からし種 394号 2022年3月

顕現後第5主日

『わたしは罪深い者』ルカ5:1-11

 今日の福音書の冒頭に『ゲネサレト湖畔』とあります。これは聖書によく出て来る、ガリラヤ湖の別名です。そのガリラヤ湖畔に立っていたイエス様の所に『神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た』とあります。『神の言葉を聞こうとして』というのは、少々意外にも思われます。そういう理由もあるかもしれませんが、もっと直接的に、病気を治してもらいたいとか、悩みを解決してもらいたいとか、そういう理由で人々がやって来たというと、何となく『そうだろうな』と思ってしまうからです。実際、ルカ6章17節以下でも、おびただしい民衆が癒しを求めて、イエス様の下にやって来た事が記されてあります。ルカ6章18-19節『イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである』。しかしここでも『イエスの教えを聞くため』という理由も挙げられています。そうしますと、よほどイエス様が語られる言葉に、人々は、思いもよらない力を、感じ取っていたのかも知れません。

 先週も触れましたが、人々はイエス様の言葉を聞いて『その口から出る恵み深い言葉に驚い』た、とありました(ルカ4:22)。『恵み』という意味は『受け取る側の状態如何に関わらず、ただ一方的に与える』というものです。イエス様の言葉を聞くために集まって来た人々の多くは、自分自身を何とか神様に気に入られるように、いわゆる清く正しくしなければならないと、教えられて来たのでしょう。ところがイエス様の言葉からは、この自分自身がどうのこうのと心配するよりも、それを覆って包み込んでくれるような、神様の一方的な愛が、こんな私にも注がれている、そういう神様なのだと聞こえたのではないか。これが『神の言葉』なのだ。

 更に、イエス様の教えの言葉を聞いた時の人々の反応を、聖書は次のように記しております。ルカ4章32節『人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである』。当時の人々は、いわゆる律法学者と呼ばれる人たちから、聖書の解き明かしを聞き、それを神の言葉として来ていました。その律法学者の教え方は、過去の偉大な律法学者たちの聖書解釈を、そのまま引用して『偉大な教師の誰それは、このようにおっしゃっている。だからこうしましょう』と教えていたようです。語っているその人の言葉ではなく、借り物の言葉なのです。ですから聞いているものは、その心に響いて動かされることがなかった。ところがイエス様の言葉に権威があるというのは、つまり聞く人を動かす力を感じたということでしょうか。ちょっと脱線してしまうかも知れません。先週、東京都の元知事だった、石原慎太郎さんが亡くなられました。新聞でも、色々な人の哀悼の言葉が掲載されてありました。その中で、作家の高樹のぶ子さんの哀悼の言葉を一部引用します。『・・政治の世界に入っても、石原さんの発する言葉は政治家のそれではなく本人の言葉だったから、魅力的で人々の心を捉えもし、また一方で誤解も受けた。・・』。妙に納得させられたものですから、紹介させていただきました。石原さんがイエス様のようだと、言っているわけではありません。ただ、借り物では無い言葉には、確かに動かされるものがあると感じたからです。もっとも、ただ本音を隠さずに、語っているだけだ、という意見もあります。

 恵み深い、権威ある言葉を聞こうとして、イエス様の周りに群衆が押し寄せて来た。そこでイエス様は、舟から上がって網を洗っている二そうの舟のうち、シモン・ペトロにお願いした。彼の持ち舟に乗せてもらって、岸から少し漕ぎ出してもらった。そして舟から、岸にいる群衆に教え始められた。それにしてもペトロにして見れば、いい迷惑だったのではないか。当時の湖での漁は、夜中に行うものでした。松明を湖面に照らして、光を目指して近づいて来る魚をめがけて、網を降ろしていたわけです。ところがその日は不漁だった。夜が明けたので、岸に戻って網を洗っていた。そして早く家に帰って、床に着こうと考えていたでしょう。それなのに、イエス様から頼まれて、ペトロはまた舟を出さざるを得なかった。舟の中で、イエス様に一番近い所で、図らずもペトロは、神の言葉を聞くはめになった。それでも彼の耳に、神の言葉が届いただろうか。ずっと居眠りでもしていたかも知れない。あるいは眠気を必死でこらえつつ『早く話しが終わらないかなあ』と、ひたすら思っていただけではないだろうか。

