からし種 399号 2022年8月

聖霊降臨後第4主日

『あなたがたを遣わす』ルカ10:1-11,16-20

先週も申し上げましたが、教会独自のカレンダーで、一番長い聖霊降臨後の期節を歩んでおります。それは、教会の時の生き方、教会を中心とした信仰生活について、聖書から聞く時であります。本日もその教会の働きについて、聖書から聞いてまいります。

まず冒頭に『主はほかに七十二人を任命し』たと記されてあります。という事は、その前に、既に任命派遣された人たちがいるはずです。それがルカ9章1節以下の『十二人を派遣する』という小見出しが付けられてある所に記されてあります。この『十二人』とはいわゆる十二弟子と呼ばれる、イエス様に最初から最後まで付き従った弟子たちのことであります。彼らは言わば、キリスト教会の原点を指し示すものでしょう。そして今日の『七十二人』とは、言わば十二人によって示される原点の教会から、更に地域や時代を超えて建て上げられた教会を指し示すように思います。ですから、現代の教会もその中にあると考えます。

まず今日の聖書は『二人ずつ先に遣わされた』とあります。伝道のために派遣されるわけです。マタイ福音書18章20節の『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』という言葉が思い出されます。この派遣の先頭に立って伝道されるのは、主イエス・キリストだということです。更にヨハネ福音書13章35節の聖書の言葉も思い出されます。『互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる』。

いずれにしても、主イエス・キリストを皆が知るようになるために、教会は派遣されるのです。その際に、イエス様は派遣の御言葉を注いで下さっています。まず『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』。収穫って何だろうか。働き手って誰だろうか。一つの考え方としては、収穫とはキリスト教の洗礼を受けて教会員になる人なのか。働き手とは牧師なのか。確かに牧師になる人が少なく、無牧の教会も増えています。しかし、もう少し広い意味でこれらの言葉を解釈してみます。『収穫は多い』というのは、教会に特定して考えずに、もっと、広く助けを求めている人たちが多いんだ、というふうに考えます。今も戦争が続いていたり、食料危機も叫ばれています。そして働き手とは牧師に限らず、もっと社会の様々な分野で、助けに応えてそれらの仕事に従事してくれるような人たちだと考えます。この教会も幼稚園を運営しております。保育者の必要性はいつも高まっています。あるいは高齢化社会ということで、介護に携わる人たちが、増々求められています。またコロナの感染では、医療従者の大きな働きに助けられました。これからも続く事でしょう。これらを広く考えて全て宣教活動と捉えるならば、まさに世界は助けを求めているという『収穫は多い』状況にあります。だからこそそれらに応えて行きたいと、むしろ励まされる思いも湧いて来ます。そしてこの時イエス様は『収穫の主に願いなさい』とおっしゃられます。送り出される自分の力で何とかしよう、と思わなくてよい。それでは長続きはしない。やっぱり、先頭に立たれるのは教会の主イエス・キリストです。イエス様に祈りながら、身近の所から、こんな自分に与えられた使命に、ゆっくりでも丁寧に与って行くように促されます。

続いて『行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ』とおっしゃられます。イエス様が送り出す者は、決して特定の能力の優れた者とは限りません。とてもそれを担うのには、無理ではないかと思う自分もいます。でもむしろ、自分は小羊のような者だと、心底、自覚していることの方が大切だと、イエス様はここでおっしゃられているのかも知れません。そうやって自分を知っているからこそ、自分に出来るところで果たすべきことを、果たして行けばいい。優れているように見える人と、同じようにしなければならないわけではない。逃げたくなったら、逃げればいい。協力出来る人がいれば、その人と相談すればいい。そうやってまた、次の機会を待てばいい。広く助けを求めている人たちは多い。必ず、こんな自分でも、必要としてくれる人との出会いが備えられている。次の聖書の言葉が思い起こされました。キリスト教会初期の伝道者パウロが書いた、Ⅱコリント12章10節です。『それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです』。

 更にイエス様は、不思議とも思える言葉を投げかけられます。『財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな』。これについては、旧約の時代の有名な預言者エリシャの働きが背景にあったのかも知れません。エリシャをしばしばもてなしてくれた女性に、ようやく子どもが与えられたわけですが、その子が大きくなった時に死んでしまったわけです。それを聞いたエリシャが、従者のゲハジに命じた言葉が次のようでした。列王記下4章29節『腰に帯を締め、わたしの杖を手に持って行きなさい。だれかに会っても挨拶してはならない。まただれかが挨拶しても答えてはならない。お前はわたしの杖をその子供の顔の上に置きなさい』。ここには、その目的の特殊性の故に、脇目も振らず一心に、託された使命に与って行く姿を投影していると言われます。そこから、それぞれに託されている使命は、何も牧師になることばかりではない。教師、保育士、介護士、看護師、医師などなど、広くそれぞれの職業に使命が備わっています。それらの働きは、自分の利益のためだけではない。それぞれに助けを求める人のために、自分に託された独特の使命に与って行くのです。

