からし種 426号 2024年11月
『神が結び合わせる』マルコ10:2-16
イエス様が伝道活動を開始された時の第一声は、次のようでした。マルコ福音書1章14節『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。これを聞いた人々は、神の国って何だろう、福音って何だろう、そんな疑問を持ったかも知れません。そして、それぞれに『こんなことかな、あんなことかな』と想像したことでしょう。この後、イエス様が伝道活動をされて行く中で、折に触れて、神の国のことを語り、そこに立ち会った人々の反応を、福音書は記しております。そしてそれらの反応は、今、福音書を読む私たちにとっても、他人ごとには出来ない反応のように思います。
今日の福音書の直ぐ前の所に、次のようなイエス様の言葉が記されてあります。マルコ9章47節『もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい』。聖書が言う『神の国』とは、神様が支配されている状態だということを、これまでも聞いてまいりました。いずれにしても、神様が共にいて下さる、ということですから、何となくハッピーな心持ちにしていただけるように想像します。でもイエス様はここで『一つの目になっても神の国に入る方がよい』とおっしゃられます。そういう状態にあることは、むしろ『神の国』とは言えないんじゃないかと、私たち人間は考えてしまいがちです。イエス様が示そうとされている『神の国』は、私たち人間が思い描く、従来の『神の国』とは、ずれているように思います。そしてまた、つまずかせる片方の目をえぐり出したとしても、そもそも『つまずき』を取り除くことが出来るのだろうかと考えてしまいます。もちろん、出来そうもありませんが、もしそうすることで『神の国』に入れるならば、そうしようかと一瞬考えないことはありません。がしかし、やっぱり痛いことだし、出来ない。ならば両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれても、何とかなるんじゃないかと考えてしまうのも、正直なところです。
今日の福音書の箇所も『神の国』に入るとは、どういうことなのか、そんなことを考えさせられるところです。まず、ファリサイ派の人々が登場して、イエス様を試すための質問をします。ファリサイ派の人たちは、特に律法をきっちり100%守っている自分だから、正しい者だと神様から認められていると、自己正当化している者たちです。それこそ『神の国』の住人に相応しいと思っているのでしょう。ついでにそんな彼らは、律法を守らない者たちを、厳しく断罪して来ていました。そこもイエス様は、問題視するのです。それにしても『律法をきっちり100%守っている』と言っても、ここには色々なからくりがあります。その事についても、かつてイエス様は批判していました。マルコ7章8節『あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている』。ここの『神の掟』とは、律法のことです。『人間の言い伝え』というのは、時代が進むにつれて、律法が定められた時代では想定していなかった事態も出てまいります。そんな時に、それでも律法を守っていることにしたいがために、その時代時代で、著名な学者たちが、その時代に適った解釈を律法に加えて、例外規定みたいなものをも、積み上げて来ていたわけです。言わば『律法の例外規定集』みたいなものです。それをイエス様は皮肉を込めて『人間の言い伝え』とおっしゃられたのです。
実は今日の場面も、言わば都合よく、律法を守っているつもりなっている人間たちを、イエス様は批判しているところです。イエス様を試そうとして『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と質問します。この問いが、何故ここで持ち出されて来たのか。そしてこの問いが、何故『試し』になるのだろうか。それはイエス様が問い返した言葉に示されてあります。マルコ10章3節『モーセはあなたたちに何と命じたか』。『モーセ』というのは、昔の有名な預言者で、このモーセを通して神様は律法を与えたわけです。ですからここは『律法はあなたたちに何と命じたか』と、置き換えても良いでしょう。それで具体的に、どの律法規定かと申しますと、申命記24章1節になります。『人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる』。ファリサイ派の人たちが、この律法を取り上げたのは、この中の『妻に何か恥ずべきことを見いだし』という所で、様々な解釈と、論争が起こされて来ていたからです。『恥ずべきこと』とは具体的に何か。それによって、いかようにも、離縁を正当化出来たわけです。ここでイエス様が具体的な解釈をすれば、そこを突くことが出来るわけです。そうやって、泥沼の論争に、引きずり込もうとしたのでしょう。これが彼らが意図した『試し』であったわけです。しかし、イエス様はそれに乗らずに、天地創造にまで遡って、言わば人間的なものを、一切排除して、純粋に神の意志に立ち返るようなのです。マルコ10章9節『従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』。
