からし種 387号 2021年8月

聖霊降臨後第6主日

『人々の不信仰』マルコ6:1-13

 先週と先々週の主日礼拝での説教題は、次のようでした。『まだ信じないのか』『ただ信じなさい』。そして本日は『人々の不信仰』。いわゆるキリスト信仰について、福音書から問われて来ております。先週と先々週の聖書から次のように聞きました。たとえ見捨てられてしまっていると思わざるを得ない、そんな状態に置かれているとしても、イエス様は、ちゃんと私のことを認めて下さっている。そんなイエス様を私は信じる。それから、信仰のためにと、時間や場所や、知識や熱心さとか、色々な条件を考えてしまいます。がしかし、キリスト信仰には条件は、無用であることも示されました。どんなに駄目な私でも、受け入れて下さるイエス様に、委ねるのみです。そして今日は、イエス様が『人々の不信仰に驚かれた』というのです。どんな不信仰なのか、その具体的な内容を聖書から聞いて行きます。

 イエス様の時代のユダヤの人々は、会堂と呼ばれる建物の中で、一週間の中の、七日目の安息日に、いわゆるユダヤ教の礼拝を守っておりました。そして律法の教師と呼ばれる人から、聖書の解き明かしを受けていました。今日の福音書の場面も、イエス様はその一人の律法の教師として、その日の安息日礼拝の、いわゆる説教者として招かれたわけです。そこはイエス様の故郷にある会堂でした。イエス様の教えを聞いた人々は、驚いて言いました。この『驚き』は、イエス様が人々の不信仰を驚いたという『驚き』とは異なるギリシア語が使われています。イエス様の振舞いや言葉に純粋に『びっくりする』という意味合いです。特に人々の驚きの前半の言葉が、それをよく表しています。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か』。実はこの状況と同じような場面を、マルコ福音書は既に記しております。マルコ1章21-22節『一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである』。この場面での『驚いた』という言葉も、今日の場面と全く同じ言葉が使われています。人々は純粋に驚いた。通常の律法学者の教えのパターンは、昔の有名な学者の言葉を引用しながら『この聖書の言葉は、何々先生がこう解釈されている。だから私たちもそれに倣いましょう』というものでした。ですから自分の言葉で、ではなく、借り物の言葉のようだったのです(どこかの国の指導者みたいです)。ところがイエス様は、まさにその聖書の言葉に生きている、そういう自分という所から、言葉を語られた。人々はその言葉に促され、動かされたのです。だから『権威ある者としてお教えになった』というのです。

 今日のナザレの人々も、最初はイエス様の言葉に動かされたんだと思うのです。ところが直ぐに人々は、次のように言いました。『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか』。ここから聖書は『このように、人々はイエスにつまずいた』と記しています。純粋なあの最初の驚きを、一気に曇らせられるような事態が起こったのです。故郷の彼らですから、余計にありありと、彼らだけが知り得るイエス様が、目に焼き付いてしまっていた。特に『マリアの息子で』という言葉は印象深いです。当時のユダヤでは、父親の名前を冠して『ヨセフの息子』というのが普通です。ここで母親のマリアを冠するのは、特別な感情が込められているようです。イエス様の誕生の次第は、ルカ福音書に詳しく描かれています。そこではイエス様は『聖霊によって乙女マリアより生まれた』となっています。しかし故郷の一部の人々の間では『マリアは不倫の子を宿した』という噂が広まっていた可能性も想像されます。『あの不倫をしたマリアの息子が』という声もあったのではないか。いずれにしても人々は、その向こうに示される、見なければならないものを見失なってしまった。もちろん最初は、たとえ一瞬でも、見えない向こうに示されるものが、見えたのかも知れない。しかし今や、そういうものは、全て遮断されてしまった。そのように、聖書は『人々はイエスにつまずいた』と言うのです。

