からし種 386号 2021年7月

聖霊降臨後第2主日

『聖霊を冒瀆する』マルコ3:20-35

 まず今日の福音書の冒頭に『イエスが家に帰られると』とあります。そしてこの家に、身内の人たちが、イエス様を取り押さえに来たと、この後に記されてあります。ですので、イエス様がお育ちになった、ナザレの家ではなさそうです。そうしますと、マルコ1章29節に、弟子となったシモンとアンデレの家に行ったという事が記されてあります。どうもイエス様は、ガリラヤ地方にいる間は、このシモンとアンデレの家を拠点にされておられたことが想像されます。今日の場面も、このシモンとアンデレの家だったのでしょう。その家に、身内の者たちが、イエス様を取り押さえに来た。イエス様が『気が変になっている』との噂を聞いたからです。よその家にいて、迷惑をかけていたら、身内として放っておけないという事でしょう。イエスの帰るべき家は、こんなよその人の家ではない。身内が住む家に帰るべきなのです。人間的肉的な血のつながりを大切にする身内の家です。しかし身内とは何か。帰る家とはどこか。そして人間的肉的な身内もあれば、そうではない身内もあるだろう。イエス様についても、肉によればナザレの大工の息子だ。そして、そうではないイエス様もある。そんな問いかけを、聖書からまず聞かされるのです。

 今、そうではないイエス様、つまり肉的ではないイエス様もある、と申し上げました。そんなイエス様に出会う時、人々は何と言うのだろうか。今日の聖書の中の人々は『気が変になっている』というのです。何故そんなふうに思われたのか。聖書によれば、ある時、突然、ナザレの家と身内を捨てて、あちらこちらを放浪し始めた。言わば、職業放棄、家族放棄です。今までのイエス様からすれば、考えられない事だった。特に身内の家族は、強くそう思ったでしょう。それから神の国の福音宣教だと言って、昔から行き渡っているユダヤ教の教えを、無視するような振舞いをした。そうやって、律法学者と衝突し、自分があたかもメシアであるように匂わせている。これは神様を冒瀆することだ。更には普通の人間には出来ないような奇跡の業を行って、人々を惑わそうとしている。

 そんな尋常ではないイエス様に対して下された結論は『あの男はべルゼブルに取りつかれている』というものでした。図らずも『ベルゼブル』という言葉の意味は、『家の主人』というものです。旧約の時代から、悪霊の頭として、宗教的に批判されて来たものです。そして新約の時代には、特に『下界の主』とも呼ばれていたそうです。すなわち、地上を俳諧する、悪しき権力者というものでしょう。そういう意味では、霊とは言っても結局、肉的な存在とも言えるでしょう。人間イエス様に直面した当時のユダヤの人々にとっては、そのイエス様をいわゆる天的な存在として、受け入れる事は困難だったでしょう。ですから、いくら悪霊払いのような奇跡の業を行うとしても、徹底的に肉的な存在であり、せいぜい『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と、言わざるを得なかったのでしょう。

 それに対してイエス様は、たとえを用いて語られました。このたとえの中で、同じような言葉が三回も出てまいります。ですから、これはキーワードにもなります。それは次の三つです。24節『国が内輪で争えば』、25節『家が内輪で争えば』、26節『サタンが内輪もめして争えば』。三者に共通するのは『内輪もめ』なんです。いくら、一時的には、争いの決着がついたかのように見えても、結局は、内輪争いは絶えないというのです。『悪が悪を追い出し』たら、また、もっと強力な悪がやって来るかも知れない。あるいは『肉が肉を追い出す』だけで、肉を超える正義は、肉からは起こらない。人間の歴史がそれを証明しているのでは。

 そこでイエス様は最後のたとえで、家を略奪する話をされます。ご自分の事を『ベルゼブル・家の主人』に譬えられた事を逆手に取って、それを皮肉られるようです。ご自分の事を、家を略奪する者に譬えられて、そのために『まず強い人を縛り上げなければ』ならないとおっしゃられます。ここは『縛り上げる』という言葉に、注目させられます。内輪の関係を、断ち切るような、勢いを感じさせられるからです。『悪が悪を追い出した』とか、『肉が肉を追い出す』とか申し上げましたが、ここでイエス様は、『絶対的善が悪を追い出した』あるいは『聖なる霊が肉を追い出す』とおっしゃられるようです。でなければ、争いの決着は何もつかないと言うようなのです。

