からし種 406号 2023年3月

顕現後第5主日

『天の父をあがめる』マタイ5:13-20

まず今日の箇所の直ぐ前の所の、先週の福音書の箇所を振り返って見ます。イエス様による『山上の説教』と呼ばれる、始まりの部分でした。その『山上の説教』は、5章から7章にまで渡るものです。ですから今日の福音書の箇所も『山上の説教』に含まれます。そしてその前半は、新共同訳聖書では『地の塩、世の光』という小見出しが付けられてあります。

ところで先週も申し上げた事ですが、この『山上の説教』は、旧約の出エジプト記20章に記されている、十戒という十の戒めが与えられた場面を思い起こさせます。出エジプト記は、紀元前14世紀頃の、エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちが、リーダーのモーセに率いられて、エジプトを脱出した出来事を記します。そしてこの十戒は、脱出した後のシナイ山の頂上で、モーセを通して神様から与えられました。その際に、エジプト脱出を実現させた神様と、救われたユダヤ人たちが、契約を結んだのです。この契約を今やキリスト教会では『旧約』あるいは『旧い契約』と呼んでいます。父なる神様はユダヤ人を守り、ユダヤ人はこれに応えて、この神様に従います、という契約です。その契約の徴として、十戒が与えられたのです。

しかしユダヤ人たちは、目先の困難や悲しみが襲う度に、あの契約のことを忘れてしまうのです。それどころか目先の苦しみを、直ぐに取り除いてくれないと言っては神様を恨み、別の神様や、目に見えるもっと強いと思うものに、走って行ってしまうのです。そして、助けてくれたら従いますと、新たな取引をしてしまうようになります。しかしそんなユダヤ人たちの姿は、決して笑えないのです。大なり小なり似たような振る舞いを、自分もしてしまっていると思うからです。そしてそんな弱さは、人間そのものには、少なからずあるのではないでしょうか。

もちろん父なる神様は、そんな人間の弱さをご存じでした。それである時に、預言者のエレミヤを通して、もう一度、そんな弱い人間と契約を立てると、予告されたのです。それが新約あるいは新しい契約と呼ばれるものです。エレミヤ書31章31-33節『見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』。

あの十戒の言葉からは、人間の弱さを省みずに、何だか上から目線で『ああしろ、こうしろ』と言われているようにも聞こえます。もちろん神様は、そんなつもりではないのでしょう。むしろ、神様が創られた人間ですから、言われたように出来るという、期待の現われでもあったのでしょう。しかし現実の人間は、そうでは無かった。現実の弱くて欠け多き人間を、まず受け留めて、そこに寄り添って行こう、そうやって、本来の神と人間との正しい関係に、導いて行こうと思い直された。そんな思いが『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す』という、あのエレミヤの預言の言葉に、現わされているように示されます。そしてそこに、新約あるいは新しい契約が、備えられて行くことになるのです。そのことを今日の福音書の後半で、イエス様ご自身がおっしゃられているのです。5章17節『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』。まさにここに神様と人間との、本来あるべき正しい関係を、新たな契約を通して、イエス様が築いて完成させて下さると、宣言されるようです。

どんなふうにイエス様は『現実の弱くて欠け多き人間を、まず受け留めて、そこに寄り添って、神様との正しい関係に導いて行こう』とされるのか。先週の箇所の中で、8通りの幸いな人間たちを、取り上げておられました。すなわち、心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々、です。どの人々からも、結局は、人と人との関係の事で、人間は課題を負わせられているように示されるのです。苦しいことも楽しいことも、そこに働く人間関係の状態によって、苦しいとか楽しいとか、人間は思うのではないか。そして、イエス様だから、人間関係を心地よいものに、整えて下さると思いきや、むしろイエス様のせいで、ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられ、人間関係が破壊されることもあるという。それでも、幸いだ、喜びなさいとおっしゃられる。そんな時にこそ、むしろイエス様が共にいて下さる、と示されるからです。そして全ての人間関係は、人間同士の間だけでは、結局、本来の正しい関係には築かれない。まず、父なる神様との関係が、一人一人の人間を通して、正しく整えられる時、人間同士も正しい関係に置かれるのです。それを可能として下さるのが、イエス・キリストなのです。

