からし種 385号 2021年6月

復活節第6主日

『わたしの掟』ヨハネ15:9-17

 先週の礼拝では、今日の福音書の直ぐ前のヨハネ15章1-8節から聞きました。特に5節の『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である』という譬えのように、私たちはイエス様につなげられ、豊かに実を結ぶように生かされていると示されました。そして『豊かに実を結ぶ』とは、具体的に何を意味するのだろうか。それは、与えられた命と賜物が、与えられているように見える形で、現わされる事だと聞きました。スポーツ、芸術、学問、経済等、様々な分野で私たちは活動しています。それが実を結んでいる姿になります。ただしここで忘れてはならないのは、イエス様につなげられているから、実を結ぶのです。ですから実を結ぶ自分を誇る事は、見当違いになります。しかも実を結んだかどうかは、自分が決める事ではありません。イエス様が決める事です。もし何かを誇るとしたら、それはイエス様のみです。もっと言えば、イエス・キリストの神のみです。

 更にここで、もっと根本的な原則があります。『つなげられているから実を結ぶ』事が出来るわけですが、ではイエス様と私が『つなげられている』事は、どのようにして果たされるのでしょうか。そのために私が何かをしなければならないんでしょうか。そこで今日の福音書は冒頭で、次のように言います。ヨハネ15章9節『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい』。ここでイエス様は『わたしの愛にとどまりなさい』とおっしゃられています。ここは先週も触れましたが『わたしの愛につながっていなさい』とも訳せる、同じギリシア語が使われています。いずれにしても、もし私が何かをするとしたら、ただひたすら、イエス様の愛にとどまっている、あるいは、つながっている事です。

 今日の第二日課は、第一ヨハネ5章1節以下からです。そこでもう一度先週の第二日課を振り返ります。今日の箇所の直ぐ前になります。第一ヨハネ4章7-21節からでした。その4章9-10節は次のように記します。この箇所に、私たちがとどまっている、あるいはつながっている、イエス様の愛が記されているからです。即ち『神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります』。父なる神様が、相変わらず神様に背を向け続ける、私たち人間の内に、ただ一方的に、独り子なるイエス様を送って下さいました。私たちはこれをクリスマスと呼んでいます。更にその独り子なるイエス様が、わたしたちの罪を償ういけにえとされた。私たちはこれを、イエス様の十字架の死と呼んでいます。そして死んで復活されました。私たちはこれをイースターと呼んでいます。クリスマス、十字架の死、そしてイースター、ここに父なる神様とイエス・キリストの愛が示されている。相変わらず神様に背を向け続ける人間を、こうしてただ一方的に赦して下さる愛です。この愛を信じて、だからこの愛にとどまって、豊かに実を結んで、イエス・キリストの神を誇る。更にはそんな私たちを通して、人々がイエス・キリストの愛を知るようになる。ここに本当の、人間の生き方が示されている。そして本当の喜びが、ここにあると言うのです。イエス様は言います。ヨハネ15章11節『これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである』。

 そして今日イエス様は、改めて強調します。ヨハネ15章12節『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である』。イエス・キリストの神の赦しの愛にとどまるものは、当然、『互いに愛し合う』ものだと言う。今日の第二日課の、第一ヨハネ5章1節は言います。『イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します』。ですから『これがわたしの掟である』とまで、イエス様は言い切っています。『掟』と訳されている言葉はギリシア語で『エントレー』と発音します。これは『命令』とも訳します。単なる教えや勧めではないのです。『命令』なんです。ですから、言わば、主人が僕に命令するように、有無を言わせないものなのです。反論や言い訳が利かないものなのです。あるいは時と場合によっては、解釈が違ってもいいような、相対的なものでも無い。絶対なんです。ただ黙って、受け入れるだけのものなのです。ここまであのイエス様が強調されるのか、と思ってしまう程です。英語の聖書では『掟』は『Commands』と訳されています。ちなみに旧約にある十戒の事を英語では『the Ten Commandments』と訳しています。

