からし種 388号 2021年9月

聖霊降臨後第10主日

『神の業』ヨハネ6:24-35

 今日の福音書の箇所は、先週の箇所の続きになります。先週はイエス様が、大麦のパン五つと、魚二匹から、男だけで五千人の人々を満腹させた、という所でした。それに対して人々は『イエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言って、イエス様を自分たちユダヤ人の王にしようとしたという事です。ここで人々が言う預言者とは、旧約の出エジプト記に登場するモーセを、多くは想定したと思われます。エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちを解放して、今、ユダヤ人たちが住んでいるこの地に導いてくれたのがモーセでした。そして今、イエス様のしるしを見たユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配下にありました。モーセの時代のユダヤ人たちと同じような状況に置かれていたのです。ですから今の自分たちの状況から解放してくれる、あのモーセのような指導者を、人々は待望していたわけです。この時のイエス様は、そんなユダヤ人たちのニーズに合致したのです。

 ところがイエス様は、そんな人々の思惑に反するように、山に退かれた。これらの出来事はガリラヤ湖の周辺で起こった事でした。結局イエス様に従う弟子たちも、そしてイエス様も、そんな人々を避けるかのようにして、そこから向こう岸に舟で行かれました。そこはカファルナウムという湖岸の町でした。今日の福音書はそこでの出来事を伝えます。それは向こう岸に取り残された群衆が、イエス様を捜し求めて、舟に乗ってやって来たというところから始まります。彼らは言いました。『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』。『ラビ』というのはヘブライ語で、『わが偉大なるお方・わが主』という意味です。ユダヤ人たちが、優れた教師を呼ぶ時の敬称だったそうです。預言者と呼んだり、ラビと呼んだり、支離滅裂にも思えますが、それだけ精一杯、人間イエスに尊敬を込めようとしたんだと思われます。そんなあなたが、何で我々を置き去りにしたんですかと、人々は思ったことでしょう。

 そんな人々に対するイエス様の反応が注目されます。ここまでして、追っかけの人々を目の前にしますと、私なんか舞い上がりそうです。ところがイエス様は言いました。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ』。もったいないことに、追っかけの人たちを退けるような言葉なのです。ここから、イエス様と人々との対話が続きますが、何か嚙み合わないものを感じさせられるのです。まず、人々がイエス様を捜していたのは、むしろしるしを見たからです。しるしを見たから、あの預言者だと思って、王様に祭り上げようとしたわけです。ところがイエス様は『パンを食べて満腹したから』私を捜しているんだと言うわけです。『しるしを見る』と言っても、そこから見るべきものが、人々は誤っているというのです。先程『この時のイエス様は、そんなユダヤ人たちのニーズに合致した』と申し上げました。人々がしるしから見たものは、自分たちのニーズにあっているかどうか、だったのです。

 噛み合わない対話は続きます。『永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である』。朽ちる食べ物というのは、普段私たちも口にする食べ物の事でしょう。私たちはその食べ物を得るために働きます。ところが『永遠の命に至る食べ物』って何でしょう。『人の子』って何でしょう。いきなりこんな事を言われても、人々は直ぐには理解出来ないでしょう。これはこれからずっと、イエス様の言葉に聞きながら分かるようになる言葉です。この時のイエス様も、彼らが直ぐに、理解できるとは思わなかったでしょう。それでいいんです。ですからこの時、彼らなりに理解した所からの、精一杯の応答を次のようにするのです。『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』。『永遠の命に至る食べ物のために働きなさい』と聞いた。『永遠』『働く』こんな言葉から、彼らなりに神様の事を思ったのでしょう。それで『神の業を行う』という事に思い至ったのでしょう。