 こんな故郷の人々の状況を見てイエス様は、当時、流行っていた格言のようなものを語られました。『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』。こ格言に該当するような昔の預言者で言いますと、エレミヤが思い浮かびます。彼は人々が聞きたくない、神の裁きの預言を託されます。語れば、人々から嫌われる。しかし彼は忖度しないで語り続け、人々からは疎まれることになるのです。預言者を通して語られる、神の言葉に人々は、耳をふさいだのです。今日の場面は、イエス様が語られる言葉の内容に、人々は不満を覚えるのではなかった。語っているイエス様に不満を覚えたのです。『何でお前のようなものが、そんな立派な口をきくんだ』。そんな人々の不信仰に、イエス様は驚かれた。この『驚き』は、敢えて別の表現をすれば『怪しむ・いぶかる・あきれる』という意味です。いわゆる預言の言葉の内容に感動しながら、それを取り次いでいる人間が気にくわないから、そんな預言はいらん、という。これにイエス様は『あきれた』。『あーあ、もったいないことだ』という声も聞こえてきそうです。

 しかしそんな故郷の人々の状態も、エレミヤの預言の言葉が拒絶された状況も、笑うことは出来ません。自分の筋書き通りに話してもらいたい。そうではないものは、素直に受け入れられない。あるいは、どうしても見た目や肩書によって、判断しようとしてしまう。そんな見るべきものが見られない、聞くべきものが聞かれない人間の状態を、不信仰と言うのです。そしてイエス様は、そんな人間たちに向けて宣教されるのです。そのために弟子たちをお用いになるのです。弟子たちは、自分も含めて、そんな人間たちの状態を覚悟しながら、宣教のために送り出されるのです。その時に、汚れた霊に対する権能が授けられます。汚れた霊は見えません。しかしそこに見えるものは、苦しむ人間です。あるいは敵対するような人間かも知れません。そんな人間たちに向き合うためには、愛が無ければ果たせません。しかし弟子たちには、愛が与えられています。それが汚れた霊に対する権能です。そして弟子たちの見た目は、持ち物は一本の杖だけで、履物一足と下着は一枚だけの、何と見すぼらしい姿でしょう。それで宣教の旅に出るのです。そんな弟子たちを、一体、誰が迎え入れてくれるでしょうか。しかし弟子たちは、それで宣教の旅に出た。見た目を恥じたら、あるいは持ち物を心配したら、旅に出られないかも知れません。あらゆる己の鎧を脱ぎ去って、拠り所とすべきものに拠り所を置いて旅に出る。その生き様をもって、悔い改めの宣教に送り出されるのです。

 そんな弟子たちの一人になった、初代教会の宣教者パウロが、今日の第二日課の少し前、2コリント10章10節で、自分に対する評判について、次のように書いています。『わたしのことを、手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない、と言う者たちがいるからです』。そして今日の箇所12章10節で、次のように告白しています。『それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです』。

 主よわたしたちも、キリストの教会によって、本当に見るべきもの、聞くべきものに、この身を委ねてまいります。そして宣教します。

聖霊降臨後第7主日

『客の手前』マルコ6:14-29

 今日の福音書の冒頭は『イエスの名が知れ渡った』という言葉から始まっております。その前の所で、福音書は十二人の弟子たちが、悔い改めの宣教のために派遣された事を記しております。イエス様ご自身による宣教の業によって、当初の活動拠点であるガリラヤ地方では、多くの人々の間に、イエス様のお名前が知れ渡っていた。更に弟子たちによる宣教によっても、益々、その名が知れ渡っていったのでしょう。そんな中で今日の福音書は、ヘロデ王の耳にも、イエス様の名前が知れ渡っていた事を伝えます。このヘロデ王は、当時のガリラヤ地方の領主として、ユダヤを植民支配する、ローマ皇帝から任命されていた者でした(cf.ルカ3:1)。後に、イエス様の十字架の出来事にも関わる人物です。

