からし種 435号 2025年8月

聖霊降臨後第4主日

『名が天に書き記されて』ルカ10:1-11,16-20

今日の福音書は『その後』と、冒頭に記されてあります。それは、今日の福音書の直ぐ前での、イエス様の会話の場面の後、ということでしょう。その会話では、イエス様に従う人の、言わばその信仰の在り方を語られているのです。三通りの在り方が示されています。まず一つ目は、一時的な熱い思いに駆られて、従うケースも見られるが、それは往々にして、長続きしないこともある。だからむしろ、従ったり離れたり、紆余曲折があっても良い。少なくともイエス様は、そんな信仰の在り方もよくご存じで、受け留めて下さる。二つ目は、生真面目に規則を守ろうとする人にありがちだが、それが行き過ぎて形式的になったり、体裁を整えるのに振り回されて、本質を見失う危険性がある。少なくともイエス様は、見た目の信仰を問題にしない。三つ目は、本音と建前の両方を抱えて行くことは出来ない。少なくともイエス様は、一方を取るという、確信を持てるまで待っていて下さる。

そんな在り方を示された者たちと、それに加えて、同じ在り方を示された七十二人が任命されて、イエス様が行くつもりの、すべての町や村に二人づつ遣わされた、というのが今日の場面です。言わばイエス様の先鋒隊です。ですから、後から来られるイエス様との出会いが、町や村の人たち一人一人に適うような、道備えをするということでしょう。だから先鋒隊が主役ではない。来られる方の通る道の、障害物になってもいけない。まず遣わされる者たちは、次のように言われて、送り出されました。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』。送り出される者たちも、働き手になるのです。そして更に、働き手を送って下さいと、神様に願うように言われる。選ばれて任命されたと聞きますと、人間はどうしても、特権意識も生まれがちです。そんな特権意識を持つ者から、後から来られるお方のことを示されても、誰も出会いたいとは思わないだろう。選ばれた理由を、選ばれた者が勝手に決めつけてはならない。選んだお方の考えに従うだけです。遣わされた者はまず、そんな特権意識があるかどうか、自己吟味する事が大事です。そして、自ら吟味する謙虚な姿勢が、むしろイエス様との本当の出会いに、人々は導かれて行くのではないか。

送り出される際に『狼の群れに小羊を送り込むようなものだ』と言われました。それは言わば、命の危険に晒される程の、反対・迫害を覚悟せよ、ということでしょうか。それ程に、イエス様に従う者の在り方は、人々にとっては、従来の常識、伝統、習慣に反するような、受け入れ難いものに見えるのでしょう。逆に、そうでなかったら、むしろイエス様に出合う道備えには、なりにくいかも知れません。そうは言っても、正直、反対や迫害は怖いです。だから、ここでもまず、恐れによって、イエス様から示されたものを、伝えられない自分を、吟味させられることから始まるのです。信仰に紆余曲折があっても良いとか、信仰の見映えは問題にしないとか、本音と建前を使い分けないとか、そういう信仰の在り方は、いつも、ハードルが高いと感じます。

『財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな』というのは、唯一途に、イエス様を指し示す熱意を感じさせられます。しかし冒頭にあった、一時の熱意で始まる信仰の在り方をも、彷彿させます。一方で、何も持たないなんて、とっても不安です。挨拶もしないなんて、それでは誰も寄り付かないだろう。ここでまた、今の自分が何者なのか、熱心なのか臆病なのか、吟味させられます。ここにも、イエス様の意図が、込められているのかも知れません。

こんな状況の中で、どこかの家に入れてもらえる事態が発生したらどうか。よくぞこんな自分を受け入れくれましたと、驚きと感謝の念も生まれて来る。だから思わず『この家に平和があるように』と、むしろ言いたくなるのではないか。そして確かにこの家の人には、私が願う平和が留まっていると思う。しかしここで考えます。私が願う平和とは、私と仲間になったからの、平和なのでしょうか。そういう平和は、私との関係が悪くなれば、それは一気に失せてしまうものでしょう。それどころか、憎しみや裁きが留まることになってしまう。だから、私を受け入れない人に、憎しみや裁きを残さないように、私の平和をもう一度吟味するように促されます。私の独善的な平和なのか、イエス様の平和なのか。それを聖書は『その平和はあなたがたに戻ってくる』と、教えてくれるのではないか。

