からし種 437号 2025年10月
『まず腰をすえて』ルカ14:25-33
今日の福音書は、イエス様に『大勢の群衆が一緒について来た』という場面から始まっております。当時のユダヤ人たちには、ある期待がありました。当時のユダヤはローマ帝国の植民地下にありました。ですから、そんな状況から解放してくれる、昔のユダヤの統一王ダビデのような王様を期待していた。イエス様の教えや、その奇跡的な癒しの業などから、多くの人はイエス様が、あのダビデのようなお方ではないかと思っていたようです。ところがイエス様はそんな人々の、出鼻を挫くような事を語られるのです。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない』。イエス様があのダビデのような王様になって、ローマの支配下から解放して下されば、自分も家族も、みんな幸せになれると、人々はそれを願って期待している。しかしそれとは真逆の事を言われる。家族や命を捨てるなんて願うはずもないし、出来るわけがない。しかしイエス様ご自身は、人々とは違うようです。次の聖書の箇所で、はっきりと言っています。ルカ8章19-21節『さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます、との知らせがあった。するとイエスは、わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである、とお答えになった』。
それから『自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない』と言いました。この言葉も、当時のユダヤの人々にして見れば、あり得ない話です。十字架はローマの処刑方法ですが、しかも極悪人の場合です。自分たちはそんな極悪人でもないし、ましてやそれを背負うなんて、とんでもない話だと思うでしょう。しかし、当時の人々はまだ知り得ませんでしたが、聖書を読んでいる現代の私たちは、極悪人でもないのに、十字架を背負って処刑され、自分の命を憎んだ人を知らされています。それは、この話しをされている当事者の、イエス様ご自身です。人々には、弟子になるためには、親兄弟や自分の命までも捨てて、更には十字架を背負えと、出来るはずも無いことを勧めています。その一方で、イエス様ご自身がそれを行っている。ここは、あたかも弟子の条件を示しながらも、それを通して、実は人々の期待とは違う、ご自身が何者なのかを暗示されているようなのです。
続けて、そんなイエス様ご自身が、更には何を目指されておられるのか、次の話しによってまた示されるのです。まず『塔を建てようとするとき』の話しです。造り上げる前に『まず腰をすえて』建築費用を計算して、未完成にならないように考える、というのです。どれ程の塔を建てるのか、よっぽど高級で立派な塔を建てるつもりなのか、考えてしまいます。安物だったら、時間もかからないし、そんなに腰を据えてまで考える必要はありません。この塔を建てる話から、何を聞き取って行くのだろうか。それは、破れや欠け多き、罪深い人間を、天地創造の時に造られた時の、あの真っ新な状態に、もう一度造り変えられることを、暗示されているのではないか。それには、異なる一人一人の破れ具合を、じっくりと見据えて、人間も自分自身をじっくりと見据えて、今の自分が何者なのか知らされて行く。そうやって、まず腰をすえて時間をかけながら、一人一人の人間の造り変えが行われて行く。そこに冒頭で暗示されている、イエス様の働きが示されているのではないか。
続けて敵と戦う軍隊の話しです。自分と相手の兵力を、まず腰をすえて比較して見て、劣勢だと思ったら和議を申し出るというのです。ここは戦争ですから、そんなに時間は掛けられませんが、それでもじっくり考えます。和議ですからまず、そもそもの原因を考えます。譲れるところはどこまでかも考えます。自分たちにも落ち度が有るかも知れない。それは正直に改めて行きたい。また話にならない相手だとしても、そんな相手の背景も考えてみる。それで非常識な振る舞いになったのかと知ると、そこからまた話し合うように考えて行く。とにかく犠牲が極力少なく収まるようにしたい。そして願わくば、これをきっかけに、敵ではなく仲間になれれば良い。そのために、様々な可能性を、まず腰をすえて考える。ここにも、冒頭で暗示されているイエス様の働きが示されているのではないか。愛なるイエス様が垣間見えて来るのです。