 人々の評判の中心は、結局、『イエスって何者なんだ』ということでした。その振る舞いや語られる言葉から、いわゆる神様のような権威ある力を感じさせられる。しかし見た目は人間だ。そうすると聖書の中で、いずれ登場すると預言されている、あの有名な預言者エリヤではないかとか、エリヤ以外の預言者だとか、そう言えば、このあいだ殺された、洗礼者ヨハネが生き返ったのではないかとか、そんな評判がたてられていた。ところが通常は立場上、そんな庶民の評判など、気にするはずのないヘロデだったと思われます。しかし今日の福音書は、次のように記します。マルコ6章16節『ところが、ヘロデはこれを聞いて、わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ、と言った』。自分が殺したヨハネが、生き返ったとあれば、これはただ事では済まないぞ、と思ったのかも知れません。ですから、庶民の評判に敏感になってしまった。しかしそれは、ただ単に、自分が殺した人が生き返った、という事からだけではない。殺したヘロデ自身が、実はヨハネに出会い、色々な教えを直接受けていた事を、聖書は伝えているからです。しかも出会ったきっかけは、ヘロデ自身による不品行の罪を、ヨハネから指摘された事からでした。更には、ヘロデはそんなヨハネを逮捕監禁したのです。そして興味深いことに、その逮捕監禁中に、ヘロデはヨハネから教えを受けていたというのです。聖書は次のように記します。マルコ6章20節『なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである』。

 このヨハネは洗礼者ヨハネと呼ばれる人物です。マルコ福音書の一番最初の1章に登場しています。聖書に預言されている通り、『罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた』。更にはイエス・キリストの到来を先触れし、イエス・キリストのお名前による洗礼を予告したのです。徹底的に人間の罪を浮き彫りにした。そして、その罪の赦しのために、自分ではなく、イエス・キリストを指し示し続けた。ヘロデに対しても、相手がどんなに権力を持とうとも、相手の罪を罪として指摘し続けた。自分の身にどんなに不利な事が起こされようとも、黙る事が無かった。案の定ヨハネは、ヘロデによって逮捕監禁された。がしかし、それでも黙らなかった。そこまで徹底するヨハネに、むしろヘロデは圧倒されてしまった。確かにヘロデは、不品行を行ってしまった。してはいけない事をしたのは、そんな事は自分でも分かる。しかしそれを指摘するヨハネから、単に、人間的な倫理道徳的尺度で裁かれるものではないものを、受け留めさせられたのではないか。単に品行方正に生きるのではない、本当の人間として生きる道のようなものまで、ヨハネの言葉から現わされたのではないか。その道は、もはや人間では敷くことの出来ない道なのではないか。そんな問まで起こさせられるぐらいになって行ったのではないか。

 そんなヨハネは預言者として、結局、素晴らしい能力のある人間だったからなのか。もちろん、そういう見解もあるかも知れない。しかし人間的な思惑に左右されず、そこまでヨハネ自身が徹底できる事もまた、そうさせるお方がおられるからではないか。イエス様の名が知れ渡った時に、既に殺されていたヨハネの事を、多くの人々が思い出しました。それはイエス様の振る舞いが、ヨハネを思い起こさせたということかも知れない。がしかし、実は既に、イエス様の神様によって、ヨハネが動かされていたのではないか。そういうヨハネは既に、キリストの教会を予表する者にさせられているのではないか。今日の第二日課のエフェソ書は、キリストの教会に連なる者について、著者のパウロは次のように告白しています。エフェソ1章3-5節『わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです』。ヨハネもまた天地創造の前に、この定められて選ばれた一人であったと示されます。

 このヨハネの生い立ちについては、ルカ福音書に詳しく記されてあります。彼は祭司の家系の長男として、しかも、子の誕生など不可能とも思われる、老夫婦の間に生まれました。両親や周りの期待を一身に受けて、成長させられて行ったのでしょう。彼の生育環境は、毎日、神の言葉に触れる者だったでしょう。そして祭司への道を、歩まされて行った事でしょう。しかし結局、彼は祭司にはならず、いわゆる在野の預言者になったのです。見た目からすれば、挫折であり破れに見えたでしょう。彼自身もそんな事を思ったかも知れません。しかしそれでも神の言葉が共にある環境の中にいた。天地創造の前から彼を捉える神様に導かれた。そしてイエス・キリストを指し示すものへと、用いられて行ったのだと想像します。そうやって、ヘロデが圧倒されるような、神の正しさを、その生き様を通して現すように、備えられて行ったのだと思うのです。

