からし種 439号 2025年12月

全聖徒主日

『どんな人か見よう』ルカ19:1-10

今日の福音書はイエス様と、徴税人のザアカイとの出会いの場面です。ザアカイが住むエリコの町に、イエス様が来られるというので、ザアカイは『どんな人か見ようとした』というのです。今日の説教題にもしております。一見、深刻な悩みがあって、何としてでもイエス様に会いたいという、悲壮感みたいなものは見えにくいです。でも見た目では分からない、その向こうの見えない何かを、抱えていたことも考えられます。少なくともイエス様の噂は、聞いていたでしょう。どんな噂かと言えば、人々からは、罪人だからと言って、交流を避けられて来た、徴税人や娼婦たちと、イエス様は話しをしたり、食事も共にしていたということも、聞いていたかも知れません。それは律法違反です。立派な教師だということも聞いていたでしょう。ですから余計に、興味が湧いたんでしょうか。自分も徴税人ですが、だからと言って、こんな自分にもイエス様が、まさか目を留めて下さるなんてことまでは、あまり思ってはいなかったでしょう。結局ザアカイは、何を見ることになるのでしょうか。

ザアカイは徴税人の頭で、金持ちだった。ユダヤ人でありながら、当時のユダヤを植民支配する、汚れたローマの手先となって、同胞から税金を徴収していた。だから汚れた人間として、同胞からは拒絶されていた。お金はあるけれども、何となく満たされていなかったのかも知れません。でもまあ、お金がものを言う世界ですから、それはそれで良しとするしかない。とにかくイエス様が通り過ぎる所を、見ようとしたんですが、背が低くて、群衆に遮られて見ることが出来なかった。もしかしたら、群衆は意識して、ザアカイに見させないようにもしていたかも知れません。ザアカイにして見れば、それはそれでいつもの事だった。腹を立てるまでも無いことです。

それで先回りして、いちじく桑の木に登った。このいちじく桑の木は、エリコの町ではお馴染みで、当たり前のように見かける木でした。しかしこの時のザアカイにとっては、イエス様を見るためには、そのために生えていたような、好都合な木になるのです。この木の特徴は、割と地面に近い低い所から、枝が張り出しているのです。ですから、背の低いザアカイには、登るためにはうってつけでした。ただ、少なくとも当時のユダヤ社会では、大人が木に登ることは恥ずかしいことだと見られていました。でもこの時のザアカイにとっては、徴税人として、散々、恥ずべき扱いも受けて来たでしょう。今更そんな人々の価値観なんて、くそくらえだと思っていたかも知れません。返って徴税人でなかったら、ありきたりの価値観に縛られて、木には登らなかったかも知れません。そんな風に考えますと、ザアカイがイエス様に会うためには、徴税人であることも、背が低いことも、当たり前に生えているいちじく桑の木も、全部、意味があったのだと考えさせられます。そしてそんな状況は、ここにいる私たちも、今まで経験して来たのかも知れないし、これからも経験するかも知れません。そんな思い巡らしが湧き起こさせられます。

そしてそんな木の上のザアカイに、イエス様は目を留めて下さった。しかもザアカイと言う、個人名までもご存じだった。更にはザアカイの家に泊まりたい、とまで言って下さった。これはザアカイにとっては、動天驚地の出来事だったでしょう。周りの人間たちの驚きからも、そのことが伝わってきます。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』。『あの人』とか『罪深い男』とか、それぞれ固人名があるのに、この場面では、それが使われていない所にも、人々の計り知れない軽蔑と驚きが、伝わって来るようです。しかしそんな『人々の計り知れない軽蔑と驚き』だからこそ、その裏返しで、ザアカイの計り知れない喜びの驚きもまた、それ以上に伝わって来るのです。そして、それ程の喜びの驚きを味わわされた人間は、それを齎してくれたお方に、何とか応えたいと、心から促されてしまうのです。それでザアカイは『財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』と、誰に強制されるのでもなく、自主的に宣言させられてしまったのです。特に『だれかから何かだまし取っていたら』というのも、興味深いです。彼は徴税人の頭でしたから、何人かの手下を使って、徴税していたのでしょう。手下たちも恐らく、不正な取り立てをして、私腹を肥やしていたかも知れません。頭のザアカイは、それを見逃して来たのでしょう。だから、そんな手下たちの不始末も、自分の責任として、四倍にして弁償すると言ったのでしょうか。

