からし種 407号 2023年4月

四旬節第2主日

『霊から生まれた者』ヨハネ3:1-17

今日から4週に渡って福音書は、ヨハネから聞きます。今日は3章からですが、その前の2章を概観します。ここはイエス様が初めて奇跡の業を行ったという箇所です。カナという町での親戚の婚宴に、母とイエス様と弟子たちも出席しました。その婚宴の最中にぶどう酒が無くなりました。そこでイエス様の命令で、召し使いたちが六つの水がめに水をいっぱい入れて、宴会の世話役の所に運びました。世話役がその水がめの中身を味見したところ、最高のぶどう酒に変っていたというものです。この奇跡に立ち会った『弟子たちはイエスを信じた』と記されてあります。この奇跡が誰によって起こされたかを知っているのは、イエス様の言葉によって、実際に水がめに水を入れた召し使いたちだろうと思われます。そのことを召し使いたちが言いふらしたとも思われません。少なくとも世話役は花婿が、この最高のぶどう酒を用意していたと思っていたようです。ですので、弟子たちは後で召し使いたちから、イエス様がこの奇跡を行ったことを聞いたのか。それともイエス様ご自身が、弟子たちに明かされたのか。いずれにしても弟子たちが信じたというのは、イエス様の何を信じたのでしょうか。イエス様が奇跡を行なうことの出来るお方だと信じたのか。当時のユダヤ社会には、このような、いわゆる奇跡行者のような人物が、けっこういたようです。イエス様はそんな奇跡行者の一人として、弟子たちが信じた、ということか。だとしますと、奇跡を目の当たりにしたから信じた。つまり見たから信じた、ということになるのでしょう。

ところが次の場面で、弟子たちが、イエス様の何を信じたのか、はっきりと記されてあります。次の場面は、イエス様が神殿で、いわゆる参拝に必要な、犠牲の供え物用の動物を扱う商人や、ローマ皇帝の像が刻んである、当時の流通貨幣ではなく、神殿に捧げるお賽銭用の、ユダヤ独自の貨幣に両替するための両替商を、神殿の庭から追い出されたというものです。神殿の参拝には欠かせない、犠牲の供え物の動物と、お賽銭はいらないとでも言うのでしょうか。それらはいずれも見えるものです。真の礼拝に、そんな見えるものは必要ないと、珍しく過激に、イエス様は訴えるようです。更には今見える神殿さえも、必要無いかのように、壊して、三日で建て直すとまでおっしゃられた。この時には、これらのイエス様の行動や言葉は、弟子たちや他の誰にも、理解されなかったようです。いつ理解出来たのかを、聖書は次のように記します。ヨハネ2章22節『イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた』。まさにここに、イエスの何を信じるのかが示されています。聖書とイエス様の言葉です。そしてそれはただ単に、文字面を見て、信じられるようなものではない。何よりもご復活のイエス様に出会うことが、出発点です。そしてそれも、ただ単に肉の目で見て出会う、というものでもない。このヨハネ福音書の最後の方で、復活されたイエス様に出会った弟子たちに向けて、イエス様は次のようにおっしゃられるのです。ヨハネ20章29節『・・わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』。

この後、イエス様がなさった奇跡の業を見て、多くの人がイエスの名を信じたと、聖書は記しております。ところがイエス様は、それらの人々を信用されなかったという。その理由をヨハネ2章25節は記します。『・・何が人間の心の中にあるのかをよく知っておられた』からだという。そしてその人間の心の中を、代表して映し出す人物に、今日の福音書はニコデモを登場させます。彼はファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員でした。彼もイエス様のなさる奇跡を知って、次のように言いました。ヨハネ3章2節『・・神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行なうことはできない』。やはり目に見える奇跡によって、イエス様を信じようとしているようです。そんな彼の心の中を、更にイエス様は次の言葉から、抉り出されます。ヨハネ3章3節『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』。この言葉に反応したニコデモく、印象的です。ヨハネ3章4節『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』。本気でこのように思ったのでしょうか。いずれにしても『新たに生まれる』という言葉が、彼の心の琴線に触れたようです。それはまさに、人間的理屈に則ったような、彼の反応です。そこでイエス様は『水と霊とによって生まれる』ことだと答えられました。あのバプテスマのヨハネが、イエス様は聖霊によって洗礼を授けると指し示したように、今もキリストの教会で引き継がれている、復活の主イエス・キリストのお名前による洗礼のことです。これによって、かつての見えるものに依り頼む、古い自分が死ぬことになる。そして、見えないものに目を注ぐ新しい自分に、イエス・キリストと共に生きるようになるのです。それは、まだ何も実現してなくて、見えていなくとも、実現するという約束の言葉だけで、実現を見ているように信じるという、信仰に生かされることだと示されます。

