からし種 396号 2022年5月

四旬節第5主日

『この人のするままに』ヨハネ12:1-8

今日の福音書の箇所は、新共同訳聖書では『ベタニアで香油を注がれる』という小見出しが付けられてある所です。マリアという女性が、イエス様の足に高価なナルドの香油を塗ったという場面です。この場面には、マリアの兄弟姉妹であるマルタとラザロも登場します。このラザロについては、今日の箇所の前の所ヨハネ11章38節以下になりますが、病気で死んでしまった彼を、イエス様が生き返らせたという出来事がありました。これは周りの人間たちに、大きなインパクトを与えたようでした。特にイエス様に敵対する、ファリサイ派の人々について、聖書は次のように伝えています。ヨハネ11章47-48,53節『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。・・この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ』。それでイエス様は弟子たちと一緒に、エフライムという町に退かれました。それからユダヤ人最大のお祭りの一つであります、過越祭が近づきました。ユダヤ人であれば、誰もがエルサレム神殿に参拝するはずです。そこでまた、イエス様に反対する者たちの事を、聖書は次のように伝えます。ヨハネ11章56-57節『どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである』。結局イエス様は、この過越祭の時に、十字架に掛けられたわけです。

そして今日の福音書の場面になります。イエス様も当然、身の危険を十分に感じていたでしょう。それでもベタニアに行かれ、親しくしていたマルタとマリア、そして生き返ったラザロがいる彼らの家で、食事を共にするのです。もはや、この家にいる人たちも、これからどんな危険な出来事が起こるのだろうかと、非常な緊張感をもって、この場に臨んでいたとも想像されます。どうすればこの事態を、うまく潜り抜ける事が出来るだろうか、そんな相談も当然、行われるかも知れません。ところが、そんな緊迫した場面にあって、何か場違いではないかと思われるような光景が始まったのです。ヨハネ12章3節『そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった』。

このマリアの行為に対して、弟子のユダの言葉から、言わば『なんて、もったいない、無駄な事をするんだ』という思いも伝わって来るようです。この香油を売れば、貧しい人々を助ける事が出来るというのです。がしかし、実はユダは、そんな正義の人ではないとも、聖書は伝えています。後にイエス様を裏切ったユダですから、ここでも聖書は、ユダを悪しざまに伝えています。それはその通りなのかも知れません。しかし、ここにいる人々は皆、どこか似たような、言わば殺伐とした緊張感の中に、置かれていたのではないだろうか。ユダはお金の事を気にしていたのだろうし、また別の人は、身の安全のことも気になっていたのかも知れない。とにかく、この緊急事態に、そんな高い香料を使ってる場合ではない。増してや聖書は『家は香油の香りでいっぱいになった』と伝えています。がしかし、そんなことは二の次でいいのではないか。わざわざ伝えるような事ではないようにも、読者である自分も思うわけです。もちろんマリアは、イエス様に『良かれ』と思う事を行った。その『良かれ』が、ピント外れではなかったか。イエス様の命に関わる事態が、これから始まろうとしているのです。身を守るための武器や防具はどうするのか。もちろん、お金も必要だ。マリアはこの事態に相応しい、もっと有意義な『善かれ』を考えるべきだったのではないか。

そんなマリアの行為をイエス様は、次のように評価します。ヨハネ12章7節『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから』。『わたしの葬りの日のため』とおっしゃられるのは、御自分の十字架の死を指し示すものでしょう。そもそも香油は、腐臭を防ぐためにも、遺体に塗る習慣があったからです。しかしマリアがそこまで詳しく、十字架の事を意識して、香油を塗ったのかどうかは疑問です。しかしもしも意識していたとしたら、それは敗北を意識していたということになります。それこそ、これから勝利を目指そうとしているこの場にあっては、増々、場違いだということになります。ただしイエス様の身の上に、良くない事が起こるかも知れない、という事は感じていたかも知れません。だからせめて今は、この香油で、少しでも不安が和らいでほしい。それは周りの人間たちにも、そうなってほしい。そんな愛の願いからの、行動だったかも知れない。ちなみに、箴言27章9節には以下の言葉が記されてあります。『香油も香りも心を楽しませる。友人の優しさは自分の考えにまさる』。もちろん武力がまかり通るような現実には、何の足しにもならないかも知れない。