それに対してイエス様は『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来た』とおっしゃられました。この時の、ザアカイにとっての救いとは何か。交流を断ち切られて、孤独に生きて来たとは言え、結局、自分中心に生きて来た。しかしイエス様に出合って、貧しい人や手下にまで、目を向けられるようになった。まさに人々の間には、いなくなっていたような自分が、見つけられて、ここがあなたの生かされる場所だと示された。しかし目に見える状況は、相変わらず徴税人のままです。差別は続くのでしょう。しかし曾てのような、孤独感は全く無いのです。結局、ザアカイにとっての救いとは、目に見えるものに一喜一憂して、絶望してしまうのではなく、目に見えるものを通して、その向こうに見える見えないものに、希望を確信させられて行くことなのではないか。

今日は全聖徒主日として、既に天に召された家族や友人たちを偲ぶ日でもあります。ちょうど来週の福音書の箇所になります。そのルカ20章38節『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである』と、イエス様の言葉が記されてあります。目に見える地上の教会を通して、目に見えない天上の復活の教会で、共に礼拝に与る先人たちにも励まされながら、今もこの地上にある私たちの、目に見えない復活の希望を、確信させられて行こうではありませんか。

聖霊降臨後第22主日

『神の子だから』ルカ20:27-38

キリスト教会には一年を単位にして、独自のカレンダーが定められています。イエス様が救い主として生まれるという預言の時代。預言通りに生まれたクリスマス。人々の間に、神の国を宣べ伝える、人間イエスの顕現の時。人々の反感を買って、十字架の死へと向かう受難の時。十字架の死を経て復活するイースター。聖霊降臨によって、教会が誕生したペンテコステ。そして、長い教会の活動の時を経て、再臨のイエス様による最後の審判と、歴史の終わり。今年は11月23日が、その最後の審判の時となります。カレンダーは聖霊降臨後最終主日と呼んでいます。

今日はそんな、間近に控える最後の審判の時を想定させるように、与えられた福音書の箇所だと思います。『復活についての問答』という小見出しです。最後の審判とは、言わば人類の歴史の死を齎すものでしょう。そして人間一人に置き換えれば、人生の終了という人間の死です。死んだ後はどうなるのか。多くの人々が、関心のある処だと思います。そして聖書は、復活ということを伝えています。いずれにしても人間にとっては、肉体の死からは絶対に逃れられません。その事実を目前にして、この毎日の今を、どのように生きて行くのか、そこが問われるのです。

今日の福音書を読みますと、イエス様が活動されていた頃のユダヤ教では、復活を否定する教派のサドカイ派と、復活を信じる教派のファリサイ派とが、対立していたようです。それぞれに聖書解釈によって、見解が分かれていたようです。サドカイ派というのは、エルサレム神殿に仕える、祭司階級の人たちでした。当時のユダヤはローマの植民地下にありました。サドカイ派は、とにかく祭司の仕事を認めてもらうために、異教徒のローマの意向を忖度する、いわゆる体制派のユダヤ人でした。比較的裕福だったので、現世に満足出来るでしょうから、死後のことなど視野に入れなかったのかも知れません。ファリサイ派は異教徒のローマに対しては、厳しく対峙していました。言わば反体制派でした。ローマに代表されるように、宗教的に汚れた人間たちが繁栄を享受し、自分たちのような、神様に忠実な者たちが苦難を被っている。そんなこの世の不条理は、そのままでは終わらないだろう。来世によって、必ずこの不条理は清算されるはずだ。そんな思いから、死後の復活を信じるようになったのでしょうか。