 ようやく話しが終わって、やれやれ、これで岸に戻って、家に帰れるわいと、ペトロは思ったでしょう。ところが、あろうことかイエス様は、更にペトロに言うのです。『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』。何をばかなことを言ってんだよう。思わず口から出そうになった。だから、そんな言葉をぐっとこらえて、ペトロはしぶしぶ答えたのではないか。『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』。よくもまあペトロは『お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と言えたなあ、と思ってしまいます。考えてみれば、この状況からでは、断ろうにも断り切れないとも思えます。なにせ舟に乗って岸から離れて、湖の上にいるわけですから。あるいは、もう少し意地悪く考えて『ここはまあ、言われた通りにしてみよう。どうせ魚は採れるわけはないんだから。そうやって、漁に関してはど素人のイエス様に知らしめて、恥をかかせるのも一手かな』というこか。『夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした』という言葉に、そんなペトロの思惑が込められているようにも想像させられます。

 しかし『漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった』という。そこでペトロの反応に注目させられます。『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』。先ほどはイエス様の事を『先生』と呼びかけました。今度は『主よ』に変わりました。更に『わたしは罪深い者』と言った。このようにペトロを変えさせたものは何か。イエス様に恥をかかせようと思ってしまった事かも知れません。それこそ自分の傲慢さを恥じたのでしょうか。あるいは群衆がわざわざ神の言葉を聞くために、イエス様の所に来ている。それなのに、一番近くにいた自分は、一体何をしていたんだと恥じたのか。あるいは人間的な可能性に留まっている自分、それを絶対化してしまっている自分、それらによって結果結論が出てしまっていると思う自分、そんな自分を恥じると同時に、それらを超えるものがあると知らされた喜びもあったのではないか。だから『わたしは罪深い者なのです』と告白出来る、潔さも与えられたのではないか。

 そんなペトロたちに向けて、イエス様はおっしゃられました。ルカ5章10節『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる』。このイエス様の言葉こそ、この時のペトロにとっては、恵み深い言葉になって行ったのではないか。権威ある言葉になって行ったのではないか。こんな罪深い者を、むしろ人間をとる漁師に用いて下さるという。そうやってペトロたちも動かされて、すべてを捨ててイエス様に従って行ったのだろう。

 今日、戸塚ルーテル教会は、役員改選のための会員総会に与ります。誰に言われるのでもない。自ら罪深い者と、告白させられて行く者を、主イエス・キリストは、主のご用のために用いて下さる。今やキリストの教会によって語られる、恵み深い、権威ある主イエス・キリストの言葉に動かされて、私たちも応えて行こうではありませんか。

顕現後第6主日

『あなたがたは幸い』ルカ6:17-26

先週のルカ福音書の箇所は5章1節以下でした。冒頭で『神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た』とありました。それで『神の言葉を聞こうとして』というのは、少々意外にも思ったわけです。病気を治してもらいたいとか、悩みを解決してもらいたいとか、そういう理由で人々がやって来たというのなら『そうだろうな』と思えると申し上げました。そこで、今日の福音書のルカ6章17節以下では、おびただしい民衆が癒しを求めて、イエス様の下にやって来た事が記されてあります。特にルカ6章18-19節『イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである』とあります。注目させられるのは、イエス様の教えを聞く事と、癒して頂くこととがセットになっていることです。そうしますと、イエス様の教えを聞くことは、単に知識を詰め込むためというよりも、やはり目に見えない心の悩みとか、破れのようなものの癒しにも、関わることだと示されます。実際『汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた』とありますから、これはまさに、イエス様の教えの言葉にも関わる事だと想像出来ます。ルカ4章31節以下に、イエス様が言葉によって、汚れた霊に取りつかれた人から、悪霊を追い出された出来事が記されてあります。そしてそれを見た人々は、ルカ4章36節『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは』と記されてあります。そして今日の福音書の後半の部分は、イエス様の教えの内容を具体的に記しているようです。イエス様が山から下りられて、平らな所にお立ちになって、大勢の弟子や民衆に教えた、ということです。

