からし種 429号 2025年2月
『わたしにしてくれたこと』マタイ25:31-46
今日の福音書の中でイエス様は、次のように言います。『私たちが生きている時に、様々な困難な状況にある人を、それぞれの場面で助けた時、それはイエス様ご自身を、助けたことになるのだ』と。助ける際に、助けられるこの人は、イエス様ご自身なのだと、意識する人はまずいないと思います。意識したとしたら、何かいやらしい自分を見ます。大概は純粋に、その人を助けたい、ただそう思って、出来ることを果たすだけなのでしょう。いずれにしても、助けられるのはイエス様のようですが、ある面、そのようにして共にいて下さる、そういうイエス様なんだなと思います。
今日はまさに1年前のこの日の、午後4時10分頃に、能登半島地震が発生しました。まだまだ支援活動が必要ですし、そのために大勢のボランティアの方々も、携わっておられます。また今月の1月17日は、30年前の阪神淡路大震災が起こされた日です。この時にも、大勢のボランティアの方々が、支援活動に携わりました。この年がボランティア元年とも、呼ばれるようになりました。被災者の方々のために、自発的に大勢の人々が連携して、支援活動に携わる働きもまた、イエス様ご自身を助ける事だとも、聖書は言っているように聞きます。更に言えば、このような支援活動の輪の中にこそ、イエス様が共におられ、イエス様も働かれていると思うのです。
そんな風に、言わば非日常的とも思える出来事の中に、共にいて下さるイエス様だと示されますが、実は、日常という全ての時の中に、イエス様は共にいて下さるのではないか。先週までクリスマスの出来事を、聖書から聞いてまいりました。それに立ち会った、何人かの人たちが、印象深いのです。野原で羊の番をしていた羊飼いたちに『あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである』と、天使から告げられた場面です。続けて天使は次のように言いました。ルカ2章12節『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』。飼い葉桶は羊飼いたちにとっても、馴染み深いものです。逆にそうでは無い人たちにとっては、汚くて近づくのも避けるようなものです。羊飼いだからこそ『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と、言えたのではないか。そして『見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った』という。可愛い羊たちの所へ帰り、羊飼いの仕事に、更に精を出すように、導かれて行ったのでしょう。このことから、毎日、飼い葉桶を触って見つめながら、羊を愛し守り続けるという、日常の羊飼いの仕事を通しても、主イエス・キリストが共にいて下さるのだなと、そんなふうに示されます。
更に同じように、日常の中に主が共にいて下さることを、示される人物たちがいます。それは東から来た占星術の学者たちです。彼らは仕事である星の研究を、熱心にして来た者たちでしょう。そしてある時、不思議に光る星に出会い、文献書物からユダヤ人の王のしるしの星だと示された。ひたすらその導きに従い続けて、救い主としてお生まれになった、イエス様に出会いました。そしてまた、自分たちの国へと帰って行きました。そして、占星術の仕事という日常に、これまで以上に熱心に与って行ったのでしょう。どんな人間も、与えられた賜物をもって、与えられた仕事や使命に、熱心に携わって行く中で、主イエス・キリストが共にいて下さることに、気づかされることを、この占星術師たちの行動を通しても、示されるのです。
毎週土曜日の日経新聞朝刊に『これが最後の晩餐になると言われた時、あなたは何を食べますか』という質問に、各界で活躍されている人たちに、答えてもらうコーナーがあります。毎週一人づつ取り上げられているわけですが、先週12/28日は女優の、吉田羊さんが答えられた記事が、掲載されてありました。食べ物のことばかりでは無くて、ご自分の家族のことや、これまで辿って来られた、人生の事なども書かれてあります。吉田羊と言う名前は、芸名なのかどうかは分かりません。ただ、お父さんが牧師で、お母さんは幼稚園教諭だそうです。ですから、本名かも知れません。そのお母さんから言われたという言葉が、印象的でした。そこの文章を引用します。『母は悩む吉田さんに、新しい視点を与えてくれた。思い出すのは中学生のころ、友人からのいじめを相談した際の母の教えだ。あなたにいま必要なことを相手は教えてくれているのかも。私、何か至らない点があったかしら?って聞いてみたら?どんな相手からも学ぶことができる、という思考の変換、逃げず対話する姿勢は映画の、・・虐待する母親を演じた際にも役立った』。ちなみに、吉田さんの最後の晩餐は、炊きたての土鍋ご飯と納豆だそうです。人間関係や毎日の出来事でも、出来れば避けたい、起こってほしくないと、思うものもあります。それでも、それを通して神様は、こんな自分に何を伝えようとしているのか、それを思い図る毎に、実はそこを通して、主イエス・キリストは、共にいて下さると、改めて考えさせられています。
