からし種 436号 2025年9月

聖霊降臨後第8主日

『どんな貪欲にも』ルカ12:13-21

ルカ12章1節によりますと『数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった』という、そんな大勢の群衆の中の一人の発言が、今日の福音書の始まりになります。その発言の内容は、実に個人的なことでした。大勢の群衆にして見れば『そんな個人的な話をここでするのか。場を考えてよ』とは思わないだろうか。もっとも忙しいイエス様を捕まえられるのは、今この時しかないと思ったのかも知れません。いずれにしてもイエス様は、その一人に反応されたわけです。ただし『私にそんなことを願われても困る』みたいな雰囲気で、叱責するかのようでした。しかしその叱責は、その人だけでは無くて、他の群衆にも聞かせるようにしたのではないか。大なり小なりみんなも、一たび自分のことになれば、切実ですから、周りのことも見えなくなってしまうでしょう。願い出の内容も、お金にまつわることですから『他人ごとでは無いでしょ。あなた方も強く関心のあることでしょ』と言うことなのです。

それで『どんな貪欲にも注意をしなさい。人の命は財産ではどうすることも出来ない』と言って、ある金持ちの例え話をされたのです。もう一度、概観します。ある金持ちの畑が豊作で、収穫された作物をしまう倉が小さくて、思い巡らした結果、もっと大きい倉を建てて、安心して独り言を言ったという。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』。それに対して神様は『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。そしてイエス様はこの例えから『自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ』と結論付けるのです。

このたとえの中の金持ちは、貪欲で、命はお金でどうにでも出来ると思っている、そんな人物として、イエス様は登場させているようです。ここで貪欲と訳されているギリシア語ですが『プレオネクシア』と発音します。辞典には次のように説明されています。『もっともっと自分のものとして取り込もうとする欲望・人の権利を踏みにじってまで自分の所有を増やそうとする欲望・取ってはならないものまで無理に手をのばして取ろうとする欲望』。何だか、心当たりの人物が、今も結構いるなあと思ってしまいます。そしてこれは、他人ごとでも無いとも反省させられます。

また『命はお金でどうにでも出来ると思っている』と、表立って言われてしまいますと『そんなに傲慢ではありません』と、一応誰でも否定はするでしょう。この例えの金持ちは、畑が豊作だったのですが、それだけ丹精込めて、畑仕事をしたのではないでしょうか。その結果の豊作ですから、これは普通に、褒められるべきことでしょう。そして豊作の収穫物を納める倉が小さかったので、思い巡らして大きくしたのです。ここで『思い巡らした』と、わざわざ記されている事が興味深いです。この後、大きな倉を建てて、そこに全財産を納め終わった後『これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ』と独り言を言ったという。ですので、恐らく、今後の生活設計を踏まえての、思い巡らしだったのでしょう。そう考えますと、これも他人ごとでは無い。自分もいつでも、似たような思い巡らしをしているではないか。そして、ささやかでも蓄えに安心して、ひと休みをする気になります。そして、少し贅沢をしようとも思います。もちろん、これから先何年も生きて行くことが出来るのか、落ち着いて色々な条件を考えて見れば、保証されない事は分かっています。がしかし、取り合えず、まあ、普通に考えれば、生きて行くことが出来るでしょうと、そこに落ち着いてしまっているのです。

そこで例えの最後に、神様は、ガツンと一発かまされます。それは、自分も改めて考えさせられる事です。実は自分も、取り合えずは少なくとも、10年位は生きて行かれるでしょうと思っています。ただし、明日死のうが、10年先に死のうが、所詮、死ぬことには変わりは有りません。結局、少しでも長生きしよう、そのためにはお金がいるんだ、ということです。生きるとは、そんなことなのだろうか。そこで例えの冒頭の『人の命は財産ではどうすることも出来ない』という、イエス様の言葉に注目します。ここの『人の命』と訳されている『命』とは、普通に考えている、長生きする『命』とは違う意味のギリシア語が、ここだけは使われているのです。『ゾーエー』と発音する言葉です。辞典の説明を引用します。『生きたものにしている根源的エネルギー・肉体の中にそれを生かす神の息が働いていること・復活であるキリストを通して生命の源泉である神から受けて維持される命』。一言で言えば、神様と繋げられている命。あるいは、自分がここに存在している意味を教える命。そしてそれを可能とするのが、復活のイエス・キリストだと聖書は言うのです。

