からし種 434号 2025年7月
昇天主日
『わたしのいる所に、共に』ヨハネ17:20-26
先週まで2週間に渡って、ヨハネ福音書から、十字架の死を前にした、イエス様によるお別れの説教を聞いて来ました。その場で聞いていた弟子たちは、イエス様がいなくなるのではと、不安に思いました。それでイエス様は、ヨハネ14章16節で『わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる』と約束されました。この『別の弁護者』とは、いわゆる聖霊のことです。その聖霊によって、イエス様が永遠に一緒にいて下さるようにして下さる、と言うのです。
今日は教会独自のカレンダーで、昇天主日の日曜日です。今日の第一日課は使徒言行録16章16節以下からですが、その1章3節以下では、イエス様は復活された後、40日目に、昇天されたと記されてあります。今年の復活日は、4月20日でしたので、その日から数えて40日目は、先週の5月29日になり、この日が、今年のイエス様の昇天日になります。そして、その日を過ぎて最初の日曜日が、本日の『昇天主日』と呼ばれます。その昇天の際にイエス様は、次の言葉も残されました。使徒言行録1章8節『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる』。この降された約束の聖霊を受けた者たちが、力を受けて、イエス様の復活の証人になると言うのです。この出来事の日を、聖霊降臨日と呼んでいます。そして、その証人たちのことを『教会』と呼んで、今年は来週8日に『教会の誕生日』としても、記念の礼拝を守ります。イエス様の昇天は、聖霊によるキリスト教会の誕生に関わり、その教会によって、イエス様は永遠に共にいて下さるというわけです。キリスト教会初期の伝道者パウロは、エフェソの信徒への手紙1章19節以下で次のようにも書いています。『また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です』。このパウロの言葉から、共におられるイエス様は、教会のある所全てに及ぶと教えられます。更には『今の世ばかりでなく、来るべき世にも』とは、イエス様が共におられるのは、時代をも超えると言うのです。この二つのことからも、昇天の意味が示されます。
時代を超えると言えば、今日のヨハネ福音書17章20節『また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします』とあります。実はこのヨハネ17章全体は、お別れの説教をした後、イエス様が父なる神様に、残された弟子たちのために、執り成しの祈りをされたという場面です。そしてその祈りは、目の前の弟子たちのためだけでなく、弟子たちの言葉によってイエス様を信じた、後の時代の全ての人々のための祈りでもあると言うのです。つまり今も続くキリストの教会のためにも、祈り続けて下さっているのです。その『祈り』と言えば、今日のヨハネ福音書には『内にいる』とか『一つになる』という言葉が、繰り返し出て来ます。ヨハネ17章21節『父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください』とあります。この、互いに互いの内にあって一つというのは、改めて示されることは、互いに互いを祈り合っている、とも言えるのではないか。祈るとは、相手の身になって、共感して、寄り添い続けるものでしょう。だから一つになるのです。互いがそうやって、同時に、その祈りに与り合っている。『祈る』という行為は、誰も傍観者にならない。みんなが当事者になって、だから一つなのではないか。
今日の第一日課も、使徒言行録16章16節からですが、先週からの続きになります。初代教会宣教者パウロが、初めてアジアからヨーロッパへ、足を踏み入れた場面でした。その際に、様々な情報を集めて、少しでも有効な宣教の可能性を探りながら、宣教の旅の計画を立てたパウロでした。しかしそれらは、ことごとく予定変更を強いられます。パウロはそれらが、聖霊の導きであると知らされて行ったのです。それがもちろん、共におられるイエス様なのです。結局パウロは、もう一度、人間的可能性に拠らない生き方を、聖霊の働きによって、戒め教えられたのです。そして、当初は宣教予定に無かったフィリピの町で、リディアという女性と出会い、彼女とその家族全員が、洗礼を受けることになったのです。そしてその後も、様々な誘惑や困難に出会いますが、それらのマイナスが、フィリピの教会誕生というプラスに、ことごとく転換させられて行くのです。
