からし種 405号 2023年2月

降誕節第2主日

『夢でお告げ』マタイ2:13-23

今日の福音書の場面は、あのいわゆるクリスマスの出来事の、その後、が語られます。家畜小屋の飼い葉桶の中に眠る、幼子のイエス様に、東の方から来た占星術の学者たちは、ひれ伏して拝んだ。その後、黄金、没薬、乳香を献げて、別の道を通って帰った。ベツレヘムに来る前に、エルサレムでユダヤの王様のヘロデに拝謁して、ベツレヘムで救い主が生まれることになっていると知らされました。それでベツレヘムに行くわけですが、その際にヘロデ王から、私も行って拝みたいから、戻って来て生まれた場所を教えてくれと、約束させられました。学者たちは約束通りに戻ろうとしましたが、マタイ2章12節『ヘロデのところへ帰るな、と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った』というわけです。

この『お告げがあった』と訳されているギリシア語は『クレーマティゾ―』と発音します。辞典には次のように説明されています。『(人が神の意志を質問したのに対して神が)応答する・み告げをする・み旨を伝える・警告する』。つまりこの『お告げがある』という言葉の背景には、神と人との間で、何回もやり取りがあることが、前提になっているということです。それは大抵の場合に『祈る』という行為が、重要な役割を果たしているはずです。ちなみに私の手元にあります英語訳聖書では、この『夢でお告げがあった』というところは『Having been warned in a dream』となっております。ただ一回限りの告知ではなくて、時間的経過があるように示されます。占星術師たちには、ヘロデ王の所に戻るに当たって、様々な躊躇いや葛藤の悩みが、生じていたことが伺われます。それは恐らく、既にヘロデ王に関する様々な噂や情報を、得ていたのではないかと思うからです。ヘロデは王として、賢明で才能がありました。しかし非常に猜疑心の強い性格で、自分の地位を脅かすといって、実の子どもでさえも、虐殺したと伝えられています。この家畜小屋の幼子のことを知らせたら、もしかしたら殺されてしまうのではないかと、学者たちは思い巡らしたのではないか。そしてそのことは、ヨセフとマリアにも伝えられたのではないか。ヘロデ王に気を付けろと。

占星術の学者たちが帰った後、ヨセフも悩んだのではないか。もちろん悩みながらも信仰者のヨセフは、祈り続けたことでしょう。それにしても、いわゆる世界で最初のクリスマスの後の事です。さぞかし、素晴らしい人生が開けて行くのかと思いきや、この後、ヘロデ王による幼児大虐殺を、聖書は伝えるのです。少し前の話になりますが、幼稚園のある保護者の方から、こんな質問を受けました。もしイエス様がベツレヘムに生まれなければ、そこに生まれた他の幼児たちは、殺されずに済んだのではないか。結果的に、それらの幼児たちは、イエス様によって殺されたことにならないか。私もこんなふうに、意見を言わせていただきました。確かに、そんなふうに第三者的評論家的に、この出来事を眺めれば、そんな意見も有り得るでしょう。しかしここはもう少し、当事者的に、特にヨセフの立場になって考えて見たい、と申し上げました。

ヨセフはこの幼子が産まれる前から、この妊娠出産の事態を、どのように受け入れて行くのか、悩みに悩みながら、ここまで来た。外野は、世界で最初のクリスマスだなどと、美化するかもしれない。がしかし、この後に起こされたことは、平和や幸福どころか、ヘロデ王の幼児虐殺という事態だった。ヨセフも幼子を抱えたが故に、家族ごと、危険に晒されることになった。もっとも、この似たような状況は、現代でもいつでも起こされている。クリスマスを祝って、そのまま平和の中に過ごしている者もいるかも知れません。しかし、むしろ戦争の中で迎えている者もいる。何がクリスマスだと、思わざるを得ない状況の中で、それでもクリスマスだからお祝いする、そんな人々も大勢いる。それだからこそ、クリスマスというものの、計り知れない働きと導きを、むしろまた感じさせられてしまうのも事実です。

