からし種 397号 2022年6月

復活節第3主日

『そうすればとれる』ヨハネ21:1-19

今日の福音書の冒頭に『その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現わされた』とあります。『また』ということですから、その前にも復活された御自身を、弟子たちに現わされたわけです。それが先週のヨハネ福音書の箇所でした。今日の箇所の直ぐ前の所になります。十字架上に死んでしまったイエス様に、落胆した弟子たち。自分たちも捕まえられると恐れて、ある家の中に逃げ込んだ。そして鍵をかけて、息をひそめていた。イエス様を見限ってしまった、後ろめたさと恐れが、ない交ぜになっていただろう。これからどうしたら良いのか、弟子たちは途方に暮れていた。そんな弟子たちの間に、復活されたイエス様が、堂々と真ん中に立たれて言われた。隅っこでは幽霊のようだから。『あなたがたに平和があるように』。その言葉に弟子たちは、後ろめたさが拭い去られたのではないか。『ああ、赦していただけたんだ』。そして更にイエス様は『わたしもあなたがたを遣わす』とおっしゃられた。そして息を吹きかけ、聖霊を注いだ。赦しを与えられた弟子たちを、復活のイエス様の宣教の働きのために、お用いになられるのだ。その宣教の働きとは『罪の赦し』が、人々の中に実現することだ。それは言わば、イエス・キリストのお名前による、聖霊のバプテスマを受けた者たちの群れのようだ。この群れを今や私たちは、キリストの教会と呼んでいる。

遣わされる弟子たちは、この後、どうしたのか。さぞかし、いわゆる宣教伝道の働きに、邁進させられて行ったんだろうなあと想像させられます。それが今日の福音書の場面です。どんなふうに、復活のイエス様の宣教の業に、いそしんでいるのかと思いきや、ティベリアス湖畔で漁をしていたというのです。そこは弟子たちの中の、ペトロやゼベダイの子らが、かつて漁師をしていた場所でした。宣教伝道に邁進するにしても、やはり生活の糧は必要なんだろう。それにしても何か一気に、現実に引き戻されてしまったかのような感もあります。ここにいた弟子たちは、7人だったと聖書は伝えています。冒頭で触れましたように、先週のヨハネ福音書の箇所から、キリストの教会の原点が示されていると聞きました。その原点の教会を担った弟子たちは、いわゆる12弟子と呼ばれていた弟子たちに、まずは限られていたとしましょう。そうしますと、後で加えられたトマスを入れて、裏切ったユダを除けば、その場にいた弟子の数は、11人ということになります。

いずれにしても、教会のメンバーが11人から7人へと減りました。減っても、キリストの教会であることには変わりはありません。雲散霧消しなかった。むしろよくぞ7人は、留まって行動を共にしたなあと思います。少なくとも7人のうち、漁師だった3人は一緒になるとしても、そこに更に4人が加えられている。そうやって群れが保たれている。その7人の内の、名前が分かっている5人に注目させられます。12弟子はみんな、結局、イエス様を裏切った事には変わりはありません。そんな中でもペトロは、十字架に向かわれるイエス様に向かって『あなたのためなら命を捨てます』と言い切りました。しかしイエス様はそんなペトロに言いました。『鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう』(ヨハネ13:37-38)。そしてその通りになりました。ディドモと呼ばれるトマスについては、先週の福音書の箇所でも詳しく描かれておりました。イエス様が復活されたことは、その姿を見ないと信じない、と言い切っていました。そんなトマスに、再び現わされたイエス様は言われました。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』(ヨハネ20:29)。ナタナエルは、このヨハネ福音書の第1章の所に登場していました。イエス様がお育ちになった、ナザレが位置する地域に対して、いわゆる差別感情を抱いていた人物でした(ヨハネ1:46-)。ゼベダイの子たちとは、ヤコブとヨハネのことです。彼らはイエス様を歓迎しない人々に対して『・・彼らを焼き滅ぼしましょうか』(ルカ:54)と言った事がありました。それで『雷の子ら』(マルコ3:17)とも呼ばれていたようです。更にこの二人の母親が、イエス様に次のように願い出た事がありました。『イエス様が王座に就く時には、息子の二人を右大臣と左大臣にして下さい』(マタイ20:20)。更に聖書は、名前が記されていない『ほかの二人の弟子が一緒にいた』と記しております。十二弟子の中の誰かかも知れません。あるいは、今この福音書を読む、この私たちに置き換えても良いのかも知れません。いずれにしましても、何か一癖も二癖もあるような弟子たちです。洗礼を受けたからと言って、持って生まれた性格が変わるはずもありません。そういうものを、相変わらず自分の中に持ちながら、弟子たちはこれから、復活のイエス様に用いられて行くのです。