 そんなヨハネと対局を為すような人物に、今日の福音書から注目させられます。それはへロディアの娘です。聖書はその名前を記しておりません。ある歴史書では、サロメという名前が付けられてあります。彼女は母へロディアの連れ子と言われます。その母は、ヘロデとの不正な結婚を、ヨハネから批判され、ヨハネをいつか殺そうと考えていたようです。ところが今日の福音書にあるように、都合の良い機会が訪れた。娘はその殺害のために利用されたのです。ヘロデの問いかけに対して、母親に相談して『今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます』と答えました。いくら母親の命令とはいえ、よくもこんな願いを出せるなあと思いました。しかも盆に載せられたヨハネの首を、彼女は受け取ったというのです。彼女の生育環境はどんなだったろうかと、思い巡らさせられます。少女と聖書は記しております。相当に母親からは、ヨハネの悪口を吹き込まれていたのでしょう。少女は幼い時より、あのヨハネとは全く異なる価値観の中で、教育されて来たのではないか。母親がヘロデの兄弟と離婚したのは、両者の出世を天秤にかけた結果だと言われます。そしてヘロデも結婚していましたが、その妻を捨てて、ヘロデイアと一緒になりました。少女はそんな両親を見ながら、成長させられて行ったのでしょうか。

 今日の福音書の同じ場面について、ルカ福音書には次のような言葉が記されてあります。ルカ9章9節『しかし、ヘロデは言った。ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。そして、イエスに会ってみたいと思った』。そんなヘロデがイエス様に会ったのは、イエス様が十字架に掛けられる直前でした。ルカ23章8節『彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずつと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである』。ヘロデはその動機はどうであれ、イエス様に関心をずっと寄せ続けた。そして、イエス様の十字架刑にも、加担することになった。少女もそんな義父と生活していたはずだ。そしてまた少女もこれから、ずっと関心を寄せ続けて行くのだろう。思いもよらない出来事を通して、主イエス・キリストとの出会いが、果たされて行くように示されるのです。

聖霊降臨後第8主日

『飼い主のいない羊』マルコ6:30-34,53-56

 今日の福音書は、マルコ6章30節『さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した』という言葉から始まっております。マルコ6章12節には『十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した』という、弟子たちの派遣の事が記されてありました。この時の宣教の結果を報告したという場面が、今日の箇所になるわけです。先生であるイエス様から受けた教えを、人々に教えたんでしょうか。そして、汚れた霊に対する権能を授けられて、派遣されたという事ですから、イエス様のような癒しの行為も行ったのでしょうか。その際に弟子たちは、杖一本と履物と下着一枚以外は何も持たないで出かけました。そんな何も持たない弟子たちの宣教によって、悔い改める者もいれば、そうではない者もいたでしょう。しかし、あれもない、これもない、あれがあったらなあ、そんなことも思ったでしょう。そして悔い改めて、イエス様に従う者が大勢になる事に、弟子たちは喜びを感じたでしょうか。それはもしかしたら、自分の宣教能力が優れているのではないか。そんなふうに、弟子たちの間でも、互いの成果を競い合うこともあったかも知れません。そこに弟子としての生きる意味を見出すのか。そうやって悔い改めて、イエス様に従う者が増えれば、イエス様がおっしゃられる神の国が実現するんではないか。そんな事を思いながら、弟子たちは報告したんだろうと想像します。

 イエス様はここで言います。マルコ6章31節『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』。大勢の人々がここにもいたようです。それでイエス様と弟子たちだけで、人里離れた所に行くわけです。その言葉から、あたかも静かな所で、祈りの時を持ちましょう、というふうにも聞こえます。人々への対応の忙しさと、その目に見える結果に振り回されて、何が大切なことなのか、見失ってしまうのではないか。心落ち着けて、一体、宣教とは何なのか。人々が求めるものに応えて行く事はどういう事か。人間が生きる意味は何なのか。そんな問いが弟子たちに突き付けられている。弟子たちは、その問いに応える祈りの時間が必要だったのではないか。ところが人里離れた所に舟が着いたはいいが、そんな所にまで大勢の群衆が押しかけていたと言う。そこでイエス様はマルコ6章34節『大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた』という。『飼い主のいない羊のような有様』とは、具体的にどんな様子何だろうか。今日の福音書の後半の部分では、やはりこの人里離れた所から、更に舟に乗って、対岸にイエス様たちが着いた時の様子が記されてあります。そこにも大勢の群衆が押しかけました。そしてそこには、大勢の病人が運び込まれ、イエス様はそれらの病人を癒されたという事です。ですから『飼い主のいない羊のような有様』とは、病気に苦しんでいた人たちが、その病気を癒して下さる方を探し求めていた、というふうにも想像出来ます。しかし今日の場面では『飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた』と記されてあります。ですからこの『飼い主のいない羊のような有様』は、単に病の癒しを求めるという事だけではない。何か問いや悩みを抱えて、それに対する応えをも、人々は求めていたということでしょう。