マタイ福音書5章には、山でイエス様が説教をされたということで、山上の説教と呼ばれている個所があります。今日のルカでは、平らな所で説教をされたので、これを平地の説教と呼ぶ場合もあります。その教えの内容は、四つの幸いと、四つの不幸が、それぞれ対を為すように掲げられています。マタイの山上の説教には、不幸には言及されていません。ルカが敢えて、不幸にも言及するのは、何か意味があるようにも示されます。その四つの幸いを見ますと、それは普通に私たちが、不幸な事だと結論付けていることばかりです。それに対して四つの不幸を見てまいりますと、これまた普通に私たちが、幸福な事だと見なしていることばかりです。

そこでもう一つ、注目させられる言葉があります。四つの幸いの最後に、『預言者たち』と記されてあります。この預言者たちは、人々が聞きたくない言葉も含めて、神の言葉を忠実に人々に取り次いだ者です。ですから人々から嫌われ迫害された者たちです。この預言者たちは幸いだと、イエス様はおっしゃられるのです。言わば彼らは、人に媚びずに、神から離れることなく、神に信じ、神に忠実に生かされた者たちでした。一方、四つの幸いの最後には『偽預言者たち』と記されてあります。旧約のエレミヤ書の中に、偽預言者が登場しています。彼らは非難されています。それは何故か。彼らは、人々のご機嫌を伺うように、人々が聞きたい言葉だけを伝え続けた。そして肝心の神の言葉を、取り次がなかったからだと聖書は言います。彼らは結局、人に媚びて、神から離れていた。人間の思いが中心になって、言わば『的外れ』の言葉を伝えてしまった。ちなみに今申し上げた『的外れ』という言葉を、日本語聖書は『罪』と訳しています。考えて見ますと、満腹であったり、笑っていたり、人に褒められていたりしている時の自分は、どこかで自分を誇り、神様の事は忘れてしまっているかのように、振る舞っている。どちらかと言えば、飢えていたり、泣いていたり、迫害されている時には『神様、助けて下さい』と、その時だけであっても、神様のことを考えている。それじゃ、だめでしょう、と言われるかも知れません。自分の都合で、神様に着いたり離れたりするのではない。どんな時でも、苦しくても、嬉しくても、いつだって神様につなげられていることを、イエス様は教えられる。先ほど、イエス様の教えと癒しは、セットになっていると申し上げました。癒されたから、ハイ、さようならというのは、それこそ『的外れ』になる。でもそんなふうに、無意識にも振る舞ってしまう。そんな弱さを人間は持っている。そんな『的外れ』を、罪と聖書は言う。ですから、繰り返し、そんな罪を赦してもらわなければなりません。それはまさに、永遠の癒しとでも言いましょうか。一時の癒しでは解決出来ない罪が、イエス様の教えによって、赦しという永遠の癒しへと導かれてたい。

ルカ5章17節以下に『中風の人をいやす』という小見出しが付けられた箇所があります。ここは友人らしき男たちが、中風の人を、ある家に滞在しているイエス様の所に連れて行って、癒してもらおうとした場面です。ところが大勢の人に阻まれて、家の中に入れない。そこでイエス様がおられる所を目指して、その家の屋根を壊して、天井から病人をつり降ろしたわけです。その時のイエス様の言葉が興味深いのです。ルカ5章20節『イエスはその人たちの信仰を見て、人よ、あなたの罪は赦された、と言われた』。普通は病気の人を見て、病気を癒してもらいたいのだなと思うはずです。ところがイエス様が、真っ先にされたことは『あなたの罪は赦された』と言われたのです。問題は『あなたの罪』だと見て取った。そしてそれを癒された。罪の赦しという、永遠の癒しを施されたのです。そしてその後に、病気も癒された。