ヨセフは幼子に対する複雑な思いや、また占星術の学者たちの言葉や行動から、悩み祈りながら、一つの決断を下した。エジプトに行って、しばらくそこに住もうと。それを聖書は『主の天使が夢でヨセフに現れて言った』と記しているのではないか。聖書には何か困難なことが持ち上がると、よくエジプトに逃げて行くユダヤ人たちが描かれています。今ヨセフの手元には、学者たちから頂いた、黄金、没薬、乳香がある。見知らぬ土地のエジプトではあるけれども、当面、経済的には困らないだろう。また見知らぬ土地であるが故に、むしろマリアが産んだ幼子のことを、あれこれと詮索するような知り合いもいないだろう。ほとぼりが覚めるまで、エジプトにいることは、返って好都合かもしれない。ヨセフはそんな決断をした。もちろんそれは、悩み祈りながらも、自分で下したことだ。しかし聖書は、そんなヨセフの決断を、神様の御心に適ったものだと記している。ヨセフはもちろん、神の御心によるものだとは、その時には意識することはなかったかも知れない。それは後で分かることかも知れない。しかし聖書は、そうしてヨセフの決断の一つ一つや、そうさせるような一つ一つの出来事に、意味があるのだと教えてくれているのではないか。

エジプトにいたヨセフは、また一つの決断を迫られた。命をねらっていたヘロデ王が、死んだとの情報を得た。イスラエルに戻ろうか、どうしようか。信仰者としてのヨセフは、いわゆるコチコチの堅物だったと、あのヨセフの受胎告知の場面の時に申し上げました。ですから、異教徒の地のエジプトに長居することに、躊躇いをずっと抱えていたのではないか。実際、旧約に出て来る先人たちも、一時的には、快適・効率・便利のエジプトに避難することはあった。がしかし、最終的には、人間の思いではなく、神の思いに立たされて、ユダヤに戻って行った。そしてヨセフも、悩み祈って決断した。イスラエルに戻ろうと。それを聖書は再び『主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った』と記している。

しかしイスラエルに戻った後も、ヨセフの悩みは尽きなかった。あのヘロデ王の後を継いだ支配者も、評判が悪かった。ここに居続けるのか、それとも元々住んでいたナザレなら、この支配者の目も届かないような所だ。親戚や知り合いも、もはやマリアの子のことには、関心も薄れてしまっているかもしれない。そんなヨセフに再び『夢でお告げがあった』と聖書は記しております。この言葉は、冒頭で申し上げた、占星術の学者たちに臨んだ『お告げ』と同じです。『Having been warned in a dream』です。ヨセフの長い葛藤の祈りが、続けられて来たことが伺われます。しかし聖書は、そんなヨセフの決断に対して、やはり『預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった』と、神様の御心の中にあることを指し示すのです。もちろんこの時にも、ヨセフは意識していなかったでしょう。そして後で分かるのでしょう。

新しい年を迎えて、今年一年も、様々な出来事に出会うでしょう。悩み苦しむこともあるでしょう。そして、その都度、大切な決断も迫られることでしょう。しかし信仰を与えられて、その一つ一つの出来事と決断に、大切な意味が込められていると信じることが出来ます。キリストの教会によって、意味ある一瞬一瞬を、丁寧に、心を込めて祈りつつ、今年も共に歩んで行こうではありませんか。

主の洗礼日

『正しいことをすべて行う』マタイ3:13-17

今日の福音書の箇所は、イエス様が『洗礼者ヨハネ』と呼ばれる人物から、洗礼を受けられたという場面です。この『洗礼者ヨハネ』が、どんな人物だったのか、今日の福音書の箇所の直ぐ前の所に描かれてあります。それはちょうど昨年12月4日の、待降節第2主日で与えられていた福音書の箇所です。簡単に振り返ります。ヨハネは、イエス様が救い主としてまもなく登場しますよと、先ぶれをする、言わば露払い役を担った人物でした。その時に彼は次のように言いました。マタイ3章11節『わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』。

 『水で洗礼を授けている』というのは、悔い改めようとする者が、その徴として、ヨハネの導きでヨルダン川の水の中に沈むというものです。言わば、汚れを水で清めるという行為です。日本でも、滝に打たれたり、桶で水をかぶったりして、繰り返し禊をするという行為があります。何かそれに似ているようです。イスラエルでも、こうした水による清め行為は、繰り返して、行われるものでもあったようです。しかしヨハネの洗礼は、一度限りというものでした。またこれまでの清め行為は、それぞれ自分で水に浸かって、行われるものでした。ヨハネの場合には、ヨハネが権威をもって授ける、と言うものでした。