 そして更にイエス様は、どこかの家に入ったら、平和を告げるようにと言いました。当時のユダヤの教えでは、罪人と言われる人の家には、絶対に入ってはならないとされておりました。ここでは、イエス様は、そういう差別になるようなことを、一切おっしゃられておりません。イエス様の平和は、誰か特定の人のためだけのものではない。全ての人間たちが与り得るものです。次のような聖書の言葉が、また思い出されます。イエス様が十字架に掛けられる直前に、弟子たちに語られたものです。ヨハネ14章27節『わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない』。平和を知る事はイエス様を知ることです。そして出される物を食べたり飲んだりしてもいいと言う。ただし、家から家へと渡り歩いてはならないという。これは自分の好みで、助けを求めている人を選んではならないし、また、自分たちの文化や流儀を、押し付けてはならないと戒められるようです。特に宗教や信仰が絡みますと、その熱心さ故に、異教的なものを排除したり否定したりしてしまいがちです。やはりパウロの言葉が思い出されます。Ⅰコリント9章19-23節『わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。・・すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです』。

 そして最後に言います。それでも自分たちの働きがいつも成功するとは限らない。それは決して、自分たちの力の無さからではない。自信を持って、次の働きに用いられて行きなさいと言うのです。何故なら、人間の状況がどうであれ『神の国はあなたがたに近づいた』と言う。何をどうしようとも、近づく神の国を、人間が阻止することは出来ない。

ここでもう一度『収穫は多い』『神の国はあなたがたに近づいた』、これらのキリストの言葉が響きます。キリストの教会によって、それぞれの一つ一つの仕事に託された使命に、勇気と喜びと感謝をもって与って行こうではありませんか。

聖霊降臨後第5主日

『それを実行しなさい』ルカ10:25-37

今日の福音書では、いくつか考えさせられる言葉が目に留まります。まず冒頭です。『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った』とあります。『すると』とありますから、その直前の話とのつながりがありそうです。そして『イエスを試そうとし』たということですから、その直前の話が気に食わなかったのかな、とも想像されます。それで、律法の専門家が不快に思ったのは、次の箇所かなと思いました。ルカ10章21節『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした』。ここの『これらのこと』というのは、狭い意味では、直前の聖書の言葉からとも考えられますし、広い意味では、救いに関わる父なる神様の御心と御業、ということでしょうか。いずれにしても、専門家よりも幼子のような者こそ、父なる神様のことはよく知っているよと、イエス様が言っているかのように聞こえるわけです。それで、かちんと来た律法の専門家は、イエス様を試そうとしたのかな、と思うわけです。

そこで専門家は『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と質問しました。答え方によっては、専門家なら簡単に上げ足を取れそうな、そんな質問をしたのでしょう。これに対してイエス様は、答えるのではなく、逆に問い返しをしています。『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』。相手は律法の専門家です。簡単に答えられるでしょう。そんなことはイエス様も、十分想定していました。ただしここで注目させられる言葉があります。『あなたはそれをどう読んでいるか』。これは今も、この聖書を読む私たちにも、向けられる問いかけでしょう。世の中には色々なHow to 本があり、結構、売れているそうです。聖書もそんなふうに読むのか。『こうすれば救われる。しなければ裁かれる』とか。それでも読んでも、よく分からない事も多い。だから、手っ取り早く聖書の解説本を読んで良しとするのか。この律法の専門家の読み方はどうだったのか。それを示唆するような言葉が、次のように記されてあります。ルカ10章29節『しかし、彼は自分を正当化しようとして、では、わたしの隣人とはだれですか、と言った』。律法の専門家ですから、神様に認められている正しい人間であるという自負があるでしょう。だからよく知っている聖書の言葉はいつも、自分を正当化するように読んでいるのでしょう。それは裏を返せば、他者を裁くように読んでいることになるのでしょう。

そこでイエス様は、いわゆる『善いサマリア人』と呼ばれるたとえ話をするわけです。山中で追いはぎに襲われて、瀕死の重傷を負った人を目の前にして、三人の人物がそれぞれ別々に通りかかったということです。一人目は祭司でした。二人目はレビ人でした。それぞれ神殿の礼拝の仕事を担う人たちでした。いずれも、重傷人を遠巻きにして、通り過ぎて行ってしまいました。それだけを見れば、何と薄情な人たちかと非難されそうです。しかもいわゆる信仰的には、神様からお墨付きをいただけるような身分の人たちです。でも彼らなりに理由もあったのかも知れません。助けなかったと言って、非難することは簡単です。助けるに越した事は無いのかも知れません。しかし、簡単にその人たちを、果たして自分は非難出来る者なのか。そんな自分への問いかけも、聞こえて来るようです。

