からし種 431号 2025年4月
変容主日
『栄光に輝くイエス』ルカ9:28-36
今週の水曜日5日から、今年は、教会独自のカレンダーでは、イエス様の十字架の苦難を想起する、四旬節に入ります。それはイースターの前の週まで続きます。四旬とは40日という意味です。イエス様の復活を記念する今年のイースターは、陰暦に則って4/20日になります。そこから6回の日曜日を除いて40日遡りますと、3/5日になるわけです。そしてその週の日曜日は、必ず変容主日と呼ばれています。今日の説教題にも関係しますが、イエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いて、イエス様が変容した、というわけです。
『栄光に輝くイエス』ということですが、改めて『栄光』とは何だろうか。『栄光』と訳されている、原文のギリシア語は『ドクサ』と発音します。その意味を辞典で調べますと『意見・評判・称賛・栄誉・栄光・尊厳・完全さの輝き・視覚的な輝き・壮麗』と出ていました。これらの意味から、私なりに、大きく二通りに分けられると考えました。一つはその存在とか性質が偉大だということ。もう一つは視覚的に、この世に無い輝きを放っているということ。今日の第一日課の出エジプト34章29節以下は、モーセに率いられて、エジプト脱出を果たしたユダヤ人ですが、その途上でモーセが、シナイ山で神様から十戒を与えられた時の場面です。モーセが神様と語っている間に、モーセの顔の肌が、光を放っていたというのです。山から下りた、そんなモーセを見たユダヤ人たちは、彼の顔の肌が光を放っていたので、恐れて近づけなかったということです。この場面の光は、父なる神の栄光を指すのでしょう。ですから視覚的なものとして描かれています。ユダヤの人々は、父なる神様の栄光を、直視することが出来なかった。モーセだけが、それを赦された。だから、山から下りたモーセは、神様の栄光を映し出すように、光を放っていた。しかし、人々はそんなモーセを見ることを恐れたので、彼はその顔を覆い、神様の言葉を人々に伝えたということです。
今日の福音書の場面で、いくつか記されてあります『栄光』は、存在的なものなのか、視覚的なものなのか、両方が入り混じっているものなのか。まず『栄光』という言葉は使われていませんが、先程引用した『イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた』ということから『栄光に輝くイエス』と言っている。その栄光とは、真っ白に光り輝くイエス、ということなのでしょう。視覚的です。それから31節に、モーセとエリヤが『栄光に包まれて現れ』たと、記されてあります。モーセのことは先程触れましたが、聖書の律法を代表する人物と言われます。エリヤは聖書の預言者を代表する人物と、言われて来ました。ですから二人が同時に、ここに存在しているということは、聖書そのもの、あるいは神の言葉そのものを指し示している、とも言えるでしょう。そうしますと、二人が栄光に包まれているという時には、ここは『真っ白に光り輝いている』という視覚的なことよりも、むしろ彼らの存在が偉大だということ、そして彼らを通して、父なる神様が現わされている、そういう彼らの『栄光』だと示されます。
そして今日の福音書の、もう一つの箇所、ルカ9章34-35節。『ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け、と言う声が雲の中から聞こえた』。ここは『栄光』と言う言葉は、使われておりません。しかし、神様の偉大な存在を指し示している『神の栄光』の個所です。『弟子たちは恐れた』というのは、その存在を恐れた、と考えられるからです。それから、今日の第一日課は出エジプト記からですが、その24章15-16節には、次のように記されてあります。ここはモーセがシナイ山に登って行く場面です。『モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた』。このように聖書では、よく雲を用いて、神様の偉大な存在が描かれています。そしてそれを『神の栄光』と表現しています。
更にここで、ルカ9章36節『その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた』とあります。天からの神様の声と、イエス様だけという、何気ないような聖書の言葉です。しかし、むしろ今日の変容主日の聖書から聞く結論は、ここに示されていると思うのです。栄光という言葉にこだわって、今日はいくつかの、聖書箇所を見てまいりました。弟子たちはイエス様の栄光を、どちらかと言うと、視覚的に捉えていた。神の存在としての栄光を、果たしてイエス様から見ていたかどうか。むしろモーセやエリヤを通してだけ、神の偉大な存在としての、神の栄光を見ていたのではないか。だから最後の、モーセとエリヤの二人が、雲に包まれて行くのも、ここは自然に、神の偉大な存在を意識させられた。雲の存在も大きかった。だから定番のように、『弟子たちは恐れた』。