今日の福音書は『あなたがたは地の塩である。・・世の光である』と、イエス様は言われています。『地の塩になれ』と命令されません。あるいは『世の光になるだろう。だから、一生懸命努力しない』とも言いません。弱く、欠け多き者であることをよくご存じの上で、それでも『今、あなたは、地の塩、世の光だ』とおっしゃられるのです。『塩に塩気がなくなれば』と言います。がしかし、どんなに不純物が混ざっていても、塩と言われる限りは、塩気が無くなるはずはないのです。たったの0.1mg程であっても、塩として活用されます。光はどんなに微量でも、明るいものは光である。光が有っても明るくないのは、それはむしろ周りに原因があると、考えざるを得ないし、そう考えても良いと言われるようです。

改めてここで大切なことは、イエス様は、どんな人間を用いて下さるのか、それをまず自分が知ることです。弱く、欠け多き私です。そしてそんな私を、それでもこの神様は、お用いになるということも、同時に知る事が大切です。『人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる』と、イエス様はおっしゃられます。『あなたがたの立派な行い』とは何か。それは、弱く、欠け多き自分たちであり、それでもそんな自分たちを、神様は認めて用いて下さっていると確信できる、そんな自分たちから出る行いだと示されます。

考えて見ますと、いわゆる万能選手なんていません。みんなそれぞれ長所もあれば短所もあります。そして、長所が無くならないものであるならば、短所も無くならないはずです。であるならば、長所をお互いに見て行きたいし、きっとイエス様もそんなふうに、お考えになられているのかも知れません。そしてイエス様が、一つ一つの長所をつなぎ合わせて、立派な行いに築き上げて下さる。それを見て知らされる人々が、きっと、天の父をあがめるようになるのでしょう。

主よこれからも、あなたのご用のために私たちを用いて、人々が私たちの立派な行いを見えるようにして下さい。

顕現後第6主日

『誓ってはならない』マタイ5:21-37

今日も含めて、この三週間に渡ってマタイ福音書から『山上の説教』と呼ばれる、イエス様の言葉を聞いて来ております。少し振り返ります。山の上でこの言葉をイエス様が人々に話された事と、旧約の時代のシナイ山という山の上で、エジプトを脱出したイスラエルの人々が、リーダーのモーセを通して『十戒』という十の戒めを、神様から与えられたこととが、よく対照的に語られます。このシナイ山で神様は、イスラエルの人々と契約をします。その契約を守る徴として『十戒』を始めとする、様々な律法が与えられたわけです。助ける神様とそれに応えて、律法を守るイスラエルの人々。これが旧い契約、あるいは旧約と呼ばれるものです。こうして天地創造以来の、父なる神様との正しい関係に、再び人々は招き入れられるはずだった。

ところがイスラエルの人々は、苦しいことに直面する度に、神様は助けてくれないと言っては、他の神様やもっと目に見えて、頼りになりそうなものに走った。そうやって、あの契約を破り続けた。そこで神様は、預言者のエレミヤを通して、新しい契約を立てると予告した。その際に『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す』とも予告された。一体、どのようにして『胸の中に授け、心にそれを記す』というのだろうか。それが、イエス様による『山上の説教』を通して、示されることになるのです。イエス様は説教の中で言われました。5章17節『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』。イエス様による新しい契約、新約によって人々はもう一度、神様との正しい関係に入れられるというのです。そして神様との正しい関係を問うことは、同時に、人と人との関係も問われることになります。

そこで今日の福音書はまず、その人間関係を問います。新共同訳聖書には『腹を立ててはならない』という小見出しが付けられています。『殺すな』という『十戒』の中の戒めを取り上げます。しかしイエス様は、兄弟と言う言葉を使って、兄弟に腹を立てたり『ばか』と言ったり『愚か者』という者は『殺すな』という戒めを破ることと同じだとおっしゃられるのです。そこでそもそも神様は、何故『殺すな』とおっしゃられるのだろうか。そこを問うようにまず導かれてしまう。その事がまさしく『胸の中に授け、心にそれを記す』ということの、第一歩だと示されるのです。『殺すな』というのは、単に相手の命を奪わなければそれで良い、という事ではない。そもそも相手のことを、心の中ではどう思っているのか。そこをイエス様の言葉から、考えさせられるのです。