もちろん実際の人間は、様々な破れを持つものです。その結果で、結婚生活にも様々な破れが引き起こされ得ます。神様はそのことをよくご存じです。ですから、人間の側は『破れを持っている』ことを自覚することが大切です。そして破れを見て見ないふりをしたり、うまく取り繕ったりするのが、また人間であり、そこをイエス様は問題視するのです。マルコ10章5節『あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ』と、言われる通りです。どんなに取り繕ったって、純粋に神様の思いに立ち返るならば『神が結び合わせてくださったものを』引き離した夫も妻も、もしそれぞれが再婚すれば、それぞれは姦通の罪を犯すことになるとまで、イエス様は言い切られるのです。もちろんイエス様は、ここで離婚や再婚を禁じられているわけではありません。結婚のことに限らず、あらゆる場面で、自分が抱き続ける破れを、自覚する事が大切なんだと言うわけです。最後の次の場面でイエス様は、子供たちを、不完全な半人前扱いにして来た、大人社会に向けて言うのです。マルコ10章15節『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』。子供とは言わば、人間的なものがまだ一切取り込まれていない、真っ新の状態を指す者なのです。神的なものが100%と言うよりも、人間的なものが0%というのが、子供を抱き上げて祝福される、イエス様の思いだと示されます。
主よ、キリストの教会によって、これからも神の国の住人に相応しいように、創り変え続けて下さい。
聖霊降臨後第21主日
『神は何でもできる』マルコ10:17-31
イエス様は次の言葉をもって、宣教活動を開始されました。マルコ福音書1章14節『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。そしてこれを聞いた人々には、神の国って何だろう、福音って何だろう、そんな問いを抱く者もいたでしょう。イエス様は伝道活動をされて行く中で、折に触れて、神の国のことを語りました。そしてそれを聞いた人々の反応を、福音書は記します。
今日の福音書の箇所も、恐らくイエス様が語られた神の国のことを、人づてにでも聞いていたであろう人物が登場します。小見出しには『金持ちの男』と記されてあります。彼が尋ねました。マルコ10章17節『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』。彼は『永遠の命』という言葉を使っております。『神の国』という言葉から、『永遠の命』をイメージしたのでしょう。彼の信仰の思いも伺われます。そして『何をすればよいでしょうか』と尋ねるのです。ひざまずいていますから、真剣だったと思われます。いわゆる『何かをすれば救われる』という、分かり易い信仰の在り様です。それに対してイエス様は『善い』という言葉に反応されます。マルコ10章18『なぜ、わたしを、善い、と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』。
イエス様はしばしば、尋ねられた事に直接お答えにならずに、別の話題にまず振られることがあります。この場面は『こういうことをすれば受け継ぐことが出来ます』という答えが期待されていたはずです。それなのに『神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』と答えられた。この金持ちの男が、気づかずに抱えている問題点を、まず浮き彫りにさせるようです。その問題点とは何か。善いとか悪いとか、評価をするのは、評価する者が評価される者よりも、上に立っているかのような印象を与えます。しかもその評価には、どうしても、自分の利益になるかどうかも、重要な要素になってしまっているのです。いずれにしても、人間が行う評価は、あくまでも相対的で絶対的ではない。絶対的なのは神のみです。あなたは自分を神の座に置いてしまっているかのようだよと、イエス様はおっしゃられるようです。
それからイエス様は、十戒の掟のいくつかを引用されて『あなたは知っているはずだ』と言うのです。彼は、知っているどころか、そういうものは、子供の時から守ってきたと答えました。『自分を神の座に置いてしまっている』人だと、先程申し上げましたが、彼がそれを意識していたら、余程の傲慢な者だなと、思われてしまいます。そうではなくて、気づかずに、結果的に神の座に着いていると、言われるわけです。本人にして見れば、本気で永遠の命を得ることを考えていたようです。周りの人間たちからも、だから『あの人は、熱心な信仰者』だと、見られ得るような人だったと思われます。イエス様が引用された十戒の掟の『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』を彼は、子供の時から守ってきたという。しかし誰のために守ってきたのか。自分のためでしょう。守ることで、自分の正しさに安心するのでしょう。しかしイエス様はこれらの掟に、神様の思いを知るのです。相手の命が守られるように、相手の尊厳が保たれるように、相手の持ち物が守られるように、相手の立場が保たれるように、相手の大切なものが損なわれないように、父母が平安であるように、全ては相手のために、神様はこれらの掟を備えられた。それをあなたは知っているのですねと、敢えてイエス様はおっしゃられたのです。しかし彼には、神様の思いは見えず、自分しか見ていなかった。だから、相手も見えなかった。
