』。ですから、繰り返しますが、今で言う金曜日の午後6時頃から、日曜日の午前6時頃の、およそ36時間の間は、イエス様は墓の中に置かれていて、墓の中の様子は、誰も見る事は出来なかった。その36時間の間に、イエス様は甦った。今で言う、土曜日の間なのか、日曜日の午前6時以前までの間なのか、これらの二つの曜日の可能性があった。特に安息日の土曜日の間としますと、まさにイエス様は安息日の律法を打ち破るように、墓石をとり動かされて甦られたことになります。これまでのイエス様の活動を、まさに象徴するようです。そして日曜日の朝に、甦られたという復活が、知らされた。こんなふうに実際の甦りの出来事を、時間を追って想像致しますと、イエス様の復活が興味本位に、ただ単に死んだ人が生き返ったという事ではなくて、何か、より広く奥行きのある出来事のように示されるのです。つまり復活は、点ではなく、線なのです。

 先程の『墓に行った』のは三人の女性たちでした。金曜日の日没前に、慌ただしく遺体のイエス様は墓に入れられたわけです。葬りの習慣としての、香料の油を遺体に塗る事が出来なかったのと、また周りの目を憚ったのでしょうか。こうして日曜日の朝早くに、彼女らは墓までやって来た。男の弟子たちは逃げ去っていました。しかし女性たちは逃げずにいた。そして世界で最初に、イエス様の復活を知らされた人間となったのです。今の私たちは、そんなふうに名誉ある事だと見てしまいますが、この時の当事者たちにとっては、それどころではなかったでしょう。実際、今日の聖書の最後の所では、次のように記されてあります。マルコ16章8節『婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである』。とっくの昔に逃げ去った、男の弟子たちよりは、墓まで来ているので、ましと言えばましですが、それでも結局、女性たちも逃げ去ってしまった。輝かしいイエス様の復活という出来事とは対照的に、男性も女性も全ての弟子たちは、逃げ去ってしまった。世界で最初の復活の出来事は、実は人間にとっては、最大の破れだけが残される、不名誉な日だったのです。しかし今日のこのマルコ福音書16章8節は、単にみんな逃げ去ってしまった、はい、終わり、というのではなく、むしろ余韻が残されているようにも思うのです。つまり、この出来事に対して人間は、これからどのように応答していくのか、ということです。

 婦人たちは墓の中で、天使のような若者の登場に驚きつつ、その若者から次の言葉も聞いていたはずです。マルコ16章7節『さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる、と』。婦人たちは『行って、弟子たちとペトロに告げなさい』と、言われました。しかし『だれにも何も言わなかった』という。果たしてそうだっただろうか。ここに余韻を感じさせられるのです。本当に誰にも言わなければ、キリストの教会も無かったかも知れない。しかし実際、こうしてキリストの教会は建てられ続けている。婦人たちは、この後、それぞれに相応しい形で、告げ知らせる者へと創り変えられて行ったのではないか。ここに余韻が示されるのです。

 そこで『告げなさい』と言われた若者の言葉を見て行きます。まず注目させられるのは、『弟子たちとペトロに』という言葉です。弟子たちとは、逃げ去った男の弟子たちでしょう。もちろんペトロもその一人です。この時の彼らの心境は、どんな思いだったでしょうか。イエス様を言わば見捨ててしまったような状況にあった。いやむしろ、あれだけ信頼していたイエス様が、あえなく十字架上で死んでしまった。むしろ裏切られたのは自分たち弟子たちなんだ、ということでしょうか。いずれにしても今は、自分の身の安全を考えなければならない、絶望的な状況だったでしょう。そんな彼らからも、余韻が示されるのです。この後彼らが、それぞれに相応しく『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』という言葉を、聞かされたとしたらどうだろうか。怒りの裁きに曝されてもおかしくない、破れと絶望の淵にある、こんな自分たちに向けて『かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』とおっしゃられている。彼らはここに、イエス様の赦しの愛を示されて行ったのではないだろうか。特にペトロはそれを、強く受け止めさせられて行ったのではないだろうか。

 『かねて言われたとおり』という『かねて』とは、マルコ14章28節にあるイエス様の言葉です。この場面では、弟子たちがこれから、イエス様につまずくことを予告されたところです。ところがペトロは『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と言い切ったのです。しかし予告通りペトロはつまずいた。ペトロにとっては『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』という言葉は、自分の破れを思い起こさせるものだ。と同時に、そんな自分を優しく包んでくれる、イエス様の赦しの愛を感じずにはいられないのではないか。