そこで今日の福音書では、サドカイ派の人たちが、復活の教えの盲点を突くかのようにして、イエス様に議論を吹っかけたのです。イエス様もファリサイ派に属すると見られていたのでしょうか。ここは、申命記25章5節以下に記されている、いわゆるレビレート婚と呼ばれる、家族制度を持ち出したのです。それは聖書にあるように、夫に死なれた妻は、その家の家名を絶やさないように、夫の兄弟がいれば、その兄弟と結婚することになっていたのです。兄弟が複数いて、それぞれが次々と死ねば、複数の夫が出来てしまう。復活した時には一体、どの人が夫になるのかと言う議論です。ここでは理屈はどうであれ、肉体が死んで、また同じ肉体で生き返るのが復活だという、目に見える命の捉え方なのでしょう。言わば人間中心の見方です。ところがイエス様の答えは『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない』というのです。これは、目に見えない命が、復活の命だということです。言わば、神中心の見方です。そして目に見える命は、あたかも人間自身の能力によって、生きているかのように見えてしまいます。がしかし、実はそうではない。目に見える命も、目に見えない復活の命も、いずれも神によって生きている命だと言うのです。

イエス様が伝道活動を始められた時の第一声は、マルコ福音書では『時は満ち、神の国は近づいた』でした。マタイ福音書は『悔い改めよ。天の国は近づいた』と記されています。いずれも神の支配が近づいた、というわけです。ちなみにルカ福音書では、まず礼拝の説教者として、イエス様は招かれて、旧約聖書のイザヤ書から『主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』という言葉を読み上げたということです。またヨハネ福音書では、言葉としての第一声ではなくて『最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された』とあります。『しるし』というのは奇跡の業のことです。まさに肉の目に見えるものです。それを通して、目に見えない神の栄光を現されたというのです。そしてヨハネは更に、イエス様ご自身が、目に見えない神様のしるしだと言うようです。イエス様と弟子との、次のようなやり取りが記されてあります。ヨハネ14章8-9節『フィリポが、主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます、と言うと、イエスは言われた。フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、わたしをシたちに御父をお示しください、と言うのか』。

いずれにしても『神の支配が近づいた』とはどういうことか。神の支配は、元々、旧約の時代から続いているはずです。ですから、今更、近づいたと言うのは、何故なんでしょうか。『近づいた』というのは、目に見えない神様が、見えるようになった、ということでしょうか。もちろん、相変わらず、肉の目には見えないものは、見えるはずが無いではないか、と言う見解も続くのでしょう。しかし同時に、今までは見えなかったものが、見えるようになったと言う状態が起こされた。見えないものでも、見える者には見える。これが『近づいた』ということではないか。では『目に見えない神様が、見えるようになった』ことで、この自分に何が起こされるのか。それは、神様が見えているものを、こんな自分も見させていただける。あるいは、相変わらず自分は、肉の目で見ている者ですが、その見えているものを絶対視しない。見えているものの、その向こうにある見えないものに、目を注ぐようにさせられる。神様がこの状態を見られたら、どう思われるだろうか。そうやって、自分が見ているものを、相対化するようになる。更には、神様が見えているものを、自分一人が見ようとせず、他者と一緒に見ようとして行くことではないのか。

先週の聖書研究会で、作者不明と言われて来た、ある『詩』が話題になりました。ニューヨークの、リハビリテーション研究所の壁に書かれた、一人の患者の詩だということです。目に見えない神様の見方と、目に見える人間の肉の目の見方とが、対照的に詠われているようです。『病者の祈り』というタイトルが付けられてあります。以下に引用します。

