からし種 424号 2024年9月
『わたしが命のパン』ヨハネ6:24-35
今日の福音書は、先週のヨハネ福音書の続きになる所です。先週は大麦のパン五つと二匹の魚を、イエス様がお用いになって、五千人以上の人たちが、満腹するまで食べることが出来るようにした、という出来事を聞きました。その時は、ユダヤ人の祭りの過越祭が近づいていた頃だったということです。このお祭りはユダヤ人にとっては、大切に守られて来ていたものでした。その起源は次の通りです。紀元前13世紀頃に、エジプトに住み着いていたユダヤ人が、エジプト王による迫害を受けるようになります。ユダヤ人の人口が増えすぎて、それをエジプト王が恐れたからです。それで聖書の神様は、モーセを指導者にして、ユダヤ人たちをエジプトから脱出させました。そして本来済むべきカナンという、今のパレスチナと呼ばれる土地に、導かれて行ったわけです。この出来事をユダヤ人たちは、民族最大の救いとして、毎年の過越祭で記念するようになったのです。ちなみに過越とは、災いが過ぎ越される、あるいは通り過ぎる、という意味です。こうして神様の救いが、子々孫々にわたって、忘れられないように、記念され続けて来たわけです。
そしてまた、まもなくそのカナンに入るという時に神様は、モーセに代わって、モーセのような預言者を立てると、モーセに預言させたのです。モーセは、カナンに入る直前に、生涯を終えました。過越祭を記念するユダヤ人たちは、神様の救いの業が、あのエジプト脱出の時だけに起こされたのではなく、今も同じように起こされるのだと、記念する毎に信じ続けて来ました。そして同時に、モーセのような預言者をも待ち続けて来ました。イエス様が登場された頃も、未だその預言者は登場していませんでした。しかも当時のユダヤは、ローマの植民地下にありました。ですから余計に、毎年の過越祭では、あの時のような神様の救いと、自分たちを導いてくれる預言者の登場を、熱く祈り求めていたと想像させられます。
そんな中で、大麦のパン五つと二匹の魚を、イエス様がお用いになって、五千人以上の人たちを満腹させたという出来事に、人々は直面したのです。その時の反応を、先週のヨハネ福音書の箇所から引用します。ヨハネ6章14-15節『そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者である、と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた』。この時人々は当然、まもなくやって来る過越祭を意識していたでしょう。ですから、このイエス様こそ、待ちに待ったあのモーセのような預言者だと、期待したのでしょう。そしてモーセは、王様のようなリーダーシップもありました。同じようなイエス様には、もはや王になってもらおうと思ったのでしょう。しかしイエス様は、その気配を察して、雲隠れしてしまいました。諦め切れない人々は、当然、捜し回るでしょう。
そこで今日の福音書の箇所です。ヨハネ6章24節『群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た』。雲隠れしてしまったイエス様を、このように人々は、確かに捜し回っていました。イエス様が王であってほしいという、人々の切実な思いが伝わって来るようです。ですからイエス様の方も、そんな人々の思いに乗っかれば、容易に王様にもなれたでしょう。しかし、そんな誘惑を断ち切り、更に人々の期待にも、クレームをつけるのです。『あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ』。こんなふうに言われてしまいますと、捜し回っていることが、更に満腹したいがためであって、イエス様などどうでも良いようにも聞こえてしまいます。人々は『しるし』見たのです。それは、あり得ない程のパンの量を、産み出したことです。だから、そんなことの出来るお方は、まさしく、自分たちが待ち続けた『預言者』だと思った。しかしイエス様は『見るべきしるし』を見ていないとおっしゃられる。それはなんだろうか。五千人以上の人々が満腹したのです。産み出されたパンの量に目が向きがちです。しかし考えて見ますと、五千人以上の人たちが、どんなふうにして、与えられたパンを食べたのだろうか。パンにありつくタイミングには、かなりの時間差が生じるだろう。色々な人間たちが集まっている。最終的には、みんな満腹したようだ。がしかし、それに至るまでには、何のトラブルもなかったのだろうか。恨み辛みも抱えることなく、済まされたのだろうか。人々の考え方に多様性はあるとしても、気持ちの一致が、最初から最後まで保たれているとしたら、そちらの方が真の『しるし』と言えるのではないだろうか。