ところが生活のためとは言え、彼らは宣教よりも、漁師をしていた。そして、不漁だったようです。そこに復活のイエス様が現わされました。『お前たち、何をしているんだ。そんなことをしている場合ではないだろう』とは言われませんでした。何をおっしゃられたのか。『子たちよ、何か食べる物があるか』。この言葉は、まるで弟子たちが、あたかも宣教を放ったらかしにして、食べることに走ってしまっている姿を、むしろ丸ごと肯定しているかのようです。『私だって食べたいよ。お前たちもそうだと思うよ』。弟子たちが『ありません』と答えました。すると『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ』と、さりげなく提案してくれた。言葉通りにすると、大量の魚が取れた。そのとたんに、弟子の一人が『主だ』と叫んだ。それで一同は岸に戻ったら、食事の用意がされていた。『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。聖書が伝える、この時の弟子たちの様子が印象深いのです。『弟子たちはだれも、あなたはどなたですか、と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである』。もはや騒ぐ必要もない。静かな当たり前の日常が強調されるようです。そしてここに、世界で最初の主イエス・キリストの聖餐が示されているようです。

生活の場がある。復活の主の言葉がある。その言葉通りにする。主が食卓を用意して下さる。その食卓に与る。そんな日常の中でもう一度、復活の主に用いられる。そして弟子のペトロに、復活の主は三度に渡って言葉をかけます。『わたしを愛しているか。わたしの羊を飼いなさい』。もちろんこの言葉は、ペトロだけに向けられている言葉ではない。他の弟子たちにも、そしてそれに連なる、全てのキリストの教会に向けられています。『羊』とは、確かな導き手無しには生きて行くことの出来ない、全ての人間たちのことです。そういう人々は、何も遠くまで探しに行く必要はない。直ぐ近くにいる。そこに出て行って、人々を愛しなさいとおっしゃられる。それがキリストの教会の生き方なのです。そして敢えて言えば、キリストの教会に連なる、宣教する者の一人ひとりにとっては、それが死に方になると言うのです。キリストの教会の生き方は死に方だ。

コロナ、ウクライナ、遊覧船事故。起こってほしくない出来事が続いています。次のような新聞記事に目が留まりました。『・・この2カ月、テレビやネットで戦場の風景が大量に流れた。命の感覚のまひが懸念される一方、逆の悩みを持つ人も増えたという。悲しい情報を浴び続けることで、影響を受けすぎ心が不安定になってしまうのだ。・・2011年の東日本大震災の時、糸井重里さんは、できることをしよう、と呼びかけた。何もしないのではなく、しかし過剰な荷を負うのでもなく、それぞれの場所で自分にできることをする。日常生活を保つことも、できることの一つだと』。それから先週の木曜日に、幼稚園のある保護者の方と面談をしました。『先生、コロナの問題で、今まで行われて来た事が出来なくなって、園児たちもかわいそうですね』。私は次のように答えました。『そうですね、大人は過去を知っていますから、あれも出来なくなった、これも出来なくなったと、数え上げることは出来ます。でも、今の園児たちは、過去は知らないわけですから、今目の前にあるものが全てなんです。ですから、いつでも子どもたちは、今目の前にあるものを喜び楽しむ事が出来るんです。そうやって、この今を、一瞬一瞬を大切にして、精一杯喜び楽しんでいるんです。そんな子どもたちの姿に、むしろ大人である自分の方が励まされています』。

どんな時にも『そうすればとれる』というご復活の主によって、今ここで、できることをして、主の派遣の言葉に応えてまいります。

復活節第4主日

『わたしの羊』ヨハネ10:22-30

今日の福音書の冒頭に『神殿奉献記念祭』とあります。別の日本語訳聖書の、いわゆる口語訳聖書では『宮きよめの祭』と記されてあります。紀元前168年にシリアの、アンティオコス・エピファネスという王様による侵略によって、エルサレム神殿にゼウスという神の偶像を据えて、ゼウス神殿に力づくで変えてしまった出来事がありました。その他にも、ユダヤ教の律法の書物を悉く引き裂いたり、割礼を禁止したり、ユダヤ人にとってはとても耐えられない屈辱を被らせ続けたわけです。そこでとうとうユダヤ人の、マカバイ家出身のユダという英雄が登場して反乱を起こし、シリアの支配からの解放を戦い取ったわけです。そして、神殿も取り戻して、いわゆる異教の汚れからの『宮きよめ』をしたわけです。この記念の時は11月から12月にかけてでした。以後、ちょうど冬の時期になりますが、この『宮きよめ』の出来事を記念して、『神殿奉献記念祭』を守って来ていたわけです。この辺の詳しい事情は、新共同訳聖書では続編のマカバイ記に記されてあります。