そして三人目のサマリア人が、重傷の人を手厚く介抱しました。サマリア人の事はこの場でも、何回も触れて来ました。かつてはユダヤ人とされていた人たちです。しかし、彼らが住むサマリア地方が、異教徒の占領を受けて、混血化が進みました。以後、サマリア人と呼ばれて、宗教的に汚れた人々として、蔑まれて来た人たちです。そんな人間が、その重傷者を厚く介抱した。律法の専門家にして見れば、こんなに強烈で皮肉な話はない。それにしてもこのサマリア人の介抱の手厚さは、そこまでするか、と思ってしまう程です。自分はそこまでは出来ないなあ、とも思ってしまいます。この律法の専門家はどんなふうに思っただろうか。それが垣間見えるのは、この後のイエス様との会話から示されます。

とにかく今日の場面は、イエス様が繰り返し問いかけている事にも注目させられます。それは何か、自分自身に問いかけて考えてみなさい、とおっしゃられているようにも思います。たとえ話の最後にまた問いかけます。『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。専門家は考えて答えました。『その人を助けた人です』。ここは『サマリア人です』という答え方もありでしょう。専門家にして見れば、口が裂けても『サマリア人』とは言えなかったのではないか。今までずっと、否定的に裁いて来た人間です。いきなり認めるわけにはいかない、という思いが伝わって来るようです。彼に限らず、誰もが持っている、人間の頑固さをも考えさせられます。そしてイエス様の問いかけの言葉に、特にまた注目させられます。『だれが隣人になったと思うか』。『隣人になる』とおっしゃられています。専門家は『わたしの隣人とはだれですか』と問いました。これが、このたとえ話の始まりでした。ですから、隣人とは、この人です、あの人ですと、何か隣人を見つけ出すように、提示するのでしょう。そうすると見つけ出すための、基準のようなものが必要になって来るでしょう。それがまた律法化して行くのでしょう。ですから、聖書の中では、罪人と呼ばれる徴税人や遊女は、隣人ではないと言うのでしょう。しかしイエス様は、何か基準に当てはめるようにして、隣人を選別するようには探しません。あなたが隣人になって行くんだ、というわけです。それは律法という文字面では、規定出来ないものだからです。あなたが『何とか助けたい』と感じたら、感じたように行動に移せば良い。それがあなたにとっての『隣人になる』ということだ。だから他の人にとっては、隣人にならない、ということもあるでしょう。『隣人になる』なんてことは、誰もが共通して、普遍的になれるようなものでもない。いずれにしてもここで大切な事は、あなた自身が何を考えるのか。そしてここでもう一つ大切な事は、あなた自身が何を感じるのか、ということです。

イエス様は最後におっしゃられました。『行って、あなたも同じようにしなさい』。悪く言えば、非常に曖昧に聞こえる言葉です。良く言えば、深く考えさせられる言葉です。実はこれとは対照的だと思われる、イエス様の言葉かけが冒頭にありました。専門家が律法の言葉を正しく答えた時です。『正しい答えだ。それを実行しなさい』。この後、専門家が隣人とは誰ですかと問うて、たとえ話に入って行ったわけです。『正しい答えだ。それを実行しなさい』というのは、一見、分かり易く聞こえます。しかし何か、突き放されたような、無味乾燥な響きも感じさせられます。『行って、あなたも同じようにしなさい』というのは、考えさせられると同時に、感じることも必要であるように響きます。そしてそこには、正解と申しますか応答には、一つだけではない。たくさんあるように思います。感じることと言えばこのサマリア人は、重傷を負った人を見た時に『その人を憐れに思い』と、聖書は表現しています。これは元のギリシア語を直訳すれば『はらわたが揺り動かされる』というものです。それほどに強く、共感させられたことを表現する言葉です。そして実はこの言葉は福音書では、主にイエス様が共感された時だけに使われる言葉です。ですから『隣人になる』というのは、律法で規定された事を、機械的に行うようなものではない。感じて動かされることが大切だと、イエス様はおっしゃられる。感じることには大小も優劣もありません。信仰に、大小や優劣が無いのと同じでしょう。『あなたも同じようにしなさい』というのは、確かにイエス様と同じように出来ればいい。けれども、出来ない事の方が多い。もちろん開き直るつもりはありません。ここは、イエス様が感じられたように、自分なりに感じることが、まず大切だと聞きます。そこから同じように、あなたの時と場所で感じたことから動かされて、隣人になって行けばいいと示されます。