 それに対してイエス様は答えました。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である』。原文に忠実に訳すとこうなります。『これが神の業だ。あの方が遣わした者を信じる事だ』。ここで人々が使った『神の業』と、イエス様が答えた『神の業』とに、不思議と違いが見えて来るのです。人々が言う『神の業』は、人々が行う『神の業』なんです。ところがイエス様がおっしゃられる『神の業』の主体は、神なのです。神が行う『神の業』なんです。イエス様はこのパンの出来事を通して、徹底的に神の主体的な働きを指し示します。ところが人々は、人間の主体的な働きばかりに、目を向け続けるのです。『信じる』という事も、信じるのは私ですが、そうさせるのは私ではない。『私が信じる』事が出来るのは、神様によるのだ。信仰もまた神様によって与えられるものだと、今日ヨハネを通して改めて示されるのです。

 この後、今日の第一日課にある通り、エジプトを脱出した人々が荒れ野で、マンナと呼ばれるパンを与えられた出来事を、人々は持ち出します。マンナは、モーセが与えたかのように、人々は言いました。それだけ人間モーセに、目を奪われていたのです。ところがイエス様は言いました。『モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる』。神がマンナを与えた。しかもその神は私の父だと、イエス様はここで言うのです。こうしてイエス様は次第に、自分の素性を明らかにされて行くのです。しかし人々にとっては、目の前にいるイエス様は人間です。しかもイエス様は『人からの誉れ』を受けないように振舞った。ただ父なる神様を指し示し続ける。だから人々にとっては、イエス様を、どのように扱ったらよいのか定まらない。それでも人々はイエス様の『天からのまことのパン』という言葉に飛びついた。『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』。それに対してイエス様は言いました。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』。ここでイエス様自ら、このようにご自分の素性を語られたのです。

 ここのところ、水曜日の聖書研究会もキリスト教を学ぶ会も、オンライン形式で行われて来ております。二つの集会とも、今月8月一杯は、夏休みになります。キリスト教を学ぶ会では今、ある牧師先生が、ご自分の教会の聖書研究会で学んで来られたものを一冊の本にしたものがありまして、それをテキストに用いております。毎回テーマを決めて、読み切り形式にされたものです。先週のテーマは『つまるところ、イエス・キリストとはだれなのか?』というところでした。それを読みながら感想を言い合いました。『教会はもっと人々のニーズに、具体的に応えて行ったらどうでしょうか』というものがありました。ニーズに応える、と言いますと、何だか企業目線になってしまいます。がしかし、私はこんなふうに答えました。『確かに人々のニーズを知る事は大切です。いずれにしても教会だからこそ、あるいは宗教だからこそ、人々に応えて行くべきものがある。それは死です』。そうしましたら、その方もこんな意見を述べられました。『私も同感です。宗教だからこそ、死に向き合うものです。それで私も、最近、積極的に死について考えています。死を意識する事は、結局、この今を大切に生きることですね。生き方は死に方、死に方は生き方だと思います』。

 それで私もこう述べました。『今を大切に生きることとは、まさに聖書の信仰そのものですよね。いわゆる終末論とは、最後の審判みたいなことを、恐れて生きることではない。この今を丁寧に生きることですから』。先週のこんなやり取りを想い起しながら、今こんなことも考えさせられています。確かに『この今を丁寧に生きること』は大切に思う。しかしどこまで行っても弱い私です。体調が良かったり、物事がうまく行っていたりしている時には、確かに『この今を丁寧に生きること』は出来るかも知れない。しかし体調が悪かったり、苦しみや悲しみのさ中にあっては『この今を丁寧に生きること』には自信を持てない。

 そこで、改めて今日の聖書のイエス様の言葉を噛みしめています。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』。そうか、飢えることがない、渇くことがないとは、まさに体調が悪くても、苦しみや悲しみのさ中にあっても、死の淵に立たされているとしても、それでも、命のパンをいただき続ける者は『この今を丁寧に生き』続けることが出来る。今日イエス様は、そんなふうにおっしゃられているのではないか。