変容のイエス様を通して弟子たちは、この時ばかりは、真っ白に光り輝くイエス様を通して、神の偉大な存在を、垣間見たかも知れません。しかしそれは、モーセやエリヤを通して程には、強烈ではなかったかも知れない。しかし今日聖書は、そんな弟子たちに向けて、敢えて最後に『その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた』と記します。イエス様が、視覚的にはどんなお姿であろうとも、いつでもイエス様だけを通して、更にはイエス様の言葉によって、私たちは偉大な神の存在を、知ることが出来る。たとえ十字架上の主であっても。
そして今日の第一日課は、モーセが自分の顔に覆いをして、人々に神の言葉を伝えたということでしたが、今日の第二日課は、次のように記します。2コリント3章14-16節『しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます』。
最後にもう一度、今日の『主日の祈り』を祈ります。『・・私たちは、御子イエス・キリストの中にしか、あなたの栄光を見ることはできません。私たちを御子に似た者へと造り変え、その神性で包んでください』。
四旬節第1主日
『悪魔から誘惑』ルカ4:1-13
今日の福音書の前の章の、ルカ3章22節『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と、天からの声の宣言をイエス様は受けます。そしてまさに神の子として、宣教活動の第一歩を踏み出されます。その場面が、今日のルカ4章1節からの所です。いきなり『四十日間、悪魔から誘惑を受けられた』とのことです。悪魔の働きは、人を神様から離れさせることだと聖書は言います。イエス様が宣教活動をされる目的は、人を神様につなぎとめることです。まさに悪魔はここで、そんなイエス様の働きを、阻止しようと登場するわけです。
さて人を神様から離れさせるのは、具体的にどんなふうになされるのか。今日の聖書はそれを、誘惑と呼んで、三回行われています。まず第一の誘惑は、深刻な空腹を抱えていたであろうイエス様に向かって『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ』というものでした。冒頭でイエス様は『神の子』宣言を受けられたと述べました。それを逆手に取るような誘惑です。この『・・なら』というのは、少なくとも人間にとって、極めて動揺させる言葉です。『牧師なら、先生なら、これぐらいのことは出来るでしょ』なんて言われますと、実は出来なくても、思わず、出来るふりをしようとします。自分の、牧師としての名誉を守るためです。恥をかかないためです。そうやって自分を、さも善いものであるかのように振る舞うのです。もちろん『善いもの』は神お一人です。気が付けば、神から離れさせられてしまっている。そう言えばイエス様は、もう一回、似たような誘惑を受けられているなあ、と思いました。それは十字架に掛けられた場面です。ルカ23章35節『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』。この言葉を語っているのは、悪魔ではありません。普通の人間たちです。人間もまた、悪魔のようになるようです。しかしイエス様はこの時『人はパンだけで生きるものではない』と、聖書の言葉(申命記8:3)によって、この誘惑を退けられました。この言葉からも、もう一つ、人間の現実が浮き彫りにさせられます。信仰と言ったって、とにかく食わなきゃ生きて行けないじゃないか。まあ、信仰は信仰として、建前にして、本音では食うことが、まず第一じゃないかという姿です。
第二の誘惑は、悪魔を拝むなら、世界の国の一切の権力と繁栄とを与える、という誘惑です。『これは悪魔だ』と、分かるような相手なら、いくらなんでも、こんな私でも、絶対に拝まないだろう。ましてやイエス様なら、なおさらです。ですからここは、さもこれぞ悪魔だと、分からないような形で、現わされる悪魔だと考えます。もしかしたら神様のように、現れるのかも知れません。そこで、ここでのキーワードは、5節と8節にあります。ルカ4章5節『・・一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた』。この『一瞬』という言葉です。あらゆる面倒なプロセスを省く、快適、効率、便利の世界です。そこでは、結果・結論だけに生きるような自分を見ます。そしてルカ4章8節『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と、やはりここでも聖書(申命記6:13)を引用して、イエス様は切り返しています。『拝む』だけではなく『仕えよ』と、おっしゃられているのです。パンパンと手をたたいて、ちょこんと頭を下げて、一瞬で済むものではない。仕えて行くのですから『一瞬』の結果結論ではなく『一生』というプロセスを強調するのです。人の一生には、権力と財産を得て、好きな時に好きなことが出来る、快適・効率・便利な生き方ばかりではありません。苦しいことも、悲しいこともあります。それらにも意味があると信じるから『主に仕える』のです。