今日の第二日課は第一コリント書ですが、同じ著者の初代教会の伝道者パウロが書いた、第二コリント6章2節以下で、まさに神に捉えられたパウロが、神につなげられ続けて、永遠の癒しに与る生き様を、次のように告白しています。所々引用します。『・・今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。・・わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています』。

 自分の筋書きに合わない事態に直面して、それを私たちは絶対的な結果結論に断定してしまう。そして、永遠の不幸であるかのように絶望してしまいます。ところがこのパウロの言葉から、この世での全ての出来事は、結果結論では無いと言う。その先があると言う。その先は、十字架の死と復活の主イエス・キリストが保証して下さる、永遠の喜びの幸いがある。私たちはただ、それに至るプロセスをこの地上で生かされている。だから人々にも、この世の出来事を結果結論であるかの如く、振る舞わせてはいけない。それをパウロは『どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています』と告白するのです。

 キリストの教会によって私たちも『あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示して』幸いを証しし続けて行こうではありませんか。

顕現後第7主日

『人にもしなさい』ルカ6:27-38

先週の福音書は、今日の箇所の直ぐ前の所ですが、イエス様が山から下りて、平らな所で説教をされたと言うので、いわゆる『平地の説教』と呼ばれる所だと申し上げました。今日の箇所は、その説教の続きになる所です。先週の説教の箇所では、四つの幸いと、四つの不幸が、それぞれ対を為すように語られました。そこでは、次のように示されました。満腹であったり、笑っていたり、人に褒められていたりしている時の自分は、どこかで自分を誇り、神様の事を忘れたかのように、振る舞ってしまっている。それに対して、飢えていたり、泣いていたり、迫害されている時には『神様、助けて下さい』と、それでも神様のことが頭に浮かぶ。その時だけでは、だめでしょう、と言われるかも知れません。とにかく、苦しくても、嬉しくても、いつだって神様に繋げられていることが大切なのだと、イエス様は語られる。先週の聖書研究会でも、話題になった事ですが、空に高く上がる凧は、凧糸にしっかりと繋げられているから、高く上がってそこに留まっていられる。でも凧糸が切れてしまったら、どこかに飛んで行ってしまう。そんな凧糸も、時には緩んでしまうこともあるだろう。それでどこかに落ちてしまう。でも繋がっていれば、いつかまた高く舞い上がる事が出来る。そうやってまた誰かの役に立つ事が出来る。このように、まず神様との縦の関係がどうなっているのか、それをしっかりと再確認させるように、イエス様は四つの幸いと四つの不幸を語られた。

そして縦の関係があれば、横の関係もあるはずだ。今日の福音書は、その横の関係を問われるようです。『しかし、・・』で今日の箇所は始まるのです。そのキーワードは、ルカ6章31節『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』。いや、してますよ、と言えなくもない。こんな自分を愛してくれる人には、愛し返しています。善くしてくれる人には、当然、善くしますよ。そうじゃないと、何て恩知らずなやつなんだ、と言われてしまいます。もっとも、これは相手が最初にそうしてくれたら、私もするという条件付きです。それは、不完全な事かも知れません。実際イエス様はここで、そんなことは罪人でもやっているよとおっしゃられる。それで、やった気になるなと言われます。無条件に『敵を愛しなさい』とおっしゃられるのです。ここではたと、考え込んでしまう。何とか言い訳できる、抜け道はないだろうか。抜け道だとは言いませんが、ある人は、イエス様がここで言う敵とは、いわゆる宗教上の敵だと言うのです。宗教上の敵と言っても、危害を加える場合もあれば、もっと穏やかな場合もある。穏やかな場合には、何とか関りを持てるかも知れない。しかし、危害を加えられる場合には、これはもう、絶対に愛せない。憎しみだけが残ってしまう。