この後のイエス様の言葉も、人々には理解し難いものでした。ヨハネ6章27節『朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい』。『朽ちる食べ物』とは、いわゆる普通のパンのことを言うのでしょう。しかし私たちは、このパンを得るために、一生懸命働いています。更にたくさんの量を確保して、安心したいとも思っています。これを国全体の事として考えれば、もっとたくさんの土地を確保したいと考えます。そのために強力な王様を期待します。限りある土地に対して、皆がそんなふうに考えれば当然、争いも生まれるでしょう。勝った国は一時的には、たくさんの食べ物を確保出来るでしょう。しかし、敗者には憎しみが残り続けます。それがある限り、争いは絶えないでしょう。そうやって、子々孫々の事まで視野に入れれば、争いによる土地の荒廃は避けられない。結局は、食べ物は朽ちて行くのです。それをイエス様は『朽ちる食べ物のために働く』とおっしゃられるのです。
一方『永遠の命に至る食べ物』とは何か。それをイエス様は『わたしが命のパン』だとおっしゃられ、イエス様を生きる拠り所としなさいと、言うのです。そうすれば『飢えることもなく、渇くこともない』と言うのです。これは一時的ではなく、子々孫々に渡って、全ての人間たちが、平等にそして平和に、生きて行くことが出来るということです。今日の第二日課エフェソ4章2-3節『一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい』。これがキリストの教会の生き方です。キリストの命のパンを食べる群れだからです。しかしキリストの教会は本当に、キリストの命のパンを食べているでしょうか。いつしか『朽ちる食べ物』へと、すり替えられていないでしょうか。何故ならキリストの教会もまた、歴史を振り返れば、『朽ちる食べ物のため』の戦争を、続けているからです。また教会にはたくさんの教派があります。健全な多様性の現れとも言えるかも知れません。しかし一方で、争いの種にもしてしまっているのです。
今週は、広島と長崎に原爆が落とされた出来事を日本中が思い起こします。最近は、抑止力という名の下に、核兵器の存在が肯定的に受け入れられているかのようです。こうして結果的には『朽ちる食べ物』の奪い合いのために、軍事力の拡大競争が続けられているようです。そんな中でもう一度、キリストの教会は『キリストの命のパン』を食べていますと、自信を持って言い続けたいのです。『キリストの命のパン』を食べることこそ、子々孫々に渡る永遠の、そして全ての人間たちの平等と平和が実現されると、キリストの教会は知らされているからです。
主よ、まずもって、本当に『キリストの命のパン』を食べる群れとして、もう一度建て上げ、世の証しとさせて下さい。
聖霊降臨後第14主日
『命を与えるのは霊』ヨハネ6:56-69
今日のヨハネ福音書は、第6章の最後の部分です。それでこの第6章全体は、統一したテーマで記されてあります。結局、パンという食べ物のことから、いわゆるイエス様を信じる信仰のことを、考えさせるのです。6章の始まりは次のようでした。大麦のパン五つと二匹の魚を、イエス様がお用いになって、五千人以上の人たちを満腹させた、という事でした。そしてその時は、ユダヤ人の祭りの過越祭が近づいていたというのです。この過越祭の起源は、次のようでした。紀元前13世紀頃に、エジプトに住み着いていたユダヤ人の人口が増えすぎて、それを恐れたエジプト王が、迫害するようになった。それで神様は、モーセという人を指導者にして、ユダヤ人たちをエジプトから脱出させた。そして本来住むべき約束の地カナン(現在のパレスチナのこと)に、導かれて行った。この出来事をユダヤ人たちは、民族最大の救いとして、毎年の過越祭で記念するようになったのです。過越とは、災いが過ぎ越される、という意味です。
更に、約束の地に入る直前に神様は、将来、モーセのような指導者を立てると、モーセに預言させ、モーセは死にました。こうして過越祭を記念するユダヤ人たちは、あのエジプト脱出時の一度限りではなく、災いが過越される救いはこれからも続くと、祭りの度に信じて来ました。そして同時に、モーセのような指導者をも待ち続けて来ました。イエス様が生きていた頃は、ユダヤはローマの植民地下にありました。ですから余計に、過越祭の度に、災いの過越しと預言者の登場とを、熱く願っていたはずです。
そんな中で、大麦のパン五つと二匹の魚から、五千人以上の人たちを満腹させたイエス様に人々は、あのモーセのような指導者が来たと期待した。しかしイエス様は、そんな人々の期待を無視して、雲隠れしてしまいます。その後、人々の前に現れたイエス様は『あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ』と言われたのです。五千人以上の人々が満腹したという、パンの量に人は注目しがちです。だから誰でもいいんだろう。満腹出来るパンの量さえ確保してもらえば。つまり自分の思い通りに願いを適えて下さる、利用し易い神様なら誰だっていい。しかし、それで良いのかと、問う声も聞こえて来る。
