からし種 417号 2024年2月

新年

『主よ、いつわたしたちは』マタイ25:31-46

新しい年を迎えて、何かもう一度原点に立ち返って、リセットするかのように、またこの一年間を過ごして行こう、そんな思いに今、させられております。そうしますと、その原点とは何だろうか。これはその人その人それぞれに、考えがあろうかと思います。今日与えられております詩編8編ですが、神様の天地創造を詠った後、次のように語っています。詩編8編5-7編『そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました』。神様が造られた天地万物を、人間が治めるように、その管理を委ねたということです。これは創世記1章27-28節にも記されてあるものです。その際に、人間は男と女とに創造された、とも記されてあります。それは、同じく創世記2章18節に『人が独りでいるのは良くない』とも、記されてありますので、だから男と女とに創造されたんだ、ということでもありましょう。そして『神に僅かに劣るものとして人を造り』というのは、この『男と女とに創造された』というところにも、示されていることなのかなとも思われます。神様はお一人でも、何でもお出来になるのでしょう。がしかし、人間は独りでは、何も出来ない。いずれにしても人間は、独りでいるのは良くないものです。それは裏を返せば、自分以外の人間の存在も大切にしながら、生かされているものなのではないかと、改めて考えさせられるのです。

ところで、先月の12月24日のクリスマスイヴ礼拝で、フランスの一般家庭の、かつてのクリスマスの過ごし方について、紹介させていただきました。もう一度、所々、振り返って見ます。各家庭で飾られたのは、今はクリスマスツリーが主流ですが、かつては馬小屋の場面だったということでした。この話は、ある雑誌から引用したものですが、そこには次のような、興味深い問いも、書かれてありました。『最初に人間を創造したという神は、アダムとエバという、健康な大人、を造ったのに、なぜ、受肉(神が人になる)、するときに、最初から任意の、大人、の姿で現れなかったのだろう。人間として生きた、その生の最後が無力で無抵抗だっただけでなく、その生の最初もまた、無力で無抵抗な赤ん坊だった』。

確かにこの問いは、考えさせられるなあ、と思いました。それでまた、この救い主を大人ではなく、赤ちゃんとして送った神様の意図は、どこにあるのか探って見ました。冒頭で、神様は人間を男と女とに創造されたと申し上げました。その創造された男と女の名前は、アダムとエバでした。彼らはあの食べてはいけないという木の実を食べて、神様の言いつけを破りました。以来、全ての人間たちに、自分たちが神様になり替わろうとする、そんな罪が浮き彫りにされたというのが聖書の見解です。そしてその罪からの解放は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって果たされた。これが、キリスト教会の信仰です。ですから教会は、十字架の死と復活の主イエス・キリストを、罪からの救い主と信じる。そして、主イエス・キリストのお名前による洗礼を受ける。教会はその者たちの群れになります。この洗礼を受けて、罪から解放された人間に、造り変えられることを、第二の創造と言いました。あるいは新たに生まれ変わる、というふうにも言いました。

ヨハネ福音書3章3、5節には、次のように記されてあります。『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。・・だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない』。新たな生まれ変わりは、主イエス・キリストのお名前による、洗礼のみ業によって果たされると、聖書は言うわけです。そして『神の国を見る』とか『神の国に入る』とか言われています。これは神様との正しい関係につなげられる、という意味です。だから、正しくない関係の罪から、解放されるのです。そして、大人ではなく、飼い葉桶の中の幼子として生まれた、救い主のイエス様は、まさに人間が新たに生まれ変わることをも、指し示しているのではないか。そして新たに生まれ変わった人間もまた、その直後は、幼子のようなものでしょう。これから成長させられて、大人になって行くのです。そうやって、第一の創造による本来の人間のあるべき姿が、回復させられて行くのです。そのあるべき姿の一つに、自分以外の人間の存在を大切にしながら、生かされているものであることがあるわけです。

