からし種 400号 2022年9月

聖霊降臨後第9主日

『目を覚ましている』ルカ12:32-40

まず、先週与えられた福音書の箇所を振り返ります。ルカ12章16節以下の、ある金持ちの例え話でした。畑が豊作で、倉を建て増して、蓄えを十分にして、何年も先も安泰で、とりあえず今はひと休みしながら、食べたり飲んだりして楽しもうと、金持ちは考えました。そこで気づかされたのは、調子が良い時には、あたかも自分一人で生きて行かれるかのように考えがちです。それでこの例え話には、他の人間の存在が見えて来ないのです。畑作業を手伝ってくれた人もいたでしょう。倉の建設に携わってくれた人もいたでしょう。穀物を運び入れてくれた人もいたでしょう。料理をしてくれる人もいるでしょう。そうやって、落ち着いて考えて見ますと、自分は一人では、生きている者ではないと思うのです。更には譬えの中で『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる』と神様から言われました。そこで初めて『ああ、この命は、自分でコントロール出来るものではないのか』と気付かされる。やっぱり『生きている者』ではなくて『生かされている者』だ。そして、いわゆる信仰を与えられている者は『神様に生かされている』と、立ち返るのかも知れません。

そこで『神様に生かされている』と気付いたとして、それでも、明日の食べ物が無くなったらどうしようとか、着る物が無くなったらどうしようとか、そんなことに悩むこともある。だから『何とかしなくちゃ』と走り出すのだろう。そんなことをしているうちに、また、自分の力で生きる者へと再び向いてしまう。そんなふうに思い悩む者に、イエス様はまた次のような言葉を与えて下さいました。ルカ12章29-31節『あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる』。ここの『世の異邦人』とは、いわゆる不信仰な者たちを指すのでしょう。そして『神の国』とは神の支配を信じる信仰です。結局ここでもう一度、自分は神様に生かされている者だと、向き直させられる。こんなふうに、信仰を与えられつつも、相変わらず自分の力で生きようとする自分と、信仰に生かされようとする自分とが、絶えず、行ったり来たりしているのです。

そして今日与えられた福音書の箇所です。まず冒頭です。ルカ12章32節『小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる』。『小さな群れ』とは、直接的には目の前の、僅かな人数の弟子たちのことでしょう。それはまた今のキリストの教会を、投影しているようにも思います。そして『神の国をくださる』という言葉に、もう一度、注目させられます。これははっきりと『信仰を与える』という宣言です。先程から、結局、神の支配を信じる信仰が問われているわけです。小さな群れですから、余計に、恐れや心配に身も心も向きがちです。そうしますと、またここで『そうだよな。信仰なんだよな。そんな信仰をもっと強く、大きくするするためにはどうしたらいいんだ』と思い悩んでしまいます。しかし『与えて下さる』と、言い切られている。しかもこの父なる神様は『喜んで』と言われる。『信仰を与えるんだから、しっかりせい』と、叱り気味に与えられるわけではない。この父なる神様は、これまでのいわゆる『神様』というイメージとは、少し違うようにも感じてしまいます。

そんな違うイメージは、今日の箇所の『目を覚ましている僕』という小見出しで示された、ルカ12章35節以下の、イエス様の言葉からも浮き彫りになります。ユダヤの婚宴にまつわる例え話です。通常、一週間位続くのだそうです。ですから、婚宴に出席した主人が、実際、真夜中や夜明けに帰って来ることもあったそうです。目を覚まして帰りを待つ僕にして見れば、迷惑な話です。しかしイエス様は言います。ルカ12章37節『主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる』。ご主人様が、今度は僕である自分たちの、僕になってくれるというのです。それ程に、目を覚まして待っていた自分たちの事を、喜んでくれるというのです。僕だから当然だと言われても、仕方のない関係です。しかしこの例え話の、主人と僕との関係は、そういう従来の関係とは違う。単なる職務上の主人と僕という関係ではない。少なくともこの主人の、僕に対する見方は違う。この主人は、こよなく僕を愛して下さっている事が分かります。単なる僕ではない。もはやこの上なく、愛しい存在に見ていて下さるのです。さてこの例え話の『主人』とは誰のことか。そして『僕』とは誰か。『主人』とは再び来られるという、いわゆる再臨の主イエス・キリストです。『僕』とは『信仰を与えられている者』です。そして『目を覚ましている』とは『信仰を与えられている者』の生き様です。

