からし種 427号 2024年12月
全聖徒主日
『神の国から遠くない』マルコ12:28-34
今日の福音書の最初に『彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた』ということです。その、議論や立派なお答えとは何か。マルコ12章13節以下の『皇帝への税金』という小見出しの所と、18節以下の『復活についての問答』という小見出しの所とに、記されてあるものです。それぞれ概略を、見て行きたいと思います。
まず『皇帝への税金』という小見出しの所です。ここは、イエス様に反感を覚える人たちが、言葉尻を捉えて陥れようとした場面です。当時のユダヤは、ローマの植民地下にありました。それでユダヤ人は、ローマ皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかと、イエス様に尋ねたわけです。これは、治めるべきだと答えれば『異教徒で、自らを神の子と自称するローマ皇帝に、お前は忠誠を誓うのか。それは偶像崇拝の罪を犯す者だ』と、非難される可能性があります。一方、納めなくともよいと言ったら、ローマへの反逆者として、密告され逮捕されてしまう可能性があります。どっちに転んでも、イエス様には不利になるような、問いかけになっているのです。
ところがイエス様は、デナリオン銀貨を彼らと一緒に見て、皇帝の像が刻んであるので、皇帝のものだろうから、皇帝に返せばいいと言われたわけです。税金を納めるとか納めないとか、外見上の行為を見て、やれ偶像崇拝だの、反逆行為だのと、大袈裟過ぎやしませんか、とでも言いたげのようです。そもそもローマの治世下にあるわけですから、ローマの法律に従えば良いわけです。それをユダヤ教の律法に適っているか、とか言うわけですから、政治と宗教は土俵が違うでしょ、という冷静な判断です。どっちにしても、それらの行為が、それこそ『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして』ローマ皇帝に忠誠心を表しているのか、あるいは主なる神様に信じているのか、内面が問われるのではないかということです。
続いて18節以下の『復活についての問答』のところです。ユダヤ教の祭司階級に属するサドカイ派は、復活はないといっている人々です。そんな彼らが、生前に七人の男性と結婚をした女性について、それぞれが死んで復活したら、その女性は誰の妻になるのかと問うたのです。それに対してイエス様は、復活した者は『めとることもなく嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ』と答えました。復活を信じない者たちは、復活を、死んだ肉体が蘇生することのように考えていたのでしょうか。いずれにしても、この地上の生を基準にして、その延長線上で、復活のことや神様のことを考えようとしているようです。しかし、その出発点が違っているのです。復活は、地上の生の延長線上に置いてはいけない。それをすれば、復活後も、生前の生活をそのまま当てはめて、考えようとしてしまう。あるいは、地上になお生きている人間が、神様を礼拝しているのは、見て確認出来ることです。しかし、死んだ人間はどうなのか。でもイエス様は、死んだ人間も礼拝していると言います。それが復活して生きていることを、指し示していると言うのです。今日は図らずも全聖徒主日です。既に召された先人たちを偲ぶように、キリスト教会で定められている日です。そうやって、地上にいる者も、召された者も、一緒に礼拝に与っていることを確信するのです。
このようなイエス様との議論を聞いていて、もしかしたら、この律法学者は、これまで抱いて来た疑問を、イエス様にぶつけてみようと思ったのでしょうか。その疑問は『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』というものでした。当時のユダヤの掟には、しなければならないという戒めが248、してはいけないという戒めが365、合計613あったそうです。あれはしてはいけない、これはしてはいけない、あれをしなければならない、これをしなければならない、そんな毎日を送っていますと、何のためにこの戒めを守っているのか、自分のためなのかどうなのか、分からなくなってしまいそうです。今日の第一日課は申命記です。その6章10-12節に次のような言葉があります。『あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように注意しなさい』。この申命記の場面は、奴隷状態だったエジプトから、モーセが指導者として立てられて、約束の地カナンを目の前にしている状況の所です。そこでモーセを通して、約束の地に入った後の生き方を、神様が、戒めとして語ったのです。しかしその戒めの意味は『あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れない』ためだと言うのです。ややもすれば、物事がうまく行くと、さも自分たちの力で全てを勝ち取ったかのように、人間は錯覚してしまう。そうやって、神様のことを忘れてしまうと言うのです。