今日の福音書の場面は、そのお祭りの時だったわけですが、この時のエルサレムはやはりローマという外国の支配下にありました。『宮きよめ』の出来事が起こされた時は、シリアという外国の支配下にありましたから、今日の福音書の場面では、この記念祭を祝いながら、一方で、同じようにローマの支配から解放してくれる、あのマカバイ家出身のユダのような英雄を待ち望んで、ユダヤの人々は祈り続けて来たと思われます。そんな背景の中で、エルサレムの人々も、イエス様に関する色々な評判を聞かされていたようです。今日のヨハネ福音書は10章ですが、9章では生まれつき目の不自由な人が、イエス様の行為によって、目が見えるようになった出来事が記されてありました。しかしその行為は、医療行為も含めて、一切の労働行為をしてはいけないという安息日に行われたものでした。それでユダヤ教団の偉い人たちの間で、議論が沸き起こってしまったのです。ヨハネ9章16節『ファリサイ派の人々の中には、その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない、と言う者もいれば、どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか、と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた』。

更に今日の福音書のすぐ前の所です。イエス様が人間を羊に譬えて、ご自身も羊飼いに譬え、次のような事をおっしゃられました。ヨハネ10章14-15節『わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる』。この言葉の後も、羊飼いと羊に譬えて、ご自分の事を語られたわけですが、これらの言葉からも、人々に議論を湧き起こさせました。ヨハネ10章19-21節『この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。ほかの者たちは言った。悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか』。

このように人々の間で対立が生じている中で、神殿奉献記念祭があり、その神殿の境内で、対立を生じさせていた張本人である、イエス様を見かけてしまったわけです。早速、そんなユダヤ人たちが、イエス様を取り囲んで詰問しました。ヨハネ10章24節『いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』。このもの言いは、どうもイエス様に反感を抱いていた側の人々のようですが、そうばっかりではないようにも思います。いずれにしても、どちらの側であっても、ユダヤ人は全員、あのマカバイ家出身のユダのような英雄、メシアを待ち望んでいたはずです。安息日を守らなくたって、そう言えば、あのシリアの支配下にあった時、ユダヤ人は安息日には戦争をしないという事を知っていたシリアが、安息日に戦争を仕掛けて、何千人ものユダヤ人が殺されたことがありました。そこでマカバイ家出身のユダは、安息日でも戦うことを決心して、それで劣勢を跳ね返して、『宮きよめ』を果たしたということです。ですからイエス様が安息日を守らなかったとしても、とりあえずは今は良いではないか。今はローマの支配下からの脱却が優先課題だ。だから、とにかくあんた何者なのかはっきりして下さい、と言うわけです。結局、イエス様が何を言おうと、人間の思惑で、イエス様のことは如何様にも解釈されてしまうわけです。

しかしイエス様は言いました。ヨハネ10章25-26節『わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである』。イエス様は『私はこういう者だと言っているのに、あなたたちは信じないだけなんだ』と言うわけです。では何故信じないのか。それは『わたしの羊ではないから』だと言うのです。羊は羊飼いに、命という全てを委ね切っています。ですから、羊飼いが何を言おうと、信じてその言葉に従うことが出来るのです。あなたたちはイエス様と、そういう関係になっていないだけだ、というわけです。では何故、イエス様のことを信じることが出来ないのか。それは、先程も申し上げましたが『イエス様が何を言おうと、人間の思惑で、イエス様のことを解釈』しているからです。安息日を守らないからと言って、罪人だと言い、片や守らなくても、取り合えず敵を蹴散らせばメシアだと思う。それぞれに、メシアとはこうあるべきだという、それぞれが造り上げたメシア像を持っている。そういう人間の思惑に基づいて、判断しているからです。メシアとしてイエス様に期待を寄せている人たちも、イエス様がおっしゃられる『命を捨てる』という言葉に、引っかかる人たちもいたでしょう。マカバイ家出身のユダのような強さを思い描いていたでしょうから。それはユダヤ人たちに限らず、全ての人間たちも抱いている思惑でしょう。メシアは死ぬはずがないと。侵略者があれば、それを跳ねのけるヒーローを人々は期待するものです。しかしそんなヒーローも、登場しては、いずれ人々から見放されていなくなる。同じように侵略者も、滅ぼされてはまた新たに登場して侵略者になる。そんな事を繰り返し続けているのが、人間の歴史です。真のヒーローは、メシアは、そんな人間の思惑という、人間的常識や筋書きや願望には沿わないと言う。人間の思惑を捨てて、唯信じる。そのためには、イエス様からのものではない、どんな人間的思惑を、自分は抱いているのだろうか。それを吟味し続ける。そういう自分を、正直に見据えて行く作業が大切です。