更にどこかの家に泊まって、そこで出される物を食べたり飲んだりしなさいと言われる。これは一瞬、そこまでして下さるなんて、有難いことだと思う。しかし一方で、異邦人の家に泊まったり、増してや異邦人と食事を共にすることは、ユダヤ人にとっては、律法で禁じられている。ここでも冒頭の、形式や体裁に囚われたり、本音と建前に揺れ動いている者には、悩ましい場面です。だから悩んで自己吟味することが大事だと、ここでもイエス様は、おっしゃられるのでしょう。

最後に『家から家へと渡り歩くな』と言います。これは、この町や村が、自分たちを友好的に迎えてくれる所だと思うと、この家あの家と、もっと有利な待遇で、迎えてもらえると欲が出る。そうすると、もうこの町や村だけにして、他の所に行くのは止めようと思ってしまう。それではイエス様の先鋒隊の務めは、果たせなくなってしまう。この町や村での有利な状況は、自分たちの力によるのではない。あくまでも送り出して下さったお方によるものだ。そこに目を向けることが大切なのではないか。自分を指し示していることになっていないか、ここでもよく吟味するように示されます。

そんな七十二人が喜んで帰って来て、次のように言ったという。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』。彼らの嬉しさと興奮が伝わります。がしかし、やはりここでも、誇るべきお方を差し置いて、自分たちの誇りが前面に出て来そうです。更には、誇る余りに、もはや自分たちの集団が、神の国を代表するかのような、気分にもなりがちなのです。限られたこの場所だけで、限られたこの時だけで、全ての結果結論を、得たかのようにしてしまうのです。そこでイエス様は言います。『あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい』。これは、まだ行ったことの無い、もっと広い場所へと、そしてまだ見ぬ未来へと、目を向けさせるイエス様の言葉です。

目に見える目先の事に、一喜一憂してしまいがちです。しかし、今ここで結果結論が得られなくてもいい。世界全体のそして未来の課題のために、今出来ることを果たして行きたい。キリストの教会は、そこに立たされていると信じます。

聖霊降臨後第5主日

『あなたも同じように』ルカ10:25-37

今日の福音書は『すると』という言葉で始まっております。直ぐ前のルカ10章21-24節までの、イエス様の言葉が関係しているようです。イエス様に先立って、宣教活動に派遣された七十二人の弟子たちが『イエス様のお名前を使うと、悪霊さえも自分たちに屈服する』と、喜んで帰って来た時のこと。それに対してイエス様は、そんな目先の事で喜ぶなと戒められて、続けて次のように父なる神様に祈りました。ルカ10章21節『これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』。そして続けて、弟子たちだけに言われました。ルカ10章24節『多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである』。

『すると』そんなイエス様の言葉に、その場にいた律法の専門家は、ピリッと、自尊心の琴線に触れられたようです。あんなイエスの弟子たちの方が、自分たちよりも偉いかのように、聞こえてしまったのでしょう。神様に称賛されるのは自分たちのような者で、イエス様の弟子たちは、それこそ知恵も無く、賢くない者たちだ。だから、神様に認められるはずは無い。それで、冗談じゃない、あんなイエスたちに馬鹿にされてたまるかと、イエスを試すために問いを投げかけた。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』。『先生』という呼びかけも、精一杯の皮肉です。本当に分からなくて、尋ねているわけではない。むしろイエスの返答次第で、上げ足を取ろうとしたのでしょう。イエス様の方も、そんな思惑はご存じの様です。答えるよりも逆に、問い返します。『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』。知識を自慢しがちな専門家を、炊きつけるようでもあります。