例えの最後のところで『お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と、問われています。丹精込めて畑を耕して、豊作を得たのは、あなたの功績でしょう。それでも、それらの豊作は、本当にあなただけの力によって、産み出されたものなのか。光も水も土も、そして建てられた倉の材料も、更には畑の作業や倉の建築に、携わってくれたたくさんの人々もいたかも知れません。『だれのものになるのか』と問われれば、これはもう神様のものだ。それに、全ての人間たちで分かち合うものなのだと、言わざるを得ないのです。それが、自分のために富を積むのではなくて、神の前に豊かになることだと、聖書は言うのではないか。

日経新聞朝刊の毎週土曜日には『半歩遅れの読書術』というコラムがあります。各界で活躍されている方々が、何回か担当されているものです。先々週の7/26日は担当の、お笑い芸人の小島よしおさんが『助け合いの精神 命つなぐ』と題して、キリスト教社会運動家の賀川豊彦さんのことを書かれていました。取材で、東京上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館を訪ねて、賀川さんのことを知ったそうです。記事を所々引用します。『・・私は100年の時を経て、遅ればせながら賀川に魅せられたのだ。子ども、農民、労働者・・賀川は常に立場の弱い人のために行動した。そして相互扶助や助け合いの仕組みをつくった。・・日本だけでなく世界で貧富の格差は拡大し続けている。<今だけ金だけ自分だけ>の考え方に疑問を覚える人も多いはずだ。迷った時は、原点に立ち返ろう。我々の祖先のホモ・サピエンスは弱い種族だったが、助け合いをすることによって生き延びてきた。その遺伝子を持つ我々に必要なのはやはり助け合いなのではないだろうか。・・助け合いの精神を実践することで未来に希望を残したい。人は死んでも志は死なない。無理はせず、手の届く範囲でのヒーローを目指そう』。

現代の私たち日本人にとって、他にも原点となるのに相応しいものがあるのではないか。それは、世界で唯一の被爆国に生きるというものです。今週6日は広島原爆、そして9日は長崎原爆を、それぞれ覚える日を迎えます。世界に向けて、本当の助け合いの平和の絆が立ち上げられて行くように、声を上げ行動し続けて行こうではありませんか。

聖霊降臨後第10主日

『時を見分ける』ルカ12:49-56

今日の福音書の始まりは、イエス様が『地上に火を投ずるために来た』と言われたところからです。イエス様に対しては、優しい穏やかなイメージがあります。『火を投ずる』とは、何だか穏やかではありません。熱烈な問題意識が、このように発言させたのでしょうか。ちなみに、聖書の中では『火』を引用することは珍しくありません。それが象徴するのは、悪いものを焼き滅ぼす裁きであったり、悪いものを拭う清めの力であったり、火の中から神が呼びかけるという、神の臨在を表すものであったりします。今日の場面は『その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか』と、イエス様がおっしゃられていますから、裁きの火が念頭にあるようにも思えます。悪いものが一気に焼き滅ぼされてしまえば、事は簡単ですし、スッキリするかも知れません。イエス様も、そんなスッキリ感を求めたのでしょうか。しかし一方で、イエス様が存在する意味と使命を考えれば、簡単に焼き滅ぼせばそれで済むだろうとは、ご自身では想定されておられなかっただろうと思います。私たち人間も、その裁きの火がまだ燃えていないという事であれば、今は焼き滅ぼされないように、びくびくしながら生きて行かざるを得ないのでしょう。そしてそんな生き方に、果たしてどんな意味を見出して行ったら良いのでしょうか。

この後に続けてイエス様は、その存在の意味と使命について言及されています。受けねばならない洗礼があり、それが終わるまで苦しまれると言うのです。イエス様がここでおっしゃられる洗礼とは、十字架の死と復活のことです。聖書によれば、その十字架に至るまでには、様々な苦しみや反発を被られています。と同時に、十字架の出来事に立ち会う、周りの人間たちにとっても、憎しみ、妬み、自己正当化、自己防衛、責任放棄、裏切りなど、自分たちの中に根深く巣食っているものを、浮き彫りにさせられて行くのです。そしてこれらこそ、冒頭で申し上げた、焼き滅ぼされなければならない『悪いもの』なのではないか。そんなイエス様の洗礼とは別に、教会ではいわゆる入信の儀式と言われる、人間たちが受ける水の洗礼があります。そんな教会で受ける人間たちの洗礼と、イエス様が今日ここでおっしゃられる洗礼との関りについて、初代教会の伝道者パウロが、ローマ6章3-5節で次のように告白しております。『それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、その死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう』。悪いものを中に秘める人間は、キリストと共に、悪いものもろとも水に沈んで死ぬ。そして、キリストと共に水の中から起き上がる。これが教会で人間たちが受ける洗礼だという。この洗礼を受けた後は、人間的価値観が覆され、造り変えの生き方に導かれて行くのです。