しかしこのような彼の状況は、決して彼だけの問題ではない。全ての人間が、大なり小なり、似たような状態にもあるのではないか。だからイエス様はこの時『彼を見つめ、慈しんで言われた』という。この『慈しんで』というのは、ギリシア語の『アガペー』の訳です。イエス様の『愛』が込められている『慈しみ』です。ですから、この金持ちを見捨てて裁いては、決しておられない。『あなたのことは良く分かっているよ。これから自分が何者なのか、気づいて行こう』そんな声が込められた『慈しみ』です。そして『あなたに欠けているものが一つある』とおっしゃれて『持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい』と言われました。これは言い方を変えれば『あなたに欠けているものが一つある。それは相手だ』というふうにも聞こえます。
これに対しての彼の反応です。マルコ10章22節『この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである』。『気を落とし、悲しみながら』と訳されてあります。ギリシア語は『ストゥグナゾウ』という単語一つです。『陰鬱である、ふさぎ込む、顔を曇らせる』という意味です。単なる悲しみではなく、深い落胆も伝わって来ます。持っている財産を全部売り払って、全部施せと聞いたのでしょうか。適度に売り払って、適度に施せというなら、出来るかも知れません。元々『何をすればよいでしょうか』と、彼は尋ねたわけです。いわゆる『行いによって救われる』というのは、人間にはお馴染みです。施しの程度で『陰鬱に、ふさぎ込んで、顔を曇らせた』とするなら、少し大げさのような気がします。むしろ彼が抱いて来た、信仰の在り様にまで問われてしまったとするなら、彼のこの反応は、納得出来そうです。そして彼の今後の歩みに、むしろ希望が備えられていると思うのです。ちなみに今月の10月は、宗教改革記念日がある月です。信仰の在り様が問い質されます。
この後、イエス様が『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』と言われて、弟子たちが驚き、また『それでは、だれが救われるのだろう』と互いに言い合ったということです。ユダヤの伝統では、財産があることは神様からの祝福の徴だと、考えられて来たからです。あの金持ちの男も、神様からの祝福のしるしが、そうではないのかと思い詰めて、気を落としたのかも知れません。そこでまたイエス様は、弟子たちを見つめて言われました。マルコ10章27節『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』。この言葉を、ギリシア語原文に即して訳して見ます。『人間たちの間では出来ないが、神が共にあれば出来ないことはない。全てのことは、神と共にあって出来る』。見た目は、人間が行っている。けれども、全ては神が共にあることを忘れてはならないということです。往々にして、特に成功すればするほど、人間だけしか見えて来なくなる。一方、何をやっても失敗だったり、困難ばかりが続くように思えることがある。しかしそれでも、こんな私を通して、神様が共におられて、神様が働かれるから、何でも出来るのだと、イエス様はおっしゃられている。そんなふうに聞くことも出来ます。
持ち物を全て施しなさいと言われたイエス様の言葉を、側で聞いていたからでしょうか。ペトロが言いました。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』。ペトロもまた、結局は、自分のために捨てて従って来たと言うかのようです。だからこの後イエス様は『わたしのためまた福音のために』とおっしゃられるのです。
『神は何でも出来る』という神様が、キリストの教会によって、私を通して働いて下さるからだと、これからも信じてまいります。
宗教改革記念主日
『あなたの信仰』マルコ10:46-52
今日の福音書では、バルティマイと言う名前の、盲人の物乞いが登場します。マタイ福音書にもルカ福音書にも同じ記事がありますが、固有名詞で登場させるのは、マルコだけです。それだけマルコは、この記事に特別感があるようです。盲人の物乞いとは、当時のユダヤ社会では、宗教的に汚れた人間で、いわゆる罪人として扱われていたようです。そんな人間が、イエス様が自分の側を通り過ぎようとしているのを聞いて『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫び始めたということです。とにかく、イエス様が応えてくれるまで、繰り返し叫び続けました。『ダビデの子』というのは、昔のイスラエル統一王ダビデにちなんで、あの王様に連なるお方が救い主だとして、救い主の別称になっていました。当時のイスラエルは、自分たちの国が無くなり、ローマの植民地下にありました。ですから、そこから解放して下さる救い主として、力強い王様のような方を待ち望んでいたのです。そして、あのナザレのイエス様が、その救い主ではないかとの噂も出ていたのでしょう。バルティマイもそれで、助けを求めた。しかし、社会からは見捨てられていたような盲人の物乞いが、はるかに身分も違う、そんな王様に助けを求めるなんて、そんな人間の声に、王様が応えるはずも無いのが常識でしょう。