 そもそも『飼い主のいない羊』というのはどういう状態なのか。羊は群れで行動する習性があるそうです。外敵から身を守るための習性で、群れから離れるとストレスを感じてしまうようです。群れを形成する習性とも関係していますが、羊は基本的に臆病な動物だそうです。危険があるとすぐにパニックを起こして逃げ出そうとするのだそうです。もし群れの中の1頭がパニックになると他の羊もパニックになり、一斉に逃げだすという。それで、群れの管理はとても大変ということです。いずれにしても飼い主なる羊飼いがいなければ、一旦パニックが起こると、全滅の危険性があるというわけです。イエス様は人間も、そんな羊と同じだと言う。確かに、何らかの危険が迫れば、そこにしっかりとしたリーダーと理念が備わっていなければ、直ぐにパニックになってしまうでしょう。イエス様はこの時の人々の様子を見て、人々は揺るぎない絶対的な拠り所を見失っていた。目先の出来事に一喜一憂しながら、言わば、あれがない、これがない、持っていない、健康でない、新しくない、時間がない、平和でない、幸いでない、ああしてくれない、こうしてくれない、無い、無い、無い事ずくしに疲弊していた。それをイエス様は『飼い主のいない羊のような有様』とおっしゃられた。

 今日の福音書の箇所には含まれておりませんが、イエス様このあと、この人里離れた場所で、弟子たち向けて、この大勢の群衆のために、食べ物を用意しなさいと命じられました。この時の人々は、直接的には、イエス様に食べ物を求めて来ていたわけではないでしょう。それなのにイエス様は、食べ物を用意するように言われた。案の定弟子たちは、言わば人間の力を計算して、自分たちには、こんなに大勢の人たちの食べ物を持っていない。こんな所には買い出し出来る所も無い。無い、無い、無いことずくしなのです。ところがイエス様は、無いことに目を向けさせるのではなく、在るもの、持っているものに目を向けさせるのです。『五つのパンと二匹の魚』です。持っていない事に直面して、頼るのは人間ではない。まず持っているものに目を注ぐ。そして、天の父なる神様に祈るのです。順序を間違えてはならない。その結果、イエス様がお渡しになるものを分け合うと、すべての人が食べて満腹したというのです。

 この出来事の後、今度は弟子たちだけで、舟で向こう岸に渡るように、イエス様は強いられたということです。その途上で弟子たちは、逆風に悩みました。イエス様は一緒にいないし、見えない。この逆風に立ち向かう力も無い。ここでも弟子たちは、無い事ずくしに陥った。しかしそこにイエス様が、湖の上を歩いて来られた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』。その言葉と共に、舟に乗りこまれると、風が静まったという。弟子たちは心の中で非常に驚いたという。そんな弟子たちの様子を、聖書は次のように解説しています。マルコ6章52節『パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである』。パンの出来事を、どんなふうに理解するのだろうか。イエス様は、手品のような奇跡の業がお出来になる方なんだ、ということか。いや、人々が隠し持っていたものを、そっと差し出しただけなんだ。いやそれとも、無い事を嘆かないで、有る事に気づかされよう。そのために自分に頼らず、主イエス・キリストの祈りに与ろう。

