からし種 425号 2024年10月

聖霊降臨後第15主日

『人の中から出て来るもの』マルコ7:1-8,14-23

7月28日から先週までの5週にわたっての礼拝では、ヨハネ福音書の6章からみ言葉を聴いてまいりました。そこでは、イエス様が大麦のパン五つと二匹の魚から、五千人以上の人々が満腹するまで、パンや魚を次々と産み出したということで、この人は何者なんだろうと、人々の間に問いが湧き起こされた、ということでした。最後にはイエス様が、自分は天から降って来たパンだ、そのパンは私の肉のことだ、それを食べれば永遠の命が得られると言ったので、実にひどい話だと言って、弟子たちの多くが離れ去りました。残ったのは十二人の弟子たちだけでした。その十二人も、十字架の出来事を通して結局は、イエス様を裏切ってしまいました。しかしそんな破れがあったからこそ弟子たちは、後に、本当のイエス様に出会うことになりました。

例えば神様を信じるという信仰を考えますと、信じる対象の神様のことをあれこれと吟味します。どんなお方なのかなと知ろうとします。しかし一方で、評価評論するために、神様を対象物として扱うことは、何か神様を見下すような、傲慢なようにも思います。神様を知ろうとすることは、自然なことです。でも同時に、自分が何者なのか、それを問うことも更に大切のように思います。少なくともイエス様は何者なのかと、問うばかりでなく、自分が何者なのかを示された時に、そんな自分とイエス様との関係が問われます。そして、そうやってイエス様との出会いが果たされるのではないか。ですからイエス様を知るというよりも、イエス様と出会うが、信仰の始まりだと示されます。

今日のマルコ福音書は、まさに自分という人間が何者なのか、それが問われているのです。まずファリサイ派と数人の律法学者たちが登場します。そして、イエス様の弟子たちの振る舞いを巡って、イエス様と討論したのです。その弟子たちの振る舞いですが、手を洗わないで食事をしているのは、違反だというのです。それは衛生上の問題ではなく、宗教的汚れの問題だったわけです。日常生活の中で、例えば市場に行きますと、色々な人間たちと接します。中には異教徒のローマ人もいたでしょう。ユダヤ人でも、娼婦や徴税人という、罪人だと言われていた人たちもいたでしょう。そんな人々と、図らずも接触することもあります。帰宅した時には、そこで触れてしまった汚れを取り除くために、手を洗い身を清めて、食事をするわけです。手洗いのことは、律法本文にはありません。いずれにしても神様の前にあっては、汚れなく清くいたいという願いの中で、そのための細かい言い伝えがあったわけです。ユダヤ教ではそれをタルムードと呼んでいます。言わば、律法に違反しないように、律法を守るために巡らされた、律法の垣根のようなものでしょうか。それを今日の聖書では『昔の人の言い伝え』と言っています。いわゆる清く正しい信仰生活を送るためには、守らなければならないものになっていたのです。

しかしイエス様は『あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝え固く守っている』と言って、批判するのです。しかし人々にして見れば、神の掟を捨てるどころか、それを守るために、言い伝えを守ろうとしているわけです。これは心外だったでしょう。しかしイエス様が問題とするのは、そんな手洗いで、宗教的な汚れが避けられるのか、ということです。イエス様は言います。マルコ7章15、19節『外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。・・それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる』。手洗いを逆手に取って、汚れたまま口にしても、それはまた心の中ではなく、腹を通って外に出るだけだから、人を汚すものではないと言うわけです。もちろん宗教的汚れですから、口から入る普通の食べ物のことではない。ここでイエス様が言いたいことは、そんな手洗いのようなもので、本当に宗教的汚れから逃れられると思っていますか、ということです。単なるおまじないだと、心の中では思っている人もいたでしょう。その方がまだ健全でしょう。問題は、汚れが取り除かれると思うどころか、手洗いをしないものを、あたかも極悪人のように裁くことまでしてしまうことです。昔の言い伝えを、イエス様は否定されません。守りたければ、その人が、自分の信仰生活のために必要だと思えば、守れば良いことです。