そして最後にイエス様は『だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てる』ことを勧めています。ここの『同じように』ということですから、塔を建てる話も、敵と和議をする話も『自分の持ち物を一切捨てる』話なんだなと考えさせられます。私という人間の造り変えに不都合なものを捨てるということでしょうか。あるいは私という人間が、敵を作ったり、愛し合う事が出来ないようにしているものを捨てる、ということなのでしょうか。そうすればイエス様の弟子とされる、ということでしょうか。そんなふうに考えますと、捨てなければならないものは何か。素直になれない事、傲慢性、自己中心的、自己正当化、差別感情、傍観者的、などなどなど。これらは、捨てなくてはと、分かっていても、どうしても捨てられないものです。でも捨てなくては、自分は造り変えられない。どうしたら捨てることが出来るのか。どうしたら造り変えられるのだろうか。
そこで聖書の中の、造り変えられたと思われる人間たちを、思い浮かべて見ました。例えば徴税人ザアカイ。ルカ19章1節以下に描かれています。税金を集める仕事をしていましたが、不正にも手を染めていたのでしょう。そんな彼が回心させられた。あるいはイエス様の、筆頭弟子と言われるペトロです。彼は、何が起こっても、イエス様を守ると宣言していたのに、十字架のイエス様を目の前にして逃げ去った。また今日の第二日課の、フィレモンへの手紙の著者パウロです。彼は元々、キリスト者を迫害する者でした。そんな人間が、宣教する者に180度造り変えられてしまった。また印象深いのですが、サマリア人の女性とイエス様との出会いの場面です(ヨハネ4章)。昼間に井戸に水を汲みに来た、娼婦らしき女性に、イエス様は水を求めるわけです。そこからのやり取りの中で突然、あなたの夫をここに呼んで来なさいと、イエス様が言う。女性は夫はいないと答えた。それに対して、あなたには5人の夫がいたが、今いる男性は夫ではないと指摘した。彼女のことをよく知っていたのだ。
ここに取り上げた4人の人間たちと、イエス様とのやり取りから共通するのは、その本人しか知り得ないことを、イエス様はよくご存じだということです。こんな自分のことでも、イエス様は良く知っていてくれるのだ。そこに彼らはイエス様の愛を、信じさせられてしまったのだ。そんなイエス様だと知らされる時、今まで捨て切れなかったものを、捨てるように促されて行ってしまう。そうして人間の造り変えが、始められて行く。
今日の福音書の箇所は『弟子の条件』という小見出しが付けられてあります。そして改めて、弟子の条件とは、自分のことをよく知っていて下さるイエス様の愛に気づかされるまで、まず腰をすえて、キリストの教会によって、イエス様の言葉に耳を傾け続けるのではないか。
聖霊降臨後第14主日
『一緒に喜んで』ルカ15:1-10
今日の福音書はイエス様が、徴税人や罪人と話しをしているどころか、食事までしているということで、神の律法に忠実であると自負する、ファリサイ派や律法学者たちが、文句を言ったという場面です。『徴税人や罪人』というのは、いわゆる神様の律法を守らない、と言われて来た人たちです。ですから宗教的に汚れているので、交わるなと言われ続けて来たのです。ここで徴税人も、罪人のくくりに入るのでしょうが、罪人だけでは具体性に欠けるので、その代表格として併記して、強調されているのでしょう。そしてユダヤでは、食事をする時にはそこに必ず、神様も一緒にいると信じられて来ているわけです。そのような食事の席に、汚れた人間が一緒にいるなんてあり得ない。あってはならないのです。
そこでイエス様は、その文句を聞いて、何故、罪人と一緒に食事をするのか、それをたとえ話を通して、示されるわけです。何故たとえ話なのかは、考えさせられるからです。1+1=2というふうに、簡単に教えられるべきものではないし、教えられてほしくないからです。一人一人が考えてほしいのです。このルカ15章では、三つのたとえ話が語られています。今日はその最初の二つのたとえ話を聞きました。『見失った羊』と『無くした銀貨』のたとえです。羊飼いが、いなくなった一匹の羊を、捜して見つかった時、友達や近所の人々を呼び集めて『一緒に喜んでください』と言う。銀貨の話しも、ある女性が、無くなった一枚を捜して見つけた時に、やっぱり友達や近所の女性を呼び集めて『一緒に喜んでください』と言う。今日の説教題でもありますが、同じ言葉が何度も使われるのは、キーワードになります。更に両方のたとえ話の結論も、全く同じです。一人の罪人が悔い改めると、天の父なる神様が喜ばれるというのです。
では冒頭で、汚れていると言われ続けて来た、徴税人や罪人たちも、悔い改めれば良いのではないか。実はユダヤ教の律法の中には『あなたは悔い改めましたね』と言うように、悔い改めの徴となる、儀式的清浄規定もあるわけです。ただし、罪人と呼ばれる人たちは、この儀式的清浄規定を守らない、あるいは守れないと、断言されてしまっていたので、だから悔い改めも証明されずに、汚れたままにされて来たのでしょう。その清浄規定は、例えば旧約聖書のレビ記4章から5章にかけて、細かく記されてあります。実に面倒で時間がかかるような儀式です。更には、費用もかなりかかりそうです。貧しい場合には、こちらの方法に振り替えられる、というような記述も見受けられます。いずれにしても、このような儀式をして、悔い改めが認められるというのは、それで汚れが取り除けるならば、楽と言えば楽です。と申しますのも、そもそも『悔い改め』というものは、見えない心の中に関わる事だからです。悔い改めの、目に見える徴さえ見せればいいわけです。がしかし、その儀式に関わる時間もお金も無ければ、仕方が無いということでしょうか。