今やキリストの教会は、イエス様の肉の姿も肉声も、見たり聞いたりはしません。しかしイエス様の言葉によって、自分が相変わらず抱く、イエス様からのものではない人間の思惑、人間的常識、人間的習慣、人間的筋書き、人間的願望は、知る事が出来ます。今日戸塚ルーテル教会は、定期会員総会が開かれます。2月にも会員総会がありました。総会で行われる役員改選作業は、立候補制ではなく完全投票制を私たちは採っています。教会の働きは、自分がしたくても、してはならないことがあります。自分がしたくなくても、しなければならないことがあります。教会の主であるイエス様のご意思が、最優先だからです。役員決めの投票も、投票数の多い順から一回で決める、というものではありません。投票総数の過半数に達する者から選任されます。そのためには何度でも、過半数に達するまで投票を繰り返します。それは役員に選任するお方は誰か、という事です。教会役員は教会の主である、イエス様が選任すると信じているからです。投票総数の過半数に達する過程を通して、イエス様のご意思を問い尋ねているのです。キリスト教会とて、この世的には人間の集団です。知らず知らずのうちに、人間的な思惑に飲み込まれて、この世的論理で運営されてしまっていることがあります。ですからイエス様の思いに立たせていただくよう、絶えず人間の思惑を、吟味し続けるのがキリストの教会です。そしてそれらを、また世に問うて行くように、押し出され、用いられる群れなのです。

主よこれからも、あなたの羊として用い続けて下さい。

復活節第5主日

『互いに愛し合う』ヨハネ13:31-35

今日の福音書の冒頭に『さて、ユダが出て行く』とあります。ユダはいわゆる十二弟子と呼ばれる、イエス様に従っていた十二人の弟子たちの一人でした。イエス様を裏切った弟子として有名になってしまった人物です。出て行ったのは、まさに裏切る手はずを整えるためでした。今日の福音書のすぐ前の所になりますが、ヨハネ13章27節『ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、しようとしていることを、今すぐ、しなさい、と彼に言われた』とあります。また13章30節『ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった』とあります。これを読んで傍観する私たちは、サタンが入り込んだユダが、夜の闇の中を裏切りのために出て行った様子を想像しますと、まさにこの世界が、暗黒に包まれて行くように暗示させられます。普通に私たちは、起こってほしくないことが、これから起ころうとしている事が事前に分かれば、当然、それを防ごうとします。しかしこの時の他の11人の弟子たちは、そんな危険性すら全く、予期していなかったようです。それはまた世界が、暗黒になることすらも、想定していないかのようです。

しかしイエス様だけは、これから何が起こされるのかよくご存じでした。ところがイエス様は、私たちが当然考えるように、起こされようとしていることを、防ごうとはしなかった。ユダの裏切りが起こされ、イエス様は殺されるかも知れない。しかし、むしろ起こされようとしていることが、必要であるかのように、イエス様は振る舞われている。更にはユダが、裏切りのために出て行った時の言葉も驚きです。ヨハネ13章31節『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった』。人間的価値観からすれば、栄光でも何でもないではないか。むしろ絶望的暗黒ではないか。しかしヨハネ福音書が語る栄光とは、イエス様の十字架の死と復活であります。暗黒の中にある世界に、神の栄光の光が差し込むという。イエス様の十字架の死と復活が、神の栄光であるというその意味については、既にヨハネ福音書3章16節以下で次のように記されております。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。・・光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために』。直接的には、ユダの裏切りによって、イエス様は十字架に掛けられる事になった。それらは結局、ユダ個人の罪によるだけというよりも、全ての人間の内にある罪によって、イエス様の十字架は引き起こされた。それはまさに、父なる神様が、独り子のイエス様の命までも、世に与えたという出来事だった。ここに父なる神様の愛が示されています。そしてイエス様の復活を通して、その神の愛による人間たちの罪の赦しが示される。それが神の栄光だと言うわけです。ここで重要な事は、どんなに人の目には良さそうな人間であっても、父なる神様の目によれば、全ての人間は神に対して、罪人だと言う事です。少なくともユダだけではない。