 ところが更に驚くべき言葉を、イエス様はここで語られます。『これがわたしの掟である』と、主人が僕に向かって命令するような言葉を、友に向かって語ると言うのです。ヨハネ15章15節『もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである』。主人が僕に命令するのは自然な事です。どんなにその命令が、矛盾しているとしても、僕にその内容をとやかく言う権利はありません。ところがイエス様は、人間である私たちを友として、その上で命令されるのです。これを私たちは、どのように受け留めるでしょうか。命令ですから、絶対です。変更の余地はありません。それ程にその命令には、イエス様の絶大なる確信と究極の正しさが込められていると、受け留めざるを得ません。しかし一方で、こんな私たちを友と呼んで下さる。そこには、あの僕のように、訳も分からず無責任に、あるいはロボットのように受け留める必要のない、自由と愛と信頼とを感じさせられます。ですから、次のような祈りの会話も、赦されていると信じます。『分かりますイエス様。互いに愛し合う事は絶対です。でも相手のあの態度に腹を立てたり、あの言葉が、どうしても赦せないんです。そうやってどこまでも、自己正当化してしまう自分がいます。掟破りの自分です。それでもあなたは、こんな私を友と呼んで下さいますね。ですからあなたの掟にしがみついて行きます』。

 ぶどうの木に譬えられるイエス様と私たちの姿から、一つの聖書箇所を先週、引用させていただきました。1コリント12章27節『あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』。教会はキリストの体であると言います。そして今日、戸塚ルーテル教会は定期会員総会を開きます。こうしてこの戸塚の地にも、イエス・キリストの愛が現わされてまいりますように、祈りを併せて、掟を守ってまいります。

三位一体主日

『新たに生まれる』ヨハネ3:1-17

 先週は聖霊降臨日の主日でした。聖なる霊を受けて、新たに造り変えられた人間たちの群れが、世界で初めて誕生した事を記念しました。そしてその群れを、今や私たちはキリストの教会と呼んでいます。そして、父なる神と、子なるイエス・キリスト、そして聖霊という三者のそろい踏みによって、キリストの教会が建て上げられ続けている事を記念して、本日を三位一体主日と呼んでいます。今『新たに造り変えられた人間たちの群れ』と申し上げましたが、これは言わば『新たに生まれる人間たちの群れ』とも呼べるでしょう。そこで今日は、聖なる霊を受けて『新たに生まれる』という事を、聖書から聞いてみたいと思います。

 そこでまず、今日の福音書の直ぐ前の所にある言葉に、注目させられます。新共同訳聖書では『イエスは人間の心を知っておられる』と、小見出しが付けられている所です。ヨハネ2章23-25節『・・そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである』。ここの人間の心の中にあるものとは、一体、何でしょうか。

 そこから今日の福音書は、一人の人間を登場させます。その人間を通して『人間の心の中にあるもの』を探ってまいります。その人間は『ファリサイ派に属する、ニコデモという人』です。ファリサイ派とはユダヤ教の一派です。神の律法に極力、忠実であろうと努める人々です。言わば、いわゆる信仰熱心な人たちです。信仰上のかっちりとした筋書きを持っているのでしょう。ですから、信仰にまつわる事柄には、余計に関心を持っているのでしょう。ニコデモも、既にイエス様に出会って、イエス様のなさったしるし、即ち、奇跡の業に直接触れていたのか、あるいはその噂を聞いていたのかも知れません。しかし一方で、イエス様にまつわる、こんな出来事も広まっていました。ヨハネ2章15節以下の所です。宗教行事として必要不可欠な、牛や羊や鳩を売っている人たちや、両替商の人たちを、神殿の境内から、イエス様が追い出したという。ニコデモにして見れば、あれだけの奇跡の業をなさる人だから、神のもとから来られた教師だとは思いたい。がしかし神殿の事で、一抹の疑問も抱えていた。そこで直接会って、確認したいと思ったのでしょうか。