今日の二つのたとえの結論は、確かに先程も申し上げましたが、共通して悔い改めを語っています。しかしたとえの中身に登場する、悔い改めなければならないだろう立場のものを考えますと、悔い改めた、なんていうことは、話題に出来ないのです。羊と銀貨ですから、悔い改めなんて、問題にならない。悔い改めは大切ですが、悔い改めの意味が、通常考えられている事と、イエス様が言われる事と、異なっているようなのです。儀式的清浄規定までは言わなくとも、いずれにしても『悔い改めました』という証拠を示さない事には、神様には認められないと思います。悔い改めのために必要な、何かを言ったり、何かをしなければならないと考えます。しかし繰り返しますが、羊や銀貨は、そんなことは出来ないのです。しかし人間だったら、出来るかも知れません。
そこで今日はここでは、三つ目のたとえ話は読みませんでしたが、この後に『放蕩息子』のたとえ話が続いているのです。父と兄と弟が登場します。弟は父や兄の下にいるのが、息苦しかったのでしょうか。早々に財産分けをしてもらって、家を出て独立します。最初はお金もあるし、自由奔放に暮らすことが出来たのですが、お金が無くなって、生活出来なくなりました。これが放蕩息子と呼ばれる所以です。そんな状況になって、彼は我に返ったのです。ここは人間ですから、彼は悔い改めの徴となる、言葉と行いを心に温め、お父さんに会ったら、それを実行しようと決心します。ルカ15章18-19節『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください、と』。
そして家の近くまで帰って来た時、遠くからお父さんはその息子を見つけて、走り寄って抱きしめてくれた。そこで心に思っていた、悔い改めの言葉を発したのですが、それに対する直接的なお父さんの反応は、何も無いのです。彼の悔い改めの言葉が、聞こえないかのように、喜びの言葉と行動を、次から次へと現わして行くのです。だからこの場面でも、見た目の悔い改めの徴は、必要とされていないかのようなのです。それでずっと家にいた兄は、腹を立てます。『何であんなやつに、そこまでするんだ』。それに対してのお父さんの言葉が印象的です。ルカ15章31-32節『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。この三つ目のたとえ話も、やっぱり、先の二つのたとえ話と共通して同じなのです。いなくなったものが、見つかって喜んで、一緒に喜んでください、と言っているんです。
これらから示されます。イエス様がおっしゃられる『悔い改め』とは何か。それは『一緒にいる』ということです。だから『一緒に喜ぶ』のです。図らずもこの三つ目のたとえの中で、お父さんが兄に語っているのです。先程も引用しましたが『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる』。兄本人は、この言葉が悔い改めの意味であり、最も大切なことだとは、この時には気づいていないでしょう。だから兄も、これから『いつもわたしと一緒にいる』という、この言葉を噛みしめて行くのでしょう。もちろん弟の方も、この時ばかりではなく、兄と一緒に、これからも『いつもわたしと一緒にいる』という、この言葉を噛みしめて行くのです。だからイエス様が言う『悔い改め』は、一生涯、続けられて行くものです。そう言えばこれらのたとえ話が語られるきっかけは、イエス様が罪人と呼ばれる人たちと、一緒にいて、一緒に食事をしていることから始まっているのです。既にそこに『悔い改め』が示されていたのです。父なる神様といつも一緒にいる。どこで、どんなふうに、その事実を私は噛みしめ続けて行くのでしょうか。次の聖書の箇所が思い起こされます。1テサロニケ5章16-18節『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです』。
キリストの教会によって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して行きます。
聖霊降臨後第15主日
『小さな事に忠実』ルカ16:1-13