『汚れ』という言葉が繰り返し出て来ます。これはギリシア語で『コイノス』と発音します。これは『汚れた』という意味の他に『共通の・共に与っている』という意味もあります。ここから派生したギリシア語で『コイノーニア』という言葉があります。教会ではよく聞く言葉です。『交わり』と訳します。一つの単語で『汚れ』と『交わり』の、両方の意味があるのです。人は独りでは生きられません。他者と助け合いながら『交わり』によって生かされるのです。そこには『汚れ』もあるでしょう。でもそれは、相手ばかりではない。自分も抱える『汚れ』です。それを互いに受け留め合いながら『交わり』が成り立つのです。そこでイエス様はおっしゃられるのです。いずれにしても『人から出て来るものこそ、人を汚す』。

先週、幼稚園の職員会議で、夏の研修会でそれぞれ学んだことを、出し合う時間を持ちました。こんな報告がありました。日頃から、指導の言葉が多くなる園児がいると、その子が問題を起こす度に、真っ先に口をついて出て来てしまうのが『またそんなことをして』ではないでしょうか。講師の先生が言うには、しばしば問題を起こす子どもも、それでもそれなりの、その時の理由があるはずだ。まずは、その子の気持ちに寄り添って、そんなことをしてしまった理由を、丁寧に受け留めて行くことが大切なのでは、ということでした。それを聞いて『やっちまっている』と思ったそうです。私はこんなふうに言葉を返しました。日頃から、心の中に溜まっているものは、制御する間もなく、つい口をついて出てしまうものですよね。『やっちまわない』に越したことはない。でも『やっちまった』としても、後で、振り返ることが大切なのではないか。繰り返しでも振り返り続けながら、段々『やっちまう』ことが、減って行くのではないか。そしてこれは、保育現場に限らず、私たち人間生活の中においても、全く同じことが言えるのではないか。人を恨んだり憎んだり、それが制御できずに口に出して、やっちまうことがよくあります。恨みも憎みもしないでいられればいい。でもやっちまう自分がいる。開き直らずに、やっちまう自分を振り返る時間が、大切なのではないか。そうやって、自分は何者なのかを、知ることが大切なのではないか。イエス様こそ、人間はそんな者であることを、よくご存じだと言う。だから、やっちまっても、そんな自分を見捨てず、むしろ次の働きのために、用いてさえ下さる。そんなイエス様との出会いが、こんな自分にも備えられているという。そしてそんなイエス様との関係が、これまでとは違う生き方に、こんな自分も変えて行って下さるのです。

教会によって、自分を知り、イエス様に出会い、イエス様との関係に与らせていただきます。

聖霊降臨後第16主日

『この方のなさったこと』マルコ7:24-37

先週の福音書の箇所は、今日の箇所の直ぐ前の所でした。宗教的な汚れについて、ファリサイ派の人々や律法学者たちとイエス様が、討論した場面です。律法を守って、神様の前にあっては、常に清く正しく居ようとしている人たちですから、そんな彼らは、汚れが自分の身に取りついたり、体の中に入り込むのを極端にチェックするわけです。それに対してイエス様はおっしゃられます。マルコ7章15節『外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである』。人間の心の中には、もう既に、ありとあらゆる悪が巣食っている。それらが、出て来ることで、人を汚すんだ、というわけです。ここでイエス様が相対しているのは、ユダヤ教の信仰に熱心なグループです。そんな影響力のあにそうな彼らが、悪など自分たちの中には無くて、外から入り込まないようにしているという、そこが大問題だと、イエス様は深く嘆かれていたと思われます。

それであの影響力のある、特にファリサイ派や律法学者の人たちに、何とか自分自身のことに気づいてほしいと、そんな祈りを持ちつつも、宣教活動をされていたのではないか。そしてまた、イエス様を知っているユダヤ人に、会うことは無いだろうと思われる所で、時には静かに祈りつつ体も休ませようと思われたのではないか。それで今日の福音書の始まりは、ティルスの地方に行ったということです。ここはまさに、イエス様の事を知る者はいないだろうと思われる、異邦人の地であったわけです。ところがそれでも、知られてしまった。ギリシア人の女性が、悪霊に取りつかれた娘から、悪霊を追い出して下さいと願い出て来た。