 そしてまた注目すべき言葉を投げかけられます。マルコ3章28-29節『はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』。ここでイエス様は『聖霊を冒瀆する』と言われています。『聖なる霊』であって『肉的な霊』と区別されます。その前に『人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される』とおっしゃられていますが、人の子即ち人間は、全て罪を犯す者であり、冒瀆することも多々ある者です。だから主イエス・キリストの神様は、そんな人間のために十字架に掛かられ、救いという罪の赦しを完成されるのです。『人間のやる事は分かっているよ。罪にまみれた者たちだからね。だからこそ、そんな人間を救うために動くんだよ』。その罪の赦しとは、父なる神様との関係の、完全回復です。それを保証するのが、聖霊による働きです。その聖霊の働きについては、先週、先々週と、聖書から聞いてまいりました。今やキリストの教会を通して、キリストのみ名による洗礼によって、聖霊を受けて、主イエス・キリストの神との関係が、回復されるのです。真の神様との絆が、もう一度つなげられるのです。それが罪の赦しであり、救いなのです。

 しかし、その『聖霊を冒瀆する』事は、神様との関係の回復を、拒絶することになってしまいます。ですから罪の赦しが、成り立たないのです。それでイエス様は『聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』とおっしゃられるのです。いずれにしても、真の神様との関係の回復を、真剣に問う事から始めなければなりません。少なくとも、内輪もめをしている限りは、即ち、肉的なもので肉の解決を図っている限りは、それは不可能です。肉的なものを超えたものとの、出会いがまず大切なのです。

 今日の福音書の箇所は、身内の登場から始まって、身内の登場で終わっています。それはあたかも、肉的なもので、優しく包み込まれてしまうかのようです。身内が一番信用出来て、心赦して何でも言える存在だからです。今日の第一日課は創世記3章8-15節です。人類最初の堕罪を扱うところです。アダムが罪を犯すきっかけを作ったのは、身内であるエヴァでした。身内が罪を犯させたのです。イエス様は、その肉的なものを超える大切なものを指し示すかのように、次のようにおっしゃられます。マルコ3章34-35節『周りに座っている人々を見回して言われた。見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』。キリストの教会に感謝します。

聖霊降臨後第3主日

『多くのたとえで』マルコ4:26-34

 今日の福音書の箇所はまず、神の国のたとえが二つ、語られている所からです。イエス様は今日の箇所も含めまして、他の聖書の箇所の中でも、よくたとえを語られています。そして、そんなふうにたとえをよく用いて語られるイエス様について、今日の福音書の箇所の最後の所では、次のように記されております。新共同訳では『たとえを用いて語る』という小見出しが付けられてあります。『イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された』。ここで『人々の聞く力に応じて』とか『御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された』とか、ここのところは少し気になるところです。何故、そんなふうにたとえを語られるのか、その辺の理由も、聖書は伝えています。

 今日の福音書の直ぐ前の所です。マルコ4章10-12節のところでありますが、まさに『たとえを用いて話す理由』という小見出しが付けられてあります。この箇所の直ぐ前の所では『種を蒔く人のたとえ』という小見出しが付けられてありますが、このたとえを聞いた弟子たちが、その『たとえについて尋ねた』という。それで、イエス様が答えられました。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される』。ここの『あなたがた』というのは、いわゆる十二弟子を始めとする、イエス様に従う弟子たちの事でありましょう。そして『外の人々』というのは、それ以外の人々の事であります。更にその『外の人々』というのは、どういう状態の人々なのかを、旧約のイザヤ書6章9-10節を引用して示すのです。即ち『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』。

 これは、認識能力が乏しいとか、理解力が乏しい、という事を言っているわけではありません。聖書は『神の国・神の支配』を問題としています。もっと言えば、『神と私』との関係を問題としています。それは私にとっての生き方の問題になります。そのために、神の言葉がたとえを通して語られる。ですから、そのたとえを聞くとしても、それを『自分に向けられた言葉として受け取る』ことが出来ない人々のことを、聖書は『外の人々』というのです。いわゆる『他人ごと』のように、傍観者のように聞いてしまう状態です。ですから『他人ごと』どころか、どんなに熱心にその聖書の言葉に向き合っているとしても、ただ自分の関心事が満たされ、そこに心地よさを感じているだけの状態である限りは、まだ『外の人々』のままなのでしょう。それは当事者のようとは言わない。そうは言っても『私の生き方』は、一生涯問われ続けるものでありましょう。ですから、弟子とは言っても、いつでも『外の人々』の状態になるのです。それ故に、神の言葉に聞き続けるのです。