 いずれにしても、ニコデモがイエス様の事を『神のもとから来られた教師』だと思ったのは、奇跡の業を行ったからだということです。これはニコデモに限らないことも、聖書は既に伝えています。冒頭で引用しましたヨハネ2章23節で、イエス様の奇跡の業を見て『多くの人がイエスの名を信じた』とありました。この『なになにだから、なになにだ』というような、断定した決めつけ方に、イエス様は問題を感じられたのではないでしょうか。確かに私たち人間は、経験や理屈や筋書きによって、物事を評価し、更には断定します。もっと他の見方もあるのではないかと、思う場合もあるかも知れない。けれども、ほとんどは、経験や理屈や筋書きによって、他の見方はかき消されてしまいます。そんなニコデモや人間たちの在り様を、浮き彫りにさせるかのようにして、イエス様はニコデモに答えます。ヨハネ3章3節『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』。『経験や理屈や筋書き』を吹き飛ばすような勢いを、この『新たに生まれなければ』という言葉のうちに感じさせられます。この後の、ニコデモとイエス様との会話が、非常に興味深いのです。

 まずニコデモはイエス様の答えを聞いて言いました。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』。この問いを、ニコデモはどこまで本気で発したのか、いささか疑問です。半分、揶揄して尋ねているようにも聞こえます。いずれにしましても、『新たに生まれる』ことを、見事に『経験や理屈や筋書き』によって、とらえようとしています。ところがイエス様は『新たに生まれる』とは、『水と霊とによって生まれる』ことだとおっしゃられました。これは多分に、ご自分の『聖霊による洗礼』を想定された言葉です。ヨルダン川でバプテスマのヨハネと共に、水に沈んで起き上がった時、天から霊が鳩のようにご自分の上に降って来た事を、福音書は伝えています。これがイエス様の聖霊による洗礼です。そしてキリストの教会はこれを受け継いで、今もイエス・キリストのお名前によって、水を注いで、聖霊の洗礼を行って来ております。

 更にイエス様はこの時、水と霊とによって、新たに生まれた者のことを次のように表現されています。ヨハネ3章8節『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである』。『それがどこから来て、どこへ行くかを知らない』という状況は、特に『経験や理屈や筋書き』によって物事を断定する者にとっては、とても不愉快な状況でしょう。ですからニコデモもこれについて、次のように言いました。『どうして、そんなことがありえましょうか』。『霊から生まれた者』すなわち『新たに生まれる』者は、『経験や理屈や筋書き』は持っているにしても、そこから物事を判断しつつ、断定はしない。自分の判断を絶対化しない。こんな見方もあるかも知れない。あの人の立場に立てば、そういう判断もあり得るかも知れない。自分は言わば、相対的なものに過ぎない。絶対者はただお一人。父なる神様だ。その見えない神様の御心を、見えるようにして下さるのがイエス・キリストの言葉だ。その言葉を聞いて、聖霊によって、私の内に働く。だから私は自分のものを絶対化しない。人間を超える、絶対なるものに従って行く。ここに三位一体の神様の働きと導きが見えて来る。

 先週5月28日金曜日の日経新聞朝刊からですが、一面の『春秋』というコラムに次のような記事が掲載されてありました。所々引用します。『・・公開中の映画、ファーザー、は、認知症になったひとりの老紳士の目から、世界はどのように見えているかを描く。・・映画を見ていてふと、人間味あるケアを説く三好春樹さんの介護論を思い出した。認知症とは、老化に伴う人間的変化、である。こうした人たちと接する際には、自分たちと違う世界を、異常としてではなくて、異文化としてとらえようとする。こちらは正常で相手が異常と決めつけず、当たり前を疑って相対化する。これはあらゆる共生に通じる態度にもなる』。何か『霊から生まれた者』すなわち『新たに生まれる』者の生き方が、いや、生かされ方が、ここにも示されているように思うのです。

 そして更に、失敗する者や罪深い者に対しても『経験や理屈や筋書き』によって断定する者には、もはや立ち直りが不可能な者に映ります。がしかし『霊から生まれた者』すなわち『新たに生まれる』者にとっては、たとえ相変わらず失敗や罪が繰り返されるとしても、そこが結果結論にはならない。そうではなく、更に用意されている次のステージへと、たち向かう力が与えられて行くのです。今日の福音書の最後の所で、聖書は次のように語るからです。ヨハネ3章16-17節『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』。