 そのヨハネから、イエス様は洗礼を受けられた。その時にヨハネは『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに』と言って躊躇します。この時点でヨハネは、イエス様が、自分が先触れしたあの『後から来る方』だと、察していたのでしょうか。それに対してイエス様は、言いました。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです』。『正しいことをすべて行う』というのは、どういう意味だろうか。もう少しギリシア語原文に、忠実に訳します。『全ての正しいことを成就する』と訳せます。ですから、イエス様がこれから行われることの、一つ一つが積み重ねられて、目的地に到達する。成就という言葉には、そんな過程があるように示されます。イエス様がここで、ヨハネから洗礼を受けるということは、イエス様がこれから行うであろう、全ての正しいことの成就に向けた、その一端を担うものだ、ということです。しかも、その成就に向けた働きの主導権は、いつでも父なる神様にあるのです。そしてその目的地とは、十字架と復活の出来事であることが、後で示されるのです。

 ヨハネの洗礼が、その成就の一端を担うということになれば、この洗礼は、ヨハネという一人の人間によるものではない。イエス様が、ヨハネから洗礼を受ける事によって、この洗礼が神の業であるように現わされたのだ。ヨハネが水で洗礼を授けると言っているのは、洗礼を授けるのは、あくまでも自分だと思っている。イエス様が洗礼を受けるために、ヨハネの所に来た時にも『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき』と言っている。洗礼は、イエス様が授ける側に立つものだと、相変わらず思っている。ところがイエス様は、自らヨハネの洗礼を受けることで、この洗礼を授けるのは誰なのかを明らかにするのです。洗礼を授けるのは、父なる神様です。ヨハネは洗礼を授ける、道具に過ぎないのです。

イエス様が洗礼の水に沈んで、起き上がられた時、天が開いて、神の霊がご自分の上に降って来たという。更に『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。ここに誰が洗礼を授けたのか、その根拠が示されている。そして神の霊を受けて『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、注がれることに注目させられます。神の子であることが、広く宣言されるからです。イエス様が身をもって現わされたこの洗礼が、今やキリストの教会に引き継がれている。主イエス・キリストの御名による洗礼です。こうして、イエス様の全ての正しい行為の成就に向けて、この洗礼がその成就の、一端を担っていることになる。こうして、洗礼者ヨハネの登場もまた、実は、イエス様の全ての正しい行為の成就に向けて、既にその一端を担うものだと示されるのです。

イエス様の御名による洗礼は、イエス様が授ける側には立たれない。授けられる人間と共に、授けられる側に立たれているのです。キリスト教会初期の伝道者パウロが、ローマの信徒への手紙6章3節以下で告白しています。キリストの教会で引き起こされる、イエス・キリストの御名による洗礼は『キリストと共に水に沈んで死ぬ。そしてキリストと共に水から出て、新しい命に生きる』のだと。

 こうしてキリストの教会で洗礼を受ける事は、イエス様による全ての正しいことの成就に向けた、一つの出来事になって行く。洗礼を受ける時には、通常は、主日礼拝の中で、会衆に見守られて行われます。言わば洗礼を受けている者を通して、そこに神の業が働いていることが、確認出来るのです。そうして洗礼を受ける者は、既に神の業を現わす者とさせられている。これこそ宣教です。洗礼を受けることは、宣教の第一歩を踏み出すことです。『神の業を現わす』とは、別の言い方をすれば『神によって創り変えられた、自分の生き方を現わす』ということでしょう。その生き方は、人それぞれです。ただし、共通して言える事があります。神の子が、人間イエスとなって、この世に生まれた。そして今日の、イエス様が、洗礼を受ける者と一緒に、洗礼を受ける側に立たれた。ここには、言わば徹底的に当事者として、この世に関わり続ける、そんなイエス様の姿が浮き彫りになるのです。そのイエス様のお名前による洗礼を受ける者もまた、徹底的にこの世の当事者として、関わって行く者になる。それが宣教という言葉で言い表されている。洗礼を受ける者は、徹底的にこの世の当事者になって行く、という事です。

 新しい年を迎えて、この一年の歩みを模索するように、新聞テレビでは、各界で活躍されている人たちの、年頭の言葉が報じられておりました。その中のお一人に、国連事務次長の中満泉さんの言葉が印象的でした。事務次長としては、主に国際紛争を担当されておられるようです。今の日本に向けて何か一言を、と問われて次のように語られていました。『世界で起こっている事に関して、島国である日本は、直接的に何か影響を受けるということは少ないかも知れません。でも世界の状況を自分事として受け止めて、自分の得意分野の範囲ででも、何が出来るのか、それを家族や友人たちと、話したり考えたりして行ってほしい。そうやって身近なものになって、何かの行動に移して行ってほしい。そういうものが、少しずつつなげられて行って、世界がより良いところへと、導かれて行けると信じて、仕事をして来ました。それがもしかすると一番重要なポイントになるのかなと思います』。人間は一人で生きて行けるかのように、考えてしまう時もあります。がしかし、落ち着いて考えて見れば、それは不可能です。同じように、この地上で、他人ごとで済ませて行かれるように思ってしまうことがあります。がしかし、それもあり得ない現実を突きつけられています。