 これからもキリストの教会につなげられて、イエス様の命のパンなる言葉を、いただき続けてまいります。

聖霊降臨後第11主日

『わたしが与えるパン』ヨハネ6:35,41-51

 福音書はイエス様が十字架の死と復活に至るまでの、地上の生涯を終えるまでを描きます。そしてその間に、語られた言葉と奇跡の業、それらに対する人々の反応とを記す書です。四つの福音書がありますが、それぞれに書かれた背景、年代が異なっております。ヨハネ福音書の場合を概観します。書かれた年代は、紀元90-125年の間と言われます。使徒言行録によれば、この頃には既にキリスト教会がギリシア・ローマ地域に建て上げられていました。福音書はそんな教会に所属する者たちを通して書かれ、それが次第に全教会でも読まれるようになったわけです。ヨハネが所属する教会は、今のパレスチナ辺りにあったようです。

 紀元70年にエルサレムがローマによって陥落し、エルサレム神殿も徹底的に破壊されました。その結果、ユダヤ人たちは民族の結合を求めて、今の旧約聖書に当たりますが、聖書が証しする神様を信じて、一つの心に生きようとします。そのために聖書は、次第に一巻に纏め上げられて行きました。そして各地に散らばっていた会堂で、ユダヤ人たちは聖書を中心にして礼拝を守っていました。これがいわゆるユダヤ教と呼ばれる信仰体です。この中に当初は、ナザレのイエスが、聖書の中で預言されて来た救い主だと信じるグループも含まれていました。当時のユダヤ教の一派に過ぎないという扱いでした。ですから当初は、ユダヤ教の会堂で一緒に礼拝を守る事もありました。まあ多少、他のユダヤ人とは信仰が違うかも知れないという雰囲気はあったようです。ところがエルサレム神殿も無くなり、ローマの支配が続く中で、一段とユダヤ人としてのアイデンティティを強めなければならない状況になりました。それを強めるのがユダヤ教信仰です。そんな中で次第に、イエスを救い主と信じるグループは、異端としてユダヤ教の会堂から追放されるようになりました。

 キリスト教会としてユダヤ教からは独立したグループを形成しつつも、相変わらずユダヤ教からは異端としての迫害も続いていたのでしょう。その結果、キリスト教会側から、教会を離れる人々も出て来ました。ヨハネが所属する教会もそんな状況に置かれている中で、ヨハネ福音書が書かれることになったという事です。ユダヤ教側は、聖書が預言する救い主は、未だ現れていないとします。キリスト教会側は、救い主は既に現れた。ナザレのイエスがそれだとします。ヨハネ福音書では、イエスが何者であるのか、随所に訴えかけるのです。イエス様ご自身も福音書の中で、ご自分が何者であるのかを繰り返し語られています。そうやって、キリスト教信仰に迷う人たちを励ますのです。典型的な箇所は、ヨハネ福音書15章5節が思い浮かびます。『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである』。イエス様が何者であり、人間はそのイエス様から離れないで、つながっているようにと、ありありとイエス様ご自身の言葉で語られています。

 さて今日の福音書の場面も、イエス様がご自分の素性を現した事を巡って、ユダヤ人がつぶやきました。ヨハネ6章42節『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、わたしは天から降ってきた、などと言うのか』。イエス様を目の前にした人間にとって、イエス様が何か天的な存在であるかのように受け留めるのは、なかなか難しい。当時の人に限らず、今の私たちにとっても、厳しいのではないか。むしろ目の前にしない方が、まだ容易だとも思ってしまいます。このつぶやきに対して、イエス様は直接的には応えていません。ただこの時のイエス様の言葉から、注目させられることがあります。それは徹底的に、天の父なる神様を指し示し続けておられるという事です。そしてそれとは対照的に、ご自身の事は『パン』だと繰り返し言い続けておられる。決して自らを、さも崇高な言葉によって飾り立てない。ただ『パン』という、極めて日常的な、天的なものとは対極に位置するような言葉で、素性を現わされます。