今日の第一日課は、ユダヤ人たちの信仰の父アブラハムが、初めて神の約束の言葉によって、住まいを捨てて、与えるというまだ見ぬ約束の地へと、押し出される場面です。この時のアブラハムの信仰の在り様を、今日の第二日課ローマ4章13節で、著者のパウロは次のように書いています。『神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです』。アブラハムが何か目に見えて、素晴らしい行いをしたからではなく、ただ一方的な神様からの、見えない恵みを信じたからこそ、約束されたと言うのです。実はこのようなアブラハムの信仰について、ヘブライ人への手紙11章でも、聖書は次のように記しております。11章1-3節『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。・・信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです』。今日ヨハネ福音書は、次のような約束の言葉を、投げかけてくれています。ヨハネ3章16節『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。

未だ見えていないものを、約束の言葉だけで見ろというのは、何とも雲を掴むような話です。あるいは、風を掴むような、更には霊を掴むような話です。ヨハネ3章8節は言います。『風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである』。いつでも、自分中心に、人間中心に物事を見たり判断し、それらの筋書きとは違うものに悩み、せめぎ合い続けてしまいます。

キリストの教会によって、神中心の新しい生き方に創り変えられて、見えない神の約束の実現を、信じる信仰に導いて下さい。

四旬節第3主日

『わたしの食べ物』ヨハネ4:5(27)-42

今日のヨハネ福音書は4章27節から42節までを読みました。ですがここは、イエス様とサマリア人の女性との出会いと会話が、事の発端になっております。ですので、イエス様がサマリアの町に来られたという、5節以降を概観します。まず喉が渇いたイエス様が、いわゆる公共の井戸の側にいた。そこにサマリア人の女性が、水を汲みに来た。時は正午ごろだった。井戸水は貴重です。井戸の釣瓶に取りつける、水汲み用の器を持っている人だけが、井戸水を使用することが出来ました。その女性にイエス様は『水を飲ませてください』と頼みました。女性は言いました。ヨハネ4章9節『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』。元々サマリア地方も同じユダヤ人の土地でした。がしかし、紀元前722年に外国のアッシリアに占領されてから、混血化が進み、エルサレムのいわゆる正統派ユダヤ人から、さも外国人であるかのように、サマリア人と呼ばれるようになりました。そして宗教的に汚れた人たちとして、差別されるようになりました。ですからユダヤ人たちはこの地方を通らないし、極力、接触を避けて来たわけです。しかしこの場面でのイエス様は、それをなさらなかった。

更にユダヤの規定では、初対面の男性と女性が、昼日中の路上で会話をすることも、禁じられていました。このイエス様と女性との会話の最中には、弟子たちは食べ物を買うために町に行っていて、立ち会っていませんでした。先程読みました福音書の箇所の中に、買い物から帰って来た弟子たちのことが、次のように記されてあります。ヨハネ4章27節『ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、何が御用ですか、とか、何をこの人と話しておられるのですか、と言う者はいなかった』。何か見てはいけないものを、見てしまったと言う、弟子たちの大きな動揺が伝わって来るようです。

