からし種 392号 2022年1月

待降節第2主日

『悔い改めの洗礼』ルカ3:1-6

 キリスト教会独自のカレンダーでは、先週から待降節という期節に入りました。『待降』というのは『降って来るのを待つ』という意味ですが、つまり救い主が降って来るのを待つ期節という事です。救い主とはイエス・キリストですが、この方を待つという状態には、三通りの状況が考えられます。一つ目は、今から二千年程前に、父なる神の独り子イエス・キリストが、人間の赤ちゃんとなって、乙女マリアより生まれたという出来事が起こるまでの間です。この出来事は既に起こされた事ですので、現代に生きる私たちには直接、関係ないことのように思われます。がしかし、実は今の私たちもイエス様が来られるのを待っている状況にあります。十字架上に死んで復活されたイエス様は、再び地上に降って来ると約束されて天に昇られました。その再び来られるイエス様を待っている状況が二つ目になります。この一つ目と二つ目の状況は、降って来られるお方に気づこうが気づかまいが、全ての人間に関りがある、いわゆる客観的なものであると聖書は言います。前者は『過去的待降』とでも呼びましょうか。そうすると後者は『未来的待降』となりましょうか。いずれも、待っている人間たちの在り様が問われています。そして三つ目の待つ状況は、一人ひとりの個人が、イエス様を救い主として信じる信仰を与えられるまでの間です。これはいわゆる信仰の問題ですので、主観性を帯びたものと言えるでしょう。これは『現在的待降』という事になるでしょうか。これら三通りの過去、現在、未来という待降について、聖書はそれぞれに深く関係性があるように伝えてくれます。そこから私たちの今という生き方が教えられているように示されます。

 今日のルカ福音書は、洗礼者と呼ばれる預言者のヨハネの登場を伝える箇所です。『罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた』ということです。ヨハネが『悔い改めの洗礼を宣べ伝え』ざるを得ない状況が、この当時に生じていたということでしょうか。それはどんな状況だったのでしょうか。聖書は、旧約のイザヤ書40章3-5節を引用して、このヨハネの登場の必然性を語るのです。引用されたイザヤ書40章が書かれた背景は、ユダヤ民族最大の苦難である、いわゆるバビロン捕囚という歴史的出来事にあります。これは紀元前587年に外国のバビロニアによって南ユダ王国が滅ぼされた出来事です。首都のエルサレムから主だったユダヤ人たちが、いわゆる捕囚の民として、異国の町バビロンに連行され、この状態は50年程続きました。預言者イザヤもバビロンにいて、このイザヤ40章を残しました。いつか故郷エルサレムに神様は戻してくれると、捕囚の民は希望を抱いておりました。がしかし、50年経っても何も変わらない。世代交代も進んで行く。次第に戻る希望も失せて、現状肯定に走るようになる。信仰生活も形骸化して、ややもすれば心地よい異国の価値観に染まり、聖書の神様から離れて行く傾向もあったでしょう。そんな中で、イザヤは信仰的にも弱体化してしまいそうなユダヤ人を励ますのです。バビロン捕囚は50年を経て、バビロニアがペルシャによって滅ぼされた結果、捕囚の民は解放されて、エルサレムに戻ることが出来ました。破壊されたエルサレム神殿も再建されることになりました。しかしその後も、繰り返し外国の脅威に晒され続けたのです。その脅威は、ユダヤ人の心の中にも入り込んで行くのです。外国の発達した文化が入り込むようになったからです。特に次の世代を担う若者たちの心を、外国の煌びやかな価値観が鷲掴みにするのです。若者たちの、いわゆる宗教離れも起こり始めます。

今日の第一日課のマラキ書は、ちょうど捕囚状態から解放されて、エルサレムに戻り、神殿も再建された頃に成立した書物です。思うように行かない生活が続く中で、神様が守って下さるという信仰上の疑いが更に芽生え始めていた時に、マラキは神の使者が必ず来ることを告げて悔い改めを促すのです。次のマラキ3章2節の言葉から、人々の心の中を想像させられます。『だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ』。よほど人々の、神様の目から見た、汚れ切った状況が、浮きぼりにさせられるようです。