今日の福音書はイエス様の言葉として、次のように記しております。マタイ25章35-36節『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』。困っている、苦しんでいる、悲しんでいる人たちのために、そこで必要とされている事に応えることは、全部イエス様のために行っている事だと、今日、イエス様はおっしゃられるのです。例えばそこに飢えた人がいるとします。その人が、イエス様だと知って、食べ物を与えている、そんなことはなかなか無いでしょう。何となく、その人を助けてあげたいなあ、と思ってしていることです。でも助けてあげたいなあと、思わない事もあります。わざわざ、牢屋に入っている人を訪ねて、何か力になろう、なんてことは、めったに考えたことはありません。ですから、助けてあげようと思う時や、そうでも無い時などもあります。特に、心に余裕が無い時には、まず、助けることは出来ないし、やらないでしょう。まあ大概は、出来る時に行えばいいんだよ、と言われるのでしょう。それでも、倫理道徳的な観点から言えば、よくやったね、と思われるのかも知れません。

しかし、独りでいるのが良くない自分は、自分以外の人間の存在を大切にしながら、生かされているものです。それが、本来の人間なんだとすれば、どうなんだろう。たとえ倫理道徳的に褒められるようなことであっても、むしろ当たり前のことを、当たり前にしているに過ぎない、ということになるのでしょう。それを取り立てて、褒められるべきことにしてしまうのは、返って、本来の人間のあるべき姿を、捻じ曲げてしまうことになるのかも知れません。またまた相手を見下して、自分を神のように誇る者になってしまいそうだからです。そう考えますと、イエス様を意識しないで『イエス様のためにする』ということは、当たり前のことを、当たり前にすることかも知れません。人間は、当たり前だと思うと、なかなか感謝出来なくなってしまいます。でも、当たり前がイエス様のためだと思うと、何となく自分を誇らずに、感謝出来そうな気もします。

新しい年を迎えて、もう一度、本来の人間として、本来の人間のあるべき姿に立ち返らせていただきます。当たり前のことを、当たり前に生かされて、そんな自分を誇らずに、イエス様のために感謝出来る一年を過ごしてまいります。

主の洗礼日

『ヨハネから洗礼』マルコ1:4-11

昨年のクリスマスイヴ礼拝で、かつてのフランスの一般家庭での、クリスマス飾りのことを、ある雑誌から紹介しました。現代はクリスマスツリーが主流ですが、かつては馬小屋の場面を、各家庭では飾っていたということでした。その際に、次のような著者の問いも紹介しました。『最初に人間を創造したという神は、アダムとエバという、健康な大人、を造ったのに、なぜ、受肉(神が人になる)、するときに、最初から任意の、大人、の姿で現れなかったのだろう』。興味深い問いだなと思いました。今日の第一日課は創世記1章1-5節です。いわゆる神様の言葉による、天地創造の場面です。この後人間も確かに、最初に大人のアダムが造られ、続いて大人のエバが造られました。これを教会は、人間の第一の創造と呼びます。

第一ですから、第二があります。創世記2-3章によりますと、アダムとエバは、神様から食べてはいけないと言われた木の実を食べて戒めを破り、罪人として、今まで住んでいたエデンの園を追放されます。以来、人間が神様になり替わろうとする罪が、全ての人間たちに、蔓延したと聖書は言います。そしてその罪が赦されることを、聖書は人間の第二の創造と言うわけです。それについては、ヨハネ福音書では、イエス様の言葉で、次のように記されてあります。ヨハネ福音書3章3、5節『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。・・だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない』。新たな生まれ変わりは、主イエス・キリストのお名前による、洗礼のみ業によって果たされると、聖書は言うわけです。そして『神の国を見る』とか『神の国に入る』とあります。これは本来の、神様との正しい関係が回復されるという意味です。すなわち罪が赦されるということです。救い主が大人ではなく、赤ちゃんで登場したのは、イエス様のお名前による洗礼によって、第二の創造となる、人間の新たな生まれ変わりを投影しているのではないでしょうか。それから、その第二の創造に与る人間は、赤ちゃんのように、成長させられて行く。そうやって本来の第一の創造による人間と同じ大人の人間にさせられて行く。そんなふうに指し示されるのです。

さて今日のマルコ福音書ですが、マタイやルカ福音書のように、改めてイエス様誕生の場面には、一切触れられておりません。それこそ、大人になったイエス様が、いきなり登場します。もちろん、マタイやルカの記述を否定しているわけではありません。むしろ、大人のイエス様ですから、これからの働きに、マルコは焦点を当てるようです。第一の人間の創造の時に神様は、御自分が造られた被造物の管理をするように、人間に使命を与えられました。一方、今回のマルコの場面の、大人のイエス様が登場した時にも、天から聖霊が注がれ、神の愛する子であるとの、宣言がなされました。そこには、直接、具体的な使命についての言葉は有りません。がしかし、それについてはヨハネが『その方は聖霊で洗礼をお授けになる』と、前もって語っているこの言葉が、使命を指し示しています。そして、人間の罪の赦しを果たされるお方であると、暗示するのです。