先日ふっと牧師室の天井を見上げ、ペンキ塗りの刷毛の後や、ところどころペンキがみ出している所などを、眺めていました。私がこの教会に来たての頃に、既に召されておられますが、ある教会員の方が塗って下さったものです。その他にも、何か所か、バタバタっと、建物の中や外周りの、修繕をして回って下さいました。来たばかりの自分には、大いに励まされたことでした。その方はきっと、ずっと気になっておられて、いつかやろうと、思われていたんだなと、今になって改めて、思い返しております。奉仕して下さった方を、美化するわけではありませんが、それらのご奉仕は、イエス様がこの私に、して下さったものなのかとも、今改めて、考え直しています。今日の聖書の、イエス様の言葉とは真逆な私ですが、イエス様がして下さった事に、少しでも応えて行くように、思いを新たにさせられています。
キリストの教会によって、必要な時に必要な人を送ったりして、共にいて下さる主イエス・キリストに信じ、その主にこんな私も用いられて、応えさせて下さい。
顕現主日
『この方が神を示された』ヨハネ1:10-18
明日6日は教会独自のカレンダーでは、主の顕現日です。そしてその日に最も近い日曜日が、本日の顕現主日となります。この主の顕現日とは、誕生したイエス様が、ユダヤ人以外の外国人に、初めて現わされたという日です。聖書ではマタイ福音書2章1節以下にあります、東から来た占星術師たちが、その外国人にあたります。そして明日6日までがクリスマスの期間とされます。
顕現日の由来についてですが、以下の通りです。第三世紀初頭頃から、エジプトにいるキリスト教徒の間では、この6日をイエス様の顕現日とし、その日に、イエス様の誕生と洗礼を、お祝いしていたということです。元々、エジプトの土着宗教の神様のオシリスが、その栄光の姿を顕現した日としてお祝いされていたものを、キリスト教が拝借したようです。一方、ローマを中心とした、いわゆる西方教会では、ゲルマン民族の光の神様の誕生を、冬至の頃にお祝いしていたのを拝借して、12月25日をイエス様の降誕日とした、ということです。いずれも土着の宗教との関りから生まれた記念日になります。特に西方教会では、12月25日は主の降誕日とし、1月6日は主の顕現日として、定めて行ったようです。その名残でしょうか、エジプトやギリシアを中心とした、いわゆる東方教会をルーツとする、ギリシア正教やロシア正教では、今も1月6日を、クリスマスとしてお祝しています。これらのことから興味深いのは、ユダヤ人の間から、次第にキリスト教が、いわゆる異教世界に伝道されている中で、土着の人々が守って来た、風俗習慣を取り込みながら、キリスト教文化と呼ばれるものが、形作られて行ったことです。ややもすればキリスト教的ではないと言って、いわゆる異教的なものを排除したり、厳しく裁いたりするとしたら、果たしてそれでいいのかなと、改めて考えさせられています。裁くお方は、主イエス・キリストの神様です。人間ではない。様々な宗教、文化、風俗、習慣があります。そういうものと、どのように向き合って行くのか。特に現代に生きる私たちは、強く問われているように思います。
今日の福音書の次の言葉に、まず注目させられます。ヨハネ1章12-13節『しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである』。ヨハネ福音書が言う『言』とは、イエス様のことです。ですから続けて、14節で次のように記します。『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた』。まさにヨハネ福音書が言う、クリスマスの出来事です。イエス様を信じる者には、神の子となる資格を与えた。それは血統的にユダヤ人だからでもない。割礼を受けてユダヤ人になったからでもない。人間的な親密友好関係や取引によってでもない。神の子となるとは、神が神の子とするから、神の子だと言うわけです。