 『パン』の事は、先々週、そして先週と、このヨハネ福音書から続けて聞いてまいりました。五千人以上の人々を、五つの大麦パンと二匹の魚から満腹になるまで、イエス様が食べさせたという奇跡の業が始まりでした。それにしても、イエス様を信仰の対象とする時に、『パン』というのは、余りにも軽いイメージを覚えます。信仰と『パンを食べる』事と、どんなふうに関わっているんだろうか。

 今日の第一日課は列王記上19章4節以下です。自分を殺そうとする者たちから逃げきれなくなった預言者エリヤが、『起きて食べよ』という神様の言葉で、もう一度立ち直っていく姿を描きます。困窮するエリヤに、神様はどんなふうに助け舟を出すのかと思いきや、ただ『起きて食べよ』なのです。何気ない、余りにも日常的過ぎるような、食べる事を勧めるのです。そう言えば聖書は、重要だと思われる局面で、しばしば食べる事を描いています。直ぐに思いつくのは、十字架に掛けられる直前のイエス様が為さった事です。最後の晩餐です(ヨハネ13:26)。それから復活されたイエス様が、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちに現わされた時に、語ったのは『さあ、来て、朝の食事をしなさい』でした(ヨハネ21:12)。そして初代教会の伝道者パウロが、迫害する者から宣教する者へと創り変えられて、キリストの洗礼を受けた。そのすぐ後にしたことは食事でした(使徒9:19)。どこの世界でも、考えて見れば、食べることは大切な事です。しかし余りにも当たり前過ぎるので、改まって注目する事が無いのかもしれません。聖書の世界では、食事は単に飲食物を摂取するという事に留まらない。むしろ人と人、また神と人との交わりの表現として捉えているのです。むしろ余りにも日常的なことだからこそ、そこに神様は共にいて下さるということなのだ。そうすると、信仰と『食べる』という事の関わりも見えて来るようです。

 毎週水曜日夜に予定しております聖書研究会は、今はオンラインで行われております。今月は夏休みで、次回は9月1日からです。使徒信条に関する、あるテキストから学ぶ予定です。今日は、前もってその一端を紹介します。まず項目として『我は信ず』を取り上げます。所々引用します。『・・信じることは愛することであり、相手に心を差し出すこと。相手に信を置くことなのである。・・聖書における信仰は人格的なものであり、言わば賜物である。それは、単に教えの内容を理解してそこに留まるということではない。その教えが指し示し、またその教えの源である神というお方を信頼することである。・・議論に説得されて信じるという類のものではなく、ある日、この見えざる神を信頼するという心が生まれる。そうして、信仰は生きたものとなる』。

 今日イエス様は最後の所で、次のように語られます。ヨハネ6章51節『・・わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである』。イエス様はその身をもって、このわたしを食べてください、とまでおっしゃられているのです。何か理屈では理解出来ないような言葉です。がしかしそれ以上に、先程も申し上げて来た、食べるということの大切な意味と、そしてイエス様ご自身の熱い思いが、この言葉から伝わって来るようなのです。『人と人、また神と人との交わり』が食べる事ならば、イエス様を食べる事は、まさに丸ごと、イエス様との交わりの中に入れていただけるのだ。『信じることは愛することであり、相手に心を差し出すこと』ならば、その体を食べよと差し出して下さるイエス様から、計り知れない愛が、こんな私にも迫って来るようなのです。そしてヨハネの教会の人々も、揺れ動きの中でイエス様につなげられて来たのも、このイエス様の愛にもう一度包まれて行ったからだと示されます。ヨハネ福音書は冒頭の1章の中で、次のように記しております。『言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた』。

 イエス様が何者であるのか、その問いかけは、既にイエス様が地上で働かれている頃から始まっている。それは紀元100年頃に生きた、ヨハネの時代でも続いていた。いやそれどころか、その問いかけは、今を生きるこの私たち現代のキリスト教会にも、向けられ続けている。何故ならこの問いかけこそ、まさにキリスト信仰の核心になるからです。そして『信じる』という事の、根源的な問いかけが『わたしがパンだ』という、このキリストの言葉から投げかけられ続けているからです。