マルコが強調する、罪の赦しという使命に関して、まず洗礼者ヨハネが登場しました。『罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた』ということです。同時に、まさに罪の赦しを行う、救い主としてのイエス様の登場を前触れした。そのヨハネが登場した時の、人々の反応が、次のように記されてあります。マルコ1章5節『ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた』。当時のイスラエルは、いわゆる異教徒のローマ皇帝の支配下にありました。そんな支配から解放してくれる、そういう意味での救い主を待望していました。ですから、救い主だと期待させる人間たちが、これまでにも何人も登場していたようです(使徒5:33-)。今日のヨハネも、そしてイエス様も、そんな人々が期待するような、救い主だと見られた時もありました。それにしても、何故ヨハネはこのような活動に駆り立てられたのか。神様の導きと言えばそれまでですが、もう少し人間的な地平から、色々と想像して見ます。

当時のイスラエルの、政治的、宗教的状況はどうだったのだろうか。長い間、他国の植民地化に置かれ続けて、それは今も変わらない。祈っても祈っても、自分たちの国は、一向に建てられそうもない。そうこうしているうちに、現状に満足するような世代も増えて来た。特に若者たちは、聖職者や親の言うことに、耳を傾けず、信仰が飾り物のように、建前化して行く。現実生活には、聖書の教えは古臭く、時代に合わないことも多い。ギリシア、ローマからの、進んだ文化に魅了されて、あたかも人間の力で、どうにでも出来るかのよう思えて来た。礼拝に集うのも、限られた年代の人々ばかり。人々は自分の権利ばかり主張して、他人を寛容する風潮も薄くなる。国の指導者は指導者で、ローマに媚びて、自分の身の安泰ばかりを考えたり、せっせと金集めに勤しんでいる。それは、一部ではあるかも知れませんが、宗教的指導者とて、大なり小なり同じ状態に見えた。

そんな中で、ヨハネの中に改めて、罪に対する問題意識が頂点に達したのではないか。そして、そんなヨハネを神様は用いて、この活動に与らせて行ったのではないか。そんなヨハネが抱く期待は、もちろん、人々の悔い改めです。しかし一方で、悔い改めない者に対しては、厳しい裁きを語っていた。ダメなものはダメとするのは、どんな人間でも、当たり前の感情でしょう。そんなヨハネの下にイエス様も来て、ヨハネから洗礼を受けられた。その時のイエス様も、人間に対する問題意識は、ヨハネと同じだったのでしょう。しかしヨハネが示す、悔い改めない者に対する裁きの思いは、イエス様には無かったでしょう。むしろ、ダメなものはダメだと、誰もが抱くようなヨハネの思いを、全て御自分の身に引き受けられるような、だからヨハネの下に来られた、そんな振る舞いにも思えて来るのです。イエス様の罪の赦しという使命は、全ての者に与えられるものです。分け隔てなさらない。必ず人々は、悔い改めて、悔い改めない者が一人もいなくなることを、信じて待っておられるのです。

イエス様の使命は、全ての人間の罪の赦しです。そして同時に、イエス様のお名前による洗礼を受ける者もまた、使命が与えられていることを、聖書は伝えています。今日の第二日課は、使徒19章1-7節です。ヨハネの洗礼とイエス様のみ名による洗礼の違いを描きます。6節『パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした』とあります。これは、直接的には聖霊を受けたしるしを言いますが、すなわち宣教する使命が与えられていることを、指し示します。人間の悔い改めを、決してあきらめないで、信じて待ち続けて下さる、主イエス・キリストの神。そのお名前による洗礼を受けた者たちの群れが、教会です。その群れもまた宣教する使命が与えられています。

今ここに生かされる社会は、ヨハネが居ても経ってもいられずに、洗礼活動に導かれて行った、あの状況とは違っているものなのでしょうか。キリストの教会は今も、罪の赦しの宣教に押し出され続けています。人間的には、たとえ小さくて、力弱くても、キリストの教会に招かれて、その使命の一端に与らせていただきます。