そこで今日の第一日課は、創世記45章からです。ここはいわゆるヨセフ物語と呼ばれる所の、クライマックスに当たる所です。このヨセフ物語は、創世記37章から始まります。たくさんの兄弟の中で、お父さんのヤコブからは、特別扱いをされていたヨセフ。そして彼は、生まれつき夢を解く賜物が与えられていた。ある時、自分が見た夢を兄弟たちに話しました。その内容は、兄弟たちをヨセフが支配するとか、ヨセフの前で、地面にひれ伏すといったものでした。益々ヨセフは、兄弟たちの恨みを買うことになります。ある時、羊を飼っている兄弟たちの所に、お父さんから行くように言われて、ヨセフは出かけます。ヨセフがやって来るのを、遠くから見かけた兄弟たちは、ヨセフを殺そうと企みます。結局、殺されずに、エジプトに行く商人に、彼は売られて行きました。エジプトでは、王の宮廷役人に奴隷として売られます。お兄さんたちを恨んだでしょう。あんな夢の話なんかしなければ良かったと後悔もしたでしょう。一方で、わがままで傲慢な自分の事も、考えたかも知れません。ああすれば良かった、こうすれば良かった、そんな毎日になるのでしょう。

ところがそんなヨセフの事を聖書は『主が共におられた』(創世記39:2)と記します。それはまさしく、主なる神様と繋げられ続けた、という事でしょう。繋いでいる糸が緩む事もあったかも知れません。がしかし、とにかく繋げられ続けた。もっと具体的に言えば、彼は今の境遇を羨み、後悔もし、兄弟たちを憎む事もあったかも知れません。しかし一方で彼は、置かれた境遇の中で、与えられた仕事を、主人のために心を込めて、一生懸命やって行くのです。それを聖書は『主が共におられた』と言うのです。カトリックのシスターの渡辺和子さんが書かれた『置かれた場所で咲きなさい』という言葉も思い起こされます。そんなヨセフに目を留めた主人は、もっと大切な仕事を彼に任せるようになります。しかしまた、そんなヨセフに、主人の妻が、誘惑するのです。それを拒否したヨセフは、彼女の怒りを買い、逆に彼女を誘惑したと主人に嘘をつかれてしまう。そして、エジプト王の囚人をつなぐ監獄に入れられてしまうのです。ここでまた人を憎み、ああすれば良かった、こうすれば良かったと後悔するでしょう。ここでも聖書は『主が共におられた』と記すのです。それでヨセフは、囚人として課せられた事を、一生懸命果たすのです。結果ヨセフは、囚人たちのリーダー役を担うようになるのです。

そうこうしているうちに、宮廷の役人だった二人の人が、過ちを犯して、ヨセフのいる監獄に来ることになった。ある時彼らが見た夢をヨセフが解くことになります。そして見事に解き明かしの通りになった。一人は王の側に、また仕えることになった。その際には、ヨセフの事を思い出して、王様に取りなすように頼んだはずでした。がしかし、彼は忘れてしまうのです。なおしばらくヨセフは監獄に居ざるを得なかった。ここでまたヨセフは、自分の境遇を、今度ははるか過去にまで遡って、恨んだり、後悔することにもなったのかも知れません。また一方で、やはり自分の傲慢さにも、少しづつ気づかされ、創り変えられて行ったのか。それから二年が経った頃、エジプト王が見た夢を、国中の誰も解く事が出来ない事態があった。その時、かつて監獄で夢を解いてもらった一人が、ようやくヨセフのことを思い出した。それで王様に召し出されたヨセフは、見事にその夢を解き明かした。その通りに、やがてエジプトを襲う大飢饉から、国を守ることが出来た。ヨセフの父や兄弟たちも、食料を求めてエジプトに来ることになった。一方ヨセフは、エジプトの総理大臣にまで上り詰めた。夢解きの賜物の故に、ヨセフは苦難に陥ることになった。与えられた賜物なのに、自分の名誉のために用いてしまったからだ。それで人を憎み、境遇を恨んだこともあっただろう。しかしまた、夢解きの賜物の故に、大臣にまで駆け上がる事になった。与えられた賜物を、与えて下さったお方のために用いたからだ。良いにつけ、悪いにつけ、様々な人間たちや出来事に遭遇し続けながら、一方でそんな周りの人間たちや出来事にも助けられて行った。自分も変えられて行った。変わる事がなかったのは、いつでも『主が共にいた』ことでした。
 そして今日の第一日課、創世記45章7-8節で、ヨセフとは知らずに食料を求めて来た兄弟たちに、自分の事を明かして言うのです。『神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です』。この告白に至るまでには、ヨセフもまたたくさん苦しみ、人を憎み、一方で人に助けられ、悔い改めさせられながら、与えられた命と賜物をもって、その生き方を問われ続けて行ったのです。それは神様に繋げられながら用いられて、しかも一人ではなく、同じように用いられる他者と共に、神様のご用のために生かされる生き方へと導かれて行った。『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』とか『敵を愛しなさい』というのは、何も倫理道徳の問題ではありません。神様との縦の関係と同時に、人と人との、横の関係はどうなっているのですかと問われるのです。