ヨハネ福音書の1章1節には、次のように記されてあります。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった』。これは旧約の創世記1章の、天地創造の時の言葉です。人もまた、神の言によって造られた者だと言います。ですから、元々人とは、神と繋げられているから人だと言うわけです。人は単独では、人ではない。これが聖書の人間観です。そして今日ヨハネが言う『神の人』とは、この天地創造の時のままに、神様と繋げられている元々の『人』のことを言います。そして、この神様との繋がりを離れた人、あるいは元々の、神様との繋がりが無かったかのように振る舞う人、これを創世記は、あのエデンの園から出て行ったアダムに見ます。ではどうすれば、元々の造られた時のままの『人』になれるのか。ヨハネはイエス様を受け入れ、イエス様のお名前を信じる人だと言います。
ただその際に、神様との繋がりから、自分は離れている者だと、気づかされなければなりません。そしてまた、神様との繋がりが無かったかのように、自分は振る舞ってしまっている者だと、気づかされなければなりません。更には、アダムが造られた時、神様の霊が吹き入れられて、生きる者になったと創世記は記します。ですからここでもう一度、神様の霊を受けなければなりません。その働きについても、ヨハネは次のように記します。ヨハネ3章3、5節『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。・・だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない』。キリストの教会の、イエス・キリストのお名前による洗礼です。そうやって、神の国の住人である『神の子』とさせていただくと言うのです。
そしてまた今日の福音書の中で『恵みと真理』という言葉がペアで、二回出てまいります。『恵み』とは、イエス・キリストによる救いが無償で、資格や宗教的限界を超えて、すべての人に及ぶ、という意味です。特別な民族や人種に限定されないということです。そして『真理』とは、神の真実がイエス様の中に示されている、という意味です。ですから今日の福音書の最後に『この方が神を示された』と言うのです。これらの恵みと真理のイエス様による聖霊の救いについて、今日の第二日課のエフェソ1章13-14節では、次のように記されてあります。『あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです』。
最後にヨハネ福音書1章4節を引用します。『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった』。イエス様の言葉は、人間を照らす光だと言います。それで、ポーラ化粧品の社長の及川美紀さんが、3週間程前に新聞に書かれていたことが思い起こされました。所々引用します。視覚障害の方に案内される形で、暗闇での活動やコミュニケーションをする『ダイアログ・ダイバーシティミュージアム』という所での体験談です。『・・建物の中は本当の暗闇だった。・・真っ暗闇では自分が何もできず、無防備な状態であることを即座に理解した。怖いときは怖いと言ってください。声に出して言ってくださいね。案内役をしてくれた視覚障害の方の言葉で雰囲気が一変する。・・最初は声を出すのが恥ずかしいと思っていた人もいたが、みんなの声を聞いているうちに互いの距離は縮まり、助け合い、そのうちに連帯感すら生まれていた。顔が見えない、表情もわからない。話さないと伝わらない。だからこそ、素直に言葉にする。そして相手の話も素直に聞き入れる。暗闇の中ゆえに、素の自分をさらけ出し、相手とつながることができたと感じた』。これは実際の暗闇の中での体験談です。一方、見た目は暗闇でもなんでもない、ただ自分が見ようともしないから、そこは暗闇のようになっている。そこに素の自分が置かれて、イエス様の言葉の光に照らされる時、見るべきものと、聞くべきものに、気づかされて行く。そんなことを考えさせられました。そしてそれを、悔い改めと言われるのかも知れません。
キリストの教会によって、イエス様の言葉に聞き続けます。
主の洗礼日
『イエスも洗礼を』ルカ3:15-17,21-22