そこで旧約の創世記2章18節の言葉が思い起こされます。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』。それで二人目の人間が創られる。それを女と呼び、最初の人間を男と呼ぶ。人間は全て、神様によって創られた者だから、神様の目からすれば人間は皆兄弟だ。だからイエス様は人を、兄弟と呼んでおられる。いずれにしても『人が独りでいるのは良くない』と言う言葉に、改めてハッとさせられます。確かに好んで、いわゆる孤独になろうと思う人は、あまりいないかも知れない。しかし一方で、二人以上がいるから争いごとも起こる。一人だったら、争いも起こらないだろう。しかしイエス様はこの説教の中で、しきりと仲直りを勧めています。それは単に倫理道徳的な事ではない。天地創造の原点に帰れと、おっしゃられるようだ。『人が独りでいるのは良くない』。更にその兄弟という存在は『彼に合う助ける者』と呼ばれる者だ。『殺す』ということは、与えられている『助ける者』が、必要ではない、いなくても良い、としてしまうことだ。それは、腹を立てたり、ばかと言ったり、愚か者と言っていることとも、同じことだ。そして『良くない』と言われる、孤独になる。まあそれでも、正直に申せば、相変わらず、仲直り出来ない自分がいます。でもそんな自分を抱えながら、もはやイエス様の言葉が、ずっと自分の胸と心の中に記されて行くのだ。

そして今日の福音書のイエス様は、続けて『姦淫』と『離縁』のことに言及します。これも天地創造の原点に立ち返れば、人類最初の人間関係は、男と女との間に起こされている。姦淫も離縁も、その関係を破壊させるものです。しかもイエス様が指摘される姦淫についても、心の中では、その相手をどのように見ているのかと、問題にされている。ここでも『胸の中に授け、心にそれを記す』という、新しい契約のイエス様にすがらざるを得ないのです。

最後にイエス様は『誓ってはならない』とおっしゃられます。これの直前の『姦淫』と『離縁』に言及されているところでは、どちらかと言えば、男に対する強い戒めの言葉にも聞こえました。その流れで考えますと、最後のこの箇所もまた、男に対する警告の意味合いもあるように示されるのです。と申しますのも、この誓いに関する律法規定は、旧約のレビ記27章1-8節、民数記30章2-16節、申命記23章22-24節に、それぞれ記されてあります。特に興味深いのは、民数記です。ここは、男に関わる規定は3節のみです。その後の4節から16節までは、全て女に関わる規定になっています。その女とは、まだ結婚する前の娘時代と、結婚して妻になった時と、細かく分けられています。そしてそれぞれの状況での、誓いを立てる場合の規定が記されてあるのです。結局その内容は、誓いを立てるにしても、女性は単独では出来ないというものです。誓いを立てても、父や夫が容認すれば有効だし、禁じれば無効だというものなのです。

『人が独りでいるのは良くない』と言う、神様の言葉によって始まった人間関係。それが二人以上になることで、むしろ争いごとが生まれるようになってしまった。更にその人間関係は、男と女という関係が始まりです。それがいつしか、いわゆる上下関係にあるかのように、すり替わって行ってしまった。それをイエス様はまず、浮き彫りにされるようです。そしてそのすり替わりは、結局、神様との関係の問題から始まっていた。改めてこの誓いを立てることにおいても、その問題が明らかにされるのです。誓いを立てることで、むしろ神様を利用することになってしまった。誓いを守っている自分を、神様のお墨付きで、正当化して見せる方向へと、走ってしまった。更には、誓いを果たせなかったとしても、さも果たしているかのように、方便を駆使して、見せかけることさえしてしまっている。そんな神様との誤った関係も、実はあの人類最初の男と女から始まったことも、創世記3章から伝えられている。

『あなたがたは、然り、然り、否、否、と言いなさい』という。誓いを立てて、心の中とは違う、曖昧な見せかけの神様との関係にしてはならない。神様に対しても、そして他者に対しても、更に自分に対しても『そうです』『違います』『出来ます』『出来ません』それだけでいいと言うのです。しかしどうしても、自分を取り繕ったり、余計な気遣いに疲れたり、だから孤独に走ろうとしてしまうこともあります。しかしこのイエス様の言葉が、むしろこうして『胸の中に授けられ、心にそれが記される』ているのだと確信させられます。