キリストの教会によって、キリストの教会だからこそ、神と人との関係を問い質され続けながら、もう一度、命と賜物を与えられる主イエス・キリストの神様のご用のために、人と共に生かされ続けて行こうではありませんか。

変容主日

『最期について話していた』ルカ9:28-36

 今日は教会独自のカレンダーでは、変容主日と呼ばれる日曜日になります。この日にはルカ福音書では必ず、今日の箇所が与えられます。ルカ9章29節『祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた』。ここから、イエス様のお姿が変容したと言われます。この出来事の後、イエス様は十字架の出来事が待つエルサレムに、いよいよ覚悟をもって向かわれます。それで教会カレンダーでは、この変容主日の翌週から、四旬節という、イエス様の十字架への道の苦難を覚える時となります。同時に悔い改めの時として、過ごすことになっております。更にその向こうには、イースター、イエス様のご復活を記念する時が待っているわけです。

 それにしても今日のイエス様の変容の出来事は、実に不思議です。ペトロとヨハネとヤコブの三人の弟子たちは、イエス様に連れられて山に登った。そして祈っていた時に、このイエス様の変容の出来事に出会ったという。それだけではない。はるか昔に死んだはずの、あの有名な指導者モーセと、預言者エリヤも、イエス様と一緒にいたというのです。三人の弟子たちは『ひどく眠かった』という事ですから、夢でも見たのでしょうか。この出来事は、マタイ福音書もマルコ福音書にも記されてあります。ですので、単なる夢物語ではないようです。ならば、神のように光り輝くイエス様が、現実に、死んだはずの二人の偉人と話しをしていた。しかも天の雲の中から『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声まで聞こえた。そうやって改めて、イエス様の偉大さを伝えようとしているのだろうか。そういうこともあるかも知れません。がしかし、更に聖書が伝えようとしているものに、耳を傾けてみたいのです。いずれにしても、この出来事は、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを通じて、聖書にも記され、伝えられて来ていることです。ですから、彼らが体験したという事だけに留まらない、全ての人々にも関わるような意味が、込められているのではないか。

 そこで今日の福音書のすぐ前の所には、イエス様が第一回目の、ご自分の十字架の死と復活を予告されたことが記されてあります。ルカ9章22節『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』。この箇所の『・・することになっている』という言葉に注目させられます。そういうふうに、あらかじめ計画され、決定事項であるかのようなニュアンスなのです。それはもちろん、イエス様に関わる事なので、そうすることになっていると、イエス様ご自身が勝手に言われているということなら、何の反論もしようもありません。しかしそうではなくて、既に聖書の中に、イエス様の事が、そういうふうに予告されている、と言う見解ならば『ええ、どこに』と言わざるを得ないのです。ここで言う聖書とは、今私たちが手にしている旧約聖書のことです。イエス様がここで予告されているような言葉としては、直接的には旧約には見当たりません。それは当然と言えば当然です。しかしイエス様を主なる神様として、神様が『あなたたちは私を捨てた』(申命32:15,士師10:13,イザ1:4,エレ2:13,etc)という言葉が、旧約の至る所に見受けられます。これらの神の言葉の延長線上に、イエス様はご自身を据えて、私は捨てられるように、排斥される。更にはその究極として、殺されると予告されたとしたらどうなのか。また『三日目に復活する』なんていう言葉も、旧約にはない。しかしこの『三日目』を、旧約を根拠とするイエス様の言葉があります。ルカ11章29節以下で、旧約ヨナ2章1節以下の出来事に言及されている所です。マタイ福音書の方の、12章39-40節から引用します。『・・預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる』。もはや旧約聖書全体から、この予告の言葉を聞いて行くのだと、イエス様はおっしゃられているとしたらどうだろうか。