この時の律法学者も、そんな人間の状況を、意識し始めていたのでしょうか。そしてイエス様も、そんな人間の状況を見て取られた。それで、数ある掟の中で、最も大切な掟の二つを、第一は今日の申命記6章4-5節から、そして第二はレビ記19章18節から引用されたのです。それらは、大切と言うよりも、掟を守る意味を指し示しています。そんなイエス様のお答えに、律法学者は感銘を受け、こんな言葉も付け加えました。『どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています』。彼のこの言葉は、ホセア6章6節からの引用なのでしょう。すなわち『わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない』。目に見えて信仰深い振る舞いをするよりも、目に見えない愛と、神を知ることを、神様は喜ばれるのです。そんな律法学者に向かって、イエス様は言いました。『あなたは、神の国から遠くない』。
既に召された先人たちは、神の国に入られていると信じます。そして私たちも、キリストの教会によって、先人たちと共に礼拝に与っていることに信じつつ、今は、神の国から遠くないところに、居続けさせて下さいと祈り続けます。
聖霊降臨後第25主日
『見せかけ』マルコ12:38-44
先週の礼拝で与えられた福音書の箇所を、少し振り返ります。先週はマルコ12章28-34節からでした。神様は、様々な価値観が溢れる社会の中で、神様のことを忘れないように、たくさんの掟を与えられました。当時のユダヤの掟には、しなければならないという戒めが248、してはいけないという戒めが365、合計613あったそうです。あれはしてはいけない、これはしてはいけない、あれをしなければならない、これをしなければならない、そんな気の休まらない毎日を、ややもすれば、送ってしまいがちです。次第に、何のためにこの掟を守っているのか、分からなくなって行ったのでしょうか。一人の律法学者がイエス様の前に進み出て、質問したのです。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』。それに対してイエス様は、二つの掟を取り上げました。一つは申命記6章4-5節からでした。『わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。もう一つはレビ記19章18節からでした。『隣人を自分のように愛しなさい』。つまり神を愛し、隣人を愛する、というのです。
しかし、元々613もある掟を、必死で守っている人間は、それが出来ていると自分で思い始めますと、出来ている自分を誇るようになってしまいがちです。本来、神様だけが人間を、善いとか悪いとか、評価出来るものなのに、誇り始めた人間は、自分で自分を良しとするようになってしまうのです。それと同時に、掟を守っていないと思われる他者に対しては『あの人は、ダメな人間だ』と、裁いてしまいがちなのです。裁くことの出来るお方も、これは神様のみです。そうやって自分が神様のようになって、神様を後ろに退け、他者を裁いて見下して、優秀だと思う自分だけに酔いしれているのです。だからイエス様は、全ての掟の中で、あの二つの掟の『神を愛し、隣人を愛する』のが、他のどの掟よりも勝っているとおっしゃられたのです。