キリストの教会によって、この世の全ての当事者であることを、もう一度受け入れさせて下さい。そうして出来る事を果たして行くことが出来ますように、強め支えて下さい。

顕現後第2主日

『神の小羊』ヨハネ1:29-42

今日の福音書の箇所は、まず『洗礼者ヨハネ』と呼ばれる人物が登場します。先週は、この『洗礼者ヨハネ』から、イエス様が洗礼を受けられたことを、マタイ福音書から聞きました。ヨハネは、イエス様が救い主としてまもなく登場しますよと、先触れをする、言わば露払い役を担った人物でした。そのヨハネから、イエス様が洗礼を受けられた。それは、イエス様がこれから行われる、全ての事の成就に向けた、出発点になるためだと、先週は申し上げました。そしてそのイエス様が受けられた洗礼は、今やこのキリストの教会によって、イエス様のお名前による洗礼に引き継がれている、ということも申し上げました。そして私たち人間が、キリストの教会による洗礼を受けるという事は、この世の当事者になって行くということです。それがまさしく宣教になるのです。

そして今日のヨハネ福音書からは、更にキリストの教会の姿を、考えさせられるのです。ヨハネはイエス様の、言わば露払い役を担ったと冒頭で申し上げました。今日の福音書のすぐ前の所で、そのヨハネ自身が、自分が何者であるのかを語っています。ヨハネ1章19節以下です。新共同訳聖書では『洗礼者ヨハネの証し』という小見出しが付けられてあります。ヨハネが悔い改めの洗礼活動を始めて、大勢の人々がヨハネから洗礼を受けるために集まって来た。マタイ福音書にも記されてある通りです。ですから『あのヨハネという男は、一体、何者なんだ』と、ユダヤ教の主だった人たちも関心を寄せた。それで彼らは人を遣わして『あなたは、どなたですか』と質問させたということです。当時のユダヤの人々は、ローマ帝国の植民地下にありました。ですから、そんな状況を打破してくれる、いわゆるメシアの登場を、多くの人々は待ち望んでいた。それで、もしかしたら、あのヨハネがそうではないのか、そんな期待を抱く人々も出て来た。またそうでなくとも、聖書の中で預言されているような、救いに関わるあの人物ではないかと、期待する人々も出て来た。しかしヨハネは人々の、そんな全ての期待を否定するのです。人々は表面的な振る舞いなど、見た目でヨハネを評価した。そしてそれぞれに思い描く期待を、ヨハネに重ね合わせて行った。『公言して隠さず』というヨハネの姿勢は、そんな人々の状況を、極めて強く戒めるようです。更にヨハネは『では自分を何だというのか』と問われて、イザヤ書40章3節を引用します。『私は声だ』と言うのです。それはあたかも、目に見えるものの向こうにある、見えないものに目を向けさせるような言葉です。

そしてそんなヨハネは『何者でもないようなあなたが、では、何故、洗礼を授けるのか』と問われた。その時には直接、その問いには答えなかった。そして今日の福音書の箇所に、その答えが記されてあるのです。ヨハネ1章31節『わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た』。自分は露払い役だが、先触れするお方が誰なのか分からなかった。しかし神様によって、水で洗礼を授ける働きを与えられた。そして、洗礼を受けに来た人々の中で、天からの霊が降って、その霊が留まるのを見たその人が、先触れするべきお方だと教えられていた。そして今や、そのお方に出会ったと、ヨハネはここで証しするのです。ヨハネが水で洗礼を授ける意味は、人々に悔い改めを促すことです。それと同時に、先触れするべきお方が誰であるのか、それが分かるためのものだったのです。

そんな背景があって、今日の福音書の冒頭の箇所になります。ヨハネは『自分の方へイエスが来られるのを見て言った。見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』とあります。今日の福音書は『見る』という言葉がたくさん出てまいります。先程『目に見えるものの向こうにある、見えないものに目を向けさせるような言葉』を、ヨハネは語っていると申し上げました。ヨハネが、イエス様が洗礼を受けた時に見たものは、イエス様に、鳩のように天から降った霊でした。それは肉眼では、見えないものでしょう。しかしヨハネは、肉の目に見えるイエス様を通して、天から鳩のように降る、見えない霊を見たのです。そして今また、肉の目に見えるイエス様を通して、見えない『世の罪を取り除く神の小羊』を見よ、と言ったのです。