実はこの香油注ぎの出来事は、マタイ、マルコ、ルカの他の三つの福音書にも記されてあります。マタイ、マルコ、ルカは、共観福音書と呼ばれて、それぞれ同じような記事が、最初から最後まで、たくさん重複して見られます。ところがヨハネ福音書だけは、他の三つの福音書に無い記事の方が圧倒的に多いのです。今日の箇所の後の、12章12節以下からは十字架の出来事に、聖書の語りは入って行きます。ですので、ここは当然、他の福音書とも重複する記事が多くなります。しかし、今日の箇所以前の所に限っては、この香油注ぎの出来事を含めて、七か所しか、他の三つの福音書と重複する記事は無いのです。その中には、バプテスマのヨハネとか、神殿から商人を追い出すとか、五千人の人々への供食とか、湖の上を歩いたとか、なるほどどれもインパクトがありそうだな、だから全部の福音書にも書かれているのだな、と思われる記事ばかりです。ところがこの、香油注ぎの記事だけは、他の記事に比べれば、そんなに重要ではないでしょう、と思ってしまうのです。それなのに、ヨハネ福音書にまで記されている。

マタイもマルコも、この香油注ぎの記事の最後で、全く同じ言葉を次のように記しております。マルコ14章9節『はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう』(マタイ26:13)。周りの誰もが、まずは自分の身の安全の事しか考えられないような、究極の事態に直面しても、このマリアという女性だけは、ただひたすらイエス様に『良かれ』と、香油を注いだ。そういえば、ルカ福音書10章38節以下に、やはりイエス様を家に迎えた時の、このマルタとマリアの姉妹が、それぞれに取った行動の事が記されてあります。姉のマルタはイエス様を歓待するために、忙しそうに立ち居振る舞っていた。一方マリアは、何も手伝いもせず、イエス様の足下で、ひたすら話に聴き入っていた。そんなマリアをマルタは非難します。しかしイエス様は『マリアは良い方を選んだ』(ルカ10:42)と擁護します。周りの目や評価に一切頓着しない、イエス様に対するマリアの、自由なひたむきさが伺われます。

この香油注ぎの記事について、ある牧師の見解を引用します。24年前に書かれたものなので、余計に注目させられました。『・・高価な香油を注ぎ死の葬りの備えをした女に象徴されるのは、イエスの福音に触発されて愛の行為に励む教会の姿であろう。・・主イエスを取り巻く殺伐とした雰囲気。無理解、裏切り。教会はそういう中に生きている。・・ひとりの女の行為を、弟子たちは浪費だと叫ぶ。合理化が叫ばれる時代、経済の破綻、女性就労の問題、少子化、預かり保育、家庭崩壊、被虐待児、教育の荒廃、これらすべては構造化された社会そのものに原因がある。すべからくユダ的発想の終焉の姿ではないか。・・信仰の本質は、いつも不合理と浪費をともなう。・・一人の魂に限りない愛を注ぐ主イエス。聖なる浪費の体験のない生活こそむなしい』。

自分にとって、何が『聖なる浪費』になるのだろうか。いつまでに、あれもしなくては、これもしなくてはと思いつつ、ひたすら遊びに夢中の、幼稚園の子供たちとも関わって来た。この3月も、小学校、中学、高校、大学を卒業した、かつての園児たちが、ちらほらと顔を見せてくれた。そして先週の木曜日は、卒園式を過ぎても、預かり保育で元気な顔を見せてくれた年長児も、今日で園生活が最後となったと、親子で感謝の言葉を残してくれた。そしてまた、新たな出会いが、今週も備えられている。ひたすら遊びに夢中の園児たちとの生活が始まる。これを浪費と呼んだら、もちろん非難を受けるかも知れない。でもこれぞ『聖なる浪費』と信じたい。