 キリストの教会によって、キリストの言葉に私を委ねてまいります。

聖霊降臨後第13主日

『言葉は霊』ヨハネ6:56-69

 先月の7月25日から今日までの5回に渡って、福音書はヨハネ6章のほぼ全てを読んでまいりました。このヨハネ6章では、特に22節以下から、イエス様が命のパンであると、繰り返し語られて来ています。このようにヨハネ福音書は、イエス様が何者であるのか、随所で明らかにされます。それは、このヨハネ福音書が書かれた当時の教会が、それを強く求めざるを得ない状況に置かれていたからです。と申しますのも、ヨハネの時代の教会は、いわゆるユダヤ教との対立が、深刻になって来ていたからです。それまでは、ユダヤ教側では、キリスト教会は、ユダヤ教内の一つの教派に過ぎない扱いでした。がしかし、キリスト教会の影響力も増して来て、もはやその異端的な発言を、見過ごす事が出来なくなって来たわけです。あのナザレの大工の息子イエスが、聖書で預言されて来たメシアだと、教会は主張します。これが異端です。ところがユダヤ教側は、メシアはまだ現れていないとしていた。それで教会に向けて、そこから離れるようにと、様々な策略をするようになった。実際、教会から離れ去る人も少なからずいた。そこで教会は、イエスが何者であるのか、強く主張しなければならなくなった。それがヨハネ福音書が書かれるきっかけになって行ったわけです。

 今日の箇所は、そんなヨハネ福音書が書かれた背景が、浮き彫りになるような場面です。ヨハネ6章66節『このため、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった』。この場面は時系列的には、イエス様がまだ十字架に掛かられる前の、生前の宣教活動をされているところです。がしかし、既にイエス様から離れ去る人々がいたのでしょう。いずれにしても、離れ去る理由は、イエス様を見誤っているからです。ですからここで、はっきりと、イエス様はこれなんだ、と明確に打ち出します。このような、イエス様から人々が離れ去る記事を、ヨハネ福音書だけが伝えております。普通は隠したがるような出来事です。がしかし、この出来事から、むしろ増々イエス様の真実が明らかにされるのです。ここにも人間の思惑を超える、神様の働きを見ざるを得ないのです。

 さて多くの弟子たちが離れ去った理由を、今日の福音書は次のように記しております。ヨハネ6章60節『ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』。そして、その『ひどい話』とは、このヨハネ6章22節以下になりますが、特にイエス様の体の肉と血の話は強烈だったでしょう。ヨハネ6章56節『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる』。これはこの場面では、いくらイエス様の弟子であっても、『実にひどい話だ』と言わざるを得なかったでしょう。それでも、いわゆる『十二弟子』はこの話につまずかなかったようです。しかしこの時には、どこまで理解出来たのか、疑わしいと思わざるを得ません。この時のイエス様の話から、今も教会の礼拝の中で行われている、パンとぶどう酒をキリストの体と血として食べる、聖餐式が思い浮かびます。ですから十字架の死と復活のイエス様との、出会いが無ければ分からない事です。ヨハネ福音書が書かれた頃は、十字架の出来事から後の時代ですから、聖餐式も行われていて、この話は何を言っているのかは分かっていたでしょう。それにしても『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む』という聖餐式については、実は簡単な事ではありません。この事の受け止め方によって、いわゆるプロテスタント教会が、様々な教派に分かれた大きな原因にもなっているからです。