ここで『神の小羊』と語ったヨハネの言葉が、少し唐突のように思いました。どう考えたら良いのだろうか。このヨハネ福音書の1章1節『初めに言があった』と記されてありました。そこから旧約の創世記1章の、天地創造の出来事が思い起こされました。その中には、人間の創造もありました。そして、あのエデンの園での、アダムとエバを通して、人間の堕罪が記されてありました。ヨハネ福音書は、そんな罪に陥った人間の、言わば再創造を語るのです。それが人間の、究極の救いになるからです。『神の小羊』と語られるこの『小羊』とは、罪の贖いのための犠牲の動物を指し示します。だからヨハネは、イエス様が『世の罪を取り除く神の小羊』だと指し示すのです。既に十字架の出来事を予見しているような言葉です。このお方によって、人間の再創造という、救いが果たされると証しするのです。

ヨハネは、二人の弟子と一緒にいた時に、歩いておられるイエス様を見つめて、再び『見よ、神の小羊だ』と言いました。もちろんここでも、肉の目に見えるのはイエス様です。しかし見なければならないのは、見えない『神の小羊』です。そこで二人の弟子は『それを聞いて、イエスに従った』とあります。『聞いて、従った』というのは印象的です。見えないものを見ようとしたかのようです。この時、ついて来る二人の弟子たちに向かって、イエス様が『何を求めているのか』と尋ねられました。それに対しての、二人の応答が印象的です。『どこに泊まっておられるのですか』と答えました。この問いと答えには、何か直接的なやり取りが見えて来ない。ここに、見えているものではなくて、見えないものに目を注ごうとしている、二人の姿勢が見えて来るのです。一緒に泊まって、更にたくさんのお話しを、イエス様から聞いて行こう、そんな自分たちの、この後の姿を、見ていたのではないか。今は見えないけれども、見なくてはならないものを、このお方から聞いて行こうと思ったのだ。

そして、この二人の中の一人のアンデレが、兄弟のペトロにイエス様を引き合わせたという。イエス様はペトロを見つめて『ケファ』と呼ぶ事にしたという。これからの弟子団の、リーダーになる事を予見させる言葉です。それにしてもイエス様は、ペトロを見つめて、何を見たのだろうか。この時のペトロは、アンデレとは違って、洗礼者ヨハネの弟子では無かったかも知れない。それとも、もはや弟子としての働きをさぼっていたのか。いずれにしても、見た目のペトロは、誰もリーダーとしては、相応しいとは思えない程ではなかったのではないか。しかしイエス様は、見えるペトロの向こうにある、見えないものを見た。そうして、ペトロをリーダーと考えたのではないか。こうしてまた、弟子とさせられる人間の、何を見るのかを、問われるようなのです。今日の第一日課の1コリント1章5節には、コリント教会の人々に向けて『あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています』と、この手紙の著者のパウロが記しています。一方で1章26節では次のように記しております。『兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません』。見た目の良い者ばかりが集まっているわけではないと言っているのです。それは裏を返せば、見えないものに目を向けているからなのです。

キリストの教会によって、見えない『神の小羊』を見続けさせて下さい。

顕現後第3主日

『人間をとる』マタイ4:12-23

今日の福音書の冒頭の『ヨハネ』という人物は、この二週間に渡って福音書から聞いてまいりました『洗礼者ヨハネ』のことであります。イエス様の登場を前触れする役目を担いました。何故捕らえられたのかは、前後しますが、マタイ14章3節に記されてあります。時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの不正を批判したためでした。そのおひざ元であるガリラヤに、イエス様は退かれたと聖書は記します。まずどの場所から退かれたのか。今日の福音書のすぐ前は、イエス様が荒れ野で、悪魔から誘惑を受けた事が記されてあります。その直前に、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。川のどの辺りで、イエス様はヨハネから洗礼を受けたのでしょうか。エルサレムからも人々が、ヨハネの下に来たということです。ですから、ガリラヤとエルサレムの中間辺りの、ヨルダン川の岸辺だったと想像されます。そしてそこからそう遠くない荒れ野で、悪魔から誘惑を受けられた。そこで、ヨハネが捕らえられた事を聞いた。ヨハネの仲間ではないかと思われているとしたら、自分も捉えられてしまうかも知れない。それでガリラヤに退かれたのでしょうか。確かにそこは、ヘロデのおひざ元ですが、だからこそ相手も油断するかも知れない。荒れ野の辺りにいたのでは、いずれにしても目立ってしまう。少しでも人込みの中に紛れ込めば、目立たないだろう。エルサレムよりはガリラヤの方がよく知っている所だ。しかしナザレは自分の家もあるし、敵も注目するだろう。それでガリラヤ湖畔の町の、カファルナウムに来て住まわれたのではないか。そしてそのことが、結局、今日の第一日課の、イザヤ書9章1節以下に記されてあることが実現することになったと、マタイ福音書は伝えています。イエス様がこのイザヤ書を、意識していたかどうかは分かりません。しかしこうして、一つ一つの決断の背後に、目に見えない神様の働きが示されていると、マタイ福音書は伝えているようです。