更にイエス様は、いくら大量でも、いずれは無くなる『朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい』と言われた。これを聞いた人々は、さすがに、それは普通の働きとは違うなと思ったでしょう。だから『神の業』を行うために、何をしたらよいのか、と尋ねたのでしょう。『神の業』のために何かをしなければならない。その延長線上で『信じる』という信仰さえも、何かをすれば信じることが出来ると、人は考えがちです。この時、イエス様を信じなさいと聞かされた人々は、じゃ、イエス様、あなたを信じるために、どんな奇跡を起こしてくれるのですかと、更に問うのです。五千人以上の人々が満腹したという、あのしるしでは、信じるためにはまだ不十分ですかと、皮肉られそうです。そこでまた追い打ちをかけるようにして、更にイエス様はおっしゃられた。6章35、51節『わたしが命のパンである。・・わたしは、天から降って来た生きたパンである』。目の前にいて、しかもその氏素性も良く知っている人間が『天から降って来た』などと言われた。そんなことを一体誰が信じるのか。『天から降って来た』ことは脇に置いて、では、パンと言われる限りは、そのパンを食べねばならない。イエス様が生きたパンならば、どうやって、そんなパンを食べるのか。
それで、更にイエス様はおっしゃられた。6章51、54節『わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる』。冒頭で、この6章の出来事は、過越祭が近づいた頃だと申し上げました。この場面からは少し先の話になりますが、イエス様が十字架に掛けられたのは、ある年の過越祭の最中でした。その祭りを記念するために、定められた食事をすることになっていました。イエス様も十字架に掛けられる前に、弟子たちとその食事をしました。これがいわゆる最後の晩餐と言われる食事でした。そこでは、屠られた羊の肉や酵母の入っていないパンを食べ、ブドウ酒も飲まれました。『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる』と語るイエス様は、これから起こされる、十字架の死と復活の出来事を、想定していたのでしょうか。その意味は、ユダヤ人だけのための過越祭を超えて、全ての人間の災いが過ぎ越されるための祭りが、イエス様によって備えられる。そして、行くべき約束の地もまた、この地上ではなく、それを超える所にあると示されるのだろうか。
今日は行われませんが、今申し上げた、最後の晩餐の場面を記念する、聖餐式が礼拝では行われます。この聖餐式を含む礼拝こそ、まさにキリスト教の過越祭なのです。お手元の式文の11頁に、最後の晩餐で語られた、イエス様の言葉が記されてあります。『私たちの主イエス・キリストは、苦しみを受ける前日、パンを取り、感謝し、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。取って食べなさい。これは、あなたがたのために与える私のからだである。私の記念のため、これを行いなさい。食事ののち、杯をも同じようにして言われました。取って、飲みなさい。これは、罪のゆるしのため、あなたがたと、多くの人々のために流す、私の血における、新しい契約である。私の記念のため、これを行いなさい』。ここでまた驚かされます。酵母抜きの普通のパンとぶどう酒が、イエス様の肉と血だなんて、どうしたら信じられるでしょうか。
イエス様の言葉を聞いた人々の反応です。6章60、66節『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。・・このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった』。ところが十二弟子と呼ばれる弟子たちは『あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています』と応答しました。しかしまた、イエス様に選ばれたという十二人の中の一人のユダは、最後の晩餐の後、イエス様を十字架へと引き渡す、手引をしてしまいました。残りの十一人も結局、十字架上のイエス様を尻目に、逃げ去ってしまいました。今の私たちも、これまでのイエス様の話は『実にひどい話だ』と思うでしょうか。人間が生きるためには、やっぱり、本物のパンが必要でしょう。そしてこの現実を生き抜くには、結局は私と言う人間の力が頼りでしょう。あとは、頼りになりそうな神様を選んで、利用すればいい。そもそもパンとぶどう酒がイエス様の体と血だなんて、せいぜい、単なる象徴でしかないでしょう。そう考えますと、神様や信仰も、建前と本音で使い分けるものなのでしょう。実際問題として、神様や信仰は飾り物に過ぎないのでしょうか。
ところが今日聖書は『命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である』という。今やAIの時代にあって『命を与えるのは霊』とは、どうやって証明するのだろうか。そもそも『霊』と言う言葉にも、胡散臭さを感じてしまう時代です。しかし一方で、どんなに破れ多く、罪深い、全てに相応しくない自分であっても、ここにいて良いと、絶えず呼びかけて下さる、イエス様の言葉にすがりたい思いもあります。改めて、イエス様の言葉が霊だという言葉に注目させられます。霊は見ることも触ることも出来ない。でもイエス様の言葉なら、聞くことも出来るし、読むことも出来る。
イエス様の言葉で、霊による生き方に、だめな自分を委ねさせて下さい。