今日のルカ福音書の箇所も、新共同訳聖書では『不正な管理人のたとえ』という小見出しが付けられてあります。イエス様は何かを問われた時に、直接的に回答を与えるのではなく、しばしばたとえ話をされます。それは、聞く者が考えさせられるからです。今日の箇所の冒頭には、誰かに問われたという記述はありません。しかし『弟子たちにも次のように言われた』とありますから、この場面以前に、誰かに問われて、その人に応えた後、今度は『弟子たちにも』というつながりがあるようです。それで今日の場面の前は、先週の福音書の箇所、ルカ15章になります。ここでもイエス様はたとえ話をされますが、ここははっきりと疑問を持った者が登場します。イエス様が、律法を守らない罪人と呼ばれて来た人たちと、一緒に食事までしているのを、律法遵守を厳しく唱える、ファリサイ派の人々や律法学者たちが咎めたのです。罪人と呼ばれる人たちと、一緒に食事をすることも、律法で禁じられていたからです。結局ここでイエス様は、一人でも悔い改める罪人を、神様は大いに喜ぶことを示されたのです。ただしイエス様がおっしゃる悔い改めの意味は、人々が考える事と、異なっていました。人々には、悔い改めの徴となる清めの儀式が、やはり律法で示されていました。しかし、目に見える一時的な清めの儀式では、目に見えない心の悔い改めは分からない。イエス様が示される悔い改めは『神様と一緒にいる』というものです。では『神様と一緒にいる』には、どうしたら良いのか。一人一人に委ねられている。祈る。賛美する。奉仕する。礼拝する。そう考えますと、イエス様が示される悔い改めは、一生涯に渡って続けられるものなのでしょう。
いずれにしても、清いとか、汚れているとか、人間同士の間には、神様は区別を付けないのです。これが、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対するたとえ話から示されるのです。そしてそのたとえ話は、一緒にいた弟子たちも聞いていた事でしょう。恐らくほとんどの弟子たちは、やはりユダヤの伝統の中に生きて来た者たちですから、律法によって、人が清いか汚れているか、区別することに違和感は無かったでしょう。ですから、今度はそんな弟子たちに向けて、今日のルカ福音書から、人は区別ではなく、仲間になるように、たとえを通して示されるのです。それが先週のたとえ話から続く、神様の思いなのです。今日のたとえの中では、仲間とか友達と言う言葉が何回か語られ、やはり人間関係を考えさせられます。ある金持ちの主人が、管理人に財産の管理を任せていた。よほど信頼出来て、主人は管理人を信じていた。ところが、信じていた管理人が、財産の無駄使いをしているとの告げ口があった。裏金でも作っていたのでしょうか。裏切り行為です。一方で、管理人は不正をしているにしても、告げ口というのは腹立たしいです。どちらも人間不信に陥らせるものです。主人はそれでも、信じていた管理人ですから、告げ口が本当なのか、会計報告を出させます。まだこの段階では、首切りでは無かったようです。
その間に、管理人は首になっても良いような、方策を考えます。そして考えたのは、首になっても『自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』というものです。言わば友達、仲間作りです。それで管理人は、主人に借りのある者たちを次々と呼んで、勝手にそれぞれの負債を軽減するのです。軽減された者たちは喜び、感謝するでしょう。しかしこのたとえを聞く限り、これらの喜びや感謝は、管理人ではなくて、主人の方に向けられるでしょう。この軽減措置が、管理人が勝手にやったことだと、負債者が知ったとしても、負債証文は書き換えられたので、法的には有効でしょう。管理人の、この仲間作りの方策は、普通に考えれば、効率的とも思えません。そもそも仲間作りが、今後の生活保障としては、あまりにも不安定で時間も要するでしょう。負債者たちには、管理人が助けてくれたのだと、強く思ってもらう必要があります。ここで結局言えるのは、管理人はこれらの軽減措置を受けた人たちを、深く信じるしか無いのです。もちろんそれによって、助けてもらえると言う、損得勘定もあるわけです。
ところがそんな管理人に対して『主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた』と言うのです。次々と自分の財産を減らしている人間を『抜け目のないやり方』だと誉めているのは驚きです。ここはもう驚く自分と、この主人との価値観の違いを、思い図るしかありません。この軽減措置の結果、喜ばれて感謝されるのは、結局主人です。それは確かに、主人が褒めても不思議ではないでしょう。そしてまた、あれは管理人が、勝手にやったことだと言って、この措置を翻したら、逆に恨まれてしまうかも知れません。そこも抜け目がないと言われれば、その通りかも知れません。しかしそれ以上に、この主人の価値観は、元々人間関係を大切にするところにあるとしたらどうでしょうか。負債を負わせることになったのは、むしろ助けるためだったかも知れません。そのためにも、信頼出来る管理人を、信じて配置して来た。しかし裏切られたことは事実です。がしかし、それでもこの管理人が、首になる前に行うことは、もっと他にも、手っ取り早い対策があっただろう。それをせずに、むしろどう判断するか分からないような人を信じて、結果的に人助けをした。もちろん損得勘定はあったにしても、この主人の、人を信じる価値観の琴線に、触れたのではないか。だから主人は続けて言うのです。『この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい』。