現実の不合理と浪費に四苦八苦しながらも、キリストの教会によって、聖なるものを見失わないように整え導いて下さい。

受難主日

『自分を救ってみろ』ルカ23:26-49

今日の福音書の箇所は、まさにこれから、イエス様が十字架に掛けられて行くという場面です。そしてその場面には、様々な人間たちが登場しています。その人間たちについては、何か対照的に映るような、二様に分けられるようなのです。まずシモンというキレネ人が登場します。キレネというのは、今の北アフリカにあるリビア東方の地域になります。過越祭のためにそこから、いわゆる上京したのでしょうか。そしてどういうわけか、イエス様ご自身が背負うべき十字架を、彼が背負うはめになったのです。弱り果てていたイエス様が、十字架を背負いきれなくなったのを見たローマ兵が、たまたま近くにいたシモンを捕まえて、代わりに背負わせたという状況でしょうか。恐らくシモンはこの時、野次馬的傍観者的に見物していたのでしょう。そんなシモンにとって、恥ずかしい不名誉な事に出くわしてしまった。いわゆる『運が悪いよねえ、あの人は、たまたまあんな目に遭って』と言われそうなのです。しかしまた聖書の中に、次のようなイエス様の言葉が記されてあります。ルカ9章23節『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。彼は不本意ながらも、このイエス様の言葉通りの事を行う羽目になった。しかもイエス様の十字架を、あたかも自分の十字架のようにして背負った。それはまさしく、イエス様の十字架の出来事の、当事者のようになってしまった。その後のシモンの歩みはどうなったのか。その事を暗示する言葉も、聖書には記されてあります。マルコ福音書にも、この場面のシモンの事を描いております。そこではシモンの事を『アレクサンドロとルフォスとの父』(マルコ15:21)と記されてあります。そしてその息子の一人のルフォスについて、初代教会の伝道者パウロが、ローマ16章13節で次のように記しております。『主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです』。この、その後の家族の消息からしますと、シモンも、紆余曲折はあったとしても、確かに傍観者から当事者へと、キリストに繋げられて行ったのではないか。そんなふうに想像させられます。

イエス様の十字架の当事者になったシモンですが、一方、傍観者のような人間たちがこの後登場します。ルカ23章27節『民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った』という。この嘆き悲しむ婦人たちというのは、一説によれば、いわゆる葬儀で雇われる『泣き女』の事ではなかったというのです。ですからイエス様は『わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け』と言われたのです。『そんな、他人ごとのように、わたしのために泣くな。これはあなた方が泣くべき事態なんだよ』という事でしょうか。まさに婦人たちは、この十字架の出来事に対して、実際には傍観者のようであったと聖書は言うのです。

更に傍観者と言えば、ユダヤの議員たちや、ローマの兵士たちの振る舞いや言動も、典型的な傍観者のものです。ルカ23章35節『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』。ルカ23章37節『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ』。ここの『~なら、~してみろ』という言い回しは、やはり聖書の中の、あの場面が思い浮かびます。それは、イエス様が本格的に伝道活動を始めようとされる直前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けた、あの場面です。ここで悪魔は繰り返し『神の子なら、~してみろ』(ルカ:1-)という言葉を投げかけています。聖書は、この傍観者的な言動を、悪魔だと言います。

そしてこの時、イエス様と一緒に十字架に付けられた、二人の犯罪人の事も聖書は伝えています。一人の方がイエス様に向かって言いました。ルカ23章39節『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』。この言動もまた、典型的な傍観者の者です。ところがもう一人の方が言いました。ルカ23章40節『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに』。イエス様と同じ刑罰を受けている。この言葉から図らずも、イエス様の十字架を、当事者として受け入れたと示されるのです。もちろん彼は、そんな当事者だなんて、意識しているはずもありません。ただ、天国には当然行けないけれども、せめて私のことを思い出して下さい。それがあなたと、仲間である事の徴となればいい、と願うのです。それに対してイエス様は、はっきりと『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』とおっしゃってくれました。まさに自分の十字架を、当然彼は、これは自分のものだと受け入れた。そして同時にそれは、イエス様の十字架をも、自分のものとして受け入れる事になってしまった、そんなふうに示されるのです。