そして第三の誘惑は、神様はどんな時でも、あなたを守ると、聖書の中(詩編91:11-12)でおっしゃっているんだから、神の子なら、この神殿の屋根の上から飛び降りてみたら、というものです。第一の誘惑も、第二の誘惑も、いずれもイエス様は、聖書の言葉によって、悪魔の誘惑を退けて来ました。そこで悪魔はそれを逆手に取って『あなたはそんなに聖書の言葉を守っているのですね。では聖書の中に、こんな言葉もありますね。それも信じているんでしょ。さあ、飛び降りなさい』というわけです。悪魔は聖書も知っているのです。しかもここで、もう一度『神の子なら』と言って『聖書を信じて守る、あなたは神の子なんだから』と、念押しをするようです。しかしイエス様は、やはりここでも聖書の言葉(申命記6:16)によって切り返します。『主を試してはならない』。確かに、神様はいつでも共にいて、私たちを守って下さる方だと信じるものです。しかしややもすれば、自分は何もしないで、傍観者のごとく、全てのことを、神様に丸投げしてしまっている、そんな自分の姿をも想像させられます。屋根から飛び降りるのに、どんな意味があるのか。ただ神様を試すだけだとしたら、それは意味の無いことです。あるいは、ご利益があるかどうか分からないけれども、あれば儲けものだとして、取り合えず、家内安全、商売繁盛、健康厄除けの、お守りやお札を買ってみる、というのも傍観者的です。そうではなく、私が命と賜物を与えられて、そこで示された働きを、たとえ失敗して泥まみれになっても、それでも私がこの世の当事者として、心を込めて与って行く。そこに、神様は働いて下さっている。そうやっていつでも神様は、共にいて守っていて下さる。そこに意味のある生き方が示されている。
冒頭で悪魔の誘惑は、人を神様から離れさせる働きだと申し上げました。実はここにもう一つ、同時に一体的に、もう一つの働きがあります。それは、人を人から離れさせるものです。今日の三つの誘惑を、もう少し平たく表現します。次のようです。『とにかく、まず食っていける。それから地位が上がって、お金もあって、自分のしたいことが出来る。そしてまあ、安全に暮らしていける』。これらが、神様から離れさせる誘惑ということです。がしかし、そもそも神様はいない、という人にとっては、誘惑でも何でもないでしょう。むしろこれらは、ほとんどの人間たちが、望んでいるものかも知れません。ではここに何が起こっているのか。食うために、人よりたくさんかき集めます。競争に勝って、地位が上がり、権力を獲得して、お金が入り、したいことが出来る。そして出来るだけ傍観者になって、自分だけは、安全でいられるようにする。ここには全て、自分しか見えないんです。他者が見えて来ない。神様から離れることは同時に、他者からも離れることになるのです。悪魔はその両方を狙っているのです。そう言えば、イエス様が『律法の中で、どの掟が最も重要ですか』と、問われたことがあります。それでイエス様は、次のように答えられました。マタイ22章37-40節『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている』。
キリストの教会によって、神と人とにつなげられて、本当の生き方に与り続けさせて下さい。
四旬節第2主日
『自分の道を進む』ルカ13:31-35
今日の第一日課は、創世記15章1節以下が与えられています。いわゆるユダヤ人の父と慕われて来た、アブラハム物語の一部です。アブラハムは創世記12章によりますと、生まれ故郷を離れて、神様が示される土地に移住しなさいとの命令を受け、それに従います。その際に、あなたの子孫に、その土地を与えるとの約束も受けました。当時のアブラハムは75歳でした。妻のサラは65歳です。子孫という事は、75歳であるこの自分に、子が与えられるということです。疑いつつも神様の約束ですから、子が与えられることに、少しは期待していたでしょうか。そして、今日の場面になります。創世記15章2-3節『わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです』。そう言って、自分の家の僕を養子にして、約束の言葉の成就を図ります。しかし神様は、あなたと血のつながりのある者が跡継ぎだとして、その養子を否定します。
それからまたしばらくして、今度は妻のサラが、子が与えられないことにしびれを切らして、自分の女奴隷から、アブラハムの子どもが生まれるように画策します(16:1-2)。そして生まれた子に、イシュマエルと名付けました。確かに血のつながる子が与えられ、約束の言葉が成就したかのように思われました。しかし神様は『あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む』と言って、イシュマエルを跡継ぎにすることを否定されます。そしてとうとう、アブラハムが100歳、サラが90歳の時、息子のイサクが生まれるのです。神様は変わらずにずっと、二人の間に子が与えられるという約束を貫き通し、成就させるのです。それに対してアブラハムを始め周りの人間たちは、人間的な習慣や常識や可能性によって、約束を成就させようと考えるのです。絶対に変わらないし、変えることの出来ない神様の存在と意志に対して、人間たちはそれをどのように受け入れて行くのか、神様の意思を変えようとするのか、自分を変えるのか、それが問われているようです。