更にこの女性は、正午ごろに水を汲みに来ました。通常は多くの人たちは、朝早くに水を汲みに来るのです。もしかしたらこの女性は、そんな人たちを避けて、ほとんど誰も来ない時間帯に、水を汲みに来ていたのかも知れません。そうすると、サマリア人の間でも、何か後ろ指を指されるような女性だったのでしょうか。このように、本来接触してはいけないサマリア人。しかも見知らぬ女性。更にはその女性は、同じサマリア人の間でも、交わりを避けられているような人かも知れない。二重にも三重にも、通常なら、否定的に無視されてしまうような人間に対して、イエス様は全くお構いなしで、近づいて会話をなさるのです。

いわゆる相手の氏素性が良い場合には、私たちは喜んで接触を図ろうとしがちです。しかし悪そうな場合には、うまく避けられないかと考えてしまう、そんな自分の事を考えさせられます。そんな人間のありがちな姿を、イエス様も今日の会話の中で、敢えて言及されるようです。ヨハネ4章10節『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、水を飲ませてください、と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう』。しかしこのイエス様の言葉から、この女性との、水を巡る会話が進められて行くのです。そして最後は、イエス様が与える水を飲む者は決して渇かない、と聞いた女性は、水汲みの労苦から解放してくれそうな、そのイエス様の水を下さいな、と言うわけです。その時の女性の思いを、想像してみます。『そんな水があればいいけど、有るはずが無いのは分かっていますよ。いままでも、そんなふうにその気にさせられて、たくさん騙されて来たんだから。もういい加減にしてほしい。全く』ということでしょうか。

その時です。そのタイミングで、イエス様はこの女性が抱えている、人からは後ろ指を指されるような、男性関係を言い当てるわけです。これに対する女性の反応も興味深いのです。『いくら何でも、あなた、そこまで知っているの』と言うことでしょうか。そしてまた『あなたは、ありのままを言ったわけだ』というイエス様の言葉が、またこの女性の心の琴線に触れたかのようです。何故なら『あなたは全く悔い改めたのだ』という宣言にも聞こえるからです。それ故にこの女性は『あなたは預言者だとお見受けします』と言って、信仰のことを話題にするのです。この時の女性の心の中を、推し量ってみます。先程も申し上げましたが、人は、相手に悪いものを見て取れば、交わりを避けようとします。良いものなら、喜んで接触して『自分はこの人と知り合いなんだ』と、自慢の種にさえしようとします。この女性は、そんな上っ面な、嘘で固められたような人間関係の中に、置かれ続けて来たのかも知れません。イエス様は、徹底的に誰もが避けるような女性であることを知っていて、それでも積極的に、そして丁寧に対話を重ねて下さっている。そこにこの女性は、経験したことの無いものを、見て取ったのかも知れません。

この女性はイエス様の氏素性を知らないままに、対話を進めて来ました。途中で『預言者なのでは』と思ったようですが、そこまでの理解でした。しかしこの女性も、言って見れば、相手の氏素性を選ばないで、対話を進めて来たのです。もっとも、相手の氏素性の良し悪しを言えるような自分ではなかった。しかしそのおかげで、イエス様との対話が、進められて来たのです。そして人に誇れるような自分ではないと、自覚している一方で、信仰の事では絶望していなかった。彼女は次のように告白しています。ヨハネ4章25節『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます』。すかさずイエス様は、そんな彼女に言いました。ヨハネ4章26節『それは、あなたと話をしているこのわたしである』。ここで初めて、イエス様の氏素性を知らされた。それでも彼女は町に行って人々に言っています。ヨハネ4章29節『もしかしたら、この方がメシアかもしれません』。まだ半信半疑だったようです。本当にこんな私に、そんな方が身分を明かして下さるのだろうか。そんな思いでもあったか。