大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、

 慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに、

 より良きことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、

 神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、

 あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

 求めたものは一つとして与えられなかったが、

 願いはすべて聞きとどけられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、

 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。

キリストの教会によって、目に見えないものに目を注ぐように導かれ、見えているものに、勇気と感謝をもって、向き合わせて下さい。

聖霊降臨後第23主日

『証しをする機会』ルカ21:5-19

先週も触れましたが、キリスト教会独自のカレンダーでは、いよいよ来週23日が、いわゆる大晦日の週になります。カレンダーは聖霊降臨後最終主日と呼んでいます。言わば歴史の終わりの時というものです。これは、神様が天地創造された時が始めであれば、終わりの時もある。人間の一生にも投影されるようです。イエス様の再臨の時とか、最後の審判の時、とも言われます。それにしても、現実に最後の審判が起こされて、天国行きか地獄行きかと、選別されてしまうとすると、真っ先に知りたいのは『それは何時起こるのか』ということです。そしてそれが分かれば、それまでに対策も練ることが出来ます。更には、もう少し贅沢を言えば、その時に至る、何らかの『しるし』のようなものも知らされていれば、なお準備の追い込みにも、拍車をかけることが出来るかも知れない。天国行きになるように、せめて『しるし』が現れた頃からは、せっせと神様に気に入られるように、精を出そうとも考えます。併せて、健康も保たれるようにお願いします。そうしますと、多少は時間の幅があるにしても、審判のその時に、自分がどんな状態にあるのか、結局そこだけが問われるようです。ですから、少なくとも『しるし』が現れる以前の期間は、自分の思うように好き勝手に、過ごすことが出来るのではないかとも考えてしまいます。

しかし、それでは余りにも人間中心の、人間の都合によって、神様が振り回されてしまうようにも思います。信仰が、神様を都合よく働かせるための、道具のようになっている。最後の審判は、徹底的に、神様の意志が最優先ですから、むしろそのことに対策を練ることが出来ると思う事自体が、間違っているのかも知れません。そんな人間のご都合主義と弱さに付け込んで、惑わす偽預言者が出没するから、その方にむしろ心を砕きなさい、と言うのです。更には『信仰が、神様を都合よく働かせるための、道具にしてしまっている』と申し上げましたが、ややもすると『信仰が有るから病気にもならないし、不幸にも陥らない』と、決めつけてしまう事もあるかも知れません。でも現実はそうではない。誰でも、病気になることもあります。起こってほしくない事にも遭遇します。その時に、どう対応するのか。こんな宗教はだめだからと離れるのか、それでも留まり続けるのか。今日の福音書では、イエス様は言います。『それはあなたがたにとって証しをする機会となる』。『忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい』。

先週もこの場で紹介しましたが、ニューヨークの、リハビリテーション研究所の壁に書かれた『病者の祈り』という、一人の患者の詩です。見えるものを通して、見えないものを見ることを示唆するものだと思っています。そして今日また取り上げます。それは、様々な困難に遭いながら、それらが、まさに神の栄光を証しする機会となり、人々の間に語り継がれていると思ったからです。『どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を』まさにイエス様から授けられた、そんなふうに考えさせられました。もう一度、以下に引用します。

『大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、

 慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに、

 より良きことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、

 神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、

 あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

 求めたものは一つとして与えられなかったが、

 願いはすべて聞きとどけられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、

 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ』。

もう一つ先週9日の日曜日のことです。NHK『毎朝ラジオ』という番組の中で、タレントのサヘル・ローズさんの語りのコーナーがありました。その内容を少し要約して、紹介します。サヘルさんは、イラン西部のホラムシャハルに近い小さな町に、14人の大家族の末っ子として生まれました。1989年2月下旬、イラン・イラク戦争のさなかに、国境近くにあったその町は、イラク軍の空爆により壊滅し、家族からは置き去りにされました。空爆により記録が消失し、出生年や出生名も不明になりました。引き取られた児童養護施設で、その時の身長や、話す単語の数などから、3ないし4歳と推測されるしかなかった。その時から数えて7歳になった時、養子縁組で引き取られた。その日が10月21日だったので、それが誕生日になったそうです。放送では、40歳の誕生日を迎えて『私にとって、40歳は単なる数字であり、記号でしかない』と言われました。思いも拠らないその言葉を聞いて、びっくりさせられました。自分にとっては、誕生日は特別な響きがあります。数字や記号と言われると、何か特別感が失われてしまいそうです。