キリストの教会の新しい契約によって、神様とそして他者との正しい関係に置き続けて下さい。

変容主日

『彼らに手を触れて』マタイ17:1-9

この三週間に渡りまして主日礼拝では、マタイ福音書から、いわゆる『山上の説教』と呼ばれる、イエス様の説教の言葉を聞いてまいりました。イエス様は、神様と人間との関係、同時に人間と人間との関係、この両方の正しい在り方を回復するために語られます。回復と申し上げたのは、かつては正しい関係にあったからです。それは父なる神様が天地を創造された時です。最後に人間が創造され、神様と人間との関係が始まりました。その関係は、まだ単なる土くれに過ぎなかった人間に、神様の霊が吹き入れられて、人間が生きるものになったからです。人間は神によって生きる。もっと具体的に言えば、神の言葉によって生きる、そういう関係にあった。更に神様は、人間が独りでいるのは良くないとおっしゃられて、もう一人の人間を創られて、生きるものとされた。最初の人間を男と呼び、次の人間を女と呼んだ。そしてこの二人を始まりとして、産めよ、増えよとおっしゃられた。地に満ちた人間たちによって、神様が創られた全てのものが、正しく管理されるように期待して委ねた。しかし最初の二人は、神によって生きるものであるという関係から外れた。自分たち人間の力で生きるものであるかのように振る舞うようになった。こうして神様との関係を、相応しくない状態にしてしまった。聖書はそれを罪と呼ぶ。それは同時に、人間同士の関係も、相応しくない状態に置かれることとなった。殺人、姦淫、窃盗、偽証、金銭欲などの、人間関係を損なうものに、汚染されるようになってしまった。

しかし神様は、そんな人間を見捨てない。ある時、一つの民族を選び、その民族を用いて、神様と人間との関係の回復を試みた。その民族の名前がイスラエル。そしてその民族の指導者がアブラハム。イスラエル民族が優秀だったから、選ばれたわけではない。理由は分かりません。とにかくただ一方的に、神様の計画によって、イスラエルが選ばれた。その後、数を増したイスラエル民族でしたが、移り住むことになったエジプトで、奴隷状態に置かれた。そんなイスラエルの、指導者として立てられたのがモーセ。彼によって、エジプト脱出を果たした。そしてモーセがシナイ山の頂上に招かれ、神様と契約を結んだ。救ってくれた神様と、それに応えて行く人間という契約です。まさに人間は、神によって生きるものになるという関係の回復です。その契約の徴として、十戒を始めとする律法が与えられました。今日の第一日課は、その契約の場面です。今日の箇所の直ぐ前の所にも、興味深いことが記されてあります。出エジプト記24章6-8節『モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります、と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』。

しかしイスラエルの民は、困難に直面する毎に、神様に不平を言うようになった。そして次第に、神様から離れて契約を破るようになった。そうして再び、あの相応しくない神様との関係に、陥って行ってしまうのです。その間、大勢の預言者が立てられました。彼らによって人々は、悔い改めを迫られました。しかしそれでも言うことは、聞かれませんでした。そんな預言者たちの一人に、エリヤがいました。そして、やはり神様は、そんなイスラエルの人々を見捨てず、今度は、預言者のエレミヤを通して、新しい契約を立てることを予告するのです。モーセを通して立てられた契約は、もはや旧い契約と呼ばれるようになるのです。そしてエレミヤの預言通りに、主イエス・キリストが立てられ『山上の説教』を通して、新しい契約が結ばれる準備が進められるのです。

今日の福音書の箇所は、やはり舞台は山の上です。『山上の説教』を終えられた後、山を下りたイエス様は、しばらくまた、宣教活動をされました。そしてまたある時に、三人の弟子たちを連れて、高い山に登られた。しばしばイエス様は、山や静かな所に移動して、祈りの時を持たれています。今日の場面も、恐らく祈るために山に登られたのでしょう。『山上の説教』の中で、マタイ5章17節『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』と語られました。裏を返せば、同じ仲間であるはずのイスラエルの指導者たちから、イエス様は『律法や預言者を廃止する』ために来た異端者だと、反感を覚えられるようになっていました。また人々が自分のことを、何者だと言っているかと、尋ねられた時にも、人々の答えから色々な思惑が透けて見えた。弟子の一人のペトロまでも、人々と似たような所に立っていた。みんな人間のことを思っているような状況だった。自分が神様から示された事は、人々が根深く抱える、根本的な過ちを気づかせることだ。しかしそれを遂行するには、余りにもたくさんの困難を感じた。人々が願っている事とは違うことをしなければならない。今この目の前の人々が求めていることに、応えた方が良いのではないか。