 この後きっと、弟子たちはそれぞれにガリラヤに行くのだろう。そしてここにも余韻が、三通り示される。一つ目は、『いつ』行くのか。それもそれぞれに相応しい時が備えられているのだろう。二つ目、ガリラヤとは何を意味するのか。もちろん当時の弟子たちは、ガリラヤ出身者が多かった。そしてイエス様ご自身もガリラヤで育ち、ガリラヤを宣教活動の出発点とした。であるならば多くの弟子たちも、実際にガリラヤの地に行くのだろう。同時に失敗を踏まえて、もう一度原点に立ち返るように促されるのではないか。それが彼らのガリラヤだ。更にペトロは『かねて言われた』イエス様の言葉に立ち返る事が、ガリラヤが指し示すもう一つの意味なのではないか。それは、全ての弟子たちにとっても、イエス様の言葉、聖書の言葉に立ち返るように促される、それがガリラヤではないのか。そして最後に三つ目、『そこでお目にかかれる』という言葉の意味は何か。言葉通り、復活のイエス様に出会うという事だろう。しかしここで『お目にかかれる』と訳された言葉に注目させられます。ギリシア語の『ホロー』と発音する言葉が使われている。ギリシア語には『見る』と訳される言葉には、もう一つ『ブレポー』と発音する言葉があります。こちらはどちらかと言えば、『一見する』というその時だけの行為になります。ところが『ホロー』はどちらかと言えば継続的で、洞察能力を含む、言わば『見た結果、知るようになる、分かるようになる』という言葉です。ですから、ただ単に復活されたイエス様を見る、という事ではなくて、もしかしたら視覚的には見ないままだとしても、復活されたイエス様を知るようになる、分かるようになる、これが今日聖書が言う『お目にかかれる』という意味なのではないか。

 私たちも、いつ、どのようなガリラヤによって、復活のイエス様に『お目にかかれる』ことになっているのでしょうか。それはそれぞれに相応しく、備えられている、出会いや出来事を通して、示されて行くのでしょう。そうして最早、恐れや不安の無い本当の生き方へと、導かれて行くのではないか。キリストの教会に感謝。

復活節第3主日

『心の目を開いて』ルカ24:36-48

 今年は4月4日がイエス様の復活を記念するイースターでした。そして復活されたイエス様の事が、当時の人々に、どんなふうに知らされて行ったのか、先週はヨハネ福音書から聞いてまいりました。そして今週もルカ福音書から聞いてまいります。

 今日、与えられておりますルカ福音書は、24章36節からですが、少し前に戻って、ルカ24章4節以下からまず見てまいります。婦人たちが、二人の天使らしき人物たちから、イエス様の復活の事を知らされた経緯が記されてあります。このやり取りは、次のようでした。ルカ24章5-9節『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた』。この場面では、婦人たちは、復活されたイエス様を見たとか、復活されたイエス様が現されたとか、そういう事は記されてありません。その代わりと申しますか、この場面で注目させられるのは、次の言葉です。『婦人たちはイエスの言葉を思い出した』。婦人たちは、この後、『ほかの人皆に一部始終を知らせた』という事です。そしてそれを促したのは『イエスの言葉を思い出した』からだと示されるのです。復活のイエス様を見たから、とは聖書は記していない。ですから、世界で最初の、イエス様の復活の証人は『イエスの言葉を思い出した』者たちから始まっているんです。この時の婦人たちが、イエス様の復活をどこまで信じていたのか、それは分かりません。そういう、いわゆる信仰の度合は、ここでは問われていないんです。ただイエス様の言葉を思い出した者が、その言葉に促されて、動かされて、復活の証人とさせられて行ったのです。

 その婦人たちからの証言を、聞いた人間たちの反応はどうだったのか。それを聖書は次のように伝えています。ルカ24章11節『・・この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった』。婦人たちの証言の姿勢に、何か問題があったのでしょうか。たわ言のように思わせない、もっと真剣な力強い、復活信仰のようなものがあったら良かったのでしょうか。それとも、たわ言のように思ってしまう、その人間の問題なのでしょうか。婦人たちが言うことだから、で済ましていたんでしょうか。その人の先入観、常識、理性、経験、理屈、そういうものが、復活をたわ言にしてしまったのでしょうか。でも、それは誰も批判できません。婦人たちの事も、信仰が薄いとかなんとか、そんなふうにも批判は出来ません。ただ、こんな状況の中にあっても、それでも婦人たちの言葉に動かされた人間がいるんです。聖書は伝えます。ルカ24章12節『しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った』。ペトロは、復活までは信じないにしても、とりあえず墓の中に遺体が無いという、婦人たちの証言を確認したかったのでしょうか。ほとんどが、たわ言だと言っていたのに、ペトロだけは、とりあえず動かされた。それは何だったのか。それでも婦人たちの証言に圧倒されたのだろうか。それともペトロの個人的な、イエス様を裏切ったという負い目が、このような行動に走らせたのだろうか。どんなにか弱く、たわ言のような証言であっても、それに動かされる人間が、たとえ一人でもいると、聖書は伝えるようです。