 定期購読している、ある宗教雑誌の8月号の中の、次のようなマザーテレサの言葉に目が留まりました。『神はいっぱいのものを満たすことができません。神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。イエスの呼びかけに、はい、と答えることは空っぽであること、あるいは空っぽになることの始まりです。与えるためにどれだけもっているかではなく、どれだけ空っぽかが問題なのです。そうすることで、わたしたちは人生において十分に受け取ることができ、わたしたちのなかで、イエスがご自分の人生を生きられるようになるのです。今日イエスは、あなたをとおして御父への完全な従順をもう一度生きたいのです。そうさせてあげてください。あなたがどう感じるかではなく、あなたのなかでイエスがどう感じているかが問題なのです。自我から目を離し、あなたが何ももっていないことを喜びなさい。あなたが何者でもないことを、そして何もできないことを喜びなさい』。キリストの教会に感謝します。

聖霊降臨後第9主日

『イエスのなさったしるし』ヨハネ6:1-21

 先週はマルコ福音書にある『五千人に食べ物を与える』という記事を読みました。今日のヨハネ福音書も、同じ『五千人に食べ物を与える』という小見出しが付けられてある所です。それで二つの福音書を見てまいりますと、それぞれに異なる表現の箇所があります。ヨハネだけに記されている、次の箇所に目が留まりました。ヨハネ6章4節『ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた』。マルコでは、この『五千人に食べ物を与える』という出来事が、何時の時期に起こされたのか、明確ではありません。ヨハネでははっきりと、過越祭が近づいていた頃だと言うのです。この祭はユダヤ人にとって、最も大切な記念すべき祭の一つであります。旧約聖書の出エジプト記12章に、この祭の由来が詳しく記されてあります。紀元前13世紀頃の出来事と言われますが、ユダヤ人がエジプトで奴隷状態にあった時、神様がモーセをユダヤ人の指導者として立てて、エジプトから脱出させ、約束の地カナンに導かれました。この出来事を、ユダヤ人最大の救いの出来事として、年一回記念するのが過越祭でした。ちなみに別の年の過越祭の時に、イエス様は十字架に掛けられました。

 今日のこの場面でも、ユダヤ人たちはローマの支配下にありました。あのエジプトの奴隷状態にあった祖先たちと、似たような状況もあったでしょう。ですからユダヤ人たちは、猶更、毎年行われる過越祭には、あのモーセと同じ指導者が必ず与えられる。神様は自分たちをローマの支配下から、解放して救って下さる。このように熱く、過越祭を記念していたことでしょう。モーセと言えば、今日の福音書の直前の所でも、イエス様ご自身が、そのモーセの事に言及されています。ヨハネ5章46節『あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである』。ユダヤ教の主だった人たちの中には、既にこの時点で、安息日の律法に繰り返し違反するイエス様に、反感を抱いておりました。そんな人々に向けてイエス様は、この言葉を語られたのです。この中で『モーセは、わたしについて書いているからである』というのは、申命記18章15節のことです。ここでモーセは、エジプトを脱出させた人々に、約束の地カナンに近づいて、次のように語るのです。『あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない』。ユダヤ人の指導者モーセは、神様の言葉を預かる預言者としても立てられていました。そのモーセがここで、これから立てられると言っている預言者とは、この私の事なのだとイエス様は、おっしゃられているわけです。

 そんなイエス様の事は、受け入れる人もいれば、反感を抱く人もいた。そんな背景の中で、過越祭が近づていたこの時に、イエス様が病人たちになさったしるしを見た大勢の群衆が、イエス様の所に押しかけたということです。そこでイエス様は、この大勢の群衆が食べるパンの事で、弟子の一人のフィリポに相談しました。フィリポはこのガリラヤ湖畔の町、ベトサイダの出身(ヨハネ1:44)で、この後に出て来るアンデレも同じ出身でした。ですからこの地域の状況を知っていると思って、イエス様は相談したんでしょうか。その際に、『フィリポを試みるため』と聖書は記しております。何の試みなんでしょうか。フィリポは群衆の数と、それにかかる費用を計算して答えます。フィリポの生真面目さも伝わるようです。そしてそこには、この群衆にどのように対応したら有利だろうか。変に落胆させて帰してしまったら、これまでのイエス様に対する良い評判も、台無しになってしまう。増してや悪い評判には、輪をかけるようにしてしまうかも知れない。そんなフィリポの思いや計算が試みられたのではないか。そしてイエス様の為さることは、既にご自身では決められているという。やはり今日の福音書の直ぐ前の所、ヨハネ5章31節以下には『イエスについての証し』という小見出しが付けられてあります。その中でイエス様は次のように語られます。ヨハネ5章31-32,41節『もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。・・わたしは、人からの誉れは受けない』。ここに決められた事が、暗示させられるようです。