そして最後にローマの百人隊長による、不思議な言葉を聖書は伝えています。ルカ23章47節『本当に、この人は正しい人だった』。イエス様の十字架に至る一部始終を見て考えて、彼はこのように言ったのでしょう。ここで彼が言う『正しさ』とは、どういう意味なんだろうか。悩み考えさせられます。この彼の言葉の直前に、イエス様は次のように大声で叫ばれました。ルカ23章46節『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』。創世記2章7節に次のように記されてあります。『主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった』。この『命の息』とは神の霊のことです。人は神の霊によって生きる者になる。ですからイエス様はここで『死ぬにしても生きるにしても、全て父なる神の支配の下にある。だから私の命は父なる神に委ねます』と言ったのです。そんな最後のイエス様の言葉と、これまで見聞きして来たイエス様の振る舞いから、この百人隊長は深く考えさせられ続けて来たんだと思うのです。その結果、どんなに人から正しい人間だと言われたって、神の目に正しくないのであれば、その人間は正しくないのだ。そんなふうに、父なる神様の絶対性を、とことん尊重出来る者は人間の中に居るだろうか。自分が悪い時もあるかも知れない。でも、どうしても悪くないと言いたい時もある。あの旧約聖書のヨブの事も思い出されます(cf.ヨブ9:20-23etc)。しかし、それでも神様の絶対的な正しさの前には、自分の正しさを正しいとは言わない。しかしイエス様はそれをした。何も言い訳をしなかったからだ。だから百人隊長は悩み考えさせられた末に、告白させられた。父なる神様の絶対的な正しさの前に、100%自分は正しくない者だと振る舞った、そんなイエス様を見て『本当に、この人は正しい人だった』と。それは、いわゆる傍観者では得られない告白ではなかったか。つまり、何も考えないで、見た通り、言われた通りにするのが傍観者だからだ。一方、悩んだり考えさせられたりするのが当事者なのだ。この百人隊長も、イエス様の十字架の出来事の、やはり当事者とさせられて行ったのではないか。それにはまた、時間もかかるものなのだ。

先週の6日は午前中、キリスト教を学ぶ会があり、夜は聖研が、それぞれオンラインで行われました。こんな事が話題になりました。参加者の方が『聖書の翻訳には、分かりにくい所がありますが、こんな訳し方でいいんですか。これでは却って、キリスト教布教の妨げになるのではないですか』。それに対して、次のように答えました。『聖書翻訳は人間がする事ですが、余りに分かり易くなってしまうと、却って翻訳者という人間の、詠み込み過ぎの危険性も起こってしまう。本来の神の意図を大切にするが故に、ややもすれば翻訳が分かりにくくなるのかも知れない。しかしそれだからこそ、聖書を読む者は、悩み考えさせられるのではないか。そうやって、聖書の当事者にさせられて行くのではないか。つまり考えさせられているこの自分が、翻訳者の一人にさせられていくのです』。また学びの中で、いわゆるキリスト者としての服装だとか、礼拝に出席した時の服装とか、そんな事も話題になりました。しかし聖書の中には、特に服装の規定はありません。それは一人ひとりが考えて、今、何を着たら相応しいだろうかと、判断して決めて行くものです。規定があれば、何も考えずに服装の選択が出来ます。規定が無ければ、自分で考えなくてはなりません。なかなか面倒なことです。しかし面倒でも、考えるからこそ、むしろキリスト信仰の当事者にさせられて行くのではないか。

あらゆる時と場所にあって、悩む当事者に向けられるイエス様の言葉が、改めて響いて来ます。『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』。