洗礼者ヨハネが登場したこの時代も、人々は全く同じような状況だったのでしょう。ユダヤはやはり外国のローマ帝国の植民地化にありました。今日の福音書の冒頭に注目させられます。ずらずらと時の権力者たちの名前が連ねられています。それはあたかも、神様を差し置いて、人間の力が鼓舞されているような、もはや人間が中心の世界であるかのようにも映ります。興味深いことに、当時のローマ皇帝は、ユダヤ教団に対して寛容政策を取りました。それぞれの信仰の自由を保障したのです。人間が許容する神信仰って何だろうか。そういう神様は、果たして人間を支配する者なのか。やっぱり人間に支配される神様なのか。ルカ福音書は、そんな人間中心とも思えるような状況に切り込むのです。今日、語り掛けられるのです。『・・神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った』。そしてこの切り込みは、今の私たちにも向けられるものです。

ヨハネは悔い改めを宣べ伝えた。それは、人間中心から神中心への立ち返りを促すものです。先週の木曜日と金曜日に、幼稚園ではクリスマスページェント礼拝が行われました。金曜日には、業者さんによるビデオ撮影も行われました。その業者の方から、次のような経験談をお聞きしました。ある公立の中学校で、一連の学校活動の撮影を頼まれたそうです。出来上がったものをチェックする段階になって、ある一人の生徒については、映っている場面は全て削除するように言われたそうです。その保護者から、肖像権の問題で抗議があったからという事でした。以来、その学校では、学校活動にまつわる映像の肖像権は、学校側にあることを、入学時に承諾してもらうことにしているということでした。簡単な問題では無いのかも知れませんが、そうやって個々の要望に従って、映像チェックをすることで、映っていても構わない、他の友達の映像も削除されてしまうかも知れません。クラス全体の財産としての思いでが、損なわれてしまうことになりかねません。私も幼児教育に携わる者として、教育は果たして誰のためのものなのか。もちろん個人のためでもありますし、社会のためのものでもあると思います。社会と言うと、拒否反応も生まれそうですが、人間全体のため、と申し上げた方が良いのかも知れません。そしてその人間一人ひとりは、誰のものなのか。その親だけのものなのか。人間全体のためのものではないのか。そしてその人間を創られたのは神様なのではないのか。人間中心から神中心というのは、人間の側だけから物事を見るのではなく、神様の側から物事を見て行く事が求められているのではないかと思うのです。

 今、受洗希望者とご一緒して、宗教改革者ルター著作の、小教理問答書を学ばせていただいております。私自身も本当に善い学びの時を与えられていると、感謝しております。先日、主の祈りについて学びました。その中に『私たちに今日もこの日の糧をお与え下さい』という項目があります。この項目で、『糧』とは何かを、ルターは次のように書いているのです。『からだの栄養と維持のために必要なすべてのもの、すなわち、食べ物、飲み物、衣服、履物、家、屋敷、畑、家畜、お金、財貨、ちゃんとした家族、ちゃんとした真実の支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、規律、名誉、よい友人、忠実な隣人などだよ』。これら全てが、神様にお与え下さいと願うものだと言うのです。ややもすれば、自分の力で勝ち取るものだと思えるようなものもあります。それでも、神に願いなさいと言うのです。もはや神中心以外には何もないことが示されます。

 そしてこの学び会では次回は『洗礼』について学ぶ予定です。もちろんキリスト教会の洗礼は、イエス・キリストのお名前による洗礼です。少し先取りして、ここで洗礼の意味について共有したいと思います。やはり小教理問答書の中で、ルターは次のように言います。『洗礼とは単なる水であるだけではない。それは神のご命令に含まれ、神のことばと結び付けられている水なのだよ』。『ではこのような水の洗礼はなにを意味しますか。これは、私たちのうちにある古いアダムが日毎の後悔と悔い改めによって溺れさせられ、すべての罪と悪い欲と共に死んで、逆に日毎そこから出て、新しい人として復活して、神の前での義と清さのうちに永遠に生きるようになる、ということだよ』。ただ一回限りのイエス様のお名前による洗礼ですが、毎日行われる後悔と悔い改めが、その一回の洗礼の意味の中に組み込まれているのです。

 気が付けばいつでも、人間中心の人間の側だけからしか、物事が見えない私ですが、日毎に後悔と悔い改めますから、どうぞ日毎に神中心の神様の側から見える目をこれからも養い備えて下さい。