教会の洗礼は繰り返しますが、悪いものを抱える人間とキリストが、一緒に水に浸かるものです。それは言わば、キリストが悪いものの当事者にもなって下さるということです。こうして人間は、悪いものの当事者だと一層明らかにされるのです。悪いものからの傍観者や評論家ではないのです。イエス様はここで、平和ではなく分裂を齎すために来たとおっしゃられます。しかも一番信用できると思っている家族同士でも、分裂が起こると言っているのです。家族とて一人一人は、悪いものを抱えている人間に過ぎないからです。自分は正しいもので、あの向こうの悪いものを、誰かが打ち滅ぼしてくれれば、平和になると思っているかも知れない。そんなふうにお客様の自分に、誰かが平和を与えてくれるものだと思っているかも知れない。少なくともイエス様なら、そうしてくれると思っているかも知れない。でも、そうではない。むしろ分裂を、当事者として見ろと言うのです。そこに何が見えますか。あなたが抱えている悪いものが見えますか。それとも、相変わらず相手の悪いものだけを見ていますか。

日本の8月は、様々に平和を考えさせられる機会が与えられています。第二次世界大戦の末期に、米国の従軍カメラマンが撮影した、ヨーロッパ戦線の実写フィルムが、先日、NHKテレビで放映されていました。連合国軍によって解放されたパリでの、人々の行為に驚かされました。同じフランス人なのに、ナチスドイツの支配下で協力していた人々に対して、見せしめの集団暴力や、女性はカメラの前で、丸坊主にされていました。勝者による敗者への、しかも同じ民族同士での復讐です。撮影していたカメラマンが告白していました。『自分はナチを憎む。しかし自分の中にもナチがいる』。

それから8/13日の日経新聞朝刊で、作家の五木寛之さんが、朝鮮半島からの引き揚げ体験を『悪人として生き延びた』と題して、書かれていました。所々引用します。『・・私たちは地獄のような体験をした。積極的に語って来なかったのは、一方的な被害者ではない、という思いがあるからだ。例えば、国境を越えるトラックに3人しか乗れず、5人がしがみつけば仲間2人を蹴落とすしかない。・・優しい人が生き残れず、他人を蹴落とす悪人が生き延びた。・・平壌で魂を揺さぶられる体験があった。飛行場で働いた帰り道、旧ソ連の囚人部隊を見た。軽蔑と嫌悪の感情を抱いて見ていると、力強い歌声が聞こえる。・・高音と低音の重層的な美しい響きに立ち尽くしてしまった。・・愚連隊のような集団の歌声が心を動かすはずがない。・・大きな命題にぶつかり、解き明かしたくなった。引き揚げ後、ドストエフスキーやトルストイをむさぼるように読んだ』。

最後にイエス様は言われます。『偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか』。まず『偽善者よ』との呼びかけにハッとさせられます。さも正しい人間であるかのようなふりをしたり、演じたりしている自分のことではないか。ありのままの自分を、まずは正直に見つめ直せと促されます。そして『空や地の模様を見分けることは知っている』ということから、次のように戒められるようです。人間が長い間経験して来ている自然現象の背後には、揺るぎない法則のようなものがある。それに謙虚に信頼して学んでいるではないか。と同時に、自分勝手な観測や願望は、絶対化しないようにしよう。同じように、今の時の背後には、時代を超えて、絶対に変わらない正義と真理がある。それをどこで、どのように見分けて行くことが出来るのだろうか。一人一人に問われている。

 8月が過ぎて、これからもずっと、キリストの教会によって『今の時を見分ける』生き方へと導かれて行きたい。人間的なものが、神のように絶対化されないように。分裂から見るべきものを見据えて、同じことが繰り返され続けないように。