そこで今日の福音書ですが、少し先週の箇所を見ます。先週はルカ4章1節以下からでした。それはまさに、宣教の第一歩を踏み出された時でした。そしていきなり『四十日間、悪魔から誘惑を受けられた』のです。悪魔の働きは、人を神様から離れさせることだと聖書は言います。イエス様が宣教活動をされる目的は、人を神様につなぎとめることです。まさに悪魔はここで、そんなイエス様の働きを、徹底的に阻止しようと、三回に渡って誘惑します。しかしいずれの誘惑に対しても、聖書の言葉によって、ことごとく跳ねのけるのです。『人はパンだけで生きるものではない』。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』。『あなたの神である主を試してはならない』。まさに、絶対に変わらないし、また変えることの出来ない、神様の存在と意志に、身も心も委ね尽くす、そんなイエス様の姿を見ます。
そして今日の場面も同様です。神様の意思に、ぶれることなく一直線に、自分を委ね通されるイエス様に対して、周りはそれを、変更させようとするのです。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています』。ヘロデはガリラヤの領主で、エルサレムでの、イエス様の十字架の出来事の時にも、立ち会った人物です。それなりの権力を持っていたでしょう。そんなものが来ようが、何をしようが、変わらないし、また変えることの出来ないエルサレムへの道を、ひたすら進んで行くのです。ルカ13章33節『だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ』。ここでイエス様は、ご自分のことを『預言者』だと言うように語られています。預言者とは、神様の言葉を預けられて、その言葉を人々に取り次ぐ者です。言わば、自分の意志よりも神様の意思を優先させて生きる者です。今日の場面でのイエス様は、そんな預言者の生き様を、ご自分に当てはめておられるようです。
それに対して、そんな預言者たちを人々は、殺し続けて来たと言います。それはあたかも、神の意志ではなく、自分たちの意志を優先させて、ごり押ししているようだと言うようです。そしてそんな人々を『めん鳥が雛を羽の下に集めるように』まさに、神様の意思を優先させて、神様の安心に委ねて生かされるようにしようとした。けれども『お前たちは応じようとしなかった』と言うようです。相変わらず、絶対に変わらない、また変えられない神の意志を変えようとしたり、変らなければならない、また変えられるはずの自分の意志を、絶対に変えようとしない人間の姿を、指し示されるようなのです。
そして今日の最後の所で『主の名によって来られる方に、祝福があるようにと言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない』とおっしゃられます。ここで言われるその時とは、ルカ19章37節以下の、実際にイエス様がエルサレムに入城した時のことです。ここで声を上げているのは、イエス様の弟子たちです。他の人たちは、むしろ弟子たちの賛美を止めようとしています。絶対に変わらない、また変えることの出来ない神の意志と、変えねばならない、また変えることの出来る人間の意志とのせめぎあいは、こうしてイエス様の十字架の出来事まで続くのです。
冒頭のアブラハム物語の続きです。アブラハムは神様の意思とのせめぎあいの中で、神様の絶対に変えられない、また変えることの出来ない意志を目の当たりにして、今までの、変えるべき時に変えることの出来ない、自分の意志とその生き方を、問われ続けるのです。そしてある時、ようやく与えられた息子のイサクを、犠牲の供え物として捧げるように命令されます。再び神の意志と自分の意志とのせめぎ合いの中に置かれます。しかしこの時には、以前のアブラハムとは違って、彼は変えられたようでした。神様に命じられた場所で、息子を屠ろうとするのです。しかし神様は、そんなアブラハムに向けて言いました。創世記22章12節『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ』。
幼稚園では『ともに育つ』という、キリスト教保育連盟の月刊誌を購読しております。その4月号にノルウェーの保育事情が紹介されてありました。一部を引用します。『・・ノルウェーでは、園児たちは雨が降ろうが雪が舞おうが、原則、外で遊びます。・・子どもたちはレインコートとレインハットを身に着け、・・赤いリンゴを、雨に濡れながら二歳児たちが・・並んで食べる姿もありました。・・真冬でも昼寝の時間に、軒先や屋外テラスに並べられたベビーカーの中で眠るという光景には驚かされました。園舎があるのに、外で過ごすことにこだわる理由を尋ねた際の、天気は変えられないけれど、天候に合わせて服装を変えることはできます。幼いころから、変えられないものを受け入れ、変えられるものを変えて幸せを感じとる姿勢を学ぶことは大切だと思います、という保育者の語りが心に残っています』。