先週は教会独自のカレンダーでは『顕現主日』でした。これは1月6日が『主の顕現日』で、それに最も近い主日だから、ということでした。主というのはイエス様のことです。そのイエス様が誕生した頃に、ユダヤ人以外の外国人に、初めて現わされた日という意味で、今は『主の顕現日』と呼ぶように定められております。その元々の由来については、エジプトの土着宗教神であるオシリスが、その栄光の姿を現された日として、1月6日にお祝いされていたものを、エジプト地方にも広まっていた初期のキリスト教会が、その日を拝借して再解釈したところからだと、申し上げました。それで最初の頃は、1月6日を『主の顕現日』と名付けつつ、イエス様の誕生と洗礼を、同時にお祝いしていたようです。どちらも世に顕現されたことと解釈するからです。その後、誕生日と顕現日と洗礼日は、別々の日に定められるようになりました。先週の顕現主日に続いて今日が、主の洗礼日と定められております。
この顕現日の由来から考えますと、イエス様の顕現の当初の意味は、その存在が顕現されたことと、同時に何者であるのかが顕現されたという、二重の顕現の意味が込められているようです。そして、顕現日から独立して定められた、イエス様の洗礼の意味は、何者であるのかが世に顕現された、そんなふうに考えられます。今日のルカ福音書3章22節には、その何ものかが、天からの父なる神様の声を通して、示されています。『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』。この時イエス様は、民衆と一緒にバプテスマのヨハネによる、悔い改めの洗礼を受けていました。それはイエス様が、悔い改めを必要とされていたというよりも、自らの身をもって、民衆と一体となる洗礼を、自分は授ける者だと示されるようです。そしてむしろ大切なことは『聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た』というのです。ルカ3章16節で、バプテスマのヨハネがイエス様の登場を前触れして、次のように言いました。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、・・その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』。聖霊と火で授ける洗礼とは、熱い火のような聖霊で、人が熱くなるような洗礼だというのです。そんな聖霊がイエス様の上に降ったとは、聖霊とイエス様は一体なのです。そしてイエス様の聖霊の洗礼を、イエス様と一体となって、私たちが授けられる意味は、私たちもまたイエス様と同じように、洗礼を受ける私が何者であるのか、それを世に顕現する者になる、ということです。それは別の表現で言えば、宣教する者になるということです。そんなふうに聖霊は、まさに私たちとイエス様とをつなぐものなのです。
そしてここでもう一つ大切な事があります。バプテスマのヨハネの洗礼は、悔い改めの洗礼です。ですから多分に、個人的なものです。自分が悔い改めれば、それで良しとします。ところがイエス様の聖霊の洗礼は、宣教するものになるわけです。ですから、もはや個人的なものには留まりません。自分さえ救われればそれで良し、とは言わない。皆の前で、洗礼を受けていること自体が、そこで神の救いの出来事を顕現している。ですから、既に宣教しているわけです。更には、火のように熱い聖霊を受けてしまうわけですから、居ても立ってもいられない。だから世に顕現するように、出て行って宣教するのです。
更にここで気を付けなければならないことがあります。今日の第二日課は使徒言行録8章14-17節からです。イエス様が死んで復活した後、聖霊によって、信徒の群れであるキリスト教会が与えられます。使徒言行録はそのキリスト教会が、ギリシア、ローマ世界に宣教して行く過程での、出来事を描くものです。今日の箇所の少し前の、9節を引用します。『ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた』とあります。13節にはそのシモンが『信じて洗礼を受け』たとあります。更にはエルサレムから派遣された使徒のペトロとヨハネが、聖霊を受けていない人たちの頭に手を置いて、聖霊が与えられるのをシモンが見て、金を持って来て次のように言ったというのです。19節『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください』。このようなシモンの姿を通して、聖霊の洗礼と、聖霊の無い洗礼との違いが示されます。聖霊が下されていなかったシモンは、相変わらず人間的な能力や財力を誇り、神を信じると言いながら、結局、人間や自分や、神以外のものを信じているに過ぎないものであった。