『隣人を愛する』とは『隣人になって行く』ということ。そうすると『神である主を愛する』とは『神である主になって行く』ということでしょうか。それは逆に、神である主を、冒涜してしまうことになってしまう。そこで、ルカ10章21節『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした』と、冒頭で引用しました。そうすると『神である主を愛する』とは『幼子のような者になって行く』というふうにも聞きます。

主よあなたの言葉に聞いて、考えて、感じて、行って、同じようにさせて下さい。

聖霊降臨後第6主日

『心を乱している』ルカ10:38-42

まずは、先週の福音書の箇所を振り返ります。今日の箇所の直ぐ前の所です。イエス様が律法の専門家から、何をすれば永遠の命を受け継ぐ事が出来ますかと問われて、律法には何と書いてあるかと、逆に問い返しました。専門家はスラスラと答えました。『神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』。しかし専門家はそこで『わたしの隣人とは誰ですか』と、更に問い返しました。そこでイエス様はあるたとえ話を始められました。キリスト教会では、いわゆる『善いサマリア人の譬え』と呼ばれているものです。追いはぎに襲われて、重症を負った旅人を目の前に、三人の人たちが、それぞれ別々に通りかかりました。祭司とレビ人とサマリア人です。祭司とレビ人は遠巻きにして、通り過ぎて行ってしまいました。サマリア人は、その人を見て憐れに思い、手厚く介抱したのです。話の最後にイエス様は、専門家に尋ねました。『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。専門家は答えました。『その人を助けた人です』。このやり取りの中で、隣人を愛するために、誰が隣人なのかと探しに行くのではない。自分が隣人になって行くんだ。隣人を愛するとは、隣人になる、ということでした。

この譬え話からは『神である主を愛しなさい』ということについては、律法の専門家はイエス様を試す材料には使いませんでした。ですから話題にはなりませんでした。隣人になって行くということは、それは同時に『神である主を愛』する、ということになるのでしょうか。先週はそれについては、こんなふうにも申し上げました。イエス様はルカ10章21節で次のように語られました。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした』。『神である主を愛する』とは『幼子のような者になる』とも、言えるのではないか。そこで今日の福音書の箇所ですが、新共同訳聖書では『マルタとマリア』という小見出しが付けられてあります。この箇所から『神である主を愛する』とはどういうことなのか、ルカ福音書は今日の箇所から伝えようとしているのではないか。

イエス様と弟子たちの一行が、宣教のためにある村に入り、マルタという女性の家に招き入れられました。そこにはマリアという妹もいました。イエス様の噂はこの村にも、既に知れ渡っていたでしょう。ですから、マルタたちもイエス様から宣教の言葉を聞きたかったのでしょうか。しかし、そんな尊いお方の一行が訪問してくれたわけですから、普通はまず、おもてなしをすることを考えるでしょう。ここは、他の村人たちも同席していたでしょうか。恐らくほとんどは男性だったでしょう。イエス様の身分については、この時点では大方が、律法の先生として見ていたでしょう。その先生から神様のお話しを直接聞くのは、当時の習慣では男性たちでした。女性は遠くから聞こえて来る声に耳を傾けたり、後で男性から聞いていたのでしょう。とにかく女性は、まずお客様をもてなすことを考えなければならなかった。その時のマルタの様子を聖書は、次のように記しています。ルカ10章40節『マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた』。『せわしく立ち働く』という言葉は、直訳すると『心があちこちに引かれて分散し落ち着かない』というものです。イエス様もそんなマルタの様子を言い当てておられます。ルカ10章41節『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している』。この『マルタ、マルタ』と名前を続けて呼びかける表現は、聖書の中では相手に対して、いつも愛情が込められている場合です(使徒9:4,出エ3:4-5)。マルタが心を乱さざるを得ないのはよく分かっている。あれもしなくては、これもしなくては、どれを選んだら良いのか分からない程に、優先順位も決めきれない程に、たくさんのものを抱えてしまっている。もちろんどれを選んでも良いし、どれも大切な事だと分かっている。それでも、あなたにとって良いと思うものを、一つだけでも選んだらどうなんだろう。もちろん当時の習慣によれば、女性であるが故にしなければならないこともあるだろう。同時に女性だから、してはならないこともあるだろう。そういう中から、当時の習慣を超えるようにして、もし何かを選択するとしたら、見えもあるし、人目も気にするし、勇気もいることだろう。何と言っても妹は、女性としてするべきことをしないでいる。腹立たしい限りです。これでは気持ちよく、お客様をもてなすことも出来やしない。それでもここで、マルタに求められているものは何だろう。マルタだから出来ることは何だろう。それは一人であっても、そんなマルタが選んでも良いと思うものは、お客様を心を込めてもてなすことだったのではないだろうか。そのように、マルタは隣人になって行くことではなかっただろうか。