それに対するイエス様の応答が、色々と考えさせられます。マルコ7章27節『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない』。何故ここで、このようなたとえ話で、持って回ったような言い方をされたのだろうか。子供はユダヤ人のことで、小犬は異邦人の事のようです。異邦人を小犬呼ばわりするのも失礼ですし、とにかくユダヤ人が大切なんだと、言わんばかりです。それでも、大人ではなく子供を登場させているのは、単純にユダヤ人だけを大切にしているとも思われない。冒頭で、それなりに影響力を持っていて、悪など元々自分たちの中には無いと思っている、そんな同胞のユダヤ人たちの状態を、イエス様は深く嘆いていたと述べました。そんな彼らをまず、何とかせねばならないと思っていたのではないか。そこに、異邦人の女性と出会ってしまった。ストレートに願いを拒絶することに、躊躇いがあったのかも知れません。また、ただ単に同胞のユダヤ人が大切だからと言うよりも、父なる神様と、人間であるユダヤ人とが、もう一度原点の親子関係に立ち返ってほしい。パンという父なる神様の教えを、謙虚に受け入れてほしい。そしてこの事は、側にいるであろう弟子たちにも、あながたの問題としても、聞いて考えてほしい。そんな思いもあって、敢えてこのような譬えを語られたのではないか。『子供たちに十分食べさせなければならない』という所に、イエス様のユダヤ人に対する熱い思いが、伝わるようです。

異邦人の女性が、小犬に譬えられている意味は何か。小犬という動物にとっては、今ここでイエス様が問題としている、人間の心の中に巣食う悪とは無関係です。ここのパンとは、神様の教えの言葉だとするならば、それを人間が食べるから、神様の教えの言葉になるのです。心の悪の問題には無関係な小犬が食べても、単なるパンのままであって、意味を持たないわけです。食べさせないは、かわいそうだとか、そんな意味合いでは無いわけです。今日は聖餐式は行なわれませんが、そこで、キリストの体であるパンと、血であるぶどう酒を飲むのは、キリスト信仰において、キリストの体であり血となるわけです。キリスト信仰に無関係な人が食べても、それは単なるパンとぶどう酒のままです。神の言葉があるとか無いとかは無関係で、意味の無いことになるわけです。

このように子供と小犬とパンの譬えの中に、イエス様が深く気にかけておられる重大な祈りが込められていた。もしかしたら周りの人間たちには理解出来なくても、父なる神様が受け止めて下さる。それで良いと思われていたのではないか。ところがこの異邦人の女性は『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます』と答えたのです。確かに、同胞のユダヤ人たちに対して、強い問題意識を持たれているイエス様の思いは肯定します。それでもイエス様が教えて下さる、神様の言葉を、神様の言葉として聞き入れられる人間は、異邦人にもいるはずです。イエス様は直接語ったつもりではなくても、パン屑もパンなのです。だからそのパンの言葉を、イエス様から聞いて、神様の教えとする者もいるのです。こんなふうに異邦人の女性の思いが、彼女の応答のこの言葉から伝わって来るのです。

この後、今日の福音書は、ティルスを出て、いくつかの異邦人の地を巡って、ガリラヤ湖にイエス様がやって来たことを伝えます。そしてイエス様が『耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せる』ようにしたことが記されてあります。人々は『この方のなさったことはすべて、すばらしい』と言い広めたそうです。しかしイエス様は口止めをされた、というのです。この場面は、耳が聞こえず舌の回らない人がいて、イエス様はその人だけを群衆の中から連れ出して、癒しの業を行ったと聖書は記しております。一対一で向き合うようです。癒されたその人は、まさに聞いて話すようにさせられた。そしてこれから、信仰の言葉を聞き、信仰の告白をさせられて行くのでしょう。あの異邦人の女性も、イエス様と一対一で会話をしていました。そしてイエス様の言葉を聞いて、信仰の言葉を話しました。ところが群衆については『イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた』というのです。イエス様から何を聞いたのでしょうか。聞いたことではなくて、見たことを話してしまったようです。一対一でなかったからでしょうか。対照的です。