今日の使徒言行録の場面も、その転換の一場面です。特に、祈りのパウロが印象的です。人間的には有利に思える事をはねつけたパウロでしたが、それ故に逮捕され、牢屋に入れられます。しかも牢屋の一番奥に押し込められます。脱獄するには一番不利な場所です。しかしそれが、有利に働くのです。パウロは毎晩、祈り、賛美の声を轟かせていました。牢屋の一番奥ですから、牢屋中に響き渡り、全ての囚人たちの耳に、届くようになっていたのです。それが思いを超えた、宣教活動になっていたのです。ある時、大地震が起こり、牢屋の戸が全て開いてしまいました。看守は全ての囚人たちが逃げ去ってしまったと思い、自殺しようとします。しかしパウロがそれを止め、囚人たちは全員、ここにいると告げたのです。この後、看守は、神を信じる者になったことを、家族ともども喜んだということです。祈りのパウロが、全ての囚人、そして看守とその家族の中に入り込み、互いに一つとなって行ったのです。そうして出来たフィリピ教会は、その後のパウロの宣教活動のために、物心両面で支援続けるのです。もちろん、祈り続けるのです。そんなフィリピ教会に向けてパウロは、後に次のような手紙を書いています。フィリピ1章16-19節『一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです』。
どうすることも出来ないと思えてしまう問題が続く世界。それでも、キリストの教会によって、改めて、互いに一つである『祈り』を祈りとして祈り続け、寄り添い続けて行こうではありませんか。
聖霊降臨日
『永遠にあなたがたと一緒』ヨハネ14:8-17,25-27
今日の第1日課は創世記です。天地創造の神様は人間も創造されました。しかし人間は、神様との約束を破り、神様に顔向け出来ないような罪の状態に陥り、神様になり替わるかのような行為もするようになりました。今日の創世記11章はまさにそんな場面です。天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう。そして、全地に散らされないようにしようと、人間たちは言います。つまり自分たちの力を誇り、自分たちの思う通りに生きて行こうと、宣言するのです。神無き人間の姿です。これを知った神様は『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ』とおっしゃられて、人間同士の言葉が通じ合わないように混乱させ、全地に散らされたのです。そしてそこには、造りかけの塔が残されました。これがバベルの塔と呼ばれて、人間の罪を象徴するものとして、言い継がれて来たのです。
神無き罪の状態の人間たちが、一致団結してすることは、所詮自分たちに都合の良い状況を作り出そうとする。その結果、人間以外の被造物のあるものは、絶滅させられて行く。それら絶滅の影響は、一時的には、人間には無関係と思っていても、いつかまた跳ね返って来る。神様が造られたものには、無駄なものは何一つ無い。それなのに、人間の狭い価値観によって、切り捨てられて行くものがある。一方、人間社会に目を向ければ、相変わらず言葉が通じ合える者だけの、狭い集団を造り上げる。そういう集団がいくつも出来上がって、それが民族であったり、国家だったりする。そしてそんな集団同士が、相変わらず、それぞれのバベルの塔を造ろうとして競い合い、血を流し合っている。これが、悲しいかな人間の歴史であり、現代まで続けられていると思うのです。
そんな人間の歴史に神様は心を痛め、とうとうある決断をされた。ヨハネ3章16節『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。ヨハネが言う与えられる独り子とは、クリスマスとイースターのイエス・キリストです。『与えられる』というのは、ただ単にそこにいる、というだけではない。神の独り子が人としてこの世に生まれ、十字架の死と復活に至るまでを言うのです。今日のヨハネ福音書14章は、その十字架の死と復活への道を予告している場面です。この独り子を通して果たされる神の業と、それ故に示される神の愛が、こんな破れ多き人間のためだと気づかされて行く時、人間の再創造が起こされ始めるのです。神無しの人間では相変わらず、バベルの塔を築こうとしてしまう。もはや造り変えられなければ、いつまで経っても、争い続けてしまう。イエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストによる再創造を信じることです。