ところが今日の福音書では、まさしく『自分が神様のようになって、神様を後ろに退け、他者を裁いて見下して、優秀だと思う自分だけに酔いしれている』そんな人間たちを登場させるのです。ここでは律法学者ということです。『長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み』とあります。一見、余程自信のある人たちなんだなあ、だからここまで傲慢に振る舞えるんだなあ、と見てしまいます。もちろん、しっかりと律法を守ろうとしている人達であることは事実です。いわゆる熱心な信仰者なのです。ところが、そんな彼らの傲慢とも思える振る舞いを『望み』と聖書には記されてあります。実際に、目に見えるように、そんな傲慢な振る舞いをしていた人もいたでしょう。しかし表向きは、そんな振る舞いはしなくても『望み』と聖書が言うのに、むしろ私はドキリとします。実は自分も内心で、望んでいるだけだとしたら、望んでいませんとは言えないのです。人々の上位にあるように扱われれば、自分も快感を覚えるなあ、と思うからです。冒頭で申し上げた、先週の箇所に登場して、イエス様に質問した人も律法学者でした。それぞれ別々の律法学者だと思いますが、それでも人間は、少しでも誇れるものがあると思えば、神様のように振る舞い、他者を見下してしまうこともあるなあ、思わざるを得ません。
そんな教えをイエス様はされた後、神殿の賽銭箱にお金を入れる群衆の様子を見て話されました。『大勢の金持ちがたくさん入れていた』ということです。それぞれどんな思いでお金を入れていたのか、それは想像するしかありません。それぞれの信仰の思いで行われていたのでしょう。ただもし自分がその場にいたとしたら、入れられていたお金の、高額具合に目が向くと思います。『ええ、この人はこんなにも高額な献金をしたのか。すごいなあ』なんて思うのでしょう。そうやって、知らず知らずのうちに、高額献金者を称賛の目で見てしまうのです。恐らく今日の福音書の場面でも、そんな人間の“あるある”を、イエス様は念頭に置いていたんでしょうか。そして今度は、貧しいやもめの振る舞いに焦点を当てます。恐らくほとんどの人は、注目することは無かったでしょう。イエス様だけが注目された。
ここで次の聖書の言葉に目が留まりました。マルコ12章43節『イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた』。誰も注目することのない貧しいやもめです。弟子たちも同じだったでしょう。だからイエス様は敢えて、弟子たちを呼び寄せたのです。この貧しいやもめの振る舞いから、どうしても弟子たちに伝えたいことがあったからだと思います。『この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』。これを聞いて弟子たちは、何を思ったでしょうか。そして今この聖書を読む私たちも、何を思うのでしょうか。『とてもじゃないけど、自分は同じようには出来ないなあ。この聖書の箇所を、何とか別の意味に解釈できないだろうか』と、そんなふうにも思ってしまいます。
生活費を全て投げ出すほどに、神様に全幅の信頼を寄せて、必ず神様は助けてくれると信じている女性です。いずれにしても、すごい信仰だなあ、と思います。今日の第一日課でも、何も持たない貧しいやもめが、預言者のエリヤを通して語られた、神様の言葉に従って、食べ物が与えられたということが記されてあります。マルコ福音書では、誰がエリヤのように、この貧しいやもめに、神様の言葉を取り次ぐのでしょうか。今日の福音書は、貧しいやもめが、生活費を全部入れた、で終わっています。聖書独特の強い余韻が響き渡ります。この後、貧しいやもめはどうなるのか。この状況を特別に聞かされた弟子たちはどうするのだろうか。
弟子たちは『あなたの信仰はすごいですね。自分にはとてもそんな信仰はありません。頑張って下さい』と思うでしょうか。『すごい信仰だけれど、それはそれとして、とにかく彼女を助けるために、何か自分たちで出来ることをしよう』そんなふうに思ったでしょうか。『出来ることと言えば、そうだカンパを募ろう。ちょうど側に大勢のお金持ちもいるし、自分たちも出せるお金を出そうよ』そう思ったでしょうか。とにかくこの貧しいやもめの振る舞いから、周りの人間たちが動かされるものが働くのではないか。そうやってここでのエリヤの役割は、弟子たちが担うことになるのではないか。『見せかけの長い祈り』では、周りは何も動かされない。真剣に主なる神様に向き合う姿が、周りの人間たちを動かすのではないか。もちろん彼女本人は、そんなことを意図するはずも無い。しかし彼女と周りの人間たちの間で起こされることが、彼女にとっての、あの第一と第二の掟の現れになるのではないか。
教会によって、神様の言葉を取り次ぐように、見せかけを退け、神様の、動かされ動かす働きに、これからも与らせて下さい。
聖霊降臨後第26主日
『人に惑わされない』マルコ13:1-8