さて今日の場面になりますが、買い物をして町から帰って来た弟子たちが、イエス様に食事を進めたときです。イエス様は不思議なことを言いました。『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』。弟子たちが知らない食べ物とは何か。それは、知らないというよりも、食べ物に値しないと言って、捨ててしまっている食べ物のことを、おっしゃっているのではないか。その『わたしの食べ物』について、イエス様ご自身が、次のようにおっしゃっています。ヨハネ福音書4章34節『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである』。『わたしをお遣わしになった方』とは父なる神様です。そしてその神様の御心のことも、次のように言っています。ヨハネ4章23節『・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ』。つまりイエス様の食べ物とは『父なる神様を霊と真理をもって礼拝する者たちを招くこと』だと言うのです。平たく言えば、クリスチャンが与えられることが、イエス様の食べ物だということです。食べ物はその人に栄養を与え、命を養うものです。結局、クリスチャンが与えられる、キリストの教会が与えられることが、イエス様にとっての栄養であり、命の養いとなるというのです。そういうクリスチャンを指し示す人間が、今日のサマリア人の女性なのです。弟子たちは見捨てて、言わば食べ物にならないと、いわゆる収穫もせずに避けていたサマリアの人たち。そんな人たちが、イエス様の招きに応える。こうしてこの食べ物をイエス様は喜ばれる。ここに今や、大きな慰めと希望とが示されるのです。

サマリア人の女性の証言を聞いて、イエス様を信じたという町の人々の言葉が、今日の福音書の最後、ヨハネ4章42節に、次のように記されてあります。『彼らは女に言った。わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であることが分かったからです』。この言葉を、どのように聞くでしょうか。町の人々の、いわゆる自立した信仰の姿を見るでしょうか。それとも、あんな罪深い女の導きによるなんて、そんなことは早く忘れたいということでしょうか。

どこまで行っても罪深い人間。それでもそんな人間を『わたしの食べ物』だと喜んで招いて下さる、主イエス・キリストの神様に応えさせて下さい。

四旬節第4主日

『見えるようになる』ヨハネ9:1(35)-41

今日のヨハネ福音書は9章35節から41節までを読みましたが、1節以降からの、事の始まりを概観します。ここは生まれつき目の不自由な人を、安息日にイエス様が癒された、と言うのが問題となって、それに立ち会った人間たちの姿から、人間が持つ問題を考えて見たいと思います。

安息日と言うのは、一切の労働行為を休んで、神に祈る時を持つように定められた日です。ここの労働行為についても、何が労働に値するのか、細かく律法で規定されています。病気を癒す事も労働行為になります。イエス様は今日の箇所以外でも、安息日に労働行為をして、批判される場面がしばしば描かれています。それらのどの安息日違反の記事を見ても、労働行為をしたのかしないのか、そればかりが問題にされていて、労働行為はともかく、そもそも神様に祈る時を持ったのかどうなのか、記事を読む限り、その事は何も触れられていないようなのです。何か批判者たちの、見るべきところがズレているのではないか、そんなふうにも思うのです。それとも当然だと思っていたのでしょうか。そんな見るべき事については、イエス様ご自身もおっしゃられているのです。マルコ2章27節『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない』。見るべきものはその人の在り様であって、ただ安息日規定が守られているかどうかではない、というのです。

何を見ているのか。何を見るべきなのか。そして見るべきものを見させないものは何か。今日の福音書はそんな問いかけに溢れているようです。9章1節以下の所で、弟子たちが、生まれつき目の見えない人を見かけて、イエス様に次のように問いかけました。ヨハネ9章2節『この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。当時のユダヤでは、このような因果応報的な見方が、大方だったようです。それに対してイエス様は『神の業がこの人に現れるため』だとおっしゃられました。弟子たちや当時の価値観では、その人が負う、いわゆる不幸な現象に傍観者のようであって、その人がどんな思いでいるとか、その人自身を見ようとしない。しかしイエス様は、その人を見て、その人を通して見える、神の業を見ようとされるのです。この事と似ているかも知れませんが、何か、大きな災害が起こった時、神様は何故、このような事を負わせたのかという、神様への問いかけの声をよく聞きます。もしその災難を、神様が負わせたとするなら、私にはその理由は分かりません。それよりも、被災者のために、皆が助け合う姿に目を向けさせられます。そこにこそ、神様が働かれておられると信じるからです。