初代教会の伝道者パウロが、ローマの信徒への手紙を書いて、その3章9節以下では、聖書を引用して『正しい者は一人もいない』と告白しています。それはまた自分の身に起こった出来事からも、彼は確信させられていたのでしょう。今日の第一日課は使徒言行録からですが、その9章1節以下では、キリストを迫害する者だったパウロが、宣教する者へと造り変えられてしまった、いわゆるパウロの回心の出来事が記されてあります。その時のパウロにとっては、かつての迫害仲間からは、裏切り者として裁かれる。宣教する側の人々からは、スパイだと裁かれる。どちらに転んでも、裁かれ続ける者とさせられたのです。しかしそんな彼を神様は裁かず、用いて下さった。神の愛の赦しを知らされた。だからこそ、どちらの側にも偏る事なく、神の愛の赦しを伝え続けさせられて行ったのです。今日の第一日課の使徒言行録11章は、ペトロのもう一つの回心の出来事でしょう。キリスト者となったユダヤ人の中には、割礼を受けていない異邦人は救われない罪人だと、相変わらず裁いていました。それに対してペトロは自分の体験を話し、異邦人も主イエス・キリストを信じる信仰故に、救われることを証ししたのです。今日の使徒言行録11章18節『この言葉を聞いて人々は静まり、それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ、と言って、神を賛美した』とある通りです。

今日のヨハネ福音書でイエス様は言いました。ヨハネ13章34節『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』。『互いに愛し合いなさい』。これが新しい掟だと言います。『互いに愛し合う』ことは、イエス様でなくても、他でも言われて来ているのではないだろうか。どこに新しさがあるのだろうか。それは次の言葉に示されます。『わたしがあなたがたを愛したように』。イエス様の愛は、父なる神様の愛と一体です。ですから先ほども引用しました次の言葉に、イエス様による独特の愛が示されています。ヨハネ3章16-17節『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』。

イエス様に信じる私は、もはや裁かれない。だから信じる私も、他者を裁くことがない。今まではどうしても、結果的に『互いに裁き合いなさい』という所に、生きざるを得なかった。しかしこれからは、イエス様によって、キリストの教会を通して『互いに愛し合う』世界に生かされるという。そこはまさに暗黒から明るい光の世界になる。それでも相変わらず暗黒に見える。むしろ暗黒であることすら気づけないでいる。しかしイエス様によって、キリストの教会を通して、必ず明るい光の世界に導かれると信じます。ここに『新しさ』がある。日経新聞朝刊の『私の履歴書』という連載記事があります。今月は漫画家の里中満智子さんが担当されています。13日に書かれていた、記事の一部を引用します。『・・ベトナム戦争で恋人を失う女性とその友人たちを描いた、See You Again(83年)では、戦場の最前線に送られるプエルトリコ系の優しい青年が登場する。これに対しては、読者の父親から、米兵にいい人間はいないはずだ。そう教わった娘が、この漫画を読んで混乱している、と、批判の電話がきた。私からその男性にお電話して、1時間ほどお話しした。分かってもらえたか自信はないが、私としては、米兵を悪と決めつけてしまうことも、差別につながると思う』。

誰が考えても悪いと思わざるを得ない人がいる。しかしその人は、自分が悪いとは思っていないようだ。周りは、その人は更に悪いことをするかも知れないと言って結束を図る。それが増々分断を増長する。力づくで悪いものを取り除こうとすれば、戦いになる。戦いはいけないと思っていても、どうしても繰り返してしまう。まさに互いに裁き合いが続いている。『新しい掟』とおっしゃられるのは、どうしても、この古い状況から抜け出せないからだ。今日の最後の言葉に、また目が留まります。ヨハネ13章35節『互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる』。これが今や、キリストの教会に託されている。そして先ほども引用した、ヨハネ3章21節にも心留められます。『しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明かになるために』。

今から私たちは、先週の会員総会を受けて、役員・奉仕者就任式に与ります。戸塚ルーテル教会が、たとえ小さな所であっても、新しい掟という真理を、神に導かれて行われてまいりますように。そうして主イエス・キリストが、世に現わされて行きますように。用いられて行こうではありませんか。

復活節第6主日

『起き上がりなさい』ヨハネ5:1-9

今日の福音書の場面は『ユダヤ人の祭りがあった』という時です。何の祭かは定かではないようです。いずれにしましても、祭は普通には年に一回ぐらいの頻度になるでしょうか。ですから人々の間では、久しぶりに出会うという事もあるでしょう。新たな人との出会いもあるでしょう。しかし今日の福音書の場面は、そんな多くの人々の、興奮に満ちた出会いとは、全く無縁の人間に焦点が当てられるようです。べトザタと呼ばれる池の周りの回廊に、三十八年も横たわっていた病気の人です。そんな彼をイエス様は見て、病気のことも知って『良くなりたいか』と声を掛けられました。彼が答えました。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです』。