そう言えばマタイ福音書2章13節以下でした。イエス様が誕生して直ぐ、エジプトに避難することを、父ヨセフは決断をしました。そこにも、聖書の言葉が一つ一つ実現して行ったと、マタイは伝えていました。そしてこれらの決断は、今日の箇所もそうですが、一つの危機に直面した時のものです。そしてその危機が起点となって、背後で働かれる神様の、強い導きが示されて行くのです。『災い転じて福となす』という諺が思い出されます。ちなみに、キリスト教会がギリシャローマの世界に、拡げられて行った起点は、エルサレム教会が大迫害を受けたことからです。そしてその信者たちが、あちらこちらに散らされて行ったのです。使徒言行録8章に、記されてある通りです。

とにかくヨハネの逮捕で、ガリラヤに退かざるを得なかったイエス様。それ故にそのガリラヤに、イザヤが預言していた光が、差し込んだというのです。ガリラヤは、エルサレムから遠く北方の地で、歴史的に異邦人の侵略に、晒され続けて来た所です。そんなまさしく暗黒に包まれたような土地から、イエス様は『悔い改めよ。天の国は近づいた』と、宣教の第一声を張り上げたのです。そして、その第一声によって、イエス様が真っ先に為された事は何か。それはガリラヤ湖で働く四人の漁師を、言わば弟子にしたことでした。それはあたかも、天の国は、これら弟子たちを通して、現わされて行くとも、宣言されるかのようです。そしてその四人の弟子たちが、まさに『人間をとる漁師』となって、更に弟子たちが与えられて行くのです。先程引用しました使徒言行録は、まさにそんな弟子たちによって現わされて行った、キリストの教会の拡がりを記します。キリストの教会こそ、イエス様の弟子たちの群れです。この福音書も含めて聖書の全てが、弟子たちという、人間の手によって記され、引き継がれて来たのです。欠点だらけで、間違いばかり犯してしまう人間たちです。がしかし、そんな人間を、イエス様の神様はお用いになるのです。そんな人間たちを通して、天の国が現わされて行くというのです。

附属幼稚園の職員の皆さんは、私も含めて『キリスト教保育』という雑誌を、毎月購読しています。その1月号になりますが、日本基督教団中村町教会付属平和保育園の、牧師で理事長を担っておられます、小友聡先生が、その巻頭言で次のような事を書かれておられました。所々引用させていただきます。『・・保育園の名称は、平和保育園です。・・平和はヘブライ語でシャローム。シャロームの語源はシャラムです。これは、回復する、和解する、補填する、バランスを保つという意味です。シャロームにはもちろん、平和、という意味がありますが、もっと深い意味が含まれます。・・シャロームは不思議な言葉です。はじめからシャロームは存在しません。シャロームは、その前提に必ずマイナスや欠如があって、そのマイナスが補填され、調和がもたらされるときに、はじめてシャロームになるのです。戦争がないだけが、平和、ではありません。回復であり、和解であり、復興であり、調和であり、バランスです。それは、この世界において実現されるべき平和であると同時に、いろいろなマイナスを身に帯びている人間が、いろいろな経験をして学び、やがてバランスのある調和のとれた人間に成長していく。その成長への過程をシャロームと呼ぶのです。聖書では、このシャロームを造る人は幸いであり、神の子と呼ばれるのです』。保育雑誌の巻頭言ですから、保育者と園児を意識しつつの言葉でしょう。がしかし、大人も子供も、全ての人間に向けられる、言葉でもあるように示されます。絶えず私たちは、個人的にも世界的にも、様々な危機に直面し続けています。それだからこそ、回復、和解、復興、調和、バランスというシャロームが、欠け多き人間に向けられ、そこに込められた意味に、勇気と希望が与えられます。