主の復活日

『言葉を思い出した』ルカ24:1-12

今日のルカ福音書が伝えるイエス様の復活の出来事については、復活されたイエス様ご自身の姿は、描かれておりません。この後の、ルカ24章13節以下では、復活のイエス様のお姿にも言及されています。復活だなんて、なかなか信じ難い出来事のようです。ですから、復活されたそのお姿を見れば、もっと簡単に信じられるようになるのでは、とも思ってしまいます。しかしその13節以下の所を読みますと、復活のお姿を見ても、やはり、直ぐには信じられない人間たちが描かれています。また今日の箇所は墓の中ですが、例えばそこで、遺体のイエス様が起き上がって、復活しましたなんて言われたとしたら、それを喜ぶどころか、びっくりして逃げて行ってしまうのではないか、とさえ思ってしまいます。復活を信じるのは、見ればいいというものでもないのかなあ、とも考えさせられます。

今日の箇所には、復活のイエス様は登場しておりませんが、むしろその方が、現代の私たちには身近なものになるのかなとも思います。ガリラヤから従って来た婦人たちが、習慣に従って、イエス様の遺体に香料を施すために墓に来ました。墓穴を塞いでいた石が取り除けてあり、墓の中に入ることが出来ました。しかし遺体は無かった。もちろん復活のイエス様もそこにはいない。ただ『輝く衣を着た二人の人がそばに現れた』。この描写からすれば、この二人は天使のようです。婦人たちは恐れて地に顔を伏せてしまったという。どうでしょうか。こんな反応をしてしまう人間たちに、たとえ復活のイエス様が現れたとしても、直ぐに喜ぶでしょうか。やはり恐れてしまうだけではないか、と思うのです。

そこで考えさせられました。世界で最初のイースターの朝、ルカ福音書が真っ先に伝えるのは『イエス様のお姿に出会った』という話ではない。まず『イエス様の言葉を思い出した』というのです。現代の私たちも、イエス様のお姿に出会った、という話はあまり聞きません。しかし少なくとも、現代の私たちも、こうして毎日曜日毎に、イエス様の言葉を思い出し続けています。それから婦人たちは『墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた』ということです。いわゆる宣教をしたということでしょう。その時には、イエス様の復活を信じていたのだろうか。信じたから『皆に一部始終を知らせた』のでしょうか。どちらとも言えないかも知れません。でも、そこで聞いた言葉、思い出した言葉、それらをとにかく伝えたくて、使徒たちの所に走ったのは確かです。そんな熱気のようなものは伝わって来るのです。現代の私たちも、教会で聞いた言葉を、思い出した言葉を、誰かに伝えたくなることがあるでしょうか。このことからも、今日の世界で最初のイースターの出来事に、むしろ身近さを感じさせられるのです。

 そして婦人たちの言葉を聞いた人々の反応はどうだったか。『使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった』とあります。このこともまた、現代の私たちにも、しばしば出会う反応です。いわゆる伝道活動では、様々な反応に出会います。そして受け入れられて行くには、長い時間が必要なのでしょう。しかし今日の場面で、ペトロだけは、婦人たちの言葉を聞いて、墓に走ったようです。復活を信じたのかどうかは分かりません。ただペトロにとっては、一つ気がかりな事があったのでしょう。自分は結局、イエス様を裏切ってしまったという、負い目のようなものを、抱いていたからだと思われます。イエス様が復活しただなんて、もしかしたら祟りのようなものが起こるかも知れない。そんな不安な思いが、墓に走らせたのかも知れません。言葉を聞いて動くには、いささか恰好の悪いものではあります。がしかし、それでも聞いた言葉が、ペトロの心に、良いにつけ悪いにつけ、響いたのは間違い無い事です。