 そして次のルカ24章13節以下の場面では、とうとう復活のイエス様が現わされるのです。新共同訳聖書では『エマオで現れる』という小見出しが付けられてあります。会衆の皆さんから、礼拝堂正面に向かって左側の絵を御覧ください。十字架上に死んでしまったイエス様に落胆して、エルサレムから自分たちの村、エマオに帰る途中の二人の人間と、そこに現されたイエス様が描かれています。聖書は言います。ルカ24章16節『しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった』。先週の教会学校のイースター礼拝では、この箇所から聖書の言葉を聞きました。ある女の子が、この絵を見て『だって、あんなに近くにイエス様が来ているのに、何でイエス様だと分からないの。おかしいよ』と言っていました。子どもらしい、率直な感想です。大人は色々と、余計な知識があり過ぎて、素直に認められないこともあるのでしょう。絶対にここにいるはずがないと、頑固に思い込んでいると、本人がそこにいるのに、せいぜい他人の空似、ぐらいにしか思えない事もあります。そういう事も含めて、聖書は『二人の目は遮られていて』と言うのでしょう。いずれにしても、人間の状況によっては、目で見えるものでも、そんなに確かなものにならないのかなあと考えさせられます。そしてまた、そうは言っても、このような一つの、人間の出会いの出来事のようなものも、あるいは何気ない、当たり前のような出来事であっても、それぞれが大切なんだと示されます。どんなにその時は、意識していなくとも、見えていなくとも、確かにイエス様に出会っている。それがまた後で分かったとしても、そのことが復活のイエス様を証言する、復活の証人として導かれて行くことになるのです。そしてそれを強く促すものは、やっぱりイエス様の言葉なのです。初めて出会った人物から、思いもよらない聖書の言葉を聞きつつ、語り合い、ひいては食事を共にして行く中で、そうやって長いプロセスを経て、イエス様を知る事が出来るようになった。そんな人間たちは、もはや肉の目で、復活のイエス様を確かめる必要は無くなったのです。そうやって彼らもまた、復活のイエス様の証人とさせられて行ったのです。聖書は記しています。ルカ24章35節『二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した』。彼らにとっては、長い時間が掛かったとしても、『道で起こったことや、パンを裂いてくださった』という出会いや出来事が、彼らを証人とさせて行くのです。

 今日の福音書は、そんな二人から、イエス様の復活を知らされた、十一人の弟子たちの所に、復活のイエス様が現された場面です。実は今日の教会学校の礼拝で与えられた聖書の箇所も、同じ箇所でした。ここでも弟子たちが、復活のイエス様の証人とさせられて行く、大切なプロセスを見るのですが、最初は相変わらず信じられない弟子たちでした。今朝も、教会学校の子どもたちから『まだ、信じられないの』とあきれ切った声が聞こえました。そんな、恐れおののき、亡霊を見ていると思っていた弟子たちに、復活のイエス様は『手と足をお見せになった』という。それでも『不思議がっているので』イエス様は、焼いた魚を『彼らの前で食べられた』という。一つ一つ丁寧に、彼らの恐れや疑問や確信を持てないでいる様子に、時には叱責をされながらも、イエス様は寄り添い続けて下さっているのです。それは今の私たちの日常でも、起こされ得るのだと示されるのです。そして最後はやっぱり、聖書の言葉を語られるのです。その時に『彼らの心の目を開いて』語られた。復活のイエス様が、彼らの心の目を開くのです。彼らが自ら産み出す、神通力のようなものではありません。そしてイエス様は、どのようにして心の目を開いて下さるのでしょうか。それが、今まで聖書から聞いて来たように、一人二人の人間の証言から、二人、三人と、イエス様の言葉に促されて、それぞれが既に復活のイエス様の証人とさせられて行った。そして今まさに、十一人の弟子たちへと、証言が語り継がれて行く。このプロセスの中に、既に心の目を開く、イエス様の力が働かれている。

 キリスト者とは、人々の模範となるように、清く正しく生きる者であると思うこともあります。しかし決して間違ってはならないものがあります。清く正しく生きるにしても、その主体は、復活のイエス様です。だからキリスト者は、復活のイエス様の証人とさせられて行く者です。そしてその証人が証言するものは、次の通りです。ルカ24章46-47節『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。

 キリストの教会によって、これからも、良いことも悪いことも含めて、たくさんの出会いや出来事を通して、心の目を開いて下さい。そうやって、復活のイエス様の証人とさせて下さい。