その再創造を、今日の福音書の中でイエス様は『わたしが行う業』とおっしゃられ、更には『わたしを信じる者は、もっと大きな業を行うようになる』とおっしゃられています。このもっと大きな業とは、今日の第2日課の使徒言行録2章に記されてあるのです。イエス様が復活されて天に昇られる時、天から聖霊を注ぐと、弟子たちに約束されました。その約束の聖霊が、集まって祈っていた弟子たちの一団に降された場面が2章4節です。『すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した』というのです。そしてこれらの言葉を、驚いて聞いている人々もいたのです。その日は五旬祭というお祭りの日で、異なる民族や国に属する人たちが集まっていたのです。2章11-12節『ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。人々は皆驚き、とまどい、いったい、これはどういうことなのか、と互いに言った』。このことをきっかけに、相変わらず言葉も違い、民族も国も異なっているのに、聖霊の力によって、一つの群れとさせられ、バベルの塔ではなく、イエス・キリストによる人間の再創造を宣べ伝える業に、押し出されて行くのです。これがキリストの教会の始まりです。この日を今やキリスト教会は、ペンテコステとも呼び、教会の誕生日としているわけです。これが、今日、イエス様がおっしゃられる『もっと大きな業』になります。
先程、こどもさんびかの93番を賛美しましたが、その次の94番『ふしぎなかぜが』の歌詞も紹介させていただきます。
①不思議な風がびゅうっと吹けば、何だか勇気が湧いて来る。イェス様のお守りがきっとあるよ、それが聖霊の働きです。主イェスの恵みはあの風と共に。
②不思議な風がびゅうっと吹けば、いろんな言葉の人達も、その日から友達にきっとなれる。それが教会の始まりです。世界の平和もあの風と共に。
③不思議な風がびゅうっと吹けば、心の中まで強められる。神様の子供にきっとなれる。それが新しい毎日です。私の命もあの風と共に。
日本聖書協会で年一回4月に発行されている『SOWER』という雑誌があります。その中に『第3回聖書エッセイコンテスト』の受賞作品が掲載されてありました。準大賞を受けた『百人百色、一つの信条に』というタイトルの作品を部分的に紹介させていただきます。
『百人百色の人々が、みなひとつの信条の下に生きている。それが、どれだけ美しかったことか。高校一年生の、冬が春になるまでの1カ月。私はカナダに短期留学し、現地の学校に通っていた。この留学は日本で通うカトリック高校のプログラムで、そのせいなのかホストファミリーも学校の先生もみんなクリスチャンで、授業でも毎朝聖書を学ぶ時間があった。そもそもカナダという国自体がクリスチャンの多い国であるので不思議なことではないのだけれど、私にとってはこんなにクリスチャンに囲まれているということは大きなことで、無宗教の日本とは全然違うな!と日々感じていた。いろんな、思い出ができて、一ヶ月後、最終日。大好きなホストファミリーと、大好きな先生と、それぞれ最後にお話しした時。どちらも最後に言った言葉は、どんな時も神は傍にいる、だった。それだけは覚えておくのよ。そうすれば、きっとこの先、何があっても大丈夫。私の手を握って、まっすぐ目を見てそう言い聞かせてきた彼女たちの顔を今でも鮮明に思い出せる。最後までブレないんだな、この人たちは。その時はそう思った。本当にこの人たちは、聖書の心を奥底に持って生きているのだな、と。飛行機が飛び立って、愛しい愛しいあの地から離れていく、その時。地面が遠くなるにつれて、涙が溢れて止まらなかった。目の奥に愛しい人たちの顔や言葉が次々に浮かぶ。・・これまで、信仰だとか神だとか、そんなことを考えたことなど一度もなかったのに、なぜだかその時そんなことばかりを考えた。きっと私があの国をあんなに好きなのは、自分の芯を頑として持つあの人たちのことが好きだからなのだと、気づく。多様性という言葉をまんま再現したような、国のルーツも話す言葉も食べるものも習慣も人によって全く異なっているこの国で、ひとつの信条が根を張って、全ての人の支えになり、全ての人をひとつの仲間として囲っている。百人百色の人々が、みなひとつの信条の下に生きている。それがどれだけ美しいものであったかを、もう鉄の塊の中に入ってしまってから、理解してしまった』。