冒頭で、それなりに影響力を持っていて、悪など元々自分たちの中には無いと思っている、そんな同胞のユダヤ人たちの状態を、イエス様は深く嘆いていた。そしてそんな彼らがまず、父なる神様に立ち返るように、導かねばならないと思っていたと申し上げました。そんなことを考えながら、今、パレスチナのガザ地区で起こされていることが、思い巡らされました。二千年前のイエス様の深い嘆きと心配の思いが、そこにも注がれていると思ってしまいました。当時のイエス様にとっては、目の前のユダヤ人の事に、心を痛めていた。しかし今やその痛みは、もちろんユダヤ人だけではない。全ての人間たちに、向けられているものです。

キリストの教会によって、一対一でイエス様に向き合って、誤解なく『この方のなさったこと』を、もう一度聞いて告白してまいります。

聖霊降臨後第17主日

『神のことを思う』マルコ8:27-38

イエス様が伝道活動を開始された時の第一声が、1章15節に次のように記されてあります。『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。これを聞いた人々は、神の国って何だろう、福音って何だろう、そんな疑問を持ったかも知れません。そして、それぞれに考えたのでしょう。がしかし、イエス様が伝えようとしたものとは、多くはかけ離れていたのではないか。これから伝道活動をして行く中で、イエス様は、神の国とは、福音とは何かを、それぞれ教えたり、行動で表したりして行った。それらは福音書として、章を追って、書き記されて行ったのです。

神の国と聞いて、いわゆる強大な王国のような、場所的なものを思い浮かべる者も、いたかも知れません。しかしマルコ福音書4章では、畑に種を蒔いて収穫する作業に譬えられたり、からし種に譬えられたりしています。イエス様が示される神の国は、人間の力の及ばないものであったり、人間の価値観とは異なるもののようです。そうしますと、イエス様が言う神の国とは、神様が支配されている状態のことかなと思われます。その状態の中で、イエス様の役割は何なのか、そんな疑問がまた、頭に浮かんで来るのです。

福音という言葉を、今日の箇所は、冒頭からイエス様は使われました。通常の福音という言葉の意味は『善き知らせ』というものです。具体的には、戦争の勝利の知らせであったり、子供の誕生の知らせの時にも、この言葉が使われたそうです。しかしイエス様が宣教の第一声で使われた時には『時は満ち、神の国は近づいた』と言うものが、福音なんだなと類推出来ます。そして通常の福音の意味と、関連して考えますと、神の国の到来によって、神様による支配と救いが実現する。そしてそれが神様の勝利という意味で、勝利の神様の到来が、まさに福音ということなのかなと思うわけです。

福音とは要するに『神様による支配と救いの実現』ということですが、では具体的には、どんなふうにして、実現されて行くのだろうか。支配とか、救いと聞きますと、何やら勇ましい、戦いの勇者のようなものを想像させられます。神様がそんな勇者のようなお姿で、登場するかも知れないと思う人々も、いたかも知れません。イエス様も、そんな勇者の一人に、数えられていたかも知れません。それで今日の福音書の中でも、イエス様は弟子たちに尋ねました。『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』。今まで聞いたりして来て、神様由来の様々な人物をも、人々は思い浮かべていたことが分かります。それらは、決して突拍子もないものではありません。人間なら誰でも、考えられ得るものです。そして側にいた弟子たちも、尋ねられたのです。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』。『あなたはメシアです』。メシアとは、直接的には『油注がれた者』という意味です。当時のユダヤ人たちは、いわゆる王様をイメージして、この言葉を使っていたようです。弟子たちが、この言葉をイエス様に当てはめているのは、イエス様を王様のように考えていたのでしょうか。見た目は、いわゆる王様のようではなかったかも知れません。しかし本質的に、人間の王様のようだとしていたようです。この時イエス様は『御自分のことをだれにもはなさないように』と言われました。それは暗に、弟子たちも人間的な価値観の中にあることを、見ておられたのでしょう。