先週はエルサレム神殿の境内で、賽銭箱に人々が賽銭をする様子を、イエス様と弟子たちが見ていたという場面で、終わっていました。今日の福音書の直ぐ前の所です。そして今日の箇所は、その神殿の境内をイエス様たちが、出て行く時に一人の弟子が、次のように言ったということです。マルコ13章1-2節『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう』。これはエルサレム神殿の概観を語ったものです。当時の神殿の建物の高さは10m程で、奥行きは50m程、幅はそれよりも若干小さかったようです。ちなみにこの戸塚ルーテル教会の建物の高さは同じ10m程です。そして敷地は30m×40m位です。ですからこの戸塚教会の敷地以上の奥行きと幅で、高さ10m程の石造りの箱ものを、イメージしていただければと思います。そして白亜の大理石で積み上げられていたそうです。一つの大理石の大きさは、6m×12.5m×4mだったそうです。これらの石材を運ぶために1,000台の荷車が用意され、10,000人の熟練した職人が関わったそうです。ここで弟子が石や建物を見て感嘆したのは、何となく分かるような気がします。
そんな弟子たちに向かってイエス様は『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の意志の上に残ることはない』とおっしゃられたのです。実際40年位後に、植民地支配していたローマに、一部のユダヤ人が反乱を企てたことがあり、神殿は破壊尽くされました。しかし当時の弟子たちにとっては、他のユダヤ人たちも同じだったと思われますが、神様が住まわれる神殿が、破壊されるなんて、絶対にありえない事だと思っていたのでしょう。それで、もしそんなことが起こされるとしたら、それは人類の破滅の時、いわゆる最後の審判の時ではないか。すると、近々そのことが起こされるのだろうかと、思ったのかも知れません。それで、神殿の真向かいにあるオリーブ山に行った時に、四人の弟子たちが『ひそかに尋ねた』のです。マルコ13章4節『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか』。ここで『そのこと』というのは、直接的には神殿の破壊でしょう。そして『そのことがすべて実現するとき』というのは、神殿の破壊から始まって、地上にある全てのものが、清算されるような最後の審判のとき、ということでしょう。
今日の第一日課のダニエル書には、最後の審判のことが預言されています。このユダヤの伝統を引き継いで、イエス様もまた、最後の審判のことに言及されています。それは復活されて天に昇られたイエス様が、再び来られる時だとも言っています。そのイエス様が、審判を行うのです。キリスト教の歴史観は、始まりがあって終わりがあるという、一直線です。輪廻転生といった円環的には考えないのです。今日はキリスト教会独自のカレンダーでは、聖霊降臨後第26主日ですが、来週24日が今年の聖霊降臨後最終主日と呼ばれ、最後の審判を想定して、いわゆる終末を迎えるということになります。そして教会カレンダーは、その翌週の12/1日から、歴史をリセットするかのようにまた新しい年として、待降節と呼ばれる、救い主を待つ期節に入るように定められています。こうして教会カレンダーによって、それに沿う聖書の箇所が選ばれています。言わば教会教育のために、カレンダーが用いられているわけです。
さてこのマルコ福音書13章全体は、実はイエス様の再臨とか、あるいは最後の審判、あるいは終末と呼ばれる日のことに、イエス様が詳しく言及されている所なのです。そして今日の福音書の中でも、悲惨な戦争が続くし、方々に地震も起こるし、飢饉も起こる。それらから、あたかも世の終わりの如く吹聴して、人々を惑わすような偽預言者のごとき者も登場する。がしかし、動揺しないようにと、イエス様はおっしゃられるのです。結局、13章の最後の所でイエス様は、次のようにおっしゃられております。32-33節『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである』。いつ来るか分からないものに怯えて生きるのではない。今という一瞬一瞬を、むしろ大切に心を込めて生きて行く。そんな生き方が、イエス様の再臨という出来事から問われているのです。
目を覚ましていると言う生き方とは、もっと具体的にどんなふうに考えたら良いだろうか。今日の福音書の初めの所で、弟子たちが壮大なエルサレム神殿に感動していた時、イエス様はおっしゃられました。『これらの大きな建物を見ているのか』。つまり見えるもので、見た目で全てを評価してはいけない、と言うのです。それは人間の場合で言うと、相手の見栄えばかりではなく、むしろ自分自身に目を向けなければならないのです。自分の中にある見えないものを、正直に見据えて、そこから促されていることに、勇気をもって、行動して行こうということです。それからまた、見えるものを、絶対化してはいけない。いつも相対化するように『そういう見方もあるかも知れないけれど、こんな見方もあるよね』という声にも、謙虚に耳を傾けて行こうと言うのです。