待降節第3主日

『神の怒りを免れる』 ルカ3:7-18

 今日のルカ福音書は、先週の箇所からの続きになります。洗礼者と呼ばれる預言者のヨハネが登場し『罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた』。そのヨハネから、悔い改めの洗礼を受けるために、大勢の群衆がやって来たというのが、今日の福音書の始まりです。ヨハネの言葉を聞いて『では、今度いつか時間が取れたら、その悔い改めの洗礼とやらを受けるとするか』という状況には、さすがに人々も受け止めてはいなかったようです。ヨハネの語る雰囲気から、どうもいわゆる終末の神の裁きの時が迫っているのではないかと、群衆は受け止めたのでしょうか。ヨハネの次の言葉がそれを言い表しています。ヨハネ3章7節『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか』。

 ヨハネは悔い改めを宣べ伝えました。それは、人々が、信仰を与えられていながらも、思い通りに行かない現状を憂いて、何もしてくれない神様を疑い始めていたからです。また、信仰を離れて、心地よく見える他の価値観に心が移ってしまうことさえ起こされていたからです。そうやって、いつしか人間的な都合の思いが勝り、無意識にも人間中心の生活をしてしまって来た。ヨハネは人間中心から、神中心へともう一度、方向転換をするという悔い改めを宣べ伝えた。さすがに人々は、この現状はまずいかなと思い始めた、だからそんな彼らも『神様は怒っているかも』と思い始めた。しかも洗礼者ヨハネの勢いからすれば、神の怒りの裁きは、差し迫っているかも知れないと思った。しかしヨハネ自身は、神様が怒っているなんて、一言も言っていない。怒りの裁きも、差し迫っているなんていうことも、言っていない。『そんなことを誰が教えたのか。私はそんなことを一言も教えていない』と言っています。ただ彼に臨んだ神の言葉を取り次いでいるだけです。この時には、人々が勝手に神様の気持ちや振る舞いを想像して、決めつけているだけなのです。神様はこうするだろう。こうすべきだ。イエス様ならこうするだろう。こうするはずだ。こんなふうに、今も私たちはいつでも勝手に、神様の事を決めつけてしまうことがあります。この状態が人間中心なんだ。だからそこから悔い改めて、方向転換して、神中心に軌道修正せよ、と宣べ伝えたのです。そして今日の箇所では、もう少し具体的に『悔い改めにふさわしい実を結べ』と言っています。

 更に次のヨハネの言葉も印象的です。『我々の父はアブラハムだ、などという考えを起すな』。アブラハムはユダヤ人の父として、尊敬を集めていたユダヤ人の祖先です。このアブラハムを通じて、神様はユダヤ人が神の民として繁栄すると約束されました。だからユダヤ人にとっては、アブラハムの子孫であることは、神に救われるための大きな拠り所となっていたわけです。そうなってしまうのは、無理からぬことではあります。しかし、最終的にその人を、救うかどうかは、神様がお決めになることです。自分はアブラハムの子孫だから、当然、救われるはずだと思っているのは、結局、人間である自分が、救われるかどうかを決めてしまっていることになります。ここでも、無意識ではあっても、神様がなさることを、神様になり替わって、自分が神様のように振る舞っている。人間中心の状態が垣間見えて来るのです。このことは現代のキリスト教会とて、他人ごとではありません。洗礼を受けたから、クリスチャンだから、私は救われている。そう信じることは当然です。がしかし、同時に、それを決めるのは私ではない。お決めになるのは、主イエス・キリストの神様なんだと、冷静に受け止めていなければなりません。そうでなければ、洗礼を受けていない、未信者の方に対して、裁きを行ってしまう危険性も孕むのです。裁きを行う方は、やっぱり私ではなく神様だからです。

 それで人々は『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねます。それに答えてヨハネは、悔い改めにふさわしい実を結ぶということの、具体的な在り様を語ります。何か、しっかり聖書を勉強したり、神学書を読んで知識を高めたり、礼拝には欠かさず出席をして、献金もたくさん献げなさい、奉仕の業も熱心に与りなさい、と言われるのかなと想像しました。ところがヨハネは言います。『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』。徴税人には『規定以上のものは取り立てるな』と言います。兵士には『だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言います。実に具体的ですし、誰もが与っている生活という場に密着した話です。いわゆる、浮世離れしたような勧めでもない。しかもややもすれば、行うことは当たり前のように思われることばかりです。でも当たり前であっても、当たり前に出来ないこともたくさんあります。悔い改めにふさわしい実を結ぶ場は、実に至る所に備えられている。それは毎日の何気ない生活の場において、当たり前に出来ていないことを、丁寧に当たり前に行って行くことだと示されます。それでも、私の行いによって、神の怒りを免れるかどうかは分かりません。私が決めることではなく、神様がお決めになることだからです。