サヘルさんにとっての40年は、たくさんこれまで生かされて来た、たくさんの人たちと出会って来た、それを指し示す数字や記号という意味だそうです。そして次のように話されました。『40歳になるまで、自分がこれまで歩んできた道のりの事を、周りに話して聞いてもらって来た。そしてこれからは、様々な人たちと出会って、知らなかった世界に触れて、声が届かない人たちや、声が拾われなかった人たち、存在があやふやな、なかなか光が当たらなかった人たちの、そういう声を拾い上げ代弁者になりたい。そういう声を、私という肉体を通して、伝えて行きたい。自分から出会いや気づきを求めて、伝えて行きたい。少年院で講演させて頂ける機会があった。自分のために、何かをしてくれる人に、彼らは出会ったことが無かった。だからジュース一本でもくれる人を、心底信じてしまう。罪を背負って、更生しようと思っている人。自分の罪を悔やんでいる人。今、変わろうとする人。そういう人たちを赦せる、社会や個人の手助けをしたい。これまでは自分を語って来たが、40歳を境に、他者の代弁をする人になって行きたい』。このようなサヘルさんも、これまでの人生と、これからの人生を、まさに証しをする機会として、捉えているように思いました。何を証しされるのか、それは直接、話されているわけではありませんが、私なりに、勝手に解釈をすれば、自分に命を与え、使命を与えて生かし、用い続けて下さる『見えない偉大なもの』その方の証しなのだと、考えさせられております。

キリストの教会によって、こんな私にも、命と使命を与えて生かし、用い続けて下さる、主イエス・キリストの神様に応えるように、証しし続けてさせていただきます。

聖霊降臨後最終主日

『一緒に楽園にいる』ルカ23:33-43

キリスト教会独自のカレンダーでは、本日が今年の、いわゆる大晦日の週の始まりです。よく終末という言葉も使われますが、あるいはイエス様の再臨の時とか、最後の審判の時、とも言われます。審判によって、天国に行くのか地獄に行くのか、選別されるということです。そして来週は、また新しい年の始まりの待降節、アドベントを迎えます。神様の自由な意思によって、天地創造から始まった歴史は、同じように神様の自由な意志によって、歴史が終えられる。これを一年に凝縮して、教会はカレンダーとし、この歴史を司る神様の意思を、聖書を通して問い尋ね続けて来ているのです。必ずやって来る歴史の終わりは、人間の一生にも置き換えて見ますと、私たちも必ず死を迎えます。聖書から示されるのは、歴史の終わりや肉体の死を恐れて、毎日をビクビクして過ごすのではない。むしろ、今という毎日を、大切に心を込めて生かされて行くように勧めます。そんな人間の生き方を、今日もまた聖書から考えたいと思います。

特にこの11月は、カレンダーによる終末を迎える月なので、今を生かされる生き方について、何回か考えさせられてまいりました。見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ生き方を示されました。それからまた、起こってほしくない出来事も含めて、あらゆる出来事や出会いから、そこに働いて下さる神様のご意志を問い尋ね、証しをする生き方を示されました。そして今日の福音書の場面でも、登場する人物たちから、何が相応しい生き方なのか、考えさせられます。まず、十字架に掛けられたイエス様の、十字架上からの言葉が注目させられます。ルカ23章34節『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』。イエス様を逮捕し、嘲笑する人間たちへの言葉です。もちろん彼らなりに、理由はあるのだろうし、少なくとも『自分が何をしているのか知らない』と言われる筋合いは無いと、思っているでしょう。いずれにしても『知らなくてはならないことを知らずにいる生き方』を、問題としているようです。同時に『自分が何者であるのか、それを吟味して行く生き方』が問われるのです。