絶対に変わらず、また変えることの出来ない神の意志と、変えねばならない、また変えることの出来る人間の意志とのせめぎあいは、イエス様の十字架の出来事まで続くと、先程申し上げました。さて、そのせめぎあいの結末は、神の意志の勝利なのか、人間の意志なのか。イエス様は十字架上で死にました。これを見て、どう判断するのだろうか。今年もそんな問いを抱えつつ、この四旬節をキリストの教会によって、歩んでまいります。
2025.3.20 春季召天者記念礼拝 ルカ22章31-34節
『立ち直って力づけて』
ちょうど今日から一か月後の4/20日が、イエス様の復活を祝う、イースターになります。そして先ほど読みました、聖書の箇所は、イエス様が十字架に掛けられて、死んで復活される、少し前の場面です。その時までにイエス様は、何回か、十字架に掛かって死んで、復活されることを、弟子たちに匂わせて来ました。そんなイエス様が、ここは弟子のペトロに向かって、サタンのことに言及し、続けて『わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』と語り掛けたのです。ペトロにして見れば、しかも筆頭弟子ですから『信仰が無くならないように』とか『立ち直ったら』とか、何だか自分がこれから、大きな失敗でもするかのように聞こえたのでしょう。ですから、これからイエス様の身に何が起ころうとも、自分は死んでもあなたに従います、みたいな威勢の良いことを言ったわけです。しかしイエス様からは『あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう』と予告されてしまうのです。そして実際に、その通りなり、十字架上のイエス様を見捨てるように、ペトロを始め弟子たちは、逃げ去ってしまったわけです。イエス様は、弟子たちが失敗することを、よくご存じでした。だからまず信仰が無くならないように祈って下さる。そして失敗を前提として、立ち直ったら、今度は、自分以外の者を力づけてやりなさい、とおっしゃられる。失敗の痛みを知っているあなただから、痛みに苦しむ者に共感出来るだろう、と言うのです。これらのイエス様の言葉から、次のような生き方を、聖書から聞きます。清く正しく失敗しないことを勧めるのではない。もちろんそのように出来るに越した事は無いけれど、むしろ失敗した時に、そこから立ち上がれるように、そのために神様が共にいて祈っていて下さる。そこが問われているんだなと思うのです。蛇足ですが、今朝、テレビに出演していた元SMAPの草薙剛さんが、こんなことをおっしゃっておられるのが聞こえて来ました。『失敗を恐れない。むしろ失敗を恐れることが失敗なのではないか』。
私事ですが、今年は何故か、卒業式の時の自分の失敗が、思い出されるのです。私は教会附属幼稚園の園長も担っておりますが、先日の3/14日に今年の卒園式を終えました。その一週間ほど前のことです。かつての幼稚園保護者の方々と、お話する機会がありました。卒園式も間近だという事で、式の事が話題になり、それでついでに、自分の大学の卒業式の失敗を、聞いていただきました。自分は卒業式当日に、どうしても別の用事で、式を欠席してしまったわけです。その時の自分は、卒業は自分だけの力で獲得したもので、だから自分の都合で、どうにでもなることだと思っていた。そうやって、卒業式を軽く見て、別の用事の方を優先させてしまったわけです。親や、先生や、同級生たちのことが、自分の中ですっぽりと、抜け落ちてしまっていた。何という傲慢な自分だったんだろう、そんな話だったわけです。そうしましたら、それを聞いて下さった一人の元保護者の方が『実は、私がとっても感動して、メモしてずっと手元に残している、ある卒業式の式辞を思い出しました』と、そうおっしゃられて、ネットで調べられて、その式辞のコピーを、後日下さいました。それは、新渡戸稲造さんが、昭和6年3月に、女子経済専門学校(現、東京文化学園)の卒業式で、校長式辞として語られたものでした。以下に引用させていただきます。
『犠牲は、ただ金銭をもって計るべきではない。それを考えると、あなたがたは犠牲なくして教育を受けることはできないと私は思う。あなたがたの今日あるというのは、犠牲の賜である。犠牲というと、何だか暗いような、辛いような感じがするものだが、苦しいの辛いのと言っているのは本来の犠牲ではない。自分を捨てて、その身になって、その人のために行うのがまことの犠牲というもので、それを最もよくなすものは親である。ところが、親ばかりにかぎらない。学校の先生も親に次いで犠牲を払っておられる。要するに人生というものは、お互いの犠牲で成り立っている。そして、この犠牲というものは苦しい顔をしたりなどするものでない。自分がこれだけの不自由をするために、誰か相手の人が何かよいことを得るだろう、私は何の理由で犠牲にならなければならないのだろうなどというのは、本当の犠牲ではない。・・自分の今日あるのは誰の犠牲の結果であるか、誰の賜であるかということを忘れないでほしいと思う。これを忘れないというのが、明るく世をわたる所以である。私のために、これほどのことを考えてくれる人があるのだという気持ちがあれば、百万の敵も恐れるに足らない。・・私をかわいがってくださる人があり、千万人の敵に出遭っても、ただ一人私のことを祈って、私のために一身を犠牲にしてくださる人があるというのは、これほど心強いことはないということを考えてほしいのであります』。