顕現後第2主日

『来て、見なさい』ヨハネ1:43-51

先週はイエス様が、バプテスマのヨハネから、水の洗礼を受けられたことを聖書から聞きました。そこから、キリスト教会で行われている、イエス様のお名前による洗礼について、考えさせられました。人間は、父なる神様によって造られたという、いわゆる被造物です。天地万物を造った神様がおられる。そして、人間は造られた被造物。この関係を信じることが、全ての出発点になります。そして自分が存在している根拠や意味が示されます。

そんな神様との関係の出発点に立つ人間が、神様を架空の飾り物にして、棚上げするように祭り上げ、人間が神のように振る舞うのを、聖書は罪と呼んでいます。ですから、そういう人間が、聖書が言う罪を自覚するまでには、二つのハードルが見えて来ます。一つ目は、創造者なる神がおられて、自分は被造物の一つに過ぎないという、この出発点に立つものなのか、というものです。そして二つ目は、そんな創造者なる神様を建前化して、自分が神のように振る舞っているのかどうか、というものです。そうして、何とか罪にたどり着いたら、その罪をどうするのか、というのが次のハードルになります。取り除くのか、そのままにしておくのか。通常は、取り除くことを考えるでしょう。だとするならば、冒頭の二つのハードルを、まず、逆に遡って行くように考えます。神になり替わっている自分に気づかされる。そして、だから被造物の一つに過ぎない自分にたどり着くのです。そして、その罪を取り除くのですが、実は、人間の力では、取り除くことが出来ないのです。罪の赦しは、神様の業だからです。このことに気づくのが、三つ目のハードルです。そして、そのハードルを乗り越えさせて下さるお方がおられると聖書は言います。主イエス・キリストです。更にこれを信じることが、第4のハードルになるでしょうか。まあ、どういう形であれ、まずは、そのイエス様に出会うことが肝心になります。そして、信じて、キリスト教会の、主イエス・キリストのお名前による、罪の赦しの洗礼へと導かれて行くのでしょう。

今日の福音書は、まさしく実際にイエス様に出会って、イエス様に従う弟子として、罪が取り除かれる道を歩む人間たちを描きます。この罪の取り除きを、人間が新たに生まれ変わるという意味で、第二の創造とも、この何週間かに渡って、この場でも申し上げてまいりました。第一の創造は、創世記1章に描かれている、いわゆる天地創造による、被造物の一つとして造られたことです。その天地創造は、全て神の言葉によって、起こされました。第一の日から始まって、第六の日まで続き、第七の日に神様は休まれたということです。今日のヨハネ福音書は、1章1-18節では、第二の創造が何故起こされるのか。そしてそれはどのようにして果たされるのか、まず語られます。その1節は『初めに言があった』と記されてあります。そして創造の具体的な出来事が、19節から起こされ始めます。29節、35節、43節に、同じ『その翌日』という言葉があります。そして、2章1節には『三日目に』という言葉があります。この日付をまず、順次追って行って見ます。

1章19節からの『洗礼者ヨハネの証し』の場面を『1日目』と数えて見ます。そうしますと29節の『神の小羊』の場面が『2日目』になります。35節の『最初の弟子たち』の場面が『3日目』、そして今日の43節からの場面が『4日目』になると考えます。そして、2章1節の『三日目』は、今日の場面の『4日目』から数えるので『6日目』ということになります。『6日間』は、先程申し上げました、創世記第1章の天地創造という、第一の創造を思い出させます。そうしますと、今数えました、ヨハネ福音書でのこの『6日間』は、イエス様に従う弟子として、罪が取り除かれる、新たな生まれ変わりの道を歩む人間たちを描くようです。まさに『第二の創造』を描くのです。そしてそのクライマックスは、2章11節の『イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた』ということになるのです。ちなみに第一の創造では、結局、エデンの園を追い出されます。