もう一つ、先週の日経新聞の朝刊の記事でした。安部元総理銃撃事件実行犯の、裁判が始まるとのことです。その事件に関して、次のような記者の言葉が印象的でした。部分的に引用します。『事件やそれを起こした人物に、世間一般が共感を寄せることはままある。庶民の側に立っているわけでもない、まさに悪事に手を染める、ダークヒーロー、をほめそやす風潮もある。・・殺人罪などで起訴された山上徹也被告への共感や支援はネット上に限らず、広がっている。・・被告の過酷な生い立ちに同情する声があがることは理解できる。だからといって、その恨みをはらすための殺人行為が許されるはずはない。・・自分の思いを暴力で実現しようとするなら、テロリストと同じ論理になる。だから当然、被告の、行為、に対しては厳しい態度で臨むべきだ。ここで大きな問題となるのは、本来こうした社会事象に取り組むべき政治、行政、司法、そして自戒を込めてマスコミが役割を果たしてこなかったという点である。言論や選挙では何も変わらない。自分を、そして社会を変えられるのは自らの、決起、だけ―。そんな空気が広がれば、社会は深刻な危機に瀕する。・・政治や行政が社会の隅々まで目を配り、声を聞く。困窮や孤立に手を差し伸べ、法律や制度を整える。人権を守るべき司法は、本当に人々の身近なものになっているか。マスコミは隠された問題や矛盾を伝えているか―。世の中を変えていくのは手作りの銃弾ではなく、社会が本来持つ、正しい力、である』。最後の『社会が本来持つ、正しい力』と言う言葉が、とても印象的です。それでも実際には様々な分野で、たとえ不完全だと言われるとしても『正しい力』のために、社会は営まれていることも事実です。

人間をとる漁師にして下さる、主イエス・キリストの神様によって『社会が本来持つ、正しい力』とは何なのか、もう一度、示されながらそこに与り、私も当事者として用いられ、シャロームに生かされて行こうではありませんか。

顕現後第4主日

『喜びなさい』マタイ5:1-12

今日の福音書の箇所は小見出しにもあるように、イエス様による『山上の説教』と呼ばれる、始まりの部分です。そしてこれは、旧約の出エジプト記20章に記されている、十戒が与えられた場面と、よく対比されます。出エジプト記は、紀元前14世紀頃の、エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちが、リーダーのモーセに率いられて、エジプトを脱出した出来事を記します。この脱出劇は、ユダヤ人たちにとって、神による最大の救いの出来事として、記念され続けて来ました。それが福音書に記されている『過越しの祭』です。そしてこの『過越しの祭』の最中に、イエス様は十字架に掛けられました。

この十戒は、シナイ山の頂上で、モーセを通して神様から与えられました。今日の『山上の説教』の全部は、マタイ5章から7章までです。その中では、十戒からもいくつか引用されておられます。例えば『殺すな』(5:21)とか『姦淫するな』(5:27)などです。ですからイエス様は、この『山上の説教』を語るにあたって、場所も同じ山の頂上ですから、十戒の場面も意識されておられた、とも想像されます。

そもそもマタイ福音書には『主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった』(1:22,2:15,2:23,3:3,4:14)と、1章から4章までに繰り返し記されております。つまり旧約聖書の言葉が、このようにして成就したと、マタイはしばしば記すわけです。新約聖書の最初の書物は、マタイ福音書です。書かれた年代から言えば、マルコ福音書が一番古いのです。それでもマタイ福音書が、新約の最初に置かれているのは、このように預言と成就という、旧約と新約の橋渡し役を担っているからだと示されます。

そうしますと、今日の『山上の説教』の場面も、あの十戒が与えられた出来事が、イエス様の説教を通して成就することを、やはりマタイは伝えようとしているのではないか。何がどのように成就するのか。マタイ5章17節で、イエス様は次のよう語られています。『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』。イエス様は『完成』という言葉を使われていますが『成就』とも置き換えられます。この『律法や預言者』というのは、旧約聖書のことです。いずれにしても『十戒』という父なる神様の言葉が、イエス様の説教の言葉を通して、完成した、あるいは成就したというのです。