私の大学卒業式は、47年程前の事です。そして毎年、園長として卒園式に与り続ける中で、大学卒業時の自分の振る舞いが、折に触れて思い出されて来ていました。今回初めて、そんな自分が抱えて来たものを、他者に聞いていただいたわけです。それを聞いてくれた元保護者の方が、すかさず、自分が最も感動したものだと言って、先程の新渡戸稲造さんの式辞を、紹介して下さったわけです。この式辞の言葉は、まさに自分がずっと抱え続けて来たものを、ぐさりと、えぐり出すようなものだったのです。とても、偶然とは思えないのです。今のこの自分のために、この元保護者の方を、送って下さったのではないか。この巡りあわせの、不思議さにも、感動せざるを得ませんでした。改めて、あの時の自分は、親の、先生の、同級生の、尊い犠牲を踏みにじるようにしていたんだなあと、思わずにはいられないのです。そしてこの、新渡戸さんの最後の言葉がまた、響くのです。
『私をかわいがってくださる人があり、千万人の敵に出遭っても、ただ一人私のことを祈って、私のために一身を犠牲にしてくださる人があるというのは、これほど心強いことはないということを考えてほしいのであります』。この言葉は、今日の聖書の、ペトロとイエス様との事からのようにも思えますし、何よりも、私たち一人一人と、イエス様との事でもあると、信じるものです。
四旬節第3主日
『今年もこのままに』ルカ13:1-9
今日の福音書の少し前、12章35節以下は『目を覚ましている僕』という小見出しが付いています。この中でイエス様は、神様による最後の審判を想定するような、たとえ話をしています。婚宴に出かけられて、たとえ真夜中でも、帰って来るかも知れない主人と、その主人の帰りを、いつでも目を覚まして、待っていることが期待される僕の話です。そして、ルカ12章40節『あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである』と言うのです。『人の子』というのは、当時のユダヤ人たちの一般的理解では、メシアという救い主を指します。当時はローマの植民地化にありましたから、そんなローマの圧政から解放してくれる、王様のようなメシアです。しかしここでイエス様が、メシアと言うのは、そんな政治的なお方ではない。もっと内面的な、人間の中にはびこる、悪魔的な罪からの解放という、救いを成し遂げるお方のことです。これから、十字架の死と復活によって、その救いを成し遂げる御自分のことを、暗示しているわけです。そんなイエス様のメシアは『思いがけない時に来る』と言う。全ての人間たちに共通する時であれば、それは最後の審判の時と言えるでしょう。しかしこの『思いがけない時』とは、それだけではない。一人一人の人間にも、そんな時があるのです。一人一人に適う形で、メシアなるイエス様に、思いがけなく出会う時です。その時の自分は、悪魔的な罪を自覚するようになって、それを悔い改める、その時のことなのでしょう。とにかくそんな罪に気づかされた時が、思いがけなく来られる、メシアなるイエス様との出会いの時になるのです。その時は、遅いとか早いとか、比較出来るものでもない。
このたとえ話を聞いた、弟子のペトロの言葉が印象的です。ルカ12章41節『主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか』。ペトロは何故、このような質問をしたのだろうか。自分たち弟子たちに話されたのなら、自分たちは当然、目を覚ましている者だと言いたいのだろうか。みんなのために話されたのなら、みんなこそ必要だろう。自分たち以外の者たちは、目を覚ましていないだろうから。いずれにしてもこの時のペトロからは、自分だけは罪とは無関係な、自分だけは正しい所に居るという、言わば傍観者的な、そんな姿も垣間見させられます。人の子との出会いは、むしろ、自分も罪にまみれている、この世の当事者であるからこそ、果たされるのではないか。
続けて今日の福音書の直ぐ前、ルカ12章57節以下です。ここは『訴える人と仲直りする』という小見出しが付いています。ここは話を最後まで読むと、裁判官の裁きにまで行き着けば、訴える人が勝ってしまう、どうもそんな争いのようです。だから、傍観者のように逃げるな。丸投げするな。何が正しいのか、正直に自分に向き合って、自分で判断しなさいと言う。そして、訴える人と『途中で仲直りするように努めなさい』と言います。当事者の自分の問題を見つめるには『途中』という、猶予の時が必要なのです。