ところが妹のマリアはどうだったか。ルカ10章39節『マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた』。そんなマリアのこともイエス様は、次のように語られています。ルカ10章42節『しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』。先生の足もとに座って話を聞くのが、弟子と呼ばれる人たちのスタイルでした。弟子とまで言わなくとも、男性がすることでした。それをマリアがしていた。しかも女性がするべきことをしないで。これは当時の常識からすれば、あり得ないことでした。マリアはそれを承知で、この行為に至ったのか。それとも何も考えずに、ただひたすら、今、したいことをしてしまったのか。そうであるならば、まるで子供のようにも思います。いずれにしても、マリアにとってのただ一つの必要なことを、しかも良いと思う方を、マリアは選ぶことが出来た。周りの思惑や常識に縛られていない。それを大人げないと、批判されても仕方がないことだった。ここには人間的な思いを超えた『導き』のようなものさえ感じさせられる程です。しかもイエス様はこんなことまでおっしゃられています。『それを取り上げてはならない』。あたかも、子どもが勝手な事をして抱え込んだものを、親が取り上げようとしていることに、そんなことをしないでと、おっしゃられているようにも聞こえます。マリアが選んだただ一つの必要な事は『神である主を愛す』ることでした。だから、そんなマリアを通して『神である主を愛する』とは『幼子のような者になる』と、今日聖書は改めて現わすようです。

先週の『善いサマリア人の譬え』では、サマリア人が隣人愛のモデルになるとは、とても考えられないことでした。今日のマルタとマリアの出来事では、女性が律法の教師と呼ばれる先生の足下に、男性と共に座るということは考えられませんでした。何が考えられないようにしているのだろうか。今も、時代を超えても、サマリア人を通して示される、様々な思惑や偏見や差別を考えさせられます。また今日のマルタとマリアを通して、しきたりとか習慣とか、また様々な価値観に惑わされてしまっている人間の姿を見ます。そして必要なことはただ一つなんでしょう。でも分かっていても、それを選ぶ事が出来ない。でも必ず導かれて行くように信じます。

主よこれからも、心を乱さず、良い方を、選ばせて下さい。

聖霊降臨後第7主日

『主が祈る』ルカ11:1-13

今日の福音書は弟子の一人が『ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と、イエス様に願ったところから始まっております。ここのヨハネというのは、イエス様に洗礼を授けた、あのバプテスマのヨハネと呼ばれていた人物です。彼も逮捕されるまでのしばらくの間、自分の弟子を抱えて、悔い改めを人々に宣べ伝えていたようです。イエス様は弟子の願いに対して、後に教会の中で『主の祈り』と呼ばれる祈りの、基になった祈りを教えられました。ところで何故弟子の一人は、ここで、ヨハネが自分の弟子たちに祈りを教えた事を持ち出して、自分たちにも教えて下さいと願ったのでしょうか。この時までに弟子たちは、村々を巡って宣教活動をして来ました(cf.9:1-,10:1-)。恐らく弟子たちは活動をしている中で、ヨハネの弟子たちの事も聞いていたのかも知れません。場合によっては、祈りの事も話題になって、比較されていた。ヨハネの弟子たちの方が、良い祈りをしているとでも、言われたこともあったのかも知れません。実は、ヨハネの弟子たちとイエス様の弟子たちとが、比較されていたことを、ルカ福音書は次のように伝えています。ルカ5章33節『人々はイエスに言った。ヨハネの弟子たちは度々断食をし、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています』。

何か競争意識で『祈りを教えてください』と願うとしたら、そんな弟子たちをこそ、正されなければならない。祈りの言葉の問題よりも、祈りの姿勢を伝えようとされるのです。イエス様は一見、願いを聞き入れたかのようにして『祈るときには、こう言いなさい』とおっしゃられた。私たちも競争意識は無いにしても、人前で祈るときには緊張します。『へたな祈りは出来ない』とか『幼稚な言葉遣いではだめだ』とか『もっと熱心さが前面に出ないとだめだ』とか、そんなことを考えがちです。一体、誰に祈りを聞いてもらおうとしているのか。周りの人間たちに聞かせるのか。聞いてもらうのは神様ではないのか。祈る側の言葉や、熱心さ、信仰深さ、そういうものは問われていないのです。