今日の福音書の場面の直ぐ前は、以前はバプテスマのヨハネの弟子だった二人が、イエス様の最初の弟子になります。きっかけは、かつての先生のヨハネが、歩いておられるイエス様を見て『見よ、神の小羊だ』と言われたのを聞いて、二人がイエス様に従ったと言うのです。恐らく彼らは、神の小羊と呼ばれる救い主のことを、先生のヨハネから説明は、繰り返し聞いて来たと思うのです。その救い主が『見よ、あの人だ』と言われたので、即座に従った。ただし、その時にもまだ、半信半疑だったかも知れません。だから、ここで従うのは、一大決心だったでしょう。でも『百聞は一見に如かず』という諺もありますが、彼らはイエス様を見て、言わばイエス様を知識ではなく、今度はイエス様を体験するように従ったのです。この後、彼らが『どこに泊まっておられるのですか』と尋ねます。それに対してイエス様は『この道を行って、あの建物のとか、ああだ、こうだ』と、やはり説明しません。『来なさい。そうすれば分かる』と言われただけです。ここに、言わば『知ることは、体験すること』だと、言わんばかりのイエス様を見るのです。

そして今日の福音書の場面です。まずイエス様が、フィリポに出会ったことが記されてあります。その時の状況を、フィリポは知人のナタナエルに出会った時に、次のように語っています。ヨハネ1章45節『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ』。『モーセが律法に記し、預言者たちも書いている』というのは、つまり聖書に書いてある通りの方に出会った、というのです。救い主に関する知識は、聖書や先生を通して、知らされていた。そして最後は、出会いが、救い主を知ることを、まとめて果たさせてくれたのです。あらゆる人間的な先入観や、常識を超えて、目の前に見えるお方の、更に向こうにある、見えないものまで見させられた、ということでしょう。まさに『知ることは、体験すること』なのです。

続けておもしろいことに、フィリポから聞かされたナタナエルもまた、自分の知識から『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と、フィリポの話を、否定的に受け留めます。それに対するフィリポの言葉にも、注目させられます。ヨハネ1章46節『来て、見なさい』。イエス様と同じ言葉を、発せられているのです。『知ることは、体験すること』だということです。しかも『見なさい』という『見る』には、単に目の前の人間を見るだけでなく、自分自身をも見ることが、語られているのではないかと思うのです。と申しますのも、イエス様がナタナエルに出会う前に、既にナタナエルのことをよくご存じであることを、ナタナエルは知らされるのです。その際にイエス様が『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない』と言われます。それに対してナタナエルが『どうしてわたしを知っておられるのですか』と尋ねました。このやり取りが、とても印象的です。これは単に、出会う前のナタナエルの姿形や、行動までもお見通しだ、ということではありません。目に見えない、ナタナエルの内面にまで踏み込んで『あなたのことを、良く知っているよ』と、イエス様は言われたのです。そしてナタナエルも『どうしてわたしを知っておられるのですか』と尋ねるのは、誰でも本当の自分を知ってほしいと思いつつ、そうでは無い演技をしてしまうことがあります。でも、演技をしなくても良いと思うと、楽になります。本当の自分を知って下さって、しかもそれでいいと言われると、とても気持ちが楽になります。そんなイエス様との出会いだったのではないか。だから彼自身も『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』と、今まで教えられて来た、ありったけの知識を駆使しながらも、何とか真のイエス様を、告白させられて行ったのです。全ては『来て、見なさい』から、始まっているのです。

先週の聖書研究会で『~について知る』ということと『~を知る』ということの違いについて、皆で考えさせられました。たとえば『聖書について知る』ということと『聖書を知る』ということについてです。前者は単に、聖書の知識を知ることです。後者は言わば『自分を知る』ことだと、その場で私の思いを伝えました。聖書は自分のことが語られている。そんなふうに自分自身が、聖書の中に入り込んで体験的に、言葉を聞いたり、出来事に出会う。それが今を生きる、私にとっての、イエス様との出会いとも言える。そうして、自分自身を知らされて行くことだと思うのです。今も聖書を通して、イエス様は呼びかけられます。『来て、見なさい』。

顕現後第3主日

『彼らをお呼びに』マルコ1:14-20

天地万物を造ったのが神様。人間は、その造られた中の、一つの被造物。この関係を信じることが、人間が存在する、全ての出発点だと、先週申し上げました。そこから、自分が何のために生まれ、ここに生きているのか、その理由や意味が示されると申し上げました。しかしこの神様との関係が、壊れたり無くなりますと、自分が生きて存在している意味が、分からなくなってしまうのです。『たまたま』とか『偶然』という言葉で、処理せざるを得なくなってしまうのです。たまたま運が悪かったんだと、それで受け入れられる場合も、有るかも知れません。しかしそれでは、受け入れられない事もたくさんあります。あとは、いわゆる『悟りを開く』しかないのでしょうか。