 今日の福音書の最後で『ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた』とあります。ヨハネが知らせる福音とは何か。それは次のように示されます。神の怒りは確かに、この私に向けられている。それを、何かおまじないのようなもので、言わば厄払い出来るかのように思っているとしたらそれは間違いだ。神の怒りは厳然とある。しかしヨハネは3章3節にあるように『罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた』。そして今日ヨハネは、主イエス・キリストは『聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』と告げました。これがヨハネが示した『罪の赦しを得させるため』の洗礼です。そしてここに福音が示されます。この洗礼を受けた者は、聖霊の働きによって、主イエス・キリストが共にいて下さることを知ります。そして共にいて下さるイエス様によって、日々悔い改めて、火で焼き尽くすように、私の罪を取り除き、清い者へと造り変えて下さいます。

 今日の第一日課のゼファニヤ3章17節は『お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる』と預言しました。また交読文イザヤ12章6節は『シオンに住む者よ、叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方』と預言しました。そして預言通りにヨハネは、聖霊によってただ中におられるお方を指し示すのです。クリスマスの出来事は、まさに主イエス・キリストが、私たちのただ中におられる事の始まりを証しするのです。

 悔い改めにふさわしい実を結ぶ場は、こんな私にもふさわしい時と場に、ややもすれば当たり前に備えられていると申し上げました。それは裏を返せば、実が未だ結ばれていない事態が、身の回りにはたくさんある。それだけに神の怒りも、至る所に張り巡らされているようにも思えます。しかし今や私たちは、確実に向けられている神の怒りを恐れない。ただ中に共にいて下さる主イエス・キリストによって、日々、悔い改めにふさわしい実を結ばせていただく。そうやって今度は、悔い改めにふさわしい実を、こんな私にも備えられている、この日常という時と場に張り巡らしてまいります。

 もはや私はキリストの教会によって、神の怒りを免れる生き方から、神の怒りを恐れない生き方へと造り変えられて行くことに感謝申し上げます。

聖降誕主日

『幸いな者』ルカ1:39-55

 今日のルカ福音書は、二人の女性が登場します。一人はエリサベト、もう一人はマリアです。二人は親戚だったようです。マリアは今日の福音書のすぐ前の所になりますが、天使ガブリエルから、いわゆる受胎告知という事態に直面しました。最初は恐れを抱きましたが、最後は天使を通して語られた神の言葉を受け入れます。ルカ1章38節『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』。この時に同時に『あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている』という言葉を聞きます。それで、エリサベトに会いに行ったのが今日の福音書の場面です。

 エリサベトは、自分が身ごもる事は、直接天使から聞いたわけではありませんでした。夫のザカリアが天使から聞かされました。しかし彼は自分も妻も高齢であることを理由に、その時、天使の言葉を信じませんでした。それでしばらく口が利けなくなりました。そんな夫のザカリアから、天使の言葉を、恐らく身振り手振りで、エリサベトは聞かされたのでしょう。内容が内容だけに、余計に伝わりにくい、もどかしさもあったことでしょう。エリサベトについて聖書は、次のように記しております。ルカ1章24-25節『その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました』。エリサベトのこの五か月間もまた、苦悩の時ではなかったかと想像します。マリアの時と同じように、事の重大さに圧倒されて信じることが出来ず、不安もあったことでしょう。しかし最後は主なる神様の言葉と働きを、受け入れさせられて行ったのです。

 そんな時に、マリアの訪問を受けた。聖書には書いてありませんが、マリアから受胎告知の出来事を、聞かされた事でしょう。それは自分の身にも起こされて来た事とも重なります。マリアの不安な気持ちにも、大いに共感させられた事と思います。そして、図らずも自分たち二人に起こされたことから、確かに神様がこんな自分たちにも目を留め、働きかけて下さるんだと、強く確信させられて行ったと思うのです。神様の律法には、二人ないし三人の証人の証言によって、事が立証されるというものがあります(申命17:6,19:15,マタイ18:16)。二人が神の言葉を受け入れさせられて行ったのには、この律法も背中を押したのだとも想像させられます。