先週、捜真幼稚園の公開保育に、朝9時半から夕方の5時まで、参加させていただきました。他の幼稚園の保育を、実際に保育室にまで入って、長時間、目の前で遊んでいる園児たちと過ごすというのは、なかなか経験した事が無かったので、それこそ自分が勤める園の事を、相対化させて観ることが出来ました。そしてそこに参加されていた、幼児教育がご専門の大学の先生が、終わりの挨拶で、次のようなことを話されました。『幼児の活動は、この後何が起こるのか、完全には予測出来ません。だからそこには不安も伴うでしょう。しかし、もし完全に予測出来たら、つまらない、興味も湧かない毎日になるでしょう。幼児教育は、不完全な予測の中で、揺らぎながら与って、その毎日の小さな成長に感動するところに、喜びがあるのではないでしょうか』。
私はこの言葉から、いつ来るかは分からないイエス様の再臨ですが、それを知ろうとすることよりも、何が起ころうとも必ず救うという、イエス様の約束の言葉に信じながら、落胆したり、疑ったり、揺らぎながらも、この毎日の中で、気づかされる小さな変化に共感し、喜びとして生かされて行くように促されて行きたいのです。
聖霊降臨後最終主日
『真理に属する人』ヨハネ18:33-37
先週も予告しましたが、今日は、教会独自のカレンダーでは、一年の大晦日の主日になります。キリスト教の歴史観は、始まりがあって終わりがあるという、一直線だと申し上げました。今日は聖霊降臨後最終主日と呼ばれる主日ですが、いわゆる歴史の終わりを告げる、終末の日を想定しています。イエス様が復活されて天に昇られる時、同じ姿でまた天から来られると言われました(使徒1:11)。この再び来られることを、イエス様の再臨と呼んでいます。その際に、最後の審判と呼ばれる裁きが行われ、悪いものの最終的な断罪が為されるというものです。その再臨のイエス様による、最後の審判について語られるのが、今日の第二日課のヨハネの黙示録になります。
そのヨハネ黙示録の19章16節には次のように記されてあります。『この方の衣と腿のあたりには、王の王、主の主、という名が記されていた』。再臨のイエス様は『王』だと言います。今日の聖霊降臨後最終主日のことを、教会カレンダーでは『永遠の王キリストの日』とも呼んでいます。どこの国の王だと問われれば、聖書によれば『神の国』ということになるのでしょう。それで今日の福音書は、永遠の王なるキリストとは、どのような王なのか。その王に対する人間たちの、相応しい姿はどのようなものなのか。質されるところです。
まず今日の冒頭の言葉が興味深いです。ヨハネ18章33節『そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、お前がユダヤ人の王なのか、と言った』。この場面は、直接的にはイエス様が十字架に掛けられる、その直前の場面です。イエス様に反感を抱くユダヤ人たちが、当時ユダヤを植民支配していたローマに対して、イエス様が反乱を企て、ユダヤ人の王にならんとしていると、ローマ総督のピラトに、嘘の訴えを起こした場面なのです。それでピラトは尋問し、本人の自白を促したわけです。ここで『ピラトはもう一度官邸に入り』とありました。イエス様を訴えるユダヤ人たちは、官邸に入らずに外にいたからです。ヨハネ18章28節に、次のように記されてあります。『しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである』。この時は、大切なユダヤ教の祭りである、過越祭の最中でした。異邦人の官邸に入ることは、宗教的に汚れることを、ユダヤ人たちは恐れていたわけです。そうやって汚れを免れていると思うユダヤ人たちが、イエス様を陥れるというのです。それが本当に、本当の汚れを免れていることになるのだろうか。ピラトはピラトで、官邸を出たり入ったりしながら、さも自分はこの訴えの結果には、全く責任がないかのように振る舞うのです。