キリストの教会に感謝。
三位一体主日
『あなたがたに告げる』ヨハネ16:12-15
今日は教会独自のカレンダーで、三位一体主日と呼ばれる日曜日です。聖書の神様は、三位一体の神とも呼ばれます。これは聖書の神様の働きを、一言で言い表したものです。それで今日は、その聖書の神様の働きを、一言ではなく、もう少し細かく聖書から聞いて行きます。
まず聖書では、神様が人間を含む天地万物を創造されたと言います。今日の詩編8編は、その神様の天地創造を詠っています。6-7節を引用します。『神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました』。この言葉から、決して忘れてはならないのは、人間はあくまでも、神様によって造られたものだということです。しかし同時にこの言葉の中には、それを忘れさせてしまうものもあります。『栄光と威光を冠としていただかせ、神様によって造られたものをすべて治めるように、人間の支配下に置いた』。自己管理を怠れば、いつでも人間が神になり替わってしまう危険性を感じさせられます。ですからそのことも踏まえて、それを抑止するかのように『神に僅かに劣るものとして』人を造ったと言うのでしょうか。いずれにしても、人間が神様になり替わり得る程に、人間には自由な主体的意志が備えられている。造られたものだと言っても、決してロボットのようではない。それ程に神様の愛と信頼が、人間の創造に込められていると聞きます。ですから人間は、そんな深い神様の愛と信頼に、応えて行くように、促されてしまうはずなのです。
しかし、神様の愛と信頼に応えて行くためには、絶えず自己管理が欠かせません。善を選ぶのも、悪を選ぶのも、人間にはどちらも選択出来る自由が与えられているからです。ところが、悪を選び取る誘惑に負けてしまいました。それが創世記3章に記されている、エデンの園での出来事です。食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったのです。創世記3章6節『女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた』とあります。注目させられるのは『いかにもおいしそうで、目を引き付け』たと言うように、人間の判断だけがそこに働いているようです。先程、自己管理を怠らない、と言いました。それは人間だけの、自分勝手な自己管理にならないように、絶えず神様との、祈りの対話の中での自己管理ということです。ところが、この女と男は、自分たちだけの判断で、物事を決めてしまった。女と男の二人での相談さえも、為されていなかったようです。その結果、本人は常に善を選択しているつもりのようでも、その『つもり』が、気が付けば悪を選択してしまっているということにもなる。結局、人間は知らず知らずのうちにも、神様になり替わるかのような、振る舞いをしてしまうようになって行った。
そんな人間の状態に心を痛める父なる神様は、それでも、決して見捨てない。正常な自己管理を果たせるように、いわゆる律法を授けます。また、預言者と呼ばれる人たちを通して、創られた時の本来の神様との関係に、自ら立ち返るように呼びかけ、待ち続けて来たのです。そこには、人間に与えられている自由な意志を、どこまでも尊重する、神様の愛と信頼が、現わされ続けているようです。しかしそこまで、神様の愛と信頼と忍耐を示されても、自ら立ち返ることが出来ないでいる人間。そこでとうとう父なる神様は、奥の手を使います。父なる神は、子なるイエス・キリストとして、その命を人間に委ね、それ程に愛と信頼を示された。そして、必ず自ら気づいて立ち返る、確信と忍耐を示された。ヨハネ3章16節を引用します。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。