それからこの時のエリサベトとマリアの関係は、親戚同士のようですが、エリサベトの方が、ずっと年上です。そしてお互いの生まれて来る子どもも、エリサベトが産むことになるヨハネの方が、イエス様よりも年上です。しかしエリサベトは、聖霊に満たされて『わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう』と言って、年下のマリアを尊重するのです。彼女らは、ここで改めて、神様の絶対的な働きに包まれる体験をした。それ故に人間的な価値観や常識は、徹底的に退けられてしまう。そこから立ち返って、自分たちが信じる神様は、実はこういうお方なのだと、高らかに告白賛美させられるのです。それが今日の福音書の、ルカ1章47節以下に記されてあります、いわゆる『マリアの賛歌』と呼ばれる所です。『マリアは言った』とあります。がしかし、エリサベトとの語り合いからも、与えられて行った賛歌ではないかと想像させられます。ですからこの『マリアの賛歌』は、マリアだけの賛歌ではない。マリアを通して示された、全ての信仰者の賛歌にもなるのではないか。

今日の説教題にもなっておりますが、ルカ1章48-49節は次のように記されてあります。『今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから』。ここで、マリアにとっての『偉大なこと』とは何か。神の子イエス・キリストを身ごもる、ということでしょうか。ちなみに、ユダヤ人にとっては『子が与えられる』『長生きする』『財産を得る』というこの三つが、神様からの祝福の徴とされています。マリアも神様からの祝福の徴どころか、神の子を宿すわけですから、これ以上のものはないように思われます。しかし、実際のマリアの立場に立たされた時に、これを神様からの祝福と受け止められたでしょうか。結婚前ですから、望んだ妊娠でもない。これを『幸いな者』と言えるでしょうか。何故、祝福なのか。何故『幸いな者』なのか。それは賛歌の中にも告白されているように、こんな私のようなものにも神様は目を留められて、私の中に働いて下さるんだと、強く実感させられたからではないか。そうやって、こんな私でも、必要な器として用いて下さるんだ。このようにマリアは動かされたのではないか。しかもマリアの場合は、マリアの体を小宇宙のようにして、まさに神の言葉と聖霊によって、無から有という、あの天地創造と同じような御業が起された。これぞ偉大な事ではないか。マリアはそのために用いられた『幸いな者』だ、というのでしょう。

創世記1章2-3節『・・神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。光あれ。こうして、光があった』。水があって、神の霊と神の言葉があって、これが天地創造の始まりです。こうして万物は創造された。最後に人も創造された。そしてその直後、人は神様の言葉に従わず、自らが神のようにならんとする、罪を犯しました。そんな罪人を神様はずっと心にとめ、時には戒め、人が自ら立ち返るのを待ち続けて下さっていた。そして究極の神の働きを起される。それは神様による、人を罪から解放する、人の再創造だ。そのために神様は、マリアを用いて、そこを小宇宙のようにして、羊水という水があり、神の言葉と聖霊によって、無から有の創造の業を現わされた。救い主イエス・キリストの誕生です。そこにはまさしく、第一の天地創造を経て、人が罪に陥ったのを、イエス・キリストによって、人を再創造することの、神様の決心が示されます。罪にまみれた人の中に創造されたイエス・キリストだからこそ、イエス・キリストを通して、罪人をもう一度本来の人の姿に、再創造するのです。

そのイエス様による再創造の業について、ヨハネ福音書3章3-6節で、イエス様は次のようにおっしゃられています。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。ニコデモは言った。年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。イエスはお答えになった。はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である』。更にイエス様は霊について、次のように語られています。『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである』。人が行動を起こす時、様々な制約や妨害に変更を余儀なくされることもあります。しかし霊の働き、即ち聖霊の働きは、何ものにも妨げられる事はないと、イエス様はここでおっしゃられる。この聖霊の働きに身を委ねる者は罪赦されて、たとえ悲しみや苦難に出会おうとも、決して絶望しない。『幸いな者』であり続ける。あのエリサベトも、そしてマリアもそうだった。

これから、一人の姉妹が、イエス・キリストのお名前による、水と霊との洗礼に与ります。この姉妹を通して、もう一度『幸いな者』であることに、立ち返って行こうではありませんか。