今日の第一日課は、ユダヤ人の信仰の父と呼ばれる、アブラハムを取り上げます。この場面ではまだ、アブラムと呼ばれていました。百歳近くになって、子が与えられていなかったアブラムは、色々な人間的思考で、後継者を獲得することを画策します。ここでは、家の僕を後継者にしようとした場面です。そこに神の言葉が臨んだのです。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれた者が跡を継ぐ。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。アブラムは主を信じた』。このアブラハムの信仰を、今日の第二日課ヘブライ人への手紙11章1節では次のように記します。『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです』。実際アブラハムは、百歳にしてようやく、イサクという男子が与えられます。しかしこの時アブラハムが信じたものは、星の数ほどの子孫が与えられるという、神様の約束の言葉だったのです。もちろんそれを見ることなくアブラハムは死にました。がしかし、まさに『望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認』する信仰を生き通したのです。

『目を覚ましている』とは、信仰によって、見えないものを信じ、見ていないことを信じる生き方だと示されます。それはもう少し具体的に、どんな生き方になるのだろうか。こんなふうに考えます。教会附属幼稚園の子どもたちは、毎年一つのテーマの下に、毎月、異なった聖書の箇所を暗唱しています。8月の聖書箇所は、1テサロニケの信徒への手紙5章16-18節からです。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです』。喜ぶ、祈る、感謝、これこそ見えないものを信じ、見ていないことを信じる生き方だと示されます。それは裏を返せば、無いことを憂うるのではなく、有ることに喜び、祈り、感謝するのです。しかも『これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること』だという。そして、このキリストの教会の、この礼拝においてこそ、絶えず引き起こされている、喜びであり、祈りであり、感謝なのです。見えない主イエス・キリストが、今この礼拝で、こんな私たちのために奉仕して下さっていると信じることが出来るからです。

礼拝と言えば本日もそうですが、戸塚教会では導かれて、礼拝の司式や説教代読を、役員奉仕者の皆さんが担って下さっています。今日の福音書の冒頭の所で『・・あなたがたの父は喜んで神の国をくださる』という言葉に続いて『自分の持ち物を売り払って施しなさい』と、イエス様はおっしゃられます。この『持ち物』とは、財産の事かも知れません。そうするとまた、信仰の方向が、自分に向いたり神様に向いたり、揺れ動いてしまいます。『持ち物』には、神様から与えられた賜物とか役割も含まれていると信じます。役員奉仕者の皆さんも導かれて、神様から与えられた賜物とか、役割という自分の持ち物を、売り払って施したのだと信じます。そしてまた教会内での売り払いと施しに留まるものではない。日本の8月は、毎年、平和を覚えるように導かれています。そして神の国とは、キリストの平和に満たされているものです。

 小さな群れなるキリストの教会は、キリストの言葉によって、目を覚まし続けます。神の国のために、平和のために、それぞれの賜物と役割を通して『自分の持ち物を売り払って施し』続けます。

聖霊降臨後第10主日

『時を見分ける』ルカ12:49-56

この場でも、何回か申し上げてまいりましたが、今日の福音書の箇所も、イエス様と弟子たちが、エルサレムに向かう最後の旅の途上の場面です。最後と申しますのも、そのエルサレムでイエス様は、十字架の死を迎える事になるからです。死を迎えることは、少なからずイエス様は意識されていたと思われます。ですから、ある種の覚悟を抱いての旅だったでしょう。それと同時に、ただ死を迎える事に対する覚悟だけではない。計り知れない父なる神様のご計画の中に、動かされている自分をも意識されていた。それ故の覚悟のようなものも、あったと思われます。何故神様は、そのような覚悟が求められる程のご計画を持たれるのか。それは当時の社会と人間たちの状況を、神様は問題とされていたからです。それが示唆されるような言葉を、ルカ福音書は最初の方で伝えています。それはイエス様の登場の前触れ役をしたと言われる、バプテスマのヨハネの登場とその言葉が記されてある所です。ルカ3章7-9節『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』。この後ヨハネは、イエス様の事も伝えます。ルカ3章16-17節『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』。当時の社会と人々の状況とが、父なる神様のご意思に反している事が何か伝わってまいります。ユダヤはローマの植民地下にありました。もちろん政治的には、不本意でもあったでしょう。一方で、ローマの進んだ文化の流入によって、特に若者たちの間では、宗教離れも起こっていたでしょう。信仰者と言いながらも無意識で、実態は見かけ上の信仰生活にも陥っていた。まさに偽善的であった。そのままでは神の裁きは免れ得ない。神の裁きだって、どこまで本気にしているのか分からない。だから悔い改めて立ち返れと迫る。その神の裁きの担い手として、イエス様の到来が指し示されたのであります。