聖霊降臨後第11主日

『偽善者たちよ』ルカ13:10-17

今日の福音書は『安息日』と言う言葉から始まっております。この安息日とは、いわゆる十戒と呼ばれる、ユダヤ教で定められた十の戒めの中の一つに言及されているものです。旧約の出エジプト記20章1-17節に、その十戒が記されてあります。この十戒は、エジプトに移住していた大勢のユダヤ人たちが、代々よそ者であるが故に奴隷とさせられて、様々な差別や迫害を受けていました。そんな時に、聖書の神様はそんなユダヤ人たちを、モーセをリーダーに立てて、エジプトから脱出させ、元々住んでいたパレスチナに導き入れてくれたわけです。その際に、神様はこの十戒を与え、それを通しての、パレスチナでの再出発の生き方を示されたのです。

まず戒めを与えるに当たって、神様は次のように言います。出エ20章2節『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である』。これが先立っていることが大切です。これがあって次からの十の戒めが与えられるのです。神様がこんな自分を助けてくれた。そして神様が与えてくれた十の戒めによって、相応しい生き方に喜んで応えて感謝して、生かされて行こうという流れです。この流れの方向を間違えてはいけません。逆方向になると、十の戒めを守るから、神様は助けてくれるという、神様と取引をするような、誤った生き方になってしまいます。安息日の戒めは、出エ20章8-11節に記されてあります。所々引用します。『安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、・・七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである』。六日の間、天地創造に励み、完成の喜びを神様は七日目に味わった。それが『安息日を祝福して聖別された』ことの意味です。それは私たちが、何か工作をして、喜んでその作業に励み、完成した喜びを味わう、そんな姿にも似ています。いずれにしても安息日は、天地創造の、そして救いの働きの神様は唯一だと、思いを向ける日です。そのために必要なら、仕事を中断するのです。

こんなふうに安息日の戒めの原点と意味を考えますと、ただ見た目では、仕事をしていないから、この戒めを守っている、ということにはならないでしょう。見えない心の中が問われるでしょう。私たちは仕事をして収入を得て、その収入が多くなる毎に、社会的地位や権力の高さ強さに、目を奪われがちです。それと同時に、自分中心の世界を築き、他者への関心が薄れて行ってしまいがちです。そんな人間のことをも、神様はよくご存じです。だから、せめて七日に一度は、天地創造の働きと、救いの御業を齎す神様を唯一として、思い起こすことが出来るように、安息日を備えて下さったのです。それからもう一つ、他者に目を向けるようにも促すのです(出エ23:12)。そのためには、仕事を中断して、神様に向き直ることの出来る環境を整えるのです。ただし仕事をしていても、創造と救いの神様と他者を思い起こすことが出来るならば、仕事を中断する必要もないのでしょう。

今日の福音書に描かれている人々からは、冒頭で申し上げた、救われたから十の戒めによって、相応しく生かされて行こうという流れとは、逆方向になってしまっているように示されます。何かをしたから救われる、という方向の方が分かり易いのでしょう。今日の場面は、安息日に、会堂でイエス様が教えておられたということです。今のキリスト教会の、日曜日礼拝に相当するものです。イエス様は言わば、その礼拝の説教者に立てられていたのでしょう。その礼拝には、18年間も病の霊に取りつかれている女性もいたようです。礼拝の最中かどうかは分かりません。いずれにしても、大切な意味がそこに示されるのです。イエス様はその女性を呼び寄せて、その病の霊を追い出し、病気が治ったということです。それに対してその女性も『神を賛美した』。この一連の流れを、こんなふうに簡潔にして見ます。人々が礼拝に集まる。個々に悩みや問題を抱えつつ祈る。聖書の解き明かしがある。そこに救いの癒しが引き起こされる。賛美がある。これはもう、今も、キリストの教会の礼拝で、引き起こされている出来事そのものです。

ところが会堂長は、イエス様が、安息日の律法に違反していると言うのです。緊急性も無いのに、よりによって安息日に、医療行為という仕事をしてしまっていると言うのです。礼拝は神様と、そこに集う会衆との、応答の場です。ですから神様はもちろんのこと、周りの人間たちとの交わりの場でもあります。そうやって、互いに天地創造と、救いの御業に思いを馳せ、祈り合う場です。しかしこの時の会堂長には、神様や他の人間たちのことが、視野に無いようです。特に、18年間も病の霊に取りつかれている女性に対して、特別、関心もなさそうです。治してもらいたかったら、こんな安息日に来るな、ぐらいに思っていたでしょうか。余りにも自分が戒めを守ることだけに気を取られて、他者の苦しみ悩みに共感出来る余地を、失っているようです。