それに対して専門家は、聖書の律法を引用して(申命記6:5,レビ19:18)、イエス様も認めているように、正しく答えます。専門家だから、当然と言えば当然でしょう。ただ、それにしてもすんなりと、よく答え返したなあと思います。『私が最初に尋ねているんだから、あなたの方から、まず答えるべきでしょう』と言い返しても、良さそうだと思うからです。『何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのか』それを聖書のどの律法から引き出すのか、色々な議論もあるでしょう。専門家と言えども、そんなに簡単には答えられない問いです。彼はそれを知っていたからこそ、私ならこう答えられると、むしろそんな自分を、ここでイエス様にぶつける方を選んだのではないか。それぐらい専門家としての自分に自信があったのでしょう。でもやっぱり、炊きつけられてしまったようです。

しかしここで、もう一つ、大切な問いかけをイエス様はなさっています。『あなたはそれをどう読んでいるか』。つまり聖書をどう読んでいるかと、問われるのです。このイエス様の問いにも、専門家は答えているのだろうか。もしかしたらこの段階では、敢えてその問いには、答えていないかも知れません。次のイエス様とのやり取りで、それが明確になって来ます。イエス様が彼の答えに対して、正しい答えだ、それを実行しなさいとおっしゃられた事に対して『では、わたしの隣人とはだれですか』と、また聞き返しているのです。隣人と言っても、聖書には『このような人です』とは、記されてありません。この問いの中に、彼の聖書の読み方が、表わされているようです。マニュアル的なのです。安息日を守るという律法があります。仕事をしてはいけない日になっています。ではその仕事とは、どういうものがあるのか。それについては、聖書には書かれてありません。それで伝統として、仕事と見なされるものが、言い継がれて来ているものがあります。例えば、5m以上を歩くと仕事になるというものがあるようです。その考え方の延長線上で、例えば自分から5m以内にいる人が隣人だ、という概念を持ちつつ、イエス様の返答を待ち構えていたのかも知れません。もちろん、何故5mなのか、6mではだめなのか、色々な議論が発生しそうです。そこに上げ足取りのチャンスも、生まれるでしょう。実にあれかこれかの、デジタル風の聖書の読み方です。しかも『自分を正当化しようとして』問い返したというのです。自分を正しくするための、マニュアル扱いのような、聖書の読み方です。そしてこのようなイエス様の問いかけは、今ここで聖書を読んでいる、この私たちに向けられている、問いかけのようにも受け留めます。

『隣人とはだれですか』との専門家の問いかけに対して、イエス様は『善いサマリア人』と言われる、たとえ話をします。それは、ただデジタル的マニュアル的に答えを与えるのではなく、あくまでも考えさせるためです。敢えて言えば、アナログ風です。更に言えば、五感で感じるように考えさせるようです。追いはぎに襲われて、重傷を負ったで良さそうなのに、その襲われ方が、実に微に入り細に入り描写されているからです。重傷を負った人を目の前にした、祭司、レビ人、サマリア人の三人を登場させます。そして、正統派ユダヤ人からは、汚れた人たちとして、差別されていたサマリア人だけが、その重傷の人を介抱したのです。その時にも『その人を見て憐れに思い』と、聖書は記しております。この表現も読者には、五感を働かせるように促されます。たとえの最後にイエス様は尋ねました。『あなたはこの三人の中で、だれが重傷の人の隣人になったと思うか』。『だれが隣人』ですか、ではなく『だれが隣人になった』という問いかけです。これも、アナログ風です。専門家は答えました。『その人を助けた人です』。サマリア人と口に出すのも、汚れてしまうと思ったのでしょうか。『三人の中で』と尋ねられたので、サマリア人が正解なのでしょう。しかし『三人』という人数制限が無ければ、宿屋の人だって、助けた人になるのではないか。この専門家は最後に、無意識にも、アナログ風に答えさせられてしまったのです。