 続けて弟子のアンデレが、何の役にも立たないと思いながらも、取り合えず、大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年の事を、イエス様に伝えます。マルコでは大麦の事も少年の事も、触れられてありません。大麦は主に、家畜の餌にされていたそうです。ですから大麦のパンというのは、貧しい者のパンという事でした。しかもその少年とは、奴隷の身分だったという説もあるようです。そんな五つのパンと二匹の魚から、感謝の祈りを唱えて、五千人以上の人々が満腹するまで、イエス様は分け与えたと言うのです。この出来事から、旧約聖書にあるいくつかの出来事が思い起こされます。一つは今日の第一日課、列王記下4章42節以下にあります。預言者エリシャの事です。もう一つは、列王記上17章8節以下にあります。貧しい一人のやもめから、なけなしの一握りの小麦粉を調達したエリヤによって、彼女もエリヤも、幾日も食べ物に事欠かなくなったという出来事です。

 ヨハネ6章14節『そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者である、と言った』。その預言者は、エリシャのようであり、エリヤのようであり、そして近づく過越祭に熱狂する人々は、モーセをも想い起させられたのではないか。そんな人々が取った行動は、イエス様を王にするために、連れて行こうとしたことでした。この近づく過越祭に、ユダヤ人たちが良く知っているあの旧約の出来事を、思い起こさせるような業が出来る者がいるとしたら、その者は、当然人々から崇め奉られるのではないか。最初から、この近づく過越祭を狙って、このようなしるしを行う者も、出て来ても不思議ではない。人々も取り合えずそれを良しとするでしょう。後はその神輿に、乗っかればいい。しかし、イエス様は『ひとりでまた山に退かれた』。『人からの誉れは受けない』というイエス様だから、そうなんだろうか。しかしそれで、落胆した者たちもいたのではないか。しかも傍にいた人たちだ。弟子たちです。せっかくのチャンスだったのに。何てこった。だから山に退かれたのはイエス様だけで、弟子たちは湖畔へ下りて行った。

 弟子たちは『舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした』。辺りは暗くなり、イエス様も一緒にいない。湖は荒れる時間帯だ。彼らは身も心も、恐怖と落胆の中で、舟を漕ぎ出した。そして荒れた湖を漂いながら、舟に近づくイエス様を見て恐れた。何を見たって、この時の彼らには、恐れしかなかったのではないか。そこでイエス様は言われた。『わたしだ。恐れることはない』。こんなふうにも訳せます。『わたしはある。恐れることはない』。これはモーセがユダヤの指導者として、神様に召された時に、神様から聞いた言葉を想い起させます。出エジプト3章14節『神はモーセに、わたしはある。わたしはあるという者だ、と言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。わたしはある、という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』。

 この時、イエス様は舟に一緒に乗りこまれたかどうかは、ヨハネは伝えておりません。しかし聖書はこれだけ伝えます。ヨハネ6章21節『・・すると、間もなく、舟は目指す地に着いた』。弟子たちは、そして人々は、イエス様とは何者だと思ったでしょうか。そして今の私たちも、何者だと言うのでしょうか。この後ヨハネ福音書は、繰り返し折に触れて、イエス様の素性をこんなふうに伝えます。『わたしが命のパンである』(6:35)。『わたしは世の光である』(8:12)。『わたしは羊の門である』(10:7)。『わたしは良い羊飼いである』(10:11,14)。『わたしは復活であり、命である』(11:25)。『わたしは道であり、真理であり、命である』(14:6)。そして父なる神様と、私たちと、イエス様との関係について、次のようにおっしゃられます。『わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫てである』(15:1)。『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である』(15:5)。

 キリストの教会によって、キリストの言葉を聞いて、主よ、わたしたちも目指す地に導いて下さい。