そこでイエス様はまず冒頭で『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように』と祈ります。祈りの対象になる神様が、まず前面に出されます。『あなたは誰に祈るんですか。人ですか』と問われるようです。しかも『父よ』と呼びかけます。実際のイエス様の言葉では『アッバ』と発音したでしょう(cf.マルコ14:36)。訳せば『お父ちゃん』になります。これは正統派ユダヤ人にして見れば、そんな、なれなりしい呼びかけは、神を冒涜していると批判されるものでした。先週も引用しました。ルカ10章21節『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』とイエス様はおっしゃられておりました。弟子たち、あなたがた人間は、父なる神様の幼子になるんだ、というわけです。ですから幼子が父を呼ぶ呼び方は『お父ちゃん』が自然でしょう。お父ちゃんの子は、どんなにダメ人間でも、お父ちゃんの可愛い子です。だからお父ちゃん以外のものは崇めるはずもない。そして、御国が来ますようにと、この地上に生きる幼子の私たちを、お父ちゃんの神様が治めて下さ.

のが良いのです。次の聖書の箇所が思い起こされました。初代教会の伝道者パウロが書いた手紙です。ローマの信徒への手紙8章15-16節『あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、アッバ、父よ、と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます』。

続いてイエス様は、普通に、私たち人間が祈りたいことにも、言及して下さいます。毎日の糧は必要です。相変わらずの不信仰を赦していただきたい。そんな自分も他者を赦せる者になれればなりたい。それでもまだまだ、自分本位に生きようとする誘惑には弱い私たちです。ですから、祈りの内容や言葉遣いや熱心さが問われるわけではない。冒頭で教えられたように、誰に祈っているのか。それさえ間違っていなければ、何とかなるとおっしゃられているようです。そうは言っても『祈る』なんて言いますと、どうしても身構えてしまいがちです。あるいは、あんまり祈りに期待出来ないで、信仰者を演じる道具にしてしまう危険もあります。そこで今度はたとえ話で、イエス様は祈る側ではなく、祈られる側のことを、もう一度ダメ押しするのです。

旅行中の友達が尋ねて来た。当時のユダヤの常識では、旅人は厚くもてなすのが当たり前だった。ましてや友達だ。しかし何も出すものが無い。そこで、別の自分の友達の所に行って、パン三つを借りようとした。しかし時間帯が悪かったので断られたという。そこでイエス様は言いました。ルカ11章8節『しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものはなんでも与えるだろう』。ここで『しつように頼めば』とあります。これですと結局、頼む側の姿勢が問われているように聞こえます。ここは『恥をかかないために』とも訳せるようです。そうしますと、頼まれる側が問われている事になるのです。友達と言っても、頼りになる場合もあれば、そうならない場合もある。ここの頼まれる側の人が問われているのは、先程も申し上げましたが『旅人をあなたはどう扱いますか』という事なのです。頼みに来た人は、何とかしようとして、もう一人の自分の友達に借りに来た。これは世間的に非難されることのない対応です。あくまでもここは、旅人を大事にしている社会です。夜中にたたき起こされたもう一人の友達が、最終的にこの頼みを断れば、世間的に大きな非難を受けて、恥をかくだろうなあと考えてしまう。友達の事なんかそんなに、大切な事だとは思っていなくても、世間に対して恥ずかしいと思えば、彼は、起きて来て必要なものはなんでも与えるだろう、という譬えになるのです。そうしますと、この譬えでも、頼む側の姿勢が問われているわけではない。頼まれる側の姿勢が問われていることになる。

続けてイエス様は言いました。『求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい』。これも何か求める側の姿勢を問うように聞こえます。しかしこの後に、悪い人間の父親であっても、自分の子供には良い物を与えるだろう。ましてや『天の父は求める者に聖霊を与えてくださる』と、おっしゃられるのです。結局このお父ちゃんの神様は、聖霊という最高の良いものを、与えて下さるのだ。やっぱり最後は、求める子供の側の姿勢を問うのではなくて、求められる側のお方の姿勢が問われているのです。では『聖霊』とは何を意味しているのだろうか。それが良いものであると、どうして言えるのだろうか。