先週8日(火)にNHK総合の『クローズアップ現代』という番組を観ました。料理研究家の土井善晴さんが『“ええかげん”でいい』という視点から、家庭料理の魅力を語られていました。忙しい現代の中で『料理へのプレッシャー』や『完璧さへのこだわり』から自由になって、もっと楽しく、自分らしくするための料理のヒントが示されていました。番組の冒頭で土井さんが『家庭料理には正解がない』というテーマで、味噌汁作りを通してその思いを伝えていました。『味噌汁はこう作るべき』という固定観念を外し、そのとき家にある材料を使い、五感で調整しながら作る。その“適当さ”こそが、家庭料理ならではの自由さと楽しさだというのです。土井さんは、家庭料理に『いつも同じであること』や『完璧な出来』を求めない姿勢こそが、毎日を心地よく暮らす知恵であると語っていました。更に『自分にとっての“ええかげん”は五感で探すもの』と言うのです。レシピ本の数字に頼るよりも、実際に見て、触って、においを感じて、音を聞いて、味を確かめながら作ることが大切。料理は理屈ではなく、体験の中で感覚を育てるものだというのです。ここの家庭料理を、聖書の読み方や信仰生活に置き換えて、考え見たらどうだろうか。イエス様の例え話は、まさしく五感で考えさせられるものではないか。

最後にイエス様は『行って、あなたも同じようにしなさい』と、これまた究極的なアナログ風の勧めをされます。『同じように』というのは、まさに色々です。近寄って傷の手当をする。宿屋まで連れて行く。一緒に宿泊して、一晩中介抱する。宿泊代や治療費を負担する。これらの一つを行っても『同じよう』でしょう。全部行っても『同じよう』でしょう。それぞれが、出来る範囲で行うのが『同じように』ということなのでしょう。ここには、デジタル的マニュアル的発想はありません。結局、アナログ風な生き方を、それこそ土井流で言えば『“ええかげん”』に『行って、あなたも同じようにしなさい』と、イエス様は今のこの私たちにも、おっしゃられているのです。そしてそこから、イエス様の私に対する思いを、五感で感じ取って行くのでしょう。

聖霊降臨後第6主日

『心を乱している』ルカ10:38-42

今日の福音書の箇所の直ぐ前の、先週の福音書の箇所は、いわゆる『善きサマリア人のたとえ』と呼ばれる、イエス様のたとえ話が語られた所でした。永遠の命を得るために、神を愛し、隣人を愛すると聖書から聞き、では『隣人とは誰ですか』と問われて、イエス様がそのたとえを語られたわけです。隣人を愛することが話題となっておりましたが、では神を愛することについてはどうなのか。それが、今日の福音書の話題として、ルカ福音書は記されていると思うのです。

『マルタとマリア』という小見出しが付けられてあります。イエス様は、七十二人の弟子たちを、先鋒隊として村々に送り出し、その後からそれぞれの村に入って、宣教活動をされました。今日の箇所は、そんな経緯があって、イエス様がある村に入ったということでしょう。先鋒隊によって村人たちは、イエス様が来られることを知らされていた。それでイエス様から神様のお話を聞くために、家を開放してくれた、マルタとマリアと言う姉妹の家に集まったのでしょう。マルタはイエス様を始め、弟子たちや村人の接待のために、せわしく立ち働いていた。客たちは、歩き疲れていたり、喉が渇いていたり、道の埃にまみれていたりで、心温まるお世話は、有難かったでしょう。そんなマルタの熱心なもてなしもまた、隣人を愛することになるでしょう。そしてまたイエス様も喜ばれることですから、結局、神を愛することにもなるでしょう。ところが余りも忙しいのと、妹のマリアがお手伝いしないのに、マルタは腹を立てた。それで神様や隣人に向けられていた、愛する思いが乱されて、不公平な立場に置かれている自分に、思いが向けられる事になってしまった。更に不平不満を、イエス様にまでぶつけて、手伝うようにマリアに言ってくれとまで、頼んでしまった。