聖降誕日前夜

『地には平和』ルカ2:8-20

 先ほど読みましたルカ福音書2章8節以下は、イエス様の両親となるヨセフとマリア以外で、世界で初めて救い主イエス様の誕生を、天使から知らされた人間たちが描かれている所です。それは野原で野宿をしていた羊飼いたちです。そしてその天使に、天の大軍という、もっと多くの天使たちも加わって、次のように神を賛美したということです。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』。ちなみに、前半の『いと高きところには栄光、神にあれ』は、先ほどの讃美歌『あらののはてに』の中にある、ラテン語の歌詞の部分になります。『グロリア、イン、エクセルシス、デオ』です。それで実は今日は、その後半の部分に注目させられるのです。『地には平和、御心に適う人にあれ』という所です。今日の説教題にも引用させていただきました。後を絶たない戦争や、それに伴うたくさんの難民の発生、また病気の人や高齢者や幼い子供と母親たちこそが被る苦難は計り知れません。改めて、聖書が記す『平和』という言葉に目が留まってしまいました。

 聖書の中では、日本語では『平和』とか『平安』とか訳されている言葉ですが、ギリシア語で『エイレーネ―』と発音します。旧約のこれに当たるヘブライ語は『シャローム』だそうです。それでユダヤ人は挨拶の言葉としても『シャローム』を使うのだそうです。日本語で挨拶といえば『こんにちは・お元気』という言葉が思い浮かびます。聖書の世界ではその挨拶の言葉に、直訳すれば『平和』という言葉を当てているわけです。新約では『エイレーネ―』というギリシア語を当てはめて、イエス様が挨拶の言葉として、使われている場面があります。それはイエス様が十字架上に死んで復活された時に、弟子たちの前に現れて、挨拶されたというところです。聖書は『あなたがたに平和があるように』と訳しています(ルカ24:36,ヨハネ20:19,21,26)。復活されたイエス様が挨拶をされたのでしょうが、その『平和』という言葉には、やはり特別なものを感じさせられます。

 『平和・平安』と訳される、ギリシア語の『エイレーネ―』は、語源的には『話し合いができる』という意味なんだそうです。ですから、一つは、神様と話が出来る関係、これが『平和』と言うことになるでしょうか。そしてもう一つは、人と人とが話が出来る関係、これも『平和』と言うわけです。そして両方が成り立って、真の『平和』になる。羊飼いたちが聞いた賛美『地には平和、御心に適う人にあれ』というのは、御心に適う人には、神様と話が出来る関係があり、人と話が出来る関係がある。だから平和だ、ということになるでしょうか。

 今日の福音書の羊飼いたちは『今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子をみつけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』という天使の言葉を聞きました。それに対して『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と言って出かけました。天使の言葉は神様の言葉ですから、これはまさしく、羊飼いたちは神様と会話をして、まさに話が出来る関係になっている、ということでしょう。

 『布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子』が、あなたがたへの目印だと言うのです。日頃から、羊たちと生活をしている、自分たち羊飼いに相応しい救い主の目印を、わざわざ神様は備えて下さったのだ。この神様からの語りかけに応えない理由は無いでしょう。こんな自分たちでも、この神様は、話し合いが出来る関係に、神様の方から備えて下さった。更に羊飼いたちは、乳飲み子を探し当てた後『・・この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた』とあります。羊飼いたちは、社会的には、見下された、人々から差別を受けるような立場にありました。それが今や、人々と話が出来るようになったのです。ここに『御心に適う人』が示されている。ここに『平和』がある。そしてあの十字架の主を見捨てて逃げ去った弟子たちも、復活されたイエス様から『あなたがたに平和があるように』と挨拶を受けた。主イエス・キリストを通して、神様と話が出来る関係に招かれて行った。その弟子たちが、更に人と話をするようにして、救い主イエス・キリストを宣べ伝えて言った。人と話が出来る関係があったからです。そうやって、キリストの教会が建て上げられて、主イエス・キリストの平和が現わされて行く。

 戦争は国と国との対話が出来なくなった状態です。差別は、人と人とが対話が出来なくなる状態です。主イエス・キリストの神様はまず、人との対話を望まれ実現させます。それから、人と人とが、それぞれに話が出来る状態になることを望まれ実現させます。そうして本当の平和へ導かれます。まずは私一人であっても、神様とお話しが出来る関係に置いていただき、挨拶します。そして、たとえわずかでも、私が出会うことの出来る人と、話しが出来る関係が備えられて挨拶します。改めて挨拶の力を信じてまいります。そうして、世界平和への小さな一歩が踏み出されて行くことを信じます。