この独り子なるキリストを通して究極的に示される、父なる神の愛と信頼と忍耐に気づくように、更に聖霊が降されるのです。神は、人間の自己管理を正しく導かれるようです。今日のヨハネ福音書は、その聖霊を真理の霊とも呼んでいます。ヨハネ16章13節『真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる』。この聖霊によってキリストの教会が誕生しました。言わばキリストの教会が、かつての預言者たちの役割を担うようにするのです。キリストを通して究極的に現わされる、父なる神の愛と信頼と忍耐という真理を明らかにしてくれる。そうやって、人間の自己管理に寄り添って、最初に創られた時の人間の状態に、立ち返らせてくれるのです。教会の働きもまたここに示されるのです。
三位一体の神様の働きとは、結局、人間をもう一度、最初に創られた時の状態に、人間の自由意志を尊重しつつ、立ち返ることが出来るようにすることです。今日の第二日課は、ローマ書5章からですが『信仰によって義とされて』という小見出しが付けられてあります。実はあの宗教改革者ルターは、このローマ書から改めて、三位一体の神の働きに気づかされて行ったと言われます。と申しますのも、たまたま先週、ルーテル神学校の江口再起先生著作の『ルター入門―生涯と思想―』が送られて来ました。分かり易くルターの信仰の足跡が、段階的に書かれてあります。引用させていただきます。言わばルターが真理の霊によって悟らされて行ったものです。『①神は義しい。②しかし神は、神ならぬ人間が完全でなく罪人である他ないことを知っているゆえ、むしろいとおしみ、自ら持っている義しさを人間に無償でプレゼントする(この神の無償のプレゼントのことを、キリスト教では、恵み、福音、といいます)。③それゆえ人間は神にこたえ、その神がくださる義しさを受動的に受けとめ、いただけばよい。この受け入れるということが信仰である。④つまり人間は完全でなく罪人であっても赦され救われるのである』。
ここの③『人間は神にこたえ、その神がくださる義しさを受動的に受けとめ、いただけばよい。この受け入れるということが信仰である』という所に、特に注目させられます。『神がくださる義しさを受動的に受けとめ、いただけばよい』と言っても、その神の義しさは、人間にとっては、自分の筋書きに無い、期待や希望に反するような、受け入れ難いものであるかも知れません。だから今日の第二日課のローマ5章3節以下で、パウロも次のように言うのでしょう。『そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです』。
三位一体の神が告げる真理の言葉を、キリストの教会によって悟らせられて行きます。
聖霊降臨後第2主日
『町中に言い広めた』ルカ8:26-39
今日の福音書の始まりは『ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた』とあります。その直接的経緯については、今日の福音書の直ぐ前の所、ルカ8章22節に記されてあります。『ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、湖の向こう岸に渡ろう、と言われたので、船出した』。向こう岸というのは、ヨルダン川を挟んで、今のヨルダン領側になります。ユダヤ人にとっては、言わば異邦人の土地です。当時は主に、多くのギリシア人が入植していたようです。通常のユダヤ人ならば、宗教的に汚れているとしていた地域ですから、少なくとも遊びでは行かない所です。そこに弟子たちも同行させたということです。何か特別に、伝えたいことがあったのでしょうか。
渡って行くうちに、舟が突風に襲われて、沈みそうになったのでしょう。弟子たちは、恐れで大混乱をきたします。それに対してイエス様が、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になったのです。『弟子たちは恐れ驚いて、いったい、この方はどなたなのだろう』と、互いに言い合ったということです。恐らくここに、イエス様が弟子たちに伝えたいことが、示されているのではないか。つまり『私が何者であるのか』ということです。それが分からないから、舟が沈みそうになると、恐れで大混乱をきたすのではないか。だから『あなたがたの信仰はどこにあるのか』とまで言われたのです。恐れは、不信仰の一つの表れでしょう。そしてここで弟子たちは、イエス様を何者とするのか。いわゆる奇跡行者に対しては、真の信仰は問われない。信じて委ねることが出来るお方とするのか。それらを更に明確にするために、今イエス様は、向こう岸のゲラサ人の地方に着いたのです。