 ここでルーテル教会の聖餐式の理解に触れます。ルーテル教会の名前の由来になっている、16世紀の宗教改革者マルティン・ルターが書いた『小教理問答書』という書物があります。その中でルターは、聖餐式の事を次のように書いています。『それは、わたしたちの主イエス・キリストのまことの肉であり、血であって、わたしたちキリスト教徒がパンとぶどう酒と共に食し飲むように、キリスト御自身が定められたものです』。ここで、このパンとぶどう酒を食し飲むことが、どうしてキリストの肉と血を食し飲む事になるのか、ここに様々な解釈があり、いくつものキリスト教派が生まれることになったわけです。ルター派は次のように受け留めます。『このパンとぶどう酒は、キリストの言葉と共に、キリストの肉であり、血である。見えるのは、相変わらずパンでありぶどう酒であっても、キリストの言葉によって、キリストの体を食べ、キリストの血を飲む。もしここにキリストの言葉がなければ、それらは相変わらずパンでありぶどう酒である』。お手元の式文の11頁に聖餐式での、そのキリストの言葉が記されてあります。『設定』と書かれた欄です。いずれにしても聖書から与えられている、キリストの言葉です。この言葉と共に、聖餐式においてキリストの体と血とをいただくのです。それによって、罪の赦しが得られるという。またその罪の赦しが得られる事について『小教理問答書』は、次のように書いています。『言うまでもなく、それを行うのは、飲食の行為ではなく、罪の赦しを得させるように、あなたがたのために与え、また流す、という言葉なのです。この言葉は、肉体的な飲食と共に、聖晩さんの主要な部分です。そしてこの言葉を信じる人は、この言葉が語り、また宣言すること、すなわち罪の赦しを得るのです』。

 今日の福音書の中で、イエス様は言葉について、次のように語られています。ヨハネ6章63節『命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である』。イエス様はここではっきりと、言葉が人を生かすとおっしゃられる。それはまさに人は、言葉を食べて、罪を赦されるから、生きる者になるのです。キリストの言葉を食べる事は、キリストの言葉を信じる事です。その『信じる』という事について、先々週の礼拝で、ある神学雑誌から次のように引用しました。『・・信じることは愛することであり、相手に心を差し出すこと。相手に信を置くことなのである。・・議論に説得されて信じるという類のものではなく、ある日、この見えざる神を信頼するという心が生まれる。そうして、信仰は生きたものとなる』。

 二週間ほど前に読んだ日経新聞の夕刊に、アルコール依存症の治療にあたる、一人の医師を取材した記事がありました。『・・依存症っておもしろいんですよ。改心というか、悟りを開いたというか、ある日啓示が降りてきたとしか思えない回復の仕方をすることがある。・・路上で寝ていても、会社を遅刻しても怒らず、尻ぬぐいせず、その人の自覚に任せる。するとある日、このままではいけないと悟った患者が生まれ変わったように覚醒するのだ。それがいつ起きるのかがわからない。しかし、とにかくそれは起きる。・・7、8年ほど通院している人だったかなぁ。・・ある日を境にぱたっと酒を断った。僕は今後の治療に役に立てばと彼にきっかけを聞いた。すると、階段から落ちて怪我をした。このままじゃだめだと思った、と言うんです。でもね、彼はそれこそ何十回、何百回と落ちている。今までの落下と今回の落下、一体何が違うのか聞くんですが、本人も首を捻るばかりでわからない。まるで何かの啓示が降りてきたみたいでしょう?・・こちらが無理やり治そうとするとたいてい失敗しますね。医師が治すんじゃないんです。まず本人が今のままではだめだと自覚しないと。現状のままの自分を諦め、しがみついていたものから手を放した時、回復は始まる。話を聞いていると終末医療の取材で目にした、死の受容、によく似ている。・・依存症患者もある種の断念をくぐって、受容に至るのかもしれない。つまり一度、死ぬ、のだ。葛藤の末、ついには自分が運命をコントロールできるという考えすら手放し、違う通路から来る回復に身をゆだね、明け渡す。その先に生まれ変わりが待っている。スピリチュアルなことは好きじゃないし、宗教もあまり信じていない。でも思うんです。僕らの治療は宗教的な祈りに近いんじゃないかと。その人に寄り添い、啓示が降りてくる日を信じ、祈るんです』。