そのマリアはイエス様の前に佇んで、神様のお話に聞き入っていたのです。しかしここには、当時の時代背景を考える必要があります。イエス様は、言わば聖書を教える先生として振る舞われ、人々は、言わば生徒のようにして話しを聞く。これが聖書を学ぶ当時のスタイルでした。がしかし、そこに集まる生徒は、男性に限られていたわけです。当時の常識として、女性はそんなふうに先生の前に来て、話を聞くことはしないのです。むしろ話を聞いている男性たちの、接待をするのです。マルタは常識に沿って接待する。マリアは常識に反して、男性と同じ行動に出た。

ここはイエス様だからこそ、話しを聞いてくれることに喜んだだろう。と申しますのも、マリアはここで、当時の常識に反する行動に出ていたわけです。それを喜ぶことは、イエス様も反する者になるわけです。しかし、安息日に働いてはいけないのに、病気の人を癒したりする方ですから、そんな訳の分からない常識は、気にされないのでしょう。そんなイエス様を喜ばせるマリアは、神様を愛していることになるだろう。ただし、イエス様の前に佇んで、見た目は話に聞き入っているようでも、心の中は別のことを考えているとしたら、それは神様を愛していることにはならないでしょう。ただこの場面を考えますと、イエス様の周りに集まっているのが、マリア以外は男性たちだけでした。そんな中に常識を超えて、女性のマリアが一人だけ入り込むのは、相当の勇気がいるだろう。また厳しい批判の目に、晒されることにもなるだろう。それを覚悟で、マリアは話に聞き入っている。これは心から真剣に、話に聞き入っているのだろうし、神様は喜ばれるし、愛していることになる。ただしここで、マリアにとっての、隣人を愛する、ということについては、どうなるだろうか。ただ一途に、神様を愛しているのは、良いことだ。しかしそれによって、マルタという隣人が、不愉快な思いをしているとしたらどうだろうか。いやそれは、マルタの問題で、私は神様に喜ばれているからそれでいい、と言えるのだろうか。いわゆる独りよがりの独善的な信仰の在り様が、思い浮かびます。ですから、話しを聞き終わった後の、マリアのマルタに対する振る舞いが、問われるでしょう。お詫びを言って、後片付けを手伝うのも良いでしょう。一方マリアはこの後、色々な非難中傷を、周りから受けるかも知れません。その時にマルタは、隣人としてのマリアに、どのように配慮して行くのか、またここでも問われて行くように思うのです。多分マルタは、マリアを庇うのでしょう。

神を愛することと、隣人をあいすることとを、先週と今週とで、順番に取り上げて来ましたが、むしろ言わば、表裏一体のようにも示されるのです。マルタが接待に回るのは、もちろん隣人が喜ばれることになる。それはまた、それ故に、神様が喜ばれるようになることでもある。そしてまた、そうする中で、不平不満が沸き起こる自分自身をも、見つめ直されるのです。マリアは、常識や周りの目も気にもせず、一途に神様に向かうのは、大いに神様に喜ばれるものです。しかし一方で、隣人がないがしろにされてしまう事態が起こされるならば、それはそれで神様は悲しまれることになるでしょう。そんなふうに考えますと、一人の人間の中でも、神を愛することと、隣人を愛することとが、場面や時を変えつつ、交互に問われて行くように示されるのです。