そんな思いの中で、イエス様は、祈りに駆り立てられた。そして神様はもう一度、与えた使命の原点に、イエス様を立ち返らせたのではないか。そのために、イエス様の姿が、三人の弟子たちの前で白く輝き、更に『モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた』という事態が、起こされたのではないか。三人は何を語り合っていたのか。まさにイエス様の悩みを聞く中で、冒頭で振り返ったような、神様と人間との関係の成立、そして崩壊、更に契約による回復、しかしまた関係の崩壊と共に、契約は旧いものになる。そしてまた再び、新しい契約によって、関係が回復されるようになる。そんなふうに振り返りながら三人は、もう一度イエス様が来られた目的を共有し合ったのではないか。更にそんなイエス様を鼓舞するように『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という、天からの神の言葉が注がれた。

そしてこれからいよいよイエス様は、新しい契約の締結成就のために、エルサレムに向かわれる。そこには、契約の徴として十字架が待ち受けている。その十字架を目前にした時に、イエス様は、最後の晩餐と呼ばれる食事の席で、次のように言われています。マタイ26章26-28節『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』。

今週の22日水曜日から、イエス様の十字架行きを想起する、四旬節に入ります。私たちも、原点に立ち返るように、神様との関係、他者との関係を吟味させられたい。そして、自分の罪に向き合って行きたい。そして何よりも、こんな私と神様との、相応しい関係作りのために、イエス様は今日も、体と血を差し出して、新しい契約に招いていて下さる。

キリストの教会によって、今もこんな私たちにも手を触れて『起きなさい。恐れることはない』と、言葉を注ぎ続けて下さっている。

四旬節第1主日

『神の子なら』マタイ4:1-11

先週の水曜日から教会独自のカレンダーでは、四旬節という期節に入りました。イエス様のご復活を記念する今年のイースターは、4月9日になりますが、この日の前までが四旬節になります。この期間は特別に、私たち一人一人が、神様との関係、そして自分自身が何者であるのか、よく吟味するように、キリスト教会によって備えられたものです。今日の第一日課の創世記では、神様によって創られた人間が、神様との約束を破って、食べてはいけない木の実を食べて、神様との関係が損なわれることになったことを伝えています。損なわれたというのは、その出来事以後、人間は折に触れて、神様に替わり得る者であるかのように、振る舞うようになって行ってしまったということです。それは裏を返せば、神様がいるにしても、飾り物のようであったり、信仰が建前と本音で、使い分けられるようになって行ってしまったということです。

そんな、神になり替わる振る舞いをする人間の状態を、聖書は罪と呼んでいます。今日の第二日課のローマ5章12節以下では、創世記に記されている、罪が人間に入り込んで行ったことと、それ故に主イエス・キリストの働きについて、著者の初代教会伝道者パウロは、次のように記しています。ローマ5章12、15節『このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。・・しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです』。神様と自分との関係を問うことで、自分もまたどんな状態にあるのか、聖書が言う罪と呼ばれる状態なのか、改めて知るように促されます。そしてここでパウロが言う『イエス・キリストの恵みの賜物』とは何なのかを考えさせられます。それは損なわれた神様との関係の回復のためのものなのか。だからその賜物が、この自分にとって、どのように関わって行くものなのだろうか。考えさせられるのです。

とにかくまずは、今日の福音書に描かれるイエス様から、この自分はどのような状態にあり、何者なのかを考えて見ます。イエス様が荒れ野で四十日間断食した後、誘惑された場面です。その誘惑とは『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』というものです。これが誘惑になるのか、と思ってしまうような誘惑です。誘惑とは『悪事に誘い込むこと』と、国語辞典に出ていました。この誘惑のどこに、悪事に至るものが潜んでいるのだろうか。イエス様のことだから、石をパンに変えて見せることも出来るだろう。ただそれだけのことではないのか。いずれにしてもイエス様は、神様と人間との相応しい関係回復のために、罪の状態を無くすために、賜物と使命を帯びて来られたのだ。だから、その賜物と使命は、言わば神様のために用いられるものだ。少なくとも、自分の名誉のためには、用いられるものではない。石をパンに変えることは『さすがに、神の子イエス様だね』と言われるかも知れない。そんな名誉はイエス様には、必要のないものなのだろう。ではこの私はどうだろうか。