ここの『光の子ら』というのはこの場面では、冒頭で申し上げた、律法を遵守出来る自分を誇り、そうではない他者を裁き、結局、人を区別して仲間作りを拒否している者たちということでしょうか。あるいはもう少し皮肉が込められているとすれば、いわゆる信仰者と呼ばれる人たちでしょうか。『この世の子ら』とは、大なり小なり結局は、損得勘定を持ちつつも、他者を信じて仲間作りに励む者たちなのでしょうか。さて自分はどっちなのか。そして聖書は言います。『ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である』。この『小さな事』とは何か。人を信じることだと示されます。『大きな事』とは何か。神を信じることだと示されます。そして人を信じるにしても、損得勘定からはどうしても逃げ切れない。だからせめて、無意識にも損得勘定が働いてしまう事は、自覚出来るようになりたい。それで聖書は更に言ってくれます。『だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか』。人を信じるにしても、神様の目には不正に映る、損得勘定をする者です。しかし神様を信じるには、損得は無用です。この主イエス・キリストの神様は、ただ一方的に、こんな私をまず信じていて下さるお方だからです。
イエス・キリストを通して、神を信じ、人を信じ続けて行くことが出来ますように、導かれてまいります。
聖霊降臨後第16主日
『モーセと預言者がいる』ルカ16:19-31
今日のルカ福音書16章19節以下は、何か始まりが唐突に思えてしまうのです。そこで、直前のルカ16章14-18節のところと関連付けて考えて見ます。そのルカ16章14-18節ですが『律法と神の国』という小見出しが、新共同訳聖書には記されてあります。ですからこの箇所は、出来事の描写というよりも『教え』が中心のようです。その冒頭は『金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った』で始まります。『この一部始終』というのは、先週に与えられた福音書の箇所の、ルカ16章1-13節になります。簡単に概観します。ある金持ちの主人の財産を、管理するように雇われていた管理人が、不正行為を知られてしまった。それで、首になっても生活出来るように、主人に負債を負っている人たちを集めて、それぞれの負債を勝手に軽減した。そうすれば、首になった自分を、その人たちが助けてくれると見込んだからです。それを知った主人は、抜け目がない奴だと誉めた。そして言うのです。『不正にまみれた富で友達を作りなさい』。更に最後には『あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』。
それで、そんな話に、ファリサイ派の人たちが、イエス様をあざ笑ったというのです。聞きようによっては、支離滅裂と言えば支離滅裂です。友達作りは大切だから、不正なお金を利用しなさいと言う。しかし、神様とお金の両方に仕えることは出来ないとも言う。ここは、いわゆる神様を信じながらも、お金に対する人間の本音の現実を、イエス様はよくご存じだった、ということでしょうか。生活を営むには、実際問題として、お金が頼りです。しかし信仰的には、神様が唯一の拠り所だと教えられて来ていますから、ややもすれば、建前的な神信仰に陥りがちです。お金も神のようにして、結局、神と富とに仕えてしまう。しかしむしろ、人間がお金を不正なものにしてしまっているのかも知れません。お金も神様が与えて下さったものだとしたらどうでしょうか。そうすると、お金も神様のものですから、必要なものを必要なだけ、あたえられている立場の人間同士が、お互いに分かち合うのが、自然な流れのようにも思います。それをイエス様は敢えて『不正にまみれた富で友達を作りなさい』とおっしゃられているのかも知れません。しかし、お金も神様が与えて下さったものだとは、なかなか受け入れ難いのもあります。お金があるのは、自分の力で勝ち得たものだと考えるからです。そしてまた、お金が無いのは、怠けているからだと、決めつけてしまうのです。