『水が動く』とか『池の中に入れてくれる人がいない』とか、今これを読む者には唐突で、分かり難いかも知れません。実は今日の箇所は、3節から5節に飛んでいて、4節が抜けています。これは、聖書の原本として、写本と呼ばれるものがあります。同じ聖書箇所でも複数の写本があります。それで、出来るだけ古い時代のものを、本来の聖書の言葉に最も近いと考えます。今日の箇所では古い写本には、4節が無いんです。より時代が下った写本にはあるようです。それで、このヨハネ5章でも、時代が新しい写本からのものは、併記しないで、4節だけは巻末に注釈付きで載せられてあります。次のような言葉です。ヨハネ5章3b-4節『彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである』。このような、この池にまつわる事情があって、それで大勢の病気の人たちが、池の周りの回廊に、横たわっていたということです。しかしこの大勢の病気の人たちの中にあっては、みんなライバルです。出会いがどうのこうのなんて、言っている場合ではありません。真っ先に水に入ることが出来た者から癒され、さっさとそこを出て行ってしまう。三十八年間も横たわっていたその人は、あたかも出会いが無いかのように、ただそこに横たわり続けていた。

そんな彼のことを思いますと、三十八年間ですから、もはやあきらめの極致に至っていたとも想像されます。自ら何とかしようとか、そんな気力も失せ切っていた。そういう人間には、たとえ出会いがあったとしても、何とかして上げようとは、人は動かされないでしょう。だめでも何とかしようと、繰り返しもがき続ける人間を見ますと、せめて一人や二人ぐらいの人は、助けてあげようと動かされることもあるかも知れません。この時の彼には、そんな気配も全く失せ切っていた。そういう彼に、いやそういう彼だからこそ、イエス様の方から声を掛けて下さった。そして『良くなりたいか』と言われた。普通に考えれば、当たり前で、尋ねるまでもないことです。しかし敢えてそのように尋ねられた。それは、彼のあきらめの極致から、何とか立ち上がらせようとされたのではないか。彼の方も『何を言っているんだ。見りゃ分かるだろ。当たり前じゃないか』と、怒りを露わにしても良かった。しかしそんな気力すらも、失せていたということでしょうか。相変わらずのあきらめムードでした。それでも彼は、イエス様を無視しないで応答します。周りまであきらめさせてしまっているような、こんな自分に目を留めてくれる人がいた。そんな喜びのようなものが、それでもどこかから湧いて来たのかも知れません。しかし彼の応答の言葉には『わたしを池の中に入れてくれる人がいない』というように、自分がどうしよう、ではなくて、周りがああしてくれない、こうしてくれないと、相変わらずあきらめの雰囲気が、やっぱり滲み出ているのです。

そんなあきらめ切った彼の心の水槽に、まさに水が動いて波紋が起こされるかのように『起き上がりなさい』と、イエス様は一喝されるようです。何かあきらめが、一気に取り除かれたのかと思う位に、彼は良くなって歩き出したのです。この時イエス様は『床を担いで歩きなさい』ともおっしゃられました。その通り彼は床を担いで歩き出した。今日の福音書の最後は『その日は安息日だった』と記されてあります。この後の10節にも『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない』と記されてあります。しかしイエス様は、それを承知で、敢えて『床を担いで歩きなさい』とおっしゃられた。律法を逆手に取って、彼に『働きなさい』とおっしゃられているようです。あきらめの極致にある彼にとっては、出会いも無ければ、もはや生きる意味も見失っていた。そんな彼に『与えられた命と賜物をお返しするように働きなさい』と言われるようです。彼がその日は安息日であったとは、知っていたのかどうかは分かりません。それよりも、彼が歩けるようになるのは、イエス様の言葉を受けた、この今しか無い、ということでしょう。まさしくこれが出会いです。そして、この出会いに至るまでに、病気を抱えて三十八年が経っていた。今、病気が治って、過去を振り返ってしまうと、どうしても『これまでの三十八年間は何だったのか』と、つい考えてしまいがちです。無意味な三十八年間だったのか。それをこれから取り返す事が出来るのか。そんな思いも湧いて来るかも知れません。病気だけが癒される事に焦点を当てれば、そんな後悔も産まれて来るでしょう。しかし一方で、イエス様と出会うことが出来た、その事にも焦点を当てたらどうか。これまでの無意味だと思われた人生があったからこそ、こうしてイエス様との出会いが果たされたのではないか。こうしてまたきっと、イエス様によって、これからもたくさんの出会いや出来事が備えられて行くんだろう。あの三十八年間も意味ある時間なんだから、これからも全ての出来事や、もちろん出会いにも、それぞれに意味が備えられている。今度はそれらの意味を見て、聞き取って行きたい。