私たち人間も、似たような状況に置かれる事があります。牧師なら、先生なら、親なら、などなど。牧師、先生、親などなど、それらのものも、神様のために用いるように与えられている、賜物と使命だとします。しかしそうは言っても、牧師である自分の存在価値を、問われるような言葉を掛けられると、どうしてもそれに見合う働きを、しようと思ってしまいます。そして『さすがだね』と言われて、つい鼻高々になってしまうのです。反対に『そのわりには、期待外れだね』なんて言う反応に出会いますと、落ち込んでしまうのです。そんなことを繰り返しているうちは、神様のための自分というよりも、自分の名誉のために生きている自分しか見えなくなっているのです。これが誘惑になるのでしょう。パンはパンで必要なものです。しかしそれが、目に見えるものだけに、見えるものに弱い人間にとっては、パンのみに偏りがちです。しかしイエス様は、ややもすれば二の次にされそうな、目に見えない神の言葉を取り上げて、これを食べて生きるようにと強調されるのです。

神の言葉の大切さを聞かされた誘惑する者は、今度は、その神の言葉を持ち出して、イエス様を誘惑します。高い所から飛び降りても、神の言葉はあなたを守ると書いてある。だから飛び降りたらどうだと、イエス様にけし掛けます。しかしイエス様は、神様を試してはならない、とも書いてあると切り返します。この誘惑から、どんな悪事に陥るのだろうか。そう言えば私たちも聖書を読んでいて、ある個所で書かれている事が、別の箇所では、それと正反対の事が書かれてあると思うことがあります。聖書は一体、どっちに従えと言うのだろうかと、疑問に思うわけです。神様の言葉を羅列して、傍観者的に比較評論して、良いとか悪いとか言っているだけだとすれば、それこそ神様を試していることになります。神様の言葉は、傍観して評論するだけのものではありません。一つ一つの言葉に、当事者として関わるように聞くものです。神様が守って下さると言うのは、目的もなく高い所から飛び降りる者を守ると言うことではないでょう。どんな状況であれ、当事者としてその状況に関わっている者に対して、必要な時に必要な人やものを送って下さると信じます。それが神の守りです。しかしそうは言っても、私が思う必要な時と、神様が思う時とは、なかなか合わないのも事実です。ですから、守るという神様の言葉に、疑いを持つこともあります。信じながらも疑う。疑いながらも信じる。そういう意味では、いつでも、神様を試している自分なのだと自覚せざるを得ません。

三つ目の誘惑は、誘惑する者にひれ伏して拝めば、世の全ての国々とその繁栄を与えるというものです。イエス様がそんなことをするはずもないと思います。だから、主なる神を拝み、仕えよと、イエス様なら言えるのでしょう。しかしもし自分が、これと同じような誘惑を受けたら、どうするだろうか。誘惑する者にひれ伏して拝むと言ったって、もちろん、見るからにこれぞ悪魔、というものなら拝まないかも知れません。ただ、なんてたって、この世の国々と繁栄がいただける場面なんです。とりあえず、自分がどんな思いで拝んでいるのか、その自分の心の中は、自分以外は誰も分からないでしょう。出来れば、正しい信仰を守りつつ、いただけるものは頂きたい。まさに神と富とに、両方に仕えたいのです。そこでとりあえず、誘惑する者にひれ伏して拝む。しかし心の中では、誘惑するものにはひれ伏し拝んではいない。まあ見た目で判断してもらって、それでこの世の国々と繁栄をいただく。しかしまた一方で、こんなことも考えさせられます。では真の主なる神様に、ひれ伏して拝んでいるつもりの自分は、本当に、心からそのようにしているものなのだろうか。この時にも、単に拝んでいるふりをしているだけではないだろうかと、少々、自信が持てなくなってくるのも事実です。心の中は見えないからと言って、その心の中が、本当に正しい状態に出来るものなのかどうか、自身が持てない。『見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ』と、やはりパウロが2コリント4章18節で書いています。がしかし、相変わらず弱い私には、見えるものも必要としているのです。

この誘惑を退けられたイエス様から、悪魔は離れ去り、天使たちが仕えたと聖書は記しています。だからこんな私は、これからも、キリストの教会によって、主イエス・キリストにすがり続けてまいります。