安息日に目の不自由な人の目を癒されたイエス様は、案の定、様々な批判にも晒されます。律法違反者が、事実として、生まれつき目の見えない人の目を、見えるようにした。そこで、律法を重視するファリサイ派の人たち間でも、イエス様への評価に、意見が分かれたということです。しかしどのユダヤ人も、目が不自由であった人の目が、見えるようになったという事実を、なかなか受け入れられなかった。それは言わば、律法違反にばかり目を向けて、見えるようになったその人の真実を、見ようとしなかったということでしょうか。何がそうさせるのか。それは、安息日を守らない者は、何が何でも罪人なんだ。罪人が生まれつき目が見えなかった人の目を、見えるように出来るはずがない。神様がそんなことをさせるはずがない、という強い思い込みです。事実として罪人が、目を見えるようにしたとしても、もはやそれは信じたくない。信じてしまえば、これまで自分の中で確立されて来たものが、根底からひっくり返されてしまう。何か信じることさえ、自分の都合に合わせようとしている。更に考えて見れば、罪人、罪人、と言っているけれども、それは誰が決めることなのか。もし本当に、神様が罪人だとお決めになっているならば、罪人が罪人の目を見えるようにしたなんて言うのは、彼らが言う通り信じなくていいだろう。しかし人間が決めた事だったならば、人間には、罪人が罪人の目を、見えるようにしたかのように、見えるかも知れないが、しかしそれは、見ているものが違うのです。

この後、目が見えるようになった人に対して、何故、見えるようになったのか、それをしたのは誰か、本当に生まれつき、目が見えなかったのか等々、尋問のような会話が続けられます。そして最後に、次のようなやり取りが記されてあります。ヨハネ9章32-34節『生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。彼らは、お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか、と言い返し、彼を外に追い出した』。

そして今日の福音書の場面になります。どんなに正しい事が語られているとしても『あんな罪人の証しなんか、聞いていられるか』という、頑なで素直になれない人間がいる。一方、誰が自分を癒してくれたのか分からないけれども、しかし癒してくれた方の真実を、しっかりと証言することが出来る人間もいる。それは確かに自分の身に起こされた、揺るぎない事実に基づいていたからです。しかも自分を追い出した人たちから、厳しい尋問を受ければ受ける程、むしろそのことで、彼の確信は増々強められて行ったのではないか。そんな彼の前に、イエス様はその姿を現されます。その時の会話が印象的です。まずイエス様が尋ねます。『あなたは人の子を信じるか』。『人の子』とは、いわゆるメシアの別呼称です。メシアと言っても、地上的王のようなイメージもあれば、神的な救い主のイメージもありました。彼がどちらのイメージを持っていたのかは分かりません。それにしてもここで普通に、いわゆる信仰に関わる問いかけをされたのが意外です。彼が目が見えるようになってからの、イエス様との初めての対面の場面です。真っ先に『あなたを癒したのはこの私だよ』と、正体を明かされるのが普通ではないかと思うのです。しかしイエス様の問いかけの流れに、乗るかのように彼も応答します。『その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが』。

それに対するイエス様の応答も、注目させられます。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ』。何か持って回ったような言い方です。それはもしかしたら、その人自身が見出したという確信を、推し量るようにも聞こえます。そして『もうその人を見ている』という言い方も印象的です。それはまた、その人が何を見ようとしているのかが、やはり問われているように思います。彼は『主よ、信じます』と言って、ひざまずきました。ここでもし、彼が思い描いて見ていたものとは違うものを見たとすれば、信じることもひざまずくことも、出来なかったかも知れません。しかし彼は肉の目が見えるようになっても、それを超えた見えないものを、見ることが出来ていたということでしょう。何故なら、打ち砕かれて、自分の思い込みや、人間的常識や価値観を絶対化しないで、相対化出来る冷静で謙虚な目が、見えるようにさせられたからだと思うのです。