それからイエス様は、今度はご自分の方から、自分が何者であるのか話されました。内容は、いわゆる十字架上での死と復活のことです。この時には『しかも、そのことをはっきりとお話しになった』と、聖書は記しております。別の訳をすれば『あからさまに、人をはばからないでお話しになった』というものです。これは直前で、弟子たちに『だれにも話さないように』と言われたことと、対照的です。ですから、弟子たちが考える福音は、イエス様にとっては、誰にも話してほしくない事だった。一方、イエス様がお考えになられる福音は『あからさまに、人をはばからないでお話し』出来るものだった。しかしそれを聞いた弟子の一人のペトロは『イエスをわきへお連れして、いさめ始めた』というのです。イエス様の福音は、人間ペトロにとっては、誰にも話してほしくない福音なのです。非常に対照的です。

ペトロにして見れば、あくまでもイエス様のためを思って『わきへお連れして、いさめた』つもりなのです。もちろん、自分が思い描く筋書きと違うような事を、イエス様はおっしゃられました。その点では、自分の筋書きと違うので、不満だったかも知れません。それでも、自分なりに『神のことを思って』いたつもりでしょう。しかしイエス様は、ペトロに『神のことを思わず、人間のことを思っている』と言われたのです。そして更に言われました。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである』。この場面で、十字架という言葉が使われています。これを聞いた者は、きっと唐突に思ったでしょう。それから福音という言葉も、ここで使われています。これは興味深いことに、先程の1章15節以来の、福音という言葉の登場なのです。それは、唐突に思う十字架との密接な関係が、福音にはあるのだと、イエス様は示されるようです。とにかく神の国や福音、それからイエス様ご自身についても、人々の思いと、イエス様の思いとには、大きな隔たりがあった。更には『救い』とか『命』という言葉の捉え方にも、人々とイエス様との間には、隔たりがあった。人間的価値観や常識や経験や理性が、神のことを思わないようにさせているのでしょうか。先日、ルーテル幼稚園を卒園したお子さんの保護者の方から、こんな話しを聞きました。子どもが何かを決めかねていて、相談を受けるのですが、最後には『神様はどう思うかな』と聞くそうです。お子さんは『そうだね。聞いてみるね』と、素直に応じるそうです。ルーテルで過ごしたからでしょうねと、おっしゃられておりました。

キリストの教会によって、色々な場面で、イエス様はどう思われておられるだろうか、改めてそんな問いを続けてまいります。

聖霊降臨後第18主日

『すべての人に仕える』マルコ9:30-37

今日の福音書の最初の所には、新共同訳聖書では『再び自分の死と復活を予告する』という小見出しが付けられてあります。再びという事で、一回目は、先週の箇所の8章31節の所でした。先週の所では、その直前に、イエス様が『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』との問いかけが、この場面での起点となっていました。その問いは、弟子たちにも向けられました。代表してペトロが『あなたは、メシアです』と答えました。それは当時のユダヤが、ローマの植民地下にありましたが、その状態から解放してくれる、力強い王様のメシアをイメージしたものでした。そのペトロの応答の後、イエス様は第一回目の十字架の死と復活の予告をしました。それを聞いたペトロは、イエス様を脇へお連れして、そんな縁起の悪いことは言わないようにとでも言ったのでしょうか。諫め始めました。そんなペトロに向かってイエス様は言いました。『あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』。

『わたしを何者だと言うのか』という、イエス様からの問いから始まったこのやり取りは、答えた弟子の解答内容に注目させるよりも、解答する弟子がどういう状態にあるのか、そこに注目させるようなのです。そもそもイエス様が何者であるのか、それはイエス様ご自身が語る、死と復活の予告の言葉に示されているはずだからです。神様を信じるということを考えますと、まずは、その信じる対象の神様が、どういうお方なのか、考えるのでしょう。そして『ああ、そういうお方なのか』と知って、じゃその神様を信じましょうか、ということになる。今の私たちも聖書を読みながら、イエス様はどういうお方なのかと考えます。しかし、人間の側から『どういうお方なのか』と考えて見ても、相変わらず分からないこともたくさんあります。ではどうやったら、分かるのか。だから聖書は、イエス様の方から『わたしはこういう者だよ』と、教えて下さっていると示すのです。死と復活の予告の言葉はまさに、イエス様が自ら、正体を表されたものだというのです。あとはそれを、信じるかどうかだけなのでしょう。しかし、なかなか信じられない。だからこの予告の言葉が、三回も発せられているのでしょう。