挨拶の力を信じると言えば、こんなことがありました。私は毎朝晩、犬と散歩をしています。通勤通学の途上や帰宅の途上にある方々とも出会います。ほとんど同じ時間帯で、同じ顔ぶれの方々ですので、顔見知りになります。顔見知りと言っても、ただ顔を毎日見ているというだけの関係です。ただあまりにも、ほとんど毎日会いますので、時々目が合う事もあって、目をそらす度に、段々と何故か後ろめたい思いが湧いて来ます。挨拶をすれば気が楽になるのかも知れないなあ、なんてしばしば思います。何かの拍子で、挨拶するようになった方もあります。その時には、何か冷たい氷が一気に溶け去って、温かい空気に包まれる思いにさせられます。挨拶ってすごいなあと思わせられる瞬間です。

 キリストの教会の主イエス・キリストを通して、もう一度、神様に応えて挨拶出来ますように。出会う人に応えてもう一度挨拶出来ますように。平和が拡げられてまいりますように。

降誕節第1主日

『両親に仕えて』ルカ2:41-52

 今日の福音書の箇所は、イエス様が12歳頃の様子が描かれた所です。少年時代のイエス様の事を伝える記事は、聖書の中ではここだけです。ルカ福音書には、何か意図があるのかなと、思い巡らしています。場面はその年の過越祭のために、ナザレからエルサレムに上京したというものです。過越祭というのは、昔ユダヤ人がエジプトで奴隷状態にあった時に、神様はユダヤ人モーセを指導者として立てて、彼のリーダーシップでユダヤ人たちが、エジプトから脱出して救われたという事を記念するお祭りです。ユダヤ人最大の救いの出来事として、毎年記念して行われます。その際には、小羊を屠ってその肉を食べます。そしてその肉は掟によって、エルサレム神殿の祭司によって屠られたものでなくてはなりませんでした(申命記16:5-7)。それで人々は毎年、言わばエルサレム巡礼をするわけです。その際に、各家庭の成人男子がこの巡礼を義務付けられておりました。しかしいわゆる信心深い家庭では、妻子も一緒に巡礼しました。ユダヤ人の男子は13歳が成人と定められ、諸々の成人男子に課せられた義務を負うことになります。この時のイエス様は12歳ですから、後1年で成人になります。今回はそのための予行演習的な意味合いもあったのでしょうか。それにしても、子供だとか成人だとか、年齢で区切るそういう境目は、便宜的で本質的ではないだろうなあと、また思い巡らしています。

 祭りの期間は8日間だそうです。祭りが終わって、親類や知人たちと組まれた、言わば巡礼キャラバン隊のようなものに、イエス様の家族も加わっていたのでしょう。その中にいるはずのイエス様がいないことに気づいた両親は、探し回りながら、エルサレムにまで引き返すことになった。三日の後に、ようやく神殿の境内におられるイエス様を発見出来たというわけです。この時のイエス様の様子を、聖書は次のように記します。ルカ2章46-47節『三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた』。このように今日の場面は、イエス様のいわゆる神童(かみのわらべ)ぶりが目立ちます。イエス様はこのように幼い頃から、言わば神がかっていたと、ことさらルカ福音書は伝えようとしているのでしょうか。そういう部分もあるのかも知れません。しかし聖書を読む時に、特にイエス様の事を、この自分と全く関わり無く、ただ対象化して評論するように読むとしたら、単なるイエスと言うお方の英雄列伝のようになってしまいます。今日の箇所でも『イエスと言う人は、小さい時から優秀だったんだなあ。だから大きくなっても、あれだけの業績を上げられたんだ』みたいな読み方になってしまいがちです。