今日の福音書は冒頭で、その神様と人間との関係を、あるいは出発点を、イエス様の言葉によって、もう一度明確にします。マルコ1章15節『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。聖書が言う『神の国』とは、あそこにある、ここにある、という場所的なものではありません。神様が支配されている状態を言います。神様は何を支配されているのでしょうか。それは言うまでもなく、先程も申し上げました、神様が造られた全被造物です。その中に、人間も含まれます。そしてその人間は、他の被造物を管理するように、神様は使命を与えられました。ですから、人間は、被造物を代表するようです。そうしますと神の国とは、結局、神様が人間を支配している状態、そう言い切っても良いでしょう。この『状態』が近づいている、と言います。その意味は、支配されているはずの人間の全てが、その状態にあると自覚するまでには、プロセスが必要です。全ての人間が対象になります。そして、一人の人間の内面についても、神様との正しい関係を自覚するには、様々な紆余曲折があるからです。そんな紆余曲折のプロセスにおいて、何が起こっているのかと言えば『悔い改めて福音を信じる』ということです。福音とは、主イエス・キリストが、神様との正しい関係に、回復させて下さる、ということです。そんな主イエス・キリストに、出会い信じることで、自分は神の国の住人に招かれていると自覚させられる。そして、生き方も変えられて行きます。

今日の福音書はこの後、四人の漁師が、イエス様の弟子とさせられた出来事を描いています。この『弟子』とさせられるのも、言わば『神の国の住人』となることです。そして彼らが、どのように生き方を変えられるのか、それを見て行きたいと思います。まず最初に、イエス様の呼びかけに応えて、二人の漁師が『すぐに網を捨てて従った』ということです。更にその後、やはり二人の漁師が、イエス様に呼ばれて、今度はお父さんや雇人たちを舟に残して、イエス様に従った、ということです。この四人の姿から、神様の支配下にある人間の、変えられた生き方が示されるのです。彼ら四人が、漁師の仕事を捨てたり、自分の親や雇人までも捨てているのは、あまりにも唐突に思います。もっと色々な理由があったのではないか。聖書はそれらを、省いているのだろうか。いずれにしても、ここで示されるのは、神様に支配されている限り、全てのことに神様の意思が優先される、ということです。支配されている人間の側にも、現実的には、様々な思いや都合もあるでしょう。しかし、一たび神様に呼ばれたら、その神様の意思を、何を置いても優先させ。そして、自分の思いや都合を脇に置くようになるのです。

1章16節で『彼らは漁師だった』と、聖書は書いています。その前に『湖で網を打っている』と書いていますから、わざわざここでまた『彼らは漁師だった』と、書く必要は無いのではないかと思います。この後イエス様は『人間をとる漁師にしよう』と言われました。この時の弟子たちにとっては『人間をとる漁師』という意味は、理解出来なかったと思われます。しかし彼らにして見れば『漁師』という言葉には、強く反応させられたはずです。魚ではなく、人間を取るとは、どういうことなのだろうか。相変わらず漁師には違いない。けれども、この四人が、大きく生き方を変えられた、ということは『人間をとる漁師』という言葉から、強く伝わって来るのです。相手が魚であっても、なかなか自分の思うようには、出来なかってこともあったかも知れない。しかしそれでも、自分の思いや都合は、優先させて生きることは出来た。しかし相手が人間となれば、魚とは大きくわけが違うでしょう。これからは、取るべき相手の人間の思いや意思を、むしろ優先させなければならないこともあるでしょう。そんなふうに、生き方が変えられて行く人間のことを、今日、聖書は私たちに現わしていてくれると思うのです。

今日の第一日課はヨナ書です。ヨナは悪に満ちたニネべの人々に、預言者として、悔い改めを宣教するように、神様から命じられました。しかしそれを拒否して、神様から逃げようとしたのです。がしかし、結局、命令通りにニネべの人々に宣教しました。そして、ニネべの人々が、悔い改めたというのが、今日のヨナ書の箇所です。そこで、この後のヨナの言葉が興味深いのです。ヨナ4章1-4節『ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに冨み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです』。ヨナは、神の思いを尊重しているかのように見せつつ、結局は、自分の思い通りにしない神様に腹を立てて、ふてくされるのです。