そして『民衆は立って見つめていた』と、聖書は言います。どんな『見つめ』だったのか。あざ笑っている人もいたでしょう。いずれにしても、いわゆる傍観者のようです。イエス様の十字架は、他人ごとなのか。それが問われる、民衆の見つめなのです。そしてこの後、議員たち、兵士たち、一緒に十字架に掛けられた犯罪人の一人、この彼らが共通して、叫んでいる言葉に注目させられます。『自分を救うがよい』。『自分を救ってみろ』。『自分自身と我々を救ってみろ』。イエス様の十字架は、全くの敗北と滅びであり、あなたが救い主なら、そこから救われて見ろ、自分たちはこうして、勝利と安全の中にある、そんな叫びのようです。ただし、犯罪人の一人は、それでも『我々を』と、自分たちのことにも言及しているのは、まさに自分も同じ十字架に、掛けられているからでしょう。それでも本当に救われるとは、さらさら、思ってはいなかったでしょう。しかし、周りの傍観者たちは、本当に自分たちが、勝利と安全の中にある者なのか。そして十字架のイエス様は、本当に敗北と滅びなのか。そこが問われているのです。

ところが一人、まさに見えないものが見えるようになった人物が、登場するのです。敗北と滅びから、神様の働きを証しする人物です。それが、もう一人の犯罪人です。彼のいくつかの言葉に、注目させられます。相方の犯罪人が、イエス様を罵ったことに対して、たしなめて言うのです。『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ』。これは、見るべきものを見ようとしている、知るべきことを知ろうとしている、自分が何者なのか、吟味しようとしている、そんな言葉です。ここに、まさに私たちも、耳を傾けるように促される、生き方が示されています。更にもう一つ、注目すべき言葉があります。イエス様の事を『この方は何も悪いことをしていない』と言います。彼はどうして、イエス様が『何も悪いことをしていない』と分かるのでしょうか。彼が逮捕される前に、色々とイエス様の噂を聞いていたのでしょうか。そういう意味では、既に彼はイエス様を知ろうとしていた、見ようとしていたのかも知れません。しかしそれでも、未だ、本当のイエス様のことは、見えていなかったでしょう。しかし、この期に及んで、見えないイエス様の本当が、見えるようになったのです。何故なのか。そのヒントが『同じ刑罰を受けているのに』という言葉に、示されているのではないか。別の言い方をするならば、イエス様はどんなところにも、私たちが破れて、滅びようとするところにまでも、一緒になって苦しみ悲しみながらも、そこに共に居て下さる、と分かったからではないか。そうやって、こんな自分にも、見えないものが見えるようになるように、身を持って導いて下さるからなのだ。結局、見えないものが見えるように、どこまでも永遠に一緒に居て下さるお方なのだ。だから『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。そして、この地上に於いても、一緒にいて下さる楽園は、見えているものの向こうにある、見えないものが見えるようになるのだ。