そうしますと、三回もご自分の正体を表されたのには、繰り返しますが、他にも意図があったのです。この予告の言葉で正体を表しつつ、実はそれを聞く人間たちの正体が、露わにされることだったのです。イエス様が何者なのか問う前に、自分は何者なのか。それを問わせるように、イエス様は予告の言葉を語られた。同じように結局は、聖書を読むのは、イエス様を知ることよりも、読んでいる自分は何者なのかと、それが知らされるように読むのです。第一回目の予告の時には、ペトロは『あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』と言われました。ペトロは『自分はいつでも、神のことを思っている』と思っていたかも知れません。でもそうではないと言われて、また自分を見つめ直させられるのです。

そして今日の二回目の場面です。『弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった』という。分からなければ、尋ねればいいと思います。でも、怖かったからだという。何故、怖かったのか。ここでまた、自分が何者なのか、問わせられるのです。イエス様がメシアであるとしても、その前に厳しい苦難が待ち受けているかも知れない。弟子である自分も、それを覚悟せねばならないのかも知れない。それがイエス様の口からはっきりと、明確にされることが怖い。まだ心の準備が整っていない。出来れば、他の弟子たちよりは、この自分が被る苦難は、少ない方がいい。そのためにはどうしたら良いのだろうか。何かいい方策は無いか。

そんな方策は、どの弟子たちも、同じように考えるのだろう。それが人間である自分なのだろう。だから一行がカファルナウムに着いた時、イエス様は弟子たちに尋ねたのです。『途中で何を議論していたのか』。彼らは黙っていたという。議論の内容もそうですし、ここで黙っていたことも、人間である彼らが、何者なのか、露わにされるようです。黙っていたのは、こんな議論は、イエス様に知られたらまずいと思ったのでしょう。そんな後ろめたい議論の内容とは、弟子たちの中で、誰が一番偉いか、ということだったようです。何故、そんな議論を始めてしまったのか。イエス様の予告の言葉の意味を聞くのが怖かったのは、その意味を予想していたからだ。それは厳しい苦難が待ち受けていることだった。その苦難を被るにしても、出来るだけ少なくしたい。そのためには、弟子たちの間で、序列があれば、上位のものは苦難を、少なくすることが出来るかも知れないと思った。結局、どこまで行っても、自分が一番かわいいのです。自分という人間は、そういう者なんだ。

そこでイエス様は、そんな弟子たちを呼び寄せて言われました。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』。この言葉を、倫理道徳的に捉えようとすると、いわゆる律法主義的になってしまうし、だから到底出来ないと思います。しかし、そんな上昇志向のままでいるとどうなるか。今日の第二日課のヤコブ4章2-3節が印象的で、考えさせられます。『あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです』。自分第一、自分中心は結局、他者を殺してしまうのです。

先週の聖書研究会では、第一コリント9章19節のパウロの言葉から、色々と語り合いました。『わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました』。このパウロの言葉から、あのマルティン・ルターは『キリスト者の自由』を書いたそうです。その冒頭の言葉が『キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服従しない。キリスト者はすべてのものに仕えるしもべであって、だれにも服従する』。『すべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服従しない』けれども、自分一人が主人であって、他の人も主人なら、それは自分が主人だとは言えなくなってしまう。でもたとえ自分一人だけがしもべであって、他の人はそうではなくても、自分は一人でもしもべのままでいられる。でも自分一人だけがしもべであることは癪に障る。どっちに転んでも、全員が一緒に自由な主人であり、しもべなら、このルターの言葉通りになるのかも知れない。そしてそれを可能とするのは、人間の私ではなく、イエス様なんだろう。それが、十字架の死と復活の予告の言葉に、示されているのだろう。

キリストの教会によって、キリストの言葉に与り、今は、自分が何者なのか、キリストに問い続け、自らも問い質され続けます。そして十字架の死と復活のイエス様に出会うように、イエス様を知らされてまいります。