そしてここで、悪霊に取りつかれた男に出合います。イエス様とのやり取りが、描かれて行きます。表面的には、悪霊に取りつかれている男性との会話です。がしかし実体は、悪霊そのものとのやり取りです。ここから考えますと、取りつかれている男性の意志は、もはや悪霊とは切り離されているようです。ということは言わば男性の方は、悪霊にとりつかれている自分を自覚して、客観視状態とも考えられます。これは悪霊から解放されるには、とても大切で必要なことです。実はこれと似たような状態を、あの初代教会の伝道者パウロが、聖書の中で次のように書いています。ローマ7章18-20節『わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです』。そしてここで注目させられるのは、悪霊は、イエス様が何者であるのかを、知っているのです。冒頭で、沈みそうになった舟に乗っていた弟子たちが、イエス様が何者であるのか、知らないが故に、風や荒波を恐れ、信仰を問われたと申し上げました。悪霊は、イエス様が何者であるのか、重々知っている。その上で、イエス様を恐れ、関りを拒否するのです。それは、イエス様から見れば、もはや決定的に頼るものを失っている、救いのない姿と映るのです。それでも悪霊たちは『底なしの淵に行け』と命令しないようにと願った。『底なしの淵』というのは、絶対に脱出出来ない『不従順な霊たちが投獄される場所』として、他の聖書の箇所にも描かれています(ユダ6,2ペトロ2:4,黙示9:1-2,11,20:1-3)。この期に及んでも、悪霊がイエス様に願うとは驚きです。だからイエス様なんだなと、むしろ『イエス様らしさ』を感じさせられてしまう、そんな悪霊の振る舞いです。
案の定イエス様は、命令を出しませんでした。そして悪霊たちは、えさをあさっている豚の群れを見て、その豚の中に入ることを、今度も願います。それもイエス様は許されました。こんなふうに悪霊とイエス様とのやり取りを見て行きますと、たとえ悪霊相手であっても、イエス様らしさは、何ら変わることは無いんだとも、感じさせられてしまうのです。そして、悪霊が入り込んだ豚の群れは『湖になだれ込み、おぼれ死んだ』というのです。豚飼いは恐れて逃げ出し、町や村で、この出来事を知らせました。恐怖が先立った豚飼いたちです。それにしても大損害を被ったでしょう。当然、その事に対する、イエス様への批判も、湧き起るかも知れません。ただこの出来事から、こんなふうに聞き取ります。豚と共に湖に落ち込んだ悪霊たちは、どうなったのか。滅んだのかも知れませんし『底なしの淵』でなければ、どこかでまた出現するかも知れません。悪霊であっても、そんな猶予を与えておられるのだろうか。だとすれば、そこにもイエス様らしさを、考えさせられます。そういう『らしさ』で言えば、豚たちが悪霊を身に受けて、おぼれ死んだというのは、何か十字架のイエス様を思ってしまいます。豚はユダヤ人にとっては、汚れた動物です。その豚が悪霊を背負い込むのです。イエス様も罪人のようになり、罪人の罪を負って十字架に死なれるのです。そんなご自分を、この豚の出来事からも、予見されておられるようにも考えさせられます。そして弟子たちは、どのように受け留めているのだろうか。多分この時点では、理解を超えているのかも知れません。
そして最後に、もう一つ注目すべきものがあります。それは、悪霊が追い出され、正気になった男性が、イエス様の足もとに座っているのを、町の人たちが見て、恐ろしくなったというのです。更には、ルカ8章37節『そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである』と言うのです。先程も申し上げましたが、恐れは不信仰の一つの表れと見ます。そしてここで町の人たちは、何を恐れたのか。悪霊に取りつかれて、どうしようもないと思っていた人が、正気になってしまったことか。不可能と思っていたのに、あの悪霊を追い出された、イエス様を恐れたのか。いずれにしても、あり得ないことをしたからこそ、そんなイエス様からは、むしろ得体の知れない恐怖を、覚えてしまったのか。それはイエス様を恐れた、あの悪霊の姿と同じになるではないか。聖書は人々が『恐れに取りつかれていた』とまで記しております。それはまさしく、そんな人々こそ『悪霊に取りつかれていた』ことと、同じに聞こえてしまうのです。しかもイエス様と関わりたくないと思っていたとすれば、それも悪霊が言っていたことと同じなのです。このゲラサの人々こそ、悪霊から解放されねばならなかった。