先週、中山奏琉さんという22歳の大学生だった方のお話を聞きました。難病指定の病気に罹り、一年前に再発して、今年の8月に召されました。その死んだ日から2日後に、SNS上に『ぐぇーシンダンゴ』という言葉が、予約投稿されていたのです。『死』を覚悟しながら、ユーモアを用いてSNSに上げた中山さんの言葉。まさに地上では見えなくなった中山さんの、しかし今見える言葉です。その気持ちに共鳴した仲間から『成仏してクレメンス』という返しもあったそうです。これは、いわゆる『ネットスラング』と呼ばれるものだそうです。こんなふうに深刻なことを、ユーモアで受け入れようとする土壌が元々あって、何かのきっかけで、そのマグマが噴き出すように、共感の輪が拡げられて行ったのです。今回の中山さんの生き様と言葉が、そのきっかけになったということでした。そして、ある難病治療のための研究機関へ、2000人から献金が届けられ、1000万円にもなったそうです。他の研究機関にも、同じことが起こされたそうです。SNSと聞きますと、ネット炎上だとか、フェイクニュースだとか、負の側面が目立ちがちです。しかし、思いも拠らない感動や共感の輪が生まれ、大きな社会の力を産み出す、ツールにもなるというお話でした。中山さんの死を越えて、更に社会が生かされて行く道が開かれて行くのです。そんな一つの大切な出来事のようにも、考えさせられました。SNSというネットワークも、色々に見えているものですが、しかしその向こうの、見えない大切ものを教える、そのための一端を担っていると、示されました。

これからもキリストの教会によって、この地上でもイエス様と一緒に、目に見えない向こうの楽園を見すえ続けさせていただきます。

待降節第1主日

『思いがけない時に』マタイ24:36-44

今日は、キリスト教会独自のカレンダーでは新年になります。待降節という救い主を待つ期節に始まって、先週のキリストの再臨という、歴史の終わりを覚える日までの一年間のカレンダーによって、折々に与えられる、相応しい聖書の言葉に聞いて、信仰生活が整えられて来ているわけです。今日の福音書の箇所は、先週と重複するようですが、キリストの再臨を待つ姿勢が問われるところです。待つという意味では、言わば第二の待降とも言えるでしょうか。そして今のこの現代が、まさにこの第二の待降の時とも言えるでしょう。キリストのご降誕を待つ第一の待降と、キリストの再臨を待つ第二の待降という両者から、見えて来る待降の事を、今日は考えて見たいと思います。

まず第一の待降です。救い主がお生まれになるという、神様からの預言の言葉によって、その約束の言葉を信じて、人々は待ち続けたわけです。神様が約束されたことですから、嘘をつくわけがない。そうは言っても人間は、待つ限度というものを、どこかで勝手に築きがちです。これだけ待っても、何も起こらなかったのだから、待っても無駄だろう。神様が約束を破るはずは無いと信じて来たけれども、信じた神様が本物なのか、そもそも神様なんていないのかも知れない。そんな揺れ動きもあるわけです。それから、何とか忍耐強く待つにしても、その救い主の登場の仕方も、長い間にはあれこれと想像してしまうでしょう。そんな人間の想像の筋書きに沿わなければ、既に登場していたのに、それに気がつかないままになる。それでも、相変わらず待ち続けて、とどのつまりが、やっぱりあの約束は嘘だったんだろうと、あきらめてしまう。そして待降のことなど、忘れ去られて行ってしまう。一方でそんな状況を経ながらも、クリスマスが起こされた。それは多くの人間たちの思い描く事とは、様相が違っていたでしょうか。何よりも、人間的な価値観からしたら、救い主を迎えるには、誰もが想像も予想も出来ない事態でした。救い主は飼い葉桶に置かれたのです。迎えた人たちも極くわずかで、当時の社会にあっては、いわゆる身分の低い者たちでした。マリア、ヨセフ、何人かの羊飼い、そして、宗教的には救いに与るはずも無い、東の方から来た占星術師。そしてそれら救い主の誕生に立ち会った当事者たちも、どこまで救い主のことを、分かっていただろうか。待降は、神様の言葉に信じながらも、人間的な思いとの、せめぎ合いの中にあることを考えさせられます。