今日の第一日課は、使徒言行録16章9節からです。キリスト教会初期の伝道者パウロが、今のトルコからギリシアに渡るようにして、世界で初めてヨーロッパに、キリスト教伝道に入ったと言われる場面です。パウロは当初、ヨーロッパに行くつもりは無かったようです。特にフィリピはローマの退役軍人が住む町でしたから、いわゆる皇帝崇拝に熱心な町ということになります。キリスト教伝道には、最も成果が望めそうもないと思うような町でした。しかし何らかの情報が入って、伝道と言うよりも、とりあえず人助けをして、それ以上の事は何も期待せずに、フィリピに入ったのだと思うのです。従来はユダヤ教の会堂を拠点に据えていましたが、案の定、そこには会堂も無くて、川岸に祈りの場があると聞いて出向いたわけです。そこで紫布を扱う商人のリディアに出会います。これがパウロにとって、生涯の中でも、とても大切な出会いの一つとなるわけです。パウロの説教を通して、彼女と彼女の家族もイエス・キリストに出会い、洗礼を受けた。それからこの後も、人間の筋書きを超える出来事と出会いがあった。リディアたちの働きもあって、フィリピにキリスト教会の群れが建て上げられて行くのです。それらはまさに当初の、パウロの筋書きを覆す出来事であり出会いの連続でした。リディアは仕事柄、裕福だったこともあったのでしょう、フィリピ教会はこれ以後も、パウロの宣教活動を経済的な面でも、力強く支え続けて行ったのです。

新約聖書に『フィリピの信徒への手紙』が載っています。パウロが、獄中で自分の近況報告と勧めを、フィリピ教会に宛てて書いたものです。獄中の身でありながら、この手紙は全編にわたって『喜び』が語られているのです。それで『喜びの書簡』とも呼ばれています。次の言葉を引用します。フィリピ1章17-19,21節『他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。・・わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです』。マイナスとも思えるあらゆる出来事が、ことごとくプラスへと変えることのお出来になる、イエス・キリストの働きを、力強く確信させられている、そんなパウロの意気込みが伝わって来ます。

キリストの教会を通して、今も私たち一人一人に相応しく『起き上がりなさい』と語り続け、働いて下さる主イエス・キリストに感謝し、またその思いに応えてまいります。

昇天主日

『わたしたちの内にいる』ヨハネ17:20-26

今年のイースターは4月17日でした。その日から数えて40日目が、今年は先週の26日(木)になります。この日を教会独自のカレンダーでは、主の昇天日と呼んでいます。そして、それを過ぎて最初の日曜日を、本日の、昇天主日と呼んでいるわけです。主の昇天の事は、使徒言行録に次のように記されてあります。1章3-5,8節『イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。・・あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる』。約束された聖霊が間もなく弟子たちに降る。聖霊を受けた者たちは復活のイエス様の証人となる。そして世界中に散らされて行く。これらの言葉を残して、復活のイエス様は昇天されたわけです。その約束の聖霊の降臨は、その日から更に10日後の事でした。それをキリスト教会では、聖霊降臨日として記念しています。その記念日が、今年は来週6月5日となっております。聖餐式も行われる予定です。『聖霊を受けた者たちは復活のイエス様の証人となって、世界中に散らされて行く』とありましたが『この復活のイエス様の証人たち』が、キリストの教会であります。ですから、聖霊降臨日は、キリストの教会の誕生日、とも言えるわけです。

今日の昇天主日は、聖霊降臨日の前触れのようですが、大切な意味も込められてあります。復活のイエス様が昇天されるということは、言わば物理的には、地上ではもはやイエス様を見ることは出来ない、ということになります。そういうことについて、キリスト教会初期の伝道者のパウロという人が、エフェソの信徒への手紙1章20-23節で、次のように書いています。『神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です』。昇天の際に約束の言葉によって、聖霊が降り、教会が与えられる。もはやキリストの教会が、昇天のイエス様と私たちとをつないでいてくれる。つないでくれるどころか、そのパウロの告白によれば『教会はキリストの体』だと言います。という事は、教会の群れに連なる一人一人は、キリストの体の耳や目や手足といった、一つ一つの部分ということになります。そのことについても、同じパウロが1コリント12章27節で、次のように告白しています。『あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』。