更に、今日の福音書のルカ10章42節『しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』とあります。マリアが選んだ行動の方が、唯一良いことだとも、受け取られるような言葉です。ここの『マリアは良い方を選んだ』というのは、原文のギリシア語にこだわりますと『マリアは良い方の割り当てを選んだ』とも訳せます。『割り当て』はギリシア語で『メリス』と発音します。辞書には他に『部分・区分・分け前』と出ていました。例えばここでは『割り当て』と訳して、人々への接待と、御言葉の傾聴という、二通りが割り当てられているとする。マリアにとっての良いと思う『御言葉の傾聴』という割り当てを、マリアは選んだ。そして、どちらの割り当てを選んでも、それぞれが『神を愛し隣人を愛する』ということにおいては、必要な唯一つなのです。マルタは人々への接待をして、隣人を愛し、心を乱して不平不満を持つ自分に気づきつつ、また神を愛して行く。マリアは御言葉への傾聴で、神を愛し、心を乱して独善的になる自分に気づきつつ、また隣人を愛して行く。複数の人間が、割り当てを分担して、神を愛することと、隣人を愛することとが、果たされて行くことも、必要な唯一つとなることではないだろうか。今日皆さんは『御言葉の傾聴』のために集われています。そしてそんな皆さんのために、様々な交通機関で働いて下さっている方々がいて、それ故に愛して下さっているのです。

私たちも、キリストの教会の、神であり且つ人である、イエス・キリストによって、神を愛し隣人を愛する者に、心を乱しつつも、造り変えられ続けて行こうではありませんか。

聖霊降臨後第7主日

『求める者に聖霊を』ルカ11:1-13

今日の福音書の始まりは、イエス様がお祈りをされたという所からです。特にルカ福音書には、お祈りをされるイエス様のことが、しばしば描かれています。そんなイエス様に従う弟子たちも、お祈りについては、それぞれに考えさせられることもあったのでしょう。今日の場面は、そんなイエス様がお祈りから戻られると、弟子の一人が次のように言ったということです。ルカ11章1節『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』。ここのヨハネとは、イエス様が公に宣教活動を始められる前に、その到来を予告して、露払いのような役目を担った、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物のことです。ヨハネはイエス様が、来るべきメシアであることを告げるわけですが、イエス様が、その来るべきメシアであるかどうか、途中で一時的には迷ったこともあったようです(ルカ7:18-19)。それでイエス様の登場以後も、メシアを見定めるために、引き続きメシアの到来を告げる宣教活動を、ヨハネは続けていたのでしょう。ですから、イエス様の宣教活動と、ヨハネの宣教活動とが、併存する時もあったのかも知れません。少なくとも弟子のレベルでは、両陣営がライバル関係にも、あったのでしょうか。先程引用したイエス様の弟子の一人の願いも、ヨハネの弟子たちを、ライバル視していたものからなのでしょうか。自分たちの方が一枚上なんだという、そんな思いがあって、自分たちも気の利いた祈りをしたい、いやしなければならないと、思ったのかも知れません。

そこで『わたしたちにも祈りを教えてください』というのは、祈りの何を教えてもらいたかったのか。美辞麗句で散りばめられた、高尚な祈りの言葉か。あるいは、全てを網羅するような、完璧な祈りの内容か。とにかく人に聞かれても、恥ずかしくないような祈りを求めていたのか。それに対してイエス様は、現代の私たちキリスト教会が唱え続けている『主の祈り』の原型になる祈りを、ここで教えておられるのです。まず『父よ』と呼びかけられます。これは神様のことですが、幼児言葉を用いたということです(cf.ローマ8:15)。例えば私の6歳の孫は、自分の父親を『とっと』と呼んでいます。それを拝借すれば『主の祈り』の始まりの『天の父よ』は『天のとっと』になるわけです。弟子たちはここで、気の利いた高尚な祈りの言葉を求めていたとするならば『とっと』は、腰砕けになるかも知れません。祈りで良く見せようとする弟子たちの在り様を、まずイエス様は戒められるようです。