 このマルコ福音書4章では、繰り返し『よく聞きなさい』とか『聞く耳のある者は聞きなさい』いう言葉が出てまいります。それは、聞くべき言葉が、必死で探し求めなくても、いつでも至る所で、語られているというのです。それはあたかもともし火が、周りがよく見えるためには当然のように、燭台の上に置かれている事と同じだと言うのです。私たちは必ず、神の言葉を聞く事の出来る状態に置かれている者だと言うのです。それは一方で、神の言葉という神の声が、むしろ何気なく見過ごしてしまいそうな、小さなものを通しても、呼びかけられ続けているからです。だから『何を聞いているかに注意しなさい』と、聖書は続けて言います。ある神学雑誌の中に、由来が不明の言い伝え文が紹介されてありました。『あるインディアン(ネイティブ・アメリカン)が大都会に住む一人の白人を訪ねた。外の喧騒のただ中で、彼が、近くでコオロギが鳴いているのが聞こえますよ、言い出した。思い違いだろう。こんなところにコオロギがいるものか。そのインディアンは二、三歩進んで、建物の壁にかかっていた野ブドウの葉っぱを押し分けた。するとそこには本当にコオロギがいた。インディアンはわれわれよりも耳がいいんだね、と白人が言うと、インディアンは、それこそ思い違いですよ、と答えて、一枚の硬貨を歩道に放り投げた。通りかかった人たちは皆、さっと振り向いた。ほらごらんなさい。問題は、何に聞き耳を立てているかということなのです』。

 今日の福音書にあるたとえの最初は、『成長する種のたとえ』となっております。神の国のたとえですが、これをどのように聞くのでしょうか。種を蒔くと芽が出て成長します。そこで聖書は言います。『どうしてそうなるのか、その人は知らない』。そうなんでしょうか。知らなくて正解なんでしょうか。生物学では、種の中の成長ホルモンが出て、細胞分裂を促して、発芽するとかなんとか、色々と解説が為されているのではないでしょうか。ですから、発芽現象に、何も驚くことは無い。当たり前の事ではないでしょうか。しかし、何でも、当たり前で済ましてしまいますと、喜びも感謝も生まれません。ところが当たり前では無いと思いますと、何気ない、どんなに小さな事にも、喜びと感謝とが湧き出てまいります。それから『土はひとりでに実を結ばせる』とあります。そうなんでしょうか。だって、私が種を蒔いて、私が肥料を上げて、私が水やりをして、私が日が当たるように工夫してあげたのです。『土はひとりでに』どころか、私が実を結ばせたのではないでしょうか。でも、肥料はどこからきたのか。水はどうしてあるのか。太陽は私が用意出来たものなのか。そうするとなんだか、私が実を結ばせたとは、言い切れなくなってしまいます。

 二つ目のたとえは『からし種のたとえ』となっております。やはり神の国のたとえです。からし種は、聖書の中では、最も小さなもののたとえに用いられます。そんなからし種も、蒔かれて成長して、その葉陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張るというのです。小さな種ですから、いずれにしても、成長するまでに時間がかかりそうです。とても待ってられない。成長するにしても、利用価値がある程のものになるのか、あまり期待出来ません。そんな快適、効率、便利な時代には、とても聞いてられないようなたとえです。そんな中で先週、一組の幼稚園入園希望の方が、見学に来られました。しばらく案内した後で『園長先生、私、卒園児なんです』と言うのです。『ああ、A子ちゃんか』と、思わず声を上げてしまいました。これまでにも何組かの、二代、三代にわたって、この附属幼稚園に入園された方々がおられます。親から子、そして孫へと、たとえ少なくても、この附属幼稚園に関わり続けて下さっている家族が、与えられ続けている。この教会の先人たちが受け継いで来られたものが、細々ではあっても、連綿と受け継がれ続けている。これから、どれだけ大きなものになるのかは、見ることは出来ない。でも今日のこのたとえによって、それが保証されていると確信します。

 キリストの教会によって、これからも神の声に聞き耳を立ててまいります。