だからそこに立ち会った、周りの人間たちも『𠮟りつけて黙らせようとした』わけです。ただうるさいだけで、どうしようもないと思ったのでしょう。それでもしつこく、叫び続けたからでしょうか。『イエスは立ち止まって、あの男を呼んで来なさい』と言われました。通常では、あり得ない事が起こったのです。それで人々が『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ』と、盲人を呼んだという。関わる価値もない相手だけど、余りにもうるさかったので、これで、早々に追い返せると、人々は思ったのでしょうか。あるいは盲人の熱い振る舞いに、周りの人間たちも心動かされたのでしょうか。
そこで『盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た』ということです。このリアクションも印象的で、非常に躍動感を覚えます。そんな彼に向って『イエスは、何をしてほしいのか』と言われました。どうでしょうか。聞くまでもない。目が見えることに決まっているでしょう。でもイエス様は敢えて『何をしてほしいのか』と聞かれた。周りは、目が見えることがベストだと、勝手に判断を下しますが、とにかくその人が求めるものを尊重するように、その人から聞くことが大切だと、イエス様は考えておられたのでしょうか。
ここで『何をしてほしいのか』と、してほしいことを尋ねておられます。ですから、その応答は『目を見えるようにしてほしい』となるはずです。特に物乞いをしていたということですから『誰かに何かをしてほしい』という、まさにそんな人生を送って来ていたわけです。ところが盲人は『目が見えるようになりたい』と応えた。『見る』という言葉は、ギリシア語にはいくつかあります。ここでは『アナブレポー』という言葉が使われています。辞書には『見上げる、仰ぐ、顔を上げる、再び見る、視力を回復する』と書いてあります。ここでこの言葉の使われ方にこだわるならば、かつては目が見えていた人だったのかも知れません。失明して、社会からは役に立たない人間のように、見なされてしまっていた。そして『してほしい』生き方になっていた。しかし今度は、神様を見上げて生きて行きたい。神中心に生きて行くのだ。もう一度見えるようになって『してもらう』生き方から、主体的に生きる生き方に生かされるのだ。そして今度は、社会に役立つように、社会の当事者として、生きて行きたい。そんな思いが、この『目が見えるようになりたい』という言葉に、込められていたのではないか。
それからイエス様は言いました。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』。そして『盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った』。彼の信仰とは、イエス様との出会いから、彼の常識的価値観を超えた言動に、示されているように思います。そして何より、単に目が見えることに留まらずに、これまでの『してもらいたい』という、言わばお客様のような、傍観者的な生き方から、神様の働きに用いられるように、もっと社会の当事者として生かされて行くことに、本当の生き方が示されていると気づかされた。ここに、彼の信仰が示されていると思うのです。だからイエス様はまず『行きなさい』とおっしゃられた。そして彼は『なお道を進まれるイエスに従った』。
このように一連の、バルティマイとイエス様とのやり取りを見て行く時に、何か流れるような歌の旋律が、響いて来るかのようなのです。実は今日の福音書の箇所の直ぐ後の11章は、イエス様がエルサレムに入城する場面で、その後、十字架に向かわれます。その11章9節には、入城されたイエス様を迎える人々の、賛美の声が記されてあります。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』。もはや讃美歌です。そして今日のバルティマイの言動の賛美は、何かこの讃美歌を、前触れするかのようにも感じるのです。
今日は1517年の、宗教改革を記念する日曜日です。また、1524年にルターが最初に賛美歌集を出版して、今年は『賛美歌誕生500年』の年なのだそうです。ルター研究所発行のルター新聞最新版は、この『賛美歌誕生500年』を特集しています。その巻頭言で、所長の江口先生が次のように書いておられます。『ルターの改革運動の目玉の一つは、礼拝における会衆の参加だが、それを具体的に言えば、会衆が讃美歌を歌うということである。讃美歌を修道士だけがラテン語で朗々と歌うのではなく、礼拝堂に集まった会衆全員が歌うのである。しかも自分の言葉(自国語)で歌うのである』。言わば、宗教改革を経て、沈黙を強いられていた会衆の賛美の心が声を取り戻し、神からの賜物である音楽が用いられて世界に神の言葉が輝いて行ったということです。この改革は、神の働きの傍観者のようであった人間たちが、まさしく当事者としてもう一度、用いられて行ったことを現わすものです。
バルティマイに与えられた『あなたの信仰』とは、もう一度、神を見上げて、神中心に生かされるものです。更にお客様ではなく、再び社会の当事者として、神の働きに用いられるように、造り変えられて行くものです。そしてその信仰は今も、主体的なキリストの教会の礼拝を通して、永遠に養われ続けられるのです。
今日は衆議院選挙の投票日でもあります。主イエス・キリストを通して与えられた信仰によって、この社会の当事者として、まずはこの投票に与ってまいります。