先週の聖書研究会では、テキストから戦争やテロの事が話題になりました。戦争の始まりは、攻撃するものがあって、それを防ぐために応戦します。敵と味方、善と悪というように、はっきりと陣営が分かれます。そして結末は、勝者があって敗者があります。しかしどちらの陣営にも、多大な犠牲が産まれるのです。どの戦争も皆、同じようなパターンに見えます。今も起こされている、ウクライナでの戦争も、同じように見えます。直接戦火を交えていなくても、いわゆる武力による威嚇競争も、止まる事を知りません。改めてイエス様の言葉が思い出されます。マタイ26章52節『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる』。更にどうしても、敵と味方しかいない関係を見るにつけ、またイエス様の言葉が思い出されます。エフェソ2章15-16節『・・こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました』。これらの言葉は、これまでにも聞かされ続けて来たものでしょう。そして、ややもすれば、理想や建前のように、祭り上げられてしまっていることもあるかも知れません。しかしそれでもまた、次の聖書の言葉にもすがりたいのです。イザヤ55章11節『そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす』。

 まず言葉が語られる。またそれから言葉が思い出される。そしてまたその言葉が宣べ伝えられて行く。語られ伝えられた言葉に反応した理由がどうであれ、反応した人間が、たとえ一人であっても、言葉に動かされて行く。世界で最初のイースターの出来事は、そんなふうにして、また現代の私たちの内に響き渡るように、語り掛けていてくれる。今日はこれから、語られ伝えられた言葉に反応した、4人の方々が、動かされて、ご復活の主の洗礼に与ります。ここにまた私たちは、まさに『わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす』という主の言葉に、アーメンと力強く唱えるよう迫られるのであります。

復活節第2主日

『あなたがたを遣わす』ヨハネ20:19-31

先週は世界で最初のイースターの出来事を、ルカ福音書から聞きました。そして、礼拝の中で洗礼式も行われました。説教題は『言葉を思い出した』でしたが、礼拝後にある方から『今日は洗礼式を見ながら、自分が受けた洗礼式の事も思い出していました』と言われました。『言葉を思い出す』というのは、単にイエス様の言葉だけを思い出す、ということではないでしょう。イエス様の言葉から始まって、イエス様の行為行動の全てを思い出す、ということでしょうか。ですから結局『イエス様を思い出す』ということだと示されます。ご自分の洗礼式を思い出したというその方は、大変、感動されたようにお話しして下さいました。聖書の中の『思い出す』(ギリシア語で<ミムネースコマイ>と発音)という行為は、とても重要なことです。先週は聖餐式も久しぶりに行われました。その式の中で、設定辞と呼ばれるイエス様の言葉が牧師によって唱えられました。『・・これはわたしのからだである。わたしの記念のため、これを行いなさい。杯をも同じようにして言われました。・・わたしの血による新しい契約である。わたしの記念のためこれを行いなさい』。大部省いて紹介しましたが、パンの時にも、ぶどう酒の時にも『わたしの記念のため』という言葉が唱えられています。この『記念する』という言葉が、場面によっては『思い出す』というふうにも訳されているものです。これらは聖書の中ではいずれも、昔を思い出して『あの時は良かったね、懐かしいね』というように、記念したり、思い出したりしているものではありません。昔のあの時に働いて下さった主なる神様が、あるいはイエス様が、今この時にも同じように働いて下さっている、というように記念するものです。あるいは思い出すのです。この事を日本語では『想起する・想い起こす』とも訳されています。個人的にはこの方が相応しいのではないかと思っています。想起するように、記念する、思い出す、というわけです。