これは他人ごととも思えません。出来事が、自分の願い通りであれば、とりあえず神様に感謝します。しかし、そうで無ければ、神様を恨み、神様はいないかのように、考えたり振る舞います。気が付けば、自分の思いに、神様の思いを、従わせようとしているのです。ある人は、毎週日曜日を迎える毎に、自分の都合を中断して、神の思いを優先させるように、主日礼拝に出席するようにしているとおっしゃっておられました。出来れば、この事態は無い方が良いと思うことが、毎日のように起こされています。神様は、何故このようなことを起こされるのですか、この事から、何を聞き取れとおっしゃられるのですかと、問わずにはいられません。そして、何時まで経っても、その答えが与えられないと思う事もあります。それでも、神の国の住人ならば、問うことが出来るお方を、知らされている。そのことに、まず改めて感謝します。そして更に、問い続けます。

これからも、主よあなたの呼びかけに、従わせて下さい。

顕現後第4主日

『権威ある者』マルコ1:21-28

今日の福音書の冒頭には『一行はカファルナウムに着いた』とあります。その『一行』とは、今日の福音書の直ぐ前の出来事から続けて考えますと、イエス様に従った四人の漁師たちとイエス様、ということでしょう。この四人は『わたしについて来なさい』との、イエス様の呼びかけに、あらゆる自分の都合や思いを脇において、応えて行きました。この姿から、神の国の住人としての生き方が顕されていると、聖書から聞きました。神の国は、神が支配されている状態を言います。その状態に与る人間は、常に、神の思いや意思を優先させる生き方に置かれます。素直に、神の思いや意志に従うことが出来る時もあれば、出来ない時もあります。何故、こんなことが起こされるのですか。何故この私が、この事態を被るのですか。自分の思いや筋書きとは、違う事態に直面しては悩み、そこから神様は、この私に何を聞き取れとおっしゃられるのですか。そんなやり取りの中に、神の国の住人は、生かされて行くものなのでしょう。また四人は『人間をとる漁師にしよう』との呼びかけをも受けて、今、イエス様に従って、カファルナウムに来たところです。『人間をとる漁師』とは、どういうことだろうか。そんな問いが、心の中にはあったでしょう。

さて今日の場面は、ユダヤ教の安息日でのことでした。この日には、ユダヤ人たちは、一切の労働行為を休み、会堂での礼拝を守っていました。礼拝の中で、聖書の解き明かしをする者として、この時にはイエス様が指名されたようです。恐らく既に、律法の教師としてのイエス様のことが、知られていたのでしょうか。それでユダヤ教の礼拝では、ゲストが聖書の解き明かしをすることもあったようです。イエス様の話しに触れた人々の反応が、次のように記されてあります。マルコ1章22節『人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである』。

会堂礼拝では律法学者が大方、聖書の解き明かしを行っていました。そのやり方は、過去の有名な律法学者が語った言葉を、しばしば引用したようです。あの偉い方も、こうおっしゃっているのだから、その言葉に従いましょう、みたいなことだったと思われます。今、語っているその人は、言わば、過去の有名人の言葉を引用して、自分の発言の権威付けにも利用していた、ということでしょう。このことは、あまり批判出来ないのです。似たようなことを、自分もやっているなあ、と思います。一番多いのは、あの宗教改革者マルティン・ルターの言葉を持ち出して、語る言葉に箔付けしているのです。

ところがイエス様の教えは、全く、過去の有名人に依存しない。もはやイエス様ご自身から発せられる、借り物ではない言葉だったのでしょう。ですから、聴く者にとっては、言わば臨場感が違います。新鮮で、まさに今ここに生きる、自分たち一人一人のことをよく知っておられる。だから自分たちが抱える、疑問や悩みに、ストレートに応えて下さるようです。ですから、ではこうしようと、次に向かわせられるのです。更にイエス様が、汚れた霊に取りつかれた男の人に向かって『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになって、汚れた霊をその人から追い出されました。このことで更に人々は驚いて、論じ合ったということです。マルコ1章27節『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く』。