いわゆる信仰のことも、信仰があるとか無いとか、気にしている限りは、結局、自分の力で信仰を、無意識にもコントロールしようとするかのように、相変わらず人間的なものに、振り回されていることになります。今日の使徒言行録8章25節で、エルサレムから派遣されて来た、使徒のペトロとヨハネが『サマリアの村で福音を告げ知らせ』た、と記されてあります。その『福音』とは何か。イエス様だ、イエス様の十字架の死と復活だ、行いに拠らず、ただ信仰のみによる救いだとか、色々な告白があります。今日は次のように告白します。『信仰があるのか無いのか、あやふやな自分です。それでも主よあなたは、こんな自分を救って下さる』。ここに福音と、それを信じる信仰が示されます。
次の聖書箇所が思い起こされます。それは同じルカ福音書23章41-43節です。ここはイエス様が、他に二人の犯罪人と一緒に、十字架上で処刑される場面です。その中の犯罪人の一人とのやり取りです。『我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。そして、イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください、と言った。するとイエスは、はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる、と言われた』。この犯罪人の言葉には、いわゆる崇高な信仰の言葉も知識も感じさせられません。せいぜい御国という言葉が、それらしく聞こえる程度です。それだって広く一般に、善い人は天国に行きます、みたいに使われている程度のものです。そしてイエス様も『よし分かった。今から奇跡を起こして、お前を楽にしてやるぞ』とは言わない。楽園という言葉を使いながらも『あなたは今日わたしと一緒にいる』と言うだけです。実に素朴です。だからこそ、一対一でイエス様が、こんな私と丁寧に向き合って下さっている、救いの温かさが伝わって来ます。ここに福音が示されている。そして人間では思いもつかない信仰が示されている。
キリストの教会によって、イエス・キリストの聖霊の洗礼に、心から感謝し、その主に応え続けさせて下さい。
顕現後第2主日
『最初のしるし』ヨハネ2:1-11
今日はヨハネ福音書からですが、その1章1節を引用します。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった』。ここから、旧約の創世記1章に描かれる出来事を、思い起こさせられます。神が語られる一つ一つの言葉によって、天体や陸地、海、植物、動物、そして最後に人間が造られたという、天地創造の出来事です。特に人間の創造に注目して、これを人間の第一の創造と呼ばれます。神の言葉によって造られた人間ですが、神様の言葉の戒めを破ることで、結局、人間にとって、神様が棚上げ状態になり、自らが神であるかのように、振る舞うようになってしまった。聖書はこれを、人間が罪の状態にあると言います。そんな罪の状態から人間は、本来の人間へと、もう一度造り直されなければならないと聖書は言います。これを人間の第二の創造あるいは再創造と呼びます。あるいは別の表現で『罪の赦し』とか『救い』と、聖書から聞きます。今日の礼拝のテーマを示す『主日の祈り』では『あなたの愛の霊によって造り変えてください』と祈りました。そこで今日は、人間の造り変え、あるいは再創造を、聖書から聞いて行きます。
冒頭で創世記1章の、第一の創造のことを申し上げました。第一の日から始まって、第六の日まで創造が続き、第七の日に神様は休まれたというものです。ヨハネ福音書1章の、29節、35節、43節を見ますと『その翌日』という言葉が、繰り返されています。そして今日の箇所の、2章1節には『三日目に』とあります。これらの日付を、1章19節の『ヨハネの証しはこうである』というところを前書きとし、29節を一日目として考えて行きます。そうしますと、今日のヨハネ2章1節の『三日目』は『6日目』になります。19節の『ヨハネの証し』のヨハネとは、イエス様の登場を先触れした『バプテスマのヨハネ』のことです。そして、イエス様が何者であるのかというヨハネの証しの核心は、1章29節に、次のように記されてあります。『その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』。こうしてヨハネ福音書での、この『6日間』は、人間の再創造だけに集中する期間として、それぞれの人間たちのイエス様との出会いがあり、弟子となる中で、罪が取り除かれて、第二の創造への道を歩む人間たちを描くようです。