 聖書はただ単に、いわゆるキリスト教の素晴らしさを宣伝するためのものではありません。イエス様の英雄列伝でもありません。聖書を通して、それを読む者に『あなたは何者ですか?』と、神様からの問いかけを聞かされるものです。そしてまた、聖書の言葉によって『ほら、聖書にこう書いてある』とか言って、自分の主義主張を権威づけるように利用するものではない。むしろ聖書の言葉によって、自分の主義主張が覆されるように読ませられるのです。今日の少年イエス様を描く聖書の言葉から、自分は今、何を覆させられるのか思い巡らしました。早速、冒頭でも触れましたが、人間を所定の年齢で区切って、大人と子どもに分ける事は、普通に行われています。しかしふと思い巡らします。子供も大人も同じ人間ではないか。それがあたかも、違う人種であるかのように、決めつけや『思い込みが』産まれて、それに振り回されてしまうとしたら、それは危険だろう。

帰路についたイエス様の両親が、イエス様がいなくなっている事に気づいた時の事です。両親は『イエスが道連れの中にいるものと思い』と聖書は記しております。何気ない言葉かもしれませんが、この『~しているものと思い』という事にも、ハッとさせられます。『思い込み』も垣間見えます。神殿の境内にいたイエス様が、学者たちに交じって、賢明な受け答えをしている事に、人々は驚いたとありました。ここにも一種の思い込みがあるようです。12歳の少年なら、この『程度』だろうという『思い込み』があって、その『程度』をイエス様が覆したのです。それで、人々は驚いたわけです。更に両親がイエス様を神殿で見つけた時『なんてことをしてくれたんだ。心配させて』となじります。『12歳のお前が、なんてことしているんだ』ということでしょう。12歳の少年は、こんなことをしてはいけないという、これも一種の『思い込み』かもしれません。

更にはもっと『思い込み』を覆されるイエス様の言葉に出会うのです。ルカ2章49節『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』。イエス様は神殿という父の家にいるのが『当たり前』だと言う。両親は自分たちと一緒にいるのが『当たり前』だと思う。ここでも両親の当たり前という『思い込み』が覆されるのです。『両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった』というのは当然です。もっとも、下手に分かったなんて言ったら、嘘でしょう。どうしたら『思い込み』が正されて行くのでしょうか。この後イエス様たちはナザレに帰ります。母マリアの事を聖書は次のように記します。ルカ2章51節『・・母はこれらのことをすべて心に納めていた』。このように、思い巡らすマリアの姿は、これまでにも、似たような様子で描かれています。いわゆる受胎告知の場面では、次のように記されてありました。ルカ1章29節『マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ』。それから、馬小屋の飼い葉桶に眠る幼子が、自分たちに向けられた救い主の目印だと、天使から聞いて駆け付けたと、羊飼いたちから聞いた時のマリアの様子です。ルカ2章19節『しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた』。神様の言葉は、分からないなりに、また思い巡らし続けるのです。このようなマリアの姿は、むしろ今の私たちにとっても、大切であるように示されます。

 今日の説教題にも引用しましたが、イエス様は『両親に仕えてお暮らしになった』と聖書は記します。ここは『両親に仕えて』というよりも『両親に愛されて』と言う方が普通であるように思われます。『仕える』という事の方が、イエス様らしいと言えばそうですが、これも『思い込み』になるのかも知れません。実はイエス様に関しては、イエス様の誕生から始まって、その死に至るまで、私たちはいつでも『思い込み』があります。そして『思い巡らし』をさせられるのです。馬小屋に産まれて、飼い葉桶に寝かされたというイエス様の誕生を、果たして誰が想像出来たでしょうか。『思い込み』があったからでしょう。そして今日の場面は過越祭の時ですが、イエス様が十字架に掛けられたのも、過越祭の時でした。十字架上に死んで、それで終わりではなかった。復活されたのです。ユダヤ人最大の救いの出来事とされる『思い込み』を、覆して人類全体の救いの出来事であると現わされた。そんな結末を、いったい誰が想像出来たでしょうか。

 両親に仕えてお暮しになったイエス様は『神と人とに愛された』と、聖書は最後に記しております。ここは直訳しますと『神と人とに好まれた』という程です。少なくとも『神の愛』に用いられる、ギリシア語で『アガペー』という言葉は使われておりません。神の愛は『自己犠牲の愛』です。人の愛は『自己中心の愛』です。聖書はここで、この両方の言葉を用いずに、あえて『神と人とに好まれた』と記したのです。そしてこれから、イエス様の言葉と行いを通して、神の愛と人の愛を、思い巡らして行くように、聖書から思い巡らし促されるのです。

 キリストの教会によって、『思い込み』と『思い巡らし』の緊張関係の中に、こんな私の生き方を整え導いて行って下さい。