改めて、イエス様の教えに権威があって、それが新しい、と人々が驚いているのは、どういうことなんだろうか。それは、汚れた霊でさえも、イエス様の言葉を聴いて出て行ったように、言葉を聴いた者が動かされてしまうという、人を動かす言葉なのです。人を動かすから、そこに人々は権威を感じざるを得ないのです。言葉に動かされるというのは、繰り返しますが、自分のことをよく知っていて下さると思うからです。ですから、次はこんなふうにして行こうと、前に進めさせられるのです。それはイエス様ご自身が、語る言葉のうちに歩んでおられるからでしょう。そうやって、こんな私と一緒に動いて下さるからです。ところが借り物の言葉は、他人ごとに聞こえてしまうのです。あなた一人で行って下さいと、突き放されるようなのです。

このようにイエス様の言葉と行動を、あの四人は目の当たりにさせられた。それは『人間をとる漁師になる』と語られたイエス様が、自らの生き様をもって『人間をとる漁師』を、ここに現わそうとされているのです。イエス様が会堂に来られた時に、汚れた霊にとりつかれた男は、こんな叫び声も上げていました。マルコ1章24節『ナザレのイエス、かまわないでくれ』。あんたのことは先刻承知だ。だから、関係を持つ必要が無い。そう言って、とにかく、つながる関係を拒否しているのです。このことから、汚れた霊の働きとは、結局、人間関係を分断するものだと示されます。人を孤独へと導くのです。イエス様は、それを阻止されるのです。そしてこの、関係性をつなげる働きに、イエス様は弟子たちを、お用いになるのです。この後、マルコ3章13節以下でイエス様は、更に8人の弟子たちを、召し出しています。いわゆる十二使徒と呼ばれる弟子団です。そして聖書は、次のように記します。マルコ3章14-15節『彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった』。

この十二人の一人一人は、疑い深かかったり、直ぐに切れたり、上昇志向が強かったり、挙句の果ては、イエス様を裏切るような、そんな色々な器質や破れを持った人たちでした。それだけに、返って、あらゆる人間たちの姿を、投影しているようです。そんな多様性を孕んだ弟子団が、それこそ多様性の人間の海に臨む漁師としては、むしろうってつけのようにも思うのです。そしてそんな弟子たちに、悪霊を追い出す権能を授けたという。マルコ3章20節以下では、悪霊追放を行ったイエス様に、悪意を持つ人々から、それこそ悪霊呼ばわりされる場面が描かれています。それに対して、反論するイエス様ですが、マタイ福音書では、次のような興味深い言葉が、記されてあります。マタイ12章28節『しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ』。これは、悪霊の追放が、神の国の到達のしるしだ、とおっしゃられていることです。そしてそれは、人間関係がイエス様によってつなげられる、ということです。イエス様が四人の弟子たちを召し出す前の、宣教の第一声は『神の国は近づいた』でした。結局イエス様は、人を動かす権威ある言葉によって、その働きのために弟子たちを召し出します。そして多様性を持った弟子たちも、互いにつなげられる。そして、そんな弟子たちもまた『人間をとる漁師』に用いられて、全ての人々が、互いにつなげられて行くのです。そうやって、神の国が現わされて行くのです。キリスト教会は、これら弟子たちに連なるものです。

今も世界は戦争を続けています。また今年は、いくつかの国では大統領選挙や国会議員選挙を控えています。それらの結果から、増々、人間たちの分断が、固定化されるかのようにも、見えてしまうのです。神の国が、遠ざかってしまうようにも、思えてしまいます。一方日本では、正月早々に、能登半島地震が起こされました。被災地の方々はもちろんのこと、日本中が大きな痛みの中に置かれています。それでも被災地の皆さんの状況が、段々と詳しく知らされるようになって、人と人とのつながりを、考えさせられました。あるパン屋さんの話しです。元旦に被災しながらも、翌日の2日には、何とかパンを焼いて、周りの人たちに無償で、パンを配布し始めたそうです。その中に、時計屋さんを経営している人がいて、パン屋さんの姿に触発されて、自分は何が出来るのかと、考えたそうです。そして、受験生に無償で時計を配ったそうです。眼鏡も扱っていたので、無償で眼鏡の修理を始めたそうです。世界を見て絶望しそうな自分ですが、そんな自分を励ましてくれるようなニュースが、身近から聞こえて来たのです。

人と人とのつながりを、どこまでも保ち続けて下さる権威ある主に、キリストの教会によって感謝します。こんな私も人間をとる漁師に、用いて下さい。