そこで『求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい』を考えます。これまで、祈る側の人間のことは問われないと、申し上げてまいりました。しかしそんな人間でも、ただ何もしないで、眠っているわけではないでしょう。いずれにしても、色々と心配して、こうしたい、ああしたい、こうあってほしい、と思って、何か行動を起こすのでしょう。ですから『求めたり、探したり、門をたたく』こともあるのでしょう。この父なる神様は、そんな人間を放っては置かれない。『求めて、探して、門をたたく』のも祈りです。そんなふうに祈る人間を、他の人間が目の当たりにしたら、何とかして上げたいと、動かされることもあるかも知れません。恥をかきたくなくて動いたというのも、ありかも知れません。とにかく動かされた人間が、祈り求める者の助け手とさせられて行く。結局その助け手とは、神様が送って下さった人間なのだ。そうやって、祈りが聞かれるとしたらどうだろうか。ここに聖霊の働きが示されている。しかもその聖霊は、先程のパウロの告白にあるように『この霊によってわたしたちは、アッバ、父よ、と呼ぶ』ことが出来る。だから最高の良いものなのだ。当教会では先週から、役員の皆さんが交代で、主日礼拝の司式を担うこととなりました。ここにも聖霊の働きを示されるのです。そうやって聖霊の働きに用いられる者も、そうやって他者の祈りに与りながら、自分もその祈りの当事者とさせられて行くようにも示されます。

 主が祈る祈りは、私たちが確信と期待をもって、祈る事の出来るお方を指し示して下さっている。キリストの教会に感謝します。

聖霊降臨後第8主日

『神の前に豊かに』ルカ12:13-21

まず6月26日の主日礼拝で与えられた、ルカ9章51節『イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた』とありました。それまでガリラヤ地方を中心に宣教活動をされていましたが、いよいよそこを離れて、エルサレムに向かう事を決断されたのです。そのエルサレムでは、十字架に掛けられることになります。『天に上げられる』とは、そのことを指し示します。そしてエルサレムに向かう途上で、弟子たちを教育訓練したり、その弟子たちを先方隊として、村々に派遣したりしました。その村々では、様々な人々との出会いや出来事もありました。それらを通してまた、いわゆるキリスト信仰が現わされて行きました。ルカ福音書11章37節以下では、十字架の出来事が引き起こされる、契機となる事が伝えています。ここはイエス様が、ファリサイ派の人から食事の招待を受けた場面です。ユダヤでは、食事の招待を受けるという事は、『あなたは私の仲間ですよ』と言われるに等しい事でした。早速イエス様は食事の席に着かれました。その時の事を聖書は次のように伝えます。ルカ11章38節『ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った』。

当時のユダヤ社会では、宗教的な汚れを取り除くための、様々な律法規定がありました。社会生活の中では、宗教的に汚れていると見なされる人間との接触もあったのでしょう。ですから食事の前には、汚れを取り除くための儀式規定があったわけです。イエス様はそれを無視しました。その時の招待者の反応を見て取ったイエス様は、過剰反応とも思える程に、ファリサイ派の人々を非難するわけです。『あなたたちは偽善者のようだ。見かけはさも綺麗な者であるふりをしているが、目に見えない内実は、強欲と悪意に満ちている』。これを見かねた一人の律法の専門家が言いました。ルカ11章45節『先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります』。しかし続けてイエス様は、そんな律法の専門家たちに対しても『偽善者』だと糾弾するのです。最後に、イエス様を招待したり、先生と呼んでいた彼らの事を、聖書は次のように伝えます。ルカ11章53節『イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた』。

正統派ユダヤ教徒にして見れば、実に異端的なイエス様の振る舞いなのでしょう。しかしイエス様は、いわゆる神信仰が、あまりにも人間の都合の良いように、人間中心的になっていると思われた。神に服従するどころか、神を利用しているではないか。もちろん本人は、相変わらず、自分は信仰者だと思っているのでしょう。しかしそもそも人間は、どこまで行っても罪人だ、というのがイエス様の人間観です。イエス様は決して、律法を無視しろと、おっしゃるわけではない。人間である自分は、だからこそ罪深い者なのだと、自ら気づく事が大切だとおっしゃりたい。しかし正しく綺麗だと思っている人間は、守っている律法がそれを保証しているとまで思うわけです。本当に律法を守り切れているのか、それも大きな問題です。そんなふうに、いわゆる偽善性というものは、なかなか気づき難いものなのかも知れません。

偽善についてもイエス様は、次の場面でおっしゃられています。宗教的に尊敬されるべきファリサイ派や律法学者たちを、痛烈に批判されたイエス様の噂が、直ぐに広まったのでしょう。足の踏み場もないくらいに、数えきれないほどの群衆が、イエス様たちの所に集まって来たところです。そこでまず、弟子たちに話し始められたと言う。まずは弟子たちに、この異端に見える行動をしたイエス様の真意を、受け留めさせたかったのでしょうか。ルカ12章1節『ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である』。パン種とは酵母菌のことでしょうから、肉眼では分からない。パンが膨らんでみて、初めてパン種の存在を意識するのでしょう。しかし相変わらず、菌そのものは見ることが出来ない。見えないけれど、認める者は認める。しかし認めたくない者は、認めないことも出来るでしょう。しかしイエス様は言います。ルカ12章2節『覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない』。もっと言えば、人間に対しては、覆って隠し通す事は出来ても、絶対に出来ないお方がおられると言う。そのお方を恐れなさい、と言う。