今日の福音書はそんな弟子たちが、イエス様と共に、ガリラヤのカナでの婚礼に招かれたという場面です。何故、ガリラヤのカナで、婚礼の場面なんだろうか。どんな必然性があるのだろうか。そこで今日の箇所の直ぐ前の所に、ナタナエルという弟子が、イエス様と出会った場面が記されてあります。この出会いの場面は、他の弟子たちの場合と比べても、結構長いです。彼は最初、自分の聖書知識から『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と、仲間の弟子のフィリポの話を、否定的に受け留めます。しかしイエス様と会話を続けて行く中で、少しづつ、受け入れられるようになって行った人です。そして出会う前から、イエス様に知られていたことも注目させられます。そのナタナエルの出身地が、ヨハネ21章2節には、カナだと記されてあります。他の弟子たちも大なり小なり、ナタナエルのように出会う前から知られており、否定から肯定へと次第に、造り変えられて行ったのでしょう。そういう意味で、カナは第二の創造の、象徴的な場所のようです。そして人間の第一の創造では、創世記1章27-28節に、次のように記されてあります。『神は御自分にかたどって人を創造された。・・男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』。婚礼は人間の、第二の創造を象徴するようです。
そしてこの婚礼の場でイエス様は『最初のしるし』を行ったということです。ヨハネ福音書が言う『しるし』とは、いわゆる『奇跡』のことです。今日の場面で、どんな奇跡が起こされたのか。真っ先に目に付くのは、大量の水がぶどう酒に変えられたことです。しかし興味深いのは、それが奇跡だと知る者は、召し使いたちだけのようです。他に考えられる、奇跡らしきものは何か。世話役が、花婿を呼んで言った言葉があります。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました』。『こんなことをする人間がいるのか』と思った世話役にとって、その花婿の存在が奇跡なのかも知れません。
そして最後に、2章11節には次のように記されてあります。『イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた』。弟子たちがイエスを信じた理由は、イエスが現わされた栄光に触れたから、というのです。そしてその栄光は『最初のしるし』を通して、現わされたということです。弟子たちもまた、大量の水が、ぶどう酒に変えられたと、後で伝え聞いて、それがイエス様の栄光を現わすものだと思ったのでしょうか。『最初のしるし』と思われるものが、大量の水がぶどう酒に変えられたことだとしても、それが人によって、奇跡になったり、ならなかったり、絶対的では無いことも、今日の場面から考えさせられます。それでも、一つ言えることがあります。いずれにしても『弟子たちはイエスを信じた』と言います。これが『最初のしるし』ではないのか。人間の第二の創造こそ、奇跡なのではないか。
それにしても、弟子たちがイエスを信じたという、イエスの何を信じたのだろうか。明確に記されてないので、また色々に考えさせられます。ものすごい奇跡行者のような人だ、と信じたのだろうか。あのバプテスマのヨハネが『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』と指し示した、そのようなお方だと信じたのか。あるいはイエスが、栄光あるお方だと信じたのであれば、その栄光とは何なのか。
そこで今日の場面に、もう一つ不思議な言葉があります。それは、ぶどう酒が無くなった時の、イエス様と母マリアとの会話です。2章4節『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』。突き放すような、イエス様の応答です。そこでこんなふうに考えます。『私が何者なのか、誤解の無いようにして下さい。あなたがたが知るべき、本当の私の栄光が現わされる時は、まだ来ていないのです』。『弟子たちはイエスを信じた』その通りでしょう。でも、イエス様から示されて、知らされるべきものは、この場面だけからではない。弟子たちの信仰への道は、あるいは再創造の道は、これからも続くのです。そして今ここで、この福音書を読む私たちにとっても『あなたの信仰への道は、同じようにこれからも続くのです』という声が、余韻のように、今日の福音書の全てから、伝わって来るのです。
キリストの教会によって、第二の創造の第六の日の終わりまで、一人一人に相応しい歩みを、主よこれからもどうか導き続けて下さい。