そんな重大な神のご意思を、イエス様が意識されていたとしたら、今日の福音書の言葉は、当然のようにも思われます。『わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである』。つまり『罪を自覚して、悔い改めなさい。神の裁きが迫っている』ということでしょう。そしてこの時イエス様は直接的には、弟子たちに向かって語られたようです。しかし12章の1節に記されてありましたように、そこには『数えきれないほどの群衆が集まって来て』いました。群衆の中には、いわゆる野次馬的な人々もいたでしょう。あるいはイエス様の噂を聞いて、何か良いことをしてもらえるという期待を持っていた人もいたでしょう。そんな人々に『罪を自覚して、悔い改めなさい。神の裁きが迫っている』なんて言っても、ポカンとされるだけかも知れません。むしろ優しいイメージを抱いていたイエス様から『わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである』なんて言われたら、がっかりされるかも知れません。あるいは自分程信仰熱心な者はいないと、自負している人にとって見れば『罪を自覚して、悔い改めなさい』なんて言われれば、むしろ反感を覚えられてしまうでしょう。実際にそういう人々が出来てしまったことも、聖書は伝えています(11:53)。そんな人々の状況は、今もあちこちで見受けられるようにも思います。

それにしても神の裁きを唱えるのは、何もイエス様に限った事ではないでしょう。先程のヨハネもそうだった。そして、色々ある宗教の中にも、神の裁きのようなことが言われる場合もあります。しかしイエス様には、もっと大切な使命が与えられていた。それを示唆するのが、今日の12章50節です。『しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう』。エルサレムで引き起こされる、十字架の出来事を示唆する言葉です。イエス様も人々と同じように、罪深く、それ故の十字架の死という神の裁きを被るのか。いや、そうではなかった。ならば何のための、誰のための十字架なのか。それこそ、信仰が形式的であったり、神の裁きも作り話になっているような、そんな人たちのためでもあった。先ほど引用しました、バプテスマのヨハネの言葉に示されてありました。『その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』。今や、キリストの教会を通して、イエス様のお名前による洗礼を受ける者は、十字架というイエス様の洗礼と一つになるのです。そうやって、イエス様と共に神の裁きに与り、復活のイエス様と共に永遠の命に与るのです。

先程も申し上げたように、いわゆる信仰が世俗化して来ていることに、反発する人々ももちろんいたわけです。そういう人々は、神様の律法を守ることに必死になり、そうやって高き所に座したもう神様に向かって、上昇志向するように教えられて来たし教えもした。いわゆる、聖書に出て来る、ファリサイ派や律法学者と呼ばれていた人たちです。ところがイエス様は、それを悔い改めよと言われた。方向を転換して、上昇ではなく、下降するのだ。そうやって、いかなる人間も罪深い者であることを、正直に受け入れよと言われた。その降った先に、十字架の主が待ち構えていて下さる。そこまで徹底的に下降するのだ。そのように徹底的に、自分の罪を見据え直すのだ。そうすると、これまでのように相変わらず上昇志向する者と、あたかも、真正面からぶつかり合うことになるだろう。だからイエス様は言われる。『あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ』。この分裂には、聖書にあるように、身内という、心底信頼出来る者同士での、対立からということもあるだろう。また自分自身の中にも孕んでいる、対立からも生まれる。いわゆる信仰が、建前と本音に分裂してしまうことだ。そもそも罪深いからこそ、分裂は起こるに決まっている。だから分裂が無いかのように取り繕ってしまう。そうやって、偽善者にならざるを得ない。もっとも、上昇志向だけが唯一だと思い込んでしまっていれば、分裂は起こらないかも知れない。だから、分裂が起こらない事の方が、むしろ問題だと言わざるを得ないだろう。いずれにしても、分裂は起こらなければならないことなのか。いや、分裂は起こるはずもないものなのか。分裂が起こったとして、後はどうなるのか。