次のイエス様の言葉も印象的です。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか』。自分の財産ですから、牛やろばは大切です。安息日を、二の次にしてしまっているようです。イエス様は、安息日には牛やろばには水をやるな、とは言っておられません。安息日を守るにしても、自分優先の姿勢を問題にしているのです。まさしく偽善者なのです。冒頭の安息日を守る原点と意味を考えれば、毎日でも神様に思いを向けているのが本来でしょうか。しかし現実生活の中では、それが難しいことも神様はよくご存じです。だからむしろ、無理して偽善者にならなくていい。週に一度であっても、まともに安息日を守れない自分です。そんな自分を正直に差し出せばいい。安息日の礼拝を、信仰の熱心さの、踏み絵の場のようにしていないだろうか。踏み絵どころか、皆、破れや欠け多き者ではないのか。ならば踏み絵を踏むまでも無いではないか。

18年もサタンに縛られて、よく耐えて来られたなあと思われます。苦しみ続けながらも、だから神様に思いと祈りを向け続けて来られたのでしょうか。そして神様の御心の内に、この安息日に、イエス様との出会いが果たされた。この癒しの行為は、安息日だからこそ果たされたのです。

それぞれに相応しい時の安息日に、これからもイエス様との出会いが果たされてまいりますように。

聖霊降臨後第12主日

『正しい者たちが復活』ルカ14:7-14

今日の福音書の箇所も、安息日での出来事です。ただし礼拝の場では無いようです。その後の、食事会での出来事です。イエス様もそれに招かれました。安息日については、先週の礼拝でも触れました。天地を創造される神様は、六日の間に創造されて、七日目に休まれたということで、その日が安息日と定められました。人間たちも六日の間は働き、七日目は一切の仕事を中断して、安息日として休むのです。そして神様の働きを思って、祈りながらその日を過ごすのです。そこで問題になるのは、中断する仕事の内容です。それでユダヤ教では、細かくこれが仕事です、という内容が条文として、定められていました。その中には医療行為も含まれていました。ただし、例外規定もありました。緊急事態としての例外規定で、その緊急事態の内容も定められていました。結局、条文では定め切れない、例外なるものは無限です。完全かつ絶対ではない条文です。それを振りかざして、守らない他者を、裁くことが出来るのか。条文を守るにしても、大切なのは天地創造の神様を思うことです。ただし心の思いは見えません。だから、まず条文を自己絶対化、自己正当化の道具にしない。そして互いに、寛容に努めたいのです。

絶対なのは、神様のみです。今日の福音書の場面は、食事会に招待されたお客が、上席を選ぶ様子を見て、イエス様が譬えを語られた所です。ちなみに安息日だけは、礼拝の後、正午から、安息日の食事と呼ばれるものを友達や親族などと、賑やかに開くのがユダヤ人の習慣だったという事です。安息日の条文を、完全かつ絶対に守ろうとする人たちにしては、食事会の準備などは、仕事に該当しないのかとも思ってしまいます。そこがまた人間の都合が優先される、ずる賢さかも知れません。ですから、この時のイエス様の譬えは、所詮、人間は絶対ではないし、相対的なものだよと、それに気づかせるように語られていると示されます。

譬えの内容は、婚宴に招待されたら、上席を選ぶな。もっと身分の高い人が来て、席を譲れと言われ、恥をかくから。だからまず末席を選んで、それから上の方に行けば、面目を施すことになると言うのです。そしてイエス様は結論付けます。ルカ14章11節『だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』。一見、へりくだりを勧めているようにも聞こえます。しかし倫理道徳的には、これまでにも聞いて来ている事です。改めて、聖書から何を聞くのか。それは、人間同士の『へりくだり合い』ではなく、神に対しての『へりくだり』です。別の言い方をすれば、自分を絶対化しないこと。やっぱり、絶対者は神のみです。所詮、人間同士の間では、今が上だと思ったら、もっと上の人が来て、途端に自分は下になるのです。上に行ったり下に行ったり、人間同士は、所詮、相対的だよと言うわけです。