ところでこの『旧約』というのは『旧い契約』という意味です。実はこの十戒が与えられた時に『旧い契約』が交わされました。エジプト脱出を実現させた神様と、救われたユダヤ人たちが、契約を結んだのです。父なる神様はユダヤ人を守り、ユダヤ人はこの神様に従います、という契約です。その契約の徴として、十戒が与えられたのです。ここで気を付けなければならないことがあります。十戒とは十の戒めです。いわゆる律法全体を代表するものです。そしてこれらの戒めを守ったら、父なる神様はあなた方を守る、という契約ではありません。父なる神様がエジプトから脱出させたように、あなた方を救ったから、そしてこれからも守り助けるから、あなた方はこれらの戒めを守ります、という契約です。救って下さったから、戒めを守ります。この順番を間違えて、守りますから、救って下さいとしますと、いわゆるご利益信仰になってしまいます。また旧約聖書の申命記は、エジプト脱出を果たしたユダヤ人たちが、故郷であるイスラエルの地を目前にした時の、リーダーのモーセが語った説教と言われます。モーセは次のような神様の言葉を、折に触れて取り次いで語っています。『あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出して下さったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである』(申命24:18,22)。しかしユダヤ人たちは、その後も繰り返し起こされる、困難や悲しみの出来事の現実に、父なる神様の救いと思いを忘れてしまいます。それどころか目の前の悲惨な現実に、何も解決を与えてくれない神様を、恨むほどであった。こうしてユダヤ人たちは、旧約の不履行を繰り返すようになったのです。いつしか、守りますから、救って下さいという、父なる神様を試すような、ご利益信仰に陥って行ったのです。それはユダヤ人たちだからと言うよりも、全ての人間が持っている、弱さなのではないでしょうか。

旧い契約があれば、新しい契約もあるはずです。新しい契約について、旧約聖書の中で、預言者のエレミヤが、次のように預言しています。エレミヤ書31章31-33節『見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』。

旧い契約が結ばれた時は、エジプト脱出の救いに与ったユダヤ人を前にして、父なる神様は十戒を与えられました。今日の『山上の説教』の場面は『天の国は近づいた』と、宣教の第一声の後、イエス様は四人の漁師たちを弟子にしました。それからマタイ4章23節『イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた』。そんな大勢の群衆が来て、イエスに従った。その群衆を見て、イエス様は山に登り、弟子たちも近くに寄って来て、そこでイエス様は説教をされた。エレミヤが預言した『来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約』という『新しい契約』は、まさにこの『山上の説教』の、イエス様の言葉がその徴となるようです。

病を癒されて救われた人々が、だからイエス様に従いますと言えば、そのやり取りは、かつての旧い契約と似てきます。『お前を救っただろ。だからこれを守れよ。でなかったら、裁くからな』という、相変わらずの父なる神様のイメージです。そして再び人間は、困難の中に置かれれば、救われたことは無かったかのように振る舞うのです。そして神様を恨みます。また救いのために、神様と取引をするようになるのです。しかし今日の『山上の説教』の『幸い』を語るイエス様の言葉からは『だからこれを守れよ』という、高飛車な、一方通行の言葉には響かないのです。語った言葉を守りなさいと言うよりも、それを聞く人間たちの、現実の在り様をよくご存じで、そこに注目されるようです。目先の事に一喜一憂する、そんな人間を叱らずに受け留めます。そして対話を築いて行こうとされるようです。『心の貧しい人々』というのは、心の中が空っぽで、だから神様のことが100%、心の中に入り込める人だとの解釈もあります。しかしそれは裏を返せば、人間て、そんなに空っぽに出来るものでもない。どこかで、目に見えるものを頼りにしようとする。見えない神様への信頼が、演技しているようになってしまう。しかし『本音で話そうよ』と、イエス様は対話を促しているようなのです。『悲しむな、と言ったって、悲しいものは悲しいよな』。『世の不条理に憤る。分かる分かるその気持ち』。『憐れみ深いとか、心の清いとか、平和を実現するとか、気に入ればそう出来る。そうでなければ出来ない。そうだよね』。『何で自分ばかり損するんだ。腹立つよね』。『主よ。私が思う幸いと、あなたが思う幸いとが、何か違うんですが』。そんな対話が、背後から聞こえて来るようなのです。対話ですからそこには、見えなくとも、イエス様が共にいて下さるのでしょう。そう言えばマタイ福音書の最初の所の、ヨセフの受胎告知の場面です。イエス様の誕生によって『インマヌエルと呼ばれる』という聖書の言葉が、実現したと記されてあります。イエス様は『神は我々と共におられる』という方だと言うのです。あの預言者エレミヤが『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す』と預言した言葉は、この共にいて対話するイエス様によって実現される。これが新しい契約なのだ。旧約は、神お一人対ユダヤ人共同体との契約です。しかし新約は、神お一人対私一人との契約なのです。

 最後に、そんなイエス様のことをマタイは、次のように伝えます。マタイ11章28-30節『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負い易く、わたしの荷は軽いからである』。喜びなさい。はい、御一緒ですから喜びます。