その恐れについても、イエス様は次の場面でおっしゃられています。ここでも弟子たちに向けて語られている。しかも弟子たちのことを『友人』とまでおっしゃられています。イエス様と一心同体だと言うことです。実は既にイエス様は、痛烈なファリサイ派と律法学者たちへの批判から、厳しい迫害を意識され始めていたのでしょう。むしろそれを引き起こすために、ユダヤ教批判をされたのではないかとさえ思う程です。そしてもしこの弟子たちも、本当に自分の思いと一体になれたとすれば、自分への迫害と同じ迫害が、弟子たちにも及ぶかも知れない。そこで迫害する人間たちを恐れるな、とおっしゃられた。恐れるべきものは『地獄に投げ込む権威を持っている方だ』。つまりは、恐れるべきお方は父なる神様だ。人間ではないと言うのです。

そしてこの後『人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者』とおっしゃられています。つまり友人である弟子たちの事です。イエス様と一体となって生きる者たちの事です。『人々の前で』とは、迫害によって捕らえられ、宗教裁判に掛けられる事を想定しています。非常に緊迫した話を、イエス様は弟子たちに向けられていたのです。しかし実際にこの話を、弟子たちはどこまで自分の身に置き換えて聞く事が出来たでしょうか。あまりにも先走った話で、受け止める事は出来なかったでしょう。結局彼らは、十字架のイエス様を目の前にして逃げ去りました。イエス様と一体になれたのは、復活のイエス様との出会いとキリスト教会の誕生まで、待たなくてはなりませんでした。この時の弟子たちの関心は、そんな先走った話ではなくて、もっと身近な事にあったのでしょう。それを指し示すのが、今日の福音書の箇所になるわけです。

これまで、弟子たちと話されていたイエス様に、突然、割り込むように、群衆の中から一人の人が、遺産分けの相談をしたわけです。どうなるか分からないような、将来の迫害の話よりも、財産分けの話の方に、弟子たちも関心が向くのも、不思議ではないでしょう。イエス様は、この人にも向き合いました。先程までの偽善の話や、お金の問題も、人間が抱く究極の問題です。最初に『人の命は財産によってどうすることもできない』とおっしゃられます。一見、そうかな、とも思ってしまいます。お金があれば、良いものをたくさん食べられます。病気になれば、高額医療を受けられます。そんなふうに考えますと、この後の、ある金持ちの例え話は、当たり前のようにも思われます。畑が豊作で、倉を建て増して、蓄えを十分にして、何年も先も安泰で、とりあえず今はひと休みしながら、食べたり飲んだりして楽しもう、というわけです。こで敢えて気づいた事を言えば、この話には金持ち一人しか登場していません。もちろん話の主人公でしょうから当然なのでしょう。けれども、畑作業をしてくれた人もいたでしょう。倉の建設に携わってくれた人もいたでしょう。穀物を運び入れてくれた人もいたでしょう。料理をしてくれる人もいるでしょう。そんな人々の気配がしない。あたかも、自分一人で生きているかの様な印象です。しかも、神様を信じていた人なんでしょうけれども、感謝の思いも伝わって来ない。『お前の命は取り上げられる』と神様から言われて初めて『ああ、神様はいたのか』と気付かされるくらいです。しかも、この命は自分のものではなかったのか、とも気付かされる。知らないうちに、人も神もいないかのような、あるいは必要ないかのような生き方をしている人なんだと思ってしまう。このような自分中心の生き方も、パン種のようだ。

迫害という『人々の前で』恐れるなと、イエス様はおっしゃられました。現代の私たちには、この時の弟子たちが受ける迫害とは、違うものかも知れません。いずれにしても、主よ、あなたから離れさせようとするものは、たくさん降りかかります。そして相変わらず無意識にも、偽善性の中に逃げ込もうとします。そしてまた今日の福音書にある、自己中心的な生き方が、気づかないままに、増々頭をもたげて来そうです。今日の福音書の『神の前に豊かになる』生き方、即ち真の神を真の神とする生き方へと、キリストの教会によって気づかされ、導かれて行きたいのです。もう一度、今日の主日の祈りを祈ります。

『慈しみ深い神様。あなたは私たちの命の源、道しるべ、そして目標です。愛すべきものを愛し、あなたに逆らうものを拒み、あなたの目に貴いものを大切にすることを教えてください』。