そしてそんな話を聞いていた『ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを告げた』と、今日の福音書は始まります。『ガリラヤ人』というのは、ガリラヤ地方出身のユダヤ人のことです。エルサレムから見れば、北方の、歴史的には外国の異教徒と、頻繁に交流して来た人々です。ですから、宗教的には汚れている。それで蔑むように『ガリラヤ人』と呼ばれて来た。そんな人々が、エルサレム神殿に詣でて、犠牲の供え物を捧げようとした。しかし何らかの理由で、ローマ総督の逆鱗に触れ虐殺された。その時に流された血が、彼らが捧げた犠牲の動物と混ぜられた。そうやって彼らはピラトから、冒瀆された。そのことを何人かの人が、イエス様に告げたのです。告げた人たちは、いずれにしても、あんなガリラヤ人だから罪深いから、そんな災難に遭ったのだ。イエス様も同意すると思ったのでしょうか。まさに傍観者のようです。自分だけは正しい位置に立って、災難に遭う者を評論している。イエス様は更に、エルサレムにあった、シロアムの塔が倒れた事故を取り上げます。その事故で死んだ人たちも、罪深かったから、そんな災難に遭ったのだと、恐らく人々の間でも、噂になっていたのでしょう。しかしイエス様は言うのです。『あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』。あなたがた全ては、罪に対して当事者だと言うのです。
そして更に『実のならないいちじくの木』のたとえを話されます。ぶどう園にいちじくの木が植えられるのは、よくあることのようです。いちじくの木の枝に、ぶどうの蔓を這わせるのです。でも商品価値としては、ぶどうの方が高く売れたようです。ですから、実が成らないいちじくは、さっさと切り倒して、取り換えられるのだそうです。ところがたとえの中では、そんないちじくの木まで、園丁は実をならせるように『木の周りを掘って、肥やしをやってみます』と言うのです。園丁はただひたすら、猶予を願い、忍耐強く待つように、実をならせるような手立てをする。この園丁の振る舞いは、イエス様を思い起こさせます。冒頭で、一人一人に適う形で、メシアのイエス様に出会う時が、必ずあると申し上げました。何故なら、皆、罪にまみれるこの世の当事者として、解放されなければならないからです。それに気づかされる悔い改めの時がある。思いがけなく来られる、メシアのイエス様との出会いの時です。イエス様の執り成しの祈りと、十字架の死と復活の犠牲に示される、神様の忍耐と愛と赦しとが示されているのです。
ところで、幼稚園の元保護者の方から、卒園式の事を話題にしたことがきっかけで、ある卒業式での校長式辞のコピーをいただきました。それは、昭和6年3月に、女子経済専門学校(現、東京文化学園)の卒業式で、新渡戸稲造校長が語った式辞でした。その中の『犠牲』という言葉が印象深いのです。以下に引用させていただきます。『犠牲は、ただ金銭をもって計るべきではない。それを考えると、あなたがたは犠牲なくして教育を受けることはできないと私は思う。あなたがたの今日あるというのは、犠牲の賜である。犠牲というと、何だか暗いような、辛いような感じがするものだが、苦しいの辛いのと言っているのは本来の犠牲ではない。自分を捨てて、その身になって、その人のために行うのがまことの犠牲というもので、それを最もよくなすものは親である。ところが、親ばかりにかぎらない。学校の先生も親に次いで犠牲を払っておられる。要するに人生というものは、お互いの犠牲で成り立っている。そして、この犠牲というものは苦しい顔をしたりなどするものでない。自分がこれだけの不自由をするために、誰か相手の人が何かよいことを得るだろう、私は何の理由で犠牲にならなければならないのだろうなどというのは、本当の犠牲ではない。・・自分の今日あるのは誰の犠牲の結果であるか、誰の賜であるかということを忘れないでほしいと思う。・・私をかわいがってくださる人があり、千万人の敵に出遭っても、ただ一人私のことを祈って、私のために一身を犠牲にしてくださる人があるというのは、これほど心強いことはないということを考えてほしいのであります』。
キリストの教会によって、イエス様の犠牲が私のためであることに、気づかせられて行きます。
四旬節第4主日
『生き返り、見つかった』ルカ15:1-3,11b-32
今日の福音書は、罪人と呼ばれる、宗教的に汚れているとされる人々と、イエス様が一緒に食事をしているということで、ファリサイ派の人たちや律法学者たちから、批判を受けたということです。それでイエス様は、それに応えるかのように、三つのたとえを話されました。今日の福音書は、その中の一つの『放蕩息子のたとえ』だけを取り上げています。残りの二つのたとえも概観します。この三つのたとえからは、いなくなったものや、無くなったものが見つかった時の喜びが、共通して伝わって来るのです。
まず一つ目の15章4節以下にあります『見失った羊のたとえ』です。百匹の中、一匹がいなくなったので、羊飼いはその一匹を捜し回って、見つけ出した。たとえ一匹でも、それを大切に思う羊飼いなら、そこまですることは考えられます。羊そのものの価値は、他の99匹と全く同じだからです。しかしここで不思議なのは『友達や近所の人々を呼び集めて、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください、と言うであろう』と、まあ、当たり前のように言うのです。まあ喜ばない事は無いにしても、所詮、他人の持ち物が見つかった話です。当事者のその人は喜ぶだろうけれども、当事者でない人を、呼び集めてまでして、一緒に喜んで下さいだなんて、普通、言うだろうか。呼び集められた人たちの中に、友達もいたという事ですから、どの程度の友達かは分かりませんが、深い関係なら、同じように喜ぶことはあるかも知れません。しかし近所の人たちは、それも関係性で左右されますが、果たしてどうなんだろうか。返って、迷惑に思う人もいたのではないか。