そこでイエス様は『時を見分ける』ようにと言われる。空や地の模様を見分けるように、今の時を見分けることが出来るだろう、というのです。空や地の模様を見分けることが出来るのは、長い時間をかけて、言い伝えられて来た、先人たちの教えがあるからです。そしてその教えに信頼しているからです。そういった先人たちの教えとは、一言で言えば『歴史』とも言えるでしょう。同じように、この時を見分けることもまた、歴史から教えられるのではないか。しかもその歴史を司って下さっているお方がいる。真の父なる神様です。そして、キリストの教会は聖書を通して、その真の父なる神様を教えられている。今こそ改めて、時を見分けるように、キリストの教会は求められているのではないか。あの時のユダヤの人々と同じような、信仰の形骸化や、宗教離れの状況が、今も起こされているのではないか。

日本の毎年の8月は、平和を覚える時が備えられています。8月6日の広島原爆、8月9日の長崎原爆、そして明日は、あの第二次世界大戦の結果、日本が降伏を受け入れた日です。それらを振り返りながら私たちは、どのように時を見分けるのでしょうか。見分けるべき大切なものは何なのか。今年に入って世界は、新たな戦争に巻き込まれています。またこの8月に入っても、アジアの地域で、新たな戦争の緊張が高まりつつあります。どこに原因が潜んでいるのか。誰かを悪に仕立て上げれば済むことなのか。もう一度、皆が立ち返って、歴史から、この時代を見分けて行くことが出来ますように祈り求めます。そしてその歴史を司られる父なる神様の御声に、謙虚に耳を傾けて行くことが出来ますように祈ります。その御声を聞く者たちの群れが、愛と勇気をもって、世に叫び続けることが出来ますように祈ります。その叫びを、主よどうか受け留め続けて下さい。

聖霊降臨後第11主日

『安息日であっても』ルカ13:10-17

今日の箇所は、安息日に、イエス様が会堂で教えておられた時の出来事です。安息日とは、旧約の創世記にその由来が記されてあります。神様は、第一の日から始まって第六の日まで、天地創造のお仕事をされました。そして『第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された』と、創世記2章2-3節に記されてあります。この第七の日を安息日と呼びます。この日は『十戒』と呼ばれる、神様から与えられた、十の戒めの中にも含まれています。紀元前13世紀頃に、エジプト移民だった多くのユダヤ人は、奴隷状態にありました。そこで神様がモーセを指導者にして、ユダヤ人をエジプトから脱出させました。その時に、モーセを通して、石に書かれた『十戒』が与えられました。このことは旧約の出エジプト記に記されてあります。十戒を与えられた時、神様は次のように語られました。出エジプト記20章2節『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である』。その後、十の戒めを語られます。安息日については、次のように語られます。出エジプト20章8-11節『安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである』。

奴隷状態から解放されたユダヤ人は『お前たちを私が救ったのだ』という神様の思いと共に、十戒によって言わば、これからの生き方を示されたわけです。そして十戒は、単に当時のユダヤ人たちだけに限った生き方を示すものではない。十戒には全ての人間たちのための生き方が示されている。それでキリスト教会でも、大切に受け継いで来ているのです。1517年にドイツで、宗教改革が起こされました。それを担った一人に、ドイツ人修道士のマルティン・ルターという人がいます。このルーテル教会の名前の由来者です。そのルターはたくさんの書物も書きました。その中の一つに『小教理問答書』と呼ばれるものがあります。問いがあって答えがあるという問答形式になっています。キリスト教とは何かを教える教理を、子どもも分かるように記したものです。教理には『十戒』『主の祈り』『使徒信条』と呼ばれるものがあり、この書物でそれらを解説しています。この問答書は『全聖書の簡潔な精髄であり、要約である』とルターが言っているそうです。

さてその『小教理問答書』の中の十戒で、第三の戒めに、安息日があります。次のように書かれています。『第三の戒め。あなたは安息日を聖としなさい。これはなんですか。答え。私たちは神を畏れ、愛するのだ。だから私たちは説教やみことばを軽んじないで、かえってこれを聖く保ち、喜んで聴き、学ぶのだよ』。『安息日を聖とする』というのは、具体的には、こうして毎週行われている、礼拝をすることです。ですから今日の聖書の箇所でも『イエスはある会堂で教えておられた』とあります。ユダヤ教の会堂で行われていた礼拝の中で、ゲストスピーカーとして説教をされたということです。当時のイエス様は、律法の教師として見られていたようです。そういう教師はあちこちの会堂で、礼拝説教を依頼されることもあったようです。ちなみにユダヤ教の会堂礼拝は、今のカレンダーで言えば、土曜日に行われます。これが第七の日になるからです。ですから今ある通常のカレンダーは、日曜日に始まって土曜日が最終日になっています。しかし最近は、月曜日に始まって、日曜日に終わるカレンダーもよく見かけます。キリスト教は日曜日にイエス様が復活されたので、復活されたイエス様を記念して、日曜日に礼拝を行います。ですから日曜日が安息日になるのでしょう。