 これを読みながら『現状のままの自分を諦め、しがみついていたものから手を放した時』とか『一度、死ぬ』なんて言うのは、まさに信仰こそ、言わば依存症からの解放の出来事ではないかと思ったわけです。と同時に、あの初代教会の伝道者パウロの回心の出来事が、まさにこれではなかったか、とも思いました。ある日突然に、天からのキリストの言葉を受けて、地面に倒れた。そして目も見えなくなった。しかしそこから、クリスチャンを迫害する者から、キリストを宣教する者へと変えられてしまった。そしてこの時のパウロにとっては、誰が自分を創り変えたのか、ハッキリと知らされていました。イエス・キリストです。だからその方へ応えて行く歩みも備えられました。伝道に生かされる道です。こうして罪の赦しと永遠の命へと、パウロは導かれて行ったのです。

 主よあなたの言葉は、頼るべきものではないもの、そんな偶像に依存する私たちを、一人一人に相応しく解放して、永遠の命の主であるあなたに応えて行く、新しい生き方に導いて下さいます。

聖霊降臨後第14主日

『人間の言い伝え』マルコ7:1-8,14-15,21-23

 今日の福音書の7章8節で、イエス様は次のように言われました。『あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている』。先週は、神の言葉を食べるように信じる、ということを聖書から聞きました。ですから、神の掟を捨てて、人間の言い伝えを重んじるなんて、とんでもない話だと、私なんかも憤ってしまいます。しかし一方で、じゃ、そんなに神の言葉を、あるいは神の掟を、食べて血となり、肉となるように、しっかり守って身に着いていますかと問われますと、下を向かざるを得ません。また、『人間の言い伝え』なんて、と思ってしまいますが、果たしてそれらが、思うほど軽いものなのでしょうか。

 神様から与えられた掟の事を、律法という言葉で呼んで、聖書の中にも出てまいります。実はその律法には二種類あります。一つは成文律法、もう一つは口伝律法と呼んでいます。成文律法というのは、書かれた律法のことです。旧約聖書の最初の五つの書物、いわゆるモーセ五書と呼ばれるものです。口伝律法というのは、読んで字の如く、口伝えで受け継がれて来た律法です。成文律法と口伝律法とは、何が違うのか。成文律法は時代が変わっても、その文言は変わりません。しかし、時代が変わる毎に、現実社会にあっては、成文律法に書かれていない事態も出てまいります。それでも律法を守って行かなければなりません。そこでその時代時代に適応させて、どのように成文律法を守って実践して行ったらよいのか、その実例集のようなものが口伝律法として受け継がれて行ったわけです。これを今日の福音書の中で、イエス様は『人間の言い伝え』と呼んでいるわけです。そして時代に適応させて解釈して、実践例を示したのが、それぞれの時代の高名な律法学者達であったわけです。律法学者が解釈したものですから、それを『人間の言い伝え』と呼んでも間違いではありません。がしかし、その時代の人間を通して、神様が実践例を現してくれたのだと信じるならば、それもやはり、神の律法と呼んでも間違いでは無いようにも思います。成文律法を、その時代時代に合わせて、何とか神様の御心に沿うように、守って行きたいという願いから与えられて来たものだからです。

 ではイエス様は今日ここで、何を問題とされておられるのでしょうか。そこで一つ注目させられる言葉があります。それは今日の福音書の中でも、繰り返し出て来る言葉ですが『汚れた』という言葉です。ギリシア語原文では『コイノス』と発音する言葉です。ギリシア語辞書には、次のように説明されてあります。『共有の・共通の・分け合っている・共に与っている・世俗的な・不浄に触れた可能性がある・汚れた』。この言葉と語根を共通にするギリシア語に『コイノニア』という言葉があります。聖書の中では『交わり』と訳されています。キリスト教会ではなじみのある、大切な言葉になっています。本来、色々なものたちが、共に与っている状態を意味する言葉です。それが、色々なものたちがいるが故に、ひとたび視点を変えてしまうと、自分の価値観から、そこに異端と思われるものがいる時に、この言葉は、汚れた状態を意味するものにもなってしまう。こうして『コイノス』という言葉に『汚れた』という意味が加えられて行ったわけです。何か深い闇を感じさせられます。本来は尊いはずの『人間の言い伝え』であるはずなのに、それを守るものたちは、いつでも自分を正しい位置に、清い位置に置くために、『人間の言い伝え』を固く守り、結果的に成文律法を守っていることになる。同時に守らない者たちを、汚れた人間として裁く。