二つ目のたとえは、15章8節以下の『無くした銀貨のたとえ』です。無くした一枚の銀貨を捜して見つけた話です。一枚一枚の銀貨の価値は、それこそ違いは全く無い。そしてここでも『友達や近所の女たちを呼び集めて、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください、と言うであろう』と、ここでも当たり前のように言うのです。一ドラクメは、当時の一日分の賃金に当たるそうです。今で言えば、10,000円位でしょうか。無くした人にとっては、捜し回って見つかったら喜ぶでしょう。しかし友達や近所の女たちはどうでしょうか。やはり無くした人との関係性にもよりますが、当事者程には喜ぶことは無いのではないか。
この最初の二つのたとえから考えることは、羊を無くした、あるいは銀貨を無くした、そんな人と、いかに当事者のように、同じ気持ちになれるかどうか。何かを失ったり無くしたり、そんな経験をしないまま、自分はずっといられるものなのか。今は経験していなくても、いつかは必ずあるだろうとしたら、既に今から、どんなことにも当事者のように、振る舞うように勧められているのかも知れません。この地上にある限り人間の中には、傍観者は一人もいない。ただ当事者のみ。人間の存在に、区別はないと聖書は言うようです。
今日の三つ目のたとえもまた、人間を区別することを問うているようです。ここは放蕩の限りを尽くした弟と、どこまでも父に忠実に従う兄との話です。最初の二つのたとえでは、羊そのものの価値の違いは無く、銀貨はなおさら、どこまで行っても同じ価値です。ところが、このたとえの弟と兄とは、明らかに価値評価が違います。弟は放蕩の限りを尽くした、悪い人間。だから弟は、その悪に見合った扱いを受けるべきだと考えます。一方兄は、父に忠実な善い人間。少なくとも、もっと待遇を良くされても不思議ではない。ところが、このたとえの中で父は、のこのこと戻って来た悪い弟を、これまで以上のように、息子扱いをするのです。
悪い人間が受けるべき扱いをしない父に対して、兄が不平を言った時の、父の言葉が印象的です。ルカ15章31-32節『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。弟はいなくなっていたのは事実です。がしかし、少なくとも、死んでいたわけではない。普通、ここで父親が言うとしたら『弟は放蕩の限りを尽くして、勝手なことをする悪い奴だったけど、今は後悔して反省しているし、良い人間になろうとしているんだから、赦してやろうじゃないか』ということでしょうか。ところが、弟は反省して、真人間になろうとしているんだと、そんな回心の振る舞い方については、ここでは問題にされていないのです。むしろ弟の存在そのものを、父は問題としているようです。だから、死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかったと、ただそれだけなのです。兄は、ずっと父と一緒に存在している。それがまた父の喜びなのでしょうか。兄が、何かをして、こんな成功を収めたとか、そんなことは問題にしていない。そしてここでも『祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』と言う。しかし普通の人間の感覚では、当たり前ではないでしょう。むしろ、こんな扱いはしないのが普通です。そんなふうに考えますと、この父親は人間を、悪いとか、正しいとか、そんな形容詞をもって、区別するように価値評価はしない方のようです。どんなに悪いことをしようが、どんなに正しいことをしようが、区別なく人間は人間なのです。マタイ福音書5章45節の言葉が思い出されました。『あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨をふらせてくださるからである』。
3/22日の日経新聞朝刊の『春秋』というコラムの、次の言葉が印象的でした。一部を引用します。『・・障害と健常はグラデーションだといわれる。白黒はっきり区別するものでなく、濃淡の違いとみる考え方だ。言い換えれば、境界をつくらないということだろう。境界がなければどこか重なり合うものを感じ、互いを解する余地が生まれる。経済的な格差、政治的な立場、人種、民族、国家の関係にも通じる原理でないか。現実の社会は壁をつくり、敵と味方を峻別する。それでも理解できない行動に直面したら、何が相手をそうさせるのか辛抱強く洞察する。それが寄り添うという姿勢であり、分断を繕う糸口をそこに見いだしたい。人も社会も季節もグラデーションでできている世界。早咲きの桜の樹の下で、そんな夢想をめぐらせた』。ここで『夢想』とおっしゃっていますが、一人の新聞記者の方が、借り物では無く、どうしても抑え切れなくて、自分の中から湧き出た言葉で語られたものなのだなと、勝手に想像しますと、何かものすごく身近に共感させられました。
どんなに破れや失敗を引き起こそうとも、存在そのものを喜ばれる主イエス・キリストの神様。キリストの教会によって、壁と分断の社会のように思われる中で、主イエス・キリストの神様を証し続けさせて下さい。