ここでイエス様は言います。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』。『裁くためである』というのは、何か言葉の響きが怖いですが、ここは『判定するためである』とも訳せます。今日の最後のところです。イエス様は次のようにもおっしゃられています。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、見える、とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る』。あなたは今はまだ、罪が残っていますよ、と判定して下さっているとしたらどうだろうか。最終判決までには、まだ猶予が与えられているように聞きます。

キリストの教会によって、キリストの言葉を通して、全てを相対化出来る、冷静に謙虚な目で見えるように、養って下さい。

四旬節第5主日

『彼らに信じさせるため』ヨハネ11:1(38)-45

先程読みました、今日の福音書の箇所には『イエス、ラザロを生き返らせる』という小見出しが、新共同訳聖書では付けられてあります。ラザロという人物が死んだので、イエス様がそれを生き返らせた、ということです。それで、まずこのラザロと言う人物がどういう人なのか、そして死んだという経緯について、ヨハネ11章1節以下から見て行きます。ここは『ラザロの死』という小見出しが付けられてあります。このラザロという人は、イエス様とも親しかった、姉妹のマルタとマリアの弟だったようです。それでこのラザロが重い病気に罹ったので、イエス様に何とかしていただこうと、姉妹たちがイエス様を呼びに行かせたわけです。直ぐに駆けつけるのかと思いましたら、更に二日間同じところに滞在しておられた。それからラザロの所に駆け付けました。しかしラザロは死んでしまった後でした。この時のマルタとイエス様との会話が興味深いのです。まずマルタが言いました。ヨハネ11章21-22節『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています』。この言葉の向こうにある、マルタの思いに想像が掻き立てられます。そしてイエス様はそれを、どのように聞き取られたのだろうか。

マルタの隠された思いを、次のように想像します。とにかく、二日間もぐずぐずしていないで、直ぐに駆けつけて下されば、ラザロは死ななかったはずだ。そんな後悔のような、恨めしいような、そんな思いだったのではないか。しかしだからと言って、イエス様を信頼する思いは、失ったわけではない。人の死だけは、色々な考えもあるかも知れないけれども、結局、それで全てが終わるということだ。だからそのことで、イエス様を非難するつもりもないし、離れて行くつもりもない。イエス様の権威の様なものも、揺らぐことはない。このようにマルタの思いを推測しますと、今の私たちにも、どこかに似たようなものを、持ち合わせているのではないか。特に、人の死についてです。今日の第二日課、ローマ8章11節で著者の、初代教会伝道者パウロが、次のように書いています。『もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう』。死が克服され得るものだと、聖書の色々なところに掛かれてります。しかし、聖書が言うようには、本気で死に対して、まともに向き合えない自分がいる。だから死について、考えることを途中で止めて、見て見ないふりまでしている。そうやって、聖書が教えてくれていることを、建前のようにしてしまっている。

恐らくこの時のイエス様も、マルタの言葉の中に『建前』のようなものを感じ取ったのかも知れません。それで更に、マルタの心の中に、波紋を起させることを語られたのです。ヨハネ11章23節『あなたの兄弟は復活する』。この『復活』という出来事も、先程の『死』と同じように、人間の理屈を超えてしまうものです。だからこのことも、まともに向き合いづらいのです。どのように、自分の中で咀嚼したらよいのか悩みます。この後の、マルタの応答の言葉からも、その悩ましさが伝わって来るようです。ヨハネ11章24節『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』。実に、マルタのいわゆる優等生的な性格も、垣間見るようです。自分が受けた信仰の教えから、外れないように答えながらも、そうかと言って『復活』という出来事に対する、曖昧という自分の微妙な立ち位置を、感じさせられるような応答なのです。