だからここでイエス様は『金に執着するファリサイ派』とか『人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである』と、おっしゃられたのだと思うのです。そして結局、ファリサイ派の人たちに限らず、全ての人間に関わる、心の中の目に見えない問題を、イエス様は浮き彫りにさせようとするようです。そしてその問題の核心を、イエス様は次のようにおっしゃられるのです。『神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力づくでそこに入ろうとしている』。これは人間が、神の国に入るには、自分の力で勝ち取るものであるかのように、振る舞っている。けれども、それが人間の中に潜む、問題の核心なんだと言うのです。別の言い方をすれば、罪なのです。人間の力で勝ち取るのではなく、ただ神様が招いて下さるから、神の国に入れられる。これが福音です。そしてこの福音が、自分にとっての福音となるためには、問題の核心である罪に、気づかされることです。そしてそういう罪に気づくように、導いてくれるのが聖書です。律法と預言者とは、聖書のことです。そして今日の福音書の箇所では『モーセと預言者』と呼んでいます。
このルカ16章14-18節までの、一連の教えを、いわゆるビジュアル化させたのが、今日の福音書の箇所になると考えます。小見出しは『金持ちとラザロ』と付けられてあります。極めて対照的な両者の描写です。一生懸命働いて金持ちになり、だから神様に祝福されていると自負していた人間。ここに描かれている彼の諸々の発言から、そんなふうにも想像されます。一方ラザロは、貧しさの極致にあるように描かれています。しかしこの場面では、最初から最後まで、ラザロの発言は記されてありません。私たちが知らされるのは、ただ彼の名がラザロというだけです。ここがむしろ印象的です。そしてこの時のラザロの心の中は『神はあなたたちの心をご存じである』という、まさに神様のみがよくご存じだったのでしょう。そしてそれぞれが死んだことが、続けて描かれてあります。これも印象的です。ラザロは『天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた』ということです。アブラハムとは、ユダヤ人たちが尊敬して『信仰の父』と呼んで来ている人物です。そして天使たちに連れて行かれるのは、まさに力づくではなく、福音によって神の国に招き入れられる姿を、象徴するようです。
一方、力を誇示して来たであろう金持ちは、陰府でさいなまれているという。そしてこの期に及んでも、貧しく力の無い、祝福も受けるはずも無いと、決めつけるラザロを、自分の方に遣わしてくれと頼みます。ここで印象的なのは、自分の苦しさは訴えるのですが、何故、自分がこのようなことになっているのか、自分の問題に気づいていない。また気づこうともしていないようです。そしてそんな彼に投げかけた、アブラハムの言葉も興味深いのです。『お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない』。これは、神様から与えられた人間の富は、徹底的に公平になるように、分かち合うもの。その公平性は、決して中途半端な形での、帳消しにはならない。更には、力づくでは越えられないものが必ずある。そんなことを教えられる場面です。そして相変わらず金持ちは、自分の問題には目を向けていないようです。
それで今度は、まだ生きている家族に向けて、ラザロを遣わすように願うのです。少しは自分以外の他者のことも、心配するようになったのでしょうか。それでも家族どまりです。とにかく、死んだ人間が、気を付けろと言い聞かせれば、悔い改めるだろうと言うのです。これらの言葉からも、結局、相変わらずの人間的方策で、力づくで解決しようとする、そんな姿しか見えて来ないのです。そんな人間に対して、繰り返し『モーセと預言者』言い換えれば、聖書に耳を傾けよと言うのです。聖書に書かれてある通りに考え、守っている自分だからと、自己正当化の道具のように、聖書を扱ってはならない。聖書を読む毎に、自分の罪を深く知らされるように読ませられる時、死者の中から生き返る者の言う事を、聞き入れられようになると言うのです。その時、福音が私にとっての福音になって行くと示されます。そしてまたいわゆる見た目で裕福な者だと見られているとしても、見えない心の中には、実は苦しみや悲しみも抱えているものです。そう考えますと、全ての人間は、大なり小なり不利益と思われるものを抱えており、全ての人間が不公平な状態に置かれているのです。そしてその全ての人間の不公平を身に負って、全ての人間を公平にしてくれるのが福音なのです。
キリストの教会によって、死者の中から生き返るキリストの言葉に、耳を傾け続け、罪を知らされ、福音に与らせていただきます。