先程の出エジプト記の十戒の箇所には『あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない』とも書かれてあります。では聖書が言う『仕事』とは何か。それは聖書には何も書いてありません。そこでユダヤ教では、考えられ得る仕事の内容を列挙して、それを律法化しました。今日の福音書で問題になっている『医療行為』も、律法では仕事に分類されていました。だから会堂長は『働くべき日は六日である。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない』と言ったのです。当時のユダヤ教は、安息日に仕事をしているかしていないか、そこが大問題でした。しかしキリスト教会は、全ての十戒の前にまず『お前たちを私が救ったのだ』と語られる、神様の思いを第一に考えます。今日の福音書のイエス様は、そんな神様の思いを前面に出されているようです。

安息日の礼拝に、十八年間も病の霊に取りつかれている女性がいた。十八年間だから、今日一日、我慢したって何の問題もないだろう。あの会堂長もそう思った。他の皆も、自分は健康だと思っている人は、そう思いがちだ。しかし当事者のその女性は、そうではないだろう。一日でも早く治りたい。そう思いながらも、十八年が過ぎ去ってしまった。今日の安息日の説教者に、イエス様が来られる。助けていただきたい。そんな思いで礼拝に来た。そしてイエス様は、その女性の思いに応えられた。女性もイエス様の招きに応えた。そして癒された。その時女性は『神を賛美した』という。これぞ礼拝ではないだろうか。色々な人間たちが礼拝に与っているのです。目に見えない、心の悩みを抱えている人々もいるでしょう。そこでイエス様の言葉を聞いて、その悩みが解決されることもあるでしょう。心が癒されたのです。言わば心の治療行為が行われている。それを会堂長は、律法違反だと非難出来るだろうか。きっと、目に見えないことは、律法違反にしないのだろう。

今日の箇所でもイエス様は『偽善者たちよ』と批判されています。自分たちの牛やろばには、安息日でも水を与える。これも労働行為になるではないか。ましてや同じユダヤ人の女性が、安息日に癒されることに、何の問題があるのかと問われる。それに対して『反対者は皆恥じ入った』とあります。恥をかかされたと思ったか。それとも自分の偽善性を見つめ直されたのか。ここに大きな分岐点があります。そしてこれこそ、礼拝の中で起こされている事です。礼拝は悔い改めて、過去、現在、未来に渡る、神様の救いの業に、信じ喜び賛美させられる場です。癒された女性も賛美しました。群衆も『イエスがなさった数々の素晴らしい行いを見て喜んだ』。しかし会堂長は『腹を立て』た。礼拝は賛美の場ではないのか。

小教理問答書の中では、十の戒めのそれぞれの答えの冒頭にまず『私たちは神を畏れ、愛するのだ』と、ルターは書きました。『お前たちを私が救ったのだ』と言う神様の思いに、まず応えているかのようです。前のルーテル学院大学の学長をされていた、江藤直純先生が『ルターの心を生きるという』本を書かれました。その本の中の小教理問答書の十戒の項目のところで、次のように書かれています。『ルターの十戒の解説に特徴的なことのもう一つは、禁じられていることはしなければいいのだろう、という発想に留まることは、決してないということです。・・マイナスの行為をしない、というのに留まらず、プラスの生き方へ導き、相応しい行為を勧めるのです。・・安息日ですから一切労働をしない、という頑ななその日の守り方ではありません。命を預かっている牛の世話をした後、礼拝に行くのです。・・この戒めの重要な点は、休息することにあるのでなく、聖とすることにあるのであって、従ってこの日は、特別な聖なる実践を伴うもの、であることに注意してほしい。聖なる実践のためには、それを行う人間が聖とならなければならず、それは神のことばによってのみ起こる』。

8月は戦争のことや平和のことを、特に歴史を振り返りながら考えさせられています。歴史に生かされる人間は、一人も傍観者ではない。みんな歴史の当事者です。もう一度小教理問答書から聞きます。『第三の戒め。あなたは安息日を聖としなさい。これはなんですか。答え。私たちは神を畏れ、愛するのだ。だから私たちは説教やみことばを軽んじないで、かえってこれを聖く保ち、喜んで聴き、学ぶのだよ』。キリストの教会の礼拝によって、神のことばに与り、平和のためにも聖なる実践を行い続けさせて下さい。