今日の福音書でも『その日、その時は、だれも知らない。・・ただ、父だけがご存じである』と記しています。再臨は、父なる神様の専権事項であり、人間的思惑の、入り込む余地のないことだと言う。続けて、まさに神様の約束の言葉と、それを受けて信じるか信じないか、そんな人間たちの姿を、旧約のいわゆる『ノアの箱舟』の出来事から引用しています。旧約の創世記6章から9章までの出来事です。まず神様の約束の言葉があって、洪水が起こされる前に、箱舟を造って準備をしなさいと言われたノア。彼はその言葉に従って、舟を造り続けました。その間、周りの人たちは『食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた』ということです。このように描かれる人々の様子は、普通に、まさに日常生活そのものでしょう。神様の言葉を聞いて、知っている人たちが、準備を怠っているとすれば、神様を何だと思っているのか、と裁いてしまいそうです。しかし、知ってはいるけれども、これだけ晴天続きで、そんな洪水も起こりそうにないと思ったら、まあ建前と本音で行きましょうかと、自分なら受け留めてしまうかも知れません。そもそも、そんな神様の言葉を、聞くこともない人たちにして見れば、それは神様を信じている人たちの問題であって、私たちには関係ない。このままいつもの日常生活を、営んで行きましょうと思うでしょう。いつ、どこで、どのように、神様の約束の言葉を聞くのか。そして信じるようになって行くのか。待降のことから突きつけられる、もう一つの問いです。

そして今日の福音書では、再臨はいつ起こされるか分からないので『目を覚ましていなさい』と、繰り返し語りかけています。今という、まさに第二の待降の時の、生き方が示されます。福音書はこの後も、いくつかの例えを通して、やはり『目を覚ましていなさい』と繰り返しています。それから『少しのものに忠実であったから、多くのもの管理させよう』とか『小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』とか『少し』『小さい』ということを、強調しているようなのです。これは人間が生活して行く上では、無視されがちな見ようともしないことです。少しより多い方に、小さいより大きい方に、価値を置きがちだからです。『目を覚ましている』というのは、少しのものに、小さいものに、目を注いで行きなさい、見ようとしなさいということでしょうか。更に言えば、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ、見えるものを通して、見えないものを見て行く、ということでしょうか。そして今もキリストの教会によって、イエス様が語られ続けている言葉があります。それは『神の国は近づいた』。別の表現を借りれば『見なければならない、見えないものが、見えるようになった』。

先日、全盲の方で、白鳥健司さんという方のお話を聞きました。白鳥さんは『見える人と見えない人と一緒に会話をしながら絵画を鑑賞する会』というものを、立ち上げた方です。絵画の作者とかタイトルを脇に置いて、絵画を見た人の様々な解釈や解説を、全盲の方も聞いて、そこから心に浮かぶ絵画を鑑賞し、それをまた語り合うというものだそうです。白鳥さんが、そうした絵画鑑賞をするきっかけは、つきあっていた彼女に、美術館に誘われて、縁の無いものだと思っていたけれども、ただ彼女に会いたくて、その誘いを受けただけだった。しかし行って見て、初めて触れた美術館の雰囲気に感動し、一人になっても、行くようになったのだそうです。ある時、いつものように美術館の、学芸員の方の解説を聞き終わって、立ち去ったその学芸員の方が、しばらくして慌てるように戻って来た。そして次のように言ったそうです。『先程、解説させていただいた絵画の中で、湖だと説明しましたが、原っぱの間違いでした』。それを聞いて白鳥さんは『目が見えている人は、何でも正確に見ているわけでは無いんだな』と思ったそうです。肉の目に見えるもの、見えていることが、全てでも完全でもない。

先程のノアの洪水物語の最後に、神様は次のように約束されました。そして現代の私たちにへの約束でもあります。創世記9章11節『わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない』。この神様の言葉を信じるか。地を滅ぼすような洪水は、今の所、起こっていないようだけど、深刻とも思える洪水は、日本でも世界でも起こされている。それは約束の言葉には、関わらないことなのか。地球温暖化によるとしても、海水の上昇がどこまで続いても、約束の言葉は保たれ続くのか。

 キリストの教会によって、第二の待降の時を、様々な葛藤を覚えながらも、イエス様と共に外れることなく歩み通させていただきます。