この時のイエス様も、やはりマルタの微妙な思いを感じ取ったのでしょう。畳みかけるように、続けて次のように言われます。ヨハネ11章25-26節『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』。『わたしは何々である』というイエス様の言い方は、ヨハネ福音書によく出てまいります。『わたし』という主語が、特別に強調された言い方です。ですから、この場面でも、イエス様に対するマルタの、建前的曖昧な受け留めを感じ取ったのでしょうか。『マルタよ、死も、復活も、そんな建前的に装って、信仰を綺麗ごとにしてはいけない』と、憤りも多少、あったかも知れません。そんなイエス様の声が聞こえて来るようなのです。今度はマルタも、そんなイエス様の勢いを感じたのでしょうか。当たり障りのない、いわゆる信仰的な言葉を連ねるのを止めたかのように、応答するのです。ヨハネ11章27節『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております』。もう、この信仰の原点に帰るしかない。その他の細かい事を言えば、知らず知らずのうちに、人間的な理屈や常識に頼ってしまう自分が出てしまう。イエス様、まいりました。観念します。そんな今度は、マルタの声が聞こえて来るようなのです。

そんなマルタが、姉妹のマリアに、イエス様が来られて、あなたをお呼びだと伝えます。そしてイエス様の所に来るや否や、マリアもマルタと全く同じ言葉を発するのです。ヨハネ11章32節『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』。このようなマルタやマリアの姿は、死に直面した時の、全ての人間が抱くものを、代表しているかの様なのです。死は究極の終わりなのだと。マルタやマリアばかりではない、周りのユダヤ人たちも泣いているのを見て、イエス様は『心に憤りを覚え、興奮した』と聖書は記しております。イエス様が怒った、ということですから、これは大変珍しい場面です。それ程にこの場面は、イエス様にとっては『死』や『復活』のことを、どうしても素直に受け入れられない人間たちの姿に、憤るほどに強く悲しんだということでしょう。『これが、変りようのない人間の姿なのだ。もちろん、これは批判することでもなんでもないのだ。これが人間なのだから。この人間たちに、死や復活のことを、どうしても受け入れられるようにしてあげたい』。

そこで、今日の福音書の場面なります。イエス様にしては、珍しく感情的になって行動されるのです。イエス様の熱い思いが伝わって来るようです。ラザロが葬られた墓の、蓋にされた石を取り除けるように言います。そこでもマルタが、死体は腐っているから、と言ったのでまた、そんな人間の思いを覆すかのように言います。『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』。この、言っておいたという『神の栄光』とは、先週のヨハネ9章の、生まれつき目の不自由な人の存在が、神の業が現れるためにあると、イエス様がおっしゃられた、あの場面が思い起こされます。人間的な決めつけや、人間の理屈に合わせた結論付けを、イエス様は戒められるのです。人間にとっては、死や復活については、理屈に合わないので、もはや見て見ないふりをするか、棚上げするしかないのです。それに対してイエス様は、そんな人間の姿勢を憤る程に悲しまれる。イエス様も、あたかも手に余る人間を前にして、お手上げ状態になって、神様何とかして下さいと、お願いをするようなのです。『わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです』。このような感情的に過ぎるイエス様だと思うと、返ってこんな自分にも、身近に近しく感じさせられてしまうこともあり得ます。この後、ラザロは墓から出て来ました。『イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた』と、聖書は今日の最後に記しております。ここはしかし、イエス様の凄業を、伝えることが主ではありません。そうではなく、あくまでも周りの人間たちの姿を浮き彫りにするのです。多くのユダヤ人たちが信じたということですが、ヨハネ12章10-11節は次のように記します。『祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである』。信じる者も殺そうとする者も、何を信じ信じないのか、そんな混沌とした人間たちが映し出されるようです。

相変わらず、死んだらどうなるのだろうと、想像はしますが、なかなか空想の域を出ない。また復活についても、どうしても理屈に合わせようとして、結局、神話のようにしてしまう。そしてまた、見て見ないふりをしたり、棚上げにしてしまうのです。

キリストの教会によって、死も復活も、真剣に向き合うことが出来ますように、そのために、悔い改めるべきものを、徹底的に悔い改めさせていただきます。