神のみが絶対者というのは、それこそ神の国です。神が支配されている状態を表します。そもそも今日の、イエス様の譬えの場は婚宴です。婚宴は聖書ではよく神の国に譬えられます。後半ではイエス様は、招待する側の人にも勧めます。友人、兄弟、親類、近所の金持ちを招待しない。お返しをするかも知れないから。むしろ貧しい人、体や足や目の不自由な人を招きなさい。お返しが出来ないからだと言うのです。『お返し』がキーワードのようです。この言葉はギリシア語で『アンタポドマ』と発音します。意味は『返礼・報復・罰・復讐』と辞典にありました。良い意味であれば『返礼』と呼ぶのでしょう。悪い意味であれば『報復・復讐』と呼ぶのでしょう。もしかして、神様の目からすれば、返礼も復讐も、同じになるのでしょうか。いずれにしても人間同士の間では、良くも悪くも、あっちに行ったりこっちに行ったり、頻繁にやり取りされるこになるのでしょう。

現実の婚宴への招待は、友人、兄弟、親類、近所の金持ちを選ぶのが常識です。所詮、相対的な人間同士の間では、仲の善い者を招待し、返礼をしたり受けたりするのです。仲が悪くなれば、報復したり復讐する。ところが、貧しい人、体や足や目の不自由な人など、そもそも関係ない人を招くことはしません。そう考えますと、後半の話からは、神の国をイエス様は、意識されているようです。絶対者なる神の支配と言う、神の国に生かされる人間こそ、与えられているとしても、与えることは出来ない、受けるばかりの自分を知らされるのです。むしろお返しすることの出来ない程のものを、既に与えられていると知らされて行く。それに感謝し、与えられたことに少しでも応えて行く生き方を、考えさせられます。

今日の福音書の直ぐ後の所です。ルカ14章15節で、今日のイエス様のお話を聞いた者が、次のように言っています。『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』。この招待客の一人は、イエス様の譬えから、神の国を思い浮かべているようです。ただ彼の価値観で思い浮かべた神の国は、イエス様が指し示すものとは、全く違うようです。イエス様が指し示す神の国は、人間が喜んで選ぶどころか、むしろ無価値で、無視するように思えるものだと言うのです。神の国では、人間的な価値観や、筋書きや、常識とは真逆なのです。結局、神の国に生かされるとは、どういうことか。それが『正しい者たちが復活するとき』だと、今日、聖書は言うわけです。もっと具体的には、キリスト教会初期の伝道者パウロが、ローマ6章3節以下で告白している所に示されます。『それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです』。洗礼とは、イエス・キリストの神の支配に生かされ続けると、告白宣言するものです。そうして、古い価値観に生きていた自分が死んで、新しい価値観に生きる復活の命に生かされるのです。

この復活の新しい命に生かされるとは、繰り返しますが、人間的な価値観や、筋書きや、常識とは、真逆なところに生かされることです。全ては絶対ではなく、相対的であり、人間的結果結論もまだ得ていないのです。起こった物事を、これが絶対で結論とせず、更にこの後に何が続くのか、次の一歩を踏み出すように促されます。今はこんなふうに見えるけれども、こんな違った見方もあるではないか。一人では見えなかったけれども、大勢で見てみると、そんな見方もあったのかと、たくさん知らされる。

日経新聞朝刊の連載記事『私の履歴書』の、今月の担当者はセルフポートレイト作家の森村泰昌さんですが、先週29日の記事で、人形浄瑠璃の人形に、自分がなって、人間浄瑠璃と銘打って、上演された時のお話です。次のような感想を書かれていました。『人間は自分の自由意志ではなく、もしかしたら人形のように、何か人智を超えた大きな力に操られているのかもしれない。私が人形になったのではなく、そもそも人間自体が人形なのではと実感できる悟りに近い体験であった』。この感想に私なりに、次のような感想を付け加えさせていただきます。『人形のような自分でも、何か人智を超えた大きな力を持つお方の、声や言葉は聴いて行くことは出来る。そんな耳を傾けるところに、私の自由意志があり、主体性が働いている』。快適、効率、便利に、更には手っ取り早く、結論を得たいと思う自分がいつでもいます。またそんな自分に応えてくれそうな、便利なものも溢れています。そんな自分を、せめて自分を超えたところに置いて、聞き耳をたてるように導かれて行きたい。

キリストの教会よって、イエス・キリストの神のみを絶対として、勝手な結果結論に揺れ動かされることの無い、多様で寛容な生き方に導かれて行きます。