そこで今日の福音書は、昇天に先立って、これから与えられるキリストの教会のために、イエス様が父なる神様に祈って下さっている所です。冒頭のヨハネ17章20節『また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします』とあります。ここの『彼ら』とは、狭い意味で言えば、その場にいるであろう十二人の弟子たちです。そして興味深いのは『彼らの言葉によってわたしを信じる人々』という箇所です。彼ら弟子たちが取り次ぐ宣教の言葉を聞いた人たちが、また、キリストの教会の群れに与って行く。そんな将来の群れのためにも、祈っていて下さるのです。何を祈っていて下さるのか。今日の福音書のイエス様の言葉の中に『内にいる』とか『一つになる』という言葉が、繰り返し出て来ます。これはこれからも、教会に対して本来の姿を失わせる、二つの要因を念頭に置く、祈りの言葉です。一つは、このヨハネ福音書の中でも、イエス様が対峙して来た、いわゆる律法主義との格闘です。父なる神様が与えられた律法を、イエス様は守らない。だからイエス様は、父なる神様を冒涜する者だとして、十字架に掛けられました。律法主義者たちは、律法を守らない者を断罪する。しかしイエス様は、断罪しないで赦す。そしてそこから、律法を守れる者へと、造り変えて下さるのです。そのイエス様と父なる神様との関係を、ヨハネ福音書は3章16-17節で次のように記します。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』。だからこそ今日の福音書では繰り返し、父なる神様とイエス様とは、お互いの内にあり、一つだと言うのです。決して冒涜し合う関係には無い。しかしこの律法主義は、形を変えながらもキリストの教会に、執拗に影響を与え続けるのです。戒め合いは必要です。しかし、裁き合いは分裂と差別を産むだけです。だから、絶えず御言葉によって、裁き合う自分を吟味出来るように、祈っていて下さる。あのルターの宗教改革もまた、この自己吟味の結果、起こされたものです。

二つ目の要因は、神としてのイエス様の身体性、あるいは歴史性を無視してしまう過ちです。あのナザレのイエスは単なる人間であって、その人間に取りついた霊魂が、いわゆるキリスト教の神だと言うものです。ですから、キリスト教の神が、たまたまナザレのイエスに取りついただけであって、他の誰かでも良かったと言ってしまう。あるいは復活のイエス様も、ナザレのイエス様とは違うと主張してしまう。そこでイエス様は、地上ではもはや目に見えなくなるが故に、教会を与える。教会を通して、ナザレのイエスがキリストであることを、見て聞いて知ることが出来るようにして下さる。そのために『見える徴』を、教会に与えて下さった。ルーテル教会の信仰告白書の『アウグスブルク信仰告白』という書物の第7条で『教会とは全信徒の集まりであって、その中で福音が純粋に説教され、サクラメントが福音に従って与えられる』とあります。サクラメントとは、洗礼と聖餐の事です。これが『見える徴』です。信徒の群れ、説教、洗礼、聖餐、これらを通して、キリストの体である教会を、見て聞いて知るようにして下さっている。このように私たちが教会を通して、イエス様と父なる神様の内に、一つとなるように祈っていて下さるのです。しかも今日のヨハネ福音書の場面では、肉体を持ったナザレのイエス様が、父なる神様と一つであり、互いの内にいると祈っておられるのです。

全日本私立幼稚園連合会の機関紙6月号の中で、東京大学名誉教授の汐見稔幸先生が『保育の質と園の風土について』と題して、次のような事を書かれておられました。一部を引用します。『・・保育の質とは何をさすのか、・・個々の保育実践の質を問うときは、その前に、園全体の質や雰囲気を問うことが必要ではないか・・温かい、誰からも信頼されているような園であって、はじめて個々の保育者の実践の質も位置づけられるのではないか・・荒れた学校が良くなっていくのは、職員室で子どもや保護者のことを悪く言わないで、子どもの育ちに感激し、保護者の配慮に感激しているような学校で、逆になかなか荒れが収まらない学校は、あちこちで子どもや保護者を批判し、言葉も表情もどこかとげがあるような学校でした。・・実習学生に、率直にこの園でやっていることで、疑問に思ったことを話してもらうということを、大事にしているある園では、新人もベテランも、同じ立場でひたすら、子どもって面白い!すごい!と語り合っていたのですが、その園では、保護者も、なんでも相談できる気安さが、この園の財産と思っていると評価していました。・・園の全体としての雰囲気、風土、エートス(気風)をどう高めるのか、その努力の中に保育の質を高めていくことのヒントが隠れている・・』。この汐見先生のお考えは、どの組織においても参考になるのかなと思いました。

真の神であり、真の人なる、主イエス・キリストの赦しの愛が、キリストの体なる教会の、本来の姿であり続けますように、そしてそれらが、世に証しされ続けますように、私たちも祈りを合わせ、用いられて行こうではありませんか。