この場面に至るまでにも、イエス様を何とか貶めたいと思う人間たちとの、興味深いやり取りが記されてあります。イエス様が様々な宣教活動をされた中で、その教えから何とか言葉尻を捉えて、貶めようとしたわけです。がしかし、最後までその尻尾を掴めなかった。それでも無理やりに、ピラトの所まで連行して、ローマの法律にある十字架の死刑判決を、イエス様に課そうとしたわけです。当時の現職のユダヤ教大祭司はカイアファでした。その前任は舅のアンナスでした。しかし聖書に記されている大祭司が、カイアファなのかアンナスなのか、曖昧なのです。その場その場の人間の都合で、大祭司の権威が振りかざされているようです。そんな大祭司の権威で、イエス様を尋問したように思える場面があります。ヨハネ18章19節以下です。その尋問に対するイエス様の応答が興味深いのです。所々引用します。『わたしは、世に向かって公然と話した。・・ひそかに話したことは何もない。・・何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい』。『わたしは嘘も隠しもない』という、ありのままの毅然とした、イエス様の姿勢が強く印象に残ります。一方人間たちは、嘘で嘘を塗り固めながら、人間の都合で造り上げられた“真実”を振りかざすのです。
今日の場面のピラトの尋問の姿勢も、本当の真実を知ろうとせず、本当の自分の思いをも、覆い隠しているようです。自分が語る言葉で、何か責任が生じないように、誰かに事の責任が負わせられるように、という気持ちがありありなのです。そして最後にイエス様が言いました。『わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』。それに対してピラトは『真理とは何か』と尋ねました。ここで聖書はいつものように、強い余韻を残して、一つの区切りになっているのです。そうやって今度は、この聖書を読むあなたが思う真理とは、何だと思いますか、と問われるのです。
『真理』と訳されている原文のギリシア語は『アレテイア』と発音します。辞書には『真実・ありのまま・覆いが無い』と説明されています。先程の、イエス様が尋問を受ける中で応えた『わたしは、世に向かって公然と話した。・・ひそかに話したことは何もない』という姿勢そのものです。一方、そんなイエス様に対峙した、周りの人間たちの姿勢は真逆です。本当の自分を隠し続けて、自分は傍観者のようになって、責任のなすり合いを続けているのです。まさしく『真理』からは程遠い人間の姿です。ピラトとのやり取りの中で、次のようなイエス様の言葉がありました。36節『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない』。それは嘘も隠しもない、ありのままの本当の、絶対的な真理に目をつぶり、自分たちの都合の良い真理によって、時に力と力でせめぎ合う、そんなこの世の国の姿を思い起こさせます。『抑止力』とか『敵の敵は味方』だとか、そんな声も聞こえて来ます。今も、日本も含めて世界中の国と国もまた、真理からは程遠い『脅し』と『駆け引き』で、見た目の平和を保とうと、苦心惨憺しているように見えるのです。
冒頭で黙示録に言及しました。『黙示』とは『啓示』とも言いますが、その意味は『覆いを取って真相を示す・神が人にご自身をまた真実を現わされること・覆われていた神の真理、神の愛などが、神の側より現わされること』と説明されます。特にローマ16章25-26節に、著者のパウロは次のように書いています。『神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現わされて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン』。
11月21日付けの日経新聞の『春秋』というコラムに、次のような事が書かれてありました。所々引用します。『同じ情報に繰り返し接していると、それがだんだんと真実に思えてくる。真理の錯誤効果と呼ばれる脳の働きだ。・・これに目を付けた政治家は数多いとされる。ヒトラーは主著、わが闘争、で、政治的スローガンは反復が重要と説いた。・・知らぬ間にウソを刷り込まれては困ってしまう。それでなくとも情報が偏りがちなSNS時代である。・・SNSで本当のことを知った。最近の選挙で、よく聞かれる声である。・・受け取る情報は真実か、それとも自分の脳の偏りか。どんな立場に立つにせよ、冷静に疑ってみる。そんなひと呼吸があってもいい』。
今日の福音書の一番最後の言葉を、もう一度引用します。『真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』。この人たちこそ、キリストの教会です。教会によって、キリストの声に聞き、神の国の王なるイエス・キリストの、愛と平和の兵士とさせて下さい。