世界で最初のイースターを先週はルカ福音書から聞いたわけですが、今日はヨハネ福音書から、世界で最初のイースターを聞いています。ルカ福音書では、まずイエス様の言葉を思い出した、ということで、イエス様のお姿は登場しませんでした。今日のヨハネ福音書では、お姿が登場します。『弟子たちは、主を見て喜んだ』とあります。しかし、何か喜んでいるところに留まらないかのように、間髪入れずにイエス様の言葉が続くようです。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』。ユダヤ人たちを恐れ、イエス様を見捨てて逃げ去った弟子たちを、イエス様はここで、もう一度、イエス様のご用のためにお用いになる、というのです。それはまさしく弟子たちにとっては、赦しの宣言のようにも聞こえるものでしょう。赦された弟子たちだからこそ、罪のままにいる人間たちのこともよく分かる。だから全ての人間たちに向けての、イエス様の罪の赦しの働きのために、用いられて応えて行くことが出来て行くのでしょう。イエス様の聖霊を受けて、弟子たちは宣教して行くのです。先ほど、洗礼式を見て、ご自分の洗礼を想起した方のお話しをしました。それはまさしく、洗礼を受ける者を通して、イエス様の救いの業が宣べ伝えられていることです。洗礼を受ける者は、そこで即、宣教するものになっているのです。しかも洗礼は、そこでイエス様の聖霊を受ける、いわゆる聖霊体験をするものです。そう考えますと、今日のヨハネ福音書の、弟子たちが聖霊を受けて派遣命令を受けているのは、まさしくこの時の弟子たちにとっての、イエス様による洗礼を受けていることになるのでしょう。世界で最初のイースターで、宣教のための、世界で最初の洗礼が起こされたと、今日のヨハネ福音書は伝えるようです。

そしてまた今日の福音書は、派遣命令を受けた弟子たちの中に、不在だった者がいたことを伝えています。『ディディモと呼ばれるトマス』です。弟子たち仲間で、いつも一緒に行動しているはずなのに、何故かこの時は、彼だけいなかった。落胆して、十字架の出来事に怒りさえ抱きながら、彼だけどこかに行っていたのだろうか。それとも、たまたま、席を外していた隙に、イエス様が来られてしまった。それで、出会うタイミングを失してしまったということか。これを逃したら、もう永久に、イエス様に遭えないということなのか。そんなあせりと、自分以外の弟子たちが『わたしたちは主を見た』と、はしゃいでいる姿に嫉妬を覚えたのかも知れません。手やわき腹の傷跡に、手を入れてみなければ、復活なんて決して信じないと言い切ったのです。そこまで残酷な事を言うトマスは、もはやイエス様から、見放されていると思われても、間違いではないでしょう。ところが、そんなトマスにまた、復活のイエス様が現わされるのです。何時なのか。実はそれがまた重要な事なのです。それは八日の後でした。つまりイースター直後の、世界で最初の日曜日です。言わば、世界で最初の復活節第2主日です。その日にトマスは、復活のイエス様に出会うのです。しかも場面は、前の週と全く同じ、鍵のかかった家の中でした。こうしてここから日曜日毎に、キリスト教会は礼拝を守ることになるのです。毎週復活のイエス・キリストを想起し、今まさにここに、復活のイエス様が共におられると、信じる事が出来るようになるのです。言わば、毎週の日曜日がイースターになるのです。しかしそれにしても、前の日曜日も、この日曜日も、場面は鍵のかかった家でした。それをこじ開けるかのような、ご復活のイエス様。今やキリストの教会の毎日曜日の礼拝も、家の鍵も心の鍵も無意味であるかのように、復活のイエス様に出会うのでしょう。

この時のトマスは、いきなり『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい』とイエス様から言われて、びっくりしたことでしょう。『あの時の自分の発言を、イエス様はどこかでしっかり聞かれていたんだ』。強固なトマスの心の鍵も、イエス様には、何の障害にもならないのです。『疑わないで、信じなさい』と言われるよりも『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』という言葉かけは、何かイエス様の温かい赦しの眼差しを感じさせられます。そしてトマスは告白しました。『わたしの主、わたしの神よ』。『この方は、こんなわたしのことまでも、全てを知っていて下さるんだ』という、心からの信頼に包まれた、信仰告白のように聞きます。そして最後は、やはりヨハネ福音書も、イエス様の言葉によって宣言されます。『見ないのに信じる人は幸いである』。

ご復活の主よ、あなたは今もこうして、毎日曜日毎に、相変わらず恐れや破れの鍵で閉ざされた、こんな私たちに入り込んで下さり、赦しと永遠の命に包んで下さいます。キリストの教会によってあなたを想起し続けます。