しかしこの後イエス様は、弟子たちが期待していたような、高尚とも思える言葉を用いられます。ただその内容を見ますと、深く考えさせられます。『祈り』と聞きますと、どうしても『ああして下さい、こうして下さい』という言葉が、思い浮かんでしまいます。そうではない場合でも、いわゆる信仰者を装わせる、手段や道具のような祈りにしてしまっていることを覚えます。ですからここで、イエス様は祈りに欠かせない、大切な要素のようなものを、教えて下さっているのです。一つはまず、祈る対象の神様の尊厳を、明らかにするのです。いきなり『これ頂戴』ではなくて、むしろ既に頂戴していることを忘れるなと、言わんばかりなのです。だからまず尊重して感謝するのです。そしてそんな神様の支配が、天上ばかりでなく、あるいは理想のようにしないで、この地上においても、明らかになるようにして下さいと祈るのです。そして、お待たせしましたと言わんばかりに、人間にとって最も大事だと思ってしまう、毎日の必要な糧を頂戴と、祈っていいと言うようです。しかしそんな人間にとって、永遠のテーマになる罪の赦しを、忘れないように祈れと言います。罪とは、自己中心的なもの、あるいは神のようなものになることです。そんな罪を忘れさせる誘惑が、人間に働くことを、よくご存じだからです。それで、誘惑に遭わせないで下さいと祈れと、教えられるのです。

このように、ここでイエス様が教えて下さる祈りは、どういうお方に向けて祈り、だからその方と私との関係はどんなものなのか。だからこの私は何者なのか、それらを明確にされながら、不可欠な祈りの要素が示されるのです。祈りの冒頭で神様に向かって『とっと』と呼んでしまうのは、この神様は私にとって、なめるように抱きしめて、愛し尽くしてくれるお父さんだからでしょう。そういう親子関係にある神様に祈るのだと言う。そんな子なる人間と『とっと』なる神様との間で、祈ることで何が起こされるのだろうか。どのように祈りが聞かれて行くのだろうか。それをイエス様は、続けて次のたとえ話で示されるのです。

旅行中の友達が真夜中に自分の所に来て、食べ物を求められたがないので、別の友達の所に行ってパン三つを、貸してくれるように頼んだ。しかし家族も寝静まっていて、対応出来ないと断られた。ではどうするのか。それをイエス様は、次のように言うのです。ルカ11章8節『その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう』。友達だという義理人情に訴えても、応えてくれないこともある。そうではなく『しつように頼め』と言うのです。そうしますと、ここの頼む相手は、もはや目の前の人間ではない。見えない『神様』なのだ。しかも人間の父親は、魚を欲しがる子供に蛇を与えることはないし、卵の代わりにさそりを与えることもない。ましてや天の『とっと』は『求める者に聖霊を与えてくださる』と言うのです。

次の聖書箇所が思い起こされます。ローマ8章14節『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです』。ですから、天の父なる神様を『とっと』と呼べる程に、あらゆる疑いや恐れもない、ただ無条件に頼れる親子関係に入れられるのは、神の霊、すなわち聖霊によるのだと言うわけです。結局、祈りが聞かれたと分かるのは、聖霊が働いて、それに動かされる人を通してなんだと示されます。聖霊は人を生かし用いるように、人を動かすものです。しかも、祈る者にも働いて『しつように』祈ることが出来るようにして下さる。今日のたとえの中の友人は、直接的には目の前の友人に頼んでいるようですが、その向こうにおられる天の『とっと』にしつように頼んで、そのように自分が祈れるように、聖霊に動かされる。そして聖霊によって、友人は動かされて、パン三つを貸してくれるようになるのでしょう。二週間前の礼拝で読まれた『善きサマリア人』のたとえでは、重傷を負った人が、サマリア人に助けられました。祈りは何も、言葉を通じてだけではない。様々な感情によって起こされる振る舞いを通じても、祈りになる。重傷を負った人は、聖霊によって動かされて、その身を通して祈った。サマリア人はそんな重傷を負った人に出合い、聖霊によって、介抱するように動かされて行った。冒頭で、ヨハネはイエス様の露払い役を担った人物だと申し上げました。その際に、次のように彼は語っています。ルカ3章16節『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』。キリストの教会は、聖霊と火で洗礼を授けられた信徒の群れです。

キリストの教会の聖霊によって、恐れず、疑わず、あきらめずに祈り、聖霊によって動き、動かされ、たくさんの祈りの課題の実現に、立ち会わせて頂こうではありませんか。