 しかし人間は、旧約聖書全体からと言われても、全体であるだけに、言葉だけではなかなか焦点がつかみづらい。そこで今日の変容の出来事が、備えられているとしたらどうだろうか。聴くだけでなく、視覚にうったえられるようにして、旧約聖書の言葉全体に示される、イエス様の予告の言葉を受け入れさせられて行くのです。モーセとエリヤとは、聖書の中では、まさに聖書全体を現わす代表的な人物として引用されています(cfルカ16:29)。そのモーセとエリヤが、イエス様と話しをしている。ルカ9章31節『二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた』。今日の説教題にも入っておりますが、『最期』と訳されているギリシア語は『エクソドス』と発音します。『脱出・出発』とも訳します。この言葉から、今日の第一日課にもなっておりますが、出エジプト記の事を、英語で『Exodus』と呼びます。モーセはユダヤ人にとって、史上最大の救いの出来事として記念される、エジプト脱出を指導したリーダーです。そしてその、ユダヤ人にとって、史上最大の救いの出来事として記念されるお祭りのことを、過越の祭りと呼んでいます。そしてその祭りの最中に、イエス様は十字架に掛けられるのです。ちなみに、あの最後の晩餐は、過越祭で定められている食事です。このように、イエス様による十字架の死と復活の予告の言葉が、それを補完するように視覚化されたのが、今日の変容の場面ではなかったかと示されるのです。

 この時の三人の弟子たちは、あの予告の言葉を、聴覚だけでなく、視覚も交えて、まさに五感をもって味わうことになったのです。しかしこの時には、彼らの受け留めは不十分だったのでしょう。がしかし、それでも彼らの中にくすぶり続けたからこそ、このように変容の出来事も、言い継がれて聖書になって行ったのだと思うのです。十字架の出来事の後、イエス様が復活されて、その事を未だ信じることの出来なかった二人の弟子が、エマオという村に暗い顔をして、帰って行く場面が聖書にあります。そんな二人に、目に見えるように現わされ、一緒に食事までされた、復活のイエス様のことを聖書は次のように伝えています。ルカ24章25-27,31-32節『・・ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。・・すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか、と語り合った』。まさに五感を駆使して、イエス様の言葉と出来事を、人間たちは受け入れさせられて行くのです。

 日経新聞夕刊2/22日号の『あすへの話題』というコラムで、火曜日の執筆担当者である、作家の井上荒野さんが『やさしい人』と題して、次のように書かれていました。少し引用させていただきます。『パートナーのどこが好きか。そういう話をしていたときに、ある女性が、料理をシェアして食べているとき、彼はそのお皿の中で、一番美味しい部分を私にくれるんです、と言った。・・私の中ではこの答えが、ベストオブ、パートナーのどこが好きか、である。やさしいところ、と答えるよりも、断然説得力があるうえに、やさしさというものの本質をあらわしているこたえではないだろうか』。

 神様のどこが好きか。愛してくれるところ、と答えましょうか。聖書は神の愛を次のように記します。1ヨハネ4章10節『・・わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました』。十字架の主イエス・キリストが、神の愛の本質を現わしていると聖書は言います。

 キリストの教会によって、全身全霊、五感をもって、主イエス・キリストの言葉に従ってまいります。