 そこでイエス様は言います。『外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである』。今日の論争の始まりが、手洗いのことから始まっているので、それを受けてイエス様はこのように語られました。『人間の言い伝え』である手洗いがが、単に不衛生だから、それを勧めているわけではありません。色々な人間同士が触れ合えば、例えば市場のような所では、いわゆる異なる宗教の汚れた人間と触れ合うこともある。何せユダヤ人は、聖なる民と呼ばれていますから、その聖なる状態を保つためには、汚れから身を守らなければなりません。そのための実践例として、手洗いも義務付けられていたわけです。しかしイエス様は、そもそも人間を、汚れたとか清いとか、区別をしないのです。みんな同じなんです。ではどのように同じなのか。それは、人間とは『人の中から出て来るものが、人を汚す』そういうものだと言うのです。もっと言えば、人は生まれた時から、既に汚れている。もっと言えば、何かをすれば、例えば律法を守れば、自分を正しい位置に、清い位置に、置くことが出来るなんて、夢にも思わないようにと言う。それで人の目には、清く正しく映るかも知れません。がしかし、神様の目はごまかされませんよとおっしゃられる。

 精神科医の、きたやまおさむ、さんが、日経新聞夕刊に週一回コラムを担当されています。8月18日のコラムで次のように書かれているのが目に留まりました。『当たり前のことを書きたい。人を殺したいという気持ちを抱くことと、本当に殺人を犯すこととは決定的に違う。盗みたい、いじめたい、馬鹿にしたいなど、そのように心に感じることはあってもいいが、それを行動に移したり、SNSなどで言葉にしたりすることとは違うのである。まず、ほとんどの人間に、そういう攻撃的な気持ちや、それを行為に移す可能性があることを認めるしかない。絶対にないほうがいいけれど、この世から戦争はなくならないし、殺人事件もなくならない。・・実は、この怒りや嫌悪の気持ちを自ら認めることすら、あってはならないとされることがある。しかし、これを認めた上でどう処理するかを考えないと、差別やイジメはますます見えにくくなるだろう』。きたやまさんは『実は、この怒りや嫌悪の気持ちを自ら認めることすら、あってはならないとされることがある。しかし、これを認めた上でどう処理するかを考え』ようと、おっしゃられる。イエス様は、そんな人間たちの中に生まれ、共に生活し、そしてそんな人間たちによって、十字架に掛けられました。イエス様の生きざまと死にざまとを通して、人間たちの本当の姿が浮き彫りにされる。それを神の救いの業とするならば、見た目は絶望的であり、あまりにも神らしからぬ効率の悪い仕方です。しかしそれが遠回りのようで、近道だと言う。

『みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別』そんな人間たちと共に、実は今も、キリストの教会によって、イエス様は共に生きて下さる。そしてまた人間は、相変わらず失敗を繰り返す。そこから学んだとしても、また次の失敗にまみえる。もはや何も隠さず、取り繕うこともなく、演技もする必要もない。いやそれでも、どこまで行っても、演技や取り繕いから解き放たれないでいる。それがまた、自分というものだと知らされる。そしてそんな自分であることを、見据えさせられる。そこからがまた、本当の自分の生き方の始まりとなる。ふと、あの初代教会の伝道者パウロの言葉が思い起こされました。ローマ7章23-25節『わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします』。

繰り返される失敗や破れの連続にあって、どんなに時間がかかろうとも、十字架の主は、それが救いの近道であると言う。その道をキリストの教会の主が共に歩んで下さる。そうして、私を創り変え続けて下さいます。