イエス様によって正気にさせられた、あの男性は、その先鞭をつけたことになる。ですからここでイエス様は、その男性が『しきりにお供したい』と願ったのに、次のように言ったのです。ルカ8章39節『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい』。彼は言われた通り『町中に言い広めた』のです。神が彼にしてくれたことは、悪霊からの解放でした。そして繰り返しますが、自分が悪霊にとりつかれていることを、自覚させられて行ったという、重大なことを神はしてくれた。それを言い広めるのです。だからまだ自覚出来ないでいる人々が、彼から聞かされることは、自分たちもまた、悪霊にとりつかれていることを気づかされて行くことなのだ。そしてこのように、神のしてくれたことを言い広めることこそ、キリストの教会の働きなのです。しかも今日の場面は、異邦人の土地での出来事です。そう言えば使徒言行録11章19節以下に、エルサレムに起こされたキリスト教会への大迫害によって、散らされて行った人たちと異邦人も加えられて、異邦人の町のアンティオキアでキリスト教会が建て上げられたことが記されてあります。その教会の人たちのことを、聖書は次のように記しております。使徒言行録11章26節『・・このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである』。図らずもキリストの教会のホームタウンを暗示するような、今日の福音書の場面でもあるように示されます。
日本の地にあってキリストの教会が、増々力強く用いられてまいりますように、祈りを併せてまいりましょう。
聖霊降臨後第3主日
『主よ、お望みなら』ルカ9:51-62
今日の福音書の始めに『イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた』とあります。これはエルサレムでの、十字架の死と復活と昇天を想定するかのような言葉です。そこで、イエス様に従う弟子たちを始め、イエス様に何かを期待している周りの人たちと、エルサレムで果たそうとしているイエス様の意図とには、大きなズレがありました。その最たるものは、イエス様が十字架上で死ぬことでした。誰も想定出来ませんでした。そしてそんなズレは既に、エルサレムに向かう折々でも、浮き彫りにさせられて行くのです。それは同時に、弟子たちを始め、周りの人間たちが、自分は何者であるのかも、浮き彫りにさせられることでもあります。
今日の福音書は、そんな周りの人間たちが、旅をするイエス様との関りの中で、まさしく浮き彫りになるズレを、見させてくれる所です。まずサマリア人の村に入った時の、村人の反応に対する、弟子たちとイエス様との間に、ズレが見えます。サマリア人とは、サマリア地方がアッシリア人に占領された時に、混血化されて行ったユダヤ人たちのことです。いわゆるエルサレムの正統派ユダヤ人から見れば、異教徒の血が混じったサマリア人は、もはや宗教的に汚れている人たちです。それで、差別の対象になっていたわけです。そうなれば、差別される方も黙ってはいません。もはや積極的に敵対感を露わにするでしょう。サマリア教団という独自の信仰共同体まで、作るようになっていました。そんなサマリア地方の村に、イエス様たちは入った。案の定『村人はイエスを歓迎しなかった』のです。少しはイエス様の評判も聞いていたでしょう。がしかし『エルサレムを目指して進んでいる』と聞けば、自分たちを差別する他のユダヤ人たちと、所詮あの人も同じだと、断じたのでしょうか。
そんな村人の反応に対して、弟子たちの反応も予想通りです。『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを滅ぼしましょうか』と言いました。『主よ、お望みなら』という言葉には、一見、イエス様の意志を尊重しているかのように聞こえます。がしかし、その裏では『望んでくれよ、当然、望むよな』という、怒りも伝わって来るようなのです。そしてこの時の弟子たちの感情は、他人ごとでは無いのです。いつでも、至る所で、似たような感情を爆発させるのを見たり、自覚するからです。正義を達成するためには、暴力を用いても良いではないか。侮辱されたから、人を傷つけるのは有りではないか。正しいから、あるいは神聖な理由を持つから、軍事力や暴力の行使は、正当化されるだろう。そして『天から火を降らせて、彼らを滅ぼしましょうか』と言う。これは、現代の私たちにとっては、何か唐突に聞こえます。がしかし、当時の弟子たちには理由があるようです。今日の第一日課は、旧約の列王記上からで、預言者のエリヤと後継者のエリシャとのやり取りが描かれています。そのエリヤですが、列王記下1章10節以下の出来事を引用します。サマリア地方を支配していた、当時のイスラエル王が、エリヤを捕まえようと軍隊を送ったわけです。ところがエリヤの願いによって、天から火が降って来て、その軍隊が滅ぼされたのです。その昔の出来事を弟子たちは念頭に置いて、あの有名な預言者エリヤが、言わばサマリア人の兵隊を、天から火を降らせて滅ぼしたんだから、エリヤの再来とまで言われるイエス様に従う自分たちが、同じことをしても良いではないか、という論理です。正統的信仰を笠に着て、異端的信仰を断罪する、そんな構図にも見えます。ここに見る弟子たちの反応は、今も、至る所で起こされ続けている。力づくで、手っ取り早く、気に入った結果結論を獲得しようとする。そして『イエスは振り向いて戒められた』という。この『振り向き』からは『相変わらずだなあ、お前たちは』という声も、聞こえて来ます。相変わらず今も、キリストの忍耐と戒めとを、強く求めざるを得ません。
そして更に、人々とイエス様とのズレが、次のやり取りの中で、露わにされて行くのです。イエス様一行の所に『どこへでも従って参ります』と言う人が来ました。いわゆる高尚かつ熱狂的な申し出です。しかし、大なり小なり、似たような心境になったことがある人は、少なくないのではないでしょうか。それを見越すかのように、従った後の、快適そうにない生活が、待ち構えていることを、その人に暗示します。ここで、ルカ8章4節以下の、種蒔きのたとえが、思い出されました。信仰生活に招き入れられた人のタイプを、道端と石地と茨の中と良い土地とに蒔かれた種にたとえられているのです。8章13節『石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである』。結局、一時の熱心よりも、むしろその後の長い紆余曲折の方に、意味があると聞こえて来るのです。
続いて今度は逆に、イエス様の方から『わたしに従いなさい』と言われたケースです。その人はまず『父を葬りに行かせてください』と答えました。息子が父親の葬儀を行なうことは、ユダヤ教では、律法に規定されている、他の宗教的義務を免除される程に、優先される宗教上の義務ということです。しかしイエス様は『あなたは行って、神の国を言い広めなさい』と言われました。ここは、葬儀には行ったとしても、形式的な風俗習慣に、縛られないようにと聞きます。いわゆる律法主義に見られるような、表面的人間的体裁や自己満足に、気をつけなさいと言うのです。ここでまた、イエス様の言葉が思い起こされます。安息日には一切、仕事はしてはならないという律法があります。病人への治療行為も禁じます。しかしイエス様は、しばしば、その律法を破りました。その時の言葉です。ルカ6章9節『安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか』。ここにも、ズレがあります。
最後に『イエス様に従いますが、まずは家族にいとまごいに行かせて下さい』というケースです。家族は自分のことを、良いも悪いも、全てを知っています。だから、嘘も隠しもなく安心して、何でも頼れる存在です。あたかも、神様のようです。だから平和に包まれた気持ちにもなります。ただし、家族は目に見えますが、神様は見えません。本音は見えるものに、建前では見えないものにという、本音と建前の使い分けです。これもまたキリスト信仰にも起こりがちです。それを断ち切らせるような、イエス様の言葉が思い起こされます。ルカ12章51節『あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ』。私たちが思う平和と、イエス様が思う平和とにも、大きなズレがあるようです。その場だけ、その時だけの、限りある平和と、永遠の平和です。今日の福音書の少し前の、イエス様の言葉です。ルカ9章23-24節です。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである』。
相変わらず、神様の思いと自分の思いとのせめぎ合いの中で、どうか、神様の思いに、喜んで自ら立つことが